7 分岐点
2-A教室―
「お~い大将!聞いたか!?」
梅原が机に突っ伏している直衛にやや興奮を隠さない語気で語りかけるが・・
「んあ?天皇陛下が変わるって?次の年号何になんだろな~」
「・・ちょいと寝ぼけ気味だな・・。また後で話しかけるわ~」
相変わらず気を遣える友人梅原である。今の状態の直衛に話しかけても後にはすっかり記憶が喪失している可能性が高いのだ。そんな梅原に苦笑いを浮かべながら「ドンマイ」と源が声をかける。
「折角いいニュースなのによ・・。当の国枝っちがあれじゃあな・・」
「ま、仕方ないよ。テスト明けの直はいっつもこうだし。・・頑張り過ぎなんだよね直は」
理解ある二人の友人、梅原、源の二人は苦笑いながら席に突っ伏している直衛を見てそう言った。その中、その二人に向かって教室に戻ったばかりの一人の癖っ毛の少女が駆けよってきた。その姿を見て「噂をすれば、だね」と源は微笑む。
「たっだいま~」
「お帰りぃ!棚マッティ!」
「お帰り。棚町さん。・・どう?感想は」
「いや・・はは・・何か実感湧かないってゆーか・・。なんかちょっと複雑かな」
「謙遜するねぇ」
「二人とも・・ひょっとしてもう直衛には話しちゃったり・・?」
「ううん。っていうか今はちょとキツイかな。さっき梅原が話しかけてみたんだけど反応が著しく鈍いから」
まるで冬眠中の生物の事を話しているみたいな友人達である。
実際、現在の直衛は「冬眠中」と言って過言ではない。テスト期間中の彼の勉強量はかなりの物であり、その反動がテスト終了直後に一気に彼に押し寄せる。起こしても先程の様に会話にならない。今はそっとしておくしかないのだ。
中々手ごわいルーティンを持つ少年である。
「・・そっか」
いつもの事とはいえ少し残念そうに薫はそう呟く。
「ま。キリがいいと判断したら、また話しかけてみるぜ」
「てんきゅ。梅原君。でも・・私が直衛に直接話したいから」
「・・そうか?ま、棚町がそう言うならしゃあねぇな」
「ふふふん。自慢は、面と向かってしたいからね!じゃ、まずは恵子に自慢してくるわ!」
いつもの調子を取り戻して薫は元気そうに敬礼しながらその場を去っていく。
「おう!」
「いってらっしゃい」
「くあ・・」
十分後―
直衛、冬眠から覚醒。早速エネルギー補給。寝覚め用に確保しておいた半分ほど残っていた紙パックの珈琲牛乳は瞬く間に飲み干された。
「げぷ」
・・汚い。
「はい。もいっちょ~。」
机にもう一つ紙パックの珈琲牛乳が置かれ、その方向を直衛は見た。
「ん・・?お。薫・・。奢り?」
「んなワケないでしょ。ほらさっさと飲んで、頭。起こしなさい?」
「・・。頂きます」
「・・飲みながらでいいから聞いてくれる?」
「何?」
「私の自慢」
「お前が自慢?」
「うん」
「・・何時もの事じゃ無いの。特に何が来ても驚く自信がねぇ・・」
そう言いながら直衛がストローに口を付けた瞬間、「むっ」と不機嫌そうに口を尖らせながら直衛が飲んでいる珈琲牛乳のパックの両側面を薫はぎゅっと押す。中身が急激に直衛の喉に流れ込み、気管が入口を間違える。
「げぇっほ!おっほ!!えっへ!」
「女の子の話はちゃんと聞きなさい!全く!」
「・・なに?なんだよ・・?真面目な話?」
「・・。んー何て言うか、『そのまま受け取っちゃっていいのかな?喜んでいいのかな?』って言うお話」
「はぁ・・?何か重そうだから今度にして?寝起きにはキツそう・・」
「聞いて!」
「はい・・」
―最初からそう言えや・・もう・・。
直衛は残りの珈琲牛乳をすすりながらうんざりとした顔をする。正直彼の将来の成人病が心配になるぐらいの糖分の過剰摂取である。
「この前さ・・その・・アタシが美術の授業中裏庭で描いてた絵あったでしょ」
薫はそう切り出した。当たり障りのない滑り出しに聞こえるが、「当人同士」のみやや気まずい話題からの導入である。
「・・・。ああ。『あの時』、ね」
「う・・『あの事』はどうでもいいの!」
―いや、まぁどうでもよくされても困るんですケド。一応、その・・初めてなワケでして・・。
「はいはい。それで?」
「・・・」
―かといってこんな風に流されるのも傷付くなぁ・・。寝込み襲ったのは流石に拙かったかな?
