14 降伏の先に
「黒沢先輩!ミツワ工業さんからお電話貰っています!先日送った書類の修正案を出したいとか・・折り返し電話欲しいそうです」
「・・え。ちょっちょっと待ってね」
「先輩!先日発注した備品なんですけど発注ミスで数足りてません!ど、どうしましょう!?」
黒沢 典子は多忙だった。絢辻から後任を引き継いで一週間、絢辻が残した恩恵を出しつくした感がある実行委員会。ある程度の余裕があった日程が徐々に逼迫した状況になっている。実行委員はまるで貯金を日に日に食いつぶしている様な感覚を覚え始めていた。
ここで黒沢は新しいリーダーシップを発揮して混乱を収めたいところだが前任が「アレ」なので少々彼女には荷が重い。
「・・・。悪い笹部。ここ任していいかな?ちょっと黒沢さんのヘルプ入る」
「了解」
見かねた有人は自分の作業を一旦預け、黒沢に駆け寄った。
「・・・!・・?・・・・~~~!」
ミツワ工業との連絡先を連絡簿で検索している苛立たしげな黒沢の手は若干おぼつかない。明らかに表情には焦燥の色があり、駆け寄った有人にすら気付いていない。新リーダーがこれでは周囲の焦燥を煽ってしまっても無理はない。
「黒沢さん。ここだよミツワ工業さん。多分この前破損した備品の納入の期日変更の事だと思う。来週の木曜ぐらいに変更になるかもって言っていたと思うから『それで大丈夫』って伝えて」
「え!?ええ・・」
「えっと・・松川?発注ミスって何が?」
「あ。えっとこれです。注文書には『1』って書いていたんですけど・・複数個入りの『1ケース』頼んだつもりがこれ・・その中の一個しか入って無かったみたいで・・全然数が・・」
「ああ。これ『一ダース』単位で頼まなきゃならないの。確認の電話してくれたと思うんだけど・・業者さんから『ホントにこれ一個でいいの?』とか、確認の類の電話・・無かったかな?」
有人がそう言ったその瞬間、黒沢は「あっ・・」という顔をした。
―・・成程。電話に出たのは彼女だな。
察した有人はしばらく考え込むものの、大して動揺した様子もなく「松川」と呼ばれた後輩生徒に笑いかけてこう言った。
「・・オッケ。過剰発注じゃ無くて良かった。ごめん松川?今から『カナぶん具』に買いだしいける?ちょっと割高になるけど仕方ないや」
「あ、はい。大丈夫です」
「領収書貰うの忘れないでね」
「大丈夫です。そこなら毎回勝手に切ってくれますから。・・じゃあいってきますね!有難うございました源先輩!」
「気を付けて。そんなに急がなくていいから」
絢辻に鍛えられた有人はそれなりに成長している。もともと創設祭に最も密接に関係した生徒である絢辻によって散々こき使われてきた彼は今や実行委員のそれなりの中心人物だった。
「(あ、ありがと)」
黒沢は他の実行委員に聞かれない様な小声で気恥かしそうに有人に礼を言った。羞恥と功名心、見栄がせめぎ合った目に見えて解る解りやすい表情である。
「どういたしまして」
有人はいつもどおり笑ってそう言った。が、
―でも・・流石にきついだろうな。黒沢さん。
吉備東高の創設祭の実行委員長の双肩にかかる負担は重い。
おまけに「前任」がそれをほぼ完璧にこなしてきた人間の後を引き継ぐのは更にキツイ。
思いがけず手に入った黒沢が望んでいた自分の立場はその椅子に座った優越感と満足感を味わうには過酷すぎる職務、激務であった。
「王は民の奴隷になれ」とよく言うがその覚悟が黒沢には圧倒的に足りていなかった。
その元「民の奴隷である王」にこき使われていた奴隷―有人は新しく王になった少女が他の委員の解散、下校後も終わらぬ作業に追われている姿を見て自分のカバンを再び床に置いて黒沢に語りかける。
「どう?終わりそう?」
「も、もうじき終わるわよ。・・帰っていいわよ?」
この期に及んで相も変わらず見栄を張る少女である。絢辻も相当の意地っ張りであったがこの黒沢という少女もまた相当のものだ。が、彼女の見栄は正直彼女の為には成りそうにない。「無茶」だけでなく「無理」である。意地、見栄の張りどころを間違えれば結局その余波は周りに影響するのだ。
ならその「余波」の煽りを受けるのは自分だけでいいかと有人はどっかと腰をおろし、黒沢の目の前に在る膨大な資料に手を延ばし、目を通し始める。
「よいしょ・・あとひと頑張りしますか」
「・・・勝手にしたら?」
反応だけはよく似ている二人だ。
二十分後・・有人は黒沢より一足早く作業を終える。絢辻が言っていた通り、この少年は結構小器用な所があるのだ。黒沢もそれを知っている。「一方的」としても結構お互い長い付き合いなのだから。
「・・・」
有人は特段何も言わなかったが、有人が作業を終えた気配を傍らで黒沢は感じ取っていた。
少女は終始無言であったがその内部では色んな感情が目まぐるしく渦巻き、流動している。
その中に占めるものの大半は自分に対する羞恥、そして自責の念である。
―・・私は一体今まで何をしてきたんだろう?
