【完結】Innocent ballade   作:ラジラルク

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Episode.9

 

 

 この日ばかりは眠れなかった。

 いつもより早めの時間に部屋の電気を消した私は、窓から月明かりが差し込むベッドに横になった。月明かりだけが光る部屋の中で、ボンヤリと天井を見つめている私の胸には色々な想いが交錯する。何度も何度も、そんな想いを掻き消すかのように無理矢理に瞼を閉じてみたが、数分も持たずに私の瞼は無意識に空いてしまい再びボンヤリと天井を眺めていた。そんな行動を何十回も繰り返して日付を跨いだ頃、私はもう無理に寝ようとすることを諦めた。こればっかりは無理に考えないようにしようとしてどうにかなるレベルのことではなかったのだ。

 美城さんが私に気を遣って早く帰してくれたのに関わらず、私がようやく眠りに落ちることができたのはいつも寝ている時間より遥かに遅い時間だった。そしてその数時間後、全く眠った気がしなかったが私はセットしていた目覚ましより早くベッドから出て、いつもより時間をかけて準備をしてまだ真っ暗な闇を月が照らす中、狭いワンルームマンションを出たのだった。

 

 九月中旬の朝。まだ太陽は昇っておらず、いつもは人や車が溢れかえっている道は不気味なほどに静まり返っている。そんな夜の東京の街は世界は夏の気配を僅かに残しながらも、少しばかり肌寒い風が駆け抜けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Episode.9

 

 

 

 

 

 

 

 

 最後に制服を着たあの日以来一度も来ることのなかった駅に降り立った瞬間、私の胸には様々な想いが込み上げてきた。懐かしいような、そしてほろ苦いような、そんな言葉では上手く言い表せない想いが胸一杯に広がっていく。私の背後で停まっていた電車がゆっくりと動き出したかと思うと、すぐに大きな音だけを残して走り去っていった。 ノスタルジックな想いに駆られ、ホームで一人立ち尽くす私の傍を大勢の高校生たちがすり抜けていく。白いシャツに黒のネクタイ、膝上の茶色のスカート。私が高校生の頃と何も変わらない制服を着た高校生たち。大きなリュックを背負って今から朝練に向かおうとしている部活生、眠そうな目を擦りながらも片手に握った参考書を読んでいるのは進学科の生徒だろうか。そんな高校生たちを見てこんな頃が私にもあったなぁ、なんて思い苦笑いしてしまった。

 アイドル活動と学業を両立していた高校生の頃はほぼ毎日利用していたこの駅。高校を卒業して大学に進学したものの、大学は私の高校とは離れた場所にあったため自然とこの駅に来る機会はなくなってしまっていた。駅周辺には私が通った高校があるくらいで、栄えているわけでもなかったからプライベートでここに来ることもなかったのだ。

 三年間毎日のように通っていた道を八年ぶりに訪れたせいか、目に映る景色や駅周辺の雰囲気、寂れた駅から漂う独特な匂い、その全てが懐かしかった。懐かしい光景を見たからか、思わず鼻の奥がツンとする。その痛みが私の弱気になっていた心をゆっくりと引き締めるのだ。

 

 

――もう、引き返せない。

 

 

 私に346プロアイドル部門設立五周年記念ライブの開催が懸かっている。

 どうしてもこのライブを開催させたかった。シンデレラプロジェクトの皆は勿論、他の部署のアイドルたちも全国のファンたちも、皆がこの大規模なライブを待ち望んでいるのだから。美城さんもプロデューサーさんも大勢のアイドルたちも、皆本当に色々な困難にぶつかりながらも必死に頑張って来て、ようやく辿り着いた五周年記念ライブなのだから。

 そんな皆の苦労をアシスタントとして誰よりも陰から応援していたから、私はこの案を美城さんに提案した。これは私にしかできないことなのだと、そう言って私の事を心配してくれた美城さんを強引に納得させたのだ。

 

 

