IS-サクラサクラ-   作:王子の犬

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※紅椿と次章の間を埋める話です。

9/19 改稿


間話・見舞い

 勇ましくも悲哀に満ちた軍歌が流れてきた。

 

「奈津ねえや」

 

 桜が机に手をのばし、携帯端末をつかみとった。

 楯無が制服の裾をずらして、腕時計に目を落とす。

 ――もう、こんな時間。

 桜の家族が病室を訪れるまであまり時間がない。教科書やノートを閉じて、筆記具をひとつにまとめていく。参考書代わりのスレート型端末の電源を切り、通学カバンに押し込む。プラスチックが軽くぶつかる音。楯無は一度手を止め、再び入れ直す。

 桜は電話中だ。彼女の手元にノート型端末がある。つい先ほどメールの文面を書き終えたところだ。

 IS学園はオンラインで授業を受けることができる。在校生ならば申請すれば可能だ。ただし、授業ごとにレポートを提出しなければならなかった。

 桜は退院するまでの間、この制度を利用して座学の遅れを防ごうとしていた。

 

「会長さん。両親と姉がもうすぐ到着するそうです」

 

 よそよそしい言い方だ。桜は改まった場だけ標準語を話し、それ以外はたいてい地元の言葉が混ざった。

 桜が軽く「よし」とつぶやいた。暗号化済みのデータが学内ネットワークを介して、教師のメールボックスに転送される。

 

「佐倉さん。レポートは?」

「会長さんのおかげで無事に提出できました。本当に助かりました」

 

 端末を閉じて、自分の教科書を一ヶ所にかためる。

 

「佐倉さん。ご家族の方には事前に打ち合わせたとおりでお願い」

「わかっとります。真相は内密に、でしょう?」

 

 楯無が口外しても差し支えない情報について念押しする。

 家族に嘘をつくようなまねをしなければならないのは理由があった。生徒が戦闘に巻き込まれた事実よりもむしろ、ISに弱点が存在する事実を他国に知られたくなかった。ISが起動不可になった事実を原因がわからぬまま公にすることはあまりに不都合だ。その証拠に、IS学園は生徒や職員ら関係者すべてに襲撃に関する内容を外部に漏らさぬよう箝口(かんこう)令を敷いている。

 多くの者が事実の公表を差し止めることに同意した。国防関係者や経済界の重鎮。ISによって日本経済が潤う現状を壊したくないのだ。

 楯無がカバンを足でベッド下に押し込もうとした。背後からドアのノック音がして、桜よりも少し低い声が聞こえる。

 佐倉奈津子。楯無はとっさに、気難しそうな顔つきを思い浮かべる。桜は楯無に構わず、腹から声を出した。

 

「どうぞー。入ってええよ」

「サク。久しぶり」

 

 扉が開き、両親と姉が姿を見せる。父親は白い半袖ワイシャツにジーンズという出で立ち。農作業のおかげで筋肉質な体つきだ。対して母親は細面の美人。眉の形が桜や奈津子とよく似ている。長袖の上着に黒いジーンズを身に着けている。奈津子は高校の制服だった。

 楯無は初対面のつもりで、表面上は驚いたように見せかける。退室しようと踵を返し、桜の母と目が合った。

 

「あらやだ。先客がいるじゃない」

 

 浮ついたゆっくりとした声。桜と雰囲気が似ている。

 ――退室するのが遅れた。

 楯無が思っていたよりも早く現れた。桜への確認事項が多岐にわたったことが原因だろう。にこやかな笑顔を浮かべ、桜の家族へ目礼する。

 両親と奈津子は楯無の髪の色に面くらった。だが、徐々に楯無が醸し出す柔和な雰囲気に慣れ、衣装の一部だと思うようになった。

 IS学園は服装に関しては自由な校風である。夏場ともなれば袖無しの改造制服の着用者が増加する。学園指定の縫製業者に頼めば数日で加工できるためだ。

 

「すみません。席を外しますね」

「待って」

 