彼女は今まで自分自身の向上を願ってきた。努力してきた。―と、自分で思っていた。
しかしそれは違った。全くのお門違いもいいとこであった。少なくともここ最近の自分は一体何をしてきたのやら。
自分の上を行く人間―絢辻を妬み、嫉み、結果悪戯に足を引っ張り、妨害し、終いには絢辻だけでなく多くの人を困らせ、混乱させて傷付けもした。さらには自分の上に居た優秀な人間を追い出し、いざ自分がかつて望んだ場所、立場に就いた今、間抜けながらも何をすればいいのか解らない。
ならここまで来た意味は?一体今までの自分は何を望んでいたのか?何をしたかったのか?
そう。絢辻を追い出したかったのだ。困らせたかったのだ。散々建前を並べようとも結局は黒沢にはそれだけだった。それが達成された後の今の自分に残されるものは何だ?
何もない。
有るとすれば本当にただ無意味な空虚。未熟な自分に打ちひしがれるだけの現実だった。
「・・ねぇ。源君?」
「ん・・?」
「あの人・・絢辻さんは毎日毎日いっつもこんな事をこなしてきたの?あんな涼しい顔で・・」
―あのムカつく顔で。何でも知ったような顔をして。
「・・そだね」
―前半の部分は正解。でも後半は少し違うかな?・・「涼しい顔」・・か。まぁそう見えたかもね。
他の人間には表に出さないものの、散々絢辻は影で悪態やら文句やら愚痴の数々を有人にはあけっぴろげにさらけ出していたため、その黒沢の言葉に苦笑する事を禁じえなかった。
―あの教師マジ無能すぎ。ざっけんじゃないわよ。それが仕事でしょ!?それで給料貰ってんでしょ!?
―手伝ってくれんのは嬉しいんだけどやる事なす事雑なのよね。あの子。・・しゃあ~ない。「締め出す」か・・。
―ああ~~~もう!!イライラするわね~~!?ちょっと源君肩貸して!!この憤りは何かにぶつけないと気が済まないわ!グーパンさせて!!・・ていっ!せいっ!!
―でしょ!?源君!?貴方もそう思わない!?
―源君?
―源君!?
ついこの前まで日常であったそんな絢辻の光景が有人には不思議と少し懐かしく感じられた。
「信じらんない・・」
「何かの間違いでしょ?」―有人の返答に対して続けてそう黒沢は言いたかった。
―所詮あの女は猫を被っているだけだ。実は案外陰で楽しているに違いない。それに皆・・源君も騙されているだけだ。
何に置いても彼女の上にいけない自分の現状に対する不満を今までそんな風な感情で慰め続けていた。
「私にだってあれぐらい出来る」―そんな言葉を繰り返して黒沢は絢辻を全く見ようとしていなかった。何もしてこなかった。彼女がした事と言えば漠然と絢辻がだす「結果」に陰湿に仲間内のみで密かにいちゃもんをつける事だけだった。絢辻を直視しない事で何よりも黒沢は自分を直視しないですんだのだ。自分自身が実質は何もしていない、全く前に進めていない事を。
しかし、それも終わりだ。
絢辻が辿っていた道。黒沢が「実は陰で案外楽しているに違いない」や、「自分だってあのくらい」と思い込んできた絢辻の道。それをほんの少し、ほんの一週間程度自分でなぞっただけで黒沢は痛感する。
生まれ持った要領の良さ、頭脳、能力等関係ない。まず必要なのは「人の上に立つ」という覚悟だ。黒沢 典子の中にあった「自分が上に立ちたい」という欲望は極論「人の上に立つ優越感に浸りたい」である。
これはある意味大事なモチベーションである。(絢辻も全くそれを望んでいなかった訳では決してない)が、それだけでは直面する現実に対応できない。
日々山積する課題、ノルマを消化できていない現状がその証拠だ。その状況は黒沢の思い描いた理想の自分とはあまりにも隔たりがあった。
思い描いた「人の上に立つ自分」を現実に顕在化させたいのであれば何よりも工夫、努力が必要である。優雅な表向きの華やかさとはかけ離れた地味で地道な、小さなベストの行動の積み重ねの先に漸くうっすら見えてくるものだ。
黒沢 典子は元々努力家な少女だった。しかし絢辻 詞という少女の出現によって自分がすべきこと、やるべきことを捻じ曲げてきた。しかし皮肉にも今日、その彼女を変えてしまった絢辻によって彼女は本来の彼女に戻りつつある。
