4 有人やります 前
「最終日」から数日後のことである。
「今日もすまないわね~源君」
「いいえ」
担任の高橋のパシリを快く引き受けた源は今日も無給で彼女の愚痴を聞く。
と、言っても流石に高橋もただでこき使う様子は無かった。最近、現代文の授業中の中間試験問題の出題範囲、問題の傾向のヒントを小出しながらもいつも以上にしてくれている。
どうやら今回は漢字、読みの配分、配点を増やすつもりらしい。
「『読める』、『書ける』、両方出来ないと漢字は『知っている』とは言えないわ。そして欲を言えば漢字の正しい意味もちゃんと辞書で調べて理解しておくこと!文章読解の助けになってくれるはず」
恐らく今回は最初か最後の二十問ぐらい漢字の読み、書きに回すんじゃないだろうか。
要するに知ってさえすれば時間も手間もかからず、配点が一問一点とすれば20点以上も稼げるということである。
テストを「作る」側として作るのも採点も楽ということから手抜きしたい感情も読み取れたのだが創設祭と日々の教師の務めの間で板挟みに合って疲れている彼女を責めるのは酷である。
「どうですか?創設祭の用意の進捗状況は?」
有人の問いかけにう~んと高橋は眉をしかめ、顎に手を添える。まだまだ懸念点は尽きないようだ。
「ん~・・・正直言っちゃうと芳しくないわね。実行委員の中でも意見が分かれてきてるのよ。生徒主導で本格的にするのか、それとも時間の都合に合わせて外注するのか、とかのね」
「その決定で時間喰っちゃいますね・・」
「ただそれも絢辻さんのおかげで何とかなりそう。昨日準備作業のスケジュールプランを大幅に見直した修正版を用意してくれてね?外注派も納得の内容で今年も生徒主導で何とかやっていけそうな感じにしてくれたわ」
「相変わらず凄いな・・絢辻さん」
ええ、全く頭が下がる思いだわ、と高橋は自嘲気味に苦笑いした後、
「でも・・少し心配だわ。ここまで絢辻さんにおんぶに抱っこじゃいくら絢辻さんでもね・・」
こう言った。その高橋の予想は当たっていた。
絢辻が倒れ、早退したのをクラスメイトの棚町 薫から有人が聞いたのはその日の昼休みのことだった。
「やっぱり無理してたのね~。こう過密スケジュールじゃ倒れたくもなるって」
「中間試験前の上に創設祭の実行委員長、クラス委員長の仕事、おまけに他人の勉強の相談もしてたからな・・絢辻さん」
「プラス朝一の体育だったしね。倒れたくなるのも解るわ・・私も・・ふぁ・・眠い」
「お前はまだ余裕があるね・・」
棚町と国枝は心配そうにぽっかりと空いた絢辻の席を見てそう言った。
無遅刻、無早退、無欠席。
彼女に何一つ欠けていなかったものが年末を控えたこの時期にとうとう途絶える。
「本人は『軽い貧血』だって大したことなさそうに言ってたけど・・強がってんのがみえみえだったぜ。あれぜってぇ熱ある。・・大事をとって明日は休むだろうな。まず間違いなく」
絢辻が倒れたその場にたまたま居合わせたらしい梅原も心配そうにそう呟く。
「自分の足で帰ったらしいけど・・大丈夫なの?絢辻さん」
「女子の何人か家にまで送ろうとしたらしいんだけどよ。断ったらしいわ。水臭ぇよな・・」
「・・・」
「有人?」
珍しく終始無言だった有人に彼の親友―国枝が話しかける。この手の話題に反応しない彼が不思議だったようだ。
―・・・。
有人には何となく原因は解った。恐らく絢辻は誰かに送ってもらう事で「あの姉」にその誰かを会わせることを避けたかったのだろう。
有人の予想は正解である。
大学生である縁の生活サイクルはやや特殊だ。
そしてこの日は絢辻にとってタイミングが悪い事に彼女の大学の午前中の講義が終わった時点で姉の縁は下校できる日であった。彼女が帰宅しており、またあの河川敷周辺でうろついていれば先日の有人のように鉢合わせする可能性はある。姉が何処かで道草、サークル活動でもしていれば話は別だが確証は存在しない。そして事実、
