——君には秘密のにおいがする。
夜空から点々とした煌めきが
桜はその場に立ち尽くす。不意の指摘に動揺しないはずがなかった。
背中が旅館から漏れた光のなかへ消える。シャルルは振り返りもしなかった。
後を追わなければ。
焦ったが、彼の姿を思い浮かべると足が竦んでしまう。最初の一歩を踏み出すまでにかなりの時を要した。
——デュノアさんはいったい
額を撫でこすりながら廊下をさまよう。ナタリアと朱音が声をかけてきた気がするのだが、記憶がはっきりしない。
廊下の突き当たりに
階段の手すりや柱の端々に動物の彫像がある。雀や鳩、軍鶏など、意匠をこらした形が目についた。
部屋にたどり着いたとき、隣室の前で箒と鈴音が互いに肩をぶつけあっていた。
「凰が先に行け」
「あんたが言い出したんでしょ。先に行きなさいよ」
凰鈴音は黄色のTシャツに短パンというラフな格好だ。対して、箒は旅館の浴衣姿で少しはだけた胸元がなんとも艶めいている。
桜はふたりの姿を流し見ながら部屋に入った。入り口脇の引き戸を開け、ハンガーにかけた私服の様子を確かめたが、やはり湿ったままである。
居間に戻ると黒檀のテーブルがあった場所に布団が敷いてある。枕が二つ並んでいた気がするのだが、認識するのをやめた。
本音とマリアの姿はなかった。押し入れが開いていて、相変わらずラウラが中でゴソゴソと音を立てていた。
「どうしたん?」
座布団が部屋の隅へ除けた。焦茶と
「佐倉。今、すごいところだぞ」
「え!?」
ラウラは鼻息荒く、いかにも興奮しているといった風情である。
彼女にしては珍しい。
まごついていると、左耳にイヤホンを駆けさせられた。雑音が少なく、中高音域の音抜けがきわめて良好だ。
——誰かの話し声。
記憶の糸を辿っていく。織斑千冬と山田真耶だ。ヒソヒソと話しているつもりだろうが、ラウラが仕掛けた集音マイクは十分な性能を示した。
桜は怪訝に思いながらもう一方の耳を塞ぐ。
(……やめてぇ。お、織斑先生ぇ……)
千冬が同僚に愛の言葉をささやいている。それどころか唇を奪ったと思われ、しきりに「暑くてたまらない」ともつぶやいていた。
その意味が成すところに気づいたとき、桜はイヤホンを外して持ち主に突き返した。
「今すぐ止めないと!」
「落ち着け。待つんだ」
この場にいないはずの本音と簪の顔が交互に浮かんだ。
胸のドキドキがとまらず、親しく思っていた人物が愛しくてたまらなくなる。
熱病に駆られたようにその人のことが欲しくなるのだ。
千冬もまた同じ熱病に狂っているに違いない。
「もちろんマッサージだろ?」
ラウラの説明によれば千冬は篠ノ之流
師匠であった篠ノ之柳韻は本業である不動産業の傍ら、警察・自衛隊などに施術していたという。
——翔鶴に柔術の有段者で整体術に長けてた奴おったわ。あんな感じか。
「うっかり眠ってしまってな。あれは天にも昇るような心地よさだったぞ……」
施術が終わったあとに起こされたので、どんな技だったかさっぱり覚えていない。ラウラは付け加えた。
桜は引き返して、自室の扉を半ば開ける。
「それでも行くというのであれば止めんが」
ラウラは眼帯の位置を直しながら告げた。
桜は強い口調で答えた。
「行く。今すぐ行くわ」
「そうか」
ラウラは眼を伏せ、緩慢な動きで部屋の奥へと戻っていた。
——はよ、いかんと。
廊下へ飛び出すと、先ほどの二人がまだいがみ合いを続けていた。
「一番を譲ってやる。ここはお前が行け、凰」
「アンタ、あたしが扉を開けた途端に出し抜くつもりなんでしょ。わかってんのよっ」
二人は桜に気づいた様子はない。
彼女たちは入室すべきか迷っていた。中には一夏がいるはずなのだ。一夏がいるならデュノアもいるはずだ。
そう考えたとき、桜は不穏な想像をしてしまった。
——衆道はあかん。
一夏はだまされている。桜は
さらに悪い想像をしてしまった。一夏だけがいて、シャルルがいない場合だ。
鈴音を避ける形で脇から進み出て隣室の扉に手を掛けた。
「ちょっ、ちょっ、ちょっ、メガモリ。あんた、何してんのっ」
「佐倉。待てっ」
ふたりはひどくあわてた様子だ。
桜は構わず開けた。鍵はかかっていなかった。
鳩の置物が眼に入り、すぐに奥へと視線をずらす。一夏の姿は見当たらず、代わりに
▽
「たっ……助け」
真耶は手を伸ばしたが、千冬の指が絡みついて胸の前に戻されてしまう。指先を絡め合って、耳元で何ごとかささやいた。
真耶は何度も肩と太ももを震わせて、涙目を浮かべる。
桜の後を追って中へ入ってきた箒と鈴音もギョッとして棒立ちになった。
壁に追いやられた真耶が眼をそらす。千冬が甘ったるい声音で口説き文句を口にした。
見る者が見ればたまらない状況だろう。
が、桜にとってみれば千冬は熱病に冒されて我を失っていたに等しい。
千冬は真耶の表情や口の動きをじっと見つめつつ、身をよじる動きに合わせて、肌を密着させていく。頃合いを見計らって指を伝うと、真耶は小刻みに身を震わせた。
「ちちち千冬さっん」
ようやく口を開いたのは鈴音だ。
千冬の動きが止まって、視線だけを鈴音に向けた。
鈴音が息をのむ。隣にいた箒が激しく咳き込んだ。続いて桜を見やって、ゆっくりと振り返った。
「凰に篠ノ之、佐倉か。珍しい取り合わせだな。何しにきた」
「い、いち、一夏」
箒がむせかえりながら聞いた。
「一夏はいない」
「そ、そうなん?」
桜が聞き返すと、千冬の
「なぜ、それを、聞く」
「なぜって、織斑くんが」
「……私は忙しい」
千冬の表情が狂い乱れ、尋常ならぬ剣気がにじみ出る。
「お、織斑先生」
「これ以上、邪魔するというなら、
——喰う? 喰うって?
