―・・あまり無理せずにじっくり時間をかけた方がいいと思うよ?俺は十年以上かかってこのザマだけど・・きっと絢辻さんなら・・さ。
あの日、国枝君はこう言って私を励ましてくれた。優しく背中を押してくれた。
・・でも―
「――――」
私は彼に聞こえない程度の声でこう答えた。
・・いいえ。
その「言葉」は彼に対してでなく、他でも無い私自身にかけた、言い聞かせた言葉だったのかもしれない。
この一年で有人君を初め、彼を取り巻く多くの人達、そして私自身の新たな一面と出会う遥か前から解っていた事、決まっていた事、・・目を逸らしていた事を改めて言い聞かせるように。
その言葉は。
―私にはもう、時間が無いから。
25 冷たい頬
八章 不協和音・裏
数ヶ月前―
絢辻姉妹の同居しているマンション、絢辻妹の自室にて―
「つかさちゃ~ん。入るわよぉ~?」
いつものように絢辻の姉―絢辻 縁がノックもせず妹の部屋に入ってくる。それに全くの手加減なしの不機嫌な声を隠さず、妹は応対した。この姉妹の日常ではあったが。
「当然の様に入ってこないで・・何か用?」
―全くこの姉は・・こうしたいがために私をわざわざロックの無い部屋をあてがったのかしら・・?
おかげでまだ仲良くなって日の浅い彼に先日自室に侵入され、寝顔まで覗かれる災難も蒙った。この被害の賠償金を誰に請求すればいいのやら?
そんな事を考えつつ勉強机に座ったまま、背後のドアを能天気に開けた「損害賠償金支払い能力ゼロ」の姉に背を向けたまま一瞥もくれず、黙々と絢辻はペンを動かし続ける。
この創設祭の会計資料の提出期限が数日後に迫っている。が、今回も問題なく間に合いそうだ。念の為、有人に見直しをさせるぐらいの時間も設けているため、後は任せて大丈夫なくらいだろう。
―ふふ。相変わらず我ながら完璧な仕事ぶりね。~~♪
絢辻はうんうんと頷き、一段落まで残り僅かな創設祭資料をトントンと勉強机の上で纏め、上機嫌そうににんまりと笑う。そんなご機嫌な妹とは対照的に背後で口を尖らせつつ―
「む~~~~っ!つ・か・さ・ちゃん?人のお話しを聞く時はせめてこっちを向きなさ~~い?」
ぷぅと頬を膨らませ、そんな苦言を呈する姉。しかしその言葉にも相変わらず妹は真面目に取り合わない。
「今忙しいの。用件があるならそのまま言って」
作業を尚も続けながら絢辻は相変わらず背後の姉に目もくれない。「片手間にアンタの話を聞くぐらいの余裕はあるから」、とでも言わんばかりに。
「・・大事な話なのよ」
「ふ~ん」
―貴方が?大事な話?明日はヤリが降るかもね。
嘲りともとれる皮肉な感情をこめてそう絢辻は心の中で言い捨て、尚も姉の方を向こうとしなかった。
この時、絢辻は確かに見るべきだった。背後の何時もとは違う縁の表情を。
「お父さんがね・・こっちに来るって」
―・・・!