 駅近くのコンビニでコーヒーを買うと、いつの間にか陽が昇り明るくなった道を私は少しばかり急ぎ足で歩く。今は六時四十五分、私の記憶が間違っていなければあと十五分であの人は来るはずだ。だからそれまでに私があの場所に辿り着かないと――……。

 時間もあまりなかったため、昔の通学路を懐かしむ余裕はなかった。だけど、それで良かったのだと思う。もし通学路を懐かしむ時間があれば、きっと私は思い出したくないことを沢山思い出してしまい、この足を前に動かすことを躊躇ってしまいそうな気がしたのだから。一度でもそういった余計なことを考えてしまうと、今まで張り詰めてきた強気の糸が一気にちぎれてしまいそうな気がして怖かったのだ。

 幸い道は覚えていたから迷うことはなかった。八年前と何も変わっていない街並みを辿り、次第に速まっていく胸の鼓動を必死に隠そうと平静を装って、私は歩き続けた。近付いていくにつれ、ドンドン胸が締め付けられるような気がして、自然と足取りが重くなる。引き返したい、何度も何度もそう胸の奥底でそんな弱気な言葉を呟く私がいた。それでも私は歩き続けた。

 そして今は閉店してしまった小さな煙草屋を右に曲がり、とうとう私の目にはこの八年間で忘れることが一度もなかった景色が飛び込んでいた。縦に伸びた古びた雑居ビル、その一階部分にはシャッターが下りており、シャッターの中央部分には「貸店舗」と書かれた紙が貼られている。そしてそのシャッターから目線を上にあげ、あの頃と何も変わらない色褪せたテープで窓に書かれた「765」の文字を確認した。

 腕時計を見る。時間は六時五十六分、ギリギリ間に合ったようだ。私はアイドルを辞めたあの日からの八年間で一度も訪れることのなかった765プロの前で最後の覚悟を決めると、建物横の入り口にもたれかかる様にして足を止めた。

 完全に太陽が昇り、明るさを取り戻した空を見上げて手に握ったままのコーヒーを一口飲んだ。氷が溶けて少し水っぽくなったブラックコーヒーが、私の喉元をゆっくりと通り過ぎていく。毎朝、出勤前に買って飲んでいるブラックコーヒーなのに今日はなんだか全然別の味がした。緊張のせいか、すぐに乾いた喉にもう一度ブラックコーヒーを流し込む。二回目の味も、やはりいつもとは違う味だった。

 ストローから口を離し、腕時計を見る。私の腕時計は数分前に七時を過ぎていたことを報せていた。そろそろのはずだ、そう思って腕時計から目を離した時だった。いつの間にか現れたのか、私から少し離れたところからゆっくりと私の方へと向かってくる男性が目に入った。男性は私には気付いていないようで、ずっと下を向いたまま腰を少しばかり丸めて歩いている。私の胸の鼓動が大きく高鳴る。それを機に、一気に心拍数が上がった。

 八年前と何も変わっていないその歩く姿を、私はずっと見つめていた。耳にまで響く胸の鼓動、抑えることのできないその音が届いたのか、私に気付くことなく歩いていた男性は私の五メートルほど前でその足を止めてゆっくりと顔を上げた。八年前より少し痩せたように見えたその男は信じられないようなものを見ているかのように驚いた表情を浮かべて私を凝視していた。

 

 

 

 

「き、君は……」

 

 

 

 

 思わず震えている男性の声。

 驚きのあまり、男性は手握っていた鞄をビルの陰に覆われ暗くなっているアスファルトの上に落としてしまった。アスファルトに鞄が落ちた音でようやく我に返り慌てて腰を曲げて鞄を拾う男性の姿を見て、私は思わず口元が緩んでしまった。

 

 

 

 

「……お久しぶりですね、高木社長」

 

 

 

 

 

 

☆☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 一歩ずつ登っていく度に軋む音が響く階段、窓が少なく光があまり差し込まないせいで一年中薄暗いままの廊下、そして開けるのに少しばかりコツがいる事務所のドア。

