夏の青空に、雨上がりの虹が淡く発現していた。それはそれは綺麗なものだ、間違いない。
しかし今は、天上の風情などはまことどうでも良かった。下界に存在する花壇の方が、よっぽど重要だったからだ。
今の大学は夏休み中だからか、キャンパス内における人の数は少ない。東側では人や戦車が走り回っているものの、関わりさえなければ単なる遠い世界だ――それよりも今は、宇宙で自己主張を繰り広げている太陽に対し、強い関心と憎しみを抱いている。
こちとらくそ暑い中で、花の世話をしているっていうのに。
園芸サークルの一員である紺野は、軍手着用で花壇の花についた水滴を払う。先日の夜、思いきり雨に降られたのだ。お陰で余計に蒸し暑い。
花にとって、水は命そのものだ。だが、水滴がついたままでは逆効果だったりもする。病気の原因にだって成り得るのだ。
なのでこうして、紺野含む数名のサークルメンバーが、夏休みを返上してわざわざ大学まで駆け付けた。目的はもちろん、花の命を救う為に。
「っとによーなんで雨って降るんだ?」
「なんでだろうなあ。傘はいるし、それでも濡れるし、花にとっても良いことばかりじゃねーし」
紺野と男友達が、天に向かって好き勝手にものを言い合う。
表情はやる気なし、言動は腑抜けそのものだったが、腰つきや手振りは、常に熱心だった。みんな花が好きなのである。
女友達が、ばかだねーと言わんばかりにへらへら笑い、
「雨が無いと、私たちも花も生きてられないっしょ」
「そーだっけ?」
「そうかあ?」
紺野と男友達が、面倒臭そうな態度で花の水滴をぽんぽん落とす。労働をしてはや数十分、紺野が背筋を伸ばした先には、
「――ところで」
「え、何」
紺野が、「ほれ」と東側を指差し、
「あっち側、なんか忙しいな」
少し離れた位置で、多数の女性が、教師が、そして様々な戦車が、所狭しと走り回っている。ひと際デカい戦車が目についた時は、思わず手が止まった。
「あー、確か、戦車道絡みらしいぜ。高校生と試合をするとかなんとか」
ああ。
紺野が通う大学は、戦車道に強い事で有名らしい。この前も社会人相手に試合をして、それに勝ったと大学内で少し騒ぎになったこともある。
次は高校生が相手なのか。まあ、戦車道にも色々あるのだろう。
戦車道には疎い紺野だが、母校の繁栄に繋がるのであれば、それはそれで良い――紺野の中では、そうまとまっていた。
「ねーねー」
女友達が、実に気軽な声で紺野に話しかける。紺野は「なに?」と応えた。
「これ終わったら、一緒にどこか出かけない?」
「何人で」
「二人でー」
つまるところが、デートのお誘いだった。男友達が「いいねえ」と煽ってくるものの、紺野の表情は以前として変わらない。
「そういうのは、恋人としかしない主義だって言ったろ」
「んもー、真面目くんだなあこのイケメンは」
「うるせ」
そう――小学生の頃から今日まで、この決意は変わっていない。
これまでに、沢山の出会いがあった。時には友情を育み、時には趣味を共有し、時にはケンカをしたり、時には仲直りして――時には、告白を受けたりもした。それも三度。
けれど、紺野に恋心が芽生えることはなかった。できなかった。
だから、「ごめん」と断り続けてきた。恋に対しては、真面目に向き合わなければいけないと、心の底から思っているから。
「出会いを選り好みしてると、独身のままかもしれないよー」
「いいよ別に、恋に対してはマジでやりたいの、マジで」
たぶん、これからも明日からも数年後も、この考えは変化しないだろう。たとえ出会いが無かったとしても、自分には花がある、友情がある。
自分は、そうして満たされていた。
「……おや?」
女友達が、鈍い動きで立ち上がる。紺野は「はて」と、手を動かしたままで首を傾げていた。
「そこの君、もっとこっちに来ても良いんだよ?」
女友達が手招きをする。振り向いてみると、花壇から少し離れた位置に、背の低い女の子が突っ立っていた。
部外者かな。
