ロンは確かに視た。
はたから見れば、ハリーとヴォルデモートはただ跳んだだけにしか見えなかっただろう。
しかし二人が飛び上がる刹那、数十メートルも離れた二人の間に幾多もの太刀筋が…もっとも、刃とは筋肉だが…走ったのを。
二人の殺意が交差する刹那。それをロンが認識した瞬間二人は跳び上がったのだ。
常人にわかるはずもないだろう。
しかし二人の筋肉は確かに圧縮された時間の中を翔び、こだまする筋肉の叫びを感じ、億百もある勝ちと負けの境界線を縫って呼応したのだ。
ロンはハーマイオニーをみた。
ハーマイオニーもロンをみた。
二人は頷き合い、闇にうごめく黒衣の闇の魔法使いたちを見た。
心臓が脈打つ。筋肉に血が巡った。
圧縮、そして解放。
筋肉の思うままに、二人も跳び上がった。
風を切り、闇を切り裂く。
全ての境界を割いていく。
心の壁まで取り払われるような気がした。
眩い閃光が頭上で弾けた。
星の生まれるその時のような光。筋肉を滾らせて全てをぶつけ合う人間の誇りの瞬きが夜に浸かった校舎を照らし出す。
魔法使いたちはその美しい光景に見惚れ、そして杖を構えた。
杖先から発射される閃光が激しくぶつかり火花を散らす。
ハーマイオニーが人狼たちの間に飛び込み、ボスであるグレイバックを絞め落としたとき、ベラトリックスの赤い閃光が彼女の肩を穿いた。
「ぬ…う?!」
その痛みに思わず呻く。筋肉の鎧に守られて以来初めて通った攻撃だった。
「あの時の礼はたっぷりさせてもらうよ」
落ち武者のように髪は抜け落ち、まだ完治していない骨折だらけの体でベラトリックスはたっていた。火の手が周りを囲み二人きりの決戦場が出来上がる。
「…私を足止めしようって考えね。」
「そうさ。猛獣の扱いはこれでも心得てるからねえ」
あのプライドの高いベラトリックスがこのような捨て身の策を講じるとは思っても見なかった。
自らを犠牲に仲間の勝ちに賭ける行為。
それは時に「勇気」と呼ばれる。
火が蛇の舌のようにハーマイオニーを舐める。ちりっと焦げ付く髪先を感じつつ、ハーマイオニーは笑った。
「その覚悟、受け取ったわ」
ベラトリックスは凄絶な笑みを浮かべ、爪の剥がれた杖腕を振り上げた。
「減らず口を叩くな、化物!」
「ハーマイオニー…!」
炎の檻へ閉じ込められたハーマイオニーを見て、ロンは思わず名前を呼んだ。しかし今の彼女はマグマの中に放り込んでも生きてそうなので心配しても無駄だろうなと心の中では思っていた。
ロンは俊敏なステップにより次々と死喰い人を気絶させた。
右脚、左脚、半歩。
屈んで、掌底。
自分だけ違う時の流れを生きているかのようだった。
川の流れに点々と浮かぶ石に飛び移るように、人のまばたきする数コンマに移動し、拳を叩き込む。
ロンの強靭な体幹が織り成す軌道は常人には認知できない。
細切れのフィルムのように襲い来る筋肉の力に闇の魔法使いたちは地に伏した。
ハーマイオニーは閉じ込められた…。
ならばナギニを倒すのは自分の役目だ。
ロンは少しずつ闇の魔法使いたちの中心、ナギニに向かって進んでいった。
倒れ伏した人々が轍のようにロンのあとに倒れていた。
「一体何が起きてるんだ…!?」
「さあね!」
「とにかくやるだけさ!」
フレッド、ジョージを始めとした不死鳥の騎士団は徐々に闇の魔法使いたちを押し始める。
ネビルたちは何がなんだかわからなかったが、己のうちから沸き立つ筋肉の昂ぶりに身を委ね、戦った。
なんでだろう。力がいくらでも湧いてくる。
ハリーの筋肉に呼応するように、グリフィンドール生たちは雄叫びを上げた。
炎と筋肉により熱気に包まれるホグワーツ。その上空では今まさにハリーとヴォルデモートが命を、いや、筋肉を削って死闘を繰り広げていた。
時間にすれば数十秒。
体感では永遠とも呼べる時の中でふたりの筋肉がぶつかる。
ヴォルデモートの強靭な脚がハリーの上腕を薙ぎ払う。ハリーは咄嗟に筋肉に力を込め、その攻撃のダメージをそのまま返そうとする。しかし相手とてそれは同じ。
筋肉と筋肉。より強靭な方が勝つ。
叩き続けて壊れないものはない。
しかし、このままでは…!
