6 日常はやや足早に残酷な速度で
暦は十一月の半ばを過ぎる。
広大が七咲、プーと出会い、そして塚原響との古い縁を取り戻した日から約一カ月が経過した。
相変わらず広大はあのプール裏へ行き、懲りずに気難しいプーを何とか手なずけようと躍起になっていた。
「おい。すぎうっちー」
梅原がこの寒くなった気候のもとでも全く春先、真夏の時から変わらないテンションで話しかけてきた。季節限定のアンニュイさとか、慎ましさという言葉は彼の辞書には無い。
「何?」
「昼飯は早弁ですましたな?では大将図書室に行くぞ?」
「ん?お前が図書室に行こうだなんて・・何だ・・また際どい美術雑誌でも見つけたのか?借りたら見せてね?」
「ちっがーう!そんな不純な動機で文学少年である私が図書室に行くと思うのかね?」
「ほぉ・・?」
「・・・」
―彼は自分の言葉に自覚がちゃんとあるのだろうか?いや、自分のキャラに自覚があるのだろうか?
と、いう目で広大がじっと梅原を見つめると根負けしたように
「・・。まぁそれもある。だが他にもちゃんと事情がある」
「図書委員がめちゃ可愛いとか?」
「な、何故それを・・!?」
「いや・・ウメハラ君。君何時もその手の情報垂れ流してるでしょ?何処までの情報を誰に出したか自分でちゃんと覚えておこうね?」
「ふ、不覚だぜ。善処する。ってぇ違うんだっての!確かにそういうのは無きにしも非ずだが俺が言いたいのは全く別の事なんだって」
「いろいろ抱え込んでる十七歳少年なんだなウメハラ。お疲れっす」
「ふふ。この俺に対してそんな強気な態度を続けていいのかね?これを見てもそんな事が言えるか!?」
そう言って梅原は上着のブレザーの下から一冊の本を取り出した。
「・・。ん・・!・・こ、これは・・!『ネコのおもい。』!」
―日本全国の猫とその飼い主ご用達の国民的月刊雑誌!まさか図書室が定期購入しているというのか!?
「そーだよ。杉内君!君が夜な夜なプール裏に忍び込み、勤しんでいる事を私は既に知っているのだ!これが欲しかろう!」
「人聞き悪い!」
―でも決して間違ってない。くそ。
「ふふふ。よさぬ~よさぬ~」
即刻名誉棄損とプライバシー侵害、今にも痴漢でもしそうな犯罪者の目になっている梅原を訴えたいところだがこの状況では到仕方あるまい。
「・・解った。俺は何をすればいいの」
「・・。付いてきてくれるだけでいいんだよ。大将」
「図書委員を見に行くのが一人じゃ不安、心細いんだって言いたいのか・・」
「ま。そういうこと?」
「・・」
―変なとこ小心なんだよなぁ・・コイツ。
「橘呼べよ・・」
「いや・・あいつ最近例の人にお熱だし。今日も速攻で二人で姿を消した」
「マジか。・・それは・・さすがにうらやましい」
「全くだ。く、悔しくなんかないんだからな!」
「言うな。ウメハラ。解った。とりあえずお前が借りてきた『猫のおもい』を見せてくれ」
「お~~っとぉ~~ちっちっちっ・・・これは図書室に行くまでの担保だ。ここでうっかり見せて見終わった瞬間にバックレられても困るんでな」
「・・」
―ちっ。読まれてたか。
―図書室
「おお・・確かに可愛い・・」
「だろ?大将」
清楚・・クラスメイトの絢辻詩とはまた異なる優等生タイプというのがぴったりだ。明朗で社交的で完璧な優等生タイプの彼女とはまた異なり、大人しいが自分の仕事は一生懸命で手を抜く事が出来ない少し不器用さを感じさせる優等生タイプである。
評判を聞きつけて集まった先客の男共の間に合わせの貸出依頼を懸命に捌いていた。
眼鏡の奥の少し小さめな瞳がくりくりとせわしなく動き、長い髪はオールバックにして後ろ髪はかなり手間がかかりそうな編み込みをしている。
「大変そうだな。可哀そうに」
「ああ。なんつーの?守ってあげたいタイプつーか」
「さて・・お前の持っている『ねこのおもい』はどこだ?」
今は色気より猫。塚原の事を除けば、「花より団子」的な所がこの広大という少年にはある。
「ん。こっち」
「おお・・・!毎月分あるじゃん!洒落たモン買ってくれてるな!吉備東高!うほ~~」
「お前・・本気で喜んでんだな。さすがにちょっと引くぜ。ただ雑誌系は一回一冊しか借りられないからな?」
「そうなの?じゃあ吟味しないとな。むぅ~」
―ふむ・・六月号かな。
「・・・」
―うわー本気だな・・コイツ。
『特集!懐いてくれないあの猫も貴方の虜に!』
いろいろと問題のあるキャッチフレーズだが、謀ったかのように広大の需要を満たしている事は間違いない。決まりだ。
「お。貸出の列も空いてる。丁度良かった。じゃ言ってくるわ!ありがとな!ウメハラ!」
何時にないハイテンションで列に並ぼうとする広大を
「待てぃ!大将!」
梅原ががっしと腕を掴み、引き止める。
「何?」
「お前・・よくよく考えてみるとその雑誌・・女受けがよさそうだよな・・?」
「ん・・?ああそういえば我ながら奇特な物を借りようとしてるかも。でも相撲の技全集借りてきた橘よりは幾分マシだと思うけどな?」
「お前・・まさかっ!この雑誌をきっかけにあの図書委員の子にお近づきになろうってんじゃないだろうな!」
「いやいやいや・・ここに無理やり連れてきたの貴方でしょ?」
「黙れ、黙れぃ!あぁ~~っ見える・・俺には見えるぞ!」
↓以下梅原の妄想
杉内「貸出お願いします。」
図書委員の女の子(以下女の子)「はい。学生証と本の提示お願いします。・・あら?」
杉内「うん?」
女の子「『ねこのおもい』・・猫お好きなんですか!?私も大好きです!」
杉内「そうなの?光栄だな」
女の子「私ん家二匹飼ってるんです。アメリカンショートとミックスです!最近寒くなってきたから時々二匹抱きあって眠ってるんですよ!もうかわいくてかわいくて!」
杉内「それは見てみたいな。・・君の家にいずれ行ってみたいな」
女の子「是非!喜んで!」
完
「・・ってことに!」
「・・行ってくる」
「待て。許さん。許さんぞ!」
「ぐ。そんな展開の早いラブロマンス無いわ!第一最後らへん俺のキャラじゃない!お前そんなんでよく『ねこのおもい』最新号借りれたな!」
「実は・・勇気がなくて隣の列に並んだんだよ・・」
「かぁ~~・・」
「と、いうわけだ。とりあえず俺を差し置いてあの女の子にお近づきになるのは許さないぞ『広大将』!」
「俺もう何も言えない。じゃあな。借りてくる」
「待て!俺の決心が済むまでここに一緒に居るんだ!」
「昼休み終わるがな!」
「あの・・うるさいです。図書室では静かにして下さい・・」
「はっ!」
「ん?」
「・・?杉内先輩?」
「ご、ゴメン。七咲・・。こんにちは」
「・・おい。大将誰?この子」
こっち側に女の子がいると何ともスムーズに話が進むものだと感心した。
図書委員の例の女の子は一年生で偶然にも七咲の中学からの知り合いであり、時折一緒に登校した事もある仲だったそうだ。高校入学してクラスと校舎が離れ、お互いにクラスに友人が出来てからは少し距離が離れたらしい。