口にすることなく、紺野はそう思う。顔つきはどうしても幼かったし、大学生特有の「砕けた」雰囲気が感じられない。小学生か中学生か、それくらいだろうか。
緊張しているのか、表情に色はない。胸には熊のぬいぐるみを抱いていて、花壇とは一定の距離を置いている――考えられる原因は二つ。遠慮しているのか、人と接するのが苦手なのか。
女友達は、そこを嗅ぎ取ったのだろう。部外者だろうが何だろうが、花を愛でさえすれば誰だって歓迎だとばかりに、笑顔を作る。
「いいよいいよ、遠慮しないで」
そういうことなら、手伝わざるを得ない。花の愛好家は、是非とも増やしたいものだ。
姿勢を低くしたまま、紺野は笑顔を作って「おいで」と手を振るう――女の子が目を逸らす、けれど内股気味だ。たぶん、きっかけを精製しようとしているのだろう。
女友達は「いいんだよー」と、積極的に誘いをかけている。紺野も「俺達のことは気にせずに、見ても触れてもいいんだよ?」と勧誘した。男友達も空気を察したのだろう、「おいでー」と左右に手を振るう。
対して女の子は――嫌ではないのだろう、ぎゅっと熊のぬいぐるみを抱きしめている。たぶん、食いつくことが苦手なのかもしれない。
どうしたものかと、炎天下で紺野は思考する。そんな中で、同性である女友達が「よし、誘ってみる」と、女の子に近づこうとして、
「あ、隊長、ここにいたんですか」
東側から、女性の声がよく響いてきた。物珍しさと主張性の高さに、園芸サークル一同が一斉に注目する。
「探しましたよ、隊長――あれ」
――。
何故だか全く、これっぽっちも分からなかったのだが。眼鏡をかけていて、ショートヘアで、やや釣り目で、明るい声をした、恐らくは大学生であろうその
こんなにも、まじまじと人の容姿を眺めたのは、覚えておきたかったのは、生まれて初めてのことだった。
自分の頭をはたく、冷静になったフリをする。
東側からやってきて、軍服らしいものを着ているところから、恐らくは戦車道履修者なのだろう。隊長と呼ばれた女の子は、眼鏡の女性めがけくるりと視線を変えた。
「ここ、『虹の花壇』じゃないですか。花を見てたんですか?」
「う、うん」
女の子が、少し遠慮がちに頷く。女友達は「しめた」とばかりに指を鳴らし、
「じゃあ、もっと近づいて見てみて、遠慮しないで」
「え、でもっ」
女友達が「いいから」と言い、女の子が「でも」と戸惑う中、紺野はぼさっと手を止めていた。
「隊長、ここはとても評判の高い花壇なんです。見るもよし、触れるもよしの、園芸サークルの宝なんですよ」
「そ、そうなの?」
そうなの。
この「虹の花壇」は、大学が設立された頃と、ほぼ同時期に設けられたらしい。最初は1ジャンプで通り抜けられる程度の規模だったのだが、やる気に満ち満ちた園芸サークルが、あの手この手スキあらばボランティア精神で、いつしかキャンパス内の中心を彩るようなデカさにまで発展させたという。
形状自体は典型的な円型花壇で、花を植えるスペースが四段階に、その隙間には歩行路が敷き詰められている。これは、花を手入れする際の利便性を考慮した結果だ。
評価に関してだが、女性が言う通り極めて良好だ。学内はもちろん、外部からの撮影者も多い。大学の公式サイトのトップページにも、でかでかと花壇が映し出されているくらいだ。
人気の秘訣は、代々受け継がれてきた「虹の配色」によるものだろう。外側から赤色の花、黄色の花、青の花、紫の花と、これらを順番に植えていくのが伝統で、これがまたウケが良いらしかった。
モチベーションを保つために、植える花はほぼ一年草でまとまっている。今年は「インパチェンス(赤)」、「コレオプシス(黄)」、「エボルブルス(青)」、「ニーレンベルギア・ブルーマウンテン(紫)」という構成だ。
植える花の基準は、とにかく「誰でも育てやすい花」であること。これが原因で、「やってみようかな」と加入してくるメンバーも少なくはない。一年草中心なので、「また同じ花かー」とメンバーがダレることも、見物人から飽きられることもあまり無かったりする。