 桜が病室を辞そうとする楯無を呼び止めた。

 

 

 楯無が桜の両親、そして奈津子とあいさつを交わした。

 桜は彼女らの姿をぼんやりと眺めながら物思いにふける。

 ――実家を発ったのがつい最近のような気がするわ。

 合格通知が来てからずっと浮かれていた。手続きやら何やらであっという間に三月末になった。寮生活や学業、実技に追われ、あっという間に二ヶ月近く経過してしまった。

 桜は家族が不意に見せた横顔が気になった。どうしても慣れることができないものだ。心配をかけてしまい、申し訳ない気持ちになってしまう。

 ――あれ? 奈津ねえの髪型が変わっとる。

 奈津子の額が露わになり、右耳のすぐ上に髪留めが見えた。黒に近い銀色だ。中学の頃、学校でよく身に着けていた。

 ――学園島に足を踏み入れるからって気を遣ったん?

 モノレールを利用すれば学園島にたどり着くのは簡単だ。だが、IS学園の警備は全国有数の厳しさを誇る。マスメディアの取材を厳しく制限しているほどだ。しかも襲撃があって間もない。重武装の警官が学園島唯一の病院を囲んでいる。

 ――奈津ねえのことや。案外着ていく服に迷った末制服を選んだってことなんやろう。

 奈津子は周囲にしっかり者だと思われている。実際には他人の目を計算することに長けた抜け目ない女だと桜は見ていた。

 奈津子自身が語ったところによれば長女の安芸を手本にしているらしい。

 ――安芸ねえは計算ではなく素でやるところが怖いんや。

 楯無が骨折の理由を簡単に説明している。桜は聞き耳を立てた。所属不明機を想像させる単語が一切出てこない。きわどい操縦を行い、不運が重なったことを強調する。

 ――何度もアクロバット飛行をやってみせたから合っとる。物騒な武器を使っとったことも事実や。それにしても会長さん。妙に話がうまいな。

 大人に状況を説明することに慣れているのだろうか。それとも桜が説明するよりも巧妙に真実を隠す好機だと判断したのかもしれない。

 ――奈津ねえは?

 姉の顔色をうかがう。

 奈津子とは年子のためか、小さい頃から行動をともにしてきた。彼女は妙に鋭いところがあって何度もひやりとした経験がある。

 話が終わったのだろう。奈津子がベッド脇の椅子に腰かけ、呆れたような声をあげた。

 

「サク。またか」

肋骨(ろっこつ)をやったって聞いた。安芸が心配しとったぞ。痛いところはないか」

 

 父親の顔を見るまでもなく優しい表情だと察した。桜は心配をかけまいと明るく振る舞った。笑みを浮かべながら服の上から脇腹をさする。

 

「脇腹のあたりがずきずきする」

「肋骨が折れたらそんなもんや。俺も一本折ったことあるからわかる」

「父ちゃんもやったん」

「俺んときは疲労骨折やった」

 

 父親が桜の真似をした。

 治りが早いそうだ。桜は医者の言葉を伝えた。ナノマシンの件は口外禁止だった。

 

「うちは桜ばっかり事故に遭うなあ」

 

 父親がしみじみとつぶやいた。奈津子が苦笑しており、桜はうつむきがちに黙りこんで唇をとがらせる。

 佐倉家では桜の事故率が突出していた。祖父母や両親、奈津子、安芸は大事故に遭遇したことがない。体が丈夫なのか、病気にかかることもほとんどなかった。親戚一同も同じく、ごくまれに軽いけがを負うくらいだ。

 

「サクは妙に悪運が強いからな。その程度で済んだんやろ。あんたが肋骨を折るほどや。さぞかし派手な事故現場にちがいない」

 