「おかえり~つかさちゃん。今日は随分早いのね~?」
「・・ただいま」
いつも通り能天気に縁は早退した絢辻を午後一時ごろに自宅で出迎えている。絢辻は「大事をとって良かった」と内心ホッと胸をなでおろしていた。
再び2-A教室―
「・・梅原?」
「おお。なんでぇ大将?」
「・・絢辻さんの自宅ってどこか解らないかな?」
「・・・!・・任せとけ。調べてみらぁ」
「うん。ありがと」
「有人・・」
「ん?」
「行くからにゃあ差し入れが必要だな・・少ないけど持ってけ」
国枝の机の上に一枚の五百円玉がピシリと置かれた。普段はポーカーフェイスの国枝がややクスリと笑う。
「・・うん、ま。しゃーないわね」
国枝の意図を察し、棚町もそう答え、再び同じ音が机の上に響く。
「よっし!けーこにも出させるか!」
「無理強いはやめろよ」と、国枝が棚町を諌めたが田中は話を聞くと喜んで出資してくれた。おまけに字が達筆な彼女は授業のノートをまとめたものまで後日貸してくれた。
「絢辻さんのノートに比べたらお粗末なものだけどね」
そして
「くっ・・なけなしの五百円、ゲン持ってけぇ!」
杉内。
「このクラスで絢辻さんのお世話になっていない人って居ないから」
御崎。
・・3500円。充分だ。
簡素な花に、果物か栄養ドリンクでも付けて少しお釣りがくるだろう。
そして翌日、予想通り絢辻は学校を休んだ。その日の下校時間―
「よし!最後に激励の意味で私のパンチを『お見舞い』してやろうかな!」
出陣の有人を前にして棚町は愉快そうに意味不明な発言をして拳にはぁっと息を吹きかける。何時も思うがこの動作って何の意味があるのか、と有人は思う。しかし要点はそこではない。
「え・・?棚町さん・・『それ』俺にするの?」
「だって病人の絢辻さんにするわけにはいかないでしょ?なら今からお見舞いに行くみなもっちに『お見舞い』しておくしか無いんじゃない?」
も、もう意味が解らない。
有人の混乱をよそに棚町は意気揚々と右肩をぐるぐる回しだす。
「いくわよ?みなもっち~目ぇつぶれ~~歯ぁ~~食いしばれ~~ん~・・・」
ぶおっ!
「・・やっぱり俺か」
「チッ」
すんでのところで切れのいい右ストレートをかわした国枝に本気の舌打ちをかまして悔しそうに棚町は眉を歪めた。
「お、お後がよろしい様で」
梅原がとりあえず場を収める。最後に夫婦漫才を披露して友人達は有人を温かく見送ってくれた。
「・・いってきます」
「・・この住所?」
有人は先日、大量のジュース、そして今日はお見舞いの品でふらつく愛車を止め、梅原か
ら手渡された絢辻の現住所を書いた地図を手に周りを見回した。
中々詳細な地図であり、梅原がこの情報を何処で入手したのかが気になる所である。
地図で判断する限り吉備東の河川敷付近だということは解っていた。そもそもあの場所で絢辻姉妹の二人に同時に遭遇する以上、家は近所と考えるのが自然。だったが・・
―この前の場所とモロ被りじゃん。
電信柱に書かれた現住所を見る。すると先日絢辻の姉、縁と遭遇した場所付近に躍り出た。
思った以上にこの近所に二人は住んでいたようだ。
―また今日もいたりして・・。
そんな些細な不安と期待を持って丘を越えると何時もの吉備東の河川敷の姿が見える。
今日はそこには縁の姿は無かった。
「ま、そうだよね」
ワン!
「うおっ!」
背後からやや太めの大きな犬の吠える声が響いたと思うと元気いっぱいの見覚えのあるゴールデンレトリーバーがはっはと機嫌よさそうに有人の周りを駆けていく。
「おお。お前か」
「あー。あなた・・つうや君?」
「え・・」
―???通訳?
犬の登場のインパクトを一瞬でかき消す更に印象深い声が背後より響いた。振り返ると相変わらず年齢不相応なほどの幼ない笑顔でこちらに歩いてくる美しい女性が居た。
「やっぱりつうや君だ。こんにちは」
―・・「つうや君」?