そういうわけなので、虹の花壇は大学の名物として、今日も堂々と君臨しているのだった。
「宝といっても、そんなに気を遣わなくていいからねー。花は愛でるものだからさ」
「そうそう。そうですよね」
女友達の言葉に対し、眼鏡の女性が明るい表情で頷く。そして、「見るもよし触れるもよし」を実証するかのように、眼鏡の女性が花壇へ近づいてきた。
「いいですか?」
「あ、はい」
眼鏡の女性が、じっくりと腰を下ろす。見るものはもちろん、インパチェンスという赤い花だ。
――よく、真面目に返答出来たと思う。
自分の呼吸音が聞こえて、らしくなく心臓が鳴り響いて、両目は眼鏡の女性へ張り付いたままだというのに。
「よく見るのは初めてなんですが……うわあ、綺麗だなあ」
眼鏡の女性の目は、雨のように潤んでいた。眼鏡の女性の顔は、少年のように明るかった。
なぜだか全く目を離せない――離したくない。眼鏡の女性に対する印象はといえば、綺麗というよりも活発そうで、物事に積極的で、世話好きらしい一面もあるようだった。
水滴を払うフリをして、眼鏡の女性に近づく。
思い出の品を見つけたかのように、感慨深く目を細めたかと思えば――今度は、物珍しそうに両目を見開いた。「大きいなあ……」と口にして。
たくさんの花を、見せたくなった。「俺の」花を、もっと見てもらいたかった。
「他の花、見ます? インパチェンスだけじゃなくて」
「あ、いいんですか?」
「ええ。さあ、またがって」
眼鏡の女性が「わかりました」と、嬉しそうに言う。その際、眼鏡の女性が女の子めがけ手招きをした。
女の子も「惹かれた」のだろう。恥ずかしがりながらも、花壇へ近づいてきた。
「ささ、見てってね。触りたかったら、いつでも触っていいからね」
「う、うん」
女友達が、すかさずフォローを入れる。最初は「どうしたもんか」な空気だったが、眼鏡の女性の積極性にかなり救われた。男友達も、その他メンバーも、「こっちに来ていいからね」と声をかける。
眼鏡の女性が、再び姿勢を低くした。
「しっかし、流石は大学名物……本当、丁寧って感じがします」
「あ、ありがとうございます……」
異性との会話なんて、慣れっこなはずなのに。
「丁寧」と評され、紺野は明るく恥ずかしがった。そのまま受け止めたら、死んでしまいそうなくらい嬉しかった。
「先日は雨だったから、その後処理でここに?」
「ええ、まあ」
「なるほど……やっぱり、園芸って凄いなあ。私にはできませんね」
「いえいえ、鉢植えもありますし」
直射日光なんて、すっかり空気だった。炎天下なんて、二の次だった。
それよりも今は、女性を花の世界へ誘いたかった。そうすればきっと、接する機会が多くなる気がして――
「へえー、今度やってみようかなぁ。なんて、やっぱり私にはちょっとなー、すぐ枯らしちゃいそうで」
眼鏡の女性が、たははと笑う。
――目を逸らす。
砕けた表情が、快明な口調が、特徴的な眼鏡が、紺野の心なんぞを瞬く間に夢中にさせる。
「あ、いえ、初心者向けのヤツ、紹介しますよ」
「え、本当ですか? やった」
心の底からの言葉なのだろう、眼鏡の女性は歯を見せて笑った。壁も格差も感じさせないような、そんな顔をしていた。
「好きな色は?」
「青かな?」
「今の季節だと……ロベリアかな。初心者おすすめです」
「へえー、ためになるなあ……」
眼鏡の女性が、ほうほうと二度頷く。
「存在感もありますから、育てがいがあるんじゃないかな。――分からないことがあったら、色々教えますよ。ネットもありますけどね」
「あ、いいの? ……ありがとうっ」
遠慮なく、笑われた。
男どもなら十中八九、勘違いされそうな笑顔だった。
包み込むのではなく、悩みを吹っ飛ばすような快明さがあった。
「いえいえ……あ、ところで、隊長って?」