 765プロの中は八年前とあまり変わっていなかった。施設は相変わらずお世辞にも綺麗とは言えないし、失礼だが何も知らない人に今アイドル界のトップに君臨している765 ALL STARSがこの事務所にいるのだと話しても間違いなく信じないと思う。

 それでも、この場所は私にとって何にも代えることのできない大切な思い出が詰まった場所なのだ。八年前も今も、このことに変わりはなかった。

 

 

 

 

「八年ぶりか。すっかり大人になったものだな」

 

「そんなことないですよ。ここは……、あんまり変わっていないようですね」

 

 

 

 

 事務所の片隅の古びたパーテーションで囲まれた小さな応接間。私の前に麦茶が入った湯呑をそっと置くと、高木社長は私をそう言ってゆっくりと向かい側のソファに腰を下ろした。その眼差しは、まるで数年ぶりに孫を見る年配の方のような優しい眼差しだった。

 まだ誰も出社していない事務所をグルっと見渡してみる。綺麗に整理された机はおそらく音無さんの机で、その横で沢山の書類が重なっている机はきっと律子さんの机、律子さんの向かい側の机は美希ちゃんが淡い恋心を抱いていた赤羽根プロデューサーの机だろう。給湯室の水切り籠にポツンと残されている湯呑も、八年前に雪歩ちゃんが愛用していた湯呑だ。

 事務所の中はあの頃と殆ど変わっていなかった。だけどこの八年間で変わった部分も勿論ある。私が入社したばかりの頃は空欄が多かったスケジュール表が今は隙間なく埋められていて、殺風景だったデスク周りの壁には私が見たこともないような賞状が何枚も額に入れられ飾られていたり――……。あの頃から765 ALL STARSは誰一人欠けることなくみんな頑張っているのだと、そんな変わった部分を見て私は思わず胸が熱くなってしまった。

 

 

 

 

「朝会社に来て千川君がいるんだからビックリしてしまったよ」

 

「朝早くから突然押し掛けてしまい、本当にすみません……」

 

「いや、良いんだ。久しぶりに千川君の元気な顔も見れたのだから」

 

 

 

 

 高木社長はそう言うと、ニッコリと笑って見せてくれた。八年前のあの日、突然アイドルを辞めて765プロを退社したっきり一度も顔も見せずにいきなりこうして連絡もなしに訪れ、本当に失礼なことをしたと思う。だけど、そんな失礼を承知で私は高木社長に会いに来た。私は知っていたのだ、高木社長がアイドルや社員たちが出社する前に誰よりも早く会社に来ていることを。高木社長と直接話をするには朝一で私が765プロに行くしかない、そう思って私は高木社長を待っていたのだ。

 

 

 

 

「……それで、私が一人の時にわざわざ訪れるという事は何かあるのだろう」

 

 

 

 

 少しだけ声のトーンが下がったと思うと今までの暖かな眼差しからは一転、高木社長は目を細めて私を静かに見つめる。高木社長は私の考えを見抜いていた。その視線に少しばかり怖気づいてしまいそうになり、私は慌てて高木社長の視線から逃げるようにしてポケットに入れていた名刺ケースを取り出す。緊張のせいか錘が付いたかのように上手く動かない両手で何とか一枚だけ名刺を握ると、そのまま高木社長へと差し出した。

 私の名刺を受け取った高木社長は、細めていた目を大きく見開いた。

 

 

 

 

「……今は346プロで働いていたのか」

 

「はい、そして今日は高木社長にお願いがあって此処に来ました」

 

 

 

 

 いよいよこの時が来た。高木社長は私の言葉に見開いていた目を再び細める。私が最後にアイドル活動を行った大雨の日の翌日、アイドルを辞めることを話した時と同じだった。高木社長は何も言わずに、ただ黙って私の言葉を待っている。あの日の情景が一気にフラッシュバックし、八年前にタイムスリップしたような気がした。

 八年前と変わらない高木社長の眼差し。その眼差しに見つめられた私はもう後に退けない。大きく深呼吸をすると、私は高木社長の眼差しを見つめ返すようにして静かに呟いた。

 

