一夜明けて、日曜の夕刻。桜はマリアの見舞いついでにラウラの様子を確かめに来ていた。
ラウラは個室棟の一室に寝かされている。昨日収容されたときからずっと眠ったままだ。幸い外傷はない。桜の前に無防備な寝顔をさらけ出している。夢を見ているのか、時折体を震わせることがあった。
桜は膝の上に置いたカバンから黒い眼帯を取り出した。ラウラが転校初日に落としたものだ。裏に鉄十次の紋章が入った洒落っ気のある一品を枕元に添えた。
「全然起きん……」
桜は小さな手を握る。反応はなく、体温だけが生きている証拠だった。
桜は今、彼女と零距離にいる。ラウラは三メートル以内に近づくな、と牽制していた。常に険しい表情を向けられてきた。彼女の顔を間近で見るのはこれで三度目だ。
――こうしてみると、むっちゃちっこいな。本音の話やと一五〇ないとか。
実習のときはもっと大きく見えた。ナタリアによれば彼女は軍人だという。佐官なので下士官だった自分よりも格上だ。何より毅然とした態度で、他の生徒とは一線を画していた。ラウラのような人物と出会ったことは一度や二度ではない。孤高を気取るつもりはなく、単にほかの者と連もうとしないだけだ。おそらくそうなのだろう、と桜は考えていた。
不意に誰かが扉をノックする。
――看護師さん?
桜は体をひねって扉へ顔を向ける。
「どうぞ」
扉がするすると動いて、水色の髪が目に入った。楯無か簪か。次の瞬間、髪の毛が外側にはねているのを見て、姉のほうだとわかった。
「会長さん?」
「佐倉さん。いたんだ」
楯無は書類をはさんだクリアファイルを小脇に抱えている。桜を見るなり、一瞬驚いたような顔をしてみせる。すぐ笑顔を浮かべて、ラウラの枕元にクリアファイルを置いた。
「やっぱり会長さんやったか。お見舞いですか」
「そんなところ」
桜が腰を浮かすのを見て、楯無が静止する。扉の側からスツールを取ってきて、桜の隣に腰かけた。
「彼女、相変わらず目覚めないの?」
「このとおり。静かなもんです」
「そう……」
楯無はラウラの寝顔をのぞき込み、彼女の前髪を指で払った。
桜は無言で透き通った白い肌を見つめるうちにクロエ・クロニクルのことを思い出していた。肌の色や華奢な体つきがそっくりだった。銀色で柔らかい髪質と相まって
――並べて立たせてみたら楽しそうやね。
箒に会ったら、クロエがいつ来るのか聞いてみよう。桜は楯無の横顔に目を移して密かに誓った。
「こうしてみると小学生……失礼。入学したばかりの中学生に見えるわね」
楯無が手を離し、あごに手を当てて真剣な眼差しを向ける。
さすがに小学生呼ばわりはいけない。本人が聞いたらへそを曲げるに違いないだろう。そう思って桜ははっきりとした口調で指摘する。
「この人、同い年ですよ」
「ま、そうなんだけど。音声だけ聞いたら年上なのよ。社会人って感じ?」
楯無が眼帯を見つけて指で弄ぶ。
「軍人さんみたいですよ」
「若いのに枯れちゃってるのがちょっと残念かな。もっと背が高くて大人びていたら
楯無が茶化すように言った。
桜は「お姉様」のくだりだけ妙に気持ちが入っていたように思い、肩を震わせて何度も瞬きする。楯無を凝視して、微かに声が震えた。
「会長さんが言うと洒落にならんのでやめてください」
「ノリが悪いわよ。何度も言ってるけど私はストレート。男の人が好きなの。タチでもネコでもないのよ」
「そういう用語を知っとるあたり、あやしいんや。今の一言、櫛灘さんの耳に入れるつもりはあらへんから、もう少し自重してもらえませんか」
「本音にも黙ってくれるとありがたいかな。あのふたり、クラスメイトだし」
本音がぽろっと漏らした話が櫛灘の耳に入り、事実がねじ曲げられ、彼女の情報網を伝って学校中に
「会長さん、あのファイルは?」
気になって声をかける。楯無は話題転換の申し出に快く応じた。
「あれね。先生から預かったお知らせとかもろもろね。ISの書類も少し」
ISと聞いて桜はあることに気がついた。
――学年別トーナメント、もし参加できたとしてもボーデヴィッヒさん、乗る機体がないんとちゃう?
