「いい夫婦とは、どんなものなのだ。アンドレ」
母譲りの柔らかな美を宿す青年・トーケルは、呆れ顔で主人を見やる従者に問いかける。
「はぁ……いきなり、その……どうかしたんですか?」
幼い頃から聞かされた、父の成人の儀における冒険活劇の主人公たる臣下は、明け透けにわかりやすいほど親身な口調で、年の離れた弟のような青年の言行を訝しむ。
ここはアンドレ一家に与えられた、ビョルケンヘイム家の敷地内に建てられた別邸だ。アンドレが妻子と共に住んでいる一軒家で、普通の村落のものよりはマシな造りをしている。竈に薪をくべ、夕餉の支度を手伝う家主は、地主の旦那様とも言うべき若者の訪問を歓迎していたが、仮にも貴族の当主に向かってしてよい態度と対応ではなかった。向けられた方の現当主――仮にも伯爵――は、まるで気にも留めていない調子で言い返す。
「いやな……おまえたち夫婦を見て、私も少し参考にしたいのだ」
ようやく得心がいったアンドレは、
「私らなんぞよりも、
「父上と母上は……なんかもう熟年を超えて、老年夫婦という感じだからな」
短い言葉で意思疎通がかなうというよりも、身振りや手振りだけで互いに何を求め、何を望んでいるのかが分かるという、あの感じは、一朝一夕に習得できる類のものではないとわかる。
さらに言えば、自分の肉親を参考にするというのは面映ゆい以上に気恥ずかしいものだ。
あの戦争の折。
トーケルの父は、あのアインズ・ウール・ゴウンとの戦争……否、虐殺の処刑場において、運よく生き残った一人だ。あの時の超級の化け物――黒い肉塊の球体に無数の触手を生やし、五つの蹄で槍衾や騎馬隊を轢殺し尽くした仔山羊の声を奏でる存在――を前にして、トーケルの父は比較的まともな思考と行動力を有していたことも関係している。
ビョルケンヘイム家において先祖代々より行われている成人の儀によって、凡庸かつ実戦の経験のない貴族たちよりも、ビョルケンヘイムの男たちは、命の遣り取りというものを肌で感じ取る戦の感覚に優れている向きがあった。他の上級貴族たちのようなチャンバラごっこじみた剣術の稽古、戦術家気取りの机上展開図を通じてのチェスゲームなどでは体得できない、本物の戦いに身を置いたものにしかたどり着けない境地が、トーケルの父を死地から救ったのだ。
無論、これはビョルケンヘイムが優れているということの証左では、ない。
むしろ、成人の儀と称してのモンスター討伐など、推奨されるはずのない行為に違いない。
討伐対象となるのは凶暴かつ悪辣なモンスター。仮にも貴族家の当主となるべき若者が、血の継承をこそ重要視する国家体制下に存在するものたちが、間違っても相対してよい存在ではないはずだ。人間はモンスターに比べれば脆弱無比な生き物。いかに策を講じ、装備を整え、力と術と智を身に着けようと、両者の間には絶対的な、埋めようのない差というものが歴然として存在しているのだ。
その証拠として、ビョルケンヘイムの成人の儀は、すべてのものが無事にやり遂げて帰った歴史はない。
中には、次期当主となるべき若者が、その命を道半ばに散らせてきたのだ。
そんな一族の掟を五体満足にやり遂げ、おまけにギガントバジリスクという破格も破格な危険性に満ちたモンスターとの遭遇を果たし、あの漆黒の英雄たるアダマンタイト級冒険者の鬼神のごとき戦いぶりを知る青年は、戦争より帰還した父より家督を無事に譲り受け、名実ともに、ビョルケンヘイム卿として領内外に知られた存在と成り果てている。
「坊ちゃん、いや――旦那様も、そういう時期が来たわけですね」
しみじみと数度頷くアンドレ。
まぁそうだな、と軽く流すトーケルだが、内心は不安に満ちていた。
「父上の話だと……先方は我らと同じ下級貴族の娘で……悪い話は聞かないそうだが」
顔も声も知らぬ相手との縁談というのは、実に心苦しい。
せめて、一目だけでも会えれば良いのだが。
「大旦那様の見立てなら、きっと大丈夫だと思いますがね?」
私のお墨付きですと続ける男は、己の妻との出会いに思いを致す。
アンドレの嫁は、トーケルの父による口利きで知り合った女性だ。
屈強な戦士にしてレンジャーとしても優秀なお目付け役の男が、骨抜きになるほどベタ惚れしてしまうほどの美人……というほどではない。いや、アンドレがベタ惚れなのは事実だが。
可憐にして純朴な淑女。
夫の三歩後ろを歩む、慎み深い女性。
身内贔屓というわけではなく、ビョルケンヘイム領内では知らぬ者もいないおしどり夫婦として有名な二人だ。
アンドレは常々思う。妻との縁談を取り持ってくれた前ビョルケンヘイム卿であるトーケルの父には、感謝してもしきれないと。
「だがなぁ……」
木の椅子に腰かけ、子どものように背を預け揺らす青年は、この段に至っても尚、煮え切らない態度で虚空を眺めている。
何だか、かつての自分を見ているかのようで笑えてくる。
妻と巡り合う前のアンドレも、このような懊悩に耽っていたことが懐かしい。
とりあえず、アンドレは臣下の忠告というか、身内のお節介として、ひとつだけ確認しておく。
「ひょっとして、まだナーベさんのこと、引きずってます?」
「それはない」
言った本人も意外なことに、きっぱり即答していた。
トーケルは切々と思う。
「あの方たちは、自分などが割り込む余地など一切ない」
