「サンタなんか居ない」
「ごく平凡な日本人」の送る人生の中では結構初期に訪れる大きな「ネタばれ」の一つかと思う。その次か同時期に「赤ちゃんはコウノトリが運んでくるというのはウソ」辺りのネタばれだろうか。何にしろ人の人生の中にはこの様な子供のころには大人の都合上、知らされていなかった多くのネタばれが潜んでいる。其の数々を受け入れ、踏み抜いて人は大人になる。
源 有人という少年もこの日、それを予定通り通過していくだけの日のはずであった。
有人がまだ五歳のクリスマスの夜の話である―
この位の年齢になると少しススんだ幾人かのマセた子供達はクリスマス前、自慢げにこう言いだす。
「サンタなんて居ないよ。サンタの正体はパパとママだ!」と。
一方不思議な事に何の気なしに歌っている有名なクリスマスソングの一部に堂々とサンタの正体を歌詞に曝している有名な童謡等が在るにも拘らず、何故か小学校高学年レベルまでサンタを信じているツワモノも居る。
「居る!」派と「居ない!」派―そんな派閥に分かれ、人生初の討論会を開いている同年齢の児童達から一歩距離を置いて彼らを眺めつつ―
―・・確かめてみたらいいだけの話じゃないかな~?
と、一人小生意気な少年―幼い頃の源 有人は思っていた。
確かに「サンタが居ない、正体は両親」というのは成長すれば恐らく100%の人間が知る事実であろう。(北欧かどこかで「本物の、本職のサンタが存在する、実在する」とか、ひねくれた意見は置いておくとして。)
しかし、他人の話、大人になる上での常識として知る事はあっても、自分の目で実際に確かめ、「居ない」事を確認した人間というのは案外少ないのではないだろうか。
有人はその数少ない少年の一人だった。
その五歳のクリスマスの夜―彼は起きていた。そして何の変哲もない、大人になれば誰もが知る事になる事実をハッキリ「光景」として目の当たりにする。
「・・・・」
暗闇の中、有人の兄、そして弟共に眠る有人のベッドの傍にひそりと忍び寄る二人―両親の姿を薄眼で有人は確認。「わっ!」と飛び上がって両親を驚かせてやりたい衝動を必死で抑えつつ、有人は自分達三兄弟を起こさない様に音を殺して三つのプレゼントの箱を三人の息子達それぞれの枕元に置いていく二つの影を薄目で追う。くっく、とこみ上げてきそうな笑いを喉元で必死に押し殺しながら。中々嫌な五歳児だ。
―寝ているかな有人は・・?
―うん大丈夫よ・・。・・あらら相人の毛布ちゃんとかけたげて貴方?・・風邪引いちゃうわ。
まだ幼い末っ子の相人の傍で寝ている兄―舞人の様子も確かめ、最後に両親は有人の寝顔を眺め始めた。
―有人。・・・メリークリスマス。
有人の母が優しい目をしてそう呟く。思わずその声に有人も飛び起きて「メリークリスマス!」と応えたくなる。しかし、同時有人の癖のある茶色い髪の毛をくしゃりと撫でる母の優しい手に有人は目的を達した満足感と突然差しこんできた眠気に身を任せ、意識を閉じようとしていた。しかし、次の父の放った一言に有人の閉じかけた意識が「待った」をかけられる。
―・・・。いずれ有人には告げなければいけないな・・。
―・・もう止しませんか?いいじゃないですか・・有人は私達の子です。
―僕だってそうしたいのはやまやまだ。だが・・有人は賢い子だ。遅かれ早かれ気付く。舞人と相人・・そして僕と君が「自分と違う」と言うのが・・。何せ有人はますます僕の妹・・母親に似てきたよ。
―でも・・なんて声をかけたらいいの?どんな顔でこの子を見てあげればいいの?
