舞台は唐突に切り替わる。
12月26日―
中多家・・応接間にて。
「・・先日は世話になったね。楽しい一日だったよ」
そう言って中多父は中多母の淹れた紅茶を照れ隠しの様に一口含む。カップの裏で恐らく少し口の端が緩んでいるであろう中多父の顔を想像し、御崎 太一、中多 紗江、そして中多母は一瞬目を見合わせて笑った。しかし、ほんの一瞬彼女達が目を離したすきに太一の顔がすっと曇る。
「・・・」
今朝―梅原、そして源 有人より太一の家に突然連絡があった。
中多家に出かける前のほんの二十分程の短い時間に聞かされた話であったがそれは太一に深い衝撃を与える。
昨夜源と絢辻の間にあったこと―
そしてそれが現在思いもよらない事態を引き起こしている事が解ったこと―
源はこれから「中多 紗江の元へ出かける」という太一の話を聞いて心底すまなさそうに「気にしないで。こんな日にゴメン」と言ってくれたが彼の憔悴が電話を介してでも伝わってきたのがずっと胸にひっかかっていた。
本心から今度詳細を聞かせて欲しい、と太一が頼むと源は笑って、「・・解った。また追って詳細を伝えるよ。・・ありがとう。今日は楽しんで来て」と言ってくれた。
―やっぱり・・顔くらい出した方が良かっただろうか。せめてお見舞いでも出来たら・・。
自分だけ置いてけぼりにされたような手持無沙汰を味わいながら、その両手の中に中多母の淹れてくれた綺麗な赤い紅茶に映る浮かない自分の顔を両眼で眺めつつ、中多父とは異なる感情をカップの中に押し隠した。
しかし―
「太一先輩・・?」
中多娘―中多 紗江は目ざとくその太一の憂いを帯びた瞳に気付く。隠そうとした太一とは対称的に戸惑いと心配を隠さない上目遣いで眉も曲がっていた。
短い付き合いだがこの御崎 太一という少年がとりわけ同性の友人思いな事をこの少女は知っている。中多家の最寄り駅まで出迎えに行き、今日初めて顔を合わした際の太一のどこか浮かない表情からすぐに彼女は違和感を覚え、家に向かう道中で既に中多は辛抱強く、今回の一件の話を太一の口から聞きだしていた。
よって太一が紅茶のカップの表面に浮かべた浮かない表情の意味を彼女は理解している。
「あ。ごめ・・紗江ちゃん」
「いえ・・」
謝る太一の言葉を否定し、気にしない素振りをしつつも中多の笑顔も曇り、しゅんとやや視線を落とす。中多娘にとっては面白くない事は確かだ。が、同時太一の気持ちが解る分、何も言えない。
自分だって今年いきなり男女共学の吉備東高に編入し、新しい環境への大きな不安の中、とても良くしてくれた友人達がいる。
同じクラスの橘 美也や七咲 逢を筆頭に、そして何よりもアルバイトのことで相談に載ってくれた生まれて初めて近しい異性となった少年―御崎 太一は勿論、彼の同い年の幾人かの女子の先輩―棚町 薫や桜井 梨穂子とその友人達。
そして・・少し怖かったがとても良くしてくれた男性の先輩達―太一の友人達のことを知っている。
その内の一人―源 有人。
自分の今大好きな人がとても大事にしている友人の一大事。それを考えると中多は何も言えないのだ。むしろ太一がちゃんと話してくれたことが嬉しくもあった。
大好きな人を知り、これから知っていく上でその大好きな人が大切に思っている物を理解し、共感できる事が嬉しくもあったのだが、やはり少し切ない気分にもなる。
また太一から聞かされた話を聞いた限り、自分があまり役に立てないであろうことも中多の憂いに拍車をかける。
「先輩・・やっぱり・・心配ですか?その・・」
やきもきした自分の心を宥める様にもじもじ、胸の前で両手の指先をこねまわす。
