9 不協和音
「ん・・あれ?え?」
創設祭の会計資料の見直しを行っていた有人が不思議そうな声をあげて目を丸くした。彼の傍らには今回助っ人として呼ばれた国枝、杉内の両名がその声に気付いて振り返る。
「ゲン?」
「・・どした?有人」
「あ、ゴメン。ちょっと確認するから・・電卓とってくれる?」
国枝から無言で手渡された電卓を受け取ると有人はしばらく黙りこんで電卓のキーを叩く。その音が資料室に響いた。そんな有人を見ながら国枝、杉内の両名は?マークが消えないままのお互いの顔を見合わせる。
「・・・やっぱり」
集計した数字と手元の資料を見比べながら有人はそう呟いた。
「・・ミスか?」
「うん」
「ひょっとして結構致命的なミス・・?」
杉内が少し不安そうにそう聞いたが有人は顔色を変えることなく、
「いや・・そうでもないんだけどね?ただでさえ見直し中の今に見つかったから不幸中の幸いって言ったらそうなんだけど」
些細で許容範囲なミスであることを不安そうな杉内に少し笑いかけながらそう言った。
「ほ。そうなのね」
「・・。その割にはお前か~なりびっくりしてたな?」
杉内の安心をよそに、幼馴染の友人の複雑な心情を鋭く読み取った国枝がそう有人に尋ねる。
「まぁ・・お金に関することだからこのままもしミスが見過ごされていたら・・って考えるとちょっと怖いのは確かなんだけどさ」
「・・。他に何か在んの?」
「うん・・これ絢辻さんが纏めた資料なんだ」
「・・。珍しい」
「へぇ・・でも絢辻さんでもたまにはミスぐらいすんじゃね?あ。OKこっち終わったから国枝、チェック頼むわ」
そう言って不安が解消された杉内は自分が纏めた資料を国枝の分と合わせる。
「・・・」
そして未だに不思議そうに手元の資料を前にして首を傾げ続ける有人を少し見た後、国枝は杉内と二人で纏めた資料に目線を移してこちらも確認作業に入る。
「・・。おい杉内。ここ、早速間違ってんぞ・・」
「え」
作業を再開した助っ人の二人の傍らで尚も有人は黙ったままだった。
どんな人間だろうとたまにはミスをする―
確かにそうだ。でも絢辻の「この手の作業に関してのミス」は今までにない。少なくとも有人は今まで見た事がない。
会計上の計算で間違いが生じた際のリスクを重々承知している彼女が。そして暗算が恐ろしく早く、また正確な彼女が。
それ程の計算力を持ちながらそれに驕ることなく見直しを毎回し、また口を酸っぱくしながら有人にも再点検を行うように徹底していた彼女がこのミスを犯した事に「たまにはミスぐらいするんじゃない?」と軽く言い放った杉内の言葉を額面通り素直に受け取る事が有人には出来そうになかった。
一方―
「おい・・ここも間違ってんぞ杉内ィ・・」
「うわ・・すんません。・・え。誤字脱字くらい勘弁して下さいよ~国枝さ~ん」
同い年なのにまるで会社の上司とダメ部下の様な友人二人のやりとりを前に有人はクスリと笑うも、どこかしこりが残るような不安感を拭いきる事が出来なかった。
―翌日。放課後
「・・・君は予定通り舞台上の照明の点検。念のためにライトの電球を新しく発注した新品に変えといて。創設祭当日、本番中に切れちゃったら目も当てられないからね」
「うっす」
「・・次に朱里さんは保健室の来崎先生に創設祭中の保健室を臨時の仮眠室にする際、ベッドの増設についてこの資料を参考に相談してきてほしいの」
「解りました。でも絢辻先輩・・保険の来崎先生捕まりますかね・・?何っ時もいないですし」
「・・ふふ大丈夫。然るべき人に頼んで今日は確実に三時から五時の間、来崎先生は保健室に缶詰めにしてるから。今日に関しては絶対に捕まるわよ?安心して?」
