2 ダメな奴
―何で?
声を無くしたまま立ち尽くした。
多分ここで私が一時間立ち尽くしてもあの人は私に気付かないだろう。
どれだけ心で念じようとも、バカみたいにその言葉を繰り返しても。
―何で。お母さん。
二人で生きていこうって言ったじゃない。
私はあの人だけしか認めないって、あの人しか父親として認めないって言った日に。
・・落ち着け私。勘違いかもしれないじゃない。仕事上の付き合いかもしれないじゃない。
でも私の心の根の部分はいたって冷静だ。疎ましくなるほどに。ここ数年浮かべた事の無い表情をあの人が浮かべているからだ。
裏切られた気持ち、嫉妬、羞恥。
感情だけは波立って行くのに論理的に理解は出来た。彼女の人生において「あの人」を喪った日から彼女の人生において完全な「欠損」自体が生じていた事を。
そしてそれを埋める事を彼女が放棄することを強要したのが他でもない娘である自分であった事。
私の存在が。私の意思が。私の全てが彼女を束縛していた事を。それを確信させる「笑顔」だった。
暦が晩秋から冬に入って木枯らしが初めて吹いたとても・・とても寒い日の歓楽街での出来事だった。
薫は唖然と自分が見た事もない表情を浮かべて、実の娘にも気付かず、煌びやかな街の中へ消えていく母を一人立ちつくしながら見送った。
「―薫。」
「―ん?」
「薫!おい!?」
「あ。直衛・・。何・・?」
「・・・?」
「どうします?降りますか?」
「あ、有難うございます。すぐ降りますんで。・・薫。とりあえず整理券貸せ」
直衛はバスの運転手に礼を言って二人分の小銭を手際よく入れ、下車した。
バスの運転手は薫の制服を鑑みると確実に下車するはずであるバス停で降りようとしない半ば放心状態の薫を見てやや長めの停車時間を用意してくれたのだ。
それでもたまたま直衛が同じバスに乗り合わせなければ発車もやむを得ない時間まで薫はそのままだっただろう。
「・・おはよ。直衛」
「おはよう」
「教室行こうか・・。あ。ごめんね。立て替えてくれたんだよね。後でバス代ちゃんと払うからさ・・」
「・・珍しいな?お前がバス使って登校するなんて」
「そう?たまにはね」
薫は言葉少なに話を切る。
「自分がバスに乗った」という実感すらこの時の薫には無かった。基本跳んだり、跳ねたり、走ったりすることが大好きな彼女がその日は歩く事も億劫でほぼ無意識に家の近くのバス停留所で足が止まり、それ以上彼女の足は頑なに動こうとしなかった。
そして目的地の停留所でも直衛がいなければバスを降りるきっかけも生じないほどに彼女はその朝、完全に我を見失っていた。
「ねぇ・・直衛?」
「・・・」
「?」
「ぐう・・」
「・・ある意味スゴイわ・・コイツ・・死ねばいいのに」
薫はシリアス顔を一気にしかめっ面に変えた。
―そういえばコイツがバスを使う事も大概珍しいじゃない。
目覚めたら恐らくバス代を立て替えたことでさえ覚えてないに違いない。・・癪だからこのまま踏み倒してやる。乙女の純情を踏みにじりやがって。
でも・・
コイツとのこういう時間が案外私は好きだ。
「・・ふふっ。相変わらず平常運転ねぇ・・」
―コイツが「起きた」時には私も平常運転に戻らなければ。
薫は自分にそう言い聞かせた。
―けど・・それも難しいかも。
すこし弱気になる。いつもの校門までの坂道を登る。少し寒いけど天気もいい。そして隣にはコイツが居る。
いつも通りの風景。
だからこそ「いつも通りに振舞わなければ」・・そう思う時点で既にいつも通りじゃない。
それでも・・奮い立たせなきゃ。
・・確かにコイツに相談すれば。話せば楽になるのかもしれない。コイツが優しい言葉をかけてくれる可能性は高い。
でもこればっかりは無理。
これはアタシの問題。アタシとお母さんと・・「あの人」―お父さんの。
コイツはあくまで他人。もし相談すればきっと小器用な事を言って慰めてくれるだろうけど。それはつまり私の事と自分の事を完全に切り離したうえでの他人の意見。
冷静で的確な・・寂しい意見。
私の身になって物事を考えてくれる事は無い。
自分の事だけ器用に出来ないコイツは他人と自分を一緒にして物事を判断しない。
過去の「とある」出来事以来、そして他にもいろいろな出来事から私はコイツの事をよく知っている。
物事が自分に近ければ近いほどダメな奴になるのだ。こいつは。不思議なほどに。
だからこそ異常なほどに他人と自分を切り離す。そうしないと自分が客観的に冷静な判断が出来ない事を知っているからだ。
・・でも冷静な判断が何だって言うの?
