30 時よ
―土砂降りでも、ずぶぬれでもいい。
この気持ちを持っていられるのなら。
何も持たずに絢辻は雨の中を飛び出した。神社の軒下に眠る有人に自分のブレザーをかけ、肩までの学校指定のセーターも脱ぎ、白いブラウス姿のまま雨の中を一人少女は歩く。
「・・・」
灰色の空を仰いで無表情、無言のまま瞳を閉じ、ただ一人少女は雨に打たれていた。濡れた黒い前髪が彼女の視界にぴとりと張り付いている。
「・・・」
それを丁寧に指先で拭い、黒い水晶のような瞳を開き、改めてまるで鉛のように重い灰色の空をもう一度仰ぐ。
しかし。
雨は。
止まない。
止む気配すらない。
ただひとりぼっちの少女を濡らす。
「・・・っまって・・・」
突如不明瞭な言葉で少女ー絢辻はそう呟いた。降り頻る雨の音にたやすく掻き消されてしまうほどの、そもそも存在自体すらも疑ってしまうような声。近くに誰かが居たとしても空耳と誤認識してしまうのではないかと思うほどの小さな声だ。しかし―
「・・・まって、・・・っまって・・っっって!!」
ならば質より量で。掻き消えそうな存在を自ら必死で訴えかけるようにただ繰り返す。それでもその声はたとえ「音」としては存在していても未だ「言葉」としてこの世界に存在するには余りにも弱々し過ぎるものであった。
聞こえないぞ―
はっきり言え―
周囲には確かに絢辻以外誰もいない。しかしそんな幻聴が聞こえてきそうなほど苛立たしいほど、もどかしい程のか細い声。
これでは誰にも聞こえない。
響かない。
・・届かない。
そんな状態の自分に誰よりも腹を立てていたのは―
「・・・・~~~~っ!!!すうっ・・・!!!」
他でもない絢辻自身であった。苛立たしそうに唸った後、降りしきる雨の中思いっきり空に向かって虚空を吸い上げる。口に瞬時に何十、何百もの雨の滴が入ろうともお構いなし、口の中で糸を引く程粘ついた口内も気にせず、絢辻は大きく口を開け―
「・・・・止まって!!!!!!!!」
こう叫んだ。
今世界がようやく彼女が先ほどまで小さな声で呟き、敢え無く、意味も無く掻き消えてきた言葉たちの意味を理解する。しかし尚も絢辻はやめない。
肩で息をするように肩を震わせ、何もかも打ち捨てた筆舌し難い程の痛々しい表情、普段の「仮面」など一切合切取り払った見るに堪えないくしゃくしゃの潰れた顔のまま、雨水だらけ、鼻水だらけ、
・・涙まみれのままで―
「あ・・あぁああああああああ!!!!」
ただ彼女は叫ぶ。繰り返す。
「止んで!!・・・止まってぇっ・・・!!!もう、・・降らっ・・ないで!!!!」
「・・・止まってよ!!!!」
雨も。
・・時も―
「私はっ・・!!あのひ、人と、居たいだけなのぉっ!!!!一緒に居たいだけなのっ!!!なんっで・・・何で、・・なんでそれが駄目なの!!?それだけなのにっ!!??」
「うぁあああああああんああああっ!!!!!!!」
―土砂降りでもいい。ずぶ濡れでもいい。この気持ちを持っていられるのなら。
・・・あの人の傍に居られるのなら。
例えどれほど傷ついても、悲しくても、せつなくても構わない。
誰に傷つけられても、貶されても、貶められても構わない。
でも・・もう一人は嫌だ・・・っ!!もう嫌っ、なの・・っ!!