ぱちりと自信気に軽いウィンクをしながら後輩生徒の不安を拭う。
あの雲の様に掴めない保健室の幽霊部員―もとい幽霊先生を捕捉できるとは―
「わかりました。(・・さすが絢辻先輩だなぁ)」
朱里と呼ばれた少女は感心しつつ、その場を後にする。その後ろ姿を見送った後、間髪いれずに絢辻は次の指示に入る。
「・・結城君と美作さんは当初の予定通り備品の買い出し。・・こっそり多めに予算取ってあるから今日作業が終わった皆のために飲み物とちょっとしたお菓子でも買ってきてあげて・・」
「はい了解です♪」
「お菓子の選定は任したわよ・・?結城君・・?」
「へへ・・期待しといてください。今、期間限定で美味いのがあるんですよ。絢辻先輩もびっくりすると思います」
ちょっと太ましい男子生徒―勇気と呼ばれた少年が愉快そうに目を細ませ、「俺に任せといて下さい」と言いたげに不敵に笑う。
「期待してるわ♪・・・じゃあ皆今日も安全第一で!!よろしくお願いします!!」
「「「「はい!」」」」
絢辻の号令の下、一行は一斉に散会、各自持ち場に迷い無い足取りで向かっていく。
―・・ふ~む。
昨日の有人の些細な心配などどこ吹く風。相変わらず絢辻は滞りなく厳粛で的確に、しかしどこかに茶目っ気と労いを混ぜて創設委員達に指示を行っていた。おかげで実行委員達の士気は相変わらず高い。
―・・杞憂、かな?
先日発覚した絢辻のミスを結局有人は絢辻本人に報告することなく、様子を見る事にした。ひょっとしたら絢辻がワザとあの会計ミスを残し、それを点検した有人がちゃんとそれを発見するか試しでもしたのかもしれない―そんな風にも考えられる。
―・・絢辻さんならやりそうな事かも知んないな。うん、大丈夫。考え過ぎ考え過ぎ・・。
そんな思いにふけっている有人に創設実行委員各自に指示を終えた絢辻がくるりと向き直ってきた。両手を胸の前でパンと叩く。とても気力体力ともに充実して元気そうな所作である。
「はい!源君は昨日と同様に資料室で業者さんに連絡して諸作業の再確認!」
「・・了解」
「・・。源君・・?今日は結構こっち系の業者さんにお電話するから粗相のない様にね。万が一機嫌を損ねたら・・あ~~恐ろしいわ・・源君消されちゃうかも」
絢辻は他の委員に聞こえないぐらいの声量で自分の頬に一本線を引きながら怪しい笑顔で有人にそう言った。恐ろしい程の替わり身の早さに―
―・・恐ろしいぐらい平常運転だよ。この子。心配してソンしたかな。
有人は何時もながらに慄いた。
三十分後―
「―はい。はい。ではそれでよろしくお願いいたしいます。はい!お忙しい所大変失礼しました―」
ゆっくりと余韻が残るように有人は受話器を置く。
「ふぅっ・・よしっ!これで終わり・・」
ぎしりと音をたててゴム張りの作業椅子の背もたれに背中を預け、ぷはぁと有人は天井を仰いだ。数週間前、絢辻に叩きこまれた「電話対応マニュアル」漬けの日々を思い出す。・・「卑屈な貴方には丁度いいでしょ」と酷い事を言われながら。
そして先程まで共に同じ作業を行っていた当の絢辻は既に自分の分を終え、その場を後にしていた。
―・・あいっかわらずはえぇな~~絢辻さん。
有人自身もそれなりに創設祭の作業がこなれてきた自信があるのだが、それでも一向に作業量が絢辻に追いつかない。かといって彼女の仕事は作業効率を重視しすぎて丁寧さが損なわれている印象もない。電話対応している相手に対する感謝もおざなりのようには見えなかった。
―こんにちは。
―今日もお疲れ様です。
―御無沙汰しております。お元気でしたか?