事情を説明し、いつものあきれ顔を崩さないながらも七咲は図書委員の女の子に梅原と広大を紹介してくれた。
女の子は主に連れてこられた男衆の二人には戸惑ってはいたものの、少し距離が離れ気味だった友人と久しぶりに会話できたのが嬉しそうでまた同様に七咲も嬉しそうだった。
それを見ていると広大も梅原も嬉しくなった。梅原も落ち着きを取り戻して上機嫌そうに帰っていった。
不純な理由で先に並んでいた男衆より絶大なアドバンテージを得たというのも大きいだろうが。「棚から牡丹餅」すぎる。いや「図書棚から七咲」というべきか。
何にしても七咲がいてくれて本当に助かった。無事に借りてきた「ねこのおもい六月号」を図書室の机の脇に置いて、ふぅっと溜息をつく。
「全く・・何事かと思いましたよ。」
向かいに座った七咲はそう言って手に持ったシャープペンで頭をコンコンと叩く。
「改めてありがとう。面倒な事になってたから」
「男の人って単純ですよね。先輩も含めて」
「いや・・今日は俺巻き込まれただけだぞ」
「今日『は』と・・」
「・・・」
「ま、そういうことにしておきましょう」
「・・で・・七咲は勉強?」
「あ。はい」
「ホントゴメンね。邪魔して」
「いいですよ別に。もともとなかなか捗って無くて・・」
「ん・・数学?ちょっと、見せてくれる?」
「先輩・・解るんですか?」
「む・・数学は少なくとも割と付いていけてると思う。現代文と世界史は壊滅的だけど」
「へぇ・・」
「ん・・?んんっ・・!?うわっ・・マジで?」
七咲のノートを目にした広大の目が曇る。眉が思いっきり内側に曲がり、まるで惨殺死体を見るような眼である。
「え?」
「七咲・・・なんで・・こうなるの・・?」
「え。何でって言われましても」
「うわ。ないわコレ」
「先輩・・酷い」
数学というのは不思議な物で解る人間は本当に解らない人間を理解できないらしい。
「・・OK。教科書かして」
「え。はい」
「公式丸覚えしてる?ひょっとして」
「解るんですか!?」
「次の期末用の勉強?コレ」
「あ。はい。でもその前に小テストがあるんです」
「いつ?」
「四日後です」
「・・それでも基礎からやり直した方が確実かな。七咲?時間ある?」
「はい・・昼休み一杯やるつもりでしたから」
「ん・・よし正解!」
「やたっ!」
「基盤から躓いてたわけだ。よかった。早めに修正できて。でも復習忘れないようにね」
「うわぁ~~先輩からそんなまともな台詞が聞けるなんて・・意外です」
「う~ん。想像を超えない失礼な反応だね。でも正直否定できない。ま。でも折角覚えた事忘れたくは無いだろ?」
「・・。そうですね。仰る通りです。有難うございました」
「いやこちらこそ。七咲いなかったらまだ今も梅原と無為な時間過ごしてただろーし。じゃ、そろそろ俺は。頑張ってね」
「・・・はい。では。あ、あの!」
「はい?」
「また解らない事があったら教えてくれますか?」
「塚原先輩に頼んだら?俺よりさらに出来るよ?」と、一瞬広大は言いかけたが止めた。この忙
しい時期に無闇に塚原の負担を増やすのは無しだ。
第一この七咲が受け入れるわけがない。
彼女は塚原にある程度の依存はあるがそこの線分けは広大以上にしっかりしている事を広大は理解している。
「どーぞ」
「ありがとうございます。」
「『無為な時間過ごしてただろーし』・・か。」
去る広大の背中に向けてぽつりとそう呟いて七咲は教材をカバンの中にしまう。
二日後―
広大は走っていた。
早耳な事情通のクラスメイトの話の真偽を確かめるために。そしていつもの場所―水泳部の更衣室前に着いた。そこに見えた光景は広大の予想通り。噂の真偽は火を見るより明らかだ。
「ぜいぜい・・」
大勢の女子、一部男子水泳部員、そして最強の部外者、森島はるかをはじめ顧問、教員の幾人かも集まっていた。当然七咲もいて、広大の遅い到着に悪戯な笑みを以て迎える。
―もう・・何してたんですか?
―悪い。
広大は思わず右手を顔の前に添えて陳謝する。
―全くだ。こんな目出たい日に。
その集団の中心にいる一人の少女が新しく馳せ参じた来客に気付き、いつもの笑顔を見せてくれた。
その集団の中心にいる少女は塚原 響だった。
今日晴れて彼女は一つの学生の山場を越えた。
指定国公立大学からの推薦合格通知がいち早く彼女のもとに届いたのである。
最も早く卒業後の進路の先駆を切った彼女を称えるため、これ程多くの人間が集まったのだ。
これ程「おめでとう」という言葉が空間に満たされるのは正月ぐらいじゃないのかと思うぐらいに口々にその言葉が発せられた。
「つ、つかはらせんぱ~~い。お、おめでとござ、ござい、う、うえ~~ん」
一部の水泳女子部員は感極まって泣き出し、それを宥めるのが塚原という奇妙な構図になった。どうやら塚原の卒業後の進路決定=彼女の卒業と結び付けてしまったようだ。
四か月ほど気が早い。が、その気持ちは広大には良く解る。心から。
片や森島 はるかは
「うらやましいなぁ。これで響ちゃんは卒業まで遊びたい放題じゃない」
という空気の読めない言葉を発し、ちょっと湿りそうな空気をいい意味でぶち壊した。
天然でこれが出来るのだからやはりこの少女は侮れない。
「ちょっと・・あたしは別にそんな遊ぶつもりなんて無いわよ。はるかみたいに暇人じゃないのあたしは。貴方もちゃんと進路の事考えなさい!」
「うぅ響ちゃんがいじめるよぅ」
広大は一旦その場を後にした。
塚原は一通りの挨拶回りを済ました後、きっと「あの場所」に行くだろう。水泳部の「大先輩」への報告に。恐らく一人で。
「待って下さい。先輩」
その場を去る広大の後ろ姿に声をかけたのは七咲だった。
「ん?」
「抜け駆けは良くありませんね?」
「バレてた?」
「バレバレです」
「じゃあ七咲の数学の勉強でもして待ちますか」
「えぇ~それは勘弁して下さい。折角の目出たい日に公式とにらめっこなんて」
「冗談。ってか俺も嫌。・・テラスでゆっくりしますか」
「いいですね。先輩の奢りなら」
「響姉に奢る分で精一杯」
「冗談です。塚原先輩の飲み物代の半分出させて下さい」
「了解。何が良いと思う?」
「ん~~コーンポタージュで」
半時間後。更衣室裏―
「逢ちゃん~~!!いらっしゃ~い。相変わらずキュートな子猫ちゃんねぇ」
「も、森島先輩!?こんにちは」
―・・計算外の生き物がいる。
「ん?そっちの彼はどなたかしら?初めまして、かな?」
「あ、俺は杉内です。杉内広大。Ⅱ-Aです」
「・・!!君が噂の『コウ君』!?きゃあー初めまして!響からいろいろ話聞いてるわ。前から会いたいと思ってたの!」
「ちょっ・・はるか!」
「え」
―おお。真面目に嬉しい!計算外の生物とか言っちゃってすいません。森島先輩!
