下校路にて―
「じゃあ有人君・・ごめんね?色々また相談に乗ってもらっちゃって・・」
沢木は遠目に見えた自分が乗車する予定のバスを確認すると、バス亭のベンチからすっと立ち上がり、早めのお礼を有人に行った。
有人が下校路で逃げたつもりの絢辻に遭遇した訳はコレである。バス停までの沢木への見送りの為だ。結果絢辻の大脱出は悲しいかな逆に有人の進行方向に回り込む形になってしたのである。「逃げた」のは絢辻だが、「回り込んでいた」のもまた絢辻という皮肉な構図である。
「ううん。また兄貴に連絡してやってよ。何だかんだ言っても淋しそうだったから」
「あは・・いいのかな?勉強の邪魔にならないかな?」
困ったように笑いながらも明るい表情をして沢木と呼ばれる少女は笑う。
「大丈夫。浪人生のくせに意外に淋しそうにヒマしてる時あるから。たまには・・どっかに連れ出したげてよ」
「・・うん!解った!ありがとう有人君!・・あ、あの!」
有人の励ましにハッキリと力強く頷いて沢木は今度こそ満面の笑みでほほ笑み、次に絢辻にやや申し訳なさそうな視線を向けた。
「・・はい?」
「絢辻さん・・、でしたよね?すいません・・創設祭の準備がお忙しいのに有人君をお借りして・・」
「いいえ。そんな。・・よかったら彼氏とお二人で創設祭、いらして下さいね?私達吉備東高校創設祭実行委員一同!御来校をお待ちしております」
ちらりと「私達」―創設祭実行委員のメンバー同士である有人の方を一瞬ちらりと見、すぐ沢木の方に向きなおって、絢辻は礼儀正しく小さなお辞儀をした。
「はい!是非!」
沢木の返事と同時、バスのドアが閉まる。ふっきれた様な明るい表情の少女が控え目にドアの前で手を振る姿が見えた。相変わらず控え目だが、彼氏が居るだけあってその仕草は中々可愛らしい。
―・・。
その姿が今の絢辻にとってとても眩しく感じられた。
バスは動き出し、彼女の姿はすぐに見えなくなる。残された有人と絢辻の二人は視線を次第に遠くなっていくバスに向けたまま
「・・沢木さんと貴方のお兄さん・・・上手く行くといいわね?」
「・・うん」
ぽつりとこう呟いた。
「・・ごめんね?絢辻さん。御待たせしました。実行委員の仕事に戻ります」
突如目の前に現れた絢辻への色々浮かんでくる疑問を少年は飲み込み、何時ものように微笑んで絢辻を促す。しかし、絢辻は気付いていた。その態度、そして感じられる感情図のどこかに何時もの彼とは違った「逃げ」、「戸惑い」の姿勢が少なからず混ざっている事を。
原因はいわずもがな、である。
「・・・。戻らなくていいわ」
「え?」
「今日私サボったから。貴方もサボりなさい」
「でも」
「・・。源君」
「はい?」
「・・。ゴメンナサイ。モウ、コンナコトシマセンカラユルシテクダサイ」
「・・・?」
―・・・棒読み?
一見すると全く以てふざけた、心の籠っていない謝罪に見えるかもしれない。が、これこそが今絢辻が行える最大限の謝罪だった。
今回の事件―絢辻の複雑な心情と誤解と事情が重なり、結果現在、取り繕う事も彼女お得意の仮面で覆い隠す事も出来ずに表面に現れてしまった剥き出しの言葉である。
「本音」というものは必ずしも一般イメージ的な態度と行動と共にはっきり現れるわけではない。
自分がこういう時、心から本心を伝えたい時、相手に理解してもらいたい時、どんな表情をすればいいのか?どんな声色で話せばいいのか?という正解を常に人間は解るわけではない。だからこそ他人に自分の本音を理解させることは難しい。
自分は本音を吐露しているつもりでも相手に伝わらず、意図に反した相手の曲解、誤解を生む事だってある。
それを避けるために絢辻は今まで自分の表情を調律する事を、本音―本当の自分を押し隠して自分の意図を通しつつ相手が「納得する」謝罪を繰り返してきた。
矛盾がはらむ言葉を承知で言い換えるならば、「嘘」を通して自分の「本音」を伝えてきた。
それは完璧だった。今の今まで。この瞬間までは。
「・・・」
「・・・」
絢辻は押し黙る有人を見て考え込む。
今の彼の感情図に含まれるのは憤りだろうか?