・・「貴方は私達の本当の子じゃないの」なんて・・。ぐすっ・・。言えません・・。
―・・・。
有人はその日サンタの正体、そして同時自分の正体―源~ルーツ~が酷くあいまいで不確かで有る事を知った。
「ぼくは父さんと母さんの本当のこどもじゃない」―
これをまだ五歳の子供が即時はっきりと意味を理解するのは中々に難しい。しかし、幼いなりに情報を収集する事は出来る。そしてこの有人という少年は幼い身でありながらこの言葉の意味を直接、自分の両親から聞き出そうとするという発想をしない、ある意味不幸な聡明さを持っていた。
この事実を知ったあの日―彼の枕元で母が泣いていた、父が沈痛な面持ちをしていた・・そんな両親の儚げな声、姿が有人の耳に、瞳に灼き付いた結果、本人達に問い質すこと無く、まず自分なりにその言葉の意味を知って行こうとしたのだ。
結果有人は成長と共に知って行く事となる。幸いな事に巷にはあふれていた。
自分の子供と血の繋っていない両親、逆に自分の親とは血の繋がっていない子供の話―ドラマ、絵本、漫画、アニメに小説等・・自分の境遇と重ねるには余りにも現実味が湧かない空想の様な話が。
でも年月が追うごとに、有人が成長する毎にそれははっきりと現実味を帯び始める。父があの日、有人の枕元で呟いた言葉を裏付けるように有人の見た目は日に日に両親、そして兄弟達とかけ離れていった。
色素の薄い茶色の瞳と髪色、髪質、どちらかと言えば目鼻立ちのハッキリとした源家の中であっさりとした薄顔の有人の顔はとりわけ異なる物であった。
(有人の兄―舞人の彼女である少女―沢木 茜も名前は同じ「源」でも外見的特徴での余りの差異に彼らが兄弟である事に気付けず、有人に仲立ちをして貰ったのが本当にギリギリの中学三年の卒業式になったのにはこの経緯がある)
そんな日々の中でそれがはっきりする日はいずれ訪れる。あのクリスマスの日から七年―12歳の小学校卒業の「節目」とも言える年、有人は一人突然両親に呼び出され、自分が血の繋がらない家族である事を伝えられる。
生みの母親は父の妹、父親は誰かすら解らない。言っては何だが「よくある」話だ。
有人にとって正直な所「答え合わせ」のようなものであった。この七年間、彼なりに知識を密かに吸収し、彼なりに結論も出ていた事を粛々と有人は受け取る。当然本当に知った当時ほどの驚きはない。でも両親の手前驚いたふりもした。ショックを受けた顔もした。
そして―
「・・・あはっ。正直ちょっと驚いたけど。俺は大丈夫・・うん。有難う。父さん。母さん」
笑った。
―笑おう。
沈痛な面持ちで彼に真実を告げた両親を前に内心堅くそう誓い、有人は笑った。すっきりしたような笑顔で。
何せ有人にとってはあれから「七年」も経っているのだから。有人の中で色々な用意、そして覚悟はしてあった。いずれ訪れるであろうこの日の為に。
そして・・・自分の「生き方」すらもこの少年は既に己の中で決めていた。
安心して貰う為に、これまでと変わらず受け入れてもらう為に。
そして同時・・誤魔化す為に。欺く為に。
両親も兄弟も友人も。そして自分すらも。
客観的にみれば有人の両親が真実を初めて「有人に知らせた」と思っていたこの時と、「実際本人が真実を知ってしまった」時間とのタイムラグ―この七年の差は致命的であった。生来聡明で器用であった少年は既に情報収集を素に周到な準備、用意を重ね、彼らを偽り、誤魔化す用意が出来ていたのだ。
・・・その人を凍りつかせる笑顔の「仮面」を以て全てを押し隠し―
彼は。
源有人は微笑む。
そして周囲はこう思う。
―ああ。よかった。
この子ならきっと・・・大丈夫。
再び時間は絢辻と国枝が話したあの日に戻る。
「・・・」
夕日に照らされた静かな図書室内にて絢辻は黙りこくっていた。ただ姿勢をただし、真っ直ぐと国枝の話の続きを待っている。
