アユムは逢いたいような、逢いたくないような、とあるひとりの少年の顔を思い浮かべる。距離は近くなったというのに、躊躇するようになってしまったのは何故だろう。『距離』と言葉にすると、ああ、アユムと少年との間には隔たりがあるのだとより一層感じてしまう。
それでもアユムの足は勝手に、その少年のいるだろう場所を探してさまようのだ。ちょうど、昼食後の訓練をしている年少の少年たちの後姿を見守っているのだろうその背中を、アユムはさらに後ろから眺めていた。そして、少年たちの姿を見ながら思案にふけっているのだろうビスケットに、声をかけようかかけまいかと迷っていた。その時だった、後ろからタカキの声がした。
「あ、アユムさん!」
どうしてこう間が悪いのだろう。アユムは舌打ちしたくなった。その声は大きく、ビスケットが気付いて振り返ってくる。できることならアユムは、脇の建物の陰にでも隠れたかった。しかしそれは遅いことだし、何より不自然だ。
「ネイ……アユム? もしかして僕を待ってた?」
あ、えーと、ちょっとあっちに行ってますね! とタカキがそろそろと建物の脇に入っていく。
「――クッキーちゃんとクラッカーちゃんのお迎え、そろそろ時間だろうと思って」
「あ……そうだった」
もうそんな時間なんだね、と言いながら、ビスケットは続ける、「それなんだけどね」
何だろうと首を傾げる。顔に、黒髪がかかる。
「ちょっとやりたいことがあってさ、送り迎え、アユムに頼めないかな?」
アユムは真顔になって、そして一拍後目を丸くした。
驚いた、本当に。
「ねえ、きみってさ」
本当に、すごい人間だよ。
アユムは苦いような面はゆいような思いで微笑んだ。
アユムは何時もより念入りに亜麻色の髪をセットした。そして淡い色合いの服を着て、一応護身用のナイフも一本持つ。こんな物なくとも、アユムは大して関係ないのだが、こうした武器を一つでも持たないことには、鉄華団の少年たちが煩いのだ。曰く、アユムが外に対する危険を示唆しながら、備えをせずに出歩くとは何事か、と。もちろん、言い回しはもっと単純で簡単で、動物的で馬鹿っぽいものだった。
アユムの提示した、アユムへの品定めについてはもう全員がパスしていた。アユムとしてはもう少し長期的な目で見てほしかったという思いもあるが、判断は即決できるようであれば好ましいというのも本音だった。ただし、その判断が、状況や必要に適っているものであれば、だが。
扉を出ると、直立で佇んでいるタカキともうひとりの少年、アストンが待っていた。
「じゃあ、行くよ」
待たせたね、とは言わない。気遣う気なんてさらさらないし、なによりアユムの心はちょっとばかり人に見せられないくらいには弾んでいたからだ。
ビスケットが大切なかわいい妹たちの送り迎えを、アユム一人に(実際にはタカキもアストンもいるけれども)任せたくれた、という事実が嬉しくてたまらない。と同時に、責任を感じた。それは心地の良い責任感だ。ああ、大丈夫だよ、任せてよ。僕がついている限り、君の妹たちに指一本だって傷を負わせない。安心していて。きみの大切なひとかけら……いや二つの宝石を、無事守り通してみせるから。だから――
「――は?」
車から降りたアユムの目は黒煙に向いていた。
何だあれは。
すぐにタカキがアユムの前に出る。その前にアストンが、タカキとアユムを庇うように立った。
黙々と煙が大きな建物から出ている。人々は車から降りて反対方向に逃げていく。時折銃声が聞こえる。
「は?」
そこは、ビスケットの妹、クッキーとクラッカーの通う、学校だった。
よろよろとタカキとアストンの脇を通って前に行く。腕を引っ張られたようだったが、アユムが振り払うとそれは簡単に解ける。当たり前だ。アユムは喰種なのだから。止まっている車のなかで黒い大きな車から銃を持った黒づくめの男たちが逃げる市民に向かって時折、銃を放っているようだった。
アユムの肩が、逃げ惑う市民のひとりとぶつかってよろける。
「アユムさん!」
ねえ、ねえ、信じられないよ、なにこれ。
「タカキ、一旦下がれ。車のなかに入ってろ。俺がいく」
逃げ惑っていた市民のひとりは、アユムにぶつかって地面に尻餅をつく。それを黒づくめの男の銃口が捉えた。そして男の目は、人の流れに逆らっているアユムを捉えていた。引き金がひかれる。銃は、ライフルは、アユムにぶつかった人間に当たる前に、よろけながらも歩みを留めなかったアユムの脚に当たる。
アストンがその男の首元まで一瞬で近づいた。持っていたらしいナイフでその首を掻ききった。そしてアユムを地面に引き倒す。沈んだ視界は、ちょうど止まっている車の影になっていた。鉄華団の車の運転をしていたチャドがいつの間にか運転席から降りて、アユムとアストンが身を伏せる形になっている車と少し離れたところの車の影に膝をついていた。その隣にはタカキもいる。
それらの行動に、躊躇はなかった。アユムはその引っ掛かりに、頭が少し冷えた。
チャドが指で何かの合図をする。残念ながら、アユムはその意味が解らない。けれどもアストンは違ったようだ。そういえば、出自は同じだったか。アストンがそれを視認して、アユムに顔を向け、訳してくる。
「チャドさんが救援を呼んで、十分くらいには到着すると。アユムさんは、危険だから俺と車の間を通って隠れてほしい」