 奈津子がベッド脇に置かれたパイナップルを手にとって、諦めたような声を出した。

 ――当たらずといえども遠からずってところやな。

 母親が窓際に立って楯無に向かって昔話をしている。楯無がしきりにうなずいて、相づちを打っていた。

 ――確かに派手やったわ。

 煙の毒々しい色づかいを思い出した。生身で吸えば即死しかねない状況。子を心配するのが親だ。両親に真実を告げてしまえば意地でも連れ帰ろうとするだろう。

 

「あんたんとこの生徒会長さん。びっくりするくらいべっぴんやな」

「はい? 来ていきなりそれ?」

 

 桜は奈津子に視線を移す。姉は手をかざして口元を隠しながら、楯無に何度も視線を送っていた。父親が「たしかに」と深くうなずく。

 ――年上のお姉さんが毎日甲斐甲斐しく見舞に来てくれるんや。これが作郎のときやったら間違いなくほれてたわ。

 桜は楯無の善意に感謝している。そして裏があるのではないかとも考えていた。彼女の関係者の顔が思い浮かぶ。簪と本音。なぜか意地悪な笑みを浮かべた櫛灘。つい恐ろしい想像をしてしまい、考えを振り払おうと頭を振った。

 

「何なん。急に頭なんか振って」

 

 奈津子が桜の奇行に呆れ、心なしか青白くなった顔をのぞきこんで心配する。

 

「やせ我慢でもしとるんか」

 

 桜は否定の意味をこめて首を左右に大きく振った。

 ――会長さんは、私がうっかり口を滑らせんよう見張っとるだけやろ。

 そうに違いない。楯無の身が潔白だと信じたい。だが、どうにも自信がなかった。しかたなく櫛灘の邪悪な笑顔を頭の隅から追いやった。

 

「ちゃう。考え事をしとった。何の話をしとったっけ」

 

 桜がわざと教科書を一瞥する。宿題を気にしていたと思わせるためだ。奈津子が開き癖に気づいて肩の力を抜き、悪戯っぽく笑った。

 

「サクが言っとったとおりべっぴんさんばかりやったって」

「会長さんはとびきりや。あんな美人に見舞いされたら、もし私が男やったら舞い上がっとる」

「ふうん。なら、今も舞い上がっとるわけか」

 

 奈津子がしたり顔で何度もうなずいた。

 

「あんた。可愛い女の子が好きやったろ」

「奈津ねえやってアイドルを見たとき、可愛いって口走ってたやないか」

「そうやった? 覚えとらんなあ」

「人様がおるのにそんな発言、口にせんで。私が節操ない女好きみたいに誤解されたらかなわん」

 

 ふくれっ面で見返す。

 アハハ、と奈津子が笑う。そのまま桜の後頭部に手を回し、髪をまとめていたゴムを外す。奈津子が桜の肩にかかった黒髪を櫛でとかす。パイナップルの香りがした。

 

「急に何を」

「髪の手入れはきちんとやっとるんやな。えらいなあ」

「子どもみたいに言わんでったらあ……」

 

 不平を鳴らすつもりが、姉の指先が髪に触れるたびにくすぐったくて甘ったるい声になる。奈津子の好きにさせよう。しばらく頭を動かすまいと決めた。

 

「どこからどう見ても女の子やな。お父さんもそう思うやろ」

 

 父親は突然話を振られて戸惑いながらも応じてみせる。

 

「いや。桜は最初から女の子やった」

 

 桜はぎくりとした。女だと無自覚だった頃の記憶が不意を突いてよみがえったのだ。年相応の話し方がさっぱりわからず、要領をつかむまでは堅苦しい言葉遣いだった。

 奈津子は艶のある黒髪をうっとりと見つめている。桜の髪質は直毛で長女の安芸よりも癖が少なかった。

 

「サクは元がええのに磨かんのはもったいないやろ」

「そのままでも十分可愛いと思っとるんやけどなあ」

「お父さん。それは親のひいき目。せっかくええとこ取りしとるんや。私が男なら絶対桜に告白しとるから」

「桜に男……複雑な気分や」

「奈津ねえ! 勝手に話進めんといてえ。父ちゃんも真剣な顔でしみじみとつぶやかんといて」

 