ここで話題をバトンタッチしたのは、我ながら上出来だと思う。眼鏡の女性が、「ああ」と応え、
「隊長っていうのは……島田愛里寿、あの女の子ですね。十三歳にして、大学まで飛び級してきた天才なんです」
眼鏡が、きらりと光った。女性の目が、紺野から島田愛里寿へ移る。
「島田流という、戦車道における流派の跡継ぎでもあるんです。私たち、大学選抜チームの隊長を務められるほどの技量持ちなんですよ」
愛里寿はといえば、現在は女友達とともに「この花はねー」「へえ……」とやりとりしている。天才、飛び級、跡継ぎ、隊長と、夢みたいな単語が飛び交ったが、全て真実なのだろう。
それらを語っている時、眼鏡の女性の目がとても輝いていたから。
「凄いね……」
「うん。だからこそ、何かしてあげられないかなーって思うんです」
眼鏡の女性の瞳が、愛里寿から花へ流れゆく。先ほどまでの明るさに、多少ながら陰りが生じた。
「何とか……?」
「ええ。ほら、私たちって大学生じゃないですか。でも、隊長は僅か十三歳、どうしてもズレが生じてしまう」
「あー、そうか」
紺野の表情も、苦く変化する。
愛里寿は、天才にして戦車隊の隊長だ。尊敬され、羨まれ、時には恐れられることもあるのだろう。
――女性の口ぶりから察するに、友情が芽生えていないのかもしれない。だから対等な会話が生じず、遠慮がちになってしまっているのかも。
何とかしたい、と思う。友達を作ってあげたい、と思う。唸るが、これといって名案が閃かなかった。
「ああ、ごめんなさい。こんなことを話してしまって、迷惑を」
「いやいやぜんぜん、俺も何とかしたいって思ったから」
本心を、口にしたつもりだ。この女性の関係者ならば、紺野は――
「へえ、優しい」
「いやいや」
「流石、花好きだね」
「花好きが、みんな心優しいとは限らないですよ」
「ふうん。でも、あなたはそれに入らないと思うな」
「どうして」
眼鏡の女性が、人差し指でエボルブルスの花びらを触っている。
「真面目な顔をしてくれているから」
こっ恥ずかしくなって、水滴を払う作業を再開する。しかし、未だに視線を感じるのだ。
「……偉いなぁ」
「え」
「今、夏休み中でしょ? それなのに、ちゃんと花壇の手入れをして」
花好きとしては、これくらいの献身なんて日常茶飯事だった。むしろライフサイクルの一環であり、好きでやっているに等しい。
――けれど、胸がどきりとする。男友達から「よーやるわ」と評されても、女友達から「流石だね」と言われても、「趣味だから」で流していたはずなのに。
「……まあ、虹の花壇を任されていますから。これくらいはしないと」
「やっぱり偉いなぁ」
眼鏡の女性の顔なんて見てられない。作業的に水滴を払い、何となく土の匂いを嗅いで、女友達が「もっと見てって」と愛里寿を歓迎する。愛里寿はといえば、最奥にあるニーレンベルギア・ブルーマウンテンを拝見する為に、小さくジャンプした。
「……あなただって、凄いと思いますよ。戦車道、でしたっけ? 俺には出来そうにもない」
数分程度だが、テレビで試合を見たことはある。戦車というチームワークの塊を動かして、精密射撃を決めては相手を負かしたり、負かされたりすることもある。試合の展開もかなり早く、自分のような鈍ちんにはついていけそうにもない。
だから、心の底から「凄い」と口にした。そう思った。
「そう?」
「ええ」
ちらりと、眼鏡の女性の横顔を覗う。女性は、エボルブルスをじいっと見つめていた。
「――それじゃあ」
紺野と目が合った。呼吸が止まるかと思った。
「どっちも偉いってことになるのかな? わかんないや」
けらけらと、眼鏡の女性が笑う。
「……それでいいと、思います」
「そっか、よかったよかった」
たぶん、この人は争いとか口論などが嫌いなのだろう。そんなシリアスにかまけているヒマがあったら、目先の面白さへ飛びつくタイプに違いなかった。
「――あ、そうだ。君いくつ?」
「え、二十一ですけど」