 

 

 

「……346プロと765プロで共同ライブを開催してもらえませんか?」

 

 

 

 

 私の言葉に高木社長は何も言わなかった。

 それから私は順を追って説明をした。東京グリーンドームが先日の事故により改修工事が見合わせになってしまったこと、そのせいで十一月に予定していた346プロアイドル部門設立五周年記念ライブの開催が絶望的になってしまったこと。チケットも既に三万枚売り捌いてしまっており、346プロとしてもどうにかしてライブを開催させたいと思っている。だがチケットを売り捌いてしまった以上、その枚数分のキャパは確保しなくてはならない。時間ももう残り少なく、今更地方開催に変更する時間もなく、残された方法は東京で三万人を収容できる会場を抑えるしかなかった。

 だが三万人のキャパを持つ会場は二か所しか東京にはなく、一か所はジュピターのライブと被ってしまっていた。残された一か所は数年前から765プロとスポンサー契約を締結した東京ドーム。その場所をどうしても使いたいが為に、こうして346プロと765プロの共同ライブを提案したのだ。

 

 まるで一方的に家出をした子供が久しぶりに実家に戻ってきて突然親にお金を請求しているような感じだった。これがどれだけ身勝手で我が儘な話か、私は嫌というほど理解していた。

 当然だが765プロに346プロの事情は全く関係ない。それどころか、同じアイドルを抱える会社同士、敵と言っても過言ではない。だから、結果として346プロを助ける形になるこの共同ライブのメリットが765プロには少なすぎたのだ。

 

 

 

 

「なるほど、そういう事情か……」

 

 

 

 

 私は何度も何度も高木社長に頭を下げた。普通に考えてこんな我が儘が認めてもらえる道理はない。それを分かっていながらもこうして突然アポなしで訪れて無理なお願いをしているのだから、高木社長からすればどれだけ迷惑な話なのかも理解している。そんなことを何も気にせずに頼み込むより、よっぽどタチが悪いと思う。

 一通りの説明が終わり、高木社長はため息交じりにそう呟いた。前のめりの体勢で肘を机に付き、何も言わないままで窓の外をボンヤリと眺めている。

 

 

 

 

「突然ふらっと現れてこんななことを言って、図々しいのは承知しています。だけど、どうにかご検討してもらえないでしょうか?」

 

「千川君の頼みも346の事情も分かった。だが、その前に一つだけ質問をしていいだろうか?」

 

 

 

 その時の高木社長の表情は今までに見たことがない表情だった。

 まるで何もかもを見透かしているような目で、無表情で私を射抜くようにして見つめている。怒っているようにも見えるし悲しんでいるようにも見えるその表情からは、いつもの優しい高木社長の面影が跡形もなく消え去っていた。

 初めて見る高木社長の表情に私は凍り付いてしまった。まるで裁判官から判決を言い渡される直前の大きな罪を犯した加害者のような、そんな思いになってしまうのだ。

 

 

 

 

「それは、誰の提案なんだい?」

 

 

 

 

 無表情の口から言い放たれた言葉はその表情とは裏腹にいつも以上に優しい声だった。思わず身構えていた私は拍子抜けしてしまう。高木社長はそんな私を変わることなく真っ直ぐに見つめ続けている。

 

 

 

 

「765プロと共同でライブを行おうという提案は誰がしたんだい? 千川君の上司なのか? それとも346プロの上層部の人間なのか?」

 

 

 

 

 そこまで噛み砕いてもらって、ようやく高木社長の質問の意味を理解することができた。私は高木社長の黒い瞳を見つめ返す。何を考えているのか分からない、まるで瞳だけ別人の物を取り付けたような高木社長を真っすぐに見据え、私は口を開いた。

 

 

 

 

「私が提案しました」

 

「……それは本当かい?」

 

「本当です。この提案をしたのは私で、私以外の人は誰一人として765プロと共同でライブをしようという提案はしなかったそうです」

 

 

 

 