「その時アタシが描いてた絵なんだけど・・覚えてる?」
「ん・・ああ。横目で見てたけど上手かった様な気がする。お前がブツブツ言いながら描いてたっけ」
「・・ブツブツゆ~な」
「で、それで?」
「あれが完成した翌日さ・・実は美術の先生に呼ばれてたの。『私また何かしたのかな』って思ってびくびくして行ったらさ・・」
「・・・」
―日頃の行いだな・・。
「で、したら?」
「こう言われたの。いきなり『君の絵をちょっと然るべきとこに出したいんだけどいいかな?』って言われてさ、私もよく解んなかったから曖昧に『はぁ別にいいですよ。』って言っちゃったの」
「お前はまた・・『適当な生返事は止せ』といつもあれ程・・!」
「はーい。反省してまーす」
その態度。反省のかけらも拾えやしない。
「・・まぁいいや。それが?」
「・・賞とっちた」
「・・へ?」
「何か『審査員特別なんたらかんたらしょ~~っ!』・・っていう偉そうな賞だって」
「え・・?凄いじゃん」
余りに意外な事実に流石に直衛も目を丸める。
「あっはは・・」
「いや・・ホントに・・普通に驚いた。何だ・・めでたい事じゃん。おめでとう薫」
「ありがと・・」
薫は照れくさそうに笑うものの、どこか憂いを含んだ微笑である。おまけに眉も内側に曲がっている。嬉しくはある。が何処か戸惑い、迷いがある事が一目に解る。
「・・。喜べないの?」
「いや・・嬉しいは嬉しいけど・・ほら、一生懸命に描いてる人だっているわけでしょ?それなのに成り行きで出したアタシのなんかが受賞しちゃっていいのかな~~って。」
「・・」
―まぁ・・成り行きっちゃ成り行きだな。お前の気のない生返事のせいで本来賞を採れた人が見送られたとなると少し気の毒っちゃ気の毒かも。
・・でもな、薫?よく聞け?
