【完結】Innocent ballade   作:ラジラルク

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昨日の12/11、この作品が日間ランキングで8位に入っていました!
恐らく今までの作品で過去最高だと思います。本当に沢山の人に読んでいただいているようで、感謝感激です。

それと同時に毎回誤字報告をしてくださっている方々、本当にありがとうございます。
この場を借りてお礼申し上げたいと思います。

物語は中盤に差し掛かり、もうそろそろ物語が動き始めます。
拙い作品ではありますが完結まで是非お付き合いください!


Episode.6

 

 

 

 

 

 

「今年の十一月に346プロのアイドル部門設立五周年記念ライブを行います! 精一杯頑張るので是非遊びにきてください!」

 

「私たちニュージェネの他にも、346プロ全体のアイドルたちが数多く参加する大規模なライブだよ! この未央ちゃんに、また会いにきてね!」

 

「ファンクラブ先行販売は終わりましたが一般販売も行います! ファンクラブ先行で残念ながら落ちてしまった人、ファンクラブに入ってなくて先行販売に応募できなかった人、まだまだチャンスはありますので是非ご応募ください!」

 

 

 

 

 卯月ちゃん、未央ちゃん、凛ちゃんの声。三人は各々で大勢のお客さんたちに声を掛けては、何度も何度もステージ横に設置されたポスターを強調するかのように宣伝していた。

 今年の十一月で346プロのアイドル部門は設立五周年を迎えることになる。それを記念して、346プロ全体の五周年記念ライブの開催が決定したのだ。この五周年記念ライブにはシンデレラプロジェクトは勿論、346プロに在籍するアイドルたちが大勢ステージに立つことが決まっており、今まで行ってきた346プロのライブの中でも最大規模と言っても過言ではない大きなライブが計画されていた。それに加えライブ会場も今現在改修工事中で九月末には完成予定の三万人収容の大きな会場を抑えており、新たな会場のこけら落とし公演としても非常に多くの注目が集まっているのだ。

 その宣伝も兼ねて、今日はスポンサーに名乗り出てくれたこのショッピングモールでニュージェネレーションズのミニライブが行われた。先日終了したファンクラブ会員先行のチケット応募受付も凄まじい数の応募が殺到したらしく、今までのライブとは比にならないほどの高倍率を記録している。この五周年記念ライブはアイドルたちにとっては勿論、346プロにとっても非常に大きな意味を成すライブになるのだ。

 

 

 

 

「千川さん、今から少しクライアント様と話をしてきます。この場は任せてもよろしいでしょうか?」

 

「はい、大丈夫ですよ」

 

 

 

 

 ミニライブが終わり、ステージ裏にパーテーションで作られた小さな部屋から静かに三人を見守っていた私にプロデューサーさんが声を掛ける。私が頷いたのを確認すると、プロデューサーさんは軽く一礼して小さなパーテーションの部屋から出て行ってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Episode.6

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ミニライブが終わって五周年記念ライブの宣伝も終わった。残るイベントはニュージェネレーションズの三人の握手会だけだ。この握手会は定められた期間にこのショッピングモールにあるCDショップでニュージェネレーションズのCDを買った先着二百名だけが参加できるイベントで、そのせいか握手会に入る頃には大勢いたお客さんも少しばかり減ってしまっていた。

 椅子に並んで座る三人の前に広がるのは二百人ものお客さんたちが作り出した長蛇の列。ショッピングモールの中で冷房が効いているとはいえ、この夏の時期に全力で数曲を歌い踊った三人の顔色には多少なりとも疲労感が漂ってはいたが、それでも三人は次から次へと入れ替わるお客さんたちに満面の笑みで対応していた。その姿を見て、この一年で三人ともすっかりアイドルらしくなったな、なんて思って私は感心してしまう。あんなに笑顔がぎこちなかった凛ちゃんが自然に笑えるようになって、数にばかり拘っていた未央ちゃんがお客さん一人一人の笑顔を見れるようになって、自分に自信が持てなかった卯月ちゃんが自信を持って笑えるようになって、本当に一年前とは比べ物にならないくらいにこの三人は成長した。初めてニュージェネレーションズの三人が美嘉ちゃんのバックダンサーとして舞台に立った時、ガチガチに緊張して危なっかしい三人を見ている私たちが不安で仕方がなかった頃が遠い過去のように思えてしまい、私は思わず頬を緩めてしまった。