いくらISに自動修復機能があるとはいえ、外装が大破し、内部機構まで損傷したとなれば二週間足らずで修理が終わるとは思えなかった。
「彼女のIS……はどうするんです?」
「派手に壊しちゃったやつね」
「私のときはオーバーホールしましたけど、あれだけ壊れてもうたら、……月末のトーナメントは」
「それなんだけどねえ」
楯無はアハハと急に相好を崩し、頬をかいた。
「ちょっと面倒くさいことになっててねえ……」
「まさか会長さんが責任をとらされるとか」
「いや。そうじゃなくて。IS学園のなかでISが壊れても罪に問われるとかはないの。そういう決まりなのは授業で習ったよね」
そして楯無が言いにくそうに肩をすくめた。桜がせき払いしてから聞き返す。
「もしかして生徒に言えない話なん?」
もし楯無が嫌がるのであれば、これ以上食い下がるのは野暮だ。桜は楯無の反応を待つ。
「佐倉さん。どうせ明日の朝、発表されるから今言っちゃうんだけど」
「別に無理せんでええですよ」
「愚痴っぽくなるから、ちょっと言わせて欲しいの」
桜の手を取り、楯無は甘えるような猫なで声を出した。せっかくの休日がトラブル処理で潰れたので欲求不満なのだろう。桜は先輩の好きにさせることにした。
「会長さんがええなら……どうぞ」
「あのね……」
楯無は額に手を当てて言葉を選ぶ。
「先方がボーデヴィッヒさんをトーナメントに参加させたがってて……ドイツのIS委員会が技師と代替機を届けるって強行に主張してるんだよね」
学年別トーナメントは他国や企業から来賓客が訪れる。主な目的は人材の発掘や出資している生徒の成果確認だ。ドイツのIS委員会はシュヴァルツェア・レーゲンの性能はもちろん、せっかく育成したラウラが他国に通用するか確かめたいと考えていた。
「暴走の原因究明をじっくりやるつもりだったし、学園としては断る理由はないんだけど」
「代替機に問題があるってことですか」
「佐倉さん。
桜は素直に首を横に振った。
――列車砲なんて物騒な名前や。どうせ、八八ミリを四門搭載! 一二〇ミリ搭載! とかやろ。どんなんが来ても驚かんわ。
楯無はラウラの寝顔を見つめながら、深くため息を吐いた。
「ほとんど表に出てこないからしかたないか……。ドイツの限界に挑戦した第二世代機。名前はカノーネン・ルフトシュピーゲルング。書類上は訓練機ってことになってる」
桜はドイツのISについてあいまいな記憶を探ってみた。うろ覚えで名前の始めのほうしか覚えていなかった。
――あれや。乳酸菌飲料みたいなのがいたような……。
「ドイツっていうたら、ヤクトなんたらやないの」
「ドイツ代表が乗ってるごっついのが、ヤークト・ルフトシュピーゲルング。シュヴァルツェア型の原型機ね。先方は『こんなこともあろうかと』みたいな論調でカノーネン・ルフトシュピーゲルングを全装備ごと送り込むつもりらしいの。でね。装備品リストのなかに……これが一番やっかいなんだけど……ご丁寧に
「あのー、モンストルムって?」
「何て言ったらいいのかしら」
楯無が目を伏せて、あいまいな笑みを浮かべる。
桜は胸騒ぎがしたものの、続きが気になった。
「グスタフって聞いて何が思い浮かぶ?」
「人名ですか?」
「
楯無はわざと紛らわしい発言をした。桜はゴクリとつばを飲み込んだ。
「た、試したんですか」
「まさか。先方が資料をくれたのよ。これ、ラウラさんに言っちゃだめだからね」
楯無はそこまで言って気が済んだのか、「先生たちのところに行ってこなきゃ」と告げて退室した。
▽
金属の階段を駆け下りたときのような軽い音がする。ラウラはまぶたを開け、蛍光灯を見つめた。隣にはすでに製造を中止されたはずのフィラメント電球 が灯っており、内装が古めかしかった。
――妙だな。
先ほどまでアリーナにいたはずだ。セシリアと鈴音を縛り上げ、篠ノ之箒の太刀を浴びた。そして倉持技研の量産機、先行試作機と出会し、そこから先がよくわからない。
――レーゲンはどこだ。
ラウラは顔の前に両手をかざす。素手であり、手相がくっきりと見えた。自分の服装を確かめ、灰色のISスーツを着用していることがわかった。眼帯は量子化してしまったのでつけていない。越界の瞳が稼働しているものの閉所では意味がなかった。
――独房……ではないな。
狭く窓がない。どちらかといえば掃除用具入れだ。どれも古くさい形だ。ほうきの柄に漢字が記されている。ラウラは出口を見つけ、扉に触れると簡単に開いたので、そのまま通路に出た。真新しいペンキのにおい。おそらく客船かなにかだろう。すぐ目の前に金属板を張った階段がある。先ほどの音はこの階段から聞こえてきたものに違いない。ラウラは周囲を見回し、誰かに道を聞くべきか思案した。
念のため頬をつねる。あまり痛くない。何度つねっても結果は変わらなかった。
――夢のなかにいるのか。
前方から足音。ラウラが顔を上げた。
「待て」
ラウラは白帽と白い整備服を身に着けた少年に声をかける。が、少年はラウラの声に気づくことなく足早に階段を昇っていった。
「おい。……仕方ない」
ラウラは少年の後を追いかけ、金属の手すりを伝って甲板に上がった。払暁の空、地平線がうっすらと赤らんでいる。
――平たい……空母、だと?