「ふむ」
森島はいきなり広大に急接近。彼の顎を惜しげもなく細い右手の指でくいと上にあげる。
「え」
「むぅ」
そして広大の左右の顔面をまじまじと見る。真剣な上目づかい。
―うおおお・・さすが天然男子キラー。物凄い破壊力だ。こ、こりゃ・・たまらん。
「ん!!さっすが響ちゃんね!見る目があるわ!」
「・・」
―・・勘弁して下さい。惚れてしまいます。
「なんて可愛いお猿さんなの!子猫ちゃんにお猿さん。今日は良い日だわ!」
「・・」
―・・・。あー・・動物占い的判断だったわけね。
基本本能に忠実な森島らしい野性的かつ理不尽なスキンシップに露骨に広大はがっかりした。
「ホントゴメンね」
そういう顔をして塚原は森島の耳を引っ張り、広大から引き離してくれた。
「いった~い。やめて響ちゃん。お耳がネザーランドドワーフちゃんみたいになっちゃう~」
―頼む。日本語で喋って下さい。
「はるか・・貴方は盛りのついたメス犬で十分よ」
―・・俺の知らない響姉がいる。
一方七咲。
―・・私の知らない塚原先輩がいる。
「改めて・・推薦合格おめでとうございます。塚原先輩」
「おめでとうございます」
「おっめでとー響ちゃん」
今日は主役の塚原に変わって七咲の膝の上に座ったプーもどことなく雰囲気を感じ取っているのだろう。顔をあげて「何かいい事あったね?」的な顔つきでキョロキョロと周りを見回していた。
今四つの缶と一つの猫缶が各々の前に置かれている。四人と一匹の些細な何とも高校生らしい健全な宴会であった。
「みんな本当にありがとう。正直私もホッとしています。じゃ・・とりあえず一番早い乾杯を有難う。七咲、コウ君。そしてはるかにプー。じゃ、乾杯」
中身がホットのコーンポタージュであるから何とも控え目な音が響くが、一人の人間を祝う場の空気としては申し分ない。
「響ちゃんはこれかどうするの?片道切符とって放浪の旅にでるの?」
「はるか・・貴方案外古風ね。ちゃんと学校は行くわよ。創設祭のおでん屋の手伝いもしなきゃならないしね。」
「WAO!今年もまたあのおいしい響ちゃんが作った水泳部秘伝のおでんが食べられるのね!」
「残念。今年私は味付けを行いません。ここにいる七咲に伝授するつもりだから」
隣に居る七咲の肩にポンと塚原は手を置き、微笑んだ。
「え。先輩!私なんかにそんな・・」
「大丈夫。今の一年生の水泳部員から一人を選ぶとしたら貴方しかいないと思ってたの。自分のお弁当もあれだけのものを作れて、覚えの良い貴方ならきっと出来るわ」
「え。・・七咲って自分の弁当自分で作ってるの!?」
「え・・あ、はい。でも大したものでは・・」
「いいえ。本当に大したものよ。おいしいし、彩りも華やか、おまけに栄養バランスもちゃんと考えてられているし。一朝一夕で出来るものじゃないわ」
「・・恐縮です」
「大丈夫。自信をもって。貴方なら出来るわ」
「じゃあ今年は俺も食べに行こうかな。去年は響姉のおすそ分けを後日に貰っただけだったし・・でもホントおいしかった」
「今から楽しみねぇ。ちくわにはんぺんにさつまあげ・・。ごぼう天も捨て難いわね」
「森島先輩・・練り物好きですね」
「うん!特にちくわはおいしいのなんのって!噛むと溢れ出る出汁がたまんないわ~」
「・・去年この子開店前にちくわを平らげちゃったからね・・。何故こんな子が恨まれないのか解らないわ。得な子よね」
「響ちゃんにすっごい怒られちゃって泣きながらちくわを買い出しに行ったわ~。今になっては良い思い出ね」
「良い思い出にしないの!貴方には反省って言葉が無いの!?」
「え~~?だって響ちゃん以外の部員の子は怒って無かったよ~?」
「呆気にとられてただけよ!!」
―凄いな・・この二人。
次から次へと発される森島トークに鋭いツッコミを入れる塚原。だが話が前に進まない。
「とにかく!七咲・・貴方なら水泳部の味を引き継いでくれると思うの。だから私は貴方に教えたい。・・ダメかしら」
「・・光栄ですけどすごい・・プレッシャーです」
「そうね。でも私はいつも言っているでしょ?何時も緊張感を持って何事も挑みなさいって。水泳でも同じこと。水泳では余計な力が入ってしまうとダメだけど全くの緊張の無い状態で挑むのも愚の骨頂。プレッシャーの先にあるリラックスの状態に持って行くのが大事。それが気負い過ぎでも楽天的でもないベストの状態よ。貴方が積み重ねてきたものを最も理想的な形で出せる状態。これと、おでんの事も一緒の事よ」
「・・・」
「ふふっ・・えらそうな事言って最後に「おでん」が入るんだから間抜けな響きになるね」
「そんなこと・・ありません!」
「ありがとう七咲。それに気負う事は無いの。私は何も『一人でやれ』とは一切言ってない。貴方には他の水泳部員達も去年私の手伝いをしてくれた川端さんもいる。皆貴方に協力してくれる」
「・・七咲。俺も味見ぐらいなら出来るよ?一応去年のも食べてるし」
「味見!?わお。今年の年末はおでんだらけかしら!?マ、・・お母さんにおでんを献立にしないように言っとかなくちゃ!」
「・・はるか。食べるのは良いけど・・ちゃんと批評もしなさいよ。・・もちろんあたしだって伝えられる限りのことは全部伝えるつもり。どう?引き受けてくれないかな?」
「・・わかりました。御指導御鞭撻のほどをよろしくお願いします」
・・何とも堅い言い回しだが今の七咲にとってあまり言葉を選ぶ余裕は無かったのだろう。
嬉しいはずなのだ。自分が最も敬愛する存在の激励なのだから。
広大は本当に七咲を羨ましく思った。だが前の時の嫉妬などではない。
広大も嬉しかったのだ。自分と似たような境遇を持つ存在が選ばれ、励まされ、称えられ、信じられている事を他人事ではなく喜べる事が嬉しかった。
今の七咲だけの事ではない。今日の塚原のことだってそうだ。本当にうれしい。心から嬉しい。一点の曇りなくそう言える。でもだからこそ―
「・・私達も頑張んないとね」
「・・!?」
「私の事を忘れるな」とプーが愚図り、不機嫌そうに腹を見せながら転がりだしたのを笑いながら塚原と七咲があやしているほんの一瞬のスキだった。
今までとは打って変わった口調の森島が不意に広大にそう囁いた。