 高木社長は私の言葉を聞いても、ずっとその言葉の真偽を確かめるように私を静かに見つめている。その眼差しは私の心の奥底まで、全てを見つめているような気がした。

 

 

――この人の前では何も隠せないんだな。

 

 

 この時、私はそう悟った。嘘も強がりも、きっとこの瞳は全てを見透かしているのだろうと、そう確信したのだ。高木社長の前では小細工も何も通用しない、きっとそんなズルい手はこの人にかかればすぐに見破られてしまうのだから。

 765プロと共同でライブを行う提案を高木社長に伝えると初めて美城さんに話した時、美城さんは私の事を気遣ってくれた。アイドルを辞めてから今まで一度も訪れなかった765プロに独りで行くのは辛いのではないかと。過去への後悔や未練、叶わなかった夢の渇望など、色々な想いが交錯して私自身が苦しい想いをするのではないかと、美城さんはそう言って心配してくれた。

 全部がないと言ったら嘘になってしまう。だけど、私がそんな想いをして346プロのライブが開催できるなら喜んでやってみますと言った。346プロの皆が大好きで、そんな大好きな皆の笑顔が見たいのだと、その言葉に噓偽りはなかった。

 だから高木社長に心の奥底まで探られている気がしても、私は自然と堂々とすることが出来た。瑞樹さんや楓さん、冬馬君も私にもっと自分の好きなように生きて、自分自身にとっての幸せを掴むべきだと言ったてくれた。

 

 

 

 

“今もそうやって人の事ばっかり優先して、それでちひろさんは本当に後悔しないの!?”

 

 

 

 

 私が昔アイドルをしていたことを知られた翌日、私が凛ちゃんに言われた言葉だ。

 だけど誰がどう言おうと、決して傍から見れば幸せに見えなかったとしても、これが本当に私にとっての幸せなのだ。誰かの力になりたい、誰かを幸せにしてあげたい、そう思う気持ちに一ミリも嘘は混じっていない。

 

 だから私は今日、ここに来た。胸が締め付けられるような想いに駆られても、私は346プロの皆に笑ってほしかったから――……。

 

 

 

 

「……分かった」

 

 

 

 

 高木社長はため息交じりにそう呟くと、苦笑いを浮かべた。先ほどまでの険しい表情から一変、今はいつもの優しくて温かい表情に戻っている。

 

 

 

 

「千川君は相変わらずだな。あの頃から何も変わっていない」

 

 

 

 

 そう言って私に笑って見せる。私は照れくさい気持ちになってしまい、何と答えれば良いか分からずにただただ黙って笑うことしかできなかった。

 

 

 

 

「もし346プロの誰かが千川君が765プロにいたことを利用して、千川君をここに来させたのなら私は断るつもりだった。だが、その表情を見るとそういった訳ではないようだな」

 

「はい、先ほども言いましたがこれは全て私の提案ですから」

 

 

 

 

 私の言葉に、高木社長は笑顔で何度も何度も頷いた。そして、よしっという小さな呟きと共にゆっくりとソファから腰を上げる。

 

 

 

 

「分かった。前向きに検討してみるとしよう」

 

「本当ですか!? ありがとうございます!」

 

 

 

 

 嬉しさのあまり、私は思わず両手を叩いて立ち上がってしまった。何度も何度も、感謝の意を込めて頭を下げる。いきなりアイドルを辞めて八年間一度も姿を見せなかったのに、突然現れて我が儘なお願いを言い出した私の話を怒ることなく聞いてくれた高木社長の優しさが心に染みて、思わず目頭が熱くなってしまった。

 こんなにも身勝手で図々しい私を、こうして笑顔で出迎えてくれたことが嬉しくて、「ありがとう」という言葉にしてしまうと薄っぺらく感じられるほどに私は感謝をした。こんなに私は高木社長に感謝しているのに、もっともっとこの気持ちを伝えたいのに、どうしても私の気持ちを伝える方法が思い付かなかった。