「・・・?どうかしたの?紗江?」
「・・・?」
中多母は中多父のティーカップに紅茶を継ぎ足しながら様子のおかしい娘に怪訝な表情を見せる。中多父も同様だった。しかしその言葉や表情は今娘の目には入っていなかった。
構わず言葉を紡ぐ。
「源先輩と・・絢辻先輩の事が・・御心配、・・ですか?」
そう言った中多娘の顔を見て居心地悪そうに太一は頭を掻く。
「良かったら・・午後からお見舞いに行きませんか?その・・私も源先輩のこと・・心配ですし・・」
困った顔をしながらも中多は不器用そうにニコ・・っと笑って太一の顔を覗きこむ。「一緒にお見舞いに行く」というのは口実で明らかに太一を気遣っていた。
恐らく一緒に行けば自分が立ち入りようの無い話になってしまうのが重々解っていながらも太一の心配そうな表情をこれ以上見ているのが今の中多娘には辛かった。
「『お見舞い』・・?御崎君?どうかしたの?」
「あ。いえ・・その」
言いにくそうな太一の言葉を遮って中多娘が割り込む。
「先輩の・・お友達がお怪我をして入院してるの・・ママ」
「・・紗江ちゃん!」
「まぁ!大丈夫なの!?」
「あ!だ、大丈夫です!!今朝本人から直接電話をもらって別に命にかかわる怪我じゃないって話で・・声も元気そうだったから大丈夫です・・ホント」
「そうなの・・?でもこんな年の瀬に災難ねぇ・・」
「すみません・・」
「あら。貴方が謝る事じゃないわ。は~ん・・それで紗江はさっきからずっとそんなカオしていたのね?」
全てを察した中多母は労わる様に、曇りがちな娘の前髪をいじいじと悪戯に、しかし優しくこねる。
「・・・」
「また今度病院に顔出す事にしているのでお気になさらず。・・本当にすいません」
苦笑いしつつ微笑む御崎の顔を見ながら中多は申し訳なさそうに眉をしかめた。
太一にとって中多の気遣い、気持ちはとても嬉しい。でもやはり場所は選んで欲しいなぁと思いつつも、うっかり表情を曇らせ、中多に悟らせる結果を招いた自分を太一は諌めた。
その会話の中―
唯一無言を貫いていた人物が唐突に声を上げた。
「紗江」
中多父の低く、少しくぐもった威圧感のある声に
「・・!はいっ?」
娘はびくっと反応する。
「今、何と言った?」
「えっ・・?」
「・・貴方?」
「何と言ったと聞いている」
「・・?」
珍しく娘に対して高圧的な父に娘は首を傾げながら今までの会話を頭の中で反芻する。
しかし中々言葉が出ないようだ。思わずすぐさま中多母、太一が助け船を出す。
「貴方・・紗江を脅えさせないでくださいな」
「僕の友人がその事故に遭いまして・・おとといから入院しているらしいんです。それを紗江ちゃんが心配してくれて・・はは・・すいません」
しかしそんな妻と太一の言葉を中多父は無視し、次に出た言葉は全く以て意外な物だった。
「紗江・・今・・『絢辻』・・と、言ったか?」
「・・・?・・はいパパ・・?」
記憶を反芻し、漸く自分が発言した内容と一致して中多はおずおず頷いてそう言った。あまりにも意外な父の問いかけに面を喰らったのか怯えは消え、ただただきょとんと目を丸くしている。
「絢辻」―
中多家のこの場に置いて本来なら全く接点の無いはずの言葉である。恐らくこの一連の会話の中で最も触れる必要のない単語のはずだ。しかし、それにあえて触れてきた中多父の意図が太一達にはまだまるで理解出来ない。
娘の言葉に対する疑問が解消された後、中多父はやや鋭い視線で今度は太一に目を向ける。
「・・。御崎君」
「は、はい?」
「ひょっとして君は・・―
『絢辻 縁』君を知っているのかね?」
「・・・?」
―ゆ、かり・・?