 桜は曾祖母の血が濃い。奈津子は父親似だ。祖父がよく「桜は母方の血が出とるんや。俺は父親と似ちまってさっぱりやったわ」と小指を立てて茶化すように独りごちた。

 

「サクは安芸ねえ似や。男どもが群がるのは当然。それなのにいつまでたってもフワフワしたまま、男を作る気配があらへん。どうなっとるの」

「私にあたらんといて。そんなことを言われても困るわ。奈津ねえがさっぱりもてんのは別の理由やと思う」

「すぐ論点をすりかえようとする……」

 

 奈津子はぼやきながらも、髪を乱暴に扱ったりしなかった。

 長女の安芸はしとやかな美人。今でも奈津子のあこがれであり自慢の姉だ。自分とは違って妹と安芸の顔立ちがよく似ていることを知っていた。そのせいか、妹に対して女性らしさを求めてしまう。くどいくらい「女の子らしくせな」と繰り返した。

 奈津子は桜の惨めさに打ちひしがれたような顔が怖かった。妹はいつもニコニコしていた。だが、ひとりになると表情に暗い影が差す。その瞳に宿った深い闇を夢に見て、何度もうなされた。

 

「髪型、元通りでええ? 変えてみる?」

 

 奈津子は桜の瞳をまっすぐのぞき込む。いきなり見つめられて面くらったのか、桜がはにかむ。だんだん恥ずかしくなって、目を伏せてしまった。小声で「元通り」と答える。奈津子は少し残念に思った。

 桜が背を向けて目を閉じた。奈津子が妹の髪を後頭部まで手繰り寄せ、ゴムで縛る。

 

「終わり。簡単やけど」

「……おおきに」

 

 桜が名残惜しそうな吐息を漏らす。前を向いて上目遣いで礼を言った。

 

「高校生になって何か変わったかと思ったんやけど、なんにも変わっとらんね」

「たかが二ヶ月や。ほいほい変わったりせん」

 

 奈津子が顎に手を当て、のぞき込むように身を屈める。口を閉じ気味にして低く笑った。父親はふたりのやりとりを見守りながら微笑んでいた。

 くぐもった音がした。奈津子と父親が一斉にポケットを漁る。

 

「親父から電話や」

 

 父親が背を向けた。

 

「しばらく外すわ」

 

 すぐに振り返って申し訳なさそうな瞳を浮かべる。母親と一緒に部屋から出ていった。

 

 

 楯無が病室を辞した。

 

「気……遣わせたかな」

 

 淡々として抑揚がない。奈津子の声から桜を茶化したときのような姦しさが消えている。姉妹が互いに口をつぐむ。ほんの一瞬の間に騒がしさと温もりが消えていく。

 

「奈津ねえが気に病むことはないわ。会長さんを無理に引き留めたのは私や」

「へえ。姉がシリアスな雰囲気になったら気を回してくれたんか?」

「そうやってすぐ茶化す。ほんま奈津ねえって」

「サクのほうが図太いやろ」

 

 奈津子は再び妹に視線を移した。よかった。妹の顔に暗さがない。ほっとため息をついて話題を作ろうと、桜の教科書に手を伸ばす。

 

「サク。教科書、見てもええ?」

「ええよ」

 

 妹の承諾を得て早速表紙に目を落とした。

 

「編者の名前。つ……柘植(つげ)?」

「ツゲの木で合っとるよ」

 

 桜はたとえに駅名を出そうとしてやめた。樹木の名前を出したほうがわかりやすいと思ったからだ。奈津子がページをめくった。蛍光ペンで引いた線が目に入る。

 しばらくして奈津子が教科書を閉じてしまった。眉根をよせて困り果てた様子だ。

 

「諦めた。全然わからへん」

 

 理論書なので軽く目を通しただけでは理解するのは困難だろう。専門用語も多い。最初に基礎的な用語を定義し、以後既出の用語の説明が省かれている。必ず用語のメモを取らなければならなかった。

