12月27日
絢辻自室にて―
「―つまり、この問題の答えはX=3という事なの」
「「おお~~っ」」
艶やかな黒髪をしならせ、得意げに微笑む少女の手元のノートに羅列した数字、記号、式配列、すべてにおいて美しい数式を前にし、黒髪のくせ毛の少女―棚町 薫は目を丸めうんうんと頷き、方や栗毛の少女―桜井 梨穂子は心から感嘆したように息を吐いた。
成績優秀者、尚且つ教えるのがうまい人間というのは何故ここまで理路整然、すっきりとした考え方、そして伝え方ができるのかと感心する時がある。
―今まで何度か勉強教えてもらったことあったけど・・やっぱすげ~わ絢辻さん・・。
―・・智也より教えるの上手いかも。ふふっ。・・先生になるのを目指しているなら負けていられないねぇ~智也?
そんな二人の心象の中、さらに絢辻は赤いペンで解説を続ける。
「注意点としてはこの手の問題は『解き方が分かった、解けそう』と思った瞬間程焦らない事、ね。問題を作った人の『何パーセントかの人間はこう間違えてほしい』っていう意図・・というかイタズラみたいなものが隠されているから」
黒髪の少女―絢辻 詞はただ問題を解くだけでなく、この問題の出題者の意図、傾向まで把握したうえで目の前の二人に注意点を促す。
「正解が解らないから一旦解答を見る・・それは大事なこと。でも折角解き方が分かったのに過程を間違えてしまって正しい答えに辿り着けなかったら・・自分が『理解した』と思っていた事も疑うようになってしまうの。だから『解き方』が解っても決して焦らないでね。答えという結果はもちろん、それに行きつく過程も同様に大事よ」
「うう。絢辻さん。それは解らなかったら答え見て、取り敢えず答えだけ書いてお茶を濁すいつもの私を攻めているの?」
「うう。棚町さん。それ物凄い共感できマス・・答えだけ書いて『・・これでいいんだ』って自分に言い聞かせるんだよね~」
「うう。桜井さ~ン。それわかる~~」
「同族」相憐れむ。しかし「異種族」絢辻は満面の笑みで二人にこう言った。
「うふ。駄目よ?提出物はそれでいいかもしれないけど、テストはそうはいかないわ。私も国枝君も茅ヶ崎君も・・その時は助けられないわよ?」
「「・・はひ」」
しゅんと「同族」コンビは自分たちの甘さを指摘してくれた絢辻に対して「すいませんでした」と頭を垂れる。
数分後―
―・・さて。と。
ある程度の時間、「間」は取れたと棚町は判断。ちらりと絢辻の部屋のドア―その向こう側を見据えるようにちらりと横目で睨んだのち、かさりと真っ白なルーズリーフを一枚徐に取り出して桜井、絢辻とともに囲んでいるテーブルの中心に据える。
「―!・・」
―・・うん。
桜井も「頃合い」と思ったのだろう。棚町と視線を合わせて二人こくんと頷き、次に絢辻に視線を合わせる。絢辻から勉強を教わっているときに比べるとずいぶん眼差しが強い。
「・・・」
そんな二人を交互に見、絢辻は突然自分の下を訪れたあまりに意外なペアの「本題」がようやく始まることを理解した。そして目の前に置かれた一枚のルーズリーフが意味するところも。取り敢えず確認の意味でまず棚町がペンをルーズリーフの上でさらさらと滑らした。
(筆談でいくわよ。いい?返事はうなずくか首振るかでOK。)
ルーズリーフに彼女特有の癖の強い、が、同時決して悪筆ではない整った字が並ぶ。
他二人は小さく無言で頷く。「YES」の意味。それを見て棚町も頷き、補足でさらさらとこう付け足した。
(会話もある程度適当にやろ。)
いきなり室内が全くの無音、無言になっても不自然という意図だろう。
「・・うん。じゃあ次の問題行きましょうか二人とも」
「・・・え。え、ええ~~まだやるの?」
完全に本音が混ざっている棚町の反応だが逆にリアルで丁度いい。それを見越した絢辻の、棚町の申し出の肯定と表向きの会話の継続双方の意味を込めたひと言であった。
「あ~~いごっちゃ!まだまだ頑張るよ~~」
桜井も了承。両手をぐっと握ったのち、やや緊張した面持ちで絢辻、棚町を交互に見る。そんな彼女に目で「取り敢えず私が主(おも)で行くわ」と桜井に棚町がアイコンタクトする。極力無駄な筆談は避けたい。「言葉」よりも「書く」ことの方が遥かに手間と時間がかかるからだ。絢辻も察する。
「・・・うん。じゃあ次の問四の問題・・桜井さん?一人で一回やってみて?」
「あ、はーい♪」
桜井は問四を開始する。絢辻は主に棚町と筆談しつつ、桜井が問題に関して解らないことがあれば口頭で相談に乗るという態勢をとる。
本当か眉唾なのかは定かではないが男性に比べると女性の方が「二つ、もしくはそれ以上のことを同時にできる」力が優れているらしい。少なくとも絢辻、そして棚町に関してはそれに該当するようであった。
「・・あ。桜井さん?そこ間違っているわよ。さっき言ったじゃない?そこは―」
「あ~~ごめんなさい絢辻さん・・」
「ううん。いいのよ。・・実は本音を言うとそこを間違えてほしくて選んだ問題でもあるから♪」
「あが~~ひどいです」
「教え甲斐があるわ♪」
そんな自然な会話を桜井としながら絢辻は棚町のルーズリーフに書かれた次の一文を横目にして―
―・・・っ!!