聞いた事の無い名前だ。すぐにふるふると被りを振って太一は
「いえ・・」
当然そう答える。
「・・!そ、そうか。すまない。人違いだった様だ。そもそも君達より彼女は少し年上のはずだからな・・いや本当にすまない。早とちりだったな」
そこで中多父ははっと目が覚めた様に我に返り、直前の自分の行為を恥じる様に体をゆすった後。こくりと手元の紅茶を飲んで小休止。
話は終了。ただの「人違い」で終わるはずだった。
「・・?」
―なんだろう、なんか・・このままスルーしてはいけない様な気がする・・。
太一はどうしてもひっかかった。付き合いは短いが今までこの父親がこの隣に居る小さな可愛い最愛の娘に対してあそこまで鋭く詰問するような口調で問い詰めた事は無い。そのきっかけとなった「絢辻」という単語、そして聞きなれない「ゆかり」という単語を頼りに太一はもう少しこの話を詰めてみようと決心する。
「その・・『ゆかり』っていう人は絢辻っていう名字なのですか?」
「ああ。まぁね。すまない。忘れてくれ。まぁ・・ありふれてはいない名前だが全く居ない訳ではないだろうしな」
おかしい。中多父は明らかに話を打ち切ろうとしている。太一は構わず切りこむ。普段はあまり余計な詮索をする少年ではないが今は少々「事情」が違う。
「その人・・僕達より年上、とおっしゃいましたよね?」
「・・。うむ。今は大学生ぐらいのはずだ」
「・・・大学生?その・・絢辻『ゆかり』さんは確かに僕は知りません。でも・・絢辻 『詞』さんなら僕は知っています。僕のクラス―2-Aの同級生の女の子です」
「ゆかり」と「つかさ」―その名前の奇妙な語感の一致を頼りに御崎は更に言葉を繋ぐ。
「・・・」
「そして聞いた話なんですけど・・そのクラスメイトの女の子には『お姉さんが居る』って話を少し前・・・友達から聞いたことがあるんです。今その人が大学生くらいだとしたら・・」
中多父はそれから十秒ほど口を開かなかった。
予想だにしない場所から。
偶然から。
糸は派生していく。
その糸を紡ぐのは。
源 有人に紡ぐのは意外にもこの御崎 太一という少年だった。
「・・・左京さん?」
中多母―紗希が彼の夫―本名 中多 左京(なかた さきょう)の名を呼び、太一の問いかけに対する返答を促す。
・・ルート「S」の真実。ここに。
ルートS 終章 RootS ~元凶~ 2
―大好きだった。
その笑顔が。
その笑顔は何時も彼女の傍にあった。それが彼女の誇りだった。
そしてその笑顔は常に彼女だけに向けられていた。それをいつしか彼女は「自分だけのもの」と認識する。その笑顔を「その人」が自分以外の他の誰かに向ける所を彼女は終ぞ見た事がない。
それ故に「自分は特別だ」と思っていた。
そして自分が「その人」にとって特別であると考える事に疑いを持たなかった。
傍から見れば全く不自然に思える自他との温度差。それに気付くのに、違和感を覚えるのに生まれつき聡明な彼女でも時間がかかった。
「愛されている」―その珠玉の言葉に疑問を投げかけるにはまだ彼女は幼かった。そして疑うのは幼き彼女にはあまりにも辛く、悲しい事だった。しかし、それは唐突に終わりを告げる。
肝心の「その人」が一切それを打ち切ったからだ。一時を境に「その人」は変わった。
・・否。違う。
「戻った」だけだ。「ウソを止めた」だけだ。
「仮面」を止めただけだ。
―「試み」は失敗に終わった。もう「これ」をする必要はない。・・仕方ない。「替わり」を使おう。
「その人」の意図に少女は気付いてしまった。
「その人」が自分に向け続けた笑顔。その正体を理解した。
