IS-サクラサクラ-   作:王子の犬

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越界の瞳(二) 遭遇

 男たちと正門で別れた。足を止めて顧みると、彼らは生徒のために道を開け、ラウラや箒に向けて手を振っている。箒は彼らの存在を完全に無視していた。だが、ラウラは自分に向けて手を振ってくれているのだと気づいて、うれしくなって照れくさそうに手を振り返した。

 

「ひっ……」

 

 頭を水色に染めて眼鏡をかけた少女が短く叫んだ。青色のリボンだから一年生に違いない。彼女は肩を大きく跳ね上げて目を泳がせる。幽霊でも見たかのような表情でラウラと目を合わせないようにしていた。

 ――ん?

 ラウラが眉根をひそめた。その生徒をどこかで見かけた気がしたのだが、うまく思い出せない。少女は何度も口を開きかけ、結局黙りこくってしまった。煮えきらない態度。しきりにラウラを気にして、視線だけはチラチラと寄越そうとしていた。

 

「……おい。言いたいことがあるならはっきり」

 

 ラウラは強く言ったつもりではなかった。生徒の顔が青ざめ、明らかに動揺している。首を小刻みに振り、目を見開きながら後ずさる。ついにはカバンを抱きかかえて走り去ってしまった。

 

「何だったんだ?」

 

 生徒は脱兎のごとく駆け抜けて合宿所の入り口に消える。ラウラは不思議がりながら不意に手を打った。

 ――サラシキ。

 目立つ水色の髪。更識姉妹はIS業界では有名人だ。世界大会の予選参加者名簿に顔写真が掲載されていたことを思い出す。ただ、やけにおどおどしていて写真とは別人に思えた。

 二階建てのプレハブ小屋へ視線を移す。すぐ側に喫煙所らしき小屋がひっそりと建っていた。大人たちのうら寂しい光景に流し目を送り、階段をのぼって二階の引き戸に手をかける。

 一声かけてから中に入ると、仮設職員室はいかにも手狭な雰囲気だ。

 

「ボーデヴィッヒさーん」

 

 ゆったりと間延びした声に気づいて、ラウラが顔を向ける。浅葱色のワンピースに身を包んだ童顔の女。

 ――クラリッサよりも若い……のか?

 クラリッサは今年で二二歳だ。声の主は一八、一九くらいに見える。むっちりと男好きのする体だ。大きく開いた胸元を見て、ラウラは目のやり場に困った男性教諭の姿を想像した。

 

「山田真耶と言います。ボーデヴィッヒさんが所属する一年一組の副担任です。よろしくお願いします」

 

 ラウラは弾けるような笑顔を目にして戸惑いを覚えた。軍事施設ではない、と強く念じる。結局は素っ気ない反応を選んでしまった。

 

「ラウラ・ボーデヴィッヒだ」

 

 そう告げ、「よろしくお願いします」と頭を下げた。

 

「来たか」

 

 ラウラが千冬の声に気づいて顔を上げる。かつての教官は黒いスカートスーツ姿だった。黒いマグカップを手にして真耶の向かいに立つ。ラウラは条件反射で直立不動の姿勢になった。

 

「手続きは完了している。ボーデヴィッヒ。すまないがこれから打ち合わせがある。少し外で待ってくれないか」

 

 一〇分程度だとつけ加える。

 

「ハッ。教官」

 

 千冬がマグカップを傾けるのを止めた。コーヒーが気管に流入してむせ返る。真耶がマグカップを受け取って机に安置。千冬に花柄のハンカチを手渡した。

 

「織斑先生……」

「もう大丈夫だ」

 

 ハンカチは洗って返す、と千冬が口にする。

 真耶とのやりとりを経て、千冬が何か言い足そうな顔をラウラに向ける。深いため息をついてから諭すような声音を口にした。

 

「……私はもう教官ではない」

「では、これから何とお呼びすれば」

「先生だ」

 

