桜は長姉の安芸から贈られた水着を身に着け、遅れて砂浜に降りたつ。
碧いビキニにボクサーパンツ型の水着。髪をアップにして動きやすさ重視でもある。よく鍛えられ、しなやかで健康的な素肌はやはり目を引いた。
碧い水面には細波が立って、色とりどりの水着で華やいだ。午後二時を少しまわっており一日でもっとも暑い時刻だ。
先に出た朱音たちを探していた桜は、防水カメラを構えたナタリアを見つけた。
水遊びに興じる貴重な青春を捉えようとしているらしい。
桜は履き慣れたビーチサンダルで砂浜を歩き、足を取られないよう気をつけながらナタリアの背後へ歩みよった。
ナタリアはボーダー柄のサロペットで体形を隠している。
——ナタリアらしくない。
三組でもっともスタイルが良いとされる彼女。
「ナタリア」
「おっ。メガモリ」
桜の頭のてっぺんからつま先までなめ回すように眺めて、「よか。よか。よか肉付きばい」とうなずいた。
「その言い方。おっさんや」
ナタリアの手が桜の素肌を撫でる。筋肉を確かめるもので
その証拠にふたりの姿を見かけた櫛灘が本音に注進すべく走り去っていった。
「いつまで触っとるの」
ナタリアが手を離したとき、
心に涙を浮かべながら見送る。楯無からよい影響を受け、悪魔の心は浄められたのだと強引に思い込む。
桜はナタリアの撮影対象に興味を抱いた。とにかく騒がしいに尽きる女が黙ってシャッターを切っていたのである。
「あいつらがいちゃついとった」
顎で示した先には織斑一夏に腕を絡めたシャルロット・デュノアがいた。
ふたりは学年別トーナメントの折、タッグを組んで出場した。シャルロットのがんばりの甲斐あって決勝に駒を進めている。
一夏はシャルロットの猛アタックにひれ伏し、美少女の肌に鼻をのばしていた。
「うらっ」
——うらやましくない。うらやましゅうないっ。
桜には自分を好きだと言ってくれる相手がいる。例え女であっても、かつての戦友とよく似ていたとしても一夏に羨望のまなざしを向けるのは自重すべきだ。
青春時代。女っ気の欠片もなかったのを思い出す。花よりも団子の性分だったから見合い話をのらりくらりと避けてしまったのだ。
——思えば征四郎兄貴は美男やった……。織斑と負けんくらいええ男やったなあ。
桜は実家の倉でよく捜し物をしていた。その折り、旧制中学時代の佐倉征四郎の写真を見つけ、仏壇の引き出しに保管していた。
どうやら織斑一夏にも彼女ができたようだ。今の姿を観察した結論である。
ナタリアがカメラの液晶画面をかざした。
「ここ見てくれん?」
シャルロットの胸元を指さした。
「え? どこ?」
「デュノアの乳ばい。よーく見て。目に焼き付けた?」
桜は首を縦に振る。
そしてナタリアが見せた六月末頃の画像データを見て、桜はとても驚いた。
「……おかしかけん」
「せ、せやな。おかしい……」
「うちな。親しくしとる先輩でダリル・ケイシーっちゅう人がおるっちゃ。こん前、川崎大師に連れてかれて妙な話ば聞いた。シャルロット・デュノアは男かもしれんけん……さすがに、無理が」
「デュノアさんが男……? 荒唐無稽な話や」
「そー思うやろう。もう一回デュノアの乳ば見て」
あらためてシャルロットの胸部を凝視する。
「……ない」
「……ないわ。こん目で見てもなか」
シャルロット・デュノアは方々に敵を作っていった。あえて挑発し、ケンカを売ることで自らの周囲に孤立という名の壁を作った。
「すべてはこのためやったのでは?」
桜はナタリアの言葉を一笑に付すわけにはいかなくなった。
風船のようにふくらんだ丸みが目を惹いたはずなのだ。
桜は目蓋をこすった。
シャルロット・デュノアの豊満なおっぱいが消えてなくなっていたのだ……。
▽
浜遊びを終えて、桜は教師に案内で旅館への帰路についた。クラスメイトたちは皆、水の入ったペットボトルを持ち歩いており、アスファルトへ数メートルおきに蒔いていた。千冬の教えを忠実に守るラウラが生徒たちをまんべんなく撮影しているからである。
ナタリアや朱音、マリアたちと談笑する合間、桜は持っていた端末に目を落とした。
差出人:布仏本音 《本音を模したアイコン》
件名 :晩ご飯の情報だよ〜
本文 :お魚いっぱいの天ぷらだってさ〜。ご飯とサラダのおかわりが自由なんだって〜。
「天ぷらかあ。さっき食べたタカベ、美味かったなあ。今度はどんな海鮮なんやろ」
頭のなかで色とりどりの回遊魚が踊っている。
臨海学校の愉しみはなんといっても新鮮な海の幸だ。学園の近くに三崎港があるので魚介類に事欠かないが、伊豆の海もまた豊かな漁場である。
桜は天を仰いで手をかざす。