失望だろうか?
呆れだろうか?
絢辻のどこか冷静な部分が今の失態に両手を腰に当て、目を泳がしながら大きな溜息を突く。
―何やっているんだか・・私。ホントに。
今の彼と目を合わすのがおっかない。後ろめたい。逃げ出したい。
・・怖いよ。
「・・ううん。いいよ」
ふるふると首を振って有人はそう言った。本日の絢辻の数々の暴挙の理由を問い質そうともせず、ただ絢辻の精一杯の謝意を読み取って受け入れた。内側に眉を精一杯曲げて痛々しそうにしかし、何時ものように・・優しく。
「・・・・!」
簡単で短い、ただ返事をしただけの有人の言葉だが絢辻にとってそれで十分だった。
「・・そう。・・よかった」
有人の返事に絢辻もほんの少しの返事を返す。最低限の。しかし心の底からの安堵は覆い隠せない。目を閉じ、はぁっと深く息を吐く。
そしてそこからすぅっっと一呼吸する。するとまるで生まれて初めて空気を吸ったみたいに新鮮で冷たい空気によって肺が、体が、そして心が満たされていく。冷たい感触に感情が冷え、意識がはっきりしてくる。
これが本当の「謝る」。そして「許してもらう」という事か。・・何て素敵な感覚だろう。
冷えた心とは対照的に目頭が熱くなるのを感じる。
―ああ良かった。
よかった。
ヨカッタ・・!
「じゃ・・帰りましょうか」
「うん」
潤んだ瞳を見られない様に踵を返し、今日も絢辻は有人の一歩先を歩く。何時ものように。だが何時もと違って絢辻は歩みをすぐにピタリと止めた。後ろ姿を有人に向けながらぴんと人差指を立てる。
「あ。言い忘れてた。源君?」
「何?」
「決めた。貴方を私の物にします」
「・・・はい?」
くるりと振り返ったかと思えばいきなりのその絢辻の言葉。傍から見れば「告白」とも捉えられかねないその言葉だが、その言葉を聞いた有人の捉え方は全く異なる。明らかに「所有権」。「者」では無く「物」と扱われた事に疑う余地は無い。何故なら振り返った絢辻は既に何時もの絢辻に戻っていたからだ。
「・・・」
「・・何かリアクションを所望します」
「・・・」
「・・・」
―おい。コラ。
「・・・」
「・・・」
―いい加減に・・。
「ていっ!」
的確に絢辻のトゥキックは有人の脛の、さらに痛みのスィートスポットを捉えていた。
「いってぇっ!」
「・・・聞いてる?」
絢辻は患部を両手で押さえた有人を見下ろし、冷たい声と視線で言い放つ。
―は、はい。「きいて」ます。色んな意味で。でも・・
「絢辻さん・・ここ通学路だよ。見られたら・・」
「あ。いけない。場所移すわよ」
「あ、ちょっと!!待って!!」
大して動じもせず、絢辻はさっさと駆けだした。脛を負傷した有人を全く気遣う事の無い歩みで絢辻は先々進んで行った。
数分後―
二人は絢辻の希望でコンビニに入店していた。
「・・御待たせ」
コンビニの雑誌コーナーを見ていた有人に絢辻は後ろから声をかける。改めて絢辻に今朝盛大にネタばれされた漫画を見るべきか、見ざるべきかを考えていたらしい。
「もういいの?早かったね」
「うん・・あ。よかったら源君もう少し立ち読みする?」
「いいよ。何時でも見られるし」
―今週号に関しては内容もほぼ解ってるしね・・。
「・・そう。解った」
そう言って絢辻は店を先に出ようと再び有人に背を向けてゆっくり歩き出した。それに続こうとした有人が違和感につと足を止める。
―・・あれ?絢辻さん手ぶらだ。何か買っていたみたいだったのに・・。鞄にもう入れたのかな?