「・・お前ヘンなとこ真面目だよな」
「ひどっ!」
「お前適当にあの絵描いたの?」
「え?」
「お前だって一生懸命描いたんだろ?」
「それは・・そうだけど。」
「だったらいいじゃないか。むしろ賞を採った人間が『自分なんかでいいのかな』って言うのはある意味嫌味かもしんないぞ」
「そう・・かな」
「第一自分が賞を取れなかったのを賞を採った人間のせいにするような奴なら元々見込みないだろ」
彼が生粋の努力派の人間だからこそ言える中々的確な台詞である。
「あ・・」
「だから素直に喜んで受け取んなよ」
「・・うん。そうする」
「では改めて。おめでと。薫」
「ありがとう。直衛。アンタのおかげでやっとまともに喜べそうな気がする」
―励ましもそうだけどアンタが私の事で笑ってくれるのも嬉しい。
いつからだろうか。薫が無意識にその笑顔を求めるようになったのは。
「ん。そうか」
「・・。直衛。それでね・・」
「ん?」
紡ぎかけた言葉を薫が言いかけた瞬間、非情なチャイムが鳴る。
「あん。もう終わり?」
「ま。また今度な」
「・・直衛・・。今日の放課後って空いてる?」
「・・・。ごめん予・・」
「ごめん。予備校」―これはこの数カ月で直衛が言い放つ事が多くなった言葉である。
「・・・」
この先もどんどん増えていくであろうその言葉を発しかけた直衛をやや悲しそうな目で薫は見た。その顔をいつもながらにズルイと感じながら直衛は溜息をつく。
「・・・。別にいいよ。お前、バイトは?」
「・・大丈夫。少し遅らせて貰えばいいと思うから」
「わかった」
「てんきゅね。直衛。じゃ」
「あ。おい。コーヒー代」
「いーよ。私のおごり」
「・・・。せっかく薫が偉い賞貰ったのにその薫に奢ってもらうなんて寝覚めが悪い」
「ぷ。あんたを起こすために買った珈琲なのに『寝覚めが悪い』ってヘンな話ね」
「・・」
「・・ホントにいいよ。じゃ、また放課後に。まったね・・」
「・・」
励ましたと言うのに。そして幾分気が楽になった様な表情をしたのに、尚も何か引っかかる様な薫の立ち去り方に直衛は無表情、無言のまままた珈琲牛乳をすする。
放課後―
校門前
「遅い!」
予備校をサボらしときながら意気揚々といつものように遅れてくる薫に悪態つきながら直衛は説教モードに入るが―
「ごっめーん恵子に捕まってた!」
「・・田中さんに?」
「・・恵子ったら私が賞取ったのまるで自分の事みたいに喜んでくれちゃってね?あんまり嬉しそうにしてくれるからつい・・」
「・・・あー了解。仕方ないな」
「そそそ。仕方ない仕方ない♪」
悪びれもせず、心地よさそうに白い息を吐きながら笑う薫に直衛は毒気を抜かれる。どうやったら直衛が怒りにくくなるかを熟知している彼女らしい誤魔化し方だった。
「・・・もういい。で、何処行くの?」
「・・あの河川敷に行きたいな」
今日は天気がいい。
薫が無断欠席したあの雨の日の帰り道に比べると、赤い夕日に染まったその景色の温かみと色の豊富さは段違いだった。薫がここを大事な思い出の場所にしているのも頷ける光景である。
「ほっ・・!」
平べったい石を探しては女子にしては綺麗なサイドスローで石を投げ、水切りを楽しんでいる薫に直衛は痺れを切らした。
「水切り勝負がしたかったのか?」
「せっかち。折角人が思い出に浸ってる時に」
「お前もバイトあるんだろ」
「あ・・それもそうだね。遅らせるっつっても時間制限在るんだった・・」
「・・忘れてたのか?」
「う~うん。じゃ、話の続き」
薫はスカートを整えつつ、彼女の座る場所に持参したタオルを敷こうとする直衛に「ありがと。ヘーキ♪」と言いながら座る。
「私の絵が受賞したって美術の先生に聞かされた時、一緒にこんな風な話をしてくれたの。『これからきっと君を推薦入学させたい美大から次々オファーが来ると思うけどよければ考えてみないか?』って」
「・・マジで?」
「あはは。私も最初『冗談ですよね?』って言った。でも違うみたい。それぐらいの賞なんだってさ?私の採った賞って」
「へぇ・・」
「はは・・いきなり言われて混乱した。だって全く今までそんな風な道進むなんて考えた事無かったからさ?元々大学行く気無かったし、推薦で大学行くなんて私の成績じゃ夢のまた夢だったしね」
