怪物の泣いた日   作:マイロ

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別れと再会と、約束

 父母はやがて事業を成功させて地球に戻ることになった。アユムもそれに渋々頷いた。もしビスケットがドルト2にいるままだったなら、梃子でも動かなかっただろう。けれどもビスケットはふたりのかわいい妹たちとともに火星の祖母の家へと引き取られることになっていて、アユムは泣きながら別れたのを覚えている。

 亜麻色の波打つウィッグをつけたまま、アユムは彼らを見送った。ビスケットにはかわいい妹がふたりいる。歳の離れた兄もいるけれど、妹の世話はビスケットがするのだという。

 早く大人になりたい、と“喰種”は思った。

 

 食べたい食べたいと口の中であふれる唾液を飲み下して誤魔化していた日々が懐かしい。最初の被害者はこいつにしよう、と近づいて警戒心を解くために共通の話題を作るように努めた。アユムは、人間の中では目立っていた。黒髪に黒い瞳は珍しかったのかもしれない。やせっぽっちの体だったけれども、人間はそういう痩せている姿の方が好きなのかもしれない。

 アユムならば断然、歯触りの柔らかいふわふわとした脂肪を希望するが。

 アユムが誰かに近づけば、周りの視線が集まってくるのだ。そしてビスケット少年もアユムが近づくとほんのわずかに緊張しているようだった。何かが違うということを、周りは気づいていたのかもしれない。とりあえず、アユムは人畜無害な子どもとして振る舞った。あたかも友達になりたいという純粋な気持ちで近づくと見えるように。

 ビスケットの好みそうな話題を探しているうちに、アユムはその思慮深さに気づいた。拙いながらも読み書きを覚え、知識を取り入れようとする。その姿勢は、まともに教育を受けられなかった『過去』の記憶を呼び起こした。

 豊かとは到底言えない環境ではあったが、ビスケットは真剣に取り組んでいた。アユムがはたと周りを見回せば、貧民街から出てきてやっとこさ文字をひとつかいただけの子どもが目を輝かせて貪欲に、ひたむきに学んでいるのを目にした。

 アユムはこの場よりももっと整った環境で学べる選択肢があった。けれども、ここではければ思い出しもしなかっただろう。

 アユムは机にかじりつくビスケットに気後れしながら近づいた。ビスケットの丸々とした指は、想像していたものより皮膚が硬そうだった。それでも、アユムはビスケット少年がおいしいものだと信じて疑わなかった。

 真剣に学ぶうちに、ビスケットが認めてくれたのか、話しかけてくれるようになった。そうして段々と仲良くなった。

 

 今から思えば、ビスケット少年は恥ずかしがり屋だったのだと分かる。あれから色々な事があって、アユム自身のことについてビスケットはその全てを知っている。その上で、ビスケットはアユムを受け入れた。ただ、それだけのことが、アユムという存在には奇跡なのだということを知っていた。だから、アユムのちっぽけな世界が、ビスケットによって変容してしまっても、それはごく当然のことなのだ。

 

 後ろへ倒れるほどに真上を見あげたアユムは、空のあまりの鮮やかさに目から涙をこぼした。身を引き裂かれるような痛みを感じた。きっとビスケットの頭は、双子の妹たちの面倒を見なくてはならないという責任感で占められている。アユムのことをその片隅にでも残してくれているだろうか。

 自信はなかった。アユムはビスケットの妹のクッキーとクラッカーのことだってかわいく思っていた。銃弾さえきかないアユムとか弱い妹たちでは、後者の方がずっと心配だということは分かっている。

 アユムはビスケットから貰ったメモを大切に握りしめた。この紙切れだって、ビスケットとの絆を保証しないのに。

 

 

 

 連絡先を交換し合い、ビスケットがCGSという火星の民間警備会社に就職したということを知った。アユムも地球に戻り、事業に成功した父母が上流階級の末席に連なるようになって、今までよりも格段に良い学院に通える融通が利くようになった。

 学ぶことの大切さと、改めて自分という存在の異質さに向き合ったアユムは、医療を学ぶために最難関の学院の入学を希望した。父母はそれを叶えてくれた。容易くはなかっただろうが、周りが言うことには、結婚して間もなく不妊であることが判明し気落ちしていたところにアユムが引き取られ、随分と明るくなり精力的に業務に取り組むようになったのだという。アユム様のおかげでございますと頭を下げる父の老執事に、はじめからどうにも歓迎ばかりされていると思ったら、となんとなく納得したようなそうでもないような心地で頷いておいた。

 ビスケットへは医者になるために学院に入ったことを告げた。もし怪我をすれば、すぐに治してあげるから。でも、怪我はしないようにと伝えた。アユムがビスケットの傍にいたのなら、指先のいっっぽんでさえ傷つけさせはしない。火星と地球との距離がただただやるせなかった。どんなに急いでも三週間はかかる。ビスケットの状況を知って心臓が止まりそうな思いをしたくなかったので、あまり仕事については触れないでいた。