手に取った雑誌を棚にしまいながら疑問に思いつつも有人は背を向けた絢辻に続いた。
「何処に行くの?」
「・・。そうね・・人が居なくて静かに話せる所・・吉備東神社でいいかしら?」
吉備東神社―社の裏庭
ザァアアアアッ・・
―綺麗な所だよな・・ココ。
有人があの日、正式に絢辻の本性と初めて向き合った其の場所を見回す。あの日は景色を楽しむ余裕も無かったがいざ改めて落ち着いて眺めると、緑の竹林に囲まれたまさしく「和」の景観は美しく、耳を通り抜ける風とすれ合う葉の音が非常に心地いい場所である事に気付く。絢辻がここを気に入っている理由が解る気がする。
尤も別に彼女はこの場所を「気に入っている」とはっきりと有人に言ったわけではない。聞いた所で本人は「静かで一人で考え事するのに都合がいいのよ。別にそんなんじゃないわ」―などとはぐらかしそうだが。
「・・?何よ」
「いや、別に。絢辻さんはこの場所を気に入ってるんだなって思っただけ」
「そういうワケじゃないわよ。ただ静かで都合がいいから利用してるだけ」
「・・ぷ!」
予想以上に思った通りの絢辻らしい返答が即時帰ってきたため、有人は堪え切れずに少し吹きだした。当然絢辻はじとりと不機嫌なカオをする。
「・・・。へぇ~~・・女の子の話を聞いていきなり吹きだすなんて失礼ね・・」
「あ、ごめん。でも何ていうのか・・」
「ん?」
「絢辻さんの事・・少しは俺も解ってきたのかな~・・って。あっはは~~」
イラッ・・
そんな音が絢辻から聞こえてきそうだった。
「・・。その口何か詰めて欲しいみたいね?ここには砂・・笹の葉色々あるけどまずは何がいいかしら?あ?昆虫は・・もうそろそろ冬だから居ないか~残念・・」
「・・ごめんなさい」
「よろしい。・・本題入るわよ?いい?」
「・・。うん・・。」
「貴方を私の物にします。以上」
「・・」
「・・」
「終わり!?」
「ええ」
「・・」
「・・・」
「・・・」
「・・・」
ぶちん。
「また黙るの!?ちょっとは理由とか意図を聞こうとか、本気なのか冗談なのかって聞きだそうとかするでしょう?普通!」
とーとー絢辻の堪忍袋の緒が切れた。
「・・。あ。そう言えばそうだね」
「全く・・ここに来るまでにどう答えようかとかちゃんと考えとくぐらいしなさいよ」
「・・あんまりにも急すぎて現実味無くて・・あの言葉がホントの出来事だったのかな~って思ってさ・・その・・ごめん」
「・・」
まぁ仕方のない所もある。絢辻の都合上、公衆の面前では公にじっくりと話しあう事も出来ず、一旦落ち着けて話せる場所に向かう故に時間差がどうしても発生する。その上あの唐突な脈絡も無い、そして普段の絢辻のイメージからは連想の難しいあの台詞である。何かの間違い、聞き間違いじゃ無かったのか、もしくは気まぐれな冗談か何かと考えてしまっても無理は無い。
―自分と言う人間が・・非常にメンドクサイ・・。
絢辻は自分に課したルールで生じる弊害をここまで歯痒く思う事は無く、この時初めて知った。言ってしまった後、徐々にじりじりと心臓の音が跳ね上がる様な台詞をちゃんと真正面から受け取ってもらえない事の歯痒さを。
「では・・不本意ですが、一から説明します」
「不本意なんだ・・」
「はい黙る。口に直接投げ入れてもいいのよ」
いつの間にか絢辻の手には小石。それを右手に握り直し、絢辻は振りかぶった。
・・ワインドアップがこれ程様になる女子高生も珍しい。コレはそれなりの球が来るで。