 千冬はラウラの目を見て繰り返す。

 

「今日から私のことは先生と呼べ」

「わかりました。織斑()()

 

 ラウラはすぐに仮設職員室から出た。一〇分後、千冬に呼ばれて再び入室する。

 

「待たせたようだな」

「いえ」

 

 千冬は真耶とラウラを見比べた。真耶の表情がいつもより硬い。ラウラは澄まし顔で、ドイツを発つ前とさほど変化がない。

 

「ボーデヴィッヒ」

「はッ」

「わかっていると思うが、もし何か困ったことや聞かねばならないことがあれば、私がいないときは山田君を頼ってくれ」

 

 先に釘を刺しておく。千冬はこう言っておけばラウラが忠実に行動すると考えていた。それに真耶の性格からしてラウラを放っておきはしない。彼女に任せておけば自然とクラスメイトとも打ち解けられるだろう。

 千冬にはそれでもなお不安があった。ラウラはひとりでいることに拘泥しない。クラリッサに後事を託したとはいえ、かごの中の鳥だと考えておいたほうが無難だろう。深窓の令嬢ではなく、深窓の軍人なのがやっかいなところだ。軍人らしくリーダーシップを発揮してくれよ、と願った。

 真耶が誇らしげに胸を張った。重そうな胸がたわみ、少しだけ鼻息が荒い。

 ――織斑先生よりも大きいな。

 ラウラは感じたままの言葉を思い浮かべる。改めて室内を眺める。真耶の隣に青白い顔の教員が座っている。奥の机に古参のIS搭乗者の姿がある。

 ――生徒は私だけだろうか。

 ラウラは重要なことに気がついた。聞いておかなければならないことがある。

 

「山田先生」

「は、はいっ」

 

 真耶は声が裏返ってしまい、赤面する。ラウラは聞かなかったことにして疑問解消を優先した。

 

「もうひとりの転入生はどこにいるのですか」

 

 フランスから一名、同時期に転入するはずだ。名前はシャルロット・デュノア。ラファール・リヴァイヴ・カスタムⅡの専任搭乗者にしてデュノア家の令嬢でもある。

 

「先方の都合で来週になったんですよ。ええっと……」

 

 真耶が机上に折りたたんであった新聞をつまみ上げる。経済欄を広げて蛍光ペンで囲った記事を指差す。

 

〈タスク、仏デュノア買収完了を発表〉

 

 ラウラは表情を動かさなかった。冷徹な赤い瞳で文字を追う。

 デュノア社は近年、安価なラファール・リヴァイヴばかりが売れ、高価なラファール・リヴァイヴ・カスタムの売り上げ低迷が続いていた。

 ――早かったな。

 ラウラの感想は淡々としたものだ。早々にライバルの一角が崩れたことにほくそ笑みさえした。

 

「つまり、今日は私ひとりですか」

「そうなりますね」

 

 太陽の光が眼鏡に当たっている。真耶の表情が分からなかった。だが、平静を取り戻したかのような声を発していた。すると千冬が身を乗り出してクリアファイルを連城に手渡す。「打鉄用体当たり専用パッケージ、整備科有志」と書かれた紙が挟んであった。

 千冬はほかの教員に声をかけた後、最後に真耶を呼んだ。

 

「山田先生。SHR前にボーデヴィッヒの紹介を済ませよう」

 

 真耶が教頭の頭上に目をやり、壁掛け時計を確かめる。ほかの先生方も席を立ち始めている。

 千冬は黒い出席簿を脇に抱えたまま出入り口の近くで立ち止まった。同僚が準備を整えるのを見届け、ラウラにも声をかける。

 

「ボーデヴィッヒ。ついてこい」

 

 ラウラは言いつけを守って「()()」とはっきり答える。

 ――センセイ、か。

 もやもやとした違和感。いずれこの呼び方にも慣れるだろうと考え直し、千冬の背中を追った。

 

 

