IS-サクラサクラ-   作:王子の犬

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湯煙温泉の惨劇(九) 胡蝶の夢

 通話を終えたときには束の姿はなく、いつ彼女が消えたのか見当もつかなかった。

 階段の踊り場で携帯端末を握りしめたまま立ち尽くす。

 

『佐倉少尉殿ってわけさ』

 

 という言葉が頭のなかで反響して、なんともいえぬ不快感を抱かせる。呼吸を整えようと(まぶた)を閉じれば、あの頃の風景が鮮やかに蘇った。

 湿った土と油の匂い。沖縄の空へと向かい、戻ってこなかった戦友たちの名を淡々と書き綴った筆記帳(ノオト)

 ——秋水の間は。

 浴場を通り過ぎ、途中、誰かが脱いだであろうスリッパを履く。

 離れにたどり着いたとき、時計の針は十時過ぎを指していた。生徒たちの多くが自室へ引きこもっておしゃべりに興じている。

 離れにも宿泊部屋があった。セシリア・オルコットの部屋も同じ棟にあった。

 

「博士。約束通り来ました」

「開いてるよーん」

 

 先回りして桜の訪れに備えていたのか、すぐさま返事があった。

 扉を押し開くと、傍に立っていた束に手首を掴まれて引っ張り込まれた。

 

「さあ、入った。入った。サクラサクラの来訪を歓迎するよ」

 

 書院造りの部屋にノート型端末が広げられ、幾つもの投影モニターが展開されている。

 画面のひとつに旭光の壁紙が設定されていた。

 動画が始まった。

 旭日旗がたなびき、軍艦マーチが奏でられ、長門をはじめとした戦艦群が波をかきわけて単縦陣で進んでいく。

 桜は息を呑んだ。

 身体中に熱さが駆け巡っていく。

 ——嗚呼、長門がおる。大和、武蔵、金剛、榛名……。みーんな、みんな、もう、おらん。

 目を逸らすことができず、黙りこくった。

 

「動画投稿サイトで拾ったんだけどさ。よくできてたから再生してみたってわけ」

 

 束は立ち上がって熱っぽい表情で桜の髪を(もてあそ)ぶ。

 

「——……ッ」

「きちんと手入れされてるね。サクラサクラはお姉さん(奈津子さん)の言うことをよく聞いているんだね」

 

 触れるか触れないかのきわどいタッチで体をまさぐる。唇を咬みながら耐えていると、束の狂い乱れた瞳が鏡に映った。衣擦れの音だけが響いて、急に束が動きを止めた。

 

「抵抗しないんだ。それとも機会をうかがっているのかな? 私はサクラサクラのことをよく知ってるよ。君はどこから来たのか、君は何者か、君はどこへ征ったのか」

「……貴女はどこまで知っておられるのですか」

「さあ。でも、この世界から、君に消えてもらいたいとは思ってるよ」

「恨まれるようなことをいつ、したのですか」

 

 初めて言葉を交わしたときからずっと疑問だった。

 束の瞳が妖しく揺らぐ。

 

「カコだとかミライだとか」

 

 桜は身体を硬くして、表情を変えまいと骨を折った。

 

「君は軍神のまま逝ってしまえばよかったのにって。束さんはサクラサクラに出し抜かれたことをとても悔やんでるんだ。厳密に言うと、出し抜いたのは今の君ではないんだけど、君は彼女(サクラサクラ)と顔も名前も姿も(かたち)も同じだからね」

「おっしゃる意味が」

「理解してもらおうとは思ってないのさ」

 

 顎を上向かせられる。とても強い力だ。逃れるチャンスを窺った。

 

「そういう目で見るんだ。少なくとも、今の束さんは君に害を与えるようなことはしていなかったのに」

 

 束は胸元を動かして素肌に風を送る。エアコンが動いて、ゴロゴロと音を立てる。年代物なのか動作音が大きい。

 

「さぁて、どうしようかな。君をいるべき場所に送ってしまおうかな」

「いるべき場所……」

 

 桜は言いかけて口をつぐまなければならなかった。鏡に映る自分を見つめる。困惑の顔つき。

 佐倉桜がいるべき場所とはすなわち、あの世とこの世だ。束が示したのはこの世ではなかった。

 ——あかん。

 おぞましさが背筋を駆け抜けた。

 束から逃れなければ。不用意に踏みこんだ自分の愚かさを呪う。

 電灯が瞬き、一瞬光を弱めた。

 ひっそりと闇がしみこんで、桜は押し倒された。

 

