15 家族の風景
「おはよう。コウ君。」
玄関で座り、脱いだ靴の方向を揃えながら後ろ向きで広大をみて塚原は微笑んだ。
上着のブラウンのコートを脱ぎ、小脇に抱えて。
「・・・響姉・・俺が言うのもなんだけど今の時間言う言葉かなそれ?」
うんざりしたような口調で広大がそう言うと塚原はくくっと笑い、
「行儀悪いよコウ君。家の中ではその帽子をとりなさい。似合ってるけどね」
「・・・。」
無言で広大はこの日の為に買ったハンチングキャップを取る。すると明後日の方向に向かったアホ毛が広大に遠慮もせずうねった。無理に整えたと丸解りな今日この日の為の正装もアホ毛と相まって滑稽である。
「・・・ぷ。」
「・・時間をください。」
「ふふふ・・大丈夫。お母さんもおばさんも久しぶりに会って話しこんでるみたいだから・・ね?ゆっくり整えてきなよ。・・折角似合っているんだからちゃんと着てあげないと服が可哀そうよ?」
「似合ってる?」
「うん。その寝ぼけ眼と寝ぐせと穴のあいた靴下さえ着てなければ、ね?」
「う・・。了解・・。」
「ま、昨日は色々大変だったから疲れていて当然だよね。」
そう言う本人は広大よりもさらに遅い時間に帰った人間である。その慰めは逆に広大を情けなくさせる。この差は何なのか。結構長い時間一緒に居るのになかなか見せてくれない。
見せっぱなしの広大と。
あくまで隙のない塚原。
そんな状況に苦虫を噛みながらも今広大の目に映る塚原は相変わらず美しい。
こげ茶色の革の手袋から出てきた細く形のいい両手の指が床でしなる。
両手を後ろについたてにして杉内家の玄関を懐かしそうに塚原は見まわした。
―変わらないなぁ。
と、今にも言いだしそうだった。
この場所は昔と変わらない。今はただ大きくなった二人がいるだけだ。
あと・・足りないものがあるとするなら塚原の膝の上に寝そべる杉内家の愛猫―クロがいないくらいだろうか。広大は記憶を反芻しつつ今の塚原を見る。
「・・・。はい!ぼ~っとしてないでそろそろ身支度に行く!おばさんが怒っちゃうよ?コウ君?」
「・・は~い。」
同時刻―
吉備東高校、来賓用駐車場にて
「よし・・大体の作業は終わったみたいだな。ご苦労さん!」
「おー!守衛さんも今日は早く奥さんとこ帰ってやれよ?クリスマスなんだからな?」
「いやいや・・もうクリスマスを祝う様な歳柄じゃねぇよ。」
創設祭の資材搬入、搬出を行った業者の若い男は白い軽トラから顔を出しながら毎年創設祭で顔を合わせている旧知の間柄である守衛をからかった。
「そういや・・毎年ここで搬入作業してる時にいっつもいたあの猫はどうしたよ。守衛さんにすげぇ懐いてたあの黒猫。今年は見なかったからよ。」
「あぁ・・プーな・・。居なくなっちまったよ。ついこの前な。」
「・・お。そうだったんか。・・すまねぇ。」
「気にすんな。それよりお前も気をつけて帰れよ?クリスマスを祝うガラだったらよっぽどお前の方じゃねぇのかい。娘さんまだ小学生なんだろ?」
「いんや・・もう十歳にもなるとな・・難しい年頃でよう。女房の話だと好きな奴が出来たんだとさ~」
「そっか、そりゃ父親として切ねぇなぁ・・まぁ今日ぐらい父親してやんな。」
「・・おお。また来年な。」
守衛は資材トラックの最後の一台を見送り、鍵の束をチャラチャラ鳴らしながら守衛室に戻ろうとした。
彼こそが唯一プーが気を許していた男性―吉備東高校の守衛をプーが来る前から務めあげている大ベテランの守衛だ。長期休暇中や臨時休校の際に生徒が見れないプーの面倒を主に見ていたのが彼である。
もともとそこまで彼自身は猫は好きではなかったが過去、「あの」卒業生に押し切られ、渋々プーの面倒を見始めてからは家でも猫を飼うぐらいの猫好きになっている。
立場上特に大きな異動もない彼はプーの面倒を見る人間としては都合が良かった。それでも彼は別に血の通わない機械を相手にしていたわけではない。
長く世話すれば情も湧く。考えている事、してもらいたいことぐらいは解るようになる。
そして最低限守ってほしい事を躾けるぐらいは出来る。あの猫とは心も通っていた。心からそう思っている。実質的に言うならばプーの「飼い主」として最も相応しい人間は彼だろう。
でも
―はぁ・・今年でそれも終わりだ。色々な節目の時だったな。この年末は。
・・「あの」卒業生も来た。何と結婚するとか。物好きな男もいるものだ。苦労するぜ恐らくその男は。
プーが居なくなった事は先に「誰か」から聞いていたらしい。落ち込んでいるのかと思ったら意外にも何処かすっきりした顔をしてやがった。
「これからも後輩たちの事をよろしくお願いします」と、深々と頭を下げてさっさと行っちまった。相変わらず図々しい。
プーが居なくなったと思ったら今度は後輩の事を頼むってか?そんなのはな?言われるまでもねぇんだよ。俺は守衛だ。
なぁ?・・・プーよ?