「・・」
「でもひょっとしたら『学費とか入学金殆ど免除で入れる可能性もある』って言われたからさ?さすがにちょっと私もぐらっと来ちゃったっていうか。これならお母さんにも在る程度負担かかんないし・・」
「『遠くの大学なら下宿してお母さんが再婚した際、新婚生活の邪魔にならないかも知れない』か?」
「・・お見通しなんだね。直衛?アンタのそーゆうとこホント凄いと思う」
「・・」
―・・お見通しならもっと気の利いた言葉言えるはずだけどな。
お前は解りにくいんだよ。
・・薫。
「まぁ・・まだ先の話だけどね。一応『まだ時間はあるからゆっくり考えて欲しい、心積もりだけはしといてほしい。何かあれば相談乗るから』って段階の話だから」
「そっか・・」
「聞いてほしかったのはコレだけ。うん。すっきりした」
「・・」
「ま、困るよね。最初恵子に話しても喜んでくれる反面ちょっと切なそうな顔してた」
「・・そうだろな。周りの人間は元より現状本人が一番パニクってる状態だかんな」
「そうなのよ。ははは。もう・・最近色んな事在りすぎて・・勘弁してほしいわホント」
今考えても仕方ない事なのかもしれない。十七年生きてきた中でこんな急激で意外な事象がポンポンと自分の身の回りに起こる事なんて今まで無かった。
漠然だったとしても、どうにか可視の道が今まで続いていて、その道を渡るために彼女は努力してきた。
しかし今、図らずもいきなり全く別の道が明確な形を成し、その道が彼女の現在の境遇に見合った確固たる地盤を築く可能性が高い事が示唆された。だが手放しに喜ぶにはあまりにも性急すぎる。実感が無さ過ぎる。
でも―
「でもね?直衛。私もそろそろアンタが何時も言うように本気で色々ちゃんと考えてみようと思うんだ。だからちょっと進んでみるよ。絵を描くってなんか楽しいかもって・・元々好きだったけどね。それに今回こんな形で認められてやっぱり嬉しかったし、皆も褒めてくれて気分良かったから」
「そうか」
「色々な選択肢の中でどれがいいかキッチリ自分で考えて、何が、そしてどれが自分に合うのかな、とか、都合がいいかな、とかちゃんと考えて進んでみたいと思う。その結果どこに行くことになろうともね」
「うん・・そうだな」
「うん。そう」
―もう。相変わらず素っ気ない奴。
「・・ねぇ直衛?」
「ん?」
「来年以降もこの場所を見れるかな?また来れるかな?」
―アンタと。
今から約二年前―
アンタと私の道はまず最初の分岐に差し掛かった。中学から高校への進学だ。
細い命綱はアンタの弱さと私の強さも相まって道は続いた。
アンタは「堅い」と言われていた私学の志望校の入試に落ち、私は微妙だった吉備東高に無事合格。
アンタには悪いけどほっとしたんだ。嬉しかったんだ。
まだアンタと歩いていけるんだ。後三年間も。
・・嬉しいな。
そう思ったのが今から約一年と半年前。しかし約一年と半年後の今、もうこの時点で私達は完全に分岐点に立とうとしている。
時の流れって早いなってホント思う。楽しい事だとなおさら。
分かたれようとしている。
コイツは道を何時も通りコツコツ進んでいた。そーゆうヤツだ。相変わらず先々、コツコツ行くアンタにいつも通りやや置いてけぼりだった私。でもそんな私にもいきなり目の前に道が出来た。
これからはアンタと私、各々違う道を歩んでいく事になるんだろうね?
でも「よかったね。お互いに道が見つかって。頑張ろうね」とはとても思えない、言えない、考えられない。
だから・・
繋いで置きたい。ほどきたくない。
もともと繋いだ事も。絡まったこともないのかもしれないけど、そのかわりに私たちは背中預けて、隣を歩いて、はしゃいで、騒いで、怒って、泣いて、笑ってきた。
楽しかったよ。心からそう思う。
それを失う事に私は耐えられるのかな?この場所から逃げて、お母さんからも逃げて、
とどめに目の前のコイツを見失う事に。
きっと無理。例えまだ先の事だとしても・・無理なものは無理。
でも―きっとその日までの「時間」が結局は私を諦めさせちゃうんだろうな。
例え耐えられなかったとしても。寂しくて、辛くて、遣る瀬なくてもそれを受け入れて前に私が進む日が来るんだろうな。
ほら。だって曲がりなりにも私って強いから?