名前は覚えてもらえてない様だ。絢辻の姉は有人を「犬の通訳役」とインプットし、結果彼の名前を「つうや君」に改竄したらしい。だが何とも「らしい」超理論である。
―まぁ・・「ゆうと」の「う」と名前の響きが徐々に近くなっているので良しとしよう。
独特の妥協案を展開して有人は話を進めようとする。何にしてもありがたい。当人の家族に会えたなら話が早いからだ。
「どうしたの?今日は・・?ひょっとして遊びに来てくれたのかな?」
「あ、いえ。今日はその・・」
有人はちらりと自分の愛車を見る。古いが手入れの行き届いた彼の愛車のロードバイクに綺麗な花束と・・何故かでんとドでかい果物籠がある。前日までの彼らの友人のカンパ予算ではこれ程の物は買えないはずであるが実は今日、「絢辻の家に見舞いに行くつもりなんです」と担任の高橋に言った所、思いがけない副収入があった。彼女はそっと有人のポケットに五千円札を忍ばせたのである。
「・・・バレたら問題だからサ。黙っていてね?」
気は良いが少々一生徒に借りを作りすぎではないか?と、内心有人は眼前の愛すべき担任に苦笑いした。教師としては褒められた行為ではない。が、その予想外のワイロのおかげで見舞いの品の劇的なクオリティの向上につながった。お金ってほ~んとうにイイもんですねぇ。
「綺麗な花束・・ひょっとしてつかさちゃんに用事かな?」
「はい。今日お休みだったので絢辻さんの様子を見にきたんですけど・・どうですか?」
「うーん・・どうなんだろ?つかさちゃんってあんまり喋らないからなぁ」
「・・はぁ」
「やっぱり喋ってくれないとやっぱり良く解らないわよねぇ?そう思わない?」
そう言って無邪気に笑う縁の顔が有人には初めて少し酷薄なように見えた。
「・・・。あの・・それじゃあ縁さん。これ・・花束とちょっとしたつまらない物なんですがお見舞いの品です。絢辻さんに渡してもらえませんか?」
とりあえず詳しい症状が解らない上、アポを取って無い以上直接会うのも気が引けた。余計な気を遣わせてしまって無理をする絢辻の姿が目に浮かぶ。快方に向かっているなら少しだけ顔を見せてもよかったかもしれないが流石に闘病真っ最中の顔は絢辻も見せたくないだろう。
「あれ?もう言っちゃうの?折角来てくれたんだし、つかさちゃんに会ってあげてよ」
「え。でも寝ていたら悪いですし・・」
「大丈夫。それに具合は本人に聞くのが一番でしょ?」
「それは・・そうですけど」
「ほら、こっちよ。ついてきて!」
強引な人である。もともと有人はこのどデカイ果物籠は自ら玄関先にまでは運ぶつもりだったので同じ事なのだが。
「ほらほら早く!つうや君!」
「・・『ゆうと』です」
「あれ・・?御免なさい。ゆうや君」
「・・」
―やった・・!後一文字だ!頑張れオレ!
有人の妥協は続く。
・・二分後。
「・・う~ん」
「・・?どうかしました?」
「・・ここ何処?・・ゆうじ君」
「・・え?」
「ゆうた君ここよ。このお部屋」
―・・おしい。だが「タ行」まで来た。もう少しだ。
「・・お二人はマンション住まいだったんですね」
河川敷横に立ち並んだマンション群の中では一番新しい棟の一室に絢辻の部屋はあった。セキュリティの整ったオートロック仕様の高級マンションである。訪問客は該当する部屋番号の呼び鈴を鳴らし、居住者が応答して承認しないとエントランスにも入れない仕様である。
「あら・・つかさちゃんから聞いてなかったかしら?」
「・・ええ。まぁ」
―・・コレは流石に本人から聞かされないと解んないよな。
恐らく梅原の情報源である何者か(ひょっとしたら梅原本人)も流石に情報入手の限界があったようだ。
「え~~と。はい。どうぞ!」
鍵を開け、縁は微笑みながら有人を招き入れてくれた。
「お邪魔します・・」
清潔で最低限の物しかない玄関からは嫌みのない芳香剤の香りがした。細部にも清掃が行き届いており、いかにも「絢辻の家」という感じがする。
「はい♪いらっしゃい」
「・・すいません。すぐお暇しますから」
「気にしないで。ごゆっくり~。二人じゃこの部屋広くて淋しいからお客さんなんて新鮮で嬉しいの」
「そうですか。・・・ん?・・二人?」
「ええ。私とつかさちゃんここで二人暮らししてるの」
「え!?」
「あれぇ・・?つかさちゃんからそれも聞いてな~い?ここね?私の大学から近い下宿先なの。つかさちゃんの通う吉備東高校にも近いからつかさちゃんも高校一年生の時からこっちに来てるんだよ」
「えー・・」
―・・な、尚更入ったらヤバくないか?・・ん?ちょっと待てよ?このマンションから近い大学?