「・・」
「よろしい」
仕切り直し。
「・・。源君は危なっかしいです。素直でお人好しで放っておくとハラハラします。だから私が管理します。おわり」
「いや大してかわんねぇって!シンプルすぎるよ!」
「大まかな事は端折ったわ。文句ある?」
「文句?うぅぅ・・あってもあるなんて言えないようにしてるくせに・・」
既に絢辻はぶわさっと、振りかぶっていた。絢辻にとって不都合な発言を即感知し、高速で石が射出される事は想像に難くない。
「お返事は?」
「・・解りました」
「イイ子ね♪」
絢辻は上機嫌そうに微笑みながら右手に持った小石を空中で弄んだ。
「・・でも何でまたいきなり?」
「・・・そうね。『観察』かな?」
「観察?」
「そ。私には無い価値観と環境、そして人間関係を持つ貴方の事、・・本当の貴方をもっと知りたくなった・・って感じかな」
「・・・」
「だから・・『管理する』って言っても別に貴方を束縛する訳じゃないわ。束縛しちゃったらそれこそ本末転倒だしね。それこそ『本当の貴方を知る』ことへの最大の障壁、阻害になりかねないから。要するに・・私が少し貴方に対する考え方、見方を変えて接するだけ。特段貴方は何もする必要ないわ」
「絢辻さんが俺の事をもっと知りたい・・?」
「そう。今までより、・・・ほっと!」
そう言って言葉の通り、一歩絢辻はぴょこんと飛び上がり、有人の前へ出る。
「・・・少し近い場所でね」
一歩近付いてみると彼女の生き方、普段の堂々とした佇まいからは考えられないほど小柄な少女がそこにはいた。
仮面少女―一歩前へ。そこで悪戯にふふっと微笑んで上目遣いで有人をじっと見る。
「問題ないかな・・?」
不安そうに聞く割には、自分のルックスにちゃんと自信が在る少女特有の詰め寄り方である。これは年頃の少年には少々辛い。
―う。反則。今まで話してきた中で最も反則的なお願いだよ。絢辻さん。
「・・問題ないです」
「そう。よかった♪」
有人の返事に満足そうに素直に絢辻は微笑んだ。同時、彼女の白い肌がやや紅潮するも有人に比べるとまだまだ余裕が在りそうだ。
「さて!めでたく源君からのOKが出た所で・・」
絢辻はおもむろに上着ポケットに右手を突っ込んだ。
「ん・・・?」
「じゃん」
「・・!・・あ。手帳?」
「そう。手帳よ。貴方がこの前拾ってくれて、そして私の不覚の一端を担った物体です」
そう言って絢辻は手帳の表紙と裏表紙を交互に有人に見せながら少し微笑む。しかし、現在その表情に何処か淋し気な色が混ざっている様な感じが有人はした。
「・・。ちょっと白状するとね?これは私の『心の中』なの」
「こころ?」
「うん。私が思った事、考えた事、予定や約束を文章にして書き留めておく場所、自分が『これは大事だ、忘れちゃいけない、留めておかなければいけない』と思った情報を保存、保護する手帳の本来の役目。そして同時に私が『人には見せない、見せちゃいけない、見せたくない思い』もここに書き記すの」
「見せたくない物がその中に在る・・・だから俺に『見られた』と思ったあの時、あんなに?」
「そうよ。中にはこれを見られたら私がとても学校に居られなくなる様な事も書いてあるわ」
「・・・」
―うわ・・怖いけど少し気になるな。一体何を―
「ま、見ちゃった人間もその時は道連れにしてやるけどね」
―・・・はいダメ!好奇心は人を殺すね!うん!