―先日はお世話になりました!
そんな風に街中でも創設祭に関係、協力してくれている地元企業、店舗などに下校時に丁寧に挨拶回りをしている彼女の姿を有人は見てきている。終わった後に「社交辞令よ」などと言って誤魔化すのだがそれが「彼女なりの照れ隠し」なのだと最近分かるようになってきた。
卓越な高校生離れした処理能力と指揮能力を持ちながらも同時、彼女は自分一人で出来る事の限界を良く知っている。知らず知らずにまだ自分は子供で周りの大人に支えられている事もまた良く知っている。
学校の内外問わずこれ程広い範囲の賞賛を受けながらもその自惚れの無さには頭が下がる。
「完璧な優等生」と彼女の事を評価する人間は多い。が、彼女自身は自分の「完璧さ」に対する疑問を常に持ち続け、自分の至らない点を補ってくれる人間に対する感謝を常に忘れていない。
一見傲慢な彼女の本性の「本質」を垣間見てこそ彼女の凄さが有人には解った。
が、しかし―
―何でそこまで頑張るのかな・・?
そんな疑問が最近有人を包む事が多くなった。
「・・・」
静かな資料室で天井を見上げながら一人、有人はそんな風に思いふけっていると唐突に資料室のドアをノックする音が聞こえた。絢辻が戻って来たのかもしれない。
「あ・・はい!」
―いかん。こんな姿絢辻さんに見せたらまたどやされる。
慌てて有人は姿勢を正し、わたわたと「仕事してましたよ」姿勢をとる。しかし―
『あ。源先輩?お電話・・終わっていますか?』
「・・・!あ。坂上さん?・・大丈夫!どうぞ!」
ドアの向こうから聞こえてきたのは絢辻の声では無く、後輩の一年生の実行委員の代表の女の子の声だった。坂上という真面目で優秀な少女である。
絢辻を尊敬しているらしく、同時ほのかな後輩らしい友好的な対抗意識をもっている。根が負けず嫌いなのだろう。大人しい創設祭実行委員の多い一年生の中で図抜けて行動力があり、リーダーシップを執れるタイプだ。
「・・失礼します。あれ?源先輩おひとりですか?絢辻先輩は・・?」
「いや?今居ないよ。業者への電話を済ませた後はこっちに戻ってきてないけど・・あれ?終わった後そっちの作業を手伝いに行くって俺に言い残してたんだけどな?」
「はい。確かにそうです。来て下さってさっきまで色々指示を頂いていたんですが・・突然居なくなられて・・源先輩の所に戻ったのかな?と思っていたんですが」
「いんや、戻って無いな・・?解った。心当たり探してみるよ。絢辻さんに何か伝えることある?」
「すいません源先輩、お願いしますね。私から質問が少しあるというのと・・先程絢辻先輩から頂いた実行委員会の行動予定表の資料が・・その、・・あの、・・ですね・・」
少し後輩の少女の表情が曇る。その仕草にこれは「言う必要無い事なのかな・・?」という不安感が漂っている。
「ん?遠慮なく言ってみて」
「・・違うんです。先日終わったはずの作業の資料の方で・・コピーする前に内容確認していたら何か見た事があるなと・・」
「え・・?」
少女の言葉と同時に有人は手渡された資料を流し読みする。・・確かに一週間程前に終了した作業内容だ。・・絢辻に散々こき使われた記憶がありありとよみがえる。
「確かに。・・解った。伝えとくよ」
「・・・」
坂上は不安げな顔をした。「昨日の自分はこんな表情をしていたんだろうな」と有人は思う。昨日の絢辻のミスはひょっとすれば「絢辻の悪戯心による産物」という可能性が少なからずあったのだが流石に今回のはおかしい。どうやら完全、正真正銘絢辻のミスである。
「あっちゃあ・・こりゃ昨日の俺のミスが響いてるかな?」