そして自分が体のいい「あてつけ」だったことに。そしていざという時の「替わり」であることに―
・・・気付いてしまった。
再び12月26日―
中多家応接間にて
「・・すまない。何にしろ君には関係の無い話だ。忘れてくれ」
中多父―左京は笑ってまた話を打ち切ろうとした。場を仕切り直すように紅茶を飲みほし、次の一杯を注ぐように中多母―紗希に「んっ」と促す。
「・・む~~」
しかし美味しい紅茶を味わう顔ではなく、まるで苦々しい物を紅茶と一緒に無理矢理飲み込んだかの様な渋い顔を中多父はしていた。まるでヤケ酒みたいだ、と。これには中多母は納得できない。あからさまに不機嫌に唇を尖らせている。
明らかに夫―左京が何かを押し隠しているのが丸解りだった。おまけに押し隠すのに利用されたのが自分の丹精込めて淹れたお茶では溜まらない。
「・・紗希」
「・・。自分でいれて下さいまし」
ぷいと拗ねたように紗希は目を逸らす。
「・・・」
困った顔でバツが悪そうに左京は自分でポットを掴みぎこちない手つきで紅茶を継ぎ足す。
場の空気を悪くしてしまったのが自分ではないのかと落ち込む中多娘―紗江の背中を優しくポンとたたいたこの場に居る唯一の部外者、小さな少年―御崎 太一は「有難う紗江ちゃん。・・おかげで決心付いた」と言いたげな迷いの無い目で左京を見て微笑む。
「良かったら・・僕に話していただけませんか?」
家族全員に振られた左京を慰める様な優しい顔でまださらに少年は本題を再開。確信めいた瞳でしっかりと前を見据え、口を開く。
「絢辻・・詞さんをおじさんは知っているんですね?」
「・・。いや、『彼女の事は』ほとんど知らない。今君がはっきり彼女の名前を言ってくれてようやくそういう名前だったかなと思い出した程度だ」
「そう・・ですか」
「だが・・彼女の姉の縁君・・そしてその子の父親とは面識がある」
「父親・・」
絢辻の父親―その異質な単語に太一は身震いするように背筋を正した。そんな彼を見て左京はちらりと娘と妻に目を向け―
「・・・紗江。紗希」
「はい?」
「・・?」
「少し外しなさい」
端的に、しかし有無を言わせない口調、そして目線で二人を部屋の外へ行くよう促す。
「・・・解りましたわ」
「・・」
中多母は聞きわけ良く席を立つが、娘の紗江は心配そうに隣に座る太一を見る。
「せんぱぁい・・」
「大丈夫だよ」
太一はにっこりと笑ってまだ心配そうに彼を見る中多娘を彼女が応接間のドアから廊下に出るまで見送った。そして見届けた後、澄んだ瞳で中多父を見る。
顔つきはお世辞にも男らしいとは言えない程幼く、そして同時に少女の様な小さな体の少年だがその堂々とした態度、表情に邪推や興味本位の感情は全く感じられなかった。
その姿に取りあえず中多父―左京は太一の第一次防衛線の突破を容認する。
「君は『絢辻 詞』君とは、仲が良いのかね?クラスメイトという事は解ったが」
太一はその問いに正直にふるふると首を振った。確かにクラスメイト故に彼女と全く話さない訳ではないが彼と彼女の間柄は「友人」とは言えないだろう。
「なら何故・・そんなに話を聞きたいと思うのかね?」
太一が解答を間違えば即時、左京はこの話を打ち切るだろう。その為には偽らない事だ。小細工は無用、というよりそもそも無理。
「・・。正直絢辻 詞さんとは僕そこまで接点は無いです。でも僕の友達・・源君の、・・その、・・?」
「・・『源』君?・・ああ。紗江の開いたパーティーにも来てくれていたあの茶色い髪をした彼だね?その子と・・何だと言うのかね?」
「その・・」
―そう言えば・・何だろう?
