部屋を抜け出した環は気晴らしの散歩を楽しんでいた。
目を覚ました時は、確か夕刻だと聞いていたが、今はすっかり陽も落ちて、空は濃紺に染まっていた。
思った以上に長い時間、あの資料を読んでいたようだ。
ふらついていた足どりは、歩いているうちに次第にしっかりとしたものに変わっている。
だいぶ冷たい潮風に長い黒髪をなびかせて、微かに響く波音に誘われるように、自然と足は海辺へと向かっていた。
コンクリートで整備された港湾施設の外れにある防波堤へと向かう。
其処ならば、障害物に邪魔される事なく、海が眺められるはずだ。
ぼんやりと照らす月の光は白く、あちらこちらに黒い陰を散りばめている。
覆い被さる陰を抜けて再び白い月光を浴びる。
ふと、環は笑みを零した。
胸に、懐かしさが甘く滲んでいく。
「あの時も、こんな月明かりの夜だったわね」
遠い記憶──鉄筋コンクリートの壁と天井に囲まれた広い空間にはガラクタがあちらこちらに転がっていた。
申し訳程度の大きさの鉄格子の嵌まった窓から差し込む、冷たい月の光が環のあちこちボロボロに欠けた小さな身体を照らす。
背中に感じる冷たいコンクリートの地面と、後頭部に感じる柔らかい感触と温もり。
目蓋を開けば、此方を覗き込む優しげな顔、深紅の瞳。
それはかつて、幼い頃に環が初めて出会った深海棲艦であろう彼女の姿。
たった一晩。
いや、そのうちの眠りに落ちるまでの僅かな時間。
今では夢ではなかったのかと思える、そんな記憶。
その儚い記憶が、環にとっての救いだった。
幼い環の額を撫でる、陶磁器のような滑らかな純白の肌、細くしなやかな指先。
そこには他の深海棲艦が持つ、鋭い爪も禍々しい雰囲気もない。
純粋に、ただ美しかった。
今でも環ははっきりと憶えている。
あの時の押し寄せる脱力感のなかでも確かに感じた安堵感を。
再び、目を覚ました時、彼女の姿は無かった。
代わりに、色々と欠けていたはずの環の身体が、元の通りに復元されていた。
その後の調査で、環に深海棲艦の特性が認められる。
原因不明とはいえ、環は研究の唯一の成功例として軍に迎えられる事になった。
深海棲艦と人との融合ともいえる、人の深海棲艦化と戦力化の研究の産物。
その失敗作として一度は棄てられた彼女を救いあげたのは、皮肉にも深海棲艦の彼女だったのだ。
──不意に右腕を強く引かれる感触と背中にぽすっと何かがぶつかった衝撃が、追憶に沈む環を現実に引き上げた。
気が付けば、防波堤の突端まで来ていた。
途切れた防波堤の先は波にうねる海面が黒く、果てしなく広がっている。
あと一歩でも踏み出せば真っ逆さまに落ちてしまっただろう。
「あんた、何をぼんやりしてるのよ。……大丈夫?」
すぐ耳元で声がした。
驚いた環が声のした方に首を向けると、そこには銀の髪の少女の赤い瞳が環の顔を見上げていた。
光の加減で時折、燈色にも見える瞳は幾度かまばたきを繰り返した。
視線を落とすと、環の右腕を両手を巻き付けるように抱き締めている。
どうやらこの娘は、環が海に落っこちないように引き止めてくれた様子。
「……」
「……」
暫く無言で見つめ合う二人。
顔が近いせいで、潮風に揺れる彼女の銀の髪が時折、環の鼻先をくすぐった。
「……も…」
「も?」
何やら彼女の頬が赤い気がする。
「もう!いきなり立ち止まって、危ないじゃない!!……まあ、引き止めたのはこっちだけど……」
そう、耳まで赤くなった少女は環の腕から離れるとそう言い放った。
後半部分は尻すぼみに声が小さくなったのでよく聞こえなかったが。
腕組みをすると、少女はぷいっと顔を背けた。
「気をつけなさいよね、まったく!まさか同じ人間を二度助けることになるなんて……」
ぶつくさと文句を言う少女の口元には、笑みが浮かんでいる。
口は悪いけれど、根は優しい子なのだろう。
「ごめんなさいね。ちょっと気分転換に海を眺めに来たのだけど」
なんて、環の言い訳にもならない言葉に、少女は眉をつり上げた。
「それで海に落っこちてちゃ世話無いわよ!無理しないでちゃんと安静にしてなさい」
海なんて、これから嫌というほど見るんだから!と少女のお説教は続いた。
「まあ、いいわ。その分だと調子は悪くないようね。良かったじゃない」
ひとしきり言いたい事を吐き出してスッキリしたのか、少女は環へと右手を差し出した。
「ま、せいぜい頑張りなさい。環司令官」
「あら、知ってたの。流石は叢雲ね」
叢雲と握手を交わしながら、「御世話になったわね」と環は笑った。
「命令書に目は通してるわよ。もっとも、海で拾ったあんたが、司令官だとは思わなかったけれど」
命令書という言葉で環の表情が曇る。
彼女もまた、環の部下としてあの無謀な防衛戦に投入されるのだ。
(本当に、気が滅入るわね……)
それにしたって、麻守から環の救助を行った艦娘の名前を知らされていたが、まさか部下として配属された艦娘だったとは思わなかった。
「いやあ、着任前の上官を救うとは、良い部下に恵まれましたな」
そうニヤニヤしながら皮肉を言う麻守の顔を思い出す。
ちょっと、かなり腹立たしい。
「……じゃあ、私はこれから整備に出してた艤装を受け取りにいくから」
踵を返した叢雲が、肩越しに環を一瞥する。
「あんたが暗い顔しててどうするのよ。あんまり情けないと、酸素魚雷を食らわせるわよ!」
そんな言葉を残して、今度こそ叢雲は去っていった。
まったく、これではどちらが上官か判らない。
しかし、お陰で環も覚悟が決まった。
「ああまで言われたら、弱音も吐けないじゃないの」
それに──
「酸素魚雷は食らいたくないしね……」
割と切実に環は思うのだった。