アユムは黙った。そしてこくりと頷いた。すると、アストンは指で合図を返していた。
チャドとタカキはすぐに行動を開始する。車の下に置いていたらしい黒いトランクの中から銃器を取り出して素早く組み立て、車の影を通って移動する。姿が見えなくなったと思ったら、少し離れたところの車の上に立ち、黒服の男を狙撃する。またそして車の影に潜って、銃弾を避ける。それは二人でこなして次々に黒服の男たちが倒れていく。
「……随分と、落ち着いているんだねえ」
アストンは、チャドとタカキの動きを見ながら、黒服の男たちの死角になった場所に見当をつけていたが、アユムの言葉にちらと目線だけ寄越してきた。
「アユムさんが教えてくれたをやっているだけだ。タカキも、チャドさんも」
「教えた?」
「もし、タカキの妹の学校が襲われたら、って」
ああ……言った。
「それはこういうこと、なんだろう」
アユムは苦く笑った。
「ああ。こういうことだよ」
ちくしょうめ。
アユムはアストンの後ろについて行く。高いところの方が安全だろうと提案して、銃撃戦の行われているようである、ビスケットに妹たちの通う学校の隣の高いビルに入っていく。そして逃げた後なのか誰もいないフロントを通ると、階段の影に何人かの人が隠れて震えているのを見かけた。頓着せずに階段を駆け上る。するとガラス張りの窓から外の景色が良く見えた。アユムはアストンについて行きながら、黒服の男たちの動きを見ていた。
すると学校から、十数人くらいの学童たちが黒服の男たちに銃を突き付けられながら学校敷地の外へと突きだされているのが見えた。その中にはビスケットの妹たちもいた。運の悪いことに。………運が悪い?
アユムは自分の考えに、あははっと笑った。それは口に出た。アストンが振り返り、嘲笑を浮かべているだろうアユムの顔を見てきた。
「ちょっとそこのテラスに出るよ。大丈夫、弾は届かないさ」
アストンは人間として、というよりは兵士として成長しているようだった。アユムを上と考えて、命令ともいえないようなこの言葉に頷いた。アユムはこのときばかりはにっこりと聞き分けの良い猟犬に微笑みかけた。
そして白いテーブルと椅子が並べられた洒落たテラスを荒らすように、その手すりまで進んでいった。
アユムの考える通りならば、いるはずのなのだ。
これはなんでもない、銃撃戦でも人質事件ではない。鉄華団の身内の人間が人質に入っているという時点で、何らかの意味が背景にあるはずなのだ。
そしてそれは二通りに分かれる。そしてアユムが探している人間が見つかれば、それは一つに絞られる。
それは、いた。
黒服たちをあらかた倒し終わっていたチャドとタカキ、そして応援に駆けつけてきた鉄華団の少年たちが人質を見て手を止める。そこへ、割って入るようにする髭の生えた屈強な体躯の男。
てめえか、てめえかよ、ふざけんな。
黒服の男のうちのひとりがその大男を認めて、銃を放とうとする。
大男は隙のない動きでその男の首をへし折った。それをみて黒服の男たちの目が、大男に向いた。
瞬間、チャドたちが人質を囲んでいた男たちへと丸いものを投げ――アユムは目を瞑った――強い光に目をくらませた男たちを少年たちが一斉に制圧する。
そして、妹たちを庇うように建物のはしへと警護しながら移動させる。
そして、大男に近づいていく。
敵か味方かを考えているのだろう。
「何を?」
アストンが目ざとくアユムの行動に気づく。
アユムは、徐にテラスの淵を彩る、白い石を手に取っていた。そして思い切り振りかぶった。
手から離れた白い石は、障害物を突きぬけて真っ赤になった。
それはかろうじて生きていた黒服の男だ。人質へと銃口を上げる前に、アユムの投げた石によってごぽりと血を落とすようにして倒れ伏した。
アストンが軽く目を見張る。でも、ただそれだけ。
「別にいいさ、入ってくるのはね」
ある程度泳がせてやるさ。
「でも、この方法はいただけない」
今度は、先ほどと同じくらいの白い石で、先ほどよりもずっと本気で狙いを定める。
目標は、両手を上げながら、遠巻きにする少年たちに飄々と話しかける髭面の男だ。
僕を怒らせるなよ。
振りかぶった白い石が光でも反射したか、大男は気づいたようだった。アユムは嘲笑した。遅い遅い。
本気で放った白い石。それは大男の顎に吸い込まれるようにして、そして顔を粉砕した。
「すごい、な」
アストンが息を飲んだ。
構うものか。
「敵だったのか、あれは」
「さあね」
ただ、このタイミングの良さ、そして何より黒服の男たちの様子が見える位置から姿を現したことといい、アユムの目からしてみれば怪しさ満点だ。
そしてアユムは偶然などないことを知っている。
「取り入ろうって感じだろ。出来すぎなんだよ、このシチュエーション」
アストンは分かっていなさそうだった。
アユムは端的に言った。
「毒は体の中に入れるものじゃない」
あえて入れる毒もあるけれど、今回はお眼鏡に適わなかったということで退場願う。
今回はアユムが最終的にそれを判断した。
けれども、周りの少年たちも、警戒を解かなかった。良い傾向――。
「クッキーとクラッカーに指の怪我でもないかみてこなきゃ」
無事なのは知っている。けれども無傷かは判らない。
心配だ、と顔を曇らせて、けれどもアユムはスキップしながら人間のように階段を使って下りていった。