「あの・・ひょっとして縁さんって・・陽泉大学の学生さんですか?」
「ええ!そうよ!知っていてくれて嬉しいな」
―・・嘘。
陽泉大学。
吉備東駅から電車で二つの所にある大学で平均偏差値63以上。倍率は毎年7倍を超える難関私立校である。人は見かけによらない。いや見かけと言うかキャラと言うか。
絢辻の姉→意外なフリーダムな姉→その姉の下宿先で妹と同居→実は高学歴のエリート女子大学生。
その衝撃的事実コンボに有人は流石に辟易した。もう何を信じたらいいのだろうか?
「どうしたの?ゆうき君?遠慮しないで入った入った♪」
「・・・」
―また遠ざかった・・。色んな意味で貴方が遠いです。縁さん。
しかしこの姉。コレだけではとまらない。有人に絢辻の自室の手前まで案内した所でとんでもない事を言いだした。
「じゃあね~ごゆっくり~」
「え・・ゆ、縁さんどこへ?」
「何処へって・・ウルのとこ戻るのよ?」
「ウル・・?」
「そう!あの子の名前よ。この前お水飲ませた時おめめがうるうるしてたからウル。いい名前でしょ?」
―わー・・名前つけちゃったよこの人。
「遠慮なんてしなくていいのよ」
「いや・・そういう意味じゃ無くて・・女の子の部屋に本人に無断で男が入るのは、ですね・・?せめて一言縁さんから予め一声・・断って頂ければ・・」
「だってつかさちゃん寝ちゃってるし・・起こしちゃ悪いわ」
「そ、それはそうなんですけどね!?」
―いやいや・・起こしちゃ悪いって先言ったの俺ですよ。だからお土産だけ渡そうとしたのに・・。
―ダメだ。コレを言ったところで彼女が覚えている可能性は著しく低い。何故陽泉に受かれたのだろうこの人。さては裏口か?
「じゃあ大丈夫!それじゃあ改めてごゆっくり~」
有人は静まり返った絢辻の部屋の前に本当に一人取り残された。
目の前の「つかさちゃんのお部屋❤」と書かれたネームプレートから確実にこの部屋はあの「絢辻 詞」の部屋だと言う事を再認識する。
「・・・」
これはエラいことになりましたよ。
―と、とりあえず。深呼吸・・んで・・。
コンコン・・
有人は絢辻の部屋のドアのノックを叩く。女性の部屋のドアの前に男が無言で仁王立ちしてハァハァしてるのは流石に何かと問題がある。まずはせめて自分の存在を相手に知って貰わないといけない。
「あの・・俺です。源です。いきなり押しかけてごめん・・具合が心配でちょっと顔出しに来たんですけど・・」
―え!?み、源君?な、なんで!?ちょっ・・ちょっと待ってね!まだ入っちゃだめよ!?
正直こんな反応を有人は期待した。だが・・
し~ん
―ひぃ。
無言。静寂は途切れない。内心呻くような思いで有人は
「す、すいません。ちょ~っっと失礼しますね」
セリフに合わせ、ゆ~っっくりドアを開ける。
相変わらず返事、物音は無いものの、ドアを開けた瞬間に人の気配を感じ、耳を澄ませば
微かな寝息が聞こえた。改めて人がいる気配を感じると妙に自分の現状が現実感を伴って顕れてくる。緊張と罪悪感と・・ほんの少しの高揚感。
事実、校内でもトップクラスの美人で、反面ある意味最も謎が多い少女の部屋に有人は潜伏しているのである。しかも無断で。
「・・」
しかし・・そのドアの先に広がった空間は何時もの彼女のイメージ通り隙のない印象だ。
空調も適度に効き、清潔な香りで満たされた室内に定規で整えたかのような棚の教材や本の整頓。あらかじめ自分で置く場所を常に統一しているのだろう。機能的で邪魔にならない配置の家具。女の子らしさを感じるぬいぐるみの位置さえ計算されているかのように感じた。
これを見ると有人は緊張を通り越して、最早感心した。同時呆れた様な小さな溜息をつくと更に感情が落ち着く。自分の部屋すらここまで「調律」できる少女。普段学校で感じさせる印象を自室でも損わない彼女の「らしさ」に舌を巻いた。
その部屋の主本人の姿は未だ確認できない。ベッドの上の掛け布団の少し丸みを帯びた膨らみがやや控えめに上下するだけである。
・・すと
衣擦れの音も気遣いながらゆっくりと座り、有人は楽な姿勢に変えた。自分がここまで冷静に居られるとは思っていなかった。
「・・・帰るか」
冷えた感情は合理的な思考に有人を導く。少し周りを見回すと小さなメモ用紙と鉛筆が勉強机の上に光っていた。鉛筆とメモ用紙一枚を拝借し、部屋の中心の曇りのない硝子テーブルの上にお土産の果物籠と花束を置いてサラサラと有人は書置きを残す。
図抜けて達筆とは言えないが味のある字を彼は書く。
―驚かせて御免なさい。起こすのも悪いのでお見舞いの品だけおいていきます。無理をせずゆっくり休んで体調を戻して下さいね。 高橋先生もクラスの皆も待っています。勿論俺もです。 源
―・・こんなもんかな?