 

「難しいことやっとるね」

「乗り物を動かすんや。勉強がややこしいのは当然。ISがええところは何となくでも動かせてまうところやろ。飛行機ならありえんことや」

「私でも乗れるん?」

「歩くぐらいならできるんとちゃう? 入試のときに動かせたし」

 

 桜の発言は当てずっぽうだ。奈津子が話を合わせたと推測して続ける。

 

「ただ、自由自在に操縦するなら別や。性能を引き出すには骨が折れる。すぐ機嫌を損ねるから要求通りに動かすのは案外難しい」

 

 今は亡き田羽根さんを思い出す。専属の教官と考え、能力だけに着目すればとても優秀だった。それ以外はとてもわずらわしかった。

 ――奈津ねえに同じセリフを口にしたことがあったような……。

 ずっと昔、小学生の頃だ。電車に揺られて中部国際空港まで家族で遊びに行ったことがある。旅客機を飽きずに眺め、写真を撮った覚えがある。空港内の銭湯に入浴して日帰りした。帰路は船で津まで行き、私鉄を使った。

 常滑まで行かずとも名古屋飛行場でもよかった。行き帰りも名古屋駅を経由する場合はこちらのほうが少し近い。それに小牧基地が隣接している。つまり自衛隊機をいくらでも眺めることができた。角張った救難ヘリ(UH-60J)やずんぐりとした輸送機(C-130H)。空港はもちろん、敷地内に設けられた商業施設から滑走路を一望できる。しかも商業施設の駐車場のすぐ側に単発レシプロ機が駐機していると聞く。

 そうそう、と桜が続ける。

 

「うちの副担の言葉にこんなんがあってな。ISには争って乗ること。体を大事にすること。ゆっくり休むこと。勉強すること。早く旦那を手に入れること」

「最後の……」

「弓削先生。うちの副担や。奈津ねえの知り合いで婿養子になってもええぞ! という猛者はおらん? 先生、のっぽやけどべっぴんなほうや。教員やから給料もええ。悪くない物件や。実家が山陽地方にあったはず。うちの周りと対して変わらんらしいわ」

「写真とかあらへん?」

「元代表候補生やから探せば出てくるはずや。弓削朝陽(あさひ)で検索してみて。大黒様みたいな福耳が特徴や」

「……一応、聞いてみるけど当てにせんといて」

「婿をもらうなら早いほうがええよ。()()する前にな」

 

 ふと奈津子の言葉が引っかかった。

 

「奈津ねえ。さっき『またか』って言わんかった?」

「言った。まさか……忘れたんか」

 

 桜は肋骨を折った回数を数える。つい作郎の頃の記録も含めそうになった。

 ――そんなことをすれば病院に行かずにこっそり治したことにされかねん。

 

「何回も病院のお世話になっとるせいか、身に覚えがありすぎて記憶が……」

「ええわ。荷台の材木の件。あれはさすがに肝を冷やしたんやけど」

 

 自転車で坂道を降りていた際、カーブに差し掛かったトラックの荷台から材木が落下した。ちょうど通りかかった桜が巻き込まれ、自転車が材木の下敷きになったことがある。

 

「ガードレールを乗り越えて坂を真っ逆さまってやつ。確かにあんときも肋骨が逝ったな。とっさに逃げる判断ができた私をほめてやりたいわ」

「それ。事故の検証にあたったお巡りさんのセリフや」

「あっ。ばれた」

 

 桜は舌を出して現金な笑みを浮かべた。

 

「あの坂は私にとって魔の坂や。呪われとると断言してええ」

「やめてくれん? あんたが呪いとか口にすんの。ほんまにそんな気がするから」

 

 

 父親がひとりで戻ってきた。仏頂面で頭をかいている。

 

「父ちゃん。お帰り。母ちゃんは?」

「別件の電話がかかってきてな。名古屋の叔父貴からや」

 