思い出す。中学時代、有人の後を追って必死に好きでも無い勉強をがむしゃらにしていた自分を。結果、彼と同じ高校に入学でき、達成感に満ちた自分を。
そして高校一年生の春、吉備東高に晴れて入学したあの日―
「・・。あら」
「・・。あ。黒沢さん?黒沢さんも合格したんだね。よかった!」
「・・貴方も合格したんだ。運が良かったわね」
相変わらず逆走しがちな自分な舌の根を、黒沢は内心噛み潰しながら何時もの無愛想さを取り繕う。
「ははは・・そうだね。また三年間よろしくね」
「・・ええ」
自然と柔らかい笑顔が出た。
人の努力が報われる、報われたと思う瞬間とはこんな些細な時間であったりもする。
努力の結果、多くの人間からの羨望、憧憬の眼差しを受ける事よりも小さく、短く、儚くも遥かに大事な瞬間があったりもする。
黒沢にとってその時は間違いなく至福の瞬間だった。
そして現在―相変わらず彼との距離は遠い。しかしながら彼はその春の日と同じように微笑んで近くにいた。
「・・。私。なーんにも解ってなかったんだ・・・」
諦めたような声を大きな溜息と共にだし、黒沢はふっきれたように天井を仰いだ。
「・・。知っていこうよ」
「・・正直ね。今日で実行委員長を辞退しようかと思っていたの。私には正直力不足もいいとこだわって・・」
「・・。ダメだよ」
「え?」
「それはダメ。許さないよ」
そう。有人はこういう所がある。一見ふわふわと柔らかい柳の様な少年だが言いたい事は、言わなければならない事は案外ハッキリと言う。
それは黒沢にとって酷で非情な言葉である。でも彼女は受け入れなければならない。自分が撒いたタネによって生じた責任を必死で取り返し、償う必要があることを。
そして認識しなければならない。有人自身も今回の件に少なからず自責の念を感じている事を。
そもそもあの事故が起きた日、坂上の些細な暴走を止める事が唯一出来たのが他でも無い有人自身だった。確かに彼は最低限の制止はした。しかし結果としてそれは意味を成さず、彼の制止を坂上は無視した形になった。
しかし、その根底にあるのは有人の指示に対する坂上の軽視ではない。少しでも作業を進ませたい故の一途な少女の些細な暴走である。だが逆に有人はこうも考える。
「あの時制止したのが自分でなく絢辻だったらあの事故は起きなかったのではないか」と。
元々有人は自分が絢辻ほどの信頼を置いてもらえる器量も実力もまだまだ備えていないことは承知している。
しかし、あの日の絢辻の些細なミスに少なからず動揺している後輩の少女の焦燥をもう少し和らげやることは可能だったはずとも言える。
「大丈夫だ」と。「ちゃんとフォローするから心配するな」と。「だから無理するな」と。
些細なトラブルの芽を完全に摘む事が出来たのがあの日、あの瞬間の有人だったこともまた確かなのだ。
「考えすぎ」、所詮「たら、れば」の話。と言ってしまえばそこまでだ。これを責めるのも酷な話である。しかし結果として実行委員は絢辻、そして自分達を影で支えてくれた実行担当教諭の高橋を失い、多くの時間と信用も失った。些細なミスで生じたあまりにも大きな損失である。
それを黒沢も認識しなければならない。結局は自分の些細な悪意によって自分が最も想う人間すら間接的に傷付けた事を。
そして黒沢は「怖い」と思った。これ以上なく。小さく、そして一時的で場当たり的に生まれた些細なその悪意が時にこんなに多くの人間を傷つけてしまう事を。
そして最後に脱帽する。その自分の理不尽で一方的な悪意にちゃんと向かい合い、最後まで己の責任を果たした絢辻 詞と言う少女に。
そして今目の前に居る志半ばで退場する事を余儀なくされた仲間の意思を継ぎ、前を向こうとする目の前の少年に。
「源君・・」
「ん?」
「・・・お願い。手伝って?」
最早泣きそうな声で黒沢はそう言った。
「うん。喜んで」
有人は笑ってそう言った。
そう。自分には嘆く事も投げ出すことも許されない。正直辛く、苦しく、情けない。
しかし・・黒沢は漸くほんの少し前に進めた気がした。
完膚無き程に敗北し、打ちのめされ、「降伏」したその先で。
15 幸福の先に
解っていた。こうなる事は。
心身ともに充実。余計な気苦労も無い。自分の時間も増えた。