 ラウラは千冬と真耶の後に続いて合宿所の講堂に足を踏み入れた。中はバスケットボールのフルコートひとつ分の広さだ。一〇〇人以上の少女たちがひしめいている。好き勝手におしゃべりして騒がしい。熱気と少女の汗。十代特有の体臭。胸元をつまみ上げて風を送る少女。Tシャツを着用して涼しい顔つきの生徒。ラウラは眼帯を少しだけずらす。下着の線がなかった。

 ――ISスーツは一度身に着けたらやめられんからな。

 眼帯を定位置に戻す。

 ドイツではIS搭乗者や空中勤務者を中心に、特別製の下着を試験的に配布している。ISスーツから防刃・防弾性能を除き、布地を少なくした廉価版だ。さらなる改良とコストダウンを押しすすめ、ゆくゆくは北大西洋条約機構(NATO)加盟国への販売をもくろんでいた。

 

「みなさん」

 

 真耶が何度も手を打ち鳴らす。傾注の意思表示だ。一組の生徒が一斉に前を向いて口をつぐむ。ラウラが醸し出す硬質な雰囲気に気がついたようだ。転校生紹介の予感がして期待に満ちた顔つきになる者。ラウラの顔を見るやむっとしたり、特に表情を変えていない者など、少女たちの反応は十人十色だった。

 ラウラは少し緊張したが、顔色ひとつ変えなかった。左足を肩幅に開きく。両手をにぎって腰の後ろに軽く添える。下ろした髪を引っかけないように注意した。

 織斑一夏が最前列に座っている。

 ――思ったより間抜け面だな。

 なるほど千冬とよく似ている。凛々しさの片鱗をのぞかせていた。ラウラは昔、千冬が「一夏のような男と一緒になったら苦労するぞ」と口にしたことを思い出す。

 ――こんなやつが教官……、いや先生の寵愛(ちょうあい)を集めているのか。

 拳を握りしめるあまり手首の筋が浮きあがる。一夏を有象無象の輩として視野から故意に除こうとしたが、かえって意識する結果に終わってしまった。

 ラウラは表情を消し、クラスメイト全員に鋭い眼光を向ける。専用機持ちは三名。シャルロット・デュノアが不在の今、一組で注目すべきはセシリアくらいだ。SNNの紅椿にも興味がある。だが、専任搭乗者である箒がIS学園入学以前にISに乗っていたという話を聞かない。情報が少なすぎるので実習の状況や、あえて模擬戦をしかけて練度を確かめることも選択肢に入れた。

 生徒のひとりがこらえきれず「やまやかわいー!」とからかった。真耶が困ったような顔つきになる。

 

「ええとですね。今日は転校生を紹介します!」

 

 それもつかの間、精一杯自信をこめて言い放つ。声を落としてラウラを呼び、自分は一歩後ろに下がった。

 

「じゃあ、自己紹介どうぞ!」

 

 真耶をからかって忍び笑いを漏らした生徒が黙る。他のクラスの生徒も雑談をやめて一組の転入生に興味を示した。

 ラウラは瞳だけを動かして自分を注目する少女たちの様子をうかがう。空気を胸いっぱいに吸い込み、下腹部を意識した。

 

「ラウラ・ボーデヴィッヒだ」

 

 間を置き、講堂のなかを見回す。全員が固唾(かたず)を飲んで見守っている。ラウラは用意してきた言葉を一語ずつ発した。

 

「諸君。最初に言っておこう。私は同年代の者と机を並べた経験がない。周りはいつも大人たちだった……」

 

 ゆっくりと語りかけるように言葉を紡ぐ。同年代の少年少女と接した経験がほとんどないことを最初に断っておきたかった。

 一分が過ぎた。

 

「これからしばらくよろしく頼む。そしてこの学園生活が諸君らにとってよい糧となることを願う。……さて」

 

 言葉を切った。息を吸いながら、ゆっくりと歩いて一夏の前で立ち止まる。

 