眼鏡の女性が、実に嬉しそうな顔をしながら指を鳴らす。正直、少しビビってしまった。
「じゃあタメってことだね。よしよし、じゃあ堅苦しいのはやめにしよう、やめ」
「えー、でも初対面ですし」
「同級生っていうのは、そういうのを吹き飛ばすパワーがあるでしょ」
まあねえ。
先輩に対してはどうしても堅苦しさが残ってしまうし、後輩相手も何だか遠慮がちになってしまう。けれど同級生とは不思議なもので、成績に差があろうとも、身長が高かろうと、生まれが違えど、異性相手だろうと、同じ部活でなくとも――気が合えば、それだけで砕けた仲が成立してしまう。そういうものだった。
「じゃ、じゃあ……敬語はいらないってことで?」
「とーぜん」
その時、携帯の振動音が近くで鳴り響いた。紺野がポケットに手を当てるも、特に反応はない。
となると、
「はい、もしもしー。あ、ごめんごめん、すぐ合流するから――うんうん、うん、はあい」
眼鏡の女性が、何事も無かったかのように携帯をしまう。合流云々は、たぶん戦車道絡みだろう。
腰をさすりながら、眼鏡の女性がゆっくりと立ち上がる。
「じゃ、そろそろ私は行くよ。――次も花、見てってもいいかな?」
「当然」
「やった。あ、ロベリアだっけ? 育ててみるけど……あんまり、期待しないでね?」
「大丈夫、君ならできるよ」
「ほんとー? 君にそう言われたら、自信沸いてきたぞ」
同級生の仲になった途端、眼鏡の女性がはきはきと言葉を紡いでいく。表情にだって遠慮がない。
拳を作ったり、苦笑してみせたり、笑顔を浮かばせたり――日光のようだった。何かが、燃え上がっていった。
「今日は色々ありがとね。じゃ、ばいばい」
手を振るい、軽々とした跳躍でインパチェンスの真上を飛び越えていく。忍者みたいだなあと、ぼうっと思考した。
「あ……ちょっと待った」
両手を広げ、十点満点の着地をこなすと同時に、
「そういえば、君の名前を聞いてなかった。私はルミっていうんだけれど……君は?」
くるりと振り向かれる。ルミのアクションを凝視していたせいか、紺野は「え、あっ」と出遅れながらも、
「紺野。……また縁があったら、よろしく」
「紺野か、了解。じゃね」
ルミが、愛里寿に向かって「行きましょう」と声をかける。愛里寿はサークルの面々に頭を下げ、サークルメンバーも「また来てね」と手を振った。
こうして、ルミと愛里寿は東側へ――戦車道の世界へ、姿を消していく。紺野なんぞ及びもつかない、遠い遠い世界へ。
紺野ときたら、未練たらしく二人の背中を、ルミの後ろ姿をじっと見届けていた。
ルミの顔が、未だに忘れられない。はっきりと変化するルミの表情が、脳裏に焼き付いている。ルミの気軽な口調が、記憶に強く残っていて、
「紺野」
そう簡単に、余韻などに浸らせてはくれないらしい。男友達も女友達も、にやにや笑いとともに食いついてきた。
声をかけてきたのは男友達だが、誰が振り向くか。女友達に至っては、好きに笑い転げていて欲しい。
次に来る言葉なんて、どうせ――
「惚れたな?」
ずばり、男友達から指摘された。
――見上げる。
紺野二十一歳は、五つの過ちを犯してしまったことに気づく。
まず、恋心の芽生えなんてアテにしていなかったこと。
次に、花を愛でれば全て満たされると思っていたこと。
更に、戦車道に対して興味と関心を抱かなかったこと。
そして今、ルミという青い華と出会ってしまったこと。
たった今、ルミという女性に対して――
「惚れた」
恋心が、芽生えたこと。
虹は、空のどこかへ消え去っていた。
―――
長い夏休みも終わりを迎え、大学生達は授業に研究、サークル活動に昼飯と、これまで通りの生活を再開し始めた。
授業の尾を引いているのか、紺野は食堂内であくびを漏らす。いつもなら友達とメシを食うのだが、今日はあれやこれやの事情があって昼飯にありつけないらしい。
そういうこともあるのか。
まあいいか。