その縁の言葉に全く淀みなく動いていた絢辻のペンが紙の上で突如ピタリと止まった事を縁は確認する。
「『来年、詞は大学受験を控えた大事な年だ。勉強のしやすい最高の環境、そして信頼のおける家庭教師、講師を揃え、こちらで万全の態勢を整えてある。だから―』」
縁は「あの男」の言葉を一言一句間違いなく、そのまま妹に伝えようとした。
今の絢辻には姉の言葉が全て「あの男」の声にそっくりそのまま脳内変換されて響いていたことだろう。
「・・・。―そう。解った」
絢辻は尚も姉に振り向かないまま素っ気なくそう言って姉の言葉の続きを遮る。「その先は言わなくても解っている」と言いたげに。
どうせ・・
「戻ってきなさい」
―そう続くに決まっている。「戻ってこないか?」ではなく。
ただ強制力だけを備えた抗いようのない絶対の命令、「宣告」だ。そこから「対話」に派生しない。そもそも派生させない。あの男は。これは既に決定事項なのだ。
「・・詞ちゃん?」
「煩いなぁ・・用が済んだなら出てって?『忙しい』って言ってるでしょ」
「詞ちゃん・・」
「いいから」
「・・」
パタン・・
縁は無言で静かに妹の部屋を閉める。妹の部屋にかけた縁特製の「つかさちゃんの部屋❤」と書かれたプレートがかたりと揺れた。
この日より約二年前―
絢辻 詞。吉備東高校入学直前の春の事―
あまり仲のいいとは言えなかった、・・否。姉―縁の方はむしろ大好きだったのだが、残念ながらあまり好かれていなかった妹―詞が吉備東高校入学を機に姉が下宿しているマンションから吉備東高校へ通いたいと言い出した。
縁は嬉しかった。歳はそれほど離れていないが何となく距離があった妹が初めて「姉の所に行きたい」と言ってくれたのだ。
正式に両親からの許可が出た際、縁は喜び勇んで彼女が在学している陽泉大学の友人に頼みこみ、つてを頼って建設工学部の校舎に潜り込み、実技の際に余った資材を頂戴し、施設まで間借りしてこの妹の部屋のドアを飾るお手製のプレートを作った。
そして引っ越してきた当日の妹の微妙な表情もなんのその、満面の笑みでこのプレートがかけられた部屋をうきうき紹介したものだ。
「じゃ~ん♪ここがつかさちゃんのお部屋よ~~!」
そんな能天気にはしゃぐ姉を実家に居た時から変わりなく、姉に対してトコトン無愛想な妹はうっとおしそうに、そして素っ気なくじとりと睨んで
「・・見たらわかるわよ」
と、一言言った。そんな相変わらずの大好きな妹の「らしさ」に尚も縁は嬉しそうに笑う。
対照的に妹はそんな姉に一つ大きな溜息の後、未だその場に居座ろうとニコニコ傍らに立っている姉のバックに回り込み、ずいずいと背中を押した。「何か手伝う事な~い?つかさちゃん♪」と言いたげにるんるん指示待ち人間してやがった姉を早々に追い出す腹だ。
「ん~~!ん、もう!!部屋の中は自分で整理するから。あ~手伝わなくてもいいよ!はい!だからあっち行って!」
「えぇ~お姉ちゃんも手伝いたいよ~」
「余計時間かかっちゃうでしょ!ぶっちゃけジャ・マ・な・のっ!!も~お願いだから早く行って?私は入学式の準備とかで色々忙しいんだから!」
今ほどまだ髪の長くなかった妹は髪を振り乱しながら姉を追いやった。ぶぅと膨れ面しながら縁は渋々その場を去る。しかし、
―うふふ~~スキありぃ♪つかさちゃん♪
去るふりをしてひょっこり廊下の角から自分の部屋の前で一人立っている妹を覗き見した。その時の妹の顔を縁は今でも覚えている。
「・・くすっ」
自分の部屋にかかった恥ずかしい姉のお手製プレートに呆れながらも隠し難い喜びを讃えたあの表情。とことん姉に対して愛想の無い妹が姉には見せた事の無い表情だった。
―うふふ♪
縁は凄く嬉しかった。その表情の一因が自分お手製のプレートである事も嬉しかった。
・・しかしその後すぐに覗いている事がバレ、遠目から妹に思いっきり睨まれ、怒られた。
「・・解ってんのよ!」
「ひぃ~つかさちゃんったら怖いぃ~♪」
「けど初めてお姉さんらしいことをしてあげられたな~♪」と、縁はすたこら逃げながらも自分を褒めてあげたい気分だった。
でも―
一方で縁には解っていた。その妹の明るい表情の理由の大半を占める原因が非常に悲しい事を。
それは「解放」による安堵だ。
「あの男」の支配から逃れることが出来たことへの安心。たとえそれが一時的なものと解っていたとしても浮かびでる他ない、にじみ出る表情だったのだ。
そして二年後の今日この日―
父親からの伝言を縁は一言一句違えること無く、相変わらず振り返ろうとしない妹の背に一方的に告げた。
妹にとって安堵の時間―それが予定通り近い将来終わりを迎えることを宣告する役目が二年前の春の日、大好きな妹の「一時的解放」の祝福をした他でも無い自分自身であることが縁は悲しかった。
この会話が始まってから終始、妹は姉に背を向け、とことん素っ気なかった。縁が「あの男」からの伝言を伝えた後も粛々と淡々と宣告を受け取っていた。
でも、縁には見えていた。
突如動きの止まった妹のペン先が僅かに震え、染みだしたインクが真っ白な紙の上で真っ黒なインクがゆっくり、じわじわと底なし沼の様に広がっていく様を。
この日、この夜のこの時間以降の事を絢辻はよく覚えていない。大事な会計資料の纏めがこの後、予定通りすぐに終わったのか、だらだら、長々と翌朝辺りが白み始めるまでやらなければいけない程捗らなかったのか本当に全くの記憶が無かった。
翌日、学校にてそれの点検をした有人が「全く問題なかったよ♪」と笑ってくれたのを見て心底絢辻はホッとしたのは覚えている。あの屈託のないへらへらとした笑顔に。
いつしかそんな彼の笑顔は絢辻の生きる糧となっていた。
しかしそれもいずれ―
・・喪われる。予定通りに。
―・・・っ!!!