「へ?」
「いやね・・。昨日任された会計資料まとめで散々俺ミスしちゃってさ。計算間違い、誤字脱字のオンパレードで?見直ししてくれた絢辻さんもさすがに苦笑いだったから。で、当初の予定から大幅に遅れて・・」
本当は手伝ってくれた杉内の些細ないくつかのミスを国枝が嫌味と戯れも兼ね、かなり細かく指摘し、終いには小学生以来全く気にした事の無い漢字の「跳ね、払い」まで言及した笑い話を有人はそのようにすり替えた。
「・・そうだったんですか?」
「ゴメン。きっと半分俺のせいだよ」
「ふふふ・・解りました。もう・・源先輩ったらお願いしますね?」
鋭く、聡明でも在る少女―坂上はどことなく有人の話に絢辻への気遣い、フォローの側面を感じ取ってはいるのだろう。しかし、「ま、そういうことにしときましょう」という柔軟性もこの少女は持ち合わせていた。
「ごめんね。いらない心配かけて」
「いいえ。では私は作業に戻ります」
「・・で、今そっちは何やろうとしてるの?この資料無かったら・・」
「ええ・・だから時間が勿体ないので舞台裏の補強作業とクリスマスツリーの装飾に関する作業をしようと思っています」
「・・え?ちょっと待って。危ない作業じゃん」
「え?はい・・」
「今そっちに居るの女の子だけだよね。ダメダメ。すぐ終わらせて?危ない危ない」
有人は珍しく真顔で首を振って坂上を制止する。
「大丈夫ですよ。皆随分力作業に馴れましたから♪」
実行委員の男子生徒が現在も慢性的に少ない中、その作業に在る程度携わる他なかった女子達にも慣れと自信が芽生えていた。が、流石に少々危なっかしい。
「ダメだって。絢辻さんも言ってたろ?『安全第一』だって。それに連日の作業で疲れが在る分何あるか解んないよ。俺がすぐ絢辻さん探してくるから。それまで待機。いい?」
「あ・・はい」
そう言い残して有人は足早に資料室をでる。
絢辻の些細なミス。それの連鎖。
それが不運にも更なる負の連鎖を招く事を有人は何処か感じ取っていたのかもしれない。しかし・・それを即座に予測して全てを器用に対応しきるのは有人一人には不可能だった。
―う~~~ん。源先輩はああ言うけど・・やっぱり少しは手をつけときたいな・・絢辻先輩も頑張ってるんだし・・。
少しだけなら・・。ね・・?
坂上には見栄も過信も功名心も無かった。ただいつも完璧な絢辻のパフォーマンスのほんの少しの陰りを前に、ただ役に立ちたい、出来る事をして負担を減らしてあげたいと言う純粋なものであった。
―・・居ないな。
創設祭の作業に関する場で心当たりの場所には絢辻は存在しなかった。創設祭の作業中―つまりはある程度居場所に想像が付くこの時間に、まさかここまで彼女の居場所が判然としないとは有人にも予想外である。
何時も何処かで、然る場所にて常に実行委員達の輪の中心にいる彼女を見てきたのだから。これでは、まるで・・
―・・ん?そうだ。「創設祭の作業に関する場所」という先入観を捨てればいいんだ。
絢辻の居そうな所―そう前提条件を替えれば今の場所とは全く異なる居場所の案が次々出てくる。普段彼女が皆の輪の中に居る場所を排し、絢辻が人の輪から外れ、一人で何かしている所となると―
―・・何だ。自ずと見えてくるじゃないか。
今は何で「今この時に絢辻がその場所に居ると思うのか」という疑問は捨てる。
この時間に今日の天候からして・・
「図書室、かな・・?」
有人は歩きだす。
図書室―
防音のカーペットが敷き詰められた図書室に足を踏み入れる。放課後のこの時間、この場所を利用している人間は少ない。自習している三年生もこの時期では追い込みで予備校に行っている人間の方が多いのだろう。無人と言っていいほど利用者の気配が感じられない。