そんなもの・・私は要らない。
私は・・コイツに焦ってほしいんだ。ダメな奴になってほしいんだ。
・・私の事で。
あ~アタシぐちゃぐちゃだ。お母さんのこと考えて鬱ってたのに、結局コイツの愚痴になっちゃった。
一時限後の休憩時間―
「おい。薫。朝のバス代返してくれ」
「は?・・な、何の話?」
「何故か日付が同じバスの整理券が財布に二つ入ってたから思い出したわ。お前今朝バス乗ってたろ?」
「あ。」
「お前が乗るとしたら小坂台からだな。占めて140円になります」
―くぅ~~詰めが甘かったぁ。
「ケチくさい・・。根性ねじ曲がってる・・」
薫は財布から羽を出して飛び立とうとしている百四十円を恨めしそうに見ながら恨み節を言うが、直衛はどこ吹く風で
「お金の事はきっちりしなさい」
こう言った。
「うっさいわね。ほら」
―ちえっ昼食の飲み物代浮いたと思ったのに。
「よし。確かに。あ、あと絢辻さんにもちゃんと返しとけよ?この前ビリヤード負けて立替えてもらったんだろ?」
―ぐっ・・。
ええ。そうですよ。余裕かましてファウルしてその直後絢辻さんがビギナーズラックで9をサイドポケットに入れましたよ。そうですよ。私は負けました!
「話はそれだけ!?」
「ん?おお」
「そ。じゃ、アタシ行くね。ばいばい」
「おい・・?薫?」
「解んないの?アタシ暗にあっち行ってって言ってんの」
「・・何怒ってんの?」
「怒って無い!もういい。アタシがどっか行く!」
休み時間ももう終わると言うのに薫は教室をでていってしまい、直衛は怪訝な顔のまま取り残された。その様子を見ていた梅原、源の二人が直衛に声をかける。
「おいおい・・棚町どしたの?お前また何か怒らせようなことしたのか?」
「常に俺があいつの事怒らせてるみたいに言うなよ・・」
「心当たりないの?珍しいね。棚町さんが」
「・・あの日か?」
「直?それ面と向かって彼女に言える?」
源の冷えた一言だった。
「・・言えません。すいませんでした」
放課後―
結局その後直衛と全く口も利かぬまま薫はそそくさと教室を後にした。とっととバイトに行って体を動かして色んな事を考えないようにしたかった。目が回る程忙しい時間を過ごせ、その結果がお金になって戻ってくる。今の薫にとってこれ程都合のよい空間は無い。
彼女のバイト先は吉備東の繁華街外れにあるファミリーレストラン「JOESTER」である。
この地方にちらほら見かける程度の中堅チェーン店だが値段の割に味は良く、デザート類の種類、量共に多めなことから甘味好きな女学生をはじめ、家族連れにも評判がいい。
また制服が可愛い事から一部の可愛い物好きな女の子、不純な理由で訪れる男性など様々な理由で需要に応えている一面もある。
ピンクのトップスにひらひらリボン、タイトスカート。
・・さすがにこれはやり過ぎじゃないかと勤め始めた時薫も思ったものだ。おまけに徐々に「大きく」なってるせいか最近少しキツくなってきた。何か・・違う意味でお金が取れそうな感じがする。
まぁ何にしろ制服というものはやはりいいものだ。薫は鏡の中に映る着替えた自分を見てそう思う。学校の制服とはまた違った良さがある。
自分の行動如何でこの店の評価が変わり、その評価で得た一定の褒賞を給与として貰う以上、「学生」と言う囲みで守られた学校では味わえない緊張感がある。それが彼女にとって心地よい。
けっして金銭的に余裕があるとは言えない母子家庭である以上、「自分で勝手する分は自分で稼ぐ」という自立意識が彼女は非常に強い。
「最低限の金は自分で稼ぐ。」
高校に入ってバイトが出来るようになる前に既に決めていた事だ。彼女は運動神経がメチャクチャいいが高校では部活に入る気はさらさらなかった。