潮風にさらされ、知覚可能な範囲を限界まで広げる。ラウラが立つ甲板は目測で二五〇メートルほどの長さがある。甲板の端に
――いよいよ空想じみてきたな。
空母の艦橋が右舷前方に配置されているのを見て、ラウラは笑い出したくなった。手すりには紺色のジャケット、旧日本海軍の第一種軍装を着込んだ士官の姿がある。プロペラ機の周囲にはさきほどの少年と同じ服装の男たちが作業に追われている。
その場でくるりと一回転。ラウラの瞳は軍艦の姿をくっきりと目に焼き付けた。そして己の目を疑った。
――おい、駆逐艦がいるぞ。陽炎型に吹雪型。細部まで良くできているな。翔鶴型空母? 七〇年以上前に沈没したはずじゃないか。
ラウラはクラリッサのPCに入っていた航空機シミュレーターをやり込んでいた。米軍機に搭乗し、第五航空戦隊を何度か全滅に追い込んだことがあった。
――あ。
ラウラは手をたたく。とぼけた日本語を話すやつを思い出した。日本へ発つ前に遊んでおこうと思って
――嫌なことを思い出してしまったな。
ラウラは艦橋を目印に歩いた。水着みたいな格好だから驚かれて然るべきなのだが、誰も気づいた様子はない。幽霊みたいな存在なのだろう。もしくはみんなでラウラの無視を決め込んでいるのだろうか。
――これ、昭和何年のつもりなんだろうな。
甲板中が緊張した雰囲気に包まれるなか、艦橋に据えつけられた黒板を見つけた。
「失礼……今日は、いつなんだ」
相手に聞こえないと分かっていても、一言断りを入れてしまう。ラウラはじっと目を凝らした。
「昭和一六年一二月八日」
ラウラは胸の前で腕組みしてから首をかしげる。戦史の講義内容を思い出そうと目を閉じる。しばらくして目を見開き、手で口元を覆った。
――真珠湾攻撃当日か!