好物のカレー定食を注文し、どこに座ろうかなと食堂を一瞥する。視界に入るは、男どもで固まった一席、女性グループでまとまった席、男女混合、空席、ルミ、
二度見する、両目をこする。少し離れた席に、ルミが一人で食事を――特に、おかしい話でもない。ルミはここの学生だし、そもそも食堂自体が出入り自由だ。時間帯にしろ真昼間だから、ここで飯を食ったところで何の問題も無い。
鋭く呼吸する。
ルミの前は、空席だ。だから、相席したところで何の不自然さも無い。
ルミの顔とは、数回程度合わせた。だから「ここ、いいかな?」と聞いたところで、何の問題も無い。
ルミの、戦車道における活躍っぷりは何度も見直した。残念ながら大洗は強かったが――まあいい。話題の種も持ってきた。
俺はイケメン紺野君だぞ。話しかけたところで、ルミに迷惑はかからないはずだ。
よし、行くぞ。突撃。
「こんにちは」
ルミが持つ、スプーンの動きが止まる。「ん?」と見上げられ、「あ」と微笑された。
「また会ったねー」
「どうも」
敬語が暴発しそうになるが、ぐっと堪える。
相手は同級生だ、だが初恋の人でもある。それ故に、接し方がド丁寧になりかける。
「ここ、いいかな?」
「いいよ」
あっさりクリアした。たぶん、同級生でなければ色々とつまづいていたと思う。
席に座る、真正面からルミと目が合う。食堂であろうが何だろうが、これで二人きりだ。
――さて、
「いただきます――この前の試合、テレビで見たよ」
「え、ほんと? どうだったかな?」
ルミの表情が、途端に明るいものになる。紺野は「見ておいて良かった」と、小さく自画自賛をしつつ、
「カッコ良かった。流石ルミさんって感じ」
「ありがとー。でも、負けちゃったけどね」
苦笑しながら、スプーンでシチューを掬い取る。紺野の方も、カレーを口に入れながら、
「いやでも、ルミさん凄く格好良かった。バミューダアタックだっけ? あれは何度も見直したよ」
「あ、それ知ってるんだ」
間もなく、ルミが「ん?」と漏らし、
「えっ、見直した? ってことは録画してるの? うわー恥ずかしい、アラ見え見えだー」
そうは言うが、当のルミはまるで嫌がってもいない、むしろおかしそうに笑っている。勝てば祝杯、負ければ思い出、そういうことなのだろう。
「アラなんて、俺には分からなかったなぁ」
「いやでも、やられちゃったし」
「そういうこともあるよ」
まあねーと、ルミがシナモンロールをかじる。
「しょうがないか」
「しょうがないよ」
ルミが、「うん」と頷く。紺野は、ごくりと水を飲む。
よしいけ、本心と下心を口にしろ。
「でも、大学選抜チームはよくやったと思う。素人目だけれど、精一杯が伝わった」
「ありがと」
ルミが、にこりと笑いながらシチューを飲み込む。いよいよもって心拍数がやばくなる。
「俺、ルミさんには感謝してる。戦車道の熱さっていうのかな、そういうのを知れたから」
「え、そうなの? ――私がきっかけ?」
「うん。この前さ、ルミさんは俺なんかと話してくれたじゃない」
「なんかって言わないの」
ルミが、スプーンを向けて「めっ」をする。紺野は「ごめんごめん」と苦笑しながら、
「――ルミさんはさ、俺と、花について語り合ってくれたじゃない。それでこう、なんていうのかな……仲間意識っていうのが芽生えてね」
「仲間? ほんと? 嬉しいなぁ」
かなり踏み込んだ発言だったが、ルミは難なく受け入れてくれた。しかも、子供のように口元を曲げながら。
「で、ルミさんの熱中していること――戦車道だね。それに興味を抱いて、この前の試合を見たってわけ」
「なるほどねー」
「うん。……でさ、その、試合結果はああだったけどさ」
言え、建前とか脈絡なんてものは捨てろ。恋なんてものは、多少大袈裟なくらいが丁度良いんだ。その人に対して嘘さえつかなければ、割かし好意的に受け止めてくれる。
両肩で、呼吸をした。
「え、何?」
「――大学選抜と大洗含め、俺は、ルミさんが一番イカしてたって思ってる」