動いた結果がお金と言う解りやすい形で出るバイトは彼女にとって自分の成長の場であると同時に決して楽ではない自分達の状況を緩和する一石二鳥の場である。
よってモチベーションは非常に高い。
集中してテキパキと仕事をこなし、本来は「労働」という鬱屈なはずの時間が思っていた以上に楽しく、早く時間がすぎると何処か得した気分にもなった。
しかし・・今日のような日に限っては気分が沈んだ。早く時間が過ぎるという事は家に帰らなければいけない時間が迫るのもまた早い。
あんな出来事があったのだ。どうにも家は居心地が悪い。あの光景をまさか娘が見たとは思っていない現在やや浮かれ気味の母と長い時間一緒に居る事が苦痛だ。
おまけに期末のテストもそろそろ期間に入り、テスト休みを取らざるを得なくなる。
考えないようにする手段が好きでも無い勉強では何分荷が重い。
進退は極まるもの。何事においても逃げ道というのは限られているのが世の常だ。
「おっし。お疲れ。薫ちゃん?今日はもういいよ。」
最後の客を見送り、店内の清掃をしていた薫にオールバックの長い髪を後ろで括り、ひげを蓄えた一見やる気なさげなやさぐれた男が見た目の通り決して丁寧とは言えない口調で労う。しかし親しみが無いワケではない。
「りょーかいです。店長」
薫も店長とアルバイトという感じではなく、少しフランクにそう言った。
「てんちょお。ちょっと・・相談があるんですけど」
「んー?」
皿を拭きながら片手間に少し垂れた横目で店長は薫を見る。
「今回・・テスト期間中も私のシフトいれてほしいんですけど・・」
「ダメ」
一切のローディングなしで清々しいほど簡単に薫の要請を却下する。
「何でですかぁ・・?役に立ちますよ?私。人手も足りてないんだし・・」
「知ってるけどダメなもんはダメ。学生の本分は学業」
典型的な言い分だが「それを遵守しないと周りがうるさい」的な外面を気にしてのニュアンスは持たせていない。あくまで本当にそう思っている口ぶりだった。
「うー・・」
「そんなに金がいるのか薫ちゃん?」
「・・別にそういう訳じゃ・・欲しいのは確かですけど」
「どうせ年末は忙しくなって遠慮なく入れさせてもらう気だから今は我慢して勉強しな」
「む~。勉強したくないなぁ」
「・・。話変わるけど薫ちゃんの通ってる高校―吉備東高ってそれなりの進学校だよな。薫ちゃんは何で無理してそこいったんだ?」
「え。『無理して』って失礼ですね!アタシだって・・ほら・・やれば、できる子だから?」
「『やればできる』ってことは知ってる。でも君はそこまで勉強にこだわりがないだろ?」
「・・」
―適当な振りして案外部下を見てるわね・・ウチの店長。
「へっ、ひょっとして男か?」
「・・おつかれさまでした!」
「何だ。図星かよ」
「・・・」
「・・。どんな男だ?興味あるね」
相変わらず口調は変わらないが、仲のいい妹の相談に耳を傾ける兄のような思いやりのような感情が感じられる。その証拠に彼は一旦作業の手を止める。「話を聞く体勢を作る、示す」というのは大切なものである。
「・・。頭はいいです。アタシなんかより。流石に大学まで追っかけるのは無理じゃないかな。きっと」
「へぇ」
「顔も・・睫毛が長くて眠っている顔が綺麗なんです。お堅いようで意外とノリもいいし」
「ほーいい奴にツバ付けてるじゃないか薫ちゃんも」
「でも色んな意味でダメな奴ですよ?いざという時ほんっっとダメだし。鈍感だし」
「いいじゃねぇか。いいとこだけ見せてくるより百倍ましだ」
「ただ・・ダメなトコあんまり直接見せてくんないです。・・本気で好きになったコにしか」
「・・そいつ・・好きな子が他に居るって事か?」
「『居た』っていうのが正しいですね。振られちゃったんです。アイツ」