「・・・どくん!」と、音が外まで響いてしまうんじゃないかと心配するほど波打つ心臓を必死で絢辻は抑えた。過呼吸になってしまいそうな浅い呼吸もようやく整える。そしてその一文を凝視する。
(源君が絢辻さんにもう一度会いたいって。どうする?)
大きな瞳をさらに大きく見開き、目に見えて動揺している絢辻は不安そうに棚町を見る。
「・・うん」
そんな絢辻を励ます様に棚町はしっかりと絢辻を見据え、真剣な顔でこくんと頷く。その表情が意味するところはすぐに分かった。
―「こっち」は準備出来てるわよ。後は絢辻さんの返答次第。
「・・・」
そんな頼もしい棚町の表情を眩しそうに絢辻は少し視線を逸らし、落とす。心臓の動悸と共に血が頭に上り、ぐるぐると彼女の頭の中で不安、高揚がない交ぜになっていく。そんな時―
「ねぇねぇ絢辻さん?こうなったんだけどどうかなぁ?」
突然桜井が陽気な声を上げて会話に割り込んできた。しかし、いざ絢辻が彼女を見ると桜井は「手元のノートを見てほしい」というのではなく、明らかに「私の目を見て」と言いたげにずい、と桜井は絢辻の伏せ目がちの視線に真っすぐ割り込み―
「どうかな・・絢辻さん?この問題・・『会って』くれると私とっても・・嬉しいんだけどな」
桜井はにぱりと微笑んで顔を傾ける。そのやり取りを見て真剣な表情をしていた棚町も毒気を抜かれたようにやや表情を緩め、笑う。
逃げ場なし。そんな二人をまともに見られず、絢辻は丁度いい視線のやり場として桜井のノートの問四の解答を見るほかなかった。
―・・・!
驚きだ。合っている。
どこか抜けていて少々暢気者、温かく柔らかい彼女の性格を体現したような角のない優しい丸文字。しかし、数学では形式上「一つ」しかない答えを導きだすための美しい数式が迷いなく最短距離を通って一つの正答に辿り着いている様は桜井 梨穂子という少女の芯の強さを否応なく絢辻に感じさせる。
どうやら意外にもこの少女もまた二つの事を同時にできるタイプであったらしい。
「・・正解」
そう正解だ。解りきっている。絢辻の想いは。絢辻自身すらも。
会いたい。
会いたいに決まっている。
だけど―
「・・すごいわ桜井さん。・・この調子でもう一問行きましょうか」
絢辻は自ら最短距離を外れ、二人の間に再びもう一つの数式の「壁」を作る。
二人の想いは純粋に嬉しい。疑っているわけでもない。
でも駄目なのだ。怖いのだ。恐ろしいのだ。今の自分という存在が彼の下にまた行くことによって彼が傷ついてしまうのが。そして否が応にも己という存在を思い知ってしまうのが。
「・・・」
無言のまま手元の教材に目を落とす絢辻を前にしてやや残念そうに桜井、棚町は顔を見合わせる。「そんな簡単なことじゃないよね」と言いたげに。しかし、そんな彼女たちの目の前に置かれた筆談用のルーズリーフに今度は絢辻がさらさらと文字を書き始めた。
―!
―・・・あ!