「織斑一夏。私はずっと貴様に会いたかった」

 

 一夏が驚いて目を見はる。続きを口にしようとして、ラウラは自制できなかったことを悔やんだ。

 ――これでは台無しだ。

 

「寝ても醒めても貴様のことを考えていた」

 

 恋愛沙汰が好きなら意味を取り違えるだろう。愛の告白に類するものだ。目を輝かせ、腰を浮かす者が出た。真耶がまさかの展開に顔を赤らめる。千冬はとっさに親友の種馬発言を思い出し、心穏やかでいられなかった。表向き無表情をとりつくろって事の成り行きを見守っている。

 ラウラは右手の指先で一夏の頬に軽く触れ、あごをなぞった。人差し指に力をこめ、顔を上向かせる。薄く笑みを作り、目元を緩めた。かすかに潤んだ瞳。はにかんで、あごから手を離す。

 ――私はッ!

 大きく広げた右腕がしなった。かと思いきや一夏の頬にあたる寸前、己の暴挙を押しとどめようとする。が、誘惑に抗しきれなかった。

 乾いた音。頬を張った手のひらがじんじんと痛む。ラウラは唇を噛んで真っ青になっていた。

 一夏が頬を抑えてぽかんと口を開け、目を白黒させる。怒りを露わにしようにもラウラの泣きそうな瞳にすっかり毒気を抜かれてしまった。

 

「ボーデヴィッヒ! 表に出ろ」

 

 間髪を容れず千冬の鋭い声が飛ぶ。

 場に白けた空気が流れ、千冬とラウラは講堂の外に消えた。

 

 

 講堂の出入り口脇。千冬とラウラは光沢を放つタイルに寄り添うようにして互いを見つめている。ラウラの様子は念願が叶ったように見えない。胸をつまらせ、気持ち悪さに顔をしかめていた。

 

「なぜ、織斑に手を上げた」

「私怨です。所属する国家、組織とはまったく無関係であり、私個人の短慮によるものです」

 

 ラウラは先ほどの行為が暴挙だとわかっていた。敬愛する千冬を裏切った。以前クラリッサから信頼を傷つける行為だと指摘を受けている。罪悪感によって心拍数が上昇する。何をやってもうまくいかなかった頃に戻った気がして弱々しい声を漏らす。

 

「以前のように命令してください」

 

 千冬のことは今でも上官だと思っていた。ラウラは生まれたときから軍人だ。上官の命令に服従するようしつけられて育った。

 

「生徒を教え導くのが教師だ。指示はするが、命令はできない」

 

 千冬は教え子の顔が歪むのを目にした。ラウラは非常に優秀だが、たたけば割れてしまうような脆さを抱えている。言葉を慎重に選ばなければならない。

 大人の振りをした子供。ラウラ・ボーデヴィッヒに対する千冬の評価だった。

 ラウラが続ける。

 

「罰を与えてください」

 

 報いを受けるべきだ。

 

「前のように厳しくしてください……」

 

 胸のつっかえを取り除きたい。千冬が大切に思う人を傷つけたのだ。ラウラはどんな処分でも受け止めるつもりだった。

 千冬は黙したまま考えをまとめる。ラウラの顔は青ざめて今にも泣きそうだ。本人がどこまで認識しているのだろうか。反応を確かめてみなければならない。

 

「よし」

 

 千冬は意を決し、抑えのきいた声を出す。

 

「反省文を提出するように」

「なぜですかッ」

 

 あまりにも軽すぎる。ラウラは不満の声をあげた。

 千冬は困ったような顔つきで、懐から小さな折りたたみ式の鏡を取り出した。

 

「自分の顔を映してみろ」

 

 ラウラは無言で鏡を受け取る。

 

「その顔を見て、ボーデヴィッヒはどう考える?」

 

 千冬が心配したとおり、ラウラは自分がどんな表情を浮かべているのか認識できていなかった。目を見開いたまま己の顔を凝視し続ける。

 