他人に書置きなどした事のない有人は自分の文章に少し首をかしげながらもこれ以上考えてもいい文章など出るまいと割り切り、メモ用紙を二つ折りにして見舞いの品の横に添えようと左手を伸ばし・・た時だった。
「う・・・ん」
「!!」
―げ。
控え目な寝返りと共に僅かに上布団から絢辻の顔がのぞく。途端に有人を取り囲む状況は混沌とした。
そうだ。絢辻はいるのだ。ここに。間抜けな実感が遅まきながら有人の体を襲う。
「・・すぅ・・」
―うっ、わ!やばいやばい、・・ヤバイって!!
そして何と言ってもその無防備な絢辻の寝顔が有人の硬直を増長した。流石の彼女も寝顔を「調律」する事は困難だったか。体調がすぐれない故にやや苦しそうに曲がる眉、やや上気した頬は色白の彼女にしては赤い。
端的に言うと色気がヤバい。苛めたくなるような色香だ。
「・・・!!」
普段の彼女と同じように一分の隙を見せない彼女の部屋とは対称的な無垢な表情をした状態の絢辻に有人は絶句し、先程までとは比にならない罪悪感が襲ってきた。
全身の毛が逆立つような感覚と手を伸ばしたまま硬直した有人の腕は痺れを伴いだしたが一向に動こうとしない。今何の行動をしようとも絢辻を起こしてしまうきっかけを与えてしまいそうだからだ。
「・・・」
とりあえず絢辻の様子を注意深く見る。目は閉じているものの絢辻の視線の方向は確実に有人を捉える角度だ。目を開けられたら文字通り目も当てられない。この状況で見つめられて眼を逸らさない自信は無い。
とりあえずそのまま数秒ほど眺めて何の反応もないので絢辻の意識は依然無い事が解る。まずはメモを置こうと痺れた腕の先をもうひと頑張りさせる。杞憂だとしても置き手紙を置く際の物音にも細心の注意を払った。
カサリ
「っと・・!」
自分が思っていた以上に高い音を置き手紙が出したため、有人は一瞬ひやっとしたが幸いにも絢辻には何の反応もない。事実この音程度で起きるなら起こさないようにすること自体ほぼ無意味。それを実感して開き直った有人は足早に去る事にした。むしろ時間をかけてここに長く居座る方が遥かにリスキーに感じたのである。
「じゃあ・・お大事に~」
手紙を置く音に比べたらよっぽどに危険なその言葉をかけても絢辻は反応しなかった。
それに安心とちょっとした残念さを感じて苦笑いしながら有人は最早気兼ねなく部屋を後にしようとドアを開けた―
瞬間だった。
ばたん!!
玄関のドアが勢いよく空き、
「言い忘れてた!『ゆうと』くーん?鍵は閉めなくていいからね?それじゃ!」
良く通る澄んだ無邪気な声が秒速360mで廊下を伝い、有人が開けたドアの隙間をくぐって密室状態の絢辻の部屋で行き先を失い、共鳴する。
―・・あ。やった。縁さんやっと俺の名前覚えてくれた・・。
・・悲しい少年の
現実逃避だった。
「う、うん・・・?」
掛け布団から覗く絢辻の瞳が伏せ目がちに薄く開き、
「・・・?・・・!?」
次の瞬間には爛々と輝き、
「・・・!!??」
次の瞬間にはカッと見開いて、瞳孔が収縮していた。