そう考えると居ても立っても居られなくなった絢辻は姿を消し、図書室の文書保管庫―立ち入り禁止の「あの」場所で無心に、一心不乱に大事な今後の創設祭実行委員の行動指針を纏めたノートをいつの間にか―
・・・破り始めていた。
―「今後」「この先」なんて、
・・来なければいいのに。
例え未来を破り捨ててでも・・・私はここに居たいんだ。
何故・・寄りによって今なの?
嫌だよ・・もう一人は・・いや・・。
現在―
12月25日吉備東病院。有人の病室にて―
「いずれ話そう、話さなきゃ、・・そう思っていたんだけど・・ここまでギリギリになってしまって本当に御免なさい・・」
絢辻は自分の方をようやく向いてくれた有人の顔を見、微笑みながらそう言った。
そして今度は無表情のまま絶句している有人が意識を取り戻し、言葉を紡ぐことを拒んだ絢辻は矢継ぎ早に言葉を続けていく。
「『高校三年生になったら親が中学から推薦していた高校に編入すること』・・元々そういう約束で私はあの姉との共同生活を許されていたの。・・あはっ。びっくりしたでしょ?有人君が初めて私のお見舞いにウチに来てくれた時のこと・・覚えてる?」
当時びっくりはしたものの、今考えるとかけがえの無い楽しい思い出を反芻してなるべく自分の表情が曇らない様に絢辻は工夫する。
ただただ絢辻は必死だった。
「・・大学生の姉の下宿先に居候している高校生の妹なんて・・考えたら普通おかしいでしょ?・・想像はつくかもしれないけど最初は両親に猛反対されたわ。でも下宿生活で自炊、洗濯、家事・・つまり将来の『自立の為の訓練』をすること、そして吉備東の最近の学力の向上、校風、評判の良さ、そして自分の成績は常に上位をキープして安定させること、・・そんないくつかの約束を盾にしてようやく今の下宿生活を送る事を認めてもらえたのが中学三年生の受験の数週間前だったかな・・」
数々の条件、制約、約束、誓約を素に作り上げたたった二年間の自由―
「・・嬉しかった。こんな事言っちゃうと源君は嫌な気分になるかもしれないけど都合が良かったの。吉備東高校は。たまたま姉の下宿先に近くて学力もそこそこ、おまけに・・制服も可愛いし、・・ね?」
そして何よりも
―「あの男」から、そして自分の家族から少しの間でも解放される―
絢辻は奥底に秘めたそんなどす黒い言葉を紡ぐこと無く、替わりに悲しく笑う。
全ては最初から解っていた。自分に許された時間も、それが終わった後、自分の身の振り方がどうなるかという事も。その時の自分の冷めた対応も状況も、訪れるであろう失望感や落胆すらも全て解っていた。二年前からそれを粛々として受け入れるであろう未来の自分すらもまるで見てきた時の様に解っていた。
どれだけ吉備東高校で充実した時間を過ごそうとも、どれだけ努力や研鑽を積み重ねようとも決して変わらない未来を。
それが今とうとう訪れただけだ。今更嘆き悲しむことなど無い―そう思うだろうと「思っていた」。
しかし―今、自分が予測していた未来とはかけ離れた場所に自分は居る。いや、違う。
私の中の「あの子」はもう居ないんだ。
予想だにしない未来が目の前には広がっていた。そして予想だにしない未来に「あの子」を誘った存在が今目の前に居る。他の誰でも無い。
・・源 有人君。
この人が目の前に居る。大事な大事な「あの子」の初めての大事な人。
でも、なら・・・今彼の目の前に居る人はだあれ?