「・・俺が有人の『アレ』に気付いたのは・・ちょっとした理由が在る。・・アイツはね?昔から何事も器用に出来るヤツだった。・・頭もいいし、他人の気持ちに聡いし、健康だった。比べてアイツの兄貴の舞人さんは幼いころ体が弱くてね。どうしてもアイツの両親や周りの人間は兄貴の方に重点を置く他なかったんだ。幸い次男のアイツは『賢く手のかからない健康な子』だったからな。家族にも、そして周りの人間にも病弱な兄を気遣う兄思いな賢い出来た弟としての役目を担ってた」
「・・おまけに彼は自分が家族にとってどういう立場の人間なのかを既に知っていたから・・」
「・・そういうこと。・・そんな病弱な兄も小学校卒業くらいにはすっかり健康になった。でも二つ歳の離れた弟も源家には居る。そして今度はヤンチャで少々危なっかしい弟を気遣う弟思いな賢い兄としての役目を担う」
「・・・」
「そうやって聞き分けのいい子供を演じ続ける。なまじ頭もよかったせいでそうすれば両親、周囲が喜ぶって解っていたんだろうな。その後も続けたんだ。聞き分けのいい手のかからない子供って言う立場を」
その根底にある物は、やはり自分がこの家の本当の子供ではない事を知っている故の彼なりの「線引き」だったのだろう。表向きには有人は源家の家族の一員として振舞いながら、実際は一歩引いた立ち位置を維持し続けていた。
「・・俺から見てアイツ自身の素養からして本気になればもっと成績は良くなるだろうし、物事の中心に立てるだろう。・・でもアイツは頑なにそれをしない。源家の兄弟の中で養子である自分が抜きんでる事によって生まれる後ろめたさが有ったんだろうな」
そう言って国枝は少し視線を絢辻から逸らし、「これは君に向けた言葉じゃないよ」と態度で前置いたうえで声を出さずに口だけでこう象った。
バ カ 野 郎 が
「・・・」
心底の忌々しさを国枝が吐き出しているのを絢辻は認めた後、無言で次の国枝の言葉を待ち続ける。暫くすると国枝は長い黒髪を僅かに揺らして再び絢辻に向き直る。
そして自嘲気味にクスリと笑い、頬杖ついてこう言った。
「俺はさ~?アイツとは真逆で昔から基本ホントに何にも出来ない奴でね?だから幼いころから人一倍出来る奴が見てて羨ましかった。俺がどれだけ頑張っても、盤石に用意してもあっさりそれをすぐこなしちまうヤツが・・あろうことか傍に居た」
直、大丈夫?
直、怪我無い?
・・直は頑張ったよ。
「・・」
「空回りした俺の数々の失敗を見事にフォローしていきやがる・・。幼いころからずっとそうだった」
「・・ふふっ」
「・・だからこそ俺はアイツの『アレ』に気付いた。で、ムカついてもいた。当時の俺には笑う事で他の皆を騙している悪い奴にしか見えなかったからね。でも『皆を騙しているアイツ』はその笑顔で誰にも好かれたし、頭も要領もよかった。何やらせてもダメな俺は自分とあいつを比べるウチにもっとアイツが嫌いになった。その内コイツには負けたくないって思うようになった」
これは悪循環だ。その都度その都度フォローされて更に国枝は有人が嫌いになるコースである。でも国枝は止めない。彼は自分の生来の出来無さを諦めて諦観する程大人では無かった。
「・・勉強やらスポーツやら何やら事在るごとにアイツと自分を比べた。必死こいて勉強してアイツよりいい成績採って・・。でもアイツは必死な俺のすぐ後ろを涼しい顔でいつも居やがった。そして何時も言うんだよ。・・・『流石直だね』って」
「くすっ・・あははははっ」
―それは・・・!それは嫌われるわね~~?・・源君。
心底悔しそうな国枝を前にして思わずこらえきれず、絢辻は声を上げて笑ってしまう。国枝はそれに対して屈辱を感じるよりもまずきょとんとした。絢辻が「こんな笑い方が出来るのか」と驚いた意外な表情だった。
「・・あ~~ははははっ・・あぁ~国枝君ごめんなさい・・何かほんっと・・おかしくて・・ふふっ、くふふふっ・・」
絢辻はおかしくて涙まで出てきた。「あ~~あ」と言いながら手で両眼を交互に拭い、「ゴメン、ほんとゴメンね」と言いながらすまなそうに眉をひそめ、潤んだ瞳で国枝を見る。