―・・成程。この人は一見考え足らずで、向こう見ずで空気の読めないタイプかと思いきや予想以上に「人」を見てるんだ・・。
学園のアイドルの名は伊達じゃない。容姿、普段の気さくな性格、そしてこの隠れた何処か一本通った芯のギャップ。塚原とはまた違った誰にでも好かれる要素を彼女もまた兼ね備えている。
「・・全く。そうですね」
「ふふっ♪」
横目で広大を見る森島の視線は大人っぽい女の子というより、「女性」だった。
すこし微笑むとあっさりそれは影をひそめるのだが。
「By the way・・(ところで・・)」
急に森島が急に改まった口調でそういった。
「・・?」
「ちょっと響ちゃんに聞かなければならない事があるわね・・」
「何?はるか・・?急に畏まって」
「逢ちゃんとコウ君。響ちゃんはどっちを選ぶつもりなの!?さぁはっきりなさい!」
「・・・」
「・・・!?・・・!!」
「?????」
―いや、べつに的を射ていないようで実は射ているようで、実は案外にも射ていなかったりしてないような気もしないでもない気がする・・よそう。
広大は考えるのを止めた。
「・・響姉。そろそろ今日は帰ろう」
「え?コウ君?」
「だっていっぱい捕まっちゃうよ。響姉を祝いたい人なんて沢山いるんだから。それに今すぐ報告したい相手がいるでしょ?」
「・・・うん。でも・・いざとなったら・・ほら、電話でもできるし」
「ダメ。響姉。面と面を向かって報告しなきゃ。おばさんの事だもん。きっと心配してたはず。いちはやく教えてあげようよ。だから送る。響姉」
広大にしては珍しく有無を言わせない強い口調に七咲も森島も面を喰らった。
しかしそれは的を射ていた。やはり塚原は何よりも早く報告したかったのだ。近々発表されるであろう娘の合否に神経を最も擦り減らす存在は当人と何といってもその親族なのだから。
広大は塚原の母を知っている。
響香(きょうか)おばさん。
塚原響がまるで本当の弟の様に広大を可愛がってくれたように彼女もまた彼を本当の息子のように可愛がってくれた。何せ母の出張時は必ずと言っていいほど娘を連れて広大の自宅に訪れてくれるほどに。
彼女は病弱で娘の響一人が限界だったらしく二人目を諦めており、妹か弟を響に与えてやれなかった事を本当にすまなく思っていたらしい。どうやらその影響で娘より一つ下の広大を娘に与えられなかった弟として、そして彼女自身も欲しいと思っていた息子の変わりとして広大に接していた背景があるようだ。
そしてそれに関して広大に対して申し訳なく感じている事も広大は感じ取っていた。だがそんな背景があったにしろ広大本人にはどうでもいいことだった。彼女は十二分すぎるほど広大に尽くしてくれた。それこそが最も大事なこと。
彼の母親は二人いたのだ。
放任主義でどこか肝っ玉の据わっている広大の母とは異なり、塚原の母は心配性だった。広大が体調を崩した時、実の母より心配してくれたぐらいだ。
―全く何でこんな人が母の友人をやっているのか・・。
そんなおばさんが大事な大事な一人娘の人生の過渡期、胃に穴が空くような思いをしていた事は想像に難くない。
確かに電話一本で済む。言葉ワンフレーズで事足りる。
「ありがとう」の言葉。
けど行くべきだ。可能であるならば。面と面を向かって報告を。そして何よりも感謝とお礼を。最も身近な存在へ。
「うん・・。コウ君有難う。帰るね今日は。エスコートお願い」
「うん。喜んで」
「んふふ。本っっ当に良い子ねー。コウ君?グッド!ベリーグッドよ!責任を持って響ちゃんを送るのよ?」
「・・杉内先輩だけじゃ心配ですね。私も加わります!何せ大事な先輩のお体ですから。」
「七咲・・?ふふ・・七咲みたいなちっちゃい子に言われると何となく不思議な感じで・・ふふふ」
「ちっちゃいコ・・塚原先輩それは酷いです」
「はははは。ごめんね。冗談よ。頼りにしてるわ」
「そうです。頼りにして下さい」
「そう言われては私も一肌脱がないとダメね。よっし私も一緒に帰ろっと!」
「いざという時ははるかが変質者の囮になってくれるって。安心ね」
広大はその日他の男子の羨望の目を浴びながら帰路についた。
塚原の母―響香に会うのは久しぶりだった。
庭の草花や木に水をあげながら少し伏せ目がちで微笑んでいる姿は広大の記憶のままだった。
彼女は思いがけない娘の友人三人の来客に目をぱちくりさせ、「あらやだ」といそいそと来客を出迎えようとする。少しプチパニックの彼女の頭は今突然の来客の御もてなしが出来る物が丁度よくあったかしらとフル回転しているに違いない。
しかし、その客人の中に広大の顔を認めると―
「コウ・・君?」
「・・お久しぶりです。おばさん」
広大が中二の時の響の卒業式以来だろうか、考えてみると三年近くになる。
中二と高二の少年の差はさすがに大きい。
広大自身にはあまり自覚は無いが、周りで見守ってきた大人にとって近しい子供の二年、三年後という時間はかなり大きい。増してや中学から高校となると別人に感じてしまう場合だって少なくない。
「・・・立派な男の子になったね」
戸惑いと緊張と・・そして隠しきれない喜びを含ませて響より笑い皺が目立つ目を細め、記憶を反芻するような表情で広大を見る。
「いや~それもどうかと思いますけど」
それだけで広大は話を打ち切り、響に本題に入ってもらうように早々とその場を去る事にした。響香は早々と去ってしまう広大に少し残念そうな顔をしてくれた。
しかし今はいい。それよりも今はもっと大事なニュースがあるのだから。それを早く二人で分かち合ってもらいたい。
「折角来てくれたのに・・ゆっくりしてってよ」
「また今度お邪魔させてね?おばさん」
「・・。うん」
「・・じゃあね。今日は有難う。コウ君」
「うん。また」
森島と七咲を引き連れ、広大は帰る。
森島を駅まで送った後、広大は七咲と歩いていた。
「塚原先輩のお母さん初めて見ました。塚原先輩思いっきりお母さん似ですね」
「七咲。それ禁句なんだよ。おじさんが盛大に凹むからね。ま。響姉がお母さん似なのは間違いないけどね」
「そうなんですか?」
「おじさんは結構愉快でツッコミどころのある人だからさ。顔も性格もどちらかというと確実に響香おばさんよりだろうね響姉は。落ち着いていて優しくて・・あと心配性なところとかもね」
