IS-サクラサクラ-   作:王子の犬

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湯煙温泉の惨劇(六) 懊悩

 

 唇が重なる感触を味わってから薄目を開け、本音の表情を観察する。

 

「……えっ」

 

 桜は眼前の光景を疑った。本音が別人に成り代わっていたからだ。

 周囲から「キャーッ!」「ギャーッ!」と色めき立った女子たちの悲鳴があがる。

 傍で頬杖をついていた箒が放心のあまり机に額をぶつけている。水の入ったペットボトルが床に落下した。

 

「本音やないっ!?」

「……ぅ」

 

 手の甲で唇を拭っていたのは更識簪だった。

 髪を振り乱しており、全速力で駆けてきたに違いない。

 桜は本音の唇を支配できなかったことを悔やんだ。

 と同時に自分がとんでもない浮気者だという事実を認識する。

 ——さっきからずっと……胸がドキドキするんや。暑くてたまらんし……。

 自分のなかの変化に途惑う。

 今まで理性で抑えてきた欲望が急激に膨れあがっていった。

 ——知っとるよ。この気持ちがどんなんか。

 彼女を自分のものにしたい。()()()()()()()()

 なけなしの自制心が失われ、欲望に忠実な獣に変わり果てたのだ。

 にらみつける簪。身を挺して本音を守ろうとしている。

 友情を全うする姿に感銘を受けた。

 

「更識さん」

「……なに」

「私が欲しいのは本音や。更識さんやない」

「……本音は渡さない。……それに今のあなたは……正常(まとも)じゃない。医務室に連れていく……来て」

 

 簪の手を振り払う。と、彼女は怒ったような、泣いたような顔になった。

 ——私がまともじゃないって? そんなことあらへん。

 簪の胸の中心を小突いて、壁に追いつめる。腰を落として逃げようとしたので、勢いよく壁を突いて退路を遮る。顎を上向かせたとき、敵意むき出しの視線が突き刺さった。

 

「……私がおかしいって?」

「全部おかしい。わかったなら手をどけて」

「……わかっとらん。更識さんはわかっとらん。この気持ちがどんなんかこれっぽっちも」

 

 抵抗する簪の唇を一方的に塞いだ。

 目を白黒させ、憎しみのこもった視線とは裏腹に唇はしっとり濡れていた。

 

「……んぅ」

 

 顔を離した直後、簪の体が震え、膝を屈すまいとこらえる。

 背後から悲喜こもごもの吐息が漏れ聞こえた。

 ふとマナーモードに設定した携帯端末が震えている。

 

「会長さん?」

 

 桜は気づかなかったことにして、簪の肩を捉える。

 見まわすと本音の姿が消えていた。

 とっさに振りかえって周囲を確かめて顔を戻したとき、簪が得意げに口の端をゆがめた。

 

 

 女子たちの悲鳴と歓声が飛び交うなか、一夏が暖簾(のれん)をくぐり出てきた。

 待ち伏せされていたとは知らず、顔を引きつらせながら後ずさった。

 背中に柔らかいものが当たった。直後に聞こえた不機嫌な声音から姉だとわかった。

 

「……ブラくらいつけてくれよ」

 

 真耶に聞かれたら誤解を受けるかもしれない。

 

「織斑こそ、離れたらどうだ」

 

 一夏は言われたとおり離れた。

 暖簾から二、三歩前に進み、周囲を確かめる。

 姉弟が並んで外に出たくらいで騒ぎ立てるものだろうか? 訝っているうちに、箒が立ちふさがる。

 肩越しに桜と簪の姿が見えたが、思い詰めた表情に気がついて彼女に眼を合わせた。

 

「風呂はどうだった」

「いい湯だった。貸し切り露天風呂だったんだぜ」

「そ、そうか」

 

 箒が急に口ごもる。

 

「と、ところで。の、喉、喉が渇いていないか。ここの風呂って脱衣場に給水器がないだろ」

「そうなんだよ! 箒は気が利くなあ……」

 