「束さんはこう考える。佐倉少尉は生涯独身だった。独身であったがゆえに死の間際、人と繋がりたくなった。子どもが欲しくなったんだ。でも、今のサクラサクラは女だ。種を()くことはできない。むしろ受胎する側だ。君は子どもを産み育てる自分を想像できないんだ。だから昔の自分にひきずられて女の子に()かれる。もちろん束さんはそういった感情を否定しないよ」

 

 束の言いたいことはわかる。

 いくらかは言い当てていたからだ。反発したい気持ちも生まれたが、やってしまえば束の言葉を認めてしまう。

 あのとき。本音が欲しくてたまらなかった。生まれたままの姿になって彼女のなかに自分という存在を刻みつけたくなったのだ。今後彼女が出会う人々のなかでも、必ず思い返すであろう、ハジメテの人……。

 束は精確に動きを封じてきた。

 

「へえ……抵抗しないんだ。それとも、抵抗すべき一瞬を狙っているのかな」

「……まさか」

 

 束は馬乗りになってニンマリと満足げな笑みを浮かべる。

 

「束さんは知ってるよ。サクラサクラはもう五十人くらい殺したよね。君の仲間もたーくさん死んだ。

 予言するよ。君は、将来、いっくんや箒ちゃんを死に至らしめるよ。君が彼らと一緒に飛べば遅かれ早かれそうなる。……ふふふ。盗聴・盗撮は気にしなくていい。防諜は完璧だ。だからさ、今すぐ君のミライの芽を摘み取ってしまうことだってできるんだよね。そうだ。うん。そうしてしまおうか。そうすれば彼らが死ななくてすむ」

 

 束は旅館の名前が書かれた手ぬぐいを取って桜の首にまいた。

 

「君は綺麗だねえ。本当に綺麗だ」

「ギ——」

「あの子も綺麗だったよ。とても明るく素直で私の話をよく聞いてくれたね。好意を寄せてくれたのを感じていたのに、君は……ゴメンゴメン、彼女が私の大事な人を奪ったんだ」

 

 両手でタオルごと首を包み込み、徐々に力を強めていった。

 桜ははじめ何をされているのかわからなかった。何度も目を瞬きし、首に痛みと息苦しさを感じるに至り、状況をあらかた理解した。

 束の顔はむしろ穏やかで柔らかかった。桜の容姿を褒め称えながら首を絞めあげていく。

 桜は足をばたつかせ、手首を引きはがそうと必死に抵抗する。

 

「束さんなら証拠を抹消できる。記憶の改ざんなんてお手の物さ。だから安心して靖國(やすくに)へ還ろう」

 

 空気を求め、渾身の力を振り絞って束の手をひっかいた。

 

「……ッ!」

 

 束が舌打ちして手を引っ込める。くっきりとした爪痕が残り、皮がえぐれて血が流れている。

 桜は首に手をあて激しく咳き込む。目尻に涙を浮かべながら束の穏やかな表情(かお)をにらみつける。

 束は立ち上がり、桜に一瞥もくれず端末のもとへ向かう。

 投影モニターを一画面を残して閉じる。

 そして二人分の湯飲みに緑茶を淹れた。

 茶をすすりながらキーをたたく。浮き上がった文字列を眺め、部屋の奥に向けて画面を動かす。

 その文字を見た桜は、一瞬咳き込むのを止めた。

 

 ——以テ海上特攻隊ノ本領ヲ発揮セヨ——

 

 天一号作戦。呼応して発令された菊水作戦、航空総攻撃。噴煙が咲き乱れ、血と鉄が混ざり合う瞬間を思い出し、桜はかつて破片が突き刺さった胸を押さえてうずくまった。(ふる)い記憶が痛みを呼び戻したのだと気づいたが、胸の鼓動が早まるのを押さえられない。

 出撃前夜に見上げた空は真っ暗で煌々と輝く星々があった。

 桜は立ち上がって、出口に向かって進み出す。ふらつき、柱にもたれかかり、一刻も早くこの場から逃れることを願った。

 しかし、足を止めてしまった。

 衣擦れの音がする。振り返ったとき、束が一糸まとわぬ姿になっていた。腕をつかまれ、引き寄せられ、抱き止められる。

 

「戻ってきなよ」

「……」

 

 束の身体は温かく、石けんのにおいがした。

 

こっち(あの世)に戻っておいで。ここにいちゃいけないよ。醜の御楯だってことを思い出さなきゃ。わかってるよね」

 

 呆然自失となった桜の口を、束の唇が塞いだ。柔らかい舌が割って入ってくる。束の唾液が唇の端から零れた。

 

「死に場所、欲しかったでしょ」

 

 束は唇を離して、桜の耳元で低く囁いた。

 

「すぐ、死ねるよ。仕掛けは()()が用意した。彼等も動いた」

 