空を見上げる。一面の雲、水平線の近くが浅葱色に色づいて、そこだけ雲が切れていた。
艦前部のリフトから茶色の飛行服をまとった搭乗員が姿を見せ、艦橋に向かって敬礼する。甲板に置かれた九九式艦上爆撃機に搭乗していった。
そして発艦開始の合図により次々と空へ飛び立っていく。
帽子を振る兵士のなかに、何人か髪の長い男たちが混ざっている。パイロットは空中脱出の際、頭部を守るために頭髪を伸ばしていたと聞く。ラウラは立ち止まって目を凝らした。ひとりだけ像がぼやけていて判別が難しい。人混みにかまわず、男に近づいた。
――見覚えのあるやつだ。
背丈は一六五程度。当時の平均身長ということもあり、頭の高さは他の兵と大して変わらない。男は隣にいた兵に大声で話しかけられていた。
「二飛曹。佐倉二飛曹! 出撃は?」
「三直まで回ってくれば、もしかしたら!」
――こいつ、体がぼやけているくせに。他の者に認識されているのか。
幽霊の類ではない。ラウラはそう結論づけ、男に接近して顔を見上げた。
「サクラサクラ?」
半透明で、拳ひとつ分背丈の低い女が重なって映り込む。三組にいた妙な言葉遣いの女だ。変なISに乗って、日本人のくせに銃を撃ち慣れているやつ。彼女が近づくと頭痛が頻発したので接近させたくない相手だった。
男と桜と思しき姿が九九式艦爆に向かって手を振り続けていた。ラウラの瞳が胴体の白い帯を捉える。白一本であり、すなわち第五航空戦隊に所属する空母翔鶴の艦載機だとわかる。
新たな九九式艦爆が甲板上を走り抜けた。垂直尾翼には機体番号「EI-238」と赤い三本線が描かれている。三本線は飛行隊長を示しており、機体番号から高橋赫一少佐の乗機だと気づく。
「がんばれよー!」
男と桜が感極まって目尻に涙を浮かべていた。東の空に陽がのぼって深紅に輝く。雲の切れ目に光が差し、扇上に広がる。まるで旭日旗が空いっぱいに広がっているようだ。九九式艦爆がすべて発艦した。今度は戦闘機隊の発艦準備が始まる。時刻は朝の七時を迎えつつあった。
戦闘機隊は上空直衛のため、真珠湾攻撃には参加しない。半沢兵曹の一番機が発艦。続いて二番機も空に上った。
ラウラが零式艦上戦闘機の後ろ姿を追って空を見上げたとき、瑞鶴から発艦した直衛機の姿を捉えた。識別番号は「EII-102」である。零戦撃墜王として知られる有名な搭乗員のものだった。
――名前は……。
「確か、――」
▽
「徹三だ。間違いな……イッ」
ラウラは両目を見開きながら飛び起きた。眼前の影に額からぶつかり、双方に軽い衝撃が走った。
「ふおっ……」
「……ぐっ」
ラウラは痛みのあまり目をつむって、額を手で押さえる。一方、頭突きを食らったほうは呂律が回っていない。
「くひびるがっ……血があ」
相手は唇を切ったらしく、患部に指先を押し当ててすぐに離す。指先にべっとりと張り付いた唾液と赤い液体を見て、あわててティッシュを何枚も抜き取った。丸めて前歯と唇の間に挟みこみ、目尻に涙を浮かべている。
「ふいまへん」
「……す、……すまん。気がつかなかった」
ラウラは病室内を見回してから身をよじった。額は傷むが出血はない。だが、相手はそうもいかない。
「サクラサクラか」
先ほど翔鶴型空母で見かけた女だ。ラウラは桜を前にしても頭痛がないことに軽く驚いていた。だが、彼女を遠ざける理由が消えたことにあえて触れる理由はない。
改めて桜を見つめた。半透明の日本兵が映っている。生霊か何かだろう。後で本人に確かめて驚かせてやる。ラウラは内心を悟られないようを言葉遣いに気をつけた。
「誰かの見舞いか?」
「誰かやない。ボーデヴィッヒさんのお見舞いや」
「なぜ」
「そりゃあ助けたの私やし。この前拾った眼帯を届けたかったし。なんか、こう、気になったって言うか……覚えてへん?」
「Phantom-Task」という起動コード。VTシステムの暴走。ラウラは助けを求め、途中で記憶が途切れている。
操縦を乗っ取られた状態から助け出すために、誰でも思いつく、それでいて実行が難しいやり方を選んだのではないか。ラウラは両手に目を落とした。
「私がここに寝かされていたということは……もう、レーゲンは」