 一夏が紙コップに手を伸ばす。だが、むなしく空を切った。

 コップをかっさらった白い手首へと視線を移し、その人物が飲み干した光景を目にする。

 

「……っぷはーっ。風呂上がりの名水は最高だねっ! 箒ちゃん。もう一杯!」

 

 呆然と突っ立っている箒の手からペットボトルを奪い取り、直接口を付けないようにがぶ飲みする。

 女は残りを紙コップに分け、千冬・一夏に手渡した。

 

「ゴメンネ! 束さんが半分くらい飲んじゃった。はいっ。ちーちゃんにいっくんも飲みなよ!」

 

 箒は無言で口を開閉している。肩をふるわせ、言葉にできない気持に駆られているようだ。

 

「あっ! ラウラちゃんがいる! おーい、ラウラちゃんもこの水を飲むといいよ!」

 

 束が強引にラウラの傍へ寄って、半ば無理やり水を飲ませてしまった。

 

「かっ、かっ、可愛い!! ラウラちゃん! お姉さんの娘にならないっ!? 一生遊んで暮らせるよ!」

 

 と甲高い声で(のたま)った。

 箒が失意の表情で肩を落として去って行く。

 

「なんだったんだ?」

 

 一夏は姉に聞いたが、答えてくれなかった。

 

 

 大食堂へ向かった桜だったが、会席料理を前にしても食欲がわかなかった。

 夕食は下田港で捕れた海鮮をふんだんに使ったものだ。小鉢、刺身、天ぷら等々。茶碗蒸しに和菓子のような料理も出てきた。肴のつくりも美味しい。

 いつもならあっという間に平らげてしまうところだ。

 今にかぎって、一切れを口にしては「はあ……」とため息をつくばかりだ。

 ——なんてことを口走ってしまったんやろ。しかも更識さんになんてことを……。

 妙な暑さが治まっていたおかげで冷静になっていた。

 指先で唇をなぞる。

 簪の唇を奪ったときの記憶がよみがえった。

 四組のテーブルを見れば、桜の視線に気づいた生徒があからさまな敵意を向けてくる。

 互いに目配せしあい簪の周囲を固めて桜の接近を防ぐつもりなのだ。

 一組のテーブルへと視線を移す。

 本音が櫛灘に絡まれていた。

 本音は間延びした口調で矢継ぎ早に投げかけられる質問をしのいでいる。

 隣にいた鏡と四十院がすまし顔で聞き耳を立てている。

 携帯端末の通知欄は「会長さん(更識楯無)」でいっぱいだ。

 情報を流したのはおそらく櫛灘だろう。

 茶碗蒸しを流し込んでから茶をすする。

 

「調子が乗らん」

 

 半分ほど残して食事の席から立ち去る。

 クラスメイトが騒然とするのも構わず部屋へ向かった。

 どうしてもひとりになりたかった。夜陰に紛れて星空を見上げてみたい……という衝動に駆られて、実行に移す。

 仲居から中庭に出られると教えてもらった。

 草履に履き替え、淡くライトアップされた石畳を歩いた。

 近くの清流から蛍が迷い込んできた。

 ゆっくりと漂う姿に目を奪われていると、砂利を踏んだ音が聞こえる。

 背後に迫って立ち止まり、呼吸(いき)を殺して蛍に見入っているようだ。

 

「蛍は」

 

 振りかえってその人物に訊ねた。誰でもいいから話しを聞いてもらいたいと願う。

 

「……うん。時期を外してるってこともあるけど当分蛍を見るなんて、できないよね」

 

 間接照明で浮かび上がった人の姿を見て、少しひるんだ。

 

()()

 

 桜は口ごもって相手の名を思い出そうとした。

 

「デュノアさん。シャルロット・デュノアさん」

「合ってるけど合ってないかも。ただのデュノアってことでいいんじゃないかな」

「どうして」

 