チリン・・
「・・ん?」
―まさか・・。
・・・
「・・・。へっ。」
―老年に差しかかって耳がボケてきたのかねぇ・・。
そう思うとへらへらと笑いがでる。守衛室の鍵を閉め、鍵の束をチャラチャラと鳴らす。
長年この音に混じって聞こえていたあの鈴の音はもう聞こえない。
―多分さっき聞いたあの幻聴が最後だろうな。もう聞く事はねぇだろうがよ・・。
老いた守衛はその場を後にする。
・・チリン
チリンチリン・・
上品な鈴の音色が響き、扉が開いた先にはその音色に相応しい身なりの整った男性ウェイターが深々と頭を下げて一行を迎いいれる。
「・・いらっしゃいませ。」
「予約していた杉内です。」
「お待ちしておりました。お連れ様お二人が後ほど来られるとお伺いしておりますが御変りはないでしょうか。」
「うん。私達四人で先に飲んどくわ。」
「かしこまりました。ご案内いたします。」
―恐ろしい。
広大は心底こう思った。こんな所自腹だったら一体どれ程持って行かれたのだろうか。避けられた最悪の結末を想像し、安堵と共に冷や汗が背中を伝う。
やれやれとハンチングを脱いで顔を仰ぐ。そして不意にそのハンチングを見つめた。
―・・・?
「広大、響ちゃん?二人共ビールでいいわね。」
「うん。」
「はい。」
「・・・。」
「・・・。」
はっ!?
「おばさん!?」
「ちょっと待て!」
―やばい。あまりにも自然な状況誘導に思わず相槌うっちまった。
「・・・何よ?」
一瞬かなり小さい舌打ちが聞こえた。本人は上手く隠したつもりだろうがバレバレである。
「『何よ?』じゃねぇよ。未成年だから。俺ら二人。」
息子の真っ当な主張に殊更母親は嫌な顔をし―
「えぇ~!?あんたら飲まない気なの?折角の響ちゃんの合格記念なのに・・。どう響ちゃん?どーせ大学入ったら飲む事も増えるんだからさ?だから・・一杯いっとく?」
と、一気にのたまった。
「おばさん・・ダメですよ。そこはちゃんとしないと。と、いうより万が一ばれたら私の合格取り消しものです。」
「えーいいじゃん。カタイこといいっこなしでさぁ。」
何が「いい」と言うのか。
「ダメです。ソフトドリンクをお願いします。」
合格記念の場でハメ外し過ぎて飲酒→結果合格取り消し。有り得ない話じゃないからマジ注意しよう。受験生の諸君。
―・・何となく響姉が森島先輩の対処に優れている訳が解った気がする。その要因がよりによってウチの母とは・・。鮮やかな土下座をしてぇ。父さんが来たら一緒にしようかな本当に。
「ぶー。私がアンタ達ぐらいの頃は・・普通にくぴくぴ飲んでたけどな・・。」
―ひえ。さらっと怖い事を言う。「キャリア」が聞いてあきれるぜ。
「響香おばさん・・。おばさんもウチのバカ母に何とか言ってあげて下さいよ・・。」
「・・ごめんなさい・・。コウ君・・」
「え?」
「・・私も飲んでたの。博(ヒロ)と一緒に。むしろあの頃は私の方が量飲んでたかも・・」
「う・・嘘だろ?響香おばさん?嘘と言って?」
「お、お母さん?」
塚原母―響香は今塚原娘―響を見られない。「こんな母さんを許して・・許しとくれ!」的に眼を逸らしている。
広大は母―博子(ひろこ)を見た。
そこには
―ふふん。
してやったりの広大母の顔が。塚原家の親娘はどうやら博子や森島 はるかのようなトラブルメーカーに縁のある血筋らしい。
「では・・旦那どもが来る前に一足先に、と―」
二人の母はグラスに注がれたビールを。子供二人はノンアルコールのシャンパン二つを傾かせる。
カチンと心地よい音が鳴る。
「響ちゃん。大学合格改めておめでとう。おばさん鼻が高いわ。ウチのどら息子二人には期待できない偉業だもんね。」
「ひどいですよ。おばさん。」
「・・今からでも取り換えっこしたいぐらいだもの。どう?響香?ウチの広大と響ちゃんしばらく交換しない?」
・・交換も何かの貸し借りも一切したくないタイプの人間だと広大は自分の母を評価している。借りパクぐらい平気でやらかすタイプだ。
「・・。私はいいわよ?コウ君がいいなら。」
「え」
―・・相変わらず大ボケだなぁ。響香おばさん。・・ちょっと嬉しいけど。
「ついでにダンナもとりかえましょうか。あははは♪」
―腐ってやがる・・酒で上がりすぎたんだ。
「ペース早いわよ博・・まだお父さん達来てないのに。」
「やい!響香!アタシはね、ほ~んとに嬉しいんだから?」
母博子、既に出来上がる。「今年のクリスマスは妙に酔っ払いに縁があるな」と広大は思った。
「アタシも欲しかったのよ!女の子が!ホントに!でもぽこぽこ生まれたのはヤンチャな兄とこのぽーっとした弟!結局オス二匹!これが飲まずに居られるかってよ!!」
「ひ、博!」
「そらぁ・・こいつらも可愛いわよ?頼りなくて頭悪くて、顔もイマイチだけど!こいつら私の子供の割にはちょっと顔があっさりしすぎてんのよね~~好みじゃないわ~~」
―・・ひでぇ。「可愛い」が全くフォローになってねぇ。
ここまではいつもの広大母だった。・・あくまでここまでは。
「・・それでも成長していくたびに思うワケよ。うちの旦那に似てきたなー、とか、ああ、コイツこういうトコあるんだーとかそれこそ恋する乙女が気になう(る)男子の一挙手一投足をガン見したり、ストーカーしたいぐらいのわくわくした気持ちでね。・・楽しかったわよそれは?・・正直。」
―・・・。母さん?