「言いにくいんやけど、派手にぶっ壊れてもうた」
桜は顔を伏せた。楯無が釘を刺したとおり、代替機のことは伏せておく。
シュヴァルツェア・レーゲンのほとんどの部位が大破、または中破しており、他の機体から部品を移植したほうが早いくらいのありさまだった。
ラウラの表情が曇り、弱々しい声を出す。
「これでは、何のために来日したのかわからなくなってしまった……」
多額の予算を投じてきた政府や軍、企業、そして国民に合わせる顔がない。学年別トーナメントは国家の威信がかかっていたにもかかわらず、宣伝すべき機体がなかった。イギリスとイタリアに大差をつけられ、それどころかフランスにすら不戦敗というありさまだ。左目にナノマシンを移植し、千冬が来る前のあの頃に戻ってしまうのか。いや、職があるだけまだよい。何らかの厳罰があるに違いない。ラウラは気持ちが沈むのをこらえきれそうになかった。
「ボーデヴィッヒさん。そう気落ちせんで。これ、うちの生徒会長さんから」
桜はクリアファイルをラウラに差し出す。
そのとき枕元に置かれた携帯端末が震動する。
「……すまない。電話だ」
鈍い音が室内に響き、桜は「出てええよ」とだけ告げて口を閉じた。
ラウラは身をよじって携帯端末を手に取り、中身を確認する。案の定、クラリッサ・ハルフォーフからだった。ドイツとは時差が八時間あるから、まだ午前中のはずだ。携帯端末を耳に当て、思考言語を母国語に切り替える。ほどなくしてスピーカーから声が聞こえてきた。
〈あ、お父様……〉
どうやらハルフォーフ邸からかけているようだ。
クラリッサの実父は海軍の軍医中将で、陸海空軍をまたいだ遺伝子強化試験体製造計画の関係者だ。ラウラの生みの親のひとりでもあり、野心家で実の娘に越界の瞳を移植するくらいのことはやってのける人だ。クラリッサの趣味をよく思っていないらしく、何かにつけて文句を言ってくるという。
〈何をなさるんですか! ヤメッ……破らないで。私の
〈休暇になったらなったで遊んでばかり……〉
〈休暇は何をしても私の勝手です。軍医科のお父様に、私を縛る権限はありません〉
〈クラリッサ、聞きなさい。……婚約者とは、フランケンシュタイン少佐とはどうなっている〉
〈あの人はお父様が勝手に決めた許嫁でしょう? ふっ……もちろん、ちゃんと連絡して了承をもらっています〉
クラリッサの父親が舌打ちする。クラリッサは抜け目のない女だ。父親が反対を唱えてくると予想していたのだろう。
〈メルヒャーの言ったとおりか……仕方ない〉
メルヒャーとは第二世代機開発プロジェクト参画者のひとりだ。打鉄改・海自仕様に対抗するべく大型砲搭載機を計画した男でもある。現在はドイツIS委員会の議長を務めている。
〈ハルフォーフ大尉。どちらにしろ、君の休暇はなくなった。先ほど
〈ひ、卑怯な手を〉
〈卑怯? こちらは何も手を回してないよ。チケットとその電話を寄越しなさい〉
〈はい……〉
〈素直でよろしい。チケットは没収しておく〉
〈ああ……休暇っ。私の休暇ガッ。念願の聖地参りが――イヤアアアアッ!!〉
珍しくクラリッサが取り乱している。今度は父親の声がした。
〈ラウラ・ボーデヴィッヒ少佐だな。無事だったか〉
「ハ! 中将殿、お久しぶりです」
〈後ほどメルヒャー博士から連絡が行く。追って沙汰を待て〉
「了解しました。あの……娘さんの、泣き声が……」
〈以上だ〉
通話が切れたので、ラウラは端末の画面を消灯する。
「失礼。何の話だったかな」
枕元に携帯端末を置き、顔を上げる。桜がはにかみながら肩をすくめる様子が目に入った。
「あの……ボーデヴィッヒさん。質問してもええ? さっきテツゾウって言ったやろ。ドイツのお友達なん?」
「愚問だな。私に友達なるものは存在しない」
クラリッサとは同じ越界の瞳の被験者にして、上司と部下の関係だ。ハルフォーフ家には便宜を図ってもらっていることもあり、友達よりは家族に近い。
だが、桜の顔が強張っていた。切なそうに唇をすぼめ、何度もせき払いする。ラウラは首をかしげて眉をひそめて胡乱な目を向ける。
「変なことを言ったか?」
「いや……ちょっと……やなくて。まさか……」