桜が千冬の意図を介したとき、箒が狼狽して尻餅をついた。
千冬は意味深な笑みを浮かべ、桜たちを睨めつける。
千冬の表情をずっと忘れないかもしれない。桜を以てしてもなお、冷や汗を流すほど恐ろしかった。
三人は後ずさって出入り口の付近まで来たとき、一斉に背を向けた。
——山田先生ごめんなさいっ!!
部屋から飛び出すと、浴衣に着替えたラウラがスリッパを履いて出てくるところだった。
「用事は済んだのか」
口を開閉させ言葉を紡ごうとする桜を見て、ラウラはいぶかしんだ。
続けて出てきた鈴音や箒もいつになく覇気がない。
首をかしげながら隣室へ赴こうとする。
「待って。今はあかん!」
とっさに手が出ていた。ラウラを行かせてしまえば、きっと後悔する。
——もしかしたら。
ラウラは千冬を受け入れてしまうかもしれない。だが、真に千冬の気持ちなのだろうか? 桜は熱病に冒された自分を思い出しながら自問する。
「行くな。行かないほうがいい」
箒が真っ青な顔で口添えする。
眼を泳がせており、両手で口を覆って何事かぶつぶつとつぶやいていた。
「一夏を……一夏を探すぞ」
箒は青ざめたまま強い口ぶりで言った。
「もし、奴が今、誰かと一緒にいたとしたら」
つぶやきながら、箒は確信めいたように一歩を踏み出した。
桜はラウラの手を引いたまま後を追った。
気分は重くなる一方だった。桜の心は真耶を見捨てた罪悪感でいっぱいになる。
ラウラが歩きながら顔をのぞきこんできた。
桜が半ば予期していた通り、釈然としない顔つきだ。形のよい唇がドイツ語で言葉を紡いだ。
「手、離してもらってもいいか?」
「すまん」
ドイツ語をすべて聞き取れたわけではない。
ラウラの少し困った様子から推し量ったのだ。
先頭を行く箒が立ち止まる。彼女は櫛灘を探していた。
「静寐、副会長は」
「副会長? ああ、櫛灘さん」
鷹月静寐は星座を彩った淡い緑色のルームガウンを羽織っていた。左隣にいた四十院に声をかける。
「神楽。櫛灘さん、見なかった? さっきまでさゆかたちとつるんでたと思うんだけど」
「……あれじゃない?」
櫛灘は夜竹さゆかと卓球に勤しんでいた。浴衣を腕まくりしており、ラケットはシェイクハンドだがペンホルダーの握り方だった。俊敏に動き、スマッシュの踏み込みも深い。経験者の動きである。
さゆかの右手が空振る。悔しそうに球を拾いに行った隙を見計らって、箒が近づいた。
「櫛灘。一夏を知らないか」
「織斑くん? ああ……」
思い出したようにニヤリと笑った。肩越しに桜とラウラを見つけて、これ見よがしに手を振る。
「一夏の居場所が知りたい」
「知ってはいるけど……」
櫛灘は値踏みする目つきで答えた。会長推薦で副会長に収まったほどの
箒に向けて何事か耳打ちする。箒は何度か首を横に振り、最後に縦に振った。
「交渉成立。織斑くんはね。
「デュ、デュノア……」
箒はたじろいで二、三歩後ずさった。
顔を真っ赤にして、桜たちに告げる。
「行くぞ。時間がない」
「せ、せや」
桜もすぐに続いた。顔を真っ赤にした箒とは対照的に桜の表情は真っ青だ。
千冬は真実の愛に目覚めた。桜も我を失って簪の唇を奪ってしまった。
となれば、一夏も禁断の扉を開けてシャルルと……そこまで考えが及び、桜は首を左右に振った。
階段を駆け上がり、デュノアの部屋へ急行する。
箒は躊躇なく扉を開け放つ。だが、突然行き足が止まってしまった。
「え、何」
鈴音が横から顔をのぞきこむ。箒と同じように硬直してしまった。
次はラウラが部屋の様子を見やる。
「ふむ……。おい、佐倉。織斑がいたぞ」
「ど、どんな様子。ちょびっと怖い気がするんやけど」
桜は促されるまま、ラウラが指さした方角を見やる。
「そんな……て、手遅れやった」