「・・・。中には源君の事も書いてあるよ」
「え・・俺の事も?」
「どんな罵倒や不満が書かれているんだろう」と有人は一瞬空恐ろしくなった。これ程観察眼と洞察力の鋭い少女だ。さぞ手厳しい、辛辣な事が書かれているに違いない。
「・・知りたい?」
「・・遠慮しときます」
「ふふっ♪良い選択だと思うわ」
「・・源君の事だけじゃないよ。他の皆の事も書いてある。源君が話した事も無いような人の事もたくさんたくさん載ってる」
「・・・」
「源君?・・一学期の初め・・私が作った『自己紹介用紙』覚えてる?ホラ・・後ろに張りだしたヤツ」
「あぁ・・うん。覚えてるよ?」
「あれはね?実は当たり障りのない質問の中でその人の性格、思考の傾向、本音を無意識にだしてしまう・・言い換えるなら心理テストみたいな内容なの。それを素に新しいクラスメイト一人一人の個人の情報を纏めて・・それに加えて日々の学校生活の中でその都度情報をくわえたり、また逆に省いたりもして纏めたものがこの手帳の中には記されてるわ」
「・・・!」
有人は思いがけない所であの春の日―出逢ったばかりの絢辻から手渡された自己紹介用紙の目的、末路を知る事になった。やはりあれを回収、処分したのは絢辻だった。あの始まりの日から既に絢辻の暗躍は始まっていたのだ。
「どう?私の『心』だっていうのも納得でしょ?綺麗事や都合のいい事だけを纏めただけじゃなく普段は表に出せない私の嘘偽りない言葉がこの中には詰まってるの。・・そんなもの人に見せられたものじゃないでしょ?これを誰かに見られるって事は、陰で情報を集め、ひっそりと他人を丸裸にしている私が逆に丸裸にされ兼ねない代物・・おかしいでしょ?こんな物を常に持ち歩いているなんて」
そう言って彼女はまた笑った。しかし今度は微笑みながらも眉がはっきりと少し内側に曲がっている。
「これを使って私は今までやってきた。そしてこれからも・・そうしていくつもり・・」
絢辻はそう言って再び右手でポケットの中を探った。そしてこう付け加えた。
「・・『だった』でも・・もうオシマイ」
ポケットからでてきた絢辻の右腕に握られていたのはまだ真新しい、先程寄ったコンビニのシールが貼られた小さなオイルライターだった。
この手帳は彼女にとって役に立った。ここに書かれた情報を整理、修正した情報を活用すればいざという時その情報に合わせ、目標の人間をどう動かせばいいのか、何をすればいいのかをある程度理解出来た。
そして時には言い表せない、彼女の立場上、表に出すわけにはいかない、積み重なった鬱憤、憤り、理不尽に対する不満を受け止めてくれる場所もまたこの手帳だった。
でも所詮、「情報は情報」だ。「情報」は確かにそこら中に転がっているが所詮「情報」=「真実」ではない。今日起きた有人の出来事がいい例だ。
一人の人間を知る、理解しきる、纏めきるにはこの手帳はあまりにも小さく、薄すぎる。人はそれほど複雑で多岐の分類に枝分かれした「個」だ。それを一冊の手帳にデータとして取りまとめたぐらいでその人間を理解することなどおごがましいのだ。
人を知り、調べ、この手帳に纏める事で自分はその人を「知った」と絢辻は勘違いしていた。その手帳は情報を素に一見客観的な事実を羅列したようで実は他でも無い絢辻自身を写す鏡だったのだ。そこに描かれている人物は絢辻の中で作りだした物。本当の姿では決して無い。
今日その事に気付いた。
源 有人という少年を絢辻 詞という少女が理解しようとした事によって。
「絢辻さん・・?・・・えっ!」
カチッ・・カチッ!