 

 

 

 

「ちひろさん、ちょっと良いかな」

 

 

 

 

 成長した三人を見てもう大丈夫かな、そう判断した私が一人で備品の片づけをしていた時だった。パーテーションを少しだけずらし、私の方を覗き込むようにして見つめている凛ちゃんの声。私は手に握っていた備品を箱に戻し、作業を止めた。

 

 

 

 

「凛ちゃん、どうかしましたか?」

 

「うん……。プロデューサーはいなんだよね? ちょっと変なお客さんがいるんだけど」

 

 

 

 

 そう小声で言った凛ちゃんは困ったような表情で眉を八の字にしている。

 

 

 

 

「変なお客さん? クレームかしら」

 

「いや、クレームではないんだ。ちょっと何を言っているのか分からなくて……。ちひろさん、対応してもらえないかな」

 

「分かったわ。どのお客さん?」

 

 

 

 

 凛ちゃんはそっとパーテーションから離れると、私が顔を出しやすいように少しだけパーテーションを動かしてくれた。その隙間からそっと首を出すと、迷惑そうに前方を眺める険悪なムードが漂ったお客さんたちの列が真っ先に目に入った。そのお客さんの列を辿るようにしてお客さんたちの視線の先を見ると、次に目に入ってきたのは卯月ちゃんに何か必死に問いかけている一人の男性の姿だった。

 男性は必死の形相で卯月ちゃんに何か言葉をかけている。ここからだと遠くて男性の声は聞こえないものの、その男性の必死な表情からは物凄く真剣な想いが伝わってきた。だがそんな真剣な男性とは裏腹に、卯月ちゃんは少しパニックになったようにあたふたしているし隣に座っている未央ちゃんもどうすれば良いのか分からずにオドオドとしている。その男性がだいぶ時間を消耗させているようで、後ろに並ぶ何人ものお客さんからは厳しい視線が男性の背中に向けて投げられていた。

 パーテーションをもう少し動かして、私は小さな部屋から出た。その姿に気が付いた未央ちゃんが助けを求めるような眼差しで私を見る。私は首から関係者パスがぶら下がっていることを確認し、少し小走りで二人の元に向かっていった。

 

 

 

 

「お客様、どうかされましたか?」

 

 

 

 

 必死の形相で卯月ちゃんに詰め寄っていた男性は慌てて私の方へと振り返った。黒いシャツを着た少し小太りで地味な眼鏡をかけた男性――……、パッと見て年齢は私より少し上の気がするがもっと上の気もする。

 その男性は私の表情を見て視線を下に動かした。どうやら私の首から下げられた関係者パスに気付いたようで、再び視線を上げた時には先ほどとは違って少しだけ罰の悪そうな表情をしている。

 

 

 

 

「関係者の方ですか……。すみません、どうしてもお聞きしたいことがありまして……」

 

「どんなことでしょうか? お答えできる範囲でお答えしますよ」

 

 

 

 

 男性の声は少しだけ震えていた。そしてもう一度だけ罰の悪そうな表情で私を見ると、すぐに身体を丸めて椅子の下に置いてあった古びた鞄からCDを取り出した。男性が取り出したCDの表紙にはニュージェネレーションズの三人が真ん中に並んで祈るように両手を合わせているジャケット写真――……、半年ほど前に発売された『お願い!シンデレラ』のニュージェネレーションズverだ。

 

 