中学二年の終わりの話である。
直衛はある女の子と付き合う事になった。ずっと好きだったその女の子から告白されると言う最高の形で。さすがに直衛本人も夢見心地だったらしくキャラに合わないはしゃぎっぷりだったのを薫はよく覚えている。直衛の男友達が彼を祝福する中に混じって一人複雑な気持ちでからかっていたのも。
でも結論を言うと上手く行かなかった。
直衛という男の子の本質を知らずに外からの彼のみを見ていた当時の彼の彼女は交際後に違和感を禁じえなかったようだ。彼は本当に自分の事になると一気に要領が悪くなり、消極的で平静で居られなくなるのである。これは生まれ持った性分だった。
他人事には客観的に冷静に判断し、行動できる事がいざ自分が主体になって行動するときになると全てにおいて何故か自信が持てなくなっていく。
肝心な時に体調を崩したり、肝心な時に言葉が出なくなったりもする。
この出来事の後の話だが模試の結果から「まず安全圏」と言われていた第一志望私立高校にも落ちた。結果公立のランクも一つ落とし、吉備東に入学している。
要するにこのように普段の彼からは考えられないような事象が次々と発生する。
簡単に言うと物凄く本番に、そして勝負の日に弱いのだ。
一見秀才で特に非の打ちどころのない様に見える国枝 直衛だが、その本質は実は完全に努力型。目の前の壁を完全に努力、前以て対策を張り巡らせて講じることによって漸く彼の評価は現在に落ち着くのである。
実際の彼は非常に想定外に弱く、脆い繊細な少年である。それを完全な努力の成果によって必死で覆い隠しているのがまた彼という人間だ。
それこそが彼の本質だと気付き、それを受け入れたうえで支え合いながら長い目で見て付き合っていくことがその当時、直衛と付き合っていた彼女にはどうしても出来なかった。
残念ながら国枝の初恋の少女は結構質の悪いタイプであった。端的に言うと彼女は「直衛」を見ていなかった。
「成績がよく、背も高めで、顔もまぁまぁ、要領も良くて、評判もいい。そんな彼氏とワタシ。誰もが羨ましがるお似合いのカップルの出来上がり」
そんな「形」が欲しかった。
「形」の、「外面」を求めて付き合ってみたところ顕在化した直衛の持つ意外な本質、副産物を受け入れることなどそんな人間に出来るはずが無い。
早めに「ボロ」をだした直衛の状況を彼女は自分の友人を通して密かに触れまわり、別れても仕方のない状況に持って行った。虚と実を混ぜて。いや虚が八、実が二と言った割合か。
「付き合ってみたら愛の無い男だった」
「普段あんまり喋らないイメージだけど付き合ってみても一緒だった」
「本当に私の事が好きなのか解らない」
「猫かぶりすぎ」
「浮気してるんじゃないか」
・・云々。
結果最終的には彼女の友人を通して直衛は一方的に別れを告げられた。「直接話したい」という直衛の訴えも棄却される。事実上の「用済み」だった。彼女にとって直衛はアクセサリーの様な感覚だったのだろう。
確かに直衛自身に至らない点は多かった。しかし勝手な理想を押し付けられ、それが満たされないと解ると一方的に捨てられ、更に悪評まで触れ回られる謂れは無い。
その噂は直衛を良く知る人物にも否応なく届く。当然友人の源も怒った。梅原も杉内も。
彼の本質を知る人間は当然のごとく怒った。だがもっと怒っていたのは薫だった。
後にも先にも最後だ。薫が本気で女の子を殴ったのは。
その事件は直衛の悪評が完全に塗りつぶされるほどショッキングな事件だった。
衝動的だったのか、計画的だったのかは解らない。薫自身にも解って無いのかもしれない。
何の脈絡も無く、突然殴られた直衛の元彼女は当然報復に移る。と言っても直接的な報復行動に移すわけではない。まずは間接的に。御得意の手だ。友人をツテに悪評で外堀をまず埋めようとした。