「だけどやっぱり欲しくなるのよ~。ヒトってないものねだりしちゃうのよ。目に入れても痛くない可愛いお人形さんみたいな娘が日々成長して、少しずつ女の子になって、綺麗な大人のオンナに変わるとこがね~。今の響ちゃんみたいに・・だからホント嬉しいのよ~。・・ごめんねなんか滅茶苦茶で・・響ぢゃ~ん。」
「・・おばさん。」
「・・博子。貴方も大概贅沢だと思うわよ。こんな立派で健康な男の子二人も生めたんだから。私に言わせれば正直嫌味に聞こえるぐらいなんだから・・。」
「・・響香ぁ・・。」
「ま。・・羨ましい者同士乾杯しましょ。どちらも満たされながらも満たされなかった所を嫌味にして言い合って、自慢して・・これって最っ高の贅沢だと思わない?」
「・・ヴん。」
傍で聞いているそれぞれの息子、娘には何ともむずがゆくて、こそばゆい、居心地の悪くなるような・・親バカのノロケ話。二人の母のホンネ。全く異なる「家族の風景」を描いた二人の母の本音。
「・・私達お邪魔かしらね。コウ君」
「・・話のネタにされるのは癪だけど・・今日は気分いいや。好きにさせとこうか。」
「そうね。じゃ・・私達は私達で・・。」
「うん。」
「乾杯」とも言わず無言でグラスを傾ける。照れて紅潮した響の表情が久しぶりに幼く見えて広大は嬉しかった。
―そうだよな。俺達子供だもんな。この二人の。今日は「子供」で居よう。
そうすれば次々出てくるはずだ。深く考えなくても、計算も打算も一切なしの混じりッ気なしの家族の会話が。
クリスマスの夜が更けていく。
一時間後には両家の父親二人も登場し、場はさらに盛り上がった。
懐かしい感触。懐かしい匂い。取り戻した。
「あの頃」を。
変わっていった。進む時の中で。自らも離れていった。
この「場所」を。
でも
「取り戻した」・・?
それはおかしい。あり得ない。
時間が戻ることなど、無い。「取り戻した」、「あの頃に戻った」。それは錯覚である。
変わっている。流れている。あまりにも多くの時間。そして積み重ねた物が多すぎる。
その中でどうしても無くなっていく物も、取り戻せない物も生まれる。広大の思いとは裏腹に。
しかしそれは嘆くべきことではない。人は前を見るのだ。先を見るのだ。
彼の目の前の広大の母も響香も前を見る。
どちらも本当の子供のように可愛がったお互いの親友の子供を時に笑い、泣きながら見送って。
塚原も前を見る。残す者、残される場所を巣立って前へ。
なら今のこの場所はあくまで過去を思い出し、懐かしむ場であり、戻る場所では決してない。
・・タイムマシーンというものはない。
その中で一人広大は過去を見る。「戻れない」とは解りつつも。
戻りたくないから。このどこでもあるこの家族の風景から。
大きくなった体を精一杯小さくして、この日の為に買ったおろしたての服がぶかぶかになるように。座った椅子の足が届かなくなるように。足をぶらつかせられるぐらいに。
「大きくなったな広大君。」
響の父、春樹の言葉もあの頃に置き換える。
―そうでしょ。おじさん。ぼくもっともっと大きくなるよ。
と。
前が見えないほどオーバーサイズな帽子。ぶかぶかの服を着た手。
まともにフォークも握れない。
だから時々落としてしまう・・
キィイイイン・・
高い音を放って落ちたフォークはしばし床で鳴動したのち止まる。そのショックにその場に居た全員がハッとする。
「コウ君!?」
「大丈夫?コウ君?」
「何やってんのアンタ?」
「あ・・れ・・?」
戻っている。手も。声も。
足もちゃんと床に着く。
「・・大丈夫コウ君?」
迎いに座った響も心配そうに広大を見た。
「あ。うん。」
「そう?びっくりした・・。」
「ゴメン。」
「ううん。気にしないで。店員さん呼ぶね。フォーク変えてもらわないと・・。」
「ありがとう。」
そう言って広大は床に落ちたフォークに手を伸ばす。悠々と届く。
当然だ。そんなに背は高いほうで無くてもこれぐらいの事は出来る。
広大は苦笑する。とり落としたフォークに触れた途端感じる。その冷たさに。
あぁ目が覚めた。完全に。
12月25日。クリスマスの日。
遅まきながらようやく広大は目が覚めた。ハッキリと。
今最も新しい「時」に漸く広大は目覚めた。今の自分に。ここまで来た自分に。ようやく。顔を下げると今度は被っていた帽子が落ちる。
―・・・。