信じられないことでも見聞きしたかのように、ルミの両目は思い切り見開かれていた。
「え……えー? そう? そう言っちゃう?」
「言う言う」
「あちゃー、そっかぁー……」
けれど、ルミは決して笑いを止めないのだ。まだ告白してもいないくせに、紺野ときたら「今、フられても悔いはない」とか思っている。
「ありがとう。君、いい男だねえ」
「そんなことないよ」
そう。ルミから好かれなければ、こんな顔をしたって何の意味もない。
「いやいや、私から太鼓判を押してあげよう」
「やったぜ」
カレールーの海から、ジャガイモを回収する。パワフルな感触が、今となってはとても心地良い。
いい気になって、ジャガイモをかみ砕く。ルミも、シナモンロールを手にとって、
「……あのさ」
「え、何?」
「さっきさ、バミューダアタックって言ったじゃない」
「ああ、うん」
バミューダアタックに関しては、ルミの「ついで」で手に入れた検索結果だったりする。
これは大学の公式サイトでも公開されているのだが、ルミにはアズミ、メグミという仲間が居て、その三人から繰り出される連携攻撃――通称「バミューダアタック」が、とにもかくにも強力なのだ。別のサイトでは、史上最高のチームプレイとして、高く評価されていることもあった。
「やっぱり、目につく? バミューダアタック」
「うん、まあね」
分かりやすい迫力があるし、目に見える結果だって残す。ルミのことを抜きにしても、やはり、バミューダアタックは印象深い。
「……バミューダアタックってさ、ほら、三人で行う攻撃だからさ、どうしてもそれが目立っちゃう。で、これでナンチャラ三人組とか呼ばれないとさ、ウソじゃん?」
「……確かに」
「でしょ? で、ついたあだ名が『バミューダ三姉妹』。これで、私とアズミとメグミは、一括りに評価されるようになっちゃった」
黙って、納得するように頷く。
よくある話だ。
「まー褒められたり怒られたりするからさ、現状に不満はないんだけれど」
ルミが、あくまで苦笑しつつシナモンロールをかじる。紺野は、白米めがけカレールーを垂らしていた。
「……やっぱり嬉しいな。私個人が、こうして評価されるのって」
海でも眺めているかのように、ルミは静かに微笑む。どこか寂しそうに、けれども光を失わないままで、ルミは紺野の目をじいっと見つめていた。
「……ルミさん、あんなに凄い腕前なのに」
「バミューダ三姉妹って、定着されちゃったからね。しょうがないしょうがない」
否定はできない。三人組という構成は、それだけでキャラも存在感も沸き立つ。
ほんとう、どうしようもない強力な個性だった。
「……そうか、そうかもね。でもさ」
「うん?」
「やっぱり、俺はルミさん推しだなあ」
ルミが、「そお?」と苦笑する。
「花仲間だからね」
「……そっかー」
シナモンロールを完食する。ルミは、薄く「ふーん」と漏らして、
「ありがとね、紺野君」
シンプルな、お礼の言葉を返された。いつも振りまいているであろう笑顔は、間違いなく紺野にだけ向けられていて、感謝の情念が伝わってきて――
「よし、決めた」
紺野が首をかしげる。ルミは、残り少なくなったシチューを味わいながら、
「ロベリア、必ず咲かせるよ。花仲間、だからね」
あ――
手の動かし方なんて、もう忘れた。紺野の脳ミソには、ルミ専用という看板が張り付けられている。紺野の目ん玉は、シチューをおいしそうにいただくルミしか映していない。
惚れた。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
一通り園芸関係を調べてみたのですが、間違いがあった際はご指摘ください。
新しいことを調べるのって、本当に面白いです。
今回はルミさんがヒロインで、短編です。すぐ終わると思います。
何度か推敲しましたが、ミスがあるかもしれません。その時は、遠慮なくご指摘ください。
お気軽にご指摘、ご感想を送信していただければ、本当に嬉しいです。