しかし、あの多忙な日々が今は少し懐かしい。
「悪くない」―それは確かだ。でもやはり自分には心身の安定に伴う充実感より今までの慌ただしい、気苦労の多い、しかし違う意味で充実していたあの日々が性に合っているのだろう。
―・・。よし。これで終わり。・・・もう帰れるんだ。私。
絢辻はクラス委員長としての自分の責務と授業の課題、予習、復習を終え、尚も余る時間に内心そう呟いた。静かな図書室にはまだ日が射している。創設祭の準備が佳境に入り、それに合わせて授業もやや早い時間に終わるため、放課後の時間が長いのだ。
そして実行委員長という日々の激務を失った絢辻には更にその時間が長く感じた。
別にその替わりに時間を何かに使おうとすれば何でも出来る。高校生がやる事は意外に多い。こと勉強に関して言えば中々に膨大なタスクが高校生にはある。さらに時間をかけるのは元より、持続、復習しないと折角定着させた学力は自然に落ちていくものだからだ。そういう意味では勉強という行為に終わりは無い。
絢辻の性格からして普段であればまず間違いなく、時間の使い方として最も有効、かつ有意義なものとして容赦なく勉学に励んでいただろう。
しかし、今の絢辻はどうしてもそんな気分になれなかった。教材の一切を鞄にしまい、変わりに小さな小説の文庫本をだし、しおりを挟んだページをめくって目を通す。しかし、文字が頭に入ってこない。変わりに彼女の頭の中に浮かぶのは自分で決断し、自ら身を引いた創設祭の実行委員会の事だった。
絢辻を失った当初、創設祭実行委員会には目に見えて動揺と混乱があった。絢辻が傍目で見てもハラハラしたぐらいである。
しかし、それも落ち着きつつあった。
有人を初め、絢辻に鍛えられていた実行委員の子達は優秀なブレインを失いながらも体制を整え、また、後任を引き継いだ黒沢もお世辞にも実行委員会を纏めあげているとは言えないものの、周りの献身的なフォローの中で徐々に結果を出し始める。
絢辻に比べれば多くの点で小粒だが、それでも絢辻の当初の予想に比べれば奮闘、健闘していると言えるだろう。
それは恐らく・・あの有人が少なからず助力になっているに違いない。
短い付き合いだが彼のフォロー力は中々のものである。対立の生まれやすい上と下をとり持つ中間管理に置くのは適任だろう。不器用で口ベタな委員長の黒沢の本意をすくい取って上手くオブラートに包み、下の人間に共有させる事が可能なはずだ。
更に彼の交友関係は侮れない人間がいる。つい先日の事である。
彼の友人である梅原、国枝が正式に臨時の実行委員会の助力に回った。この二人は侮れない。
まずその内の一人―クラスメイトの梅原の交友関係の広さは絢辻の予想以上であった。実家が寿司屋を営んでいる梅原には絢辻が関わった今までの業者のお偉いさんと殆ど面識があるらしい。
業者との連絡の際、まるで旧知の友人の様にフレンドリーに会話する梅原が度々目撃されている。
「あートメさん?俺、俺。『しょーきち』でぃ!だははは!!って・・いい加減名前覚えろっての。俺の名前は『しょうきち』じゃなくて、『まさよし』だっての!あ~~それでさ。例の件なんだけど・・悪いんだけど納期早めてくんね?緊急に必要になってさ。な?頼むよ~~!今度いいカン☆パチ夫を御馳走するからさ!な?うん・・うん。そっか!恩に着るぜ!ありがとな!じゃあ改めてそれでお願いします。また店きてくれよな!親父もトメさんに会いたがってますんで!はい!はい!それじゃ失礼します!」
納期を早めさせ、さらに実家の商売まで成立させるとは・・。
そしてもう一人。有人の親友である少年―国枝。
元より何事も計算が早く、冷静で無駄な動きが少ない。派手さは少ないが集団には一人は絶対に居て欲しいタイプである。
理解力の早さで次に自分がするべき事、またしなければならない事を理解し、その中で的確な優先順位をつけ、効率よく物事を行える建設的な思考が備わっている。さらに彼独特の静かな物言いで後から入ってきた人間の割に彼よりも長い時間実行委員に関わっている後輩達も自然と素直に指示に従っていた。
有人と次の行動指針を確認しながら相談している二人の姿は不思議と絵になった。