絢辻 詞と源 有人―あの二人の関係を表す言葉をすぐに御崎は思い浮かばなかった。
元々あの二人の関係をはっきりと認識している第三者の人間はほぼいない。
―でも、きっとあの二人は・・。
「ふむ・・。『大事な人』・・と、言ったところだろうか?」
言い淀んだ御崎の言葉を代弁するように左京が割り込んだ。有る程度しっくりくる表現ではあるので太一はまた小さく頷く。その反応を見たのち、また左京は考え込むように口を塞ぐ。
ほんの少しのきっかけで「・・やはりこの話はこれ位にしておこう」と左京があっさり言いだしかねない程の雰囲気であった。そんな細い綱渡りの中必死で太一はその綱の上でバランスを取る。
「・・確かに僕は全く絢辻さんの事を知りません。だから僕が聞くのは多分お門違いなんですけど・・。でも僕の友達が、・・大切な友達が多分、恐らく今すごく大変な状態で・・少しでも役に立てたらと思っているんです。でも・・情けない話、正直彼にしてあげられる事が今の僕には何も浮かばなくて、ですね・・」
実際左京から絢辻の話を聞きだしたところで何か役に立つ情報が得られるとは限らない。第一太一が現状、電話で梅原と源から伝え聞いた話はあくまで
「源が事故」、「その影響で絢辻が謎の変調」、「その絢辻は近いうちに吉備東を去らなければならない」、「その前にどうにかしなければならない」
以上・・この程度の断片的な話である。事態がどの程度の深刻さかを推し量るには情報が少なすぎる上、おまけに相手の表情の見えない電話を介してでは状況の完全な理解はほぼ不可能と言っていい。
しかし、電話もとで響く源の声に太一ははっきりと事態の深刻さを根拠なしに確信していた。何時も笑顔を絶やさず、何処か一歩引いて物事を冷静に見ている傍から見ていて安心感のある友人―源 有人の掠れた、あの消え入りそうな声を聞いて。
何か彼の役に立ちたいとは思う。でも何も浮かばない。会いに行っても役に立てるかどうかも解らない。歯痒かった。悔しくてたまらなかった。初めてできた大切な友達の一大事に傍に行って勇気づけてあげる事も出来ない自分に。
そんな感情をもてあましながら太一はここに来ることしか出来なかった。
その中で一つだけ見出した予想だにもしない光明だった。
出すつもりもなかった「絢辻」という言葉を中多娘―紗江が太一を想うあまりに発してくれた事を発端とし、それを娘の言葉にいつも真摯に耳を傾ける中多父―左京が漏らさず聞き取ってくれた事によって生まれた思いがけない光明。
それが運命だろうが、偶然だろうが、必然だろうが、奇跡だろうがどうでもいい。
今、太一は縋る。
初めてできた友人の内一人の一大事に太一は何でもしてあげたかった。
今は役に立つか立たないかは問題じゃない。それは話を聞いてから確かめればいい。
もともと何の役にも立てそうになかったのだ。今聞きだそうとしている事が例え役に立てなかろうと同じ事なのである。だからこそ今は―
「・・聞きたいんです。それしか言えないですけど」
どこまでも太一は自分を偽らなかった。
「・・あまり気持ちのいい話ではないし、全くの赤の他人である君に話す話でも無いが」
「それは・・違いないです。でも・・きっと聞くべき僕の友人が残念ながらここには来られないんです。だからそれを必要であれば僕が伝えに行きます。テープレコーダーか何かに話しかけているつもりで話してくれませんか?」
「・・随分と押しの強いテープレコーダーもあったものだ」
呆れたような苦笑いを浮かべた左京は少し幼く見えた。
「旧姓・・天間 孝美(てんま たかみ)」
「・・はい?」
唐突な左京の言葉に面を喰らったように御崎は目を見開いた。それに構わず左京は話を続ける。
「この男の名前を知っているかね?太一君は」
「・・いえ。全く」