 

 

「この『お願い!シンデレラ』って、彼女たちの曲じゃありませんよね!?」

 

「えっ?」

 

 

 

 

 予想外の言葉に私は思わず呆気に取られてしまった。

 だがそんな私を気にもせず男は再び鞄に手を突っ込むと、次は違うCDを手に取って慌てて私の前に差し出した。次に鞄から出てきたのはさっきのニュージェネレーションズのCDとは違い、少し色褪せて年季を感じさせるジャケット写真のCD。何処か見覚えのある、懐かしい感じのするCDだった。

 

 

 

 

「この千川ちひろって人が昔歌っていた曲のカバーなんですよね!? ほら、これ見てください! このCDのジャケットに映っている人、この人が歌っていたんですよねっ!?」

 

 

 

 

 興奮しているのか少し早口の男性の口調。

 男性は右手に握ったCDのジャケット写真を左指で指さして私に見せつけている。その男性の左指の先に映っているのは、紛れもなく八年前の私だった。

 私は固まってしまった。近くで驚いたように目を見開いている未央ちゃん、卯月ちゃん、凛ちゃんの姿が目に入った。騒がしかったショッピングモールの音も、怪訝そうな眼差しで男性を見つめていたお客さんたちの声も、何もかもが聞こえなかった。静寂に包まれたこの世界で、私の耳に響いているのは私のCDを握った男性の声だけだ。

 

 

 

 

「教えてください、この千川ちひろって人は今は何をしているんですか!? 突然アイドルを辞めたって聞いて、それっきり何も音沙汰無しで……」

 

 

 

 

 必死に、必死になって私に何度もCDを見せて訴えかける男性。眼鏡越しに見える人の好さそうな黒い瞳、そして特徴的な少し早口な口調。私の頭の中を一気に何かが駆け巡った。八年前、ここで行った私の初ライブを先頭で見ていたお客さん、その後の握手会で少し顔を赤面させて「応援しています」と言ってくれたお客さん、次のミニライブでは友達を連れてきてくれたお客さん、そして照れ臭そうに「友達に聞かせたいんです」って言って何枚も同じ私のCDを買ってくれたお客さん――……。

 色々な過去の風景が頭の中で交錯し、そして一つになっていく。笑ったお客さんの顔、少し照れくさそうに握手をしてくれたお客さんの顔、そして熱心に私のライブを見ていてくれたお客さんの顔――……。

 その全てが、今私の目の前で私のCDを握っている男性の顔に重なった。

 

 

 

 

「かず……、さん?」

 

 

 

 

 無意識に出てしまった私の言葉。

 かずさん、と呼ばれた男は目の前で固まってしまっている。眼鏡の奥の目が大きく開かれ、その真ん中に位置する優しい黒い瞳は私を射抜くようにして見つめていた。

 

 

 

 

「……ち、ちひろちゃん!?」

 

 

 

 

 再び私の耳から音が消えた。そんな私の耳に届いたのは、かずさんが握っていた私のCDがかずさんの右手を離れ地面に落ちた音だけだった。

 

 

 

 

 

☆☆☆☆

 

 

 

 

 

 人生とは不思議なものである。アイドルを辞めてからの八年間で一度も会わなかった、そしてもう二度と会うことのないと思っていた人に今日一日だけで二人も会ったのだから。

 ショッピングモールの屋上駐車場、騒々しい店内から解放されたこの場所は不気味なまでに静まり返っている。屋上駐車場に停められたまばらな数の車も動く気配はなく、周りの風景の一部と化していた。そんな屋上駐車場の片隅にある店内入り口の壁にかずさんはもたれかかってボンヤリと空を見上げている。何を考えているのか私には読めない表情で空を眺めていたかずさんは、次第に近付いてくる私の足音に気が付いたのかボンヤリとした表情のまま私に視線を移した。

 

 

 

「これ、良かったらどうぞ」

 