塩風が跡切れず甲を撫でる。磯の匂いを胸いっぱいに吸いこんで前を見れば、ブロック塀のそばに生えた立葵を見つける。
端末のカメラで撮影すると、マリアが寄ってきてチロチロと流れる水の柱へ指を差しいれた。
女生徒のTシャツを濡らし、身に着けていた水着を透けさせる。歓声があがってクラスメイトたちも応戦した。
水玉が天を舞う。桜も混ざって皆びしょ濡れになった。
「防水でよかったぁ」
湿ったタオルを服のうえにあてた。下着代わりにISスーツを着用していたとはいえ、服が透けるのは少し気恥ずかしかった。隣にいた朱音も同じ気持ちらしく、見つめ合ってはにかむ。そして笑いの渦が周囲に広がっていった。
旅館は少し高台にある。
連城先生は近道だと言って石段を指し示した。毎年同じ旅館に泊まっているらしく、彼女の話はずっと街に住んでいたかのように詳しい。歴史講釈を聞きながら背中を追った。
「サア、着きましたよ。皆さんの荷物は運ばせてあります」
連城先生は
腕時計を見やり、ご飯とお風呂までいくらか時間があった。
衣服を替えようと思って階段に足を向けると、本音から再びメールが届いた。
▽
着替え終えてからロビーへとって返した。
「私が一番やったみたい」
桜は同じく遊び足りない女生徒の顔が見たくなった。部屋へ向かう途中、卓球台を見つけたので誰かを誘って勝負するつもりでいたのだ。
スリッパをパタパタさせながら一階のロビーをうろつく。
土産物屋の向かいにマッサージチェアがあった。「も」と大きく染め抜かれたタオル。達筆にはほど遠い絶妙な汚さだ。昼にも同じタオルを見かけたことを思いだし、ちょっとした好奇心からマッサージチェアに近づく。
浴衣のところどころには渦巻きの文様が見てとれた。
寝そべっていた客が急に背伸びをしたので、桜は背中を震わせて立ち止まった。
——起きてもうた。変なこと考えるもんやないな。
客は二十代半ばの女性らしく、浴衣がはだけて桜色の胸元が色めいていた。桜が背を向けたとき、その女性が大声をあげた。
「あーっ箒ちゃんだーっ!」
見ると、一組女子の集団が土産物屋でたむろしている。お菓子を吟味してあーでもこーでもないと迷う者。キーホルダーを手にした生徒の歓声も混ざった。
女性客の声は甲高くよく通る。気づいた生徒が一斉に振り向いた。
彼女は箒に歩み寄り、桜たちの眼前で勢いよく抱擁を交わす。感激した様子で頬をすりつけながら、女は名乗った。
「お肌すっべすべー。タバネさんだよー。天才博士にして、SNNのしーいーおー。篠ノ之束さんだよー。箒ちゃんひっさしぶりー! ずぅっと会いたかったよーっ!!」
桜は声を聞くや目を見開いた。
SNNのCEOは世界にたったひとりしかいない。本人と電話で話したことすらあった。
——この声、しゃべり方、思いだしたわ!
一方的に理不尽な言葉をぶつける女だ。桜は数々の暴言を思いだしてはらわたが煮えくりかえる。
桜はかつて作郎として社会に出た経験がある。長いようで短かった軍隊生活。規律と自制心を学んだ。桜として生を受けてからは自由気ままに生きてきた。それでも他人に不愉快な思いを強いることを避けてきたはずだ。
例外は奈津子である。
——奈津ねえとの約束、破ってしまいそうや……。
幼い頃、奈津子には随分迷惑をかけた。桜としての振る舞い方がわからず何度も傷つけてしまった。
——せや、織斑先生が気づいたみたい。
騒がしさに気づいた千冬が近づいてくる。
が、輪になって束を取り囲む生徒に阻まれて前に進めない。
声をあげようにも、生徒の歓声のほうが勝った。しまいには腕を組んで話が跡切れるのを待つつもりらしい。
束は疑問を抱いていた。腕のなかの妹が何の反応も示さない。考えてもしかたないので尋ねてみることにした。
「箒ちゃん。箒ちゃん。さっきからひとこともしゃべってないけど……もしかしてお姉ちゃんのこと忘れちゃった? 私は箒ちゃんの何なのか、当ててみてよ」
「……姉さん」
箒はよそよそしい態度をとった。
「ピンポーン。ピポピポぴーんぽーんっ。せいかーい! どーしてタバネさんが箒ちゃんの前にいるのかわっかるー?」
束の大げさな振る舞いに冷ややかな視線を返す。
「……さあ」
表情を消し、そっぽを向く。束は一瞬目を泳がせたが、気を取り直して続けた。
「わかんないよね。じ・つ・は」
「……ふむ。紅椿が見たいと」
「そのっとおーりっ! さっすが箒ちゃん! 察しがいいッ!」
紅椿をレベル制にした張本人はどうやら育成状況を確かめたいようだ。
だが、箒には姉の存在が面白くなかった。学年別トーナメントで必死に頑張ったものの評判が芳しくない。タッグを組んだ簪の圧倒的な強さにかすんでしまったのだ。