これは当然である。太一はそう答えるしかない。悪戯な質問に面食らっている太一の表情に満足げに頷き、左京は長い脚を崩す。これは彼なりのリラックスの為の所作であった事を太一はその後知る事になる。彼が先程言った「あまり気持ちのいい話ではない」という言葉を否応なく裏付ける真実を語る前の彼なりの前戯、準備運動の様なものだったのだろう
その証拠にすぐに彼の表情が一気に冷えた。太一に「一度しか言わない。ちゃんと付いて来たまえよ?」と言いたげに。
「今その男は絢辻 孝美と名を変えている。奴らしくない、何とも大人しそうな名前だがな」
「あやつじ・・たかみ?」
「・・そう。縁君と詞君の父親の名前だ。そして私とは大学の同期だった男の名でもある。こっちの名前に聞き覚えは無いかね?御崎君は」
「・・・?いえ・・」
「そうか。まぁ・・そんなに名前を出す方の人間ではないしな。あいつは」
「・・有名な方なんですか?」
「・・・今度この町で地方自治体の首長を務める事になる大物だ。国政に関わる仕事をしている。この日本の国家の『根』の部分に居る男といったところだ」
「・・・!?」
話がおかしな方向に行き出した。出だしから何とも突飛な話過ぎて太一は頭の回転が追いつかない。
「・・・まぁその筋には有名な男でね。解りやすく言うと元・キャリア官僚だ。その中でもあいつは家柄もコネもなく、自分の力だけでのぼりつめた完全な実力派、叩き上げの星の様な男でね。その能力を気に入ったある医療関係の大物の家に婿養子に入った。その家が絢辻家だ」
「・・・」
御崎はきょとんとした。
「・・ふふ。すまない。君にはあまりピンとこない話かもしれないな。重要なのは・・その男がこの日本という国家にとって重要なポストの人物でそれに見合った実力、立場にある男であることを理解してくれればいい。そして同時に何と言っても・・」
「・・・」
「目標の為にはとことん冷酷な男だということだ。利用出来る物はすべて利用する。例え自分の家族であろうがね」
無表情で語る中多父の目がその言葉を表すように冷えた光を宿す。しかしさらにその奥には何処か静かな炎の様な揺らめきを感じる。それが抑えきれない「憤り」を意味していた事に気が付くのにさほど時間はかからなかった。
「繰り返し聞くが・・君は縁君とは面識は無いんだったね」
「・・はい」
「私は先程言ったように何度か彼女には会った事がある。・・紗江も会った事があるはずだがあの子はまだ五歳の上、幼いころから引っ込み思案だったから覚えていないだろう。・・比べて縁君は明るく利発で礼儀正しい子だった。おまけに母親に似て綺麗な黒髪と整った顔立ちで黙っていても目を引く子だったよ」
「・・そうなんですか」
少し左京の表情が和らいだのを確認して太一もどこかほっとした表情をして一息つく。
「・・見事な品評会だった」
「・・?品評会?」
「・・私が縁君と初めて会ったのはあの男が政界への進出をする後進会でのことだ。その場には官僚はもとより、政治家、各界の有力者、識者、企業役員の顔合わせと売り込みの場だ。そこであの男は公私の充実のアピールと共に将来の為の自分の『手札』を見せた。その一つが『完璧に誂えた』自分の娘だ」
「・・・!」
太一はぞっとした。
「完璧に」、「誂えた」・・人間を表す言葉とはとても思えない。それを敢えて左京がそう表現した事に強い彼なりの意図を太一は感じとる。顔も知らない、会った事もない男の話を左京から伝え聞いただけなのに太一は言いしれない不気味さを覚えていた。
「まだ十歳の少女が大人びた態度であの男とその妻に連れられ、堂々と後進会に出席している各界の大物、来賓に挨拶回りしていた。他の出席者の中にも何人かの子供連れがいたが年上を含めて一番彼女が大人びて見えたね」
「・・・」
「それからそのような会で幾度となく私は縁君と会った事がある。彼女も私の顔をいつしか覚えてくれてね。何度か話すようになった。話してみると本当に賢く、また優しい子であることが解ったよ。笑顔も素敵な子だった」
中多父が目を閉じ、また一瞬表情を緩ませる。しかしすぐにまた険しい表情に戻り、話を続ける。