今この時に追いついた広大の心の中にはそれを見てはっきりと思い浮かぶ記憶があった。
前日から切り離したように消えていた記憶。
新しすぎて、
まぶしすぎて、
小さな頃の自分にはない記憶。小さな体のままでは背負いきれない記憶。最も新しくも、何故かさっきまで失われていた記憶達。
そこに一人の少女がいた。微笑んでいた。
―・・七咲。
広大は拾いあげた帽子を深くかぶり直す。
「・・コウ君?」
―ありがとう七咲。
謝罪と感謝を含ませて心の中でそう呟いて広大は響を見る。
「なんか昔思い出すね。いつもこんな粗相した記憶が・・。」
―はは。「粗相すんな」って言われてたのにな・・。
広大が思い出を振り返る際のいつもの表情とは違った。今は青年の顔をしていた。少し気恥ずかしそうに笑っている。失敗を誤魔化すような悪戯な笑みではなく、「過去」の自分をほんの少しだけ恥じているような・・そんな表情。
「・・・。」
塚原が言葉を失うほどだった。
そして広大はそろそろ二十四時間が経過しようとしている昨夜の七咲とのやり取りを振り返る。
いや、初めて「向きあった」と言った方がいいだろうか。だが打ち消すように自嘲した笑みを浮かべた。
―まさか。ね・・。
そう思いながらも消えてくれない喉の奥に刺さったトゲのような感触を払拭できずにいた。
断章 二つのコウイ
―クロが居なくなっちゃたよう・・。
―大丈夫よ。コウ君。
―そんな事言ってさっきからずっと見つからないじゃないか!ひびき姉の嘘つき!
―コウ君・・。
―ひびき姉はいっつもそうだ!どうしようもない事になると「大丈夫」としかいわないもん!
―・・。
―それで兄ちゃんに泣きついて俺を叱ってもらう気なんだろ?わかってるんだからな!
―・・。
そう。
私は何時もそうだった。
塚原 響
広大より一つ年上の女の子。
「年上のおねぇちゃんという自覚から広大を本当の姉のように面倒をよく見た」
「世話好きでしっかりしていて年の割に大人びている」
そう・・「思わせた」。そう「思ってもらいたかった」。
杉内 広軌 すぎうち こうき
広大の七つ離れた実の兄であり、去年結婚して実家を既にでている。
・・塚原 響の十年来の想い人。
女の子というものは男の子より基本的に精神的に早熟である。
―お。今日も来てくれたんだな。広大の事色々ありがとな。ひびきちゃん。
―ん!?広大がそんなことひびきちゃんに言ったのか!?解った!俺が叱っとく!
幼少時より時々現れては本当の兄のように振舞ってくれる杉内家の少年―杉内 広大の兄である広軌―彼が気になって仕方なかった。
積み重なった想いは・・現在の広大の塚原への想いと同じように成長と同時に変化する。彼女が小4前後の時には既に広軌に対する自分の気持ちを完全に理解していた。
紛れもなく恋心だ。
幼い女の子の可愛いちょっとした恋に対する憧れの結果の産物ではない。
六つの歳の差。
「何だ大したことは無い差だ」。と、思うかもしれないがそれは大人の感覚である。
例えば26歳と20歳とするならば全くと言っていいほど違和感が無いように思える。
だがこれが16歳と10歳なら?これは遠い。
10歳の女の子側は自分の成長にかなりやきもきする筈だ。悲しい事だが釣り合いというものは色んな意味で最低限必要不可欠であると言える。
性的対象として16歳の少年が10歳の少女を見る事は中々に厳しい。それよりも同年代の少女と女性の過渡期にある身近な少女に目が行く方が自然である。
さらに残念な事に塚原は気がそこまで強い子ではない。芯はあるが大胆さは無い。
歳の差を気にせず、立場を考えず、相手の戸惑いや都合も考えない告白が出来る度胸は無い。
伝えれば「待ってくれる」可能性は広軌の性格からして全くの零では無かっただけに。
彼女にはひたすら自分の成長が広軌に釣り合うまで祈ることしか出来なかった。
そうしてようやく彼女が自分なりに「追いついた」と考えた時に知らせは来た。
高卒後、就職した先の職場の女性と広軌が婚約したという知らせである。
広軌23歳、響17歳。
少なくとも一人の「女性」として見てもらう事が出来る可能性は大いにあった。
その矢先の出来事である。彼の結婚式の二次会に呼ばれたが響は虚偽の体調不良を訴えて辞退した。生まれて初めてのズル休み。あまりにも悲しい初恋の終わり。
生まれて初めて好きになった人の幸福を「おめでとう」と祝う事も出来なかった。