絢辻はオイルライターのスイッチを二、三度押す。四回目で赤い炎が出た。そしてそれを惜しげもなく手帳の下部の角に当てる。ジジジと音を立て、徐々に黒い煙が上がった。
紙の部分と革で出来た部分の燃焼の具合が大きく違う。紙は赤い炎を上げすぐに燃え尽きて灰になり、黒い革地の部分は黒い煙と嫌な臭いをぶすぶすと出しながら徐々に炭化していく。もうここで炎を慌てて消したとしても、その物体は手帳としての体を成さない。
「・・・いいの?」
「・・うん。もうこれは私には必要ないものなの。こんな物よりも大事なものがあるって気付いたから。先に進むならこれを何処かにしまうとか、誰かに渡すとかみたいに中途半端な事をするよりいっそ無くしてしまった方がいい、シンプルだから―今はそう思うの。そしてぽっかり其処に空いた場所に新しいものを入れていく。・・私、今度は間違えない」
「・・・」
「・・源君。見ててくれるかな?私を」
「・・・俺で・・」
「『俺でよければ』はなし」
「・・うん。わかった」
「・・ありがとう。覚えておいて。ここが私の再出発点」
絢辻は足元に燃えた手帳を落とし、有人と向かい合った。手帳から今だ燻ぶる煙がお互いの顔を少し見えなくする。しかしそれもすぐに消え、有人の目には表情のない絢辻の顔が映ったと思うとすぐに絢辻は瞳を閉じて微笑んだ。彼女が自分の「心」と呼んだ手帳の中身を燃やすことで舞い上がった煙をまるで絢辻自らに染み込ませたように有人には見えた。
完全に燻ぶる煙が消えた後、伏せ目がちに瞳を開き、絢辻がこう口を開いた。やや悲しげな口調で。
「・・・。凄く正直に言うと貴方が居て楽しかった。嬉しかった。それでよかった。そこに不安を覚えるまでは」
「不安・・?」
「そう。・・貴方が居なくなる。遠くに行ってしまう可能性」
絢辻は今回の件で誤解とは言え思い知った。自分がまだまだ何処か彼に距離を置こうと、楽にしようと思っていた事を。
「自分自身には自信がある」、「生まれ持ったこの頭、そして体は伊達じゃない」、「身も心もやわな鍛え方はしていない」、「だから一人の人間を繋ぎとめておく位造作も無い事だ」―と思っていた。
しかし思い知った。それは思いあがり。その証拠があんな愚行達だ。
事実関係もろくすっぽ調べもせず勢いのまま自分の中で「源 有人という少年」を勝手に作り上げ、一方的な悪意を以て私怨に走った。それがどれ程に危険で理不尽な感情である事を頭のどこかで理解しながら理性で止める事が出来なかった。
不覚も不覚。自分に厳しい彼女にとって屈辱的な出来事だった。
しかし、それは紛れもない事実をも表し、絢辻に自覚させる。予想以上に、自分が考えていた以上に「源 有人という少年」の存在が彼女の中で大きくなっている、影響を及ぼしている純然たる事実。それは最早受け入れるしかなかった。
そしてこの先を行くには今のままの自分ではダメだという事を思い知った。
「・・・。一応今のところ引っ越しとか転校する予定は俺には無いんだけどな」
「・・・」
「あはっ・・ごめん」
有人はおどけたが絢辻は反応しなかった。今の絢辻の言葉にはいつものからかいや悪戯は無い。真剣そのもの。それに気付きつつもどこか砕けずに有人は居られなかった。でも、彼もまた向き合うほかない。有人もまた心根を少し入れ変える。
「・・俺はそう簡単に居なくならないよ。俺だって絢辻さんと一緒に入れて楽しかったし、嬉しかった」
「・・ホント?」
「うん」
「でも・・証明できるものは何もない。違う?」
「・・証明?」