 仲間ができたと報告してくるビスケットに、それがどんな優秀な人間だったとしてもアユムは嫌いになるだろうなと思いながら、よそよそしくよかったねと相槌を打った。

それも、大した事件ではないだろう。CGSという会社を乗っ取ったと聞いたとき、アユムは通信している相手がビスケットなのか本気で疑った。以前聞いた仲間がそれを主導してやりとおしたのだと聞いたときには、そんな暴力的で危険な相手とは縁を切れよ! と自分のことを棚に上げて怒鳴った。その声に部屋の中へと様子を見にそろそろと顔をのぞかせるメイドに手首をかえして追い出すと、ビスケットの慌てたような声が聞こえて通信が切れた。ちらりと見えた金髪頭の少年に猛烈な殺意がわいた。亜麻色のウィッグをとって容姿をいつものように戻すと、見計らったように先ほどとは違うメイドが軽食を運んでくる。

 

『地球に行くことになったよ』

「ほんとうに!? ねえ、いつ? いつ来るの?」

『落ち着いてよ、ネイハム』

「アユムだってば!」

 昔のままの呼び名で呼ぼうとするビスケットに口をとがらせて抗議する。そんな時間も愛おしいと感じていることを、ビスケットは知らないだろう。労働を重ねた指で帽子をいじるビスケットの挙動の一つ一つを見逃すまいとアユムは忙しかった。仕事の内容はあえて聞いていない。お互いに、言っていないこともある。物理的に離れている距離がそのまま心の距離になっているとは言わない。けれども、あまりの遠さに、言いたいことを噛み殺しているところはお互いにあったのだと思う。離れ離れの歳月は、アユムの想いを強固にし、ビスケットの友愛を親愛に変えてくれた。通信越しにあの時の告白に応えてもいいかなと言われたときは何が起こったのか分からなかった。今、現実が近づいてきている。アユムとビスケットに、現実の方が近づいてきてくれているような気がした。

 

「待ってる――ううん、やっぱり待てない。逢いに行くから」

 

 その会話の後にぷっつりと連絡が取れなくなった。

 アユムは独自に調べて、ビスケットの所属する鉄華団がどこに着地するのかを予測して調べた。アユムのなかに、天才性が隠れていたのか、完璧に予測することができた。そしてそこへ行くまでの難しい道のりをすべてクリアできたのは、アユムの執念のおかげと言わざるを得ないだろう。学院はとうに飛び級で卒業していた。そして医者ではなく研究者としての道を歩んでいたアユムは、迷惑をかける人間などいなかった。父母にはひとこと言って出て行くと、世界中の目を掻い潜ってその一線を越えた。

 

 アユムがまさに駆けつけたその現場には、機体に押しつぶされそうになったビスケットがいた。叫ぶばかりで届きもしない腕を伸ばす少年。機体になりながら人ひとりすら助けることができない乗り手。ああほんとうに――こんなやつらにビスケットを任せておけない。

 

 一瞬で赫子を出して一気に距離を縮める。人間の目には見えない速さで機体とビスケットの体との間に滑り込むと、腕で持ち上げてビスケットを引きずり出した。赫子はすでにしまったが、破けた服はどうにもならない。幸い、容姿はいつもの方で来ているので問題はないが。ビスケットの体を起こしてぱっぱと埃を落としていくと、やっと我に返ったのかネイハム……? と呼んできた。アユムだと言い直しかけて、こっちの姿であることを思い出して溜息を吐く。

「はあい、ビスケット。ちょっと歯くいしばる?」

「え、ちょっとまってその拳どうする気!?」

「なに、勝手に死にそうになってんの! 再会の約束忘れたの? 僕をこの年で未亡人にするつもり? いい加減にしろよな」

 言い足りなくて更に口を開いたところに、がばりと抱きしめられて硬直する。

「……僕、死ぬのが怖かった。死にたくないって思った。クッキーとクラッカーを学校に入れて、ネイハムも呼んでまたみんなで暮らすんだって。オルガとの約束だって……僕は」

 アユムは目を伏せて、ふかふかと柔らかい背中に腕を回した。ビスケットが死に瀕していたことが許せない。けれど、死に直面したとき、ビスケットの思い出した人のなかに、アユムが入っていたことが馬鹿馬鹿しいくらいに切なくさせた。

「死なないよ、ビスケは。僕が守るから」

 腕を伸ばしたまま息を詰めて目を見開く少年を放置してビスケットの背中を撫でていると、頭上から無粋な声が降ってきた。

 

『なに、あんた誰?』

「――空気読めよ」

アユムはどすの利いた声で機体の主へと吐き捨てた。ビスケットは我に返ったようにアユムから離れると、硬直している少年へと声をかけふたりして抱き合っていた。アユムは舌打ちした。

 

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