「しかしだ。何回も繰り返し彼女に会っていると気付く事がある」
「・・・?」
「常に傍に居る彼女の父親―あの男が一切彼女に対して笑いかけていない事にだ。そして逆に彼女があの男に対して笑いかけてもあの男が一切反応しないことにも気付いた」
「・・私も一人娘を持つ身だ。自分に微笑みかける娘の表情にきっちりと応える事は父親として当然だと思っている」
「・・」
―・・でしょうね。
太一は納得した。今までの左京の話の中で最も納得した、理解出来た言葉だった。
「増してまだ小さな少女が海千山千の曲者の大人が蔓延る後進会に交じって立ち回るのだ。その精神的、肉体的負担は測り知れない。・・それを彼女は気丈に、十二分に努めあげているというのにあの男はそれをしない。全くもって笑いかけないのだ。・・それが『偶然であるのか意図的なのか』と聞かれれば間違いなく『意図的だ』と私は言いきれる。そして思わず私はあの男の仕打ちに我慢しかねて外に連れ出し、問い詰めたのだ。『何故あの子の、縁君の笑顔に対して応えてやらないのだ』とね」
中多父は一見冷静な様で物凄く激情家で情熱的だ。
「しかしあの男は柔らかく笑って『君の勘違いだろう』と言った。私は食い下がったよ。『そんなはずはない』とね。
・・その時だった。
あの男が私の後方に目を向けて今まで見た事の無いやわらかい表情で微笑んだかと思うと後ろからいきなり声が聞こえた。小さな女の子の声―恐らく紗江と変わらない・・同い歳かそれ以下にも聞こえる無邪気な声だった」
『パパ!!』
『おお。詞!!おいで』
現在、中多父―左京の中で今記憶が繋がる。
―ああ、そうだった。彼女の妹の・・あの子の名前は―
・・「つかさ」だった。ああそうだ。
「・・あの男は駆けよって来た小さな女の子を抱き上げ、今まで見た事の無い表情で笑っていた。何よりも娘の縁君に向けてあげて欲しい笑顔、それをあっさりするあの男とその対象である少女を私が唖然として見ている中、後ろで気配がした」
『・・・』
「振りかえるとそこには・・縁君が居た。彼女もまた私が今まで見た事の無い表情をして私達三人―いや・・悔しいが私はその時彼女の眼中には無かったろうな」
「・・・」
「彼女の眼には自分には決して向けない笑顔をしている父親とそれに満面の笑みを浮かべてじゃれついている彼女の妹の姿しか映っていなかっただろう。・・あれ程悲しく、切ない表情をした女の子を見たのは生まれて初めてだった」
悲哀、羨望、嫉妬、失意。
その全てが合わさった諦めの縁の瞳―その表情が当時の中多父の瞳に突き刺さり、焼き付いていた。
「・・・」
「それが初めて私が見た縁君の妹・・君のクラスメイトだという詞君に会った最初で最後の時だ。私はそれ以来あの男と縁君には会っていない。あれ程不愉快な思いをした事は私の人生の中でそう無い・・・!!あの男の考え方、やり方に心底不快だった・・!」
最早僅かな焔ではない、言葉通り心底からの憤りを込め、絞り出すように吐き捨てた。
この絢辻の父親―孝美の姉妹達に対する対極的な行為。
この行為の目的の一つは完全なる「当て付け」だ。
まだ幼い縁は父の妹に対する無償のその笑顔が羨ましかった。求めていた。自分に対しても浮かべて欲しかった。
しかし、彼女がどれだけ学校でいい成績を採っても、どれだけ社交の場で堂々と振舞っても父親はそれを与えてくれない。彼女に与えられるのはいつも父親の無表情で事務的な―
―よくやった。縁。この次もこの調子で頑張るんだぞ。
・・だった。
笑顔を伴わない言葉達。しかし当時、縁はそれでも良かった。嬉しい事には違いなかったからだ。
しかし、片やまだ幼い妹には無償で与え続けられる自分には決して向けられることの無い父親の笑顔。そして優しい言葉達。「何故それが自分に与えられないのか?」―縁は考え続ける。
―そうだ。もっと私がいい子なら、もっとすごい事をすればパパは・・きっと、きっといつかは!