失意の中でもそんな塚原の人生は続く。自分が積み重ねた「塚原 響」は紛れもない自分。
「しっかりして頼れるおねぇさん的存在」。例えそこの根本にあるものがどういう理由だったとしても。埋めようのない幼さと立場を自分なりに曲げようとあがいた末の自分が到達した存在。
そこで彼女は再会する。成長した初恋の相手の弟―広大に。
大きくなった。いつの間にか。
広大の自分に対する好意に彼女は気付いていた。
ずっと昔から。
だが応える事は難しかった。
何せ負い目があった。本当に申し訳なく思っている。
―私はコウ君を利用していた。
歳の離れた「あの人」に、広軌さんに近付きたかった。埋めようのない距離と時間の差のある彼に。歳の差を埋めるために必死で背伸びした。
「年の割に大人びてて面倒見が良い」。
彼の弟をかいがいしく世話をすることで彼女なりの必死の背伸びを広軌に見せつけようとした。
子供らしいが彼女なりに本気だった。でも全て無駄だった。無駄になった。
もともと意味など無かったのかもしれない。彼女の中で生きてきた情動を誰にもさらすことなく彼女は自分の中で自己完結した。彼女に残ったのは彼の弟の自分に対する好意と自分がしでかした行為に対する拭いがたい罪悪感だった。広大の自分に対する好意、感謝、憧憬が辛かった。
そして何よりもこの事実が塚原を苦しめる。
日に日に兄―広軌との共通点を弟である広大から認め、無意識に探し、そして惹かれているという事実に。
決して似ていない兄弟ではない。もともと兄弟だけあって表情や背格好はよく似ている。
性格も一時期荒れた兄に比べて弟は大人しい、一見全く異なるように見えるが塚原には解っている。やはり広大にも忙しい両親に対しての押し隠した不満があった。兄に比べておっとりしているように見えていざ激昂した時の広大は兄と同じように攻撃的な一面も垣間見える時もあった。
そこを埋めた一端が塚原だった。皮肉にも広大と年の近い塚原の、価値観の近い彼女のおかげで結果兄とは真逆ともとれるような性格に弟広大は落ち着いた。
塚原はこう思ってしまう時がある。
塚原は広大を自分の都合のいいように矯正してしまったのではないかと。いざという時の「変わり」にしたのではないか?
歳も近く、自分を好きになってくれるうえ、好きだった人の姿に良く似た代替え品として―
広大に惹かれていくうちにそう考えてしまうようになった。
客観的に見れば傲慢な考え方ともとれるだろう。一人の人間が一人の人間に与える影響がその人間の全てを左右するのではないかと考えるのは傲慢に等しい。
影響力が強かったのは確か。でもそれでも塚原を想い人にしたのは広大の紛れもない彼の意志である。しかし、それでも塚原は自分の行為を許容する事が出来なかった。そしてハッキリと新しく生まれた広大に対する好意を表す事も出来ず、彼の好意に真正面から受け止める事も出来なかった。
―完全な静寂だった。賑やかだった前日―創設祭の時とは打って変わって。
私は静かな場所が好きだ。だからここはお気に入り。誰にも邪魔されず、プーや塚原先輩と過ごしたこの場所。悩み、不安、その他の私の負の感情を洗い流してくれる場所だ。
おまけに辛い事を洗い流すだけでなく、時に受け入れ、自分の考えを冷静にまとめる事の出来る場でもある。
「ここ」は紛れもない私の居場所だった。
でも・・あの日から。
ヘンな人がココに居座った。
最初は不愉快で不快だった。
私からこの場所だけでなく塚原先輩やプーも奪おうとしている天敵。まるで外来種みたいな人だった。その場に存在する価値観を別の場所から来て根底から変えてしまうような。
と、
言っても別に大したことはしてないんだけどね。大げさかな?
でも・・そのヘンな人は私を変えてしまった。紛れもなく根底から。確実に。
ここに居座ったヘンな人は私の心の中にも居座ってしまった。
何もかもが新しくて感じた事のない感情達をあの人は私にくれた。
ほんの少し前の自分なら何処かバカにして笑い飛ばしていたような事達が今はただただ愛おしい。
「ふぅ・・」
冷たく白い床の上で暗くなった空と星を眺めながらクスリと笑う。
壁に背中を預け、足を投げ出し、力ない呼吸が白く光る。
もう何時間この場所にいただろうか?
もともと約束など無いようなもの。
実は誰も待っていないようなもの。
何を期待しているの?
何を欲しがっているの?