が、
次第に自分の身から出た錆で逆に自分の評判を落としていくことになる。
彼女の友人にも彼女に付き合いきれない人間が元々多かったらしく、情報操作に使っていたつもりの友人達に自分の本質を暴露されたのが原因だった。
他人の本質を見ない人間は他人にとっての自分の本質を自覚できないいい例だった。
彼女が薫に殴られた瞬間、彼女の友人達は憤るどころかあまりの薫の思い切りの良さに逆に痛快さを覚えていたものだ。皮肉な事にその点では全く以て直衛と逆であった。
結果、直衛の悪評は薫によって塗りつぶされ、薫の悪評はさらにその上から彼女自身の悪評を顕在化する事になったおかげで放免される。
しかし、どちらにせよ直衛には辛い事件だった事には違いない。
好きだった人間に振られるだけならまだマシである。悪評はともかく幻滅させた相手に振られる事はもともと覚悟にあったからだ。しかし結果として自分が元々想いを寄せていた彼女を貶しめる事になったとも言える。
―自業自得だ。気にすんな。
そんなようなニュアンスで友人たちは庇ってくれた。
でもその想いを直衛は払拭できないでいる。中学を卒業し、高校に入って全く新しい人間関係が築かれても彼は出来る限り自分をそのような状況に追い込む事を拒んだ。それが自分だけでなく意図せずして他人にまた何らかの弊害を与えてしまう可能性を捨て切れなかったからだ。
「・・ダメな奴なんです。本当に」
「・・今度連れてこい。品定めしてやる」
―幸せモンじゃねぇか。その男。
3 僕と悪友と校庭で
翌日
今日は週に一度しかない美術の授業がある。天候は晴れ。少し肌寒いものの中庭は気持ちのいい風が吹いている。
そこを直衛は一人さくさくと草を踏みしめながら写生の題材を求め歩いていた。この季節の乾いた水気の無い地面を歩く音が心地いい。
だがあくまでこの季節に写生である。場所選びを間違えれば正直写生どころではない。先程も風のきつい寒い場所で無謀な写生をしていた梅原が自称・力作を風に飛ばされた。
「ま、まてぃ~~~」
まるでハゲ親父が飛ばされた鬘を追いかける様な必死さで飛ばされた画用紙に追いすがる切ない梅原を見ていた友人たちは悉く抱腹して悶絶した。
だが源はこれを
「ベストショットだ!」
と言っていきなり取り憑かれたように書き始め、見事にこの光景を絵にして完成させた。颯爽と野を駆ける友人を爽やかに描いた力作だった。ただその疾走の本当の意味を知っているその場にいた友人達にとってその絵は下手な四コマのオチのコマ以上に破壊力があった。しかし―
源以外はその後散々たるものだった。御崎は自分の画用紙を全員で落書きされるプチいじめを受けたり、杉内は更衣室裏に現れる黒猫を書いて美術教師に苦い顔をされるなどなかなかに写生(?)は難航している。
―ダメだ。コイツらに付き合っていたら提出が遅れる。
週一しかない授業で作業が遅れるのは致命的だ。補習でも設けられたら溜まらない。だから敢えて直衛は一人になった。
「ん・・?」
中庭の奥まった場所にある池垣に来た時だった。池垣の前にある小高い日当たりのいい草むらに腰かけている知己―一人の癖っ毛の少女を見つけた。彼女の手は忙しなく動き、順調に作業が進んでいる事が遠目にも解る。
―薫・・こんなとこで書いてたのか。
無意識に直衛の歩は進んだ。
「・・いいとこ居るな。ちょっと場所ワケろ」
「・・」
「おい」
「ん?あ~直衛?」
突如意識が回復したようなゆるーい返事が帰ってくる。結構集中していたようだ。
「悪い。隣いいか?」
「うん。どうぞ~」
「よっこいしょ・・」
「おいこら・・おっさん」
「何か言ったか?」