「成程。でも時折ツッコミどころがあるところはお父さん似なところなんじゃないんでしょうか?」
「・・言えてるかも」
「・・素敵な一家ですね」
「違いない」
「羨ましいな」
「全く」
「杉内先輩が」
「・・・俺?」
「はい・・羨ましいです」
「何故そう思うか解らないけど・・でも七咲に言われるとちょっと嫌味に聞こえるかな・・・」
「嫌味?何故です?」
「教えね」
「・・ま。大体想像付きますけど」
「・・」
「ふふ。じゃ先輩私はここで・・・。失礼しますね。また明日」
「うん。気をつけて」
7 サヨナラ。またイツカ
―チリンチリン。
この音は嫌いだった。
この音のおかげで何度獲物に逃げられたか解ったもんじゃない。
この首輪をつけてからスズメを2度と捕れなくなっちまった。
その代わりこれを付けた日から特に食い物に困ることが無くなったのが皮肉な話だけどね。
もうアタシゃ顔も覚えちゃいない。けどあの子の匂いは覚えてる。
まだ小さかったアタシを軽々と抱き上げてこの首輪をプレゼントしてくれたあの子。
アタシがここに住み着くきっかけとなった女の子。
もうどれくらい前の事になるのかねぇ。
それから匂いが異なる色んな子達にアタシは囲まれてこの首輪の鈴の音と一緒に過ごしてきた。
「色んな子がいた。」
アタシの記憶力じゃそう言う事しか出来ない。
何せ本気で覚えていないんだよ。悪いけどね。
良い子もいれば嫌な子だっていた。
でもそんな子たちも誰一人例外なくここを去っていった。
人間てェのはさぞかし忙しい生物なんだろうね?ホント忙しない生き物だよ。
でも忙しなく動いて疲れている癖になぜかアタシの首に付いたこの鈴の音色を聞くとアタシを探し出すんだよね。そして見つけたアタシを抱き上げて何が楽しいのか笑ってるんだよ。
けどアタシには解るんだ。
その笑顔にどこかしらの不安やら後ろ暗い何かがみーんな多かれ少なかれある事にさ。
・・ほっとけないんだよねぇ・・。
ま、世話になってるのは確かだしね。食べ物も寝床もトイレだって用意してくれてる子たちだよ?何となく力になってあげたいじゃないかい?義理が廃れば世も末ってね。
とりあえず不安は隠せないにしろアタシを抱き上げた時は笑ってくれているみたいだしね?
だからさ。
トコトン付きあってやろうと思ったわけ。
この場所で。日々変わるこの子達とさ。
・・居心地は悪く無かった。
嘘じゃないよ?
ホントさ。
アタしゃね。人を見る目はあるんだよ。
そもそも猫ってのは人を見る目がないとうまく生きて行けっこないのさ。
近付いて良い人間と良くない人間を敏感に感じ取らないとダメさね。
まず何と言っても・・男は大概の場合近付いちゃだめだね。うん。
中には管理人のおっちゃんみたいに気のいい男もいるっちゃいるがやっぱり駄目だね。
自分より小さい存在を虐めたくなる性分を持った奴がいるんだよ。
要するにガキさね。
そうゆう奴は大体一目で解る。
アタシを見る目に独特の光が帯びるからね。
こういう連中からは一目散に逃げる。なーんの得もないからね。
餌は持ってないし、扱いも雑。中には悪戯をしてくる奴もいる。
そんなんでアタシに触ろうなんて百年早いんだよ!
アタシを見かけると騒ぐ連中も問題外さね。
「キャー可愛い!」
そういう連中は騒ぐ事によって周りの連中の気を惹きたいだけなのさ。
つまるところは話のタネ。実は私らなど眼中にはないのさ。
「私は猫を見つけた。可愛いと思ってる。スゴイ?スゴイでしょ?」ってね。
知識もその気もないくせにやたらと騒いで注目させる。これが猫にとってどれだけ迷惑か全く解ってないさね。
ただ無神経に可愛がるだけの連中には絶対に近づかないのは基本。
若い猫に教鞭をとりたいくらいさ。
大事なこといってるよ!アタシゃ!
・・大分話がそれちゃったわさ。
まぁ要するに、ちゃんと「吾輩は人を見る目がある猫である」このアタシとここに集まる子たちの相性は抜群だったわけさね。
ホント楽しい、良い場所だったわさ。
責任をもってアタシの世話をしてくれると同時にちゃーんとどっか強い志持って前見てる。
そんな子達ばっかりだったよ。このでかい水溜りに集まる子達はね。
でもそれ故に躓く事がある。落ち込んでる時もあるさね。そこでアタシの出番だったわけさ!
・・・そういやこの前のあの子良い顔してたね。
最近どことなく不安そうな顔してたもんだからアタシもホッとしたもんだよ。
人間は誤魔化す事が出来てもアタシにはお見通しさね。
・・・まぁ何と言うか・・ああいう子をリーダーっていうんだろうね。
まぁ猫でいうアタシみたいな存在さ。
周りに人が集まって慕われている。そういう子。
結構長い付き合いになると思うけどアタシの長年の勘からしてあの子はそろそろ「居なくなっちゃう子」だね。
・・本当に残念さね。アタシの長いここでの生活の中でもあれ程いい匂いの子は中々いなかったと思うわさ。すごく安心するのさ。あの子の匂いは。
いや、順番が逆かね?
あの子という人間があってこそあの匂いが心地いいって言うのが正解だろうね。
猫のあたしがそう思うんだ。
人間同士でもそう思う他の子は多いんだろうさね。
そしてあの子。
アタシは初めて会った時に確信したよ。
「ああ。この子はきっとアタシにとって新しい「いい匂い」になってくれる。」ってね。
ちっさな体で少々ぽっちゃりなアタシをしっかりと優しく抱いてくれたあの時からね。
そしてアタシの見る目にやっぱり狂いはなかった。
バカみたいに責任感が強い一生懸命な良い子だった。
何事にも手を抜かない。
水溜りを泳ぐ事だって。
アタシの世話だって。
性格・・なんだろうね。すこし危なっかしさを感じる子でもあったけど。
何度も繰り返すけどアタシは人を見る目はあるんだよ。
きっとこの子もいずれはあの「居なくなっちゃう子」みたいに、そしてアタシみたいに他の子達から慕われて皆の中心になる子なんだろう。
大先輩のアタシからひとつ言わせてもらえばもっと肩の力を抜くようにしたらもっといいと思うわさ。
はぁ・・この子も残念だね。
もっと見守っていきたかったんだけども。
え?