「期限は明日の日没まで。後で職員室に顔を出せ。用紙を渡す」

 

 ラウラは耳を傾け、意思表示すべく首を縦に振った。

 

「織斑に謝っておけよ」

「……はい(ヤー)

 

 千冬が念を押す。

 

「言っておくがこれは命令ではないからな」

 

 ラウラは鏡をたたんで、千冬の耳に届くようにもう一度返事をした。

 

 

 昼休み。講堂のなかは騒がしかった。

 久しぶりに登校した桜は奥を見やり、小柄な少女が一夏に頭を下げる光景を目撃した。一夏は腰を直角に折る姿にうろたえている。彼にしては珍しくぶっきらぼうな言葉を口にしていた。

 続きを見たい気持ちに駆られた。が、クラスメイトが食事に行く前に用事を済ませることにした。

 

「不肖サクラサクラ。ただいま戻りました!」

 

 説明会を終えてから五分と経っていない。背伸びする同級生に向けて、桜は声を張った。

 

「ご無沙汰しとります。昨日退院してまたISに乗れるようになりました!」

「桜! よかったあ、寂しかったんだよー」

「おう。メガモリ、お勤めご苦労」

 

 朱音とナタリアが声をかけたのを皮切りに、「久しぶり」とか「全然かわってないねー」とか「病院食どうだったー」と騒ぎ始める。桜は入院以前と比べてメガモリと呼ぶ生徒が増えたように感じた。しっかり名前で呼んでくれる者は、今や朱音とマリア・サイトウなど両手で数えるほどしかいなかった。

 

「久しぶりの娑婆(しゃば)はどぎゃん気持ちか」

「こっちの空気はおいしいね。自由に食い物が選べるのがええ」

 

 病院食に飽きていたと伝える。朱音が横から顔を出し、桜の二の腕をおもむろに触れる。

 

「桜ってさ。やせた?」

「少し。筋肉が落ちたみたい」

 

 硬く締まっており、言われてみれば筋肉が薄くなった気がする。クラス対抗戦から一ヶ月も経っていないので判断が難しかった。

 

「せや。あっちで見かけん顔がおったけど」

 

 桜は顔を横向けて小さく指差した。白い眼帯なら病院で見かけた。だが、海賊がするような黒い眼帯は珍しい。

 

「あれはねー」

「……ドイツ人や」

 

 ナタリアが朱音の言葉をさえぎる。抑制された声音。ナタリアは隣国ポーランド出身だけあって眼帯の少女を強く意識している。

 

「ラウラ・ボーデヴィッヒ。ドイツ連邦共和国の代表候補生。あん自己紹介はできるもんやなか。おかげでみんな名前を覚えたわ」

 

 桜は改めてラウラを見やった。椅子に静かに座っている。頭が痛いのか、顔をしかめている。額に手を当てて前屈みになった。

 

「行儀良くしとるけど……何したの」

 

 桜はナタリアに顔を戻した。

 

「織斑ば、いきなりひっぱたいた」

 

 先ほど見たのはその時の謝罪だろう。桜は「なるほど」と小声でつぶやいた。

 

「てっきりナタリアみたいななんちゃって候補生……やったって言うとばかりと思っとったわ」

「なんちゃってとか、ゆうもんやない」

 

 なんちゃって候補生とはIS非保有国出身の留学生を指す。他に何人かいるのでナタリアに限った話ではなかった。桜が所属する三組は無名の代表候補生しかいないので下に見られがちだ。最も搭乗時間が長いマリア・サイトウは「平凡」「器用貧乏」など散々な評価を受けている。凰鈴音にいたっては「そんな人いたっけ?」程度の認識である。

 

黒い雨(schwarzer regen)とかゆうISば持ってるわ」

「これが写真」

 

 朱音が自分の携帯端末を差し出し、シュヴァルツェア・レーゲンの画像を見せた。右下に軍事系ニュースサイトのロゴとドメイン名が載っている。

 