「い~え」
座った瞬間笑い疲れなのかどっと眠気が直衛を襲い始めた。予想以上に薫が陣取っていたこの場所が快適な場所だということも相まって。
「うわ・・ここやばいな。眠くなってきた」
「でしょ」
「危険な場所だなここ。写生どころじゃねーぞ」
「あははっ」
薫は屈託なく笑う。それを見て
―・・どうやら昨日のあれはよく在る気まぐれだったみたいだな。
直衛はそう思った。もうすっかりあんな悪態付いた事も忘れきっているだろうと。彼女のことだから。と。
だが―
「直衛~?」
「ん~?」
「昨日はゴメンね~」
淡々と画用紙に目線を向け、絵を書きこみながら脱力したまま薫はそう言った。口調は軽いものの反省と羞恥が感じられる不思議な口調である。
「・・・。おぉ」
「やっぱり最近変だなお前。・・何か在ったの?」―喉元まできたそんな台詞を直衛は噛み殺し、欠伸に変えて虚空に発散した。
「あー退屈ねぇ・・」
唐突に薫がそう呟いた。
「何か気の利いた事言えないの?アタシに聞きたい事とか」
「・・・。別に」
「いーわよ。別に。相変わらず素っ気ないんだから」
「お前にはこれでいいと思ってね」
その時直衛はその言葉が地雷を踏んだ事に気付いていなかった。
「・・。その言葉さ、アタシどうとったらいいのかな・・?」
「?」
「いい方にとるよ?直衛?」
「・・いい方?」
「そ。アタシの事でアンタが焦ったり、普段みたいに振舞えなくなったりしないようにワザと素っ気無くしてるって。私の事を他人事じゃ思えなくならないようにって。そうしないといざという時アンタまともに行動できないから。ダメな奴になっちゃうから」
「はぁ?」
「そうじゃないの?」
「・・考えた事も無い」
「ちぇっ・・残念。もういいよ。あー退屈」
「・・お前さ・・絶対俺からかってるだろ」
「からかってないよぉ?バカにはしてるけど」
「それをからかってるって言うんだよ・・」
「あーらばれました?あはははは!でもちょっとはドキドキした?どう?こんな薫ちゃんもたまには悪くないでしょ?」
「もう寝る」
「そんな照れなくても・・」
「起こすなよ」
「へいへい」
そうしてまたこの場所は少しの風と薫の鉛筆の音だけが規則正しく響く空間に戻った。
その一定のリズムは心地よい眠気を誘う。直衛自身の提出物の進捗度などどうでもよくなるぐらいに。
そしてその合間に聞こえてくるかすかな声も。
「むー」とか「んー」とか「あれ?」など思考錯誤を繰り返す薫の独り言がきこえる。
中学から三年。直衛にとって当り前になったこの声も目を閉じ、耳を澄まして聴くとなかなか面白い。
独特の引っかかりや抑揚、合間にわずかに聞き取れる息継ぎなどが聞こえて不思議と飽きず心地よかった。
―絶対本人には言ってやらないけどな。
直衛はそう思った。
「・・・ねぇ・・直衛?」
「ん・・?」
「・・キスしよっか?」
「やだ」
「即答!?ちょっと・・ひどくない?」
「さっきまでからかって警戒されている相手にいきなり無いね。それは。」
「全く・・アンタってひねくれすぎ」
「そうかもね」
「あはっひねくれ肯定・・」
「・・やかましい」
「ふーんだ。もう言ってやんない。後悔しても遅いわよ?」
「そう願う」
「かっち~ん・・あったまきた。そのうち絶対どうにかしてやるわ!」
「・・・・」
「ねぇ!?聞いてるの!?」
「ぐう・・」
「ちょっ寝たふり・・?じゃない・・本気で寝てんのコイツ?」
「ぐう・・」
「信じらんない・・。放置してやる」
そう言って薫はモチベーションの下がったまま写生を続ける事をよしとせず、打ち切ってその場を後にする。薄れた意識の中で離れていく足音を直衛は聞いていた。
「・・・」