「・・いいよ別に。正直笑い飛ばしてくれると嬉しい」
―滑稽には違いないから。
そう言いたげに国枝は絢辻の行為に対して全く咎める事無く、優しく笑う。そしてこう続けた。
「―んで、ある日。俺はとうとう堪忍袋の緒が切れた。中学三年の時の話さ」
絢辻はきらきら瞳を輝かせて心底嬉しそうに、そして食い入る様に乗り出して国枝の話の続きを無邪気に促した。
生粋の努力家であり、負けず嫌い、同時生来の自分の不器用さに心底、劣等感を感じ続けてきた国枝はその矛先を直接有人に向けた。
彼の今までの人生は屈辱の連続だった。自分が人一倍手間と時間をかけてようやく成す事を短時間でこなしてしまう同い年の少年。そいつがまたその自分の能力を鼻にもかけず、むしろ隠して淡々と自分にも他人にも分け隔てなくなんとも平等に微笑む「嫌な奴」だった。ただし一般的な「嫌な奴」と断じるにはかなり無理がある柔らかな物腰と立ち位置を確保している。
自分以外の人間の殆どが「イイ奴」と断ずるであろう大嫌いな少年に国枝は突っかかった。
殆ど「八つ当たりのようなもの」と、彼の冷静な部分が心のどこかで警鐘を鳴らしているが、同時長年溜まりに溜まった鬱憤を解放せねば自分は前に進めない、と国枝は判断、行動に踏み切った。
中学三年生の半ば、そろそろ各自目指す進路が固まり、それに向けて勉学に励む中で国枝の我慢の糸は切れる。
何時ものように有人は彼に柔らかな笑顔で自分の進路を絶妙なほど無理の無い妥当で、しかし国枝にとって凡庸で退屈すぎる判断を下していた。
吉備東高校への進学―
国枝が学力的に吉備東より更に上のランクの高校への進学に向けて日々努力する中で、彼よりも遥かに基礎能力、そして素質を備えているはずの親友の相変わらずの―
「中学からの友達がたくさん行くし、家からも近いしね。俺の学力じゃこれが限界です」
と、いつものように笑う有人に内心抱え続けた劣等感をついに国枝はさらけ出してしまった。
「お前さ・・・ざっっっっけんな!!!!」
―何が限界だ。家から近いだ。友達がたくさん行くから、だ!?
ほんとふざけんな。
国枝は見たかった。有人が悔しがる所を。自分が更に上を行く、目指すことで、僅かでも有人の表情に反抗、若しくは対抗意識の欠片が浮かぶ事を。
しかし普段感情を表さず、内に秘めるタイプの国枝の突然の激昂を前にしても有人は驚いた顔をほんの一瞬したかと思うとふっと黙り込む。かといって顔を伏せたりおびえたりしながらただ国枝からの言葉に一方的に打たれる訳ではない。ただ淡々と珍しく無表情のまま国枝の言葉を聞いていた。彼の薄い茶色の瞳に曇りや翳り、強い動揺はない。
「・・・!」
コレも国枝のカンに障る。この態度に国枝が有人自身に対して抱いている感情を有る程度昔から見透かしていたことを彼は悟る。有人は実は国枝が自分を内心では嫌い、同時結構な対抗意識、ライバル意識を持っている事を察していたのだと。
有人が自分の激昂に逆撫でされ、彼もまた激昂して反撃してきたならばこのまま国枝は思いの丈全てを勢いのままぶつけ続けられただろう。しかし、有人のここまで落ち着き払い、尚且つ見透かされて居た様な表情を見せられると悔しい事に国枝の心はどんどん落ち着いていく。
怒り、そして有人に対する嫌悪感は確実に膨れ上がっているはずなのに何故か落ち着いていくのだ。心も。頭も。
そして国枝がそろそろ振り下ろす鎚の先を見失いかけた時―
「・・・くすっ」
すまなさそうに有人は国枝に「あの笑顔」で微笑むのだ。そして呟く。ただ「ごめん」、「ごめん直」、と。そしてこう言った。
「・・・。でもね?俺は止めないよ?止められないんだ。この生き方が」
「直ってさ」
「・・?」
「妹の衛奈ちゃん・・好きだよね」
「・・・は?」
唐突な有人の質問の意味不明さに露骨に嫌悪感を隠さず、国枝の表情が歪む。しかし有人は「そんなカオしないで」と尚も微笑み続ける。