棚町、桜井二人もそれを注視する。
―・・。
棚町、桜井程癖のない誰もが「達筆」と言う他ない完璧に整えられた文字が並んでいく。でもそれが何故か今の絢辻には内心妙に悔しかった。
(二人はどこまで知っているの?)
「う~~ん。正直話を聞いて理解したつもりだったけど・・解んなくなっちゃったって言うのが正直な所―」
(なんだけどね)
棚町は表向きの会話と筆談を織り交ぜて、何とももどかしそうに眉をしかめて苦笑いしつつ絢辻の質問に答える。桜井も「そうだよね~」と言いたげに頷く。
(一応大体解ってる、と、いうか聞いた話はこんなトコ)
棚町が再びペンを進める。
数分後―
筆談を通して大体の棚町、桜井が知っている情報を絢辻は知る。
・・正直予想以上に踏み込んだところにまで精通しているところに絢辻は驚きを隠せなかった。御崎が中多父から伝え聞いた情報が大きい。
(なんかごめんね。部外者の私らがさ)
(ううん。驚いたけど。・・そう御崎君と中多さんと・・中多さんのお父さんが・・)
あまりに意外な情報の出所に流石の絢辻も面食らっていた。深く考え込むように口を手元で隠しながら一考したのち、絢辻は「あ~~あ。恥ずかしいなぁ」と言いたげにやや申し訳なさそうに眉をひそめて来訪者二人を見る。
色んな意味で絢辻 詞という人間が多くの人間に開放されてしまった。
「源君のおしゃべり、嘘つき」と、のたまりたいところだが代わりに絢辻は恥ずかしそうに笑う。そんな彼女に棚町、桜井もまた申し訳なさそうな顔をした。
(ま。一部は必要な情報だったってことは解って)
あの絢辻の父親と接する以上、ある程度事情が解っていた方が確かに対応しやすい。だとしてもやはり、絢辻にとって踏み込まれたくない所であったとこは確実。事実、絢辻のやや恥ずかしそうな態度を見て棚町は―
「あぁ~~~っ!!この問題考えれば考えるほどこんがらがってくる!あ~~・・出来るだけ忘れるようにしよ」
「・・出来るだけ忘れるようにするからさ」とそう言外に言い含めて棚町は申し訳なさそうに頭を掻く。そんな彼女に―
「あはは。・・そんなこと言わずに覚えておいて?」
受け入れるように微笑む。「知ってもらえた人が貴方たちで良かった」と言いたげに。
「・・頑張る」
そんな絢辻に棚町はそう返すのが精いっぱいだった。
(とにかく!絢辻さんどうする?行かない気?)
「・・」
(「今の私」は彼を傷つけるだけだと思うから)
「今の私」―棚町や桜井たちにとって一番解らないとこはそこだろう。絢辻が有人のみに見せていたという彼女の本性―それを知覚していない彼女らにとって一番の難物である。そしてそれを「現在見失っている」、「今の自分は抜け殻みたいなもの」―という割にはあまりにも見た目、雰囲気において理知的、理性的でとても「壊れた人間」に見えない絢辻の姿に、近い表現で言えば二人が「恐怖」を感じているのも事実である。
「う~~~ん」
棚町は腕を組み、唸る。桜井もまた黙るほかなかった。
しかし―
―ん?・・あ。いっけない。私、似合わない事してたかな。
突如棚町は憑物が落ちたようにとぼけた顔で天井を見上げ、悟る。
―そいや私の目的忘れてた。あくまで私のすることって絢辻さんを連れ出すことだけ、じゃない?考えて絢辻さんと一緒に悩むのは私らじゃない。・・・源君じゃん。
そうだ。絢辻の度重なる様々、かつ複雑な事情に覆い隠されていたが棚町が国枝に任されたことはシンプルだ。ガラにもなく色んなことを考えすぎていたか。
そうだ。いつものこのスタイルだ。解らないこと、めんどくさい事、出来ないことは「丸投げ、丸写し、丸かじり、丸儲け」、だ。
「絢辻さん?」
「ん?」
「歩こう」
「え・・」
「外。解らない問題にうんうん唸っても仕方がないし気分転換しに行こうよ。よくよく考えれば私、美術の推薦で大学行こうと思ってるから数学いらないし。出席日数たりてりゃ文句ないでしょ。うん」
「そ、そんないきなり身も蓋もないことを」
「た、棚町さん。絢辻さん!私を見捨てないで~~~っ!私推薦なんて夢のまた夢~一般