あの人は塚原先輩が好きなのだ。
私なんかよりずっと長く傍に居て、今も、そしてこれからもずっと塚原先輩を想っていくはずなんだ。
・・それが嫌なの?
「欲しい」と思ってしまったの?
なら伝えればよかったじゃない。
あの時に。あんなにハッキリしない言葉でごまかして、意地を張らずに。
結局のところ・・私は先輩の事なんて全く理解ってなかったんだ。
でも今なら少し解る。
想いを断ち切れない事が、想いを伝えられない事が、想いが届かない事が、受け入れられない事がどれだけ怖くて、切なくて苦しいかを。
―「これが」怖かったんですね?先輩。
ポケットに仕舞い込んだ左手を胸の前に置き、目を閉じる。
痛い。苦しい。切ない。
―本当にどうしようもない感情なんですね・・。「コレ」。
左手だけでは抑えきれない感情を抑えるため七咲は膝を抱え、自らを全て抱くようにギュッと握りしめた。
数時間後―
積もり始めた根雪に小さな足跡を残し、少女はその場所から消えていた。
「音も無く」。
16 さよなら はじめまして
「降ってきたね・・。」
「うん。予報じゃあ積もるみたいだって・・。」
マフラーで口元を覆い隠したまま塚原はそう言った。
街路樹は見事なほどライトアップされ、今年最後の晴れ舞台を彩っている。
その下を広大と塚原は歩く。飮み直しに向かった両親たちと別れ、広大は塚原を家に送る役目を担った。
「・・・。」
別れる手前、母は無言で広大の膝を蹴り、酔った赤い顔を少し真面目な顔にして見送ってくれた。
―チャンスやるからアンタなりのケジメをつけなさい。
と、いうことなのだろう。
「響姉。」
「うん?」
「ちょっと座らない?」
「・・うん。いいよ。」
街路樹のレストスペースに丁度よく空いたプラットフォームベンチに腰掛ける。
やはりイヴに比べると人が少ない。日をまたげば26日、クリスマスという年に一度の非日常が日常に変わる直前の魔法が解けるようなこの時間にこのような場所で過ごすのはイヴに比べるとやはり抵抗があるのだろうか。
「用意いいのね。コウ君。」
広大の広げた傘の大きさを見渡して塚原はそう言った。
「父さんが渡してくれた。万が一雪で電車が止まるような事があったらこれ使って歩いてでも帰るつもりだったって。」
「・・・おじさん楽しみにしてくれてたんだね。」
「うん。響姉に会うの凄く楽しみにしてた。母さんと違ってあんまり口数が多い方じゃないから解りにくいけどね。」
「そうなの?嬉しいな。私も今日は会えて嬉しかった。」
「伝えとくよ。多分飛び上がって喜ぶんじゃないかな。」
「うん。でね?私・・・コウ君にも伝えたい事があるの。」
「え・・。」
「うん。」
「俺に・・?響姉が・・?」
「今から多分・・私は変な事を言うと思う・・。でもしっかり聞いてね?」
「・・うん」
「今日・・『広大君』に会えて嬉しかった。そして・・さよならコウ君。」
「・・!?」
塚原が前もって言った通り、正直意味が解らなかった。
しかし塚原は笑っていた。自分が伝えた言葉の意味不明さもすべて承知の上での優しい微笑み。
「響姉・・・?」
「・・・。」
「俺・・響姉が何を言いたいか解らないよ。」
「クスッ。」
・・約十一年前―
吉備東公園にて
―コウ君。
―響姉・・いい加減「コウ君」って止めてよ。俺の名前は「コウダイ」なんだぞ?
―え?なんで?カワイイ呼び方じゃない?
―だからそれが嫌なんだって・・何か・・カワイイって言われるのが・・。
―うーん・・でもなぁ・・「コウ君」に馴れちゃってるし、「コウ君」は「コウ君」だし・・。皆もこう呼んでるでしょ?
「こうこうこうこう」・・。嫌がらせか。
―~~・・。響姉にそう言われるのが嫌なんだよ・・。
―・・・。ねぇコウ君。コウ君の名前の「こう大」ってどんな字だと思う?
―・・じ?
―うん。私ね?今年から学校に行ってるから一杯字を教えてもらってるんだ。
―ぢ???
―そ。『漢字』っていうのも最近習ってるんだ。それでね?最近コウ君の字も習ったの。
―???
―見てて。
塚原は小さな木の棒を取り、小学一年生にしては整った綺麗な字を書いた。
「こう大」
「広」は通常小二の学習漢字のため解らず、ひらがなで書かれている。
―コウ・・何これ?
当時の広大はひらがなは一部を除き、どうにか読める。
―『こうだい』って読むの。これがコウ君の名前を字にしたものよ。
―・・ふーん。
―この「大」って言う字はね?「大きい」って言う意味なの。テレビのロボットとか・・怪獣とかの「大きい」。解るよね
―うん・・。
―コウ君立って?
―え?
―・・ほら。コウ君どう?