「・・すいません」
図書室の司書の女の子に有人は話しかける。
「はい・・?」
眼鏡をかけ、腰まである長い髪を編んだ女の子。例の梅原と杉内が「可愛い」と言っていた子だろうか?確かに真面目で少し堅そうだが人気が出るのも頷ける少女だった。
「あの・・ここに女の人が来なかったかな?ちょっと大事な用が在って人探しをしているんだけど」
その有人の申し出に少女は少し考え事をするように目線を一瞬そらす。いきなり意外な質問をしてくるこの男子生徒を少し警戒しているようだ。しかし、視線を有人に戻すとえへ、と苦笑いをする善人オーラ満開の有人の表情にそれなりに真っ当な緊急性を感じ取ったらしい。
「・・。はい、幾人か・・どんな方ですか?」
彼女の中で既に幾人かの候補が挙がっていたらしい。気配はなくとも利用者は居る様だ。まぁ入り口で人の気配がガンガンする様な図書室も困りものではあるのだけれど。
「えっと・・髪が長くて・・」
「・・あ。黒髪の・・凄く綺麗な方ですか・・?」
「・・そう!その人!!」
有人は自分の予想の的中に思わず身を乗り出した。
・・が、二分後―
「・・・」
―くっそ~~~・・そういうオチか。「黒髪」、「凄く綺麗な方」・・確かにそうだけどさぁ・・。
自分が「言葉足らずだった」と、内心有人は反省する。
「信りんがね~~?ほんのうじっていうお寺でね?みっちーに・・むほん・・?だっけ?とにかくそういうのを起こされて死んじゃうの。怒ったぷんぷん秀ぴょんは・・」
有人は自習机の並んだ通路を後にする。三年生女子の森島 はるかの受験生とは思えない能天気な声が徐々に遠ざかっていった。
―うーん・・くそ。結構自信あったのに・・。
有人は少し落ち込んだ。
よくよく考えてみれば図書委員の女の子が生徒会役員で代表格ともいえる絢辻の名前を知らず、「綺麗な方」という表現を使った時点でおかしかったのだ。対する森島はるかも大した有名人だが真面目一徹の子であれば知らない可能性も無くは無い。
有人は知る由も無いが実は森島 はるかは件の可愛い図書委員の少女の噂を既に聞きつけ、何度も仕事中の図書委員の少女にモーションをかけている。だが毎回口説く事に夢中になって名乗ることを忘れている。非常に彼女らしい。
よって戸惑い、押され気味の図書委員の少女にとって森島は「黒髪の凄く綺麗な人、でも変わった人」とインプットされるしかないのである。有人は今回ちょっとしたそれのとばっちりを受けたわけだ。
―・・参った。絢辻さんホント何処行ったんだろう?
・・・ん?
有人がとりあえず図書室を後にしようとした時、ふと図書室のトイレ横に大きな両開きのドアがある事に気付く。そこは「生徒立ち入り禁止」の札が立てかけている。
「禁止と書かれたら入りたくなるのが人のサガ」とよく言うがそういうものに全く興味が無い人間だっている。有人もその一人だ
「・・・」
しかし、何故かその日は勝手が違った。両開きのドアの片方が僅かに開き、どこからか隙間風でも吹きこんでいるのか僅かに揺れている―そんな光景が妙に気になった。
どことなくそれが自分を「呼んでいる」様な不思議な感覚を有人は覚える。
―・・行って、みるか・・。
もともと今日は変な事続きだ。絢辻のミスが立て続けに起こるし、無断で居なくなるしで何が起きてもおかしくない。確かめるだけ・・確かめるだけだ。
しぃっ・・
有人が一歩立ち入り禁止のドアの先へ足を踏み入れた瞬間、微かにそんな音が聞こえた。空耳にも聞こえるその音。
―・・ん?