「有人。日程的にこれは無理があると思うから・・」
「直もそう思う?・・・。やっぱりここは業者さんに任せた方がいいかな?」
「いや。だから人員を探してみた。2-Eの成瀬と茅ヶ崎がクラスの数人引き連れて手伝ってくれるってさ」
「ホント?」
「『絢辻さんに借りがあるから』だと」
「ははは。茅ヶ崎君相変わらず義理堅いなぁ。助かるよ。有難う」
「じゃあ俺がこの日2-E組の指揮に回るよ。多分ついでに2-Eのクラスの出し物の作業も手伝う事になると思うからその日は頼む」
「了解。・・。あ、待って直」
「・・何?」
「そっちに棚町さんも付けるよ」
「・・。有り難いやら、有り難く無いやら。それなら御崎も付けてくれ」
「あ。それは困る」
「・・・。いーけど」
軽口を交えつつ、忙しい時期に和やかで落ち着いた二人の空気は後輩、同僚たちの不安を払拭する力があった。
国枝達の参戦は恥も外聞も捨て、がむしゃらに突き進むようになった黒沢をフォローする事に注力する有人の大きな助けになった。
・・・このように物事は進んで行く。
絢辻を失った後も実行委員の時間も、創設祭に向かう時間も止まるはずが無い。
変わっていくのだ。何か大きなものを無くしたとしても。
否。絢辻はこう思う。
当初自分を失った創設祭実行委員会は目も当てられない位に瓦解し、体を成さなくなって多くの物を諦める事になるだろうと。後輩達の残りの作業の安全と創設祭の成功を祈りつつも、自分の居ないあの場所は「ダメになってしまうだろう」と考えていた。
酷く悪い言い方をするなれば「駄目になってしまえ」と、思う気持ちを否定しつつもどこかで期待する自分。それでこそ「自分がいたら」と残された者達が思わざる得ないような状況になる事を内心何処かで期待していた。
でも気付く。
大丈夫なのだ。自分を失おうとも世界は続いていく。彼らは進む事が出来るのだ。
例え何かを失おうとも彼らには前に進む力と必要に応じてまた新たな力を得る、または「得よう」とする意思が存在するのだ。
簡単な言葉で言い換えるならば「案外どうにかなる」のである。絶大な権力と能力を持った「個」を失ったとしても残された集団に「意思」と「遺志」さえあれば。
自惚れていた。所詮自分一人で出来ていたことなど高が知れている事を。それを充分理解していたつもりでもまだまだ不足していた事を絢辻は理解する。
集団の中でテキパキと仕事をこなしていた時には実感出来ない事が現在、多くの責から解放された絢辻の中に今、一歩離れた事でどんどん見えてくる。
そしてこう思う。「何故私はあそこに居ないのだろう」と。
―今ならもっと彼らの気持ちを理解できるのに。もっと彼らの為に出来る事があるのに。
前も言った通り自分が受け入れた道は悪くない。そういう自負はある。そもそも離れてみなければこんな感情を覚える事すら無かっただろう。
絢辻は一度離れたこの立場からしか見えない「何か」を受け取ったにも関わらず、それを活かす事が出来ない、戻れない場所を想うしかない今の自分にこれ以上ない歯痒さを感じた。
そして「戻れない場所」にある現実の理不尽さにも憤りを覚えざるを得ない。
この状況に自分を追い込んだ張本人であるあの黒沢が今、あろうことか「彼」の傍に居る。
これも受け入れていた、こうなる事は予測できた結果。
・・でもあまりにも皮肉で理不尽だ。
結果的にあの子―黒沢典子の目的は達成されたと言っても過言じゃないのだ。ここまで彼女が計算していたはずは無いだろうが、最終的に絢辻は実行委員長としての立場だけでなく、会の席すら失った。そしてその「空席」に治まったのはあろうことか騒ぎを大きくしたあの黒沢なのである。
それは同時詰まる所―有人の隣という居場所だ。
きゅっと唇をかみしめ、沈痛な表情をして絢辻は理不尽から生ずる衝動を抑える。眉も内側に曲がり、相当に自分が痛々しい表情をしている事が解る。
―くぅ・・。
声にならない気持ちが共鳴する。そして徐々にそれははっきりとした言の葉の形を成していく。
―返してよ。返して。
・・私の居場所。
「幸福」の先に訪れたあまりに理不尽な現実―孤独。
絢辻は静かな夕陽の差しこむ図書室で一人、机に突っ伏して目を伏せることしか出来なかった。