―・・響姉よりちっちゃい・・。
小学生、幼稚園児の時点での平均身長は女の子の方が高い。
―そう!だからねコウ君?コウ君はおっきくならないといけないの。私よりもお母さんよりも。
小さく甘えん坊の末っ子の広大に自分の小ささを自覚させるために広大の母は敢えて「コウ君」と呼び続けていた。どうしても男の子がカッコイイとは感じにくい軽い響きのその呼び方を。
それを父、兄、そして交流の深い塚原家にまで完全に浸透、徹底させた。
もともと反骨心をもって向かってくるように仕向けるのが広大の母の子育ての基本方針である。
いずれこの呼び方をされるのが嫌になる日が来る。
嫌なら早く大きくなって、男らしくなって広「大」に相応しい男になりな?と、いう愛情だった。
(広大の母の性格上、実の息子に対するからかいとおちょくりを含んでいたのも恐らくまた事実ではある。)
―・・。コウ君はまだまだちっさいし、「コウ君」でいいんじゃないかな。やっぱり可愛い呼び方だと思うし。
―やだ・・。
―うーん。じゃあ今のコウ君に合った名前は何かなぁ・・?あ!
―・・?
―そう言えば・・この「大」っていう漢字と一緒にこんな漢字も習ったんだよ。
そういって再び響は木の枝でガリガリと地面を掻いた。
―小と。
―これは・・?
―「ショウ」。「コ」とも読めるよ。
―しょう・・?こ?
―うん。「ちいさい」っていう意味。鼠とか、子猫とか、ハムスターとかのね・・。
片やロボット、怪獣。片や鼠、ハムスター。何とも分かりやすい対比。
―・・・。
―今のコウ君にはこっちのがピッタシだね。
―・・。
―だから・・コウショウ君、もしくはコウコ君・・になるかな?ふふ・・コウコ君だったらむしろ「コウちゃん」の方がいいかな・・?
片や調味料、片や女の子。選択の幅が無い上、選択肢が酷過ぎる。
―・・・もうコウ君でいいよぉ・・。
―そう?カワイイ名前なのに。コウ子ちゃん?
―あーもう!今はコウ君でイイって言ってるの!
―ふふふ・・コウ君・・早く大きくなってね?早く私を追いぬいてカッコイイ男の子になって?そしたらコウ君を「こう大君」って呼んであげるから・・。
「・・そんなことあったっけ?」
「うん今でも鮮明に思い出せるよ。」
「・・という事は・・喜んでいいのかな。」
「うん。広大君。」
何処となく恥ずかしい瞬間だった。止めがたい喜びもあった。
だけど・・それをはるかに凌駕する寂しさが急に広大の背筋を駆け抜ける。うすら寒いほどの。
その正体に広大はまだ気付けない。
「・・・。広大君・・?」
「ん・・?」
「・・率直に聞くね。」
「!」
一気に不安が駆け抜ける。
「私の事・・好き?」
―・・・!!
眉間に大きな皺が寄る。さぞかし今自分は沈痛な顔をしているだろうと広大は思った。
広大は頷くしか出来なかった。
「そう。」
「・・・。」
言葉が出ない。
「広大君・・私の名前を呼んでくれる?」
「・・・?」
「いいから・・呼んでみて・・。」
「・・・響―」
「・・・。」
「・・・姉。」
「・・ありがとう。」
一瞬両眼を深く閉じ、少し広大を見上げながら響は満面の笑みでほほ笑んだ。
広大以外の人間が見たなら大抵の人間はこの笑顔の意味を履き違えるだろう。
―・・そう私は「響姉」。コウ君の・・おねぇさんだった女の子。
「私も広大君が好きです。心から。」
「響姉。」
―もう・・言わないで。お願いだから。
「本当に、本当に大きくなったね。広大君。」
その言葉と同時に塚原は広大の両頬に両掌を添え、コツンと額をぶつける。
その表情を広大は見る事が出来ない。
「・・。」
「カッコよくなって・・・。大きくなって・・」
「やめて・・。」
―嫌だ。嫌だ!
「・・泣かないの。」
「響姉・・。」
「もう大丈夫なの。ね?広大君?」
―嫌だよ。俺は・・・。まだ・・。
「・・もう私がいなくても貴方は大丈夫。それはあなた自身が解ってるはず。・・いつも私の前で見せていた『コウ君』はもう私の手の届かない所に居るの。」
「違う・・。」
―「コウ君」でも「コウ子」でも何でもいい。だから・・。
「・・ゴメンね。」
「響姉・・お願いだから・・。」
―・・もう一度だけ・・。
「・・。仕方ないなぁ・・。」
―最後だよ?
聞こえるか聞こえないかで囁くように呟いた塚原の言葉は少し湿っていた。
「・・っ・・・。」
「・・・コウ君。」
「・・・。」
三か月前の再会。広大が初めてプーと七咲と出会った日でもある。再会した当初・・塚原は広大を「広大君」と呼んでいた。しかし・・少し会話を挟んだ後、昔の呼び名で呼んだ。「コウ君」と。
これには訳がある。
あの時塚原は水泳部の後輩の手前、必死で態度を取り繕っていたが内心は心臓がはちきれんばかりに緊張していた。それはなぜか?