「あ、すみません……。ありがとうございます」

 

 

 

 

 かずさんは私の腕から冷たい缶コーヒーを受け取り、軽く一礼して缶の蓋を開けた。それにならって私も右手に握っていた缶コーヒーの蓋を開ける。そして一口だけ乾いた喉に冷え切ったコーヒーを流し込むと、かずさんと並ぶような形で入り口の壁に背中を預けた。

 

 

 

 

「……迷惑、かけましたよね」

 

「いえ、全然大丈夫ですよ」

 

 

 

 

 申し訳なさそうな表情でかずさんは両手で缶コーヒーを握ったまま、俯き加減にそう呟いた。私はそう言葉をかけたものの、かずさんは依然として私ではなく缶コーヒーを見つめている。

 

 

 

 

「ご迷惑かけて本当にすみませんでした。でも……、どうしても確かめたかったんだ! 自分の眼で、自分の耳で、ちひろちゃんがあの後どうなったのかを」

 

 

 

 

 そう言うと意を決したように、かずさんは真っすぐな眼差しで私を見つめる。八年前と変わらぬ、真っすぐに私を見つめてくれる眼差しに、私は何も言えなかった。

 それからかずさんは最近『お願い!シンデレラ』がシンデレラプロジェクトによってカバーされたことを知ったのだと教えてくれた。冬に行われた舞踏会のライブの翌日、朝のニュースの数十秒だけダイジェストで放送されたライブ映像。その中で偶然シンデレラプロジェクトの皆が『お願い!シンデレラ』を歌っているシーンを見つけたらしい。驚いたかずさんはすぐにネットで検索すると、曲名も歌詞も私の時と全く同じでカバーされたことを知った。だが公式サイトにも販売サイトにも何処にも私の名前が見つからず、疑問に思ったかずさんは346プロに問い合わせのメールを送ってみたり電話で聞いてみたりしたらしい。

 

 

 

 

「だってどう見てもちひろちゃんの曲なのに、何処にもちひろちゃんの名前が全然出てこないんだもん」

 

 

 

 

 かずさんの苦笑い交じりの言葉。それもそのはず、私が765プロを辞める時に高木社長にそうお願いしたのだから。私の名前を伏せていいので、いつか『お願い!シンデレラ』が似合う子が現れたら与えてくださいと。だからかずさんどころか、シンデレラプロジェクトの皆も誰一人として私が過去にこの曲を歌っていたことを知らなかったのだ。

 

 かずさんはいつも私のイベントに来てくれる熱心なファンの一人だった。私がアイドルとして活動していた頃、かずさんは大学生で何度も何度も私のミニライブや握手会に来ては私に応援の言葉をかけてくれた。ミニライブに大学の友達を連れて来てくれたり、『お願い!シンデレラ』のCDを何枚も買っては友人たちに配ってくれたり、とても言葉では言い表せないほど私のことを応援していてくれたのだ。私のようなローカルアイドルは良い意味でも悪い意味でもお客さんとの距離が近く、頻繁にイベントに足を運んでくれるお客さんの事は今でもよく覚えているものだ。かずさんは紛れもなく私を一番に応援してくれていたと言っても過言ではないくらい、何度も何度も私に会いにきてくれた。

 そんなかずさんにも一言も言わずに私は突然引退した。私の引退を知ってかずさんは相当落ち込んだらしい。「あの時は暫くご飯も喉を通らなかったよ」なんて言って笑って見せたかずさんを見て、私は本当に心が痛んだ。

 そんな突然の引退から八年。思わぬところで私の曲がカバーされたことを知ったかずさんは居ても立っても居られず、どうにかしてこの曲がどういった経緯でカバーされることになったのかを知りたかったらしい。だがシンデレラプロジェクトも今や人気アイドルグループの一つであり、私のようなローカルアイドルとは違ってなかなか近付くことができない。その現実に途方にくれていたかずさんが見つけたのは、今日のニュージェネレーションズのイベントだった。