何でって?
・・野暮な事は聞くもんじゃないさね。
―チリン・・。
「何読んでるの?」
この2-Aのクラスで最も小柄なクラスメイト男子が先日借りた「ねこのおもい 六月号」を読む広大に声をかける。
身長は「160ある」と本人は言い張るがじつは159.2という少し切ない逸話を持つ。
声もどこか幼く、見かけはまだ中学生にしか見えない。
「ミサキ、おまえんち猫飼ってたっけ。」
「うーうん。犬がいるだけ。母さんがあんまり猫好きじゃないんだよね」
御崎 太一 みさき たいち
ベビーフェイスでルックスは比較的良く、性格もいじりやすい愛い奴なのだがそのあまりの可愛さから女子に人気はある反面恋愛対象とされないのが悩みの種らしい。
物凄い年上キラーで一年時からかなりの数の上級生に声をかけられた。
それも男女問わずだ。といっても男の方はどうやら自分達の学年の女子が気まぐれを起こして御崎にモーションをかけたやっかみでからんできたらしい。
彼にとっては飛んだとばっちりをうけた形である。
「杉内君、ちょっとそれ見せてくれる?」
「ん?なんだ興味あるの?」
「・・・。『懐いてくれないあの猫もこれであなたの虜に』・・?」
「声出して読むな。恥ずかしい」
「え。でもこれ堂々と教室で見てる杉内君も相当恥ずかしくない?」
「ぐ」
「何か・・女の子の口説き方を必死で調べてる的な必死さを感じるんだけど・・そういう努力は隠れてした方がいいと思うよ。それに返却日もそろそろだね。・・上手くいってないんだ?」
「痛いところを突くな・・嫌味を含んでない分質が悪い。だが俺は本気なんだ。絶対あの猫をワシャワシャして見せるっ!」
「わぁ何か・・本気なんだね。梅原君すら引くのも解る気がする」
「・・梅原クンは何処までのことミサキ君に話したのかな~~?」
「ん?えっと幼馴染の先輩と猫にぞっこん・・図書委員の女の子が可愛いってのと・・杉内君の知り合いに可愛い水泳部の後輩の子がいるって事。ぐらい・・?」
「殆ど全てじゃねぇか・・!あいつ殺してやろうかな」
「七咲・・さんって言ってたっけ。1-Bの」
「うん。そして断じてそういう関係ではない」
「解ってるよ。梅原君の情報を完全鵜呑みにはしてないって」
「ミサキ・・有難う。それにいつも思うがチミは意外にしたたかだね」
「そうかな?」
「自覚ないんだったらいいや。で、それが何?」
「知り合いの子がお世話になってるみたいだからさ。とっても良くしてくれる友達です。って。個人的にお礼言っときたくて」
「成程。ミサキの知り合いで七咲の友達ってことは・・ああ、あの子か」
「うん」
「で、最近どうなの?」
「頑張ってるよ。大変みたいだけどね」
「そっか。で、お前の方はどうなの」
「ん?別に・・今度家に遊びに行く程度」
「んん?」
ぴく・・。
―・・程度?成程・・ミサキ君は一般高校生男子が持つ価値観が麻痺しているようだね。これは施術が必要だ。
「よし解った」
「ん?」
「お前死ね」
そして半分冗談、半分本気でぎりぎりとチョーキングバイスをかまし、御崎がギブアップのタップを始めたころ、突然教室のドアががばりと乱暴に開く。
!!?
クラスの中に残った全員がそのドアを凝視する。
そこには視線を床に落として咳き込む小柄の少女の姿があった。顔は見えない。
そのシルエットに広大は見覚えがあったがすぐにはそれと理解出来なかった。
彼女が行う行為としてはとても認識できなかったからだ。いきなり上級生のクラスの扉を頻雑に開け、上級生のいるクラスで礼儀を欠くなど今までの彼女のイメージにはかけ離れ過ぎている。
「なな―」
「七咲さん!?」
戸惑う広大を尻目に即その少女―七咲に声をかけたのが既に面識があった絢辻だった。
「ちょっと・・大丈夫?」
「あ・・はい。すいませ・・お騒がせして」
息が上がり、髪を整える余裕がない少女の顔を見据え、絢辻は左手を七咲の肩に乗せ、右手で目の前の少女の前髪を整えてあげながら力強く穏やかな口調で言う。
「いいの!ゆっくり息を吸って」
「・・・・。はい。大丈夫です。あの・・杉・・」
「どうした?七咲?」
今度は広大が七咲の言葉を遮った。その言葉に反応して七咲は顎をあげる。いつも独特の強く、凛とした形の黒いつり目が今日は痛々しいほどに不安と焦燥で塗り固められている。
「先輩・・。あの」
何時もしっかりとしている受け答えさえ曖昧になっている。
「・・?・・ここじゃ何だから別のとこで聞くよ。絢辻さん有難う。後は俺が引き受けるんで」
「杉内君。大丈夫なの?」
「俺に用があるみたいだし。・・何か話し辛そうだから」
後半部分はややトーンを広大は下げる。
「・・・。みたいね」
少し絢辻は七咲に視線を送ると七咲は視線をそらした。それで絢辻は納得する。自分の出る幕は無いと。
「絢辻先輩・・すいません。御親切に有難うございました」
「良いのよ。気にしないで」
「絢辻さん。有難う。よし行こう七咲。立てる?」
「はい」
広大に向けた目を今度は七咲はそらさなかった。
程無くして二人は教室を後にした。広大の後ろを付いていく七咲の後ろ姿はやや体勢を立て直したように背筋が伸ばされている。絢辻はその光景を見守っていた。
―これでも・・「それは無い」の?源君・・・。
「ぐぇほ・・あれ?僕放置?」
「プーが居ない?いつから?」
「昨日の放課後から・・です」
「最後見たのは何処で何時?誰が見たの?」
「一昨日の晩・・部活の練習が終わって私が餌をあげたときです。それ以降誰もあの子を見ていないそうです」
「まだそんなに時間は経ってない訳だ。これ他の誰かに知らせた?」
―どうやらただ事じゃない。と、いうことを誰かに伝えた?