急に思い詰めた顔つきになり、拳を持ち上げる。心なしか震えており、小指を立てた。
「
「すまん。その単語がわからない。夢で戦闘機を見かけたんだ」
「あ? そうなん?」
桜はあわてて愛想笑いを浮かべ、目を泳がせるなど挙動不審だった。
「『EII-102』と書いてあった、と言えばいいか?」
払暁、場面はなぜか真珠湾攻撃直前、と説明をつけ加える。桜は口からティッシュを取り出して、出血が収まっていることを確認し、くずかごに放り込んだ。
「それ岩本さんやないの。赤城で見かけたなあ」
桜は懐かしい名前を聞いて、
「直衛機が発艦する様子を見つめていたら、ちょうど他の機体番号を見かけた。夢だから都合よく見つけることができたのだろう」
桜は記憶を掘り返し、「そんなこともあったような……」とつぶやく。
ラウラは桜をじっと見つめ、相手が目を逸らすまで凝視し続けた。
「何かついとる?」
「
「どうぞ」
「貴様は誰だ」
桜は目が点になった。先ほど名前を呼ばれたばかりだ。突然何を言うのか。桜は口を半開きにして何度も瞬きする。
「くり返す。貴様は誰だ」
「すいません。何を聞きたいのかさっぱり見えてこんのやけど」
ラウラが手を伸ばして桜の右手首をつかんだ。桜が顔をしかめるほどの握力で、しかも中指の爪を筋の間に突き立てている。
「捕まえたぞ」
ラウラはしたり顔になって桜の背後に告げた。ラウラの金色の瞳は、桜と重なっている男の姿をはっきりと映し出していた。
「空母翔鶴。佐倉二飛曹。貴様と一緒にいる男は何だ」
「……ちょっと勘弁して、痛いんやけど」
「貴様は誰だ。……言え」
「佐倉桜や。夢のなかに私が出てきとっただけやろ。ボーデヴィッヒさんの想像の産物や。それ以上の何物でもあらへん」
「ふん……。では、なぜ佐倉二飛曹と同じ男が目の前にいる」
ラウラが上体を起こし、華奢な体つきからは想像できないほどの強い力で迫った。ふりほどこうにも、右の手首に突き立てられた中指がどんどんめり込んで力を入れられない。桜はナースコールのボタンを探した。
「親戚の幽霊でも見とるんやっ。手、痛いから離してっ」
「こちらの問いに答えたらすぐにでも離してやる!」
「佐倉作郎とかいう亡霊や! あんたにしか見えとらんもん、答えられるわけないやろ!」
「姿が重なっているのは貴様だけだ。貴様は人ならざるものなのだろう? 佐倉作郎とは何か、言えっ」
「第四期甲種飛行予科練習生戦闘機課程専修。真珠湾攻撃時は第五航空戦隊に所属し、空母翔鶴に乗船。菊水作戦時は特攻隊。死亡時は少尉。二階級特進により最終階級は大尉。ネットで検索したらどんなけでも出てくる!」
幻覚を見て錯乱している。桜はぞっとしながらナースコールのボタンに手を伸ばす。だが、身体を起こしたラウラが俊敏な動きで覆い被さった。桜は押し倒され、背中を床に打ちつける。
ラウラは馬乗りになり空いた手で左肩を押さえつけた。桜はけが人に手をあげることに一瞬戸惑いを覚える。が、相手は正気を失い、金色の瞳をぎらつかせているのだ。とにかく助けを求めることが重要だ。桜は身をよじり、足裏を床につける。ラウラは軽量だ。ブリッジの要領で振るい落とせばいい。腰を跳ね上げさえすれば攻守逆転だ。
そのとき物音に気づいたのか、ちょうど引き扉が開いた。外から人が踏み込み、多数の足音がした。
「暴れるんやない! ちっこいくせに力が強いなっ。せやったらこうしたる!」
大きな音を立てて、桜とラウラの態勢が逆転する。桜はラウラを組み敷いたまま振り返った。
「本音! ちょうどええ!」
本音は顔を強張らせてその場に立ちつくしている。とっくみあいの現場に居合わせたのだ。状況を飲み込めずにいた。桜は手助けを求めた。
「ナースコ……る」
「サクサク……」
「きゃっ」
楯無と話をしていた真耶が、本音の背中に突っ込んで小さな悲鳴を上げた。
「布仏さん、いきなり立ち止まったら危ないですよ」
「先生の言うとおりよ。ぼけっとしていたらダメ。てきぱき動かなきゃ」
楯無と真耶の足が止まる。
「あ……ええと、お取り込み中?」
そう言って楯無は目を泳がせる。持っていたクリアファイルをうっかり床に落とし、そわそわして挙動不審になった。