下級とはいえ、貴族にはあるまじき腰の低さだが、無理もない。
彼らの出会った“漆黒”という二人には、そうするだけの価値が、意義が、理が、ある。
あまりにも眩しく、だからこそ、この手に掴むことはかなわない――まるで空に輝く太陽のように、遠い存在だ。
当時の自分はまったく愚かだった。あれほどの方々に憧れ、嫉妬し、羨望し、あまつさえあれほどの御仁と対抗しようとしていたなどと。
「あの魔導王、アインズ・ウール・ゴウン陛下に協力しているというのも、きっとエ・ランテルの人々を思ってのことだろう。私には判るぞ、あの方たちの高潔さは、けっして揺らぐはずがない」
そうだろうと同意を求めれば、アンドレもまた頷きを返した。
ギガントバジリスクという、並の冒険者では手も足も出ない最悪な石化能力を保持するモンスターを、双つの大剣、漆黒の全身鎧のみで討伐し果せた偉丈夫は、ひとえに街に災厄が降りかかることを恐れ、そこに住まう無辜の人々が傷つくことを憂えていた。
王国はどうにも冒険者“漆黒”の二人に裏切られたという意見が大勢を占めているようだが、トーケルたちのような下級の辺境貴族には関係ない。むしろエ・ランテルは“漆黒”が存在しているおかげで、平和的に統治されているとも聞いている。彼らは長い目で見れば、人々の益となっていることは確実な事実。
いっそのこと、お二人のもとへ馳せ参じ、何か助力ができればとも思い焦がれているが、しかし、貴族は貴族として、やるべきことが山とある。
民から徴収した税収管理、領土内の治安維持と整備事業、治水工事のための夫役の調達、戦争で亡くなった(他の領地に比べれば圧倒的に少ないが)領民たちへの弔問と見舞金――加えて、トーケル自身の縁談の話まで。
とてもではないが、成人の儀の時と同じく着の身着のまま、エ・ランテルに赴くような猶予など身体を逆さに振ってもありはしないのだ。
トーケルは儘ならぬ身の上で、あの二人の武運長久を、切実に祈る。
「引きずっていないというのは御立派なことです。本当に、モモンさんたちと出会われてから、めきめきとご成長されている」
「それはつまり、モモン殿たちに出会う前はガキンチョの若造だったと?」
「いやぁ、ハハ……それで、いい夫婦とは――でしたっけ?」
アンドレは話を元に戻す形で、主人からの詰問を受け流す。
受け流されたトーケルは別段不満を抱くでもなく、鷹揚に頷いてみせた。
「結論から申しますと、そんなものはわかりかねます」
「え……何故だ? おまえのことだから「愛さえあれば」とか、「二人の絆が」とか、そんな感じのことを言いそうなものだと思っていたが」
「まぁ、それもいい夫婦の条件でしょうけど、夫婦というものはそこまで簡単じゃありません。互いに尊重するところは尊重し、尊敬するべき時には尊敬し、逆に駄目だと思ったことは駄目だとはっきり言っておく。無論、ある程度の歩み寄りや我慢は必須ですよ? 忍耐強さというのも、結婚生活には要求されますので」
「……本当に意外だ。おまえが奥方に駄目と言うことが? というか、我慢することもあったのか?」
「そりゃあ、人間ですから。何もかもが型通りにはまり込むなんてことはあり得ませんよ。そこは覚えておくべきでしょうね」
人生の先輩として、後輩に訓示を施し続けるアンドレは、いじわるな笑みを浮かべて言い終えた。
「なんか……聞くたびに結婚というものが怖くなってくるぞ?」
「そりゃ、まがりなりにも一家の大黒柱を背負って立つんです。私の場合は、妻と子供の命を預かるわけですから、そりゃおっかないですよ」
けれど、
「少なくとも私は、結婚してよかったと思ってますよ?」
言ってアンドレは、台所からリビングの方へと視線を移す。
小さな子をあやす細君が、柔らかな笑みを浮かべて、夫の視線を受け止めてくれた。
「……幸せな奴め」
妬むように、嫉むように、トーケルは二人の甘いひと時に水を差す。
「さぁさ、晩御飯の時間です。お皿の準備くらいは、手伝ってくださいますよね?」
年下の弟のような存在とはいえ、主人をこき使う臣の態度に、トーケルは我慢するように、だが悪くない気分で応と答える。
数日後、トーケルは一人の女性と巡り合った。
下級貴族同士とは言え、縁談の場までもが質素では味気ない。
ビョルケンヘイムの屋敷はアンドレをはじめ、領内の有志たちによって、見事な立食パーティーの、ついでとばかりに領民らの祭りにまで発展していた。
無論、両家ともに不満などない。トーケルの側は勿論だが、相手の貴族家もまた、そこまで領民らと壁を築いた関係ではないことの証だ。
トーケルは、縁談の場に咲く一輪の花を見つめる。
そこには強い意志が感じ取られた。
「は……はじめまして!」
緊張に上ずった声は、かつて美しき姫の前に立った自分を思い起こされる。
いい娘なのだなと、彼は勝手に確信してしまうが、これは盲目的な恋の業ではない。
かつて初恋の時になした失敗と後悔の数々を、思い出の宝箱から取り出すように、今ある自分を厳しく律する。
誇るように。
唱えるように。
精一杯の虚勢を捨て、
あるがままの自分も捨てて、
敬意と愛情をこめて、挨拶を交わす。
「はじめまして。私は、トーケル・カラン・デイル・ビョルケンヘイム」
どうか、末永いお付き合いを。