さばさばしてて。
勝気な。
アンタの「悪友」だから。
乗り切れなくても、割りきれなくても前に進んでいる私がきっといる。
だからアンタはお構いなしにアンタの道を進んで?
いずれ本当にまた人を好きになって、その人の事で本気でテンパって、私にその話を懐かしむようにまた聞かせてよ?笑わせてよ?
・・馬鹿にさせてよ!?
そうじゃないと怒るから。
アンタを好きだった・・私が怒るから。
「・・見られるよ」
「・・」
「お前が見たいと思えば、来年も再来年もずっと見れるだろ。お前が見たいと思ってこの場所に来たとしたらな。当り前の事言うな」
「・・そうだね」
―アンタらしい。
「・・俺もお前も来ればいいだろ」
「・・。え・・」
すぅっと直衛は大きく息を吸った。
彼の中でも―
「答え」は決まっていたのだ。
「・・・。薫。ごめんな」
「え?何が・・?」
「俺頼りなくて。いざという時ダメで。でもこれでも精一杯気ぃ張ってんだ」
また大きく直衛は息を吸う。そして続ける。
「・・お前の事で」
「俺も嫌だったからさ。いざという時に本当に頼りなくって力になってやれない自分の事。自分が大事に思う相手に、大事にしないと自分がおかしくなりそうな相手に本気で力になりたくて頑張ってたつもりなんだけど・・全然ダメだった。でも・・本気で・・大事な奴―薫、お前に本当に力になってやりたい、それがダメならせめて傍に居てやりたいって思ってたのは本当だから」
「俺は薫の事を本当に大事に思ってる。そうじゃないと俺、俺が保てなくなるから」
目線を下に向け、言葉と共に吐く自分の白い息を見ながら直衛はそう言った。
「・・・」
「・・もし、『要らない』って言うんなら、『必要無い』ってんなら言ってくれ。『勝手な事言わないで。アンタなんていなくても私は大丈夫』って言うんなら・・」
「や・・だ」
「・・!」
「アンタが・・傍に居てくれないと・・ホント・・やだよ」
「・・・」
「お願い・・。傍に居てよ」
目線を下げたまま、勝手に詰まる喉を必死で堪えながらようやく薫は直衛の右手首、ブレザーの裾をきゅっと親指と人差し指でつまむ。
「・・ありがとう。薫」
「分岐点」
二つに枝分かれしようとする道の手前でようやく二人の道は初めて交わった。
―何処にも行かないで。
ううん。違う。
何処までも一緒に行く。
アンタなら・・いいよ。
二時間後―
JOESTERにて。
「店長・・」
薫の同僚であり、ホール長を務める世間的にはエリート大学生の生真面目な女の子が事務的に店長に話しかける。
「あん?」
「棚町さんが変です」
「変?」
「何て言えばいいのか。おかしいです。テンションが高いのか低いのか解りません」
「君に言うのも何だけど・・女の子って言うのはそんなもんじゃねぇのか?ただでさえ『あの』薫ちゃんだし」
「度が過ぎています。変にテンション高かったり、いつも通りだったり、唐突に物思いにふけったり、へらへらしたり、照れたり、哀愁漂ったり、かと思ったらいきなり毅然とプロッフェショナルな対応したり・・正直手がつけられません。褒めればいいのか、諌めればいいのか・・」
「・・。とりあえず最低限の仕事は出来ているみたいだから様子見しよう」
「了解です。あ、あと・・化粧室の鏡の前でニヤニヤしていたのは彼女の為に言わないで置きます」
「・・今言ったね・・確実に言ったね」
―地に足がつかないとはこの事だろうか。