「ふうん」

 

 桜は黒い雨(schwarzer regen)の名をどこかで聞いた気がして首をひねる。

 写真のISは全身が真っ黒だった。桜は装甲の隅に描かれた鉄十字を目にして、シュヴァルツェア・レーゲンが軍属だと察した。写真が見切れており、全体像が分からない。しかたなく搭乗者に目を向け、太股の奥ゆかしい白さに心を打たれた。

 

「これはこれで……」

 

 桜は生唾をうっかり飲み込んでしまった。

 ――はっ!

 朱音が胡乱な目を向けたことに気づく。誤解されないようにあわてて言葉を足した。

 

「さすがはドイツ。渋いデザインやな」

「そっかー。桜はこういうのも好きなんだね」

 

 

 ラウラは気分転換のつもりで合宿所の周りを歩いていた。

 観光用の立て看板が設置してある。合宿所は旧陸軍の施設跡を利用したらしいのだが、当時の面影がほとんど残っていなかった。真新しい舗装。葉桜の並木道には少々毛虫が目立つ。春先に花見客でにぎわう姿を想像し、少し楽しい気分になった。

 ――痛みが嘘のように引いた。

 一夏に今朝の謝罪をしたあたりから体調が悪くなり、徐々に激しさを増していった。授業が終わり生徒が寮へ戻り始める。その頃には頭痛が消えていた。

 頭痛の原因に思い当たる節がある。

 脳への視覚信号伝達の爆発的速度向上と、超高速戦闘状況下における動体反射の強化を目的とした肉眼へのナノマシン移植処理。この処置を施した目を「越界の瞳」と呼ぶ。疑似ハイパーセンサーと呼ぶべき代物で、ラウラ以外の被験者はこの機能を必要なときにだけ使うことができた。だが、ラウラの越界の瞳は常時稼働しており、機能停止ができない。ラウラの瞳の色は本来左右ともに赤色だ。不具合を示すかのように施術した左目は金色に変色してしまった。

 他にも大きな問題を抱えている。

 ()()()()()ことだ。術後、しばらくして包帯が取れた。ラウラが光を目にしたとき、ベッドの周りを取り囲む集団がいた。無言のまま、虚ろな瞳でラウラを見つめていた。欠損した体。国防軍や武装親衛隊の制服を身に着けた廃兵たち。彼らを認識した直後、頭と眼窩に激烈な痛みが襲った。

 ――再発か、一過性か。

 そのときは経過観察するうちに症状が緩和されていった。

 ラウラは後者であってほしいと願い、素直に景色を楽しむことにした。標識に「旧発射口跡・掩体壕はこちら」とある。大戦期の小銃を担いだ少年がちょうど桜の木の側で立直している。

 

「ご苦労!」

 

 ラウラは少年にねぎらいの声をかける。その少年は土地に縛られ、半永久的に任務を全うし続けるように運命づけられていた。

 並木道に沿って角を曲がる。通学時に見かけた軍装の男とすれ違った。

 ――また痛みが……。

 さらに角を曲がる。まっすぐ行けば合宿所の正門にたどりつくはずだ。

 ――くそっ。

 頭痛はもちろんのこと、左目がひどく痛む。正門が近づくにつれ、頭を切り苛まれるような激痛がぶり返した。

 ――前方。生徒が数名。スラヴ系と日系。

 ラウラの異常に気づいた生徒が駆け寄ってくる。

 

「足、ふらついとるし、顔が真っ青や」

 

 ラウラは声をかけてきた生徒、すなわち桜を講堂で見た覚えがあった。昼休みに大声を出していたので記憶に残っていたのだ。

 ラウラがその場にうずくまる。桜が肩に手を置いた。目の奥がうずくあまり、ラウラは眼帯の締め付けがわずらわしくなって、半ばずらしてしまった。

 左目が桜を映したとき、頭のなかで記憶にない映像が再生された。

 古いレシプロ機の編隊が群れている。機体の中央が膨れていることからエアコブラ(P-39)だと推定。青丸に白い星印から米軍機だとわかった。彼らは高度を落とし、飛行場にねらいを定める。