ピーポーピーポーなんですぅ~~(;゚Д゚)」
意外、というか棚町の無茶苦茶な理論、手前勝手な展開に桜井からの119番、悲鳴が上がる。
「いやいや~ご謙遜を桜井さん?見た感じ私より吸収力遥かによくない~?ちゃっかり私おいてどんどん問題解いちゃってるし」
そんな彼女に「イタ電は止してください。切りますよ」と言わんばかりの棚町である。
「そ。そこは否定しないけど」
絢辻。あまりに意外な展開に困惑したため、オブラートに包むことなく馬鹿正直に肯定。
「がくぅっ!・・そうよね。自覚はあったわ・・私は所詮クズよ」
テンションの振り幅がとてつもなく大きい。いつもの棚町である。つまりこの現状は絢辻の事情が有ろうと無かろうと「棚町がここを訪れればいずれ至る結論」―あまりに自然な展開なのである。違和感など発生するはずがない。
「桜井さん?『推薦がない』とか言っていたけどいざ街を歩けばわっかんないわよ~?何が起こるかなんてサ~~?大手のプロダクションにいきなりスカウトされてあれよあれよという間にアイドルデビューっていう可能性だって無きにしも非ずなんだから」
こんな突拍子もない、クソみたいなシンデレラストーリーが原作にあったりする。興味あれば見てほしい。「・・コレ要る?」ってなるから。
「さ!善は急げよ。早速出掛けましょ♪」
棚町はいそいそと壁のハンガーに掛けていたお気に入りの上着に二人から背を向けて袖を通し始めた。「あ~~っ、待って待って~~」と言いたげに桜井は机の上の教材をわたわた整理をし始める。
「ちょっ、ちょっと待って棚町さん!こ、困るわ」
とんとん拍子に、いや一方的に話、展開を進めていく状況に「まった」をかけるべく、絢辻は棚町の背中に手をかけようとした時だった―
「・・・!」
それを待っていたと言わんばかりにくるりと棚町は振り返り、さっきまでとは打って変わった真剣な表情で眼前の絢辻の瞳を見据えた。あの絢辻が吸い込まれそうな瞳で。そしてわずかに唇だけで目の前の絢辻にだけハッキリと分かるようにこう象る。
―・・会いたくないの。声聞きたくないの。話聞きたくないの。伝えたくないの。・・はっきり「好きだ」って。「傍に居たい」って。
―・・・!
呆気にとられ、瞳を見開くほかない絢辻にさらにずいと棚町は詰め寄る。吐息と癖のある黒髪がかかるぐらいに。そして今度ははっきりと声を形にして伝える。蟻のような小さな声。でもそこに強い意志、力さえ宿っていれば相手には不思議と伝わる。一寸の虫にも五分の魂だ。
それにこれだけゼロ距離ならそもそも問題はない。内心「早くこうするべきだったわね」と棚町は自嘲した。
「・・・今のアンタが絢辻さんだろうが絢辻さんじゃなかろうが関係ない。大事なのは『今のアンタ』が『どうしたいか』よ。もう隠さないで。意地はらないで。そんな中途半端な気持ちで人を好きになるんじゃ無いわよ」
まるで棚町自身が「つい数日前の自分」に言い聞かせているみたいだった。つい数日前、クリスマスに自分を誘ってくれなかった国枝本人に確認することも、自ら赴くことも出来ず、怖くて一人逃げ出し、一人泣いたちっぽけな自分を思い出す。
しかし国枝は来てくれた。馬鹿で間抜けなみすぼらしい姿、でも来てくれた。天国と地獄を味わった日だった。
でも絢辻の場合は無理なのだ。期待できない。今の有人は重傷。あの場を動けない。だから絢辻自身が行くしかないのだ。
たとえ怖くても。恐ろしくても。
・・・国枝には無かった大きな「障害」、「障壁」が「内外」共に絢辻に有ろうとも。
「・・・」
それでも尚ぶれる、揺れる絢辻の視線が吸い込まれそうになる程、自分を見据える棚町の両目から逃げるように逸れていく。
しかし―
残念ながら棚町は現在一人ではない。緊急に呼び出されたあまりに適材適所、強力な助っ人が絢辻の視線の先に居た。
「・・・!」
いつの間にか絢辻の視線の先には綺麗に片づけられたテーブルの上でたった一枚のルーズリーフに自分の思いの丈を可愛らしい丸文字で綴った桜井 梨穂子のえへへ、と微笑む姿があった。