一方、真耶はとっさに眼鏡を外し、レンズを拭いてからもう一度掛け直した。
「せやから……」
三人は状況をよく飲み込めていないらしい。桜は不思議に思ってラウラに目を落とす。
――ほんまに肌が白いんやなあ。突起も鮮やか……。
桜は子供の裸を見ている気がした。特別な感情を抱く余地がない。ただ、妙な空気が流れていることに戸惑っていた。
「お三方の誰でもええですから、ナースコールを押してもらいたいんやけど」
楯無は拾い上げたクリアファイルを本音に押しつけ、微笑みながら歩みよった。目に涙を浮かべたラウラを見て、大ききため息を吐いて桜の横に立つ。
「佐倉さん。事情聴取しようか。さすがに……病人を襲うのはどうかと思うのよ」
「会長さんどうして! ナースコールしてほしいだけやったのに!」
「あの佐倉さん。そういうことするのは、ちょっと」
「山田先生。誤解やったら! この人が暴れたからこうなったんや! やめて、先生、そんな犯罪者を見るような視線を向けんでっ」
ラウラはいまいち事情を飲み込めていないのか、抵抗をやめて見守っている。そして急にばつが悪い表情を浮かべ、つかんでいた桜の手首を離した。
「本音は不幸な事故やって、わかってくれるはずや!」
「サクサク……信じていたのに」
本音は垂れ下がった袖口で顔を覆った。小刻みに肩を震わせ、桜の位置からだと泣いているように見えるよう装った。
実際は、必死に笑いをこらえていたのだ。この事実を桜に知られてはならない。桜の顔つきからして嘘は言っていないのは確かだ。だが、もう少し状況を静観しよう。助け船を出すのはそれからでも遅くはない、と本音は考える。
「話せばわかる! 私は無実や!」
▽
夜になった。
桜は唇をとがらせて見るからに不機嫌な様子だ。ノート型端末を閉じて、机の大部分を占めていたキーボードを脇に避ける。航空機シミュレーターの説明書を閉じ、ジョイスティックを袖机にしまう。頬杖をついて休めの姿勢を続けるラウラを見やった。
本音がラウラの体をべたべたと触っている。ラウラ自身は一向に気にしたそぶりを見せない。桜を凝視して発言を待っているようだ。
「何であんたがここにおるん」
ラウラの足元にカモ柄の寝袋と思しき包みと折りたたみ式マットレスがあった。ほかにも軍用と思しきリュックサックが目に入った。寝具と荷物をまとめて持ってきたようだ。
「先生から部屋を移動するように指示を受けた」
「部屋は他にもあると思うけど」
「では、説明しよう。三〇一七号室、つまり私の部屋は先日の事故の影響で修理が必要だとわかった。新たに転入する留学生もいるため、安全性を考慮して一時的に使用取りやめになった。そして点検修理が終わるまで部屋を移動することになったのだ。今月末までだと聞いている。よろしく頼む」
桜は顔を強張らせた。見舞いに行ったらラウラともみ合いになり、真耶と楯無から事情聴取を受ける羽目になった。ラウラの証言から誤解だと証明されたものの、しこりが残ったままだ。
「……そちらにも通知が行っているはずだが」
ラウラはズボンのポケットから携帯型端末を取り出す。本音も自分の携帯端末を手に取った。
「通知?」
桜は寮の玄関前の掲示板を思い浮かべた。何か見落としていたのだろうか。
本音が桜の前に立ち、自分の端末を見るよう促した。
「右の者、一〇二五号室にラウラ・ボーデヴィッヒ。一〇二六号室には……シャルロット・デュノアって書いてあるんやけど。これいかに」
「それか。先生に言って部屋を変えてもらった。別の部屋を希望したんだが、先約があると言って断られた」
「はあ? 隣やったら織斑がおる。復讐でも私怨でもなんでもやり放題や」
ラウラは眉をひそめ、心外だと言わんばかりに低い声を出す。
「私がなぜ織斑一夏の……しかも男と一緒に毎日寝起きを共にせねばならん」
「篠ノ之さんもおるし。クラス一緒やからなにかと都合がええと思うだけや」
「この部屋には布仏がいる。彼女も一組だから特に困ることはないだろう」
「困るのは私や」
「さきほどの件は解決済みだ。掘り返したところで互いの益にはならないだろう」
「それはそうやけど……」
桜はチラと説明書に目を落とす。「おっ」とラウラが声を上げた。