 零戦の搭乗席から見た映像に切り替わった。狭い飛行場。単機離陸しかできない。エアコブラ(P-39)の三七ミリ機関砲が、最初に離陸した零戦を貫いた。続いて離陸した機体が爆発。三機目は翼端がちぎれ飛び、錐揉み回転しながら付近の林に突入した。四機目は離陸前に被弾した。滑走路を塞ぐことだけは避けようと横に逸れて走り、火だるまに変わった。五機目だけが滑走路を目一杯使って加速することで地上掃射から逃れた。カメラを乗せた零戦も動きだし、外の風景が流れ出す。

 加速中に三七ミリ弾の飛翔音が機体をかすめる。このパイロットは五機目のまねをした。速ければ被弾する確率が低いと感づいていた。だが、主脚が浮いた直後に被弾し、翼の先端が割れる。だが、飛行に重大な支障を来すほどではない。再びカメラの角度が変化し、操縦桿からパイロットを見上げる。

 ラウラは桜の手を乱暴にふりほどく。眼帯が外れて地面に落ちる。完全に露わになった黄金の瞳は桜に重なる半透明の青年の姿を捉えた。

 

「私に触れるな!」

 

 怒声をあげ、桜と淡く重なった青年をにらみつける。彼の顔がエアコブラ(P-39)と戦っていたパイロットと瓜二つだった。

 スクリーンの外で半透明になった人間を目撃したのは初めてだ。クラリッサの私物にあった和製ホラー。生霊を題材に取り上げた映画を見たとき、こんな胡散臭いものはないと思った。低予算を俳優の演技で補填しようと試みていた。しっとり濡れた雰囲気は気に入っていたが、それだけだ。

 

「貴様は何者だ!」

 

 ラウラは余裕を失い、ドイツ語のまま怒鳴りつけていた。

 取り乱したラウラを前にして、桜はなんと答えてよいものか困り果てる。ドイツ語が聞き取れないのだ。ポーランド人に聞けば答えを得られることを期待して、ナタリアに確かめる。

 

「今のわかる?」

 

 ナタリアがすぐに翻訳した。

 

「あなたは誰ですかって」

「なるほど。誰何(すいか)ね。私はサクラサクラと言います。すぐ保健の先生んとこに連れてくから」

 

 桜がラウラの手をつかむ。

 ラウラには桜の手が触れたのか、それとも半透明の青年の手が触れたのか判断ができなかった。激痛とともに見たこともない映像が頭に浮かんできた。

 艦艇が激しい対空砲火を打ちあげるなか、先ほどの青年が乗機ごと体当たりを敢行。機体が潰れ、腹に抱えた爆弾が炎を噴く。青年の体が一瞬にして粉砕される様子を目の当たりにして、ラウラは全身が総毛立ち、脂汗を流していた。

 ――カ、ミ、カ、ゼ。

 

「セラピーが、できる、人は」

 

 ラウラは小さな声を絞り出すのがやっとだった。桜を視界に入れないよう目を逸らし、道の端にもたれかかってできるだけ距離を置こうとした。

 ナタリアが気を利かせて桜の前に割って入り、保健医の名前と場所をドイツ語で教える。

 

「……先ほどの非礼は忘れてくれ……」

 

 ラウラは声を絞り出した。一刻も早くこの場から離れたい。歯を食いしばる。ナタリアの付き添いの申し出を断り、今にも倒れそうな足取りで正門のなかに消えて行った。

 桜はしばらくから地面に落ちていた眼帯を拾い上げて裏返す。

 

「忘れ物や」

 

 鉄十字の傍らに銀糸で「Schwarzer Regen」と縫い止めてあった。

 

 

 


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