 だから、私は何度も頭を下げ続けた。こんなことで今の私の高木社長への感謝が伝わるとは思わないが、それでも何もせずにはいられなかったのだった。

 

 

 

 

 

☆☆☆☆

 

 

 

 

 高木社長は一応前向きに検討するとは言ったものの、実際は高木社長一人の判断では決めることはできないらしい。東京ドーム自体はギリギリになるがこの時期はイベントが特にある訳でもないから恐らく抑えることは可能だと教えてくれた。だがそれ以前にまずは律子さんや赤羽根プロデューサーに相談して、そこから765 ALL STARSの皆にも相談する必要があり、その為の時間が少しだけが欲しいと、そう言われたのだ。

 もちろん私としては全然大丈夫なのだが、未だにライブの開催可否が発表されていないことに混乱するアイドルやファンたちのことを考えると、なるべく一日でも早く話をまとめたいという思いもあった。

 

 

 

 

「そうだな、分かった。三日後までに結論を出すことにしよう。三日後の夕方、またここに来てほしい」

 

「分かりました」

 

 

 

 

 三日後の日曜日に共同ライブを行うかどうかの判断を聞くことで、今日の話し合いは終わりとなった。

 時間は八時半を迎えており、あと三十分後には律子さんや赤羽根プロデューサー、音無さんにアイドルたちが出社する時間になる。高木社長にせっかくだから皆が来るまで待っていればと言われたが、私はまた改めて伺いますと伝えてその誘いを断った。高木社長に会って共同ライブの依頼をするのとは別に、春香ちゃんたちに会うのには気持ちの整理をしないといけない気がしたのだ。それに今はこの話し合いの結果を一秒でも早く346プロに戻って皆に伝えたいという気持ちが強かった。きっと今も美城さんやプロデューサーさんたちは共同ライブがダメだった時の代理案を会議で話し合っているはずだから。

 八年ぶりの再会で色々と話したい事も沢山ある。だが、今日ばかりはこのタイミングで帰ることにした。そう聞いて高木社長は残念そうな表情を浮かべながらも、私を下まで見送りにきてくれた。

 

 

 

 

「シンデレラプロジェクト、最近勢いがあって良いじゃないか」

 

「ありがとうございます。皆良い子たちで昔の春香ちゃんたちにそっくりですよ」

 

「そうかそうか、それなら私たちも追い抜かれないよう気を付けねばならんな」

 

 

 

 

 そんな他愛もない会話をしながら古びた階段を下りていた時だった。何処か遠くから微かに声が聞こえてきて私は足を止めたのだ。そんな私に気が付いて高木社長も足を止める。耳を澄ませばかろうじて聞こえてくるような小さな声は、私の聞き覚えのある綺麗な女性の声だった。

 暫くその女性の声を聴き込んでいた私に、高木社長がそっと声をかけてくれた。

 

 

 

「如月君だよ。彼女は今でもこうして出社の一時間前ほどからトレーニングルームで歌っているんだ」

 

「八年前と変わりませんね、千早ちゃんは」

 

「ホントだな。世界デビューも果たして今となっては一流歌手の一人なのに、今でも無名の頃から変わらずこうしてストイックに夢に向かって歩き続けているのだから」

 

 

 

 

 高木社長はそう言って感心したように音が漏れているトレーニングルームのドアを眺めている。

 八年前と何も変わっていなかった。765プロも事務所の中も、そして千早ちゃんも。私がまだアイドルをしていた頃、よく週末の朝は千早ちゃんと早く会社に来てこうして一緒に自主トレに励んでいたことを思い出した。八年前に私がいなくなって一人になっても、こうして千早ちゃんは毎日欠かさず朝の自主トレを続けていたのだ。

 嬉しかった。私の大好きな765プロが八年前と同じままで今も在り続けていて。それと同時に、やはりこの場所は私にとってかけがえのない場所なのだと、そう改めて痛感させられた。

 

 それから暫く、私は八年前より更に上手くなった千早ちゃんの歌声を静かに聞き続けていたのだった。

 


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