全く苦労させてくれる。女の子をここまで浮き沈みさせてくれるのだから。アイツったら・・うふ♪
いつもより倍疲れたわ。
「~♪」
閉店後、いつものように店内のモップがけをする薫は、心地よい疲れに鼻歌交じりで上機嫌だった。
「ご機嫌だな・・」
「あ、てんちょ。お疲れ様です」
「・・。何かいいことあったのか?」
「あ。わかっちゃいます?さっすがてんちょ!」
「・・」
―うわぁ・・ハイギアだな。
「・・ひょっとして例の奴がらみか?薫ちゃん?」
「・・うふ♪」
薫からの明確な返事は無い。その代わりにモップがけのペースがやたらと上がった。
どうやらさっさと仕事を終わらせて落ち着いて話し・・というかノロケさせてほしいらしい。
「・・・」
暗黙の了解をして店長は経理作業に戻った。
「・・って言ってくれたんです!!」
事の顛末をそのように締めくくり、
「言っちゃった。ハッズカシー」というような彼女らしくないキャラ崩壊の表情をして薫はノロケ終えた。
「よかったじゃねぇか・・」
「はい!」
ただ次の店長の一言に薫は凍りつく事になる
「ところで・・付き合う事にはなったのか?」
「・・え」
「え・・。ってそこまでいったんなら当然言質はとったんだろ?」
「げ、・・げんち?」
「・・ああ。ようするに口約束さ」
「何ですか?・・それ」
万札詰まった財布を置き忘れてきた様な顔で見る見るうちに薫の顔色がさ~~っっと変容していく。
「・・いや、平ったく言うと・・その・・『付き合おう』とか、『好きだ』とか?言われたんだろ?」
―中年の既婚のオッサンにこんなセリフ言わせんな。
「あ・・」
「・・・」
―藪蛇か。有頂天のあまり詰め損ったな?薫ちゃん・・。
藪蛇つつかれ、自分の姿を見て石になったメデューサのように押し黙る薫を見て、店長は面倒くさい事になったと思った。
「で、でも、ですね?さっきも言った通り!そ、の、そのっ!」
「そ、そうだな!ま、まぁ~~そこまで言わせたんだから大丈夫だとは思うけどな?多分。恐らく、な」
そうは言ったが全く面識のない男の保証など赤の他人の店長に出来るわけがない。
彼女達の倍は生きている店長の人生には、ヤる事ヤって「え。俺(私)達友達でしょ?」、と言い放つ人間が全くいなかった訳ではない。そして薫の話からしてその男、その手の才覚が全くないとは言い切れない印象があった。
「昔、女で痛い目に合ってその反動で」・・と、いう可能性も無きにしも非ず。
おまけにそれなりに頭良くて、睫毛の長いそれなりのイケメン?
・・ダメだ。店長が薫から伝えられた直衛情報だけを整理すると不安がさらに膨れ上がってリアリティが増していく。
「てんちょ!何で眼をそらすんですか!」
店長の首根っこを掴み、がくがくと揺らすバイト少女。
「いや~その~はは~」
店長はその行為にさして突っ込むこと無く、目を泳がせて棒読みでそう言った。
―無茶言うな。俺まで固まらせる気か。
―だ、「大事な人」ってそういう意味なの・・?直衛・・?
ハイギアからLOWに一気に叩き落された薫は一気に疑心暗鬼に陥った。
「・・薫ちゃん。まぁ大丈夫だとは思うんだが一応言質は取って来い」
「・・・」
―まぁ薫ちゃんには気の毒だが・・正直面白いな。
店長は昨今自分の奥底に押し隠されていた外道性がむっくりと顔を起こしたことを自認した。
―だが・・もしそれが本当だとしたらその男は俺が責任もって―
・・〆てやる。