足を止める。もう一度聞こえなかったら空耳と判断してこの場を去るつもりであったが・・
しぃっ、しぃ~っ
空耳ではない。そしてその音は一定では無かった。音の高低や間隔が微妙に一回一回違う。音の方向に足を向ける。足音でその音を聞き逃さないようにそろりと。
近付くほどに音は大きくなり、徐々に軽さが薄れ、何処となく人を落ち着かせなくさせる濁音が混じり始める。
じぃっ!!、じじっ~~~!
その音の正体が判明する。明らかに「紙を破る音」だ。
「紙を破る」という行為は自然に起こる物では無い。人の「作為」というものがほぼ必ず存在する。紙を破る行為自体が人の精神状態を物語っている事も多い。
不要な物をコンパクトにして捨てる完全な無関心からくる感情。
人から見られたくないモノ、形式的にそのままにしておくことが憚られる場合。
そして隠しきれない、己の中に留めておけない鬱憤を僅かながらでも発散させる行為として選ばれる場合もままある。紙と言う手近で手頃な物体、破った時の手応え、耳を通る快感なのか不快なのかが曖昧な音―とそれなりの「反応」も在る。
だがその光景は他者から見れば往々に異様、不穏である。
―え・・?
音の所在を突き止めた有人の目に映ったのは一般生徒が入室を禁じられている書庫であった。そこにはおおよそ高校生が見るとは思えない膨大な蔵書が敷き詰められている。殆ど動かされる事が無いそれらが部屋中に所狭しと敷き詰められた故、必然的にその書庫は埃っぽく、かび臭い。書庫のドアを開け、有人が中に踏み入るとより一層その音の異質さが耳をつく。
「・・・!」
そしてその不穏な音に今度は別の「音」が混じりだす。それは小さく絞り出すようなか細い不明瞭な声。しかし、それは同時悲鳴にも聞こえた。
「・・・どう・れば・・いいの?あた・・・どこまでが・・・ばればいいの・・?」
―・・?
「なん・・で。寄りに・・って・・・・なの?」
―・・。
「嫌だよ・・もう一人は・・いや・・」
声の主の姿が有人の目に映る。そしてその足元には散逸した何冊もの破られた白いノートの切れ端が茶色を基調とした書庫の中で白く光っていた。その白く光る紙きれ一枚一枚には何時もと同じ、整えられた完璧な文字が羅列されている。その全てを無意味に破り捨て、その中心に声の主―一人の少女が肩を震わせ、立ちつくしている。
「は、やく・・大人になりたいよ・・・なら・・・・のに・・」
・・・紛れもなく絢辻 詞だった。
「・・・!」
色々と有人には疑問点はある。
何故自らに課された仕事を忘れ、「あの」彼女がここに居るのか。
何故図書委員の少女に気付かれず、立ち入りを禁じられたこの場所に彼女は居るのか。
何故彼女がこれからの自分の道しるべとも呼べるノート達を破り捨てているのか。
そして―
何故彼女が人知れず、ここでただひとり・・・泣いているのか。
その光景を前にしてただ有人は今、愚直に彼女の名を呼ぶ。
「・・絢辻さん?」
「・・・!!!」
「・・ようやく見つけた」
足元にバラバラに散逸した白いノートの切れ端。それがまるで天使の羽のように埃、そしてカビ臭い書庫の中で舞い上がる。
「・・・っ!・・・ぁ・・・あ・・あぁ・・・」
その中心でむしり取られた羽が舞い上がる中、今は翼を喪って飛べない天使の少女が一人心許なく不安げに佇み、驚きと戸惑いで見開いた水晶の様な黒い瞳に文字通り「目一杯」の涙を浮かべていた。
―・・。泣いてるカオも綺麗なんだね。・・君は。
不謹慎ながらも有人はそう思う。