 定められた期間にニュージェネレーションズのCDを買って三人の握手会に参加できれば、『お願い!シンデレラ』がカバーされた経緯を聞けるかもしれない。そんな一心で、かずさんは仕事も有休を申請して朝の早くからお店の外に並んだらしい。

 

 

 

 

「そのイベントでまさかちひろちゃん本人に会うことになるとは思いもしなかったよ」

 

「私もまさかかずさんが来てくれるとは思っていませんでした」

 

 

 

 

 私の言葉にかずさんは申し訳なさそうに、そして少しだけ照れ臭そうに力なく笑った。

 

 

 

 

「引退してからすぐ346に?」

 

「いえ、高校卒業してからは大学に通いました。346で働き始めたのは大学を出てからです」

 

「そっか……」

 

 

 

 

 ちひろちゃんがアイドルしてたのはもう八年前なんだよね、そう呟くとかずさんは壁にもたれかかったまま、遠い眼で空を見上げた。その視線の先には微妙にオレンジ色を含んできた空が広がっている。大きな入道雲が、沈もうとする夕陽に照らされ赤味を増して綺麗なグラデーションを描いていた。

 夕方の生暖かい風が吹いた。屋上駐車場を吹き抜けていく風が私の肩に流した三つ編みを揺らす。風に揺らされた私の三つ編みを、かずさんは静かに見つめていた。八年前はショートカットで肩にかかるくらいの長さだった私の髪が、今は三つ編みができるほどに伸びている。この伸びた髪が、八年という長い月日が流れたことを物語っていた。

 

 

 

 

「ちひろちゃんの歌声なら絶対ブレイクできると思ってたのになぁ」

 

 

 

 

 寂し気に笑って、かずさんはそう呟いた。また私たちの間に風が吹いた。生暖かい風に吹かれながらもかずさんは目を細めて、夜の世界へと移り変わろうとし始めている空の世界を見つめている。

 そんなかずさんの姿を見て泣きたくなった。あっという間に流れた八年間の月日の重さが、今になって私にのしかかってくる。かずさんだけじゃない、ショッピングモールの女性も、突然姿を消した私をこの八年間ずっと心配していてくれたのだ。あれだけ必死に応援してくれて、何度も何度も励まされたのに。それなのに私は一言も言わずにかずさんの前から姿を消した。

 それがどれだけ無責任なことだったか。私は溢れそうになる涙をグッと堪えて、鼻を啜った。

 

 

 

 

「ごめんなさい、私……」

 

 

 

 

 思わず言葉が漏れてしまった。今にも溢れようとする涙を必死に堪えたせいか、少しだけ力が入ってしまって声が震えてしまった。

 そんな私を少し驚いたようにかずさんは見つめる。だけどすぐに暖かい眼差しで、八年前に何度も何度も私に見せてくれたあの優しい笑顔でそっと言葉をかけてくれた。

 

 

 

 

「元気そうで良かった。今日、ちひろちゃんの顔を見て安心したんだ」

 

 

 

 

 そう言ってくれたかずさんの表情は、私の記憶にはない表情だった。まるで我が子を見守るような温かい表情――……。それは子供のように無邪気な笑顔で笑っている印象の強かった今までのかずさんからは想像できないような大人びた表情だった。

 そして、その理由がすぐに分かった。缶コーヒーを握り締める手の中に、一つだけ光り輝く指輪が見えたのだ。恵子のより少しだけ大きいその指輪は、夕焼け空に照らされてオレンジ色に光り輝いている。その指輪を思わず見つめていた私に気が付いたのか、かずさんも自分の指にはめられた指に目線を落とした。

 

 

 

 

「娘の名前、ちひろって言うんだ」

 

「えっ?」

 

 

 

 

 突然の言葉に私は意味が分からず、咄嗟に聞き返してしまった。

 