誰かが噴き出しながら「ああ、ダメ椿」と揶揄する。
世界初の第四世代機はIS史上稀にみる駄作機なのだ。ハードウェアの潜在能力は高いけれどソフトウェアの出来がお粗末に過ぎる。
もっとできるはずだ、と自分を叱咤し続けるにも限界がある。根本的な問題点を改善しなければ、箒と紅椿はずっと揶揄され続けるだろう。
束は箒から一歩退き、真っ正面から見つめる。
「箒ちゃん」
束が続けた。
「凡人がいくら騒いでも、ぜーんぶ雑音だよ。箒ちゃんがわざわざ耳を傾ける価値なんてないんだよ。凡人はスタートラインに立とうとすらしてないんだから。箒ちゃんを笑うのは知らないからだ。ISに乗るってことがどんなことか……」
束は後ずさりながら言い放った。
「あとで部屋に行くよんっ。プログラムを調整してあげる。一晩経ったら汚名返上だよっ。任せてね!」
箒には信じられない発言であったらしい。目を丸くして言葉を紡ぐことすら忘れている。
輪のなかで様子をながめていた桜に気づいて、目で訴えかけてきた。
束も箒の視線が示すものが気になって背後を振りかえったが、すぐに興味を失った。
そして束が箒の背中に回り込むと、輪の外まで押していく。
「それから箒ちゃん、無理にまっすぐ進むことはないよ。急がなくたっていいんだよ。寄り道したっていいし、遠回りしたっていい。箒ちゃんが望む
強く押され、箒が二、三歩進んで立ち止まった。
「姉さん?」
▽
ロビーに来た目的を思いだして、束はあたりを見まわした。
去って行く箒の背中。人混みを避け、階段のそばで騒ぎを遠巻きにながめていた簪が箒の後を追い、姿を消す。
代わりに階段を降りてきたラウラが持っていたカメラを構え、シャッターを切った。
少女たちの歓声を記録したかったのだろうか。束の姿が珍しくて写真に納めたのか。束の場所からでは遠くて声をかけられなかった。
花の匂いにつられて人混みをかきわける。再び輪のなかに戻り、セシリア・オルコットの立ち姿を見てドキッとしてしまった。
——彼女、スリー、だっけ。おっかしいなあ、
束がサルスベリの前で首をひねっていると、セシリアから近づいてきた。
——チェ、人違いだ。眼が違う。あの子はもっと冷たい
「もし……」
——邪魔だなあ。
通路をセシリアに阻まれている。廊下の奥にはラウラがいる。その横で佐倉桜が立ち話しているのだ。だが、人が集まりすぎていた。背伸びして千冬の姿を探していた、彼女は腕を組んで
——へ、下手なことを口にできないぞ!?
束は頭を働かせてその場を切り抜けようとした。
「
セシリアに問いかけ、千冬を一瞥する。
教え子と思しき生徒を邪険にするのはよくない。彼女たちは若年だが、IS産業にどっぷり浸かっている。狭い業界だ。背後に誰とつながっているのか、事細かに調べた上で慎重に接しなければならなかった。
箒との感動の再会を果たしたあとで、業務に悪い影響を及ぼしたとあっては、クロエから何を言われるかたまったものではない。
束はセシリアの反応を待った。
「わたくしっ、セシリア・オルコットと申しますっ。あ、あのっ! 篠ノ之束博士のご高名はかねがね承っておりますっ。もしよろしければわたくしのISを見ていただけないでしょうかっ!?」
セシリアが
——こういう目は苦手だねえ。
——紅椿以外を触る予定、ないんだけどなあ。どうやって追い払おうかな。
早速妙案を思いついて心の中でにんまりした。
——私が大人だってちーちゃんにアピールすれば、ぐるっとまわって箒ちゃんの耳にもはいる。そうすれば昔みたいに箒ちゃんが尊敬の視線を向けてくれるかもっ。ふふふ……。
「君はIS学園の生徒かい? 見たところ日本人じゃないねえ。そもそも君のIS……ふうん、ブルー・ティアーズっていうんだ……は、君個人の所有物じゃないよね。私が
束は諭すように、あえて冷たく言いはなった。
「え、あの……」
セシリアが口ごもる。
「理解したね? だったら次にどうすればよいかわかるよね?」
「え……?」
「束さんは二度言わないよ」
セシリアはキョトンとしてしまった。
——ここでまごつくんだったら、いいや。手間も省けるし、箒ちゃんに割く時間が増えるってもんだね。そーだっ! ラウラちゃんにも挨拶しとこっ。楽しみが増えたよーっ。
束は妄想に浸りつつ数秒だけ待った。セシリア・オルコットが深呼吸する。
「でしたら……しかるべき人物が依頼すれば、受けていただけると認識してよろしいので?」
「その通りだけど」
「承知しました。
セシリアは礼を言って、優雅な仕草で道を空けた。
——可愛くない反応だね。妙な気を起こすんじゃなかったなあ……ま、いっか。吹っ掛けてやろーっと!
束は輪の外に出るや箒の部屋へと駆けだした。