「そう。だって・・貴方と私には何もないんだもの?過去も、どういう風に生きてきたかもお互いに全く知らない。ただ今は同じ時間と場所を共有しているだけ。それがこれからも続く保証も全くない」
「それは・・そうかもしれないけど」
「だからって私はずっと貴方に側にいてとは言えない。束縛も強制も出来ない」
「・・そうなの?」
その言葉の本当の意味を有人は推し量りかねた。
「だから・・私は貴方を私の物とすると同時に私は貴方に私をあげる。・・そのかわり・・貴方が居る今の日常を私に頂戴」
―源 有人という少年と絢辻 詞という少女が共に居る時間を私に・・下さい。
「・・これは契約・・」
「・・え?」
「これは恫喝でも強制でも何でもないわ。お互いの同意が無いと成立しない・・契約よ」
そう言いつつ絢辻はゆっくりと有人の目の前に右手を差し出した。
「・・手をとってくれますか?」
細く、小さく、真っ白な手。そして・・ほんの少し震えていた。
「・・・」
有人はまるでその小さな掌から流れ落ちているものをとりこぼさないようにゆっくりと下から掬う様に絢辻の手に触れる。
とても冷たい。けど有人が触れたことで心なしか震えが治まった様な気がする。
普段、彼女の何時もの行動を支える右手。この小さな手が成してきた、またこれから成す事はきっと添えられた一回り大きい有人の右手よりも遥かに多いはず。
―しかし、
今その白く、小さな絢辻の手は有人の手に簡単に収まるほど小さく、不安気な白い小鳥の様だった。
握りつぶさないように。包み込むように。有人は細心の注意を払った。少女の小さな手に納まっていた手帳に変わり、少年の手が変わりにすっぽりと少女の手を包み込む。
「・・・ありがとう」
「・・・ううん」
「・・・おまけ!」
「え?」
唐突に白い小さな手にいつもの活力が戻り、有人はぐいと引き寄せられた。
―んっ・・・
一瞬でフレームインしてきた絢辻の瞳が妖しく光った一瞬を有人は忘れる事が出来ないだろう。その水晶の様な黒い瞳がほぼゼロ距離で唐突に閉じられたと思うと柔らかく、温かい感触が有人の唇を覆った。
「・・・・!!」
―嘘。
対称的に有人の目は大きく見開かれた。閉じられた絢辻の瞳の長い睫毛が有人の見開かれた目の前にある。逸らしようがない。正直失神寸前の衝動である。
「・・・・・・ふぅ。契約成立ね」
やや上気した顔をゆっくりと離しながら絢辻は微笑んだ。長い髪も整える。
顔と同時に上気して跳ねあがった心臓を必死で押さえこむようにして。
「心臓が壊れるかと思ったわ・・」
珍しく本音も出す。とりあえず吐きだす物吐き出さないと流石の絢辻でも押さえきれないようだ。
「・・・・・」
しかし、片や不意を喰らった有人は完全にマグロ状態である。見開かれた目なんぞいいDHAを含んでいそうだ。
「・・・!!じゃ、じゃあまた明日ね源君!」
絢辻、そんな有人を放置。絢辻にも余裕が無い。
「・・・ここで火遊びをしていたのは君かね」
三十分後、有人は神主に詰問されていた。放火未遂の疑いで書類送検、身柄確保・・までは流石に彼の人徳、善人のオーラによって行かなかった。
色んな意味で濃密な源 有人という少年の一日がようやく終わりを告げる。
「つっ・・絢辻さん・・歯、当たってるよ・・」
唇に指先で触れながらそう呟き、現実感がないふわふわとした足取りで有人は帰路に就く。
一方絢辻も
―もう少し・・優しく触れた方が良かった・・・カナ・・?
全速力で走りながら両の掌で未だ鈍い痛み、そして熱を持つ唇を覆う。
痛みの箇所を押さえているのか。
上気した顔を隠したいのか。
もしくは今の自分の唇を誰にも見せたくないのか。
もうワケが解らなかった。