(歩き出そう。会いに行こう。大好きな人が大変な時ならなおさらそばに行かなきゃ)
「・・・」
―・・・そうね。桜井さん。あなたは「あの時」もそうしていたわね。今のあなたみたいに・・まっすぐな瞳で。
絢辻は見ている。茅ヶ崎 智也が心無い噂で孤立した「あの時」―誰よりも何よりもいち早く彼の下に駆け付け、傍に行こうとした、寄り添おうとした彼女の姿を。
―正直あの時・・・「貴方みたいに生きられたなら、貴方みたいになれたら」って思ったわ。
再び視線のやり場を無くした絢辻。しかし今度は都合のいい視線のやり場などない。見据えるしかないのだ。このドアの外を。この世界の外を。
「お願い・・連れて行って。棚町さん」
絢辻は懇願するように頭を下げた。しかし―
「ん~~~~~嫌」
棚町は腕を組んで要求を却下。目を逸らす。
「・・え」
意外な棚町の反応に絢辻が気の抜けた声を出し、信じられないという表情で棚町を見ると彼女はふふんと笑い、今度はやや優しい眼差しで絢辻を見つめてこう言ってくれた。
「・・・アンタが行くの。アンタの足でね」
―・・「あの日」の私と一緒でね。
「うん。そだね」
絢辻の足を指差しながら笑う棚町。それに同調して桜井も微笑んだ。絢辻を励ます様に。
歩き出せ クローバー 2
歩き出せ クローバー・裏
「・・お父さん」
「・・・」
「もう詞ちゃんを解放してあげてくれないでしょうか」
「・・・」
「こんな思いをするのは私一人で十分です」
「・・・」
絢辻姉妹のマンションの玄関にて―
傷一つない真っ黒で上質な皮仕立ての革靴を靴ベラですっぽりと紳士の足に収める。その靴がこの世でただ一人、この紳士の為「だけ」に仕立てられたことを象徴するかのようなフィット感。人間これを味わうと何とも言えない気分になるものだ。しかし、最早この紳士はそんな感慨に耽ることはない。
背後に居る確実に血を分けた娘―絢辻 縁に対する態度と同様、何の感慨も覚えずに無言のまま背後の娘に一瞥もくれず父―絢辻 孝美は長い足を延ばす。
「家では勉強に集中できそうにないから三人で学校で勉強しようと思います」
娘であり、縁の妹である絢辻 詞と友人二人のそんな申し出に紳士は応え、車を出すことを提案。意外にもあっさりと娘と友人はそれを受け入れ、先に外に出ている。
―・・詞ちゃん逃げて。
・・解ってるから。詞ちゃんが向かう場所は。・・逢いたい人は。
いち早くここから抜け出すの。早く。
こんな縁の想いが紳士の一見全く淀みなく見える、妹の詞を今から追うための流麗な準備の所作に何ら影響を与えたとは思えない。が、それでも縁は無言の父の背中に声をかけ続けた。
「・・お願いします」
「・・娘が『居た』」
「・・え?」
「『二人』、な。・・一人はとても聡明で美しく、そしてとても従順な子だったよ」
「・・・!!」
縁は瞳を見開いた。彼女の時が止まる。否、凍り付く。いっその事このまま心臓の芯から冷えて止まってしまえばいい、とさえ思った。
それ程に。
「残念だよ」、「終わってしまったことなんだ」―というニュアンスを惜しげもなく纏う冷厳なるその父の言葉に縁はもはや声をかけることも出来ず、立ち尽くす。
「・・・縁?『無い』よりかは遥かにマシだとしても・・・やはり極力『失敗』というものは少ない方がいいのだよ。人生において、ね」
紳士は彼女の名前を呼んだ。わずかに横顔を向けて・・・微笑んでいた。
「受け入れる。抱きしめる。包み込む」―・・・「そんなもの」からは全く以てかけ離れた笑顔。失意の、諦観の、そして別離の笑顔。
それでもそれはあくまでも「笑顔」であった。あの父の。縁は自分を馬鹿だとは思う。愚かであるとも思う。しかし―今の縁は泣き笑いながらその父の顔を見ていた。求め続けた父の目の前の笑顔に向けて。
紳士は歩き出す。
歩き出せ クローバー。
クローバー。
花言葉は「私のものになれ」
―さもなくば。
お前達の人生にも、お前達の存在にも価値はない。