 スピーカーから英語が流れる。ジェシィ・ジョーンズのお天気コーナー、という言葉をかろうじて聞き取った。桜が身をよじって離れようとすると、手首を取られて再び唇をふさがれた。外の街灯だろうか。カーテンの隙間から朧気な光が瞬いた。身体に力が入らない。頭もぼんやりとしてうまく働かない。まるで胡蝶の夢……そんな気がした。

 桜の意識が途絶える直前、束がゆっくりとした口調で告げる。

 

「君が靖國へ還るのを(いと)わぬなら、協力を惜しまないよ」

 

 

 

 

 

 

「……起きてくださいまし」

 

 ペタペタ、と引き締まった指が頬に触れた。桜が薄目を開けてぼんやりしていると、青い瞳の美少女が腕を組んで見下ろしていた。

 

「こんなところで眠って、あなた、風邪を引きますわよ」

「……ふぇ」

 

 狂ったように丸い月が目に入った。胸のなかに薄雲のような侘しさが立ちこめて、身体を起こして周囲を見渡した。池の鯉の尾鰭が揺らめき、気持ちよさそうに泳いでいる。秋水の間ではなかった。

 

「あの、ほっぺ、ちみぎって」

「……はぁ?」

 

 美少女は長い(まつげ)の奥からあからさまな困惑の視線を投げかけた。

 桜は見本のつもりで自分で頬をつねった。

 

「オルコットさん。こんな感じでお願いします」

「……知りませんわよ」

 

 美少女(セシリア)はため息をついたかと思いきや、書類入れを小脇に抱えてから右手を伸ばす。桜の頬に触れ、親指と人差し指で優しくつまんだ。

 

「なあんだ。まだ夢なんか」

「夢?」

「私、さっきまで秋水の間におったんや。篠ノ之博士とな。でも、起きたら池の鯉がおる。瞬間異動は不可能や。せやさかい、私は今、夢を見とる」

「……寝ぼけてますの?」

「ほっぺた、ちみぎ……つねってもらったのに、痛くない。夢や。ほんまの私はまだ眠っと——」

 

 セシリアが思い切り力を込めた。桜は言葉にならぬ悲鳴をあげ、頬を押さえてのたうちまわる。

 

「これでもまだ眠ってますか。わたくし、先ほどまで秋水の間で商談を交わしていましたけれど、メガモリさんの姿は見かけませんでした」

 

 セシリアが怪訝な面持ちで言った

 桜は頬をさすりながら衣服についた土を払った。

 

「お風呂入ったのに汚れてまったなぁ。……え、私、ずっとここにおったん?」

「さあ、そこまでは。少なくとも、先ほども口にしたとおり、貴方の姿は篠ノ之博士の部屋にはなかった」

「本当に?」

 

 セシリアが鷹揚なしぐさでうなずいて見せた。

 

「……証拠はあるん?」

「ありますわ」

「どんな」

「オルコット社はSNNと正式に整備契約を取り交わしました。何ならわたくしの叔父が証人になってくれますわ。ブランドン・オルコット。オルコット社のCEOです」

 

 桜は耳にした名前を携帯端末で調べた。大量のビジネスニュースが表示され、その中に幾分セシリアの面影を留めた男性の姿があった。確かに「ブランドン・オルコット」とある。

 

「せや博士は今、どこにおるか」

「秋水の間でブルー・ティアーズを診てますわ。あの方、天才ですわね。一瞥しただけで弱点を見抜いて、改善策を提示しました」

 

 よく見ればセシリアの耳を覆っていたカフスがなかった。

 

「改BT型——ウェリントン・プラン。そのうち速報がネットニュースに流れますわ。楽しみにしてくださいまし」

 

 セシリアが女王のごとく誇らしげに胸を張って、豊かな髪をかきあげる。

 踵を返して中庭から立ち去ろうとしたが、急に思い出したように足を止めた。

 振り返って、心持ち眉をしかめた。

 

「そういえば一夏さんの姿が見えないのですけれど、メガモリさんは知りません?」

 

 桜は一夏が引き起こした一連の騒動を思い浮かべ、やむをえず苦笑いをする。

 デュノアとファースト幼なじみ、セカンド幼なじみに愛を囁いて食べようとしたなどと、セシリアの耳に入れたらどうなるか想像してしまったのだ。

 ——せや、プライバシーは守らなあかん。

 

「ボ、ボーデヴィッヒさんに聞くとええよ。織斑と一緒におった。写真も撮っとった。見せてもらうとええ。……あぁ、あかん。ボーデヴィッヒさんは……」

 

 ラウラなら良識ある対応をするはずだ。桜は切に願った。

 

 

 




今回で湯煙温泉の惨劇章はお終いです。また次章でお会いしましょう。

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