 

 

 

「妻が提案したんだ、ちひろって名前にしようって。妻にはちひろちゃんのことは話してなかったからビックリしたよ」

 

「そうだったんですね」

 

 

 

 

 かずさんの笑顔につられ、私も笑ってしまった。そのかずさんの笑顔を見て、今この人は本当に幸せなのだろうなと思う。それと同時に再度八年という月日の長さを改めて感じた。八年前、私のライブを先頭で見てくれていて、握手会などでは何回も来ているのに毎回恥ずかしそうに顔を赤くしていたかずさんがこんな大人の表情をするようになったのだから。あの時はかずさんがこうして結婚して子供を育てる姿なんて想像できなかったが、今のかずさんなら不思議と容易に想像することができた。

 優しくて温かい眼差しを持つこの人が自分の娘に溺愛する姿が想像できてしまって、何だか私まで幸せな気持ちになってしまい、頬が緩んだ。きっとこの人なら良いお父さんになれるんだろうな、とまで考えてしまう。

 そんなことを頭の中で考えられているとは知らずに、かずさんはあの頃と変わらないニコニコとした温かい笑顔で私を見つめている。その横顔が、夕陽によって照らされていた。

 

 

 

 

「ちひろちゃんみたいに、優しくて心が綺麗な女の子に育つと良いなって思ってるよ」

 

「きっと私よりもっと良い女性になりますよ」

 

 

 

 

 そうだと良いな、なんて言いながらかずさんは照れくさそうに頬を掻いた。

 そして頬を掻いていた指を止め、かずさんは腕にはめられた腕時計を確認する。そろそろ帰る時間なのだろう。かずさんを待っている妻と、私と同じ名前をした子供が待つ家に。別れ惜しそうに私の方をもう一度見ると、かずさんは寂し気に笑って言った。

 

 

 

 

「長く付き合わせちゃってごめんね、そろそろ帰るとするよ」

 

「いえ、久しぶりにお話しできて楽しかったです」

 

 

 

 

 かずさんは何も言わずに、私にニッコリと笑って見せた。

 そして入り口の壁から背中を離し、大きく伸びをする。次第に赤色へと染まっていく空に両手を思いっきり伸ばすと、かずさんは何かを思い出したかのように地面に置いていた鞄の中を漁った。

 鞄の中から取り出したのはニュージェネレーションズのCD。一度しみじみとそのジャケット写真を眺めると、CDを握ったまま私に視線を戻した。

 

 

 

 

「いつか、ちゃんと聞くよ。この子たちの『お願い!シンデレラ』」

 

「……ありがとうございます」

 

 

 

 

 私の言葉にかずさんは無言で笑うと、そのまま私に背中を向けた。そして太陽が沈もうとする空に向かってゆっくりと歩き出す。かずさんのスニーカーがアスファルトを擦る音が響いて、また生暖かい風が吹いた。その風に静止をかけられたかのように、かずさんは私から数メートル離れたところで立ち止まり、夕陽を背にゆっくりと私の方へと振り返った。

 

 

 

 

「それでも……、僕はちひろちゃんの『お願い!シンデレラ』が一番だって言うと思う」

 

 

 

 

 そうとだけ言い残し、またかずさんは背中を向けゆっくりと歩き始めた。それからは一度も振り返らずに歩き続け、屋上駐車場の隅に停めてあった軽自動車に乗り込み、乾いたエンジン音を響かせて屋上駐車場から出て行ってしまった。

 誰もいなくなった屋上駐車場で一人佇み、私は察した。もう二度とかずさんに会うことはないのだと。そう思うと無性に寂しくなって悲しくなって、胸が張り裂けそうになってしまった。

 

 かずさんが去って行った方に見える夕陽は赤く輝いてる。その赤く輝く夕陽の中目掛けて一直線に飛ぶ飛行機を私は独りで暫く見つめていたのだった。

 


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