不思議と怒っている歩調に感じなかったところに違和感があったが浸蝕する眠気に完全に直衛は意識を奪われる。
よって直衛は気付かなかった。
もう一度その足音が響いていたのを。・・・近づいてくる事を。
「・・・」
薫は一言も発しなかった。普段の賑やかな彼女からは連想が不可能なほどの沈黙。邪推な茶目っ気も一切含まず、ただ少女は眠る直衛の寝顔を真顔でじっと見ていた。
・・わずかな衣擦れの音も吹く風の音にかき消された瞬間だった。
「・・」
躊躇いも戸惑いも無く無言のまま彼女は屈み、両腕を衝立にして向かい合わせの直衛の寝顔をじっと見る。ほぼ距離はゼロ。直衛の頬に彼女の癖の強い髪が風に揺れながら触れる程だ。それでも直衛は起きない。
深い眠りの底でも何故か安心する、いつも傍に在る「薫り」に違和感を覚えなかったからだ。それを彼女は計算済みだった。
―我ながら邪だ。
卑怯だ。
あざとい女だ。
でも―
絶対止めてやんない。
今は―
アンタしか見えない。
「・・ん」
薫は直衛の頬に唇でそっと触れる。長く。こめかみから香る男子独特の―彼の匂いでむせそうだ。
でも手離す気はない。絶対にこのまま―「最後」まで。
唇を頬に沿ってゆっくりと伝わせる。刻み込むように。そして・・
「ん―――」
完全に有言を実行した。
三度足音が響き、再び離れていく。が、先程に比べると足早で不規則な音が響く。足がもつれてつまずきそうなぐらいの。
実際に躓いたのか
「あたっ!もうっ!!・・っ・・う~~~~~~っ!」
そんな苛立たしげな声も響き―
スタスタすたすた!!
そしてどことなく不機嫌な・・怒っているともとれる様な足音が直衛から離れていく。
写生で黒猫のスケッチを書いた杉内 広大は「スケッチ」を「写生」にするため、背景を探していた。
―写「生」でしょう!?生きている物を書き取って何が悪いんですか!?猫は「生」きているんですよ!?
という持論は既に美術教師に却下されている。
よって黒猫が座っていても違和感の無い場所を求めて両手の人さし指と親指で窓を作り、方々を歩きまわっていた。ただ今日は時間切れのようだ。
最後に裏庭を視察中に丘で横たわるやや長身の見知ったシルエットを見つけた。
―・・あ。国枝だ。あんなとこで寝てる。相変わらずよく寝るなあいつ。
この二人、お互いがお互いに相手に関して似たような印象を持っている。
「国枝?授業終わるよ?帰ろ?」
歩いて近づきながら杉内はそう言うが当の直衛に反応は無い。
「国枝。お~い?」
画用紙と筆記用具を小脇に抱え屈伸して杉内は再度声をかけるが―
「・・・!?」
戦慄する。
「どーした?すぎうっちー?」
「・・?直衛また寝てる?さっさと起こして昼飯にしようよ」
「はっ!」
いつの間にか後ろから来ていた2-Aクラスメイト梅原、源二人の声に杉内はビクついた。
「・・どした?大将」
「広大?」
「ち、ち、違うんだこれは・・」
―違う。俺じゃない。俺じゃないよ!!
「「?」」
源と梅原は顔を見合わせる。元々猫好きで、サボり癖があって、姉属性で、アスパラ嫌いで、妙に数学は強くて、だけど他は壊滅的で、おまけに猫好きなヘンなヤツだが今は輪をかけておかしい。
「ど、どうしよう・・梅原・・ゲン・・」
「?」
「は?」
「く、国枝が息して無いんだよぅ・・・」
「・・・広大・・君が殺ったの?」
「ゲン!!違うんだ~~本当に俺は!!ウメハラ~~信じてくれ!!俺は殺ってねぇ~~」
「すぎうっち・・いくら自分の絵が認められないからって人殺しはよくねぇな・・さぁ・・警察に行こう・・」
誤解が無いように言っておくが一応直衛は死んではいない。だが・・。
―・・・。何しやがんだ。・・薫。
暫く呼吸を忘れるぐらいの脳天を突きぬけた衝動に直衛の体は完全にマヒしていた。