 名古屋といえば作郎の八番目の兄、作八郎が居を構えた土地だ。作八郎は通信兵として南方で敗戦を迎え、復員後は名古屋で就職。作郎とは反対に幸運に恵まれた人だった。桜が中学三年生になる直前、老衰で逝去(せいきょ)している。

 

「大往生したとこの。あそこはみんな長生きやろ」

「叔父貴のやつ、ぴんぴんしとった。桜がけがした件を伝えたら、荘二郎さんと作郎さんみたいやって言われたわ。親父も同じことを言っとったんやけどな」

「ええっ? 何で?」

 

 作郎の名が出たので思い当たる節がいくらかあった。だが、次兄である荘二郎の名が出たことに驚きを隠せなかった。荘二郎とは年が離れていた。気がついたら陸軍に入ってしまい、ほとんど記憶がない。死亡した当時、長兄が死因を聞いても「壮烈な戦死を遂げた」と告げられたにすぎなかった。

 次兄が戦車兵だと知ったのは桜として生まれ変わってからだ。

 

「しょっちゅう事故に遭うところや。荘二郎さんはそれが元で戦死したって話や。人づてに聞いたことやから真実かどうかは知らん。作郎さんなんて事故だらけやったろ。桜はいろいろ調べとったから知っとるはずや」

 

 桜は乾いた笑い声を漏らした。実体験なので否定の余地がない。古本屋で立ち読みした架空戦記では、まれに自分の名を見かけた。決まってエンジントラブルで引き返すか不時着水の場面だと記憶している。

 

「奈津子は?」

「あれ。さっきまで目の前におったはず」

 

 飲み物を買いに行ったのだろう。そう考えて室内を見回すのをやめた。

 

「どうせ立ち話でもしとるんやろ。そんなもんや」

 

 父親は椅子に腰かけるなり、ため息をついた。

 

「うちは桜ばっかり損なことになっとるなあ。安芸も奈津子もこれといって不運に見舞われることがないのに、何でお前ばっかり事故に遭うんや」

「そんなん私が聞きたいわ」

 

 作郎の頃から疑問だった。征爾はともかく、ひとつ年上の作八郎に運を吸い取られているのではないか。そう考えた時期もあった。思い悩んでも状況が改善されなかった。

 

「父ちゃん。前に本物の巫子さんにお(はら)いしてもらう機会があってな。どうやら荘二郎さんが()いとったみたいや。うちの親戚に戦車兵って言ったらあの人しかおらんから」

 

 父親に教えてやろうと思い、桜は喜々として口を開く。

 一方、桜の父はどんな顔をしてよいものかまごつく。突然娘の口から霊能力者という発言が飛び出してきたことにびっくりしていた。

 父親の顔色の変化に気づくことなく、桜は満足げな表情を浮かべた。

 

「ほんまに……?」

 

 それだけ口にするのがやっとだった。娘の前でうろたえる姿を見せたくない。意地だけで平静を装う。

 桜は自信満々に深くうなずいてみせた。

 

「ほかにも征三郎さん、征四郎さん、憲吾さんとか」

「ふたりほどやないけど運が悪かった人ばっかりや。……みんなで桜を守ったんやなあ。骨は折れたけど、命まではとらんかったってことやな。感謝せんと。せや、兼六さんと作郎さんもおったんか」

 

 祖父の思い出話には作郎がよく登場する。作郎が別れを告げに帰省したときのことを今でも鮮明に覚えていると語った。作郎の生々しい失敗談や体験談をちょうど居合わせた兼六が書き残している。そして四月に作郎が、八月に兼六と征四郎が続けて死んでしまった。

 桜が不運に遭うたびに作郎を思い出すらしい。祖父はよく桜の調べ物を手伝うことが多かった。

 

「どうやろ。はっきり見えたわけやないし」

 

 作郎ならば飛行服を身に着けているはずだ。桜は、父親がそのことを口にする前に話題を打ち切った。

 

 

 




本作は西暦2021年説を採用しています。

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