・・いっそのこと時など止まってしまえ。
誰も自分のもとに居なくなってしまうのなら、また一人になってしまうのなら。
・・あの人が居なくなってしまう未来が訪れるくらいなら。
時よ―
止まって。凍り付いたままじっとしていて。
だが―
時が進むことを誰かがどれだけ強く拒もうと、誰かのこの先の未来がどれだけ闇に満ちていようとも平等に時は彼らを運んでいく。止まることなどない。決して。
今までの絢辻 詞という少女にとって時というものはいつも味方だった。どれだけ苦しかろうと、どれだけ辛かろうと時はいつも平等に進んでくれた。日々努力し、歯を食いしばって耐えている時も、屈辱にまみれた瞬間も、吐き出したい鬱憤をこらえ、愛想笑いを続けたときも。
時はすべてを解決してくれた。そんな時間をいつも通り、通り過ぎさせてくれた。
また、時はすべてをいずれは解決してくれるはずだった。
いずれ大人になれる日が来る。いずれ一人で生きていける日が来る―
・・愛されなかった事実、過去を忘れて自分が生きていける場所を自ら選んで、自ら進んでいける時間が来るはず―
繰り返そう。絢辻 詞にとって確かに時は味方だったのだ。
しかし、今は違う。
と、いうより絢辻は改めて思い知る。そもそも時は味方でも敵でもなく所詮は「概念」であることを。時自体は何の感情も持たず、誰しもに平等に刻まれるのみ。結局は己の在り方次第で時というものの意味が変わるだけの話なのだ。
それが絢辻 詞という少女の中で彼との出会い―源 有人との出会いで全くの真逆になってしまっただけなのだ。時にとってはただそれだけの話。関わり合いの無い事なのだ。
時は残酷なことに常に「雨天決行」。人を誰分け隔てなく、平等にあるべき場所へ運んでいく。
極地、終点は誰しもが例外なく死である。しかし、その前にいくつもの人の数と同じ、更に一人ひとり星の数ほどの無数の基点、起点、輝点、岐点、機点を刻みながら進んでいく。
「・・・」
絢辻が喉の奥から、心の奥から張り上げた声に何の感慨も示さぬかのように尚も降りやまない雨の下―
「・・ぎりっ・・」
諦めたように肩をストンと落とし、俯いた唇と奥歯を噛みしめる。もはや視線に再び纏わりついた前髪を払おうとすらせず、そのまま絢辻は再びトボトボと歩き始める。
止まらない雨の中を止まらない時と一緒にまた。
・・歩んでいく。
数十分後ー
「つかさちゃ~~おか、・・え、り・・・な、さい・・」
「・・・」
無言の、ずぶ濡れのままの妹を絢辻姉―絢辻 縁は玄関先で迎え入れる。妹のずぶ濡れの黒髪から無数に滴り落ちる雫、足元が水たまりになるほど水を吸った妹の靴、靴下、なぜか羽織られていないブレザー、手元には濡れて丸めたセーターのみで鞄も何も持っていない、上半身を申し訳程度に覆っている白いブラウスは最早下着が透けて見えるほど濡れている。
「・・!」
普段近くの河川敷でウルと一緒に泥だらけになるほど駆け回っている絢辻姉―縁のちょっと疎い、世間ずれしたとぼけた倫理観を以てしても全くもって許容できない姿である。襲われたら、乱暴でもされたらどうするのだと言いたげに絶句した。
「どいて邪魔」
そんな目の前の姉を何時ものように妹は邪険に振り払う。淡々と必要最小限の台詞のみ姉とすれ違い様に呟き、俯いたまま脱いだずぶ濡れの靴を揃えることもせずただふらふらと室内に入っていく。濡れた靴下でびとびと律義に廊下に足跡を残しながら。
「つかさちゃ・なんでこんな・・詞ちゃん!!・・ちょっと!!」
縁が静止するも一瞥もくれることなく姉を無視し続ける妹の足からぼとぼと続く、雨の雫の帯を前にアタフタしながら取り合えず縁は洗面所からタオルを取り出し、「あ~~あ~~あ~~(-_-;)」と言いながら掃除係のおばさんみたいに床を拭く。そんな背後の姉の悪戦苦闘も完全無視。尚も妹は振り返ろうともしない。
しかし―
―え?
縁は目の前の光景に意外そうに瞳を見開いた。なぜなら家に帰ってきたら直ぐに大抵の場合自分の部屋に籠ってしまう妹がリビングのソファに濡れたままの体で無言でポスんと座っていたからだ。「詞ちゃん!?ソファが濡れてしまうじゃない!どきなさい!」なんてことを縁は言わない。縁はその姿にむしろ逆にウキウキとしながら妹が濡らした床を拭き終えると―
「つーかーさーちゃん・・」
ふぁさりと後ろから抱き着くようにフカフカの新品のバスタオルで妹の頭をすっぽりと包み込む。そしてぎゅ~~っと抱き着いて妹の頭を濡らしていた一定の雨水を吸い取ったのち、くしくしと雨にずぶ濡れになりながらも絹のように柔らかい妹の髪を乾かし、解きほぐしてやる。
「・・なんか久しぶり。詞ちゃんの髪の毛を拭くなんて・・詞ちゃんが何歳の時以来かしら~?」
「・・・」
「♪」