ハリーはヴォルデモートの貧弱な上半身を狙う。しかし相手も同じ考えに至ったらしい。お互いがお互いの急所を狙い続け、的確に受け続けなければいけない。
ハリーは呼吸すら忘れて、全てを己の拳にかける。
振りかぶりヴォルデモートの弱々しい頭蓋を砕こうとした時だった。
ヴォルデモートのすぐ後ろに、長年過ごした懐かしのグリフィンドール塔があった。
ああ…僕、こんな時に思い出すなんて
走馬灯のように体を駆け抜ける郷愁の念に、ハリーの張り詰めた緊張が一瞬ほぐれた。
ほんのちょっとの隙だった。ヴォルデモートはそれを見逃さず、すかさず足を叩き込んだ。
いくら強靭な鎧でも、全てがカチコチに硬くては身動きは取れない。
ハリーの上半身で唯一内臓に届き得る部位、脇にヴォルデモートの大木のような脚がめり込んだ。
落雷のようにあたり一面が白く光った。
ハリーが全身を襲う激しい痛みにはっと我に返ると、自分が吹き飛ばされて校舎にめり込んだらしいことを理解した。
このままじゃ負ける…!
倒壊していく天文塔に膝をついて、上に広がる暗闇と下で瞬く仲間たちの光をみた。
負けるな。
仲間のために、死んだ両親のために。そして己自身のために。
信じろ、自分を。
筋肉を。
トレーニングの日々を。
飛来するヴォルデモートを見据え、ハリーは大きく息を吸った。
自身のつま先がハリーの脇をえぐり筋肉の下にある肉をついたとき、ヴォルデモートは勝利を確信した。肩の関節は粉砕し、筋肉はクズ肉と化しただろう。
目には目を、ならぬ筋肉には筋肉を。この対策は正しかった。
そして、自分の魔力とニワトコの杖を使えば最強の肉体を手に入れることができるのも想像通り。
ハリーが塔につっこんだ。
崩落する瓦礫がスローモーションで下へ落ちていく。
人ならざるものに堕ちてまでここまで戦ってきた。それもこれで終わりだ。
永かった。
まさか自身が魔力ではなく最終的に筋肉で仇敵を葬ることになるとは。かつての自分が見たら笑うだろう。
そんな子どもの俺様に俺様はこういうのさ。
体も鍛えておけよ、と。
随分長い跳躍の果て、大穴の向こうにハリー・ポッターの姿が見えた。
ヴォルデモートはとどめを刺そうと脚を振り上げた。
ハリーの強靭な上半身。それは当然インナーマッスルにも言える。
筋肉は鎧。しかし内臓もまた鋼。
燃えたぎる内熱機関はそれだけでまた武器足り得る。
ハリーは雄叫びをあげた。
人間離れした肉体は肺活量の限界を超えて空気を放った。空気は、重いのだ。
爆発と見紛うほどの、空気の圧縮と解放。
それは確実にヴォルデモートの身体を引き裂いた。
空砲に全身を叩き潰され、ヴォルデモートは一直線に地面に落ちた。
細胞一つ一つがぶちりと潰れ、拉げる感覚を脳にぶちまけられ、全身が叩き付けられる。
しかしそれでもヴォルデモートはかろうじて生きていた。
鍛え上げてきた下半身が緩衝材となり彼の命を救ったのだ。筋肉は時に人を打ち砕き、また時には優しく包むのだ。
息も絶え絶えのヴォルデモートのもとにハリーが飛来した。
敗北…。 負け?
この俺様が?
筋肉…。
死ぬ…。
なぜ 魔法使いの血が。
いやだ。
筋肉に
負けるのか…?
「…諦めろ」
ハリーはヴォルデモートを憐れむような瞳で見下ろしていた。その宣告は慈愛に満ちており、それがなおさらヴォルデモートに背筋が凍るほどの憎しみと屈辱を味合わせた。
「殺せ…」
それしか言えなかった。
心までは折れていない。しかしもうどうしようもなかった。
負けたくない。
負けたくない。
「僕はお前を絶対に許さないしみんなも許さない。でもお前と拳を交えた瞬間…僕は……」
ハリーはヴォルデモートに蹴られた部分をそっとなでた。
「筋肉でなら、お前ともわかりあえるかもしれないと、思ってしまった…」
筋肉への惜しみない愛、賞賛。
筋肉のグリフィンドールの名に恥じぬ純粋な感情がハリーの胸から溢れていつの間にか頬を伝っていた。
「投降しろ」
ヴォルデモートはたった今、心でも負けた。
完全敗北…。
そのことを理解し、ヴォルデモートはがっくりと頭を垂れた。
そして数秒おいて
「く…くくくくく!」
笑い出す。先程までの空気を塗りつぶすような不吉な笑い声だった。
集まってきた人々がざわめく。
「馬鹿げた話だハリー・ポッター。俺様とお前が分かり合える?」
ヴォルデモートはギラギラと血の色に輝く目を見開き、ハリーを射殺さんとばかりに見た。
凍りつくような情念の眼差し。
ゾットするほど深い瞳の赤。
死…
「天は俺様に味方した!」
ハリーはその瞳に魅入ってしまい反応が遅れる。ヴォルデモートが一体何を持っているのかわかった時は、すでに死の呪文がハリーの心臓を貫いたあとだった。
ハーマイオニーの悲鳴が空いっぱいにこだました。