という意味である。
「・・知らせていません」
「?何で?」
「最後に世話したのがあたしなんです。ひょっとしたらあたしのせいでプーが何か・・」
何時にない不安な表情を浮かべた。以前も七咲はこのような表情はした事があるが何せ顔色が何時もと違う。冷静な判断能力も失われているようだ。
「探す人間が多い方が良いのは確かなんだけど・・嫌なんだね?」
「・・・」
「七咲」
「・・すいません」
「・・了解。さて五時限目サボりますか。俺この前サボったから知ってるんだよね。休み時間より授業中の方が遥かに静かだってこと。だから「あの音」も聞きとりやすいはず」
「・・・!はい!」
しかし寒い。この寒さが七咲の焦りを増長させた事は確かだろう。
小さい頃広大も何度も思った。
こんな寒い日に街中で見かける野良猫たちが何処で過ごし、何処でこの寒さをやり過ごすのだろうか。今日見かけたあの小さな子猫はひょっとして今頃震えながら過ごしているかもしれない。考えても仕方のない事をどうしても悪い方向悪い方向に向いてしまうあの感覚。
少し混乱気味の七咲には倉庫裏のいつもの場所で餌を持ちながら待機してもらった。
プーが戻ってくる可能性もあるし、今の彼女に授業中の校舎をうろつかせるには些かの抵抗がある。
午後に入って吹き始めた風の強さが体感温度をさらに大きく下げ、おまけに「あの音」を捉える事を風がかなり困難にしている。
「うーん・・」
だめだ。授業中だと言うのに雑音が多すぎる。仕方ない。目で探そう。
倉庫裏、裏庭、茂み。なんだかんだ言いながらプーとの付き合いも一ヵ月半以上たち、だいたいあの猫がいる場所を広大は掴んでいる。
それでもイエネコの行動範囲というものは性別、年齢等、個体差はあるが案外人間の予想を超えている場合が多い。よってもっと広範囲を調べたいところだがあくまで現在は授業中である。教師に見つかっては元も子もない。慎重に探す場所を選んで行動する必要がある。
グラウンドで生徒を指導する体育教師の目をかいくぐりつつ探すが「あの音」そしてあの姿は見当たらない。
―もともと賢い猫だし・・公に居る事が認められてる水泳部の場所からあんまり遠くに行くとも考え辛いんだよな。
確かに学校という場は野良猫がうろつくには危険すぎる場所である。衛生の観点から考えれば学校側は当然それに対処せざるをえないからだ。良くて追っ払われるか最悪の場合とっ捕まえられて保健所行きである。
それを特例として水泳部が全面的に面倒をみる事で存在を許されているというのがあのプーという猫だ。恐らく特例を設ける以上、広大に詳しく知る由は無いが最低限ルールが敷かれているはず。
排せつ物の処理や近隣住居への進入禁止、寄生虫の排除などがあるだろう。
プーが長年水泳部の重鎮として存在していた以上、プーはそのルールを最低限守れる程度の行動範囲を順守していたはず。だがそこに居ないと言う事は・・。
「・・・」
悪いイメージが浮かぶ。
―・・とりあえず戻ろう。戻ってきているかもしれないし、・・七咲もあれだし。
七咲にはとりあえず一度教室に戻ってもらった方がいいだろうか。まだ授業に遅れた言い訳は効くぐらいの時間。倉庫裏では十分前と位置も様子も変わらず、ただ不安そうに座り込んでいる七咲がいた。広大に気付き七咲はすぐに立ち上がる。
「先輩・・」
「いない・・。その様子だと戻ってきても無いみたいだけど」
「そんな・・私のせいだ・・。皆に何て言ったら・・」
「それは無いだろ」
「でも!私が最後に世話をしてその後居なくなっちゃったんですよ!?」
「七咲は後ろめたいことでもしたの?違うだろ?いつも通りちゃんと世話をしたはずだ。っていうか七咲がそういうことも手を抜かない子だってことはみんな知ってるんじゃないの?」
猫が人間の行動をきっかけにしてどういう行動を起こすかを知る指標など無い。
猫にとっては合点がいく事でも人間にとってはいかない事もあるはずだ。勿論その逆もあるだろう。でもそれでもこの目の前の少女の何らかの過失がこの事態を招いたとは広大には到底思えない。自分とは異なり、確実にプーは七咲には懐いていたからだ。
「そう考えるなら俺がその原因って考えた方が自然なくらいじゃない?何せ俺は懐かれてないうえに結構しつこくここに来てるんだからさ?とうとう嫌気がさして・・っていう考えの方がまだ説得力があると思うんだけど」
「そんなことは・・」
「無い・・とも言い切れないだろ?要するに結論なんて出ないんだよ。だから今は探すか帰ってくるまで待つかしかない。ほらしっかり!七咲」
「先輩・・あ・・」
「ん・・あ・・」
―マジか。
天気予報を覆す雨が降る。七咲はおろか広大自身も払拭しきれない不安を煽る雨が降る。雨脚はそこまで強くないがさすがにこの中でプーを探すのには無理がある。
二人は部室裏・・彼らが出会った階段横の屋根で雨宿りをしながら座りこむ。
風が幾分収まったのが救いか雨は入ってこない。
「やっべぇ俺傘持ってきてないや」
「・・」
七咲は答えない。
負う必要もない、少なくとも広大はそう感じている責任を彼女は背負いこもうとしていた。この雨によってプーが慌ててこの住処に戻る可能性も無かったわけではないのだが十分程の時間が過ぎ、未だその気配は無い。
かける言葉は見つからない。こんな時塚原なら何と声をかけるだろうか。
しかし今の七咲にとって彼女に会う事もまた気が重くなる一因なのだ。最初に相談してきたのが広大であるのがいい証拠である。責任を感じている七咲にとって、プーを長年可愛がってきた塚原をはじめとするプーの関係者にどう説明すればいいのか解らないのだろう。
恐らく責められる可能性はゼロに近い。七咲をよく知る人間ならば意見的には広大とほぼ変わらないだろう。だがどちらにしても彼女たちがプーを心配し、同時に七咲に何らかの気を遣うのが目に見えている。それが七咲にとって何よりも我慢ならないのだろう。自分を責めない事が解っている人達の慰めが何よりも辛くなる。申し訳なくなる。
七咲はそういう子だ。
―はぁ・・どうにか・・どうにかならないか・・。
「先輩」
七咲が唐突に口を開く。
「いきなり呼びだして本当にすいませんでした。あとは私が一人で探します。結局は私達の事ですし・・先輩には何の責任もありません。それなのに・・ここまで付き合ってくれて本当に感謝してます」
「・・・」
「もともと先輩にこんなこと強いる事がおかしいんです。私どうかしてました。それなのに・・」
「・・七咲」
「先輩は・・」
「少し黙って」
「はい?」
「・・・」
「先輩・・?」
「しっ!」
「・・・!・・・」
後代の有無を言わせぬ反応に七咲は少しビクッとしたのち、少ししゅんと肩を落とした。
―そうですよね。そりゃ怒ってますよね。
肩と共に目線も落とす。
「・・いた」
「・・え?」
七咲の声に反応せず、広大は歩きだした。
「先輩!?」
「七咲はそこにいて。来ちゃダメだよ?」
「????」
聞こえた。確かに聞こえた。いや・・今も聞こえる。断続的で心臓の音のような音色が聞こえる。
リン、リン、リン・・
近い。広大は息切れした自分の心臓の音がうるさくていらついた。自然の営みの雨の音も風の音も今はただただ踈ましかった。
「・・・!?・・・!!!・・?」
―いた・・!!