塚原の叶う事の無かった初恋の相手、広大の兄―広軌の面影を持つ存在が目の前にいたからだ。
そして一方で拒んでもいた。
少なくない「あの人」の面影があるその目の前の存在をどうしても直接に受け取る事が不可能だったからだ。必死で言い聞かせた。目の前の男の子は「広大」であって「あの人」じゃないと。
昔からの広大の自分に対する好意を知っている彼女にとって、広大をそのように見る事はこれ以上ない無礼と解っていた。
でも・・理屈じゃない。大好きだった人の面影を残し、尚且つ自分に対して好意を強く持っている人間。甘えたくなるのは・・凄く悪意のある言葉で言い替えるならば「都合がいい」と考えるのは・・不自然なことだろうか?
その相反する感情の中で塚原が選んだ行為は・・広大を「コウ君」に「戻す」ことだった。
無邪気で、幼く、自分を頼って後ろから付いてくる可愛い可愛い弟の様な―
「コウ君」。
単純にそう昔の呼び名を呼ばれて純粋にほほ笑み、自分を「ひびき姉」と呼んだ広大の笑顔を見て塚原の衝動は和らいだ。
さらにその「戻す」という行為は塚原自身にも大きく影響があった。切なくも幸福だった時間を広大と共に共有できるのである。
語弊があるかもしれないので追記するが塚原は今の自分が不幸などとは決して思っていない。
ただ十年来の初恋に先日ハッキリとした終結が訪れたことで、どうしても懐古の情を抑えきれない側面があった。思い出も共有し、「あの人」の面影も共有している広大と共に。
彼女は過去を見た。広大を見ながら初恋の「あの人」―広大の兄広軌を見ていた。
―なんて・・なんて嫌な女なんだろう?
自分に対する嫌悪感はひっきりなしに訪れた。
―でも
もう頼ってばかりもいられないね。三か月も貴方に寄り添ってしまった。
存在する筈の無い「あの人」―広軌さんとの「同じ時間」。存在する筈の無かった時間をコウ君はほんの少しの時間与えてくれた。隣に並んで、歩いて、眠って、笑って、・・泣いている時は肩を貸してもらったりもしたっけ。
手に入らないはずだった広軌さんとの時間を貴方は「疑似的に」とはいえくれた。夢の様な時間だった。
でも・・もうおしまい。おしまいにしなきゃね。
ここに居るのはもう「コウ君」じゃない。そして私が都合のいいように重ねた広軌さんの幻なんかじゃない。自分で選んで、成長して、自分の道を歩んだ一人の男の子。
広大君なのだ。
そして
その彼を真っ直ぐ見続けた人がいる。直視できずにただズルズルと答えを出さぬまま彼の傍にいた私とは違う。私が「コウ君」を見ている時に、れっきとして間違いなく成長した「広大君」を見続けていた子が居る。
・・七咲?
私はある意味貴方より遥かに子供だけど、・・気付いていたんだから。
見ている私が切なくなるくらいにね。
私が「あの人」を見ていた時もこんなカオしていたのかな?って重ねるぐらい。
広大君に見られないように必死で彼の目を盗んでいたみたいだけど他が疎かになってたよ。
その点はまだまだね。私の方が子供でも経験は私の方が上なんだよ。・・威張れる事じゃないけどね。最初の頃はやっかんでいたみたいだけど、それ以降はどんどん私が知らない貴方を広大君がひきだし、逆に私が知らない広大君を貴方が引きだすものだから逆にこっちがやっかんじゃったわよ?
「時間を戻した私」と「進めた貴方」
これからの「広大君」と一緒に居るべきなのは・・きっと貴方。
「・・さよならコウ君。そしてはじめまして広大君。」
歩きだして。広大君。貴方は。
私なんかの手の届かない所へ。
手の届かない所へ行こうとしている彼を見送る、背中を押す。それが塚原の意地。
考えてみれば過ごした年月の差はあっても塚原と七咲の「スタート」は一緒だった。
七咲が広大と出会った日、塚原が広大と再開した日として考えるのであれば。
だがそこで進んだ道はあまりにも対称的。
片や時間を戻し、片や時間を進めた。
「・・きっと待ってるよ。あの子」
何の確証もない。そんな塚原の言葉を軸にして広大の足は動いた。
まるで予知能力者みたいに塚原は七咲の行動を見透かしていた。
するすると誘導尋問のように広大は昨夜の出来事を抵抗なく話す事が出来た。
「遠まわしね・・不器用なあのコらしい。」
そう言ってほほ笑んだ塚原の笑顔が嬉しかった。
振られたのか。
いいように言いくるめられたのか。
そんな経験が無いから広大には解らない。でもそれでよかった。
そんな事を考える余裕も与えられないぐらい奇妙な充足感で満たされていた。
悲しさはない。
切なさもない。
足は動いた。
曖昧で確固たる矛盾した目的と意思を滲ませて。
今―
君に「逢い」に行こう。