「あぁ。そういう意味での『好き』じゃないよ?でも好きだよね。家族として。当然おじさんも、おばさんも。直は家族の事大好きだよね」
「・・・」
「俺もそう。俺も好き。弟の相人も兄貴も父さんも、母さんも。・・でもね?やっぱり俺は本当の家族じゃ無いんだよ。だって見て・・?この目。茶色い目。髪の毛の質、色、顔・・全部・・皆と違う。俺はそれを自分の成長の都度思い知った。幼いころにたまたま知った俺の事実、祖、源・・。何かの間違いだ、聞き間違いだ、そう何度も打ち消そうとしたけど現実は俺の思いに反してどんどん不安を裏付けていった」
「・・・」
「直なら・・どうする?」
「・・何が?」
「俺は本当の親の顔も写真でしか知らない。それも母親だけ。・・父親は顔すら知らない。そんな俺を大事に育ててくれた大好きな両親の本当の子供に対して何も考えずに居られる?遠慮せずに居られる?」
自惚れでも何でもなく、有人は兄弟達と比べて自分が比較的優秀である自覚が在った。国枝もそれを理解している為に言葉が出ない。
「・・・」
「そして疑わずに居られる?例え兄弟の中で本当の子ではない俺が頑張って何かを達成しても『本気で心から歓迎してくれるのか』って」
「・・・」
「俺を称えて、褒めてくれる家族に『本当の私の子(兄弟)であればな』とか言われないかな、想われないかな、って考えると不安で不安でしょうがない」
「・・・」
「そう。それは解らない。解らないよ?でも・・そう。『解らない』んだ。だったら・・俺は知らなくていい。確かめなくてもいい。このままで・・」
「俺は他者にとっての自分の本質、本当を知るのが怖い」
「だから直?俺さ?早く大人になりたいんだ。早く大人になって一人になって・・俺を育ててくれた大好きな家族と・・離れて生きていきたい。・・早く・・成りたいよ。大人に」
―・・・。
「それは逃げだ」と、国枝はのたまりたかった。
確かにコイツは生きていけるだろう。人の中で何の軋轢も無く。淡々と、粛々と。今まで通りに。コイツにはそれが出来る生来の器用さ、聡明さがあり、そして何よりも他人に対して深くは踏み込まない「線引き」がある。強固な笑顔の仮面の奥の有人の「源」には誰にも踏み込ませない。
思いを隠したまま、自分を隠したまま。コイツは生き続ける。国枝にとってこれ以上ない「嫌なヤツ」のままで。
・・なんだそれは?大嫌いならいいじゃないか。ほっといてしまえばいいじゃないか。コイツは実は誰よりも孤独だ。誰よりも。人の中に居ながら、囲まれながらも自分は「一人」だと思い込んでいる様な馬鹿で嫌な奴だ。
ならそれでいいじゃあないか?散々コイツの事を嫌っていたお前が、誰よりもお前が、お前だけがそれを知っているんだぞ。へらへらと鬱陶しい笑顔の奥で実はもがき、苦しんでいる大嫌いなコイツの姿。それを高みの見物だ。こんな楽しい事は無い―
―・・そんなこと出来るか。
国枝は自分の心に渦巻いたどす黒い感情をその一言で打ち消した。そして決心する。
―絶対に俺はコイツをほっとかない。コイツが大嫌いだからこそ。
俺は―
絶対コイツと友達になってやる。
国枝は進路第一希望の私学の入学試験の際、最終教科の数学の答案用紙を白紙で提出した。
名前すら書かなかった。
確かに普通に解答したとしても合格できたかどうかは解らない。国枝が受けた私学はそれ程の難関校ではあった。受かったとしても選りすぐられた学生たちの中で激烈な受験戦争の渦中に放り込まれる。
―ある意味・・これも「逃げ」、なんだろうな。
と、国枝は自分の今までの努力を全くのフイにする余りにもバカすぎる行為に心底の自嘲の笑いを浮かべ、第一志望の私学の門をくぐった。一度も振り返る事も無く。
幼少からの過剰な、滑稽なほどの無力感、劣等感を糧に国枝は自分の未来を切り開く事から一旦背を向け、大嫌いな奴の元へ戻る。
今の国枝 直衛という少年―彼自身を作りだした源(ルーツ)そのものの元へ。