桜はあわてて説明書を袖机に押しこもうとする。
「貴様もシミュレーターをやっているのか」
「……悪いん?」
「誰も責めてはいない。知りあいが同じものを持っていて、私も触らせてもらったことがある」
「これ難しいことで有名やけど」
「どの機体を使ってるんだ。教えろ」
「大東亜やったら
「直近なら
「へえ……」
桜は相づちを打って、ふと手を止める。エミールに日本人が体当たり。人事だとは思えなかった。
「どんな相手やったん? 私、長いことやっとるから、知りあいに聞いてみるけど」
ケースオフィサー、もしくはトロイなら何か知っているはずだ。特にトロイは廃人ゲーマー兼エンジニアであり、有名どころで「第三帝国の野望」「赤い波濤」、核戦争を題材にした「エスカレーション」など数々のIF戦MOD開発に協力している。その分知りあいが多く、桜が探すよりも彼らに頼んだほうが早いのだ。
「桜吹雪のハリケーンだ」
「ごほっごほっ……」
「サクサク。白湯だよ」
桜は本音から受け取った白湯に口をつける。
「あー何というか、ご愁傷さまや。真っ黒いエミールがシュヴァルツェア・レーゲンって名前で、これがボーデヴィッヒさんやったら大笑いや」
「なぜ……知っている」
桜とラウラは互いに顔を見合わせ、しばらくの間沈黙が訪れた。
「……この件は後でじっくり話そうか」
「せやね。長引きそうやからね」
「ボーデヴィッヒさんは寝床どうするの~。よかったら貸してあげるよ~」
本音がクローゼットからウサギの着ぐるみパジャマを取り出して、両腕を持って広げている。しきりにラウラに視線を送っており、どうやら彼女に着せるつもりらしい。
「結構。寝袋を持参した。さすがにベッドまで占拠したいとは欲張ったりしない」
「パジャマも貸してあげるよ~。パジャマ派? ラフ着派? それとも~」
本音は着ぐるみを抱えて、のっそりと動いた。
桜は残った白湯を飲み干そうとカップをかたむける。
「いい。寝るときは裸だ」
「ゲッホゲホッ……」
「だいたんだね~」
桜は口を押さえ、白湯が鼻に逆流して涙を浮かべた。
「大胆? 風呂場で肌をさらけ出しているくせに、布仏は妙なことを口にするな」
「……本音、そのパジャマ着せたって」
「いいの? 裸族さんは服を着たほうが恥ずかしいんだよ~」
抜き足差し足で忍び寄る本音。ラウラは音も立てず背後に回り込んだ同級生に驚きを隠せずにいた。ラウラは「ボーデヴィッヒさんなら絶対似合うよ」と、ウサミミパジャマを押しつけられて戸惑っている。
本音は桜の背中に回り込み、後ろから抱きついた。
「ちなみに転入生のデュノアさんは、明日か明後日には到着するって山田先生が言ってたよ」
「へえ。本音は耳が早いんやなあ」
「おりむーはきれいなお姉さんが大好きだから、尻の青い女子には反応しないんだって。かいちょーが言ってたよ」
「それ、絶対会長さんの強がりや。きれいなお姉さんにあこがれるのは……わからんでもないけど」
「んっとねえ。おりむーは部屋を移動したんだよ。今ごろ姉弟水入らずなんだって。くっしーが言ってたよ」
「へえ……織斑がねえ。櫛灘が情報源とか言っとるあたり眉唾っぽいな」
「貴様。それは本当か」
ラウラが本音の肩をつかむ。
「そのパジャマを着てくれるんだったら教えるよ~」
「今すぐ着る。しばし待て」
ラウラはすぐさまパジャマを抱えてシャワー室にこもった。数分後、ウサミミパジャマ姿のラウラが出現した。本音の言うとおり、顔を赤らめ恥ずかしそうにしている。
「こ、これでいいか」
「ほんまに着おったわ……」
「よく似合ってるよ~。本当だよ~。今から篠ノ之さんに聞きに行って証明してもいいよ」
「ちょっと待て。先約ってアイツか、アイツなのか。せっかく教官と同じ部屋になれると思ったのに……」
「何をブツブツ言っとるん?」
「おりむーね。転入生に寝床をあけ渡したんだよ。女の子を雑魚寝させるわけにはいかないんだって。霊障が元で逃げ出した説もあるんだけど、真偽は定かじゃないんだよね。篠ノ之さんが男女七歳にして同衾せず、みたいなこと織斑先生に言ってたんだよね~」
サブタイトルの読みは「すいか」です。念のため。
越界の瞳章完結。
次章でまたお会いしましょう。