健気な少女の一途な願い―しかし、それは終ぞ訪れる事は無かった。
当然だ。そもそも父親―「あの男」にはそうするつもりなどなかったのだから。
ただ「愛されるにはもっと努力しなければならない。現状以上を求め続けなければならない」という意味の無い命題を彼女に与え続けた。それをただ愚直に縁は繰り返す。意味の無い反復作業。しかし一向に愛、笑顔は得られず。変わりに出来上がるのは―「父にとって都合のいい存在」
頭脳、容姿、振舞い、そして何より自分に対して従順で忠実な「何処に出しても恥ずかしくない」娘。一見完全、完璧な「調度品」。
それ即ち―自分を更に高みに押し上げるための貢物。道具だ。
父の、父による、ただ父の為に作りあげられる自分。
「愛」という心の交流を求めた少女の行く先にあるのは皮肉にも自分が心を持たない人形になる事であった。
父にとって都合のいい―可愛く、美しく、賢い綺麗な服を着せられた人形に。
「古いと思うかね?」
唐突に太一に左京は尋ねる。
「えっ・・?」
「今時そんな『政治、出世の道具に自分の娘を利用しよう』なんて考えるなんて古い、と」
「・・・」
「今は自由の時代だ。男女平等だ。自由な道が開けている。性別なんて関係ない。能力と意志と努力さえあれば登り詰める事はそんな事をしなくても出来る!」
「・・・」
「だからそんなのは古い!」
「・・・」
「・・そうでもない。社会が変わろうと、時代が変わろうと、一流の男というものは常に求めるものなのだ。自分の言う事を理解し、把握し、共有できる聡明で・・尚且つ美しく若い女性をね」
つまりあの男にとって自分が手塩にかけて「作った」完璧な娘は自分という人間の健全性と親としての管理能力をアピールし、尚且つ自分の足場を固めるためのいざという時の「貢物」の一つであるというのだ。
いや、正確には「二つ」持っていたか。
中多父の言葉を聞いた後、何故か太一の頭の中でこんな光景が思い浮かんだ。
とてもとても高い高層ビル―その最上階、見晴らしのいい明るいオフィスの一室で座っている背の高い身なりの整った男性の後ろ姿のシルエット。デスクチェアに背中を預け、窓の外―街も人も全てが握りつぶせそうなぐらいの高みから見下ろしている。
その男が振りかえると・・その男には顔が無かった。まったくののっぺらぼうだった。
彼のいくつもの顔を持って本質を掴ませないその内面を表すように。
この「世界」では本音を晒してはいけない。自分の意図を読み切られてはいけない。
彼の生きる世界はシンプルだ。「敵」、「味方」しかいない。ただし、その区分は常に流動的。ほんの些細なきっかけで全てがあべこべに入れ替わる。
だから男は隠す。だから「顔」は無い。持たない。
全てが「仮面」の世界だ。
そしてデスクの上に指先まで整えられた男性の手にそっと自然に触れる指先が見える。
男性の手より小さく細く、白い指。両手を重ね、ほんの少し男性の甲の上に指先を重ねている。
その女性の顔が今見えた。・・それは今よりさらに大人びた未来の―
絢辻 詞の顔だった。
その自然すぎる、美しすぎる笑顔が今は何よりも御崎は怖かった。
「縁君は・・その後風の噂で聞いた。父親・・あの男の反対を押し切って自分で進路を選んだと聞いている。私は喜んだよ。『彼女は自分の意思で自分の道を決めた』のだろうと」
「・・・!」
思わず閉じ込められそうなほど薄ら寒い想像の光景の中で金縛りみたいに竦んでいた太一が左京の声に現実に引き戻される。
「・・会いたいな」
まるで長い間会えないかつての恋人、想い人を語る様に左京は目を伏せた。
これが大事な娘を想う本当の父親の顔だと太一は思う。姉が三人いる太一には確信があった。しかし、彼はすぐに目を開けた。少しゆるんだかのような空気が一気に張り詰め、太一は背筋を伸ばす。そんな太一を左京はじっと、まるで太一の中にある縁の妹―詞の記憶を目から映しとる様に見つめ、こう尋ねた。
「あの子・・あの小さかった縁君の妹が君と同い年で、同じ学校で、しかも同じクラスとはな・・数奇と言えば数奇だな」
「・・」
「・・彼女は今どんな子になっているのかね?恐らく母親と姉に似て美しい女の子になっているだろう」
「・・はい。とっても綺麗な人です」
「そうか」
「・・それに頭もよくて、明るくて、クラスの中心になっている人です。皆に頼られて認められて憧れられて・・」
「・・・」
御崎の言葉を聞きながら、微かに何度も左京は頷き、そして・・沈痛な顔をした。
彼は彼の中で答え合わせをしている。
風の噂で聞いた姉の縁のその後―そこから導き出される一度しか会った事の無い少女の事を想う。
姉―縁は自ら外れた。あの男の敷いたレールを抜けた。父親に認められようと健気に努め続けた彼女がその道を自ら外れる事は容易なことではなかっただろう。想像を絶する痛みを伴ったはずだ。が、ともあれ彼女は抜けた。・・しかしそこで終わりではない。
左京があの男と完全に袂を分かったあの日からその先の物語は紡がれているのだ。
左京が知らない物語―
・・絢辻 詞という少女の物語が新たに。