 ()()が苦笑いを浮かべた。

 

「心配しないで。大丈夫だよ。とって食べたり、変なことはしないよ。ちょっと風に当たっていたかったんだ。日本の気候には、まだ、慣れてないからね」

 

 手をかざして指先に止まった蛍を眺める顔。

 身に着けた浴衣がたなびいて華奢な胸が照らされる。

 桜はぎょっとして息を呑む。もちろん動揺したのは一瞬だ。

 

「浴衣、似合ってますよ」

「それは、どうも。部屋にあったのを着てみたけど、ちゃぁんと着こなせたみたいだね。和服ってのはなかなか着る機会がなくってね」

 

 軽い調子で話す。

 茫洋とした光のなかで笑った顔は綺麗だ。

 儚げな印象を抱かせるが、体つきはしなやかである。ライトの傍に腰を下ろして池の鯉を見下ろす。波紋がざわめいた。

 手招きに応じて桜も腰を下ろした。

 錦鯉が呼吸をつぎ、蛍が飛び立つ。

 

「僕は、案外こっちの姿も気に入ってるんだ」

 

 と言って、桜の手を胸に誘った。

 

「……あらへん」

「そ」

「お、男、なんか」

 

 デュノアは阿吽の呼吸で事足りる友人へ向ける笑みで答えた。

 

「そうだよ」

 

 桜が手を引っ込める。瞳をのぞき込まれて動けなくなった。

 

「父は女ではなくて男を所望したんだ。僕が生まれたとき、父は双生児と聞いて男ふたりだと思いこんだ。伯母との取り決めで一方をトゥールーズへ、一方をパリへやる予定だったのさ。最初の奥さんとの子どもを後継者にする手はずだったけど、予定が狂った。兄は堅物で一本気だ。家を出て自分の人生を歩もうとしたのさ。兄を助けるはずが、僕らが社員を背負わなければならなくなったんだ。赤ん坊の頃の話しだけどね」

 

 おどけた口調だが、動きを縛りつける妙な力が備わっていた。

 

「シャルルとシャルロット。どちらが入れ替わっても代わりになるように、父は名付けたんだ。僕らは道具さ。万を超える社員を養っていくために、会社の舵取りをするためだけに生まれてきたんだ。愛なんてものはね。移ろいやすいんだ。ふたりとも女だったらどうするつもりだったんだろうね」

 

 桜の額に手を触れて、唇を近づけた。

 柔らかい唇が一瞬触れて、フランスから来た転校生が離れた。

 

「友愛のキスってところかな。君には秘密の匂いがする」

 

 意味ありげに笑う。

 桜は後ずさって、身を硬くした。男の唇が肌に触れたのは、自己が確立されてから初めてのことだった。

 

「言ったろう? とって食べたりはしないって。僕に限らないけどね。交誼(こうぎ)を結ぶ相手は選んでるつもりだよ」

「……織斑は」

 

 少年の純情を(だま)していたのか。いくらなんでも酷くはないか。桜はシャルロットの恋人の名を口にした。

 

「彼のことは好きだよ。少なくとも学園で生活を送るうちは手放すもんか」

 

 桜は必死に頭を働かせようとした。

 ある憶測にぶち当たってしまい、認めてしまうのをひどくためらった。

 懊悩(おうのう)に苦しむ姿を察して、()()が咳払いをする。

 

「大丈夫さ。()()()()()()()()()()()()()()()()。僕のほうが彼の望むことをしてあげられる」

 

 桜にすました顔を向ける。

 桜は真剣な口調にどう返せばよいのか見当がつかなかった。

 少年はひとしきり笑って、砂利を踏む音に気づいて背後を振りかえった。

 誰かの姿を認めて明るく言い放つ。

 

「じゃあね。僕は行くよ。メガモリさん」

 

 浴衣を(ひるがえ)して去って行った。

 

 

 


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