というより音の出所を見つけた。あの茂み。更に近付くと確かに聞こえる。断続的に響く「あの音」が。
―雨宿りでもしてんのか?プー?さぁ・・帰ろう。今日は引っ掻こうが、噛もうが連れてくからな。
広大は覗きこんだ。雨水を含んだ土の匂いと草の香りがつんと鼻を突く。五感の中で耳のみを研ぎ澄ましていた状態から解放された他の五感が徐々に追随していく。今度は目の番だ。
「・・・」
その光景を見た広大の目はすぐさま機能を停止させ、変わりに口の中で汗と泥にまみれた雨水が妙な苦みと酸味を残してすぐに消えた。
三分後・・
「・・・」
手ぶらの広大が七咲のもとに戻っていく。表情が無い。
「先輩・・!?・・ちょっと!待ってて下さい!」
七咲は一目散に駈け出し、姿を消したと思うと一分もかからず其の場所に戻ってきた。
手には白いタオルを・・いや違う。戦隊モノのキャラクターグッズだろうか?それを広大が手で受け取る前に七咲は少し背伸びしつつ広大の頭にかける。ふわりとした感触と洗剤の香りが顔に充満する。他人の家の匂いだ。
「ぶ。ありがと。・・あ。俺これ見てた」
「あ、はは。すいません。弟の物なんです」
「そっか。でも・・これどうしたの?」
「部室の更衣室に置いてあった物です。部活用ですね」
「・・空いてるの?」
「くすっ。以前顧問の先生が部室の鍵を家に忘れて部活の開始が遅れた事があるんです。それから合鍵を作って部室の扉の横の割れ目にこっそり隠して緊急の際、部員だけで開けられるようにしたんですよ」
「へぇ・・って・・俺に言っていいの?」
「あ。内緒ですよ」
「・・いや。俺は?」
「塚原先輩に言いつけますよ」
「・・・」
「冗談です。・・・――」
「・・?」
お茶を濁したような七咲の後の言葉は広大には聞こえなかった。
し ん じ て ま す よ
音のないその声は七咲の口がそう象っただけで誰にも伝わる事は無い。
・・一度落ち着くと広大が少し肩を落とす。表情がさっき濡れていた時の広大に戻る。頭にかけたバスタオルから覗く瞳は冷ややかだった。
「先輩・・?」
「・・・」
「・・・プーは?」
「・・・・・。ゴメン」
「・・」
―それはどういう意味での「ゴメン」なのですか?
そう聞き返したかった七咲の言葉は出る事は無かった。
しかし二人の中でその言葉は実際には顕実化しなくても最早存在した言葉であるかのように会話は進んだ。
「プーは・・」
「プーは?」
「・・いなかった」
「・・そうですか」
「・・在ったのはコレだけ・・」
広大はそう言って掲げたまだ濡れたままの右手の握り拳を頑なに開けようとしなかった。しかし、七咲の視線によってまるで太陽に向かって蕾が花開くように閉じた手は開いていく。
しかしそこに現れたのはまた・・蕾。銀色の・・決して開く事は無い蕾。
―チリン・・
広大の掌でやや濡れたプーの鈴はいつもと同じ音を響かせた。
先程茂みの奥でまるで心臓の鼓動の様な周期で響いていたそれを広大は回収したのである。
・・何故かはわからない。だがそれを見た瞬間に七咲は悟った。
広大がつい五分ほど前にそれを眼にした際の心境に七咲も踏み入った。
―ああ。
―もう。
―プーには会えない。
―ねぇ七咲?君が最後に会った時プーはどんな顔をしてたの?
―どんな顔をしてたって言われても・・いつもと変わらずに・・ただじっと私を見てました。遠目からじっと・・。
―・・・!そっか。同じだ。
―・・同じ?
―うん。俺も猫を飼ってたんだけどね。俺よりも三歳年上の雄の黒猫。名前はそのまんまでクロ。
―そうなんですか。
―俺が八歳の時居なくなっちゃったんだ。死んだとかじゃなくて居なくなっちゃった。
―・・それ・・。
―で、そのクロの最後の姿を見たのが俺だったわけ。屋根の上から見下ろすようにじっとこっちを見てた。で、ぷいっと素っ気なく目を切った。それが最後。
―偶然・・?
―どうなんだろうな。でも猫は自分の「最期」の姿を自分の飼い主に見せてくれないってよくいうけど単なる迷信じゃないと思う。おかげでウチの母親は未だに受け入れられなくて「いずれクロは帰ってくる」って言って未だに猫が飼えない状態だよ。
―・・。・・プーは私を「飼い主」として認めてくれていたんでしょうか。
―それも解らない。けどプーは残してくれた。この鈴。多分七咲に、響姉に。そして水泳部の皆にね。だからそれ受け取ってくれる?
―・・でも見つけたのは先輩ですよ?
―世話もせずに無責任に可愛がろうとした人間は「飼い主」とは言わないの。
―へぇ・・。
―・・ゴメン。これ響姉の受け売り。
―そんな感じはしました。
―きっと皆も響姉も納得してくれるだろ。
チリン・・
―はい。
猫が飼い主に自分の最期の姿を見せないと言うのは決してただの迷信とも言い切れない。
科学的根拠に基づいた説もある。
ネコ科の動物は何らかの怪我、もしくは病気になった際、誰にも邪魔されない静かな場所でゆっくりと体力の回復を図るという習性がある。
しかし、全ての猫が回復するわけではない。当然その間餌も調達できないのだからそのまま動けなくなり、ひっそりと死んでしまう場合だってある。
結果人間には猫の死がはっきりと自覚できず、忽然と居なくなってしまったように感じるのだ。それを勝手にセンチなヒューマニズムに置き換えて人間のいいように解釈しているだけなのかもしれない。
だがそれでも人間はそう思いたいのだ。
自分が愛し、また愛してくれた彼らが自分の死によって悲しませたくないがための行為だと。
もしくは広大の母親のように何処かで生きていると信じたいというのもあるだろう。
今は
サヨナラ
また
イツカ
と。
―じゃ俺行くわ。・・一人でも大丈夫?七咲。
―・・大丈夫です。これでも先輩よりもしっかりしてるつもりですから。
―違いねぇ。その調子。でわ。
―先輩?
―ん?
唐突な話の変化だった。あまりにも不自然すぎる会話の変容。
―私・・応援しますよ。
―・・・?何を?
―先輩と・・塚原先輩とのこと。まぁ私が何かできるってワケでもなさそうですけど―
・・応援しますよ。
そう言って少女は黒く短い髪を軽く掻き分ける。広大から受け取ったプーの鈴を握りながら。
チリン・・
その音は何故か呼応するみたいに七咲の体の奥底に在る「何か」をチクリと引っ掻く。