相変わらずの完全無言の妹を前にしても縁はうれしそうに無愛想な妹の髪をやさしく、くしくし拭き続ける。なぜなら何時もなら確実に自分を邪険に振り払うであろう妹が今は姉にされるがままなのだ。姉にはとことん無愛想な妹がいつ以来かわからない位、久しぶりに自分を受け入れてくれていることがこれ以上なく嬉しかった。
・・どうやら何かあったのは確かだろう。妹の目の周りが不自然に赤く腫れていた。何かが当たって腫れたような痕が残っている。
・・そして同時恐らく「それ以外」、「別の理由」で瞳の周りが赤く腫れぼったくなってしまっているのを縁は見抜いていた。
そしてその何らかの事情で妹は今、普段とことん苦手で、いつもつっけんどんにあしらう姉を受け入れている―詰まるところこれは縁に対するどこか「信頼」の様なものが彼女自身消し切れていない証拠にも縁は思えた。
否。そう思いたかった。
「・・・。っ・・!」
一通り妹の髪が乾いたと判断した姉―縁は背中から今は小さな小さな、そしてすっかり冷たくなってしまった妹の体をぎゅっとタオル越しに抱きしめる。
そんな姉を尚も振り払うことなく、ただ妹は相変わらず力のこもっていない上体のままじっとしていた。二人の距離は今限りなくゼロ。だから今はすぐ近くにある妹の微かな息遣いに姉―縁は耳を凝らす。
「・・・つ・か・さちゃん・・・?」
―・・。・・・・すん、くすん、くすん・・。
ほんの僅かではあったが妹の小さな息遣いに交じる嗚咽を縁は感じ取る。その声、その姿に思わず縁は自分も泣きそうになる程の情動が冷たく背筋を走り抜ける感覚を覚えた。が、必死に堪える。換わりに抱き着いた両手に更に力を込める。
この妹を・・かつて縁は疎ましく思ったこともある。
幼少のころから縁が心から望んでいたものを全くの無償で「あの男」から受取っていた、享受していた妹だ。正直縁が「あの男」の支配の道から逃れ、「あの男」がその姉の代わりとして今度は妹にかつて縁に行っていたあの仕打ちをしだした時、表面にはなかなか出さないにしても心底では確実に混乱している妹の姿をかつての自分の姿と重ね、可哀そうに思う反面、同時にどこか消し切れないような優越感、快感が彼女に全くなかったといえば嘘になる。
それでも逃げた自分とは異なり、尚も頑張り続ける、そして結果を出し続ける妹の姿を見て何時しかそんな自分を恥ずかしく思い、そして応援したくなっていた。
そしてこう願うようになる。叶うなれば彼女にも違う道を見つけてほしいと。かつての私と同じにならないでほしいと。
縁、そして「あの男」以外の誰かが彼女を理解し、受け入れ、また嘘でも虚構でなく心から彼女のことを本当に愛してくれることを願った。
そしてその「誰か」はどうやら現れてくれたらしい。
だがしかし、その人が妹の前に現れてくれたタイミングは最悪だった。別れの時間のほぼ直前の出会いだった。あまりにも二人には時間がなさ過ぎたのである。
・・そして何よりもその現れてくれた「誰か」―その一人の少年に縁自身も出会い、話し、知ったときに姉―縁は悟る。あまりに「重なりすぎる」目の前の朗らかな少年の笑顔。
かつての「あの男」に重なる笑顔に。
・・さぞ妹は屈辱だったろう。悔しかっただろう。
未だに自分が「あの男」の呪縛から逃れ切れていない事を悟って。
自分が曾て向けられていたものを未だ何処かで期待し、求めている事を悟って。
―・・やっぱり愛されたいのね。そして・・愛されたかったのね・・。・・詞ちゃん。
・・私とおんなじ。
可愛い、かわいい私の大事な妹。・・詞ちゃん。
「・・・!」
ぎゅぅっ・・・
さらに縁は強く強く妹の冷えた体を抱きしめる。自分の心と一緒に。
強く目をつぶり、そしてまた願う。請う。強く。
奇しくもその願いは現在力いっぱい両手で抱きしめ、繋がっている妹と完全に同調していた。
あのとことん気のあわない、対照的な性格の姉妹が今同時に全く同じ願い事をする。
―お願い。止まってあげて。詞ちゃんのために。
時よ。
止まって。
しかし―
雨天決行。
どれだけ泣いても、願っても。握りしめても。
時はやはり止まらない。
残酷な程に終わりへの時間を進めていく。ゆっくりと、しかし確実に。
この日、最後まで妹の詞が姉の縁を何時ものように邪険に振りほどくことがなかったのがせめてもの救いだろうか。
しかし尚も二人無言で身を寄せあう姉妹の静かな一室に。
時計の音が響き渡る。
チッ
チッ
チッ・・
翌日ー
2-A教室内で絢辻の策略に嵌まり、四面楚歌の有人を流し見しながら絢辻は悲しそうに微笑んで瞳を閉じる。
時が止まらないのならばせめて今だけは。
ー・・覚えていたいの。
泣き崩れた日も。
笑い会えた日も。
気まぐれな天気みたいにコロコロ移ろう日々を。楽しい今を。
・・覚えていたいの。
・・握りしめて。