誰でも無い。
居なくなった「あの子」がかつて虚勢で作りあげた作りモノ。
本来ならばココに居るべきで無いモノ。
お呼びでないモノ。
でも今はただ「あの子」としてココに存在しなければならない。
・・これ何の冗談?
今の「あの子」を失った私は、恐らくは「あの男」―父にとっては都合のいい存在だろう。
何せ父の元から離れることを、父の意思に逆らって離反した張本人である「あの子」が居なくなったのだから。
ようやく二年前―ささやかな抵抗をした「あの子」を失った今の私があの父の意思に逆らえるはずもない。私という「仮面」は「あの子」が父と表向き体よく接する為に生みだした物でもあるのだ。
でも。
今目の前に居るこの―源 有人君の目の前に居る存在として今、「あの子」を失った私が未だ存在していることはこれ以上限りなく忌むべき状況だろう。
彼にとって今の私の存在は耐えがたい重荷、罪悪感の象徴だ。彼を苦しめるだけの存在だ。
それでも今私は存在するしかないのだ。彼の前に。伝えなければならないのだ。「あの子」の遺志を。最後の言葉を。
ホント・・これ何の冗談だろう?
今の私は彼を恐れ、混乱させ、怒らせ、傷つけるだけの存在なのに。
何でここに居なければならないのだろう。今の彼を見ていなければならないのだろう。
憔悴し、何時もは穏やかに澄んだ茶色く、優しく垂れた彼の目がまるで髑髏の様に落ち窪み、瞳はぐるぐると渦巻きのように回り、彼自身の体を吸い込んで行くような、墜ちていくような光景を目の前で直視しなければならない現状を。
そして私自身にも絡みついてくる例えようのない感情。瞼をこじ開ける様な熱い衝動、激流。ビリビリと手の先が震える。
・・ああ。「あの子」がすること、抱える事―「あの子の役目」を体が自然と反芻する。
でも。これを「表現」することは、表に出す事は「私には」許されていない。
これはもともと私に「許された」行為ではない。
これは「あの子」の役目だ。「仮面」の私には許されていない行為だ。
悲しい、辛い、憤りたい、
・・・泣きだしたい―
でも「あの子」が作った私には抱えた「負」をさらけ出す権利は与えられていない。「仮面」の私はただ人形のように全てを受け入れて微笑んで佇むだけだ。
その人形の顔に。その冷たい仮面の頬に。
「・・・あ」
瞳が空洞の様に空っぽになった彼の手がぴとりと触れる。
そこには何もない。ただ冷たい。
冷たい頬―
その冷たい頬に触れる彼の指先もまた、震え、そして冷たかった。
その冷たい手の甲に絢辻もまた冷たい手を添える。
「ふふふっ・・」
気持ち良さそうに目を細め、噛みしめるように微笑んで―
「・・・ありがとう。さようなら」
病室を去る直前の彼女の背を呼び止めようと有人が手を伸ばした時、彼女は気配を察したのか横顔だけ振り返る。
呼びかけようとした。でも声は出ない。せめて表情で「待って」と必死に伝えたつもりだった。
しかし―
―・・・待ちません♪
そう言いたげに横目で悪戯に微笑む。ひょっとしたら彼女は彼女の言う「あの子」の姿をせめて別れ際くらい、その「名残」、または「残滓」の様な物を有人に見せるため、必死に彼女なりに象ったのかもしれない。
・・残念ながらお世辞にも良く出来たとは言い難い笑顔だった。彼女にも自覚が在ったのだろう。すぐに誤魔化すように恥ずかしそうに笑い、そのまま再び絢辻は前を向き、今度こそ二度と有人に振り返る事は無かった。
起きていた時間はほんの数時間、確実に有人の人生の中で一番短い一日だった。
一方で永遠の如く長く重い一日が終わりを告げる。
しかし瞼を閉じても尚、残る彼女の感触がいつまでも有人の掌に残っていた。
決して温かい涙に濡れる事のない―
冷たい頬のままで。