半端者   作:ろあ

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梯子の話

「愚図。代われ」

 

 少年は兄に頬を殴られた。

 平安京の一角、貴族屋敷の土倉前にて、二人の少年が火付け強盗をはたらいている。解錠を任された少年だが、手間取っているうちに見張り役の兄が戻って来た。

 この兄というのは、非常に粗暴な人間だった。少年は親を失ってからというもの兄と二人でこうして生きているが、その関係性は完全に暴力による支配である。兄はいつも少年に危険な役回りを任せ、気分が悪いと殴りつける。食料の配分は不公平で、服や蓑なども同様だ。

 当然、少年は呪縛からの解放を望んだ。しかし一人で生きる自信も無ければ、兄がそれを許すはずも無い。少年はすっかり委縮したまま、すべてが終わるのを待っていた。兄の支配だけではない。飢餓、貧困、身分……不足と不満は上から下へ押しつけられ、皺寄せは兄へ、そして彼へと向かう。最底辺にいる少年は自分を踏みつける世界に対して耳を塞ぎ、口を噤みながら生きていた。

 

「開いたぞ!」

 

 兄の合図とともに、すかさず略奪を始める。迅速に、殴られる前に。 

 織物や刀剣などを背嚢に詰め込むと、二人は蔵を出た。すると、とうとう勘付いた家人たちが追ってくる。

 二人は一目散に逃げだした。逃げている途中、少年は塀に立てかけられた梯子を見つけた。

 「先に行く」と兄。荷物を向こうへ投げ、梯子を上る。少年は兄に荷物を預け、それに続く。

 梯子を上る途中、少年は追手に足を掴まれた。抜け出して、また掴まれて、蹴り返して、また掴まれて。そうこうする間に、追手が集まってくる。

するとそこで、少年は奇妙な浮遊感に包まれた。塀の上に目をやる。するとあろうことか、しびれを切らした兄は梯子を蹴倒し、一人逃げていくところだった。

 追手が殺到する。少年は顔を地に押しつけられながら、兄の去った後の塀の上をじっと見つめていた。

 

 

 

 徒刑三年。獄中での苦痛は筆舌に尽くしがたいものだった。劣悪な食事に、過酷な労働。それだけならまだしも、ここは兄の代わりにさえ事欠かない。いや、ともすればそれ以上だろうか。暴力という残酷な根本原理が、この掃きだめを満たしている。それを認めるのが遅すぎたがために、彼は無抵抗な獲物として指の二本を失った。狡猾と恫喝を覚え、不信と不眠に苛まれ、刑期が終わるともう少年とも呼べない男の顔はすっかり険しくなっていた。

 その後も彼は一人で盗みを続けた。他に生きる術を知らぬ者にとって、後悔も反省も行動とは無関係である。

 男は次の標的を求めて屋敷を覗きまわっていた。するとある武家屋敷で、男は信じられないものを見た。兄である。恐怖に膝が震え、呼吸が止まる。一刻も早く逃げたいという衝動を抑え、男は観察を続けた。

 盗人だったはずの兄、かつて自分を捨てて逃げた兄は、屋敷の奉公人として暮らしていた。衣食住を保障され、貴人の寵愛を受け、美しい女と仲睦まじく話す兄。かつての悪漢はどこへやら、剣の稽古に明け暮れるひたむきな姿は完全に高潔な武士のそれである。男が獄中で生き地獄を味わっている間に、兄はこれほどの幸せを手にしていたのだ。男の中に、黒い感情が込み上げてきた。

 

 

 

 それから数日。既に観察は十分、空腹は限界、怨嗟の念はそれ以上である。然るに男はまだ兄への恐怖と、骨肉の争いへの忌避感によって犯行を躊躇っていた。

 都の外の橋にて一人、物思いにふける男。草原に人影は無く、風だけが薄暮に空しく歌う。男はその中にふと、自分を呼ぶ声を聞いた。

「誰だ?」と問えば、女の声。

 

「私はあなた。あなたの悪意」

 

 「何処だ?」と問えど、姿は無い。

 

「あるいは、救い。あなたの救い。……復讐なさい。それが唯一の救済よ」

 

「そうしたいのは山々だが……踏ん切りがつかん」

 

 アハハハハ、と遠慮のない哄笑。

 

「まさか、じゃああなたは赦すの? あなたを踏み台にしてのうのうと生きるあの男を?」

 

「赦せない。だが復讐は何も生まんとも言う。心が晴れるだけだ」

 

「その心こそ、すべてよ。赦しこそ何も生まないわ。恨みは復讐をもってしか解消し得ず、赦しという作為はこの正当な因果を捻じ曲げているに過ぎない。目には目を。歯には歯を。当然の摂理よ。犬でも殴られれば噛みつくわ」

 

「俺は人だ」

 

 「ええ、そうね」と声は愉しげに言った。

 

「あなたは人の法に裁かれ、責め苦を受けた。でも、これも立派な報復よ。手順が違うだけ。盗んだあなたは盗まれた家主の恨みを鎮め、利害を調停するために罰を受けた」

 

 「くふっ」と漏れるような笑い声。

 

「いいえ、それだけじゃないわ! まったく無関係な、善良な市民。あなたは彼らさえも得心させる必要があった。『自分たちは真っ当に生きているのに、どうしてあいつだけ人の物を盗っていいんだ? 許せない』あなたに石を投げてきた野次馬。奴らは自分に害が無くても、不当に利益を得た者が憎くて仕方ないのよ!」

 

「世のためだろう。まかり通れば、いつか自分にも害が及ぶ」

 

「いいえ、違うわ! 自分に損が無くとも、人間は自分に得られない他人の利益を異常に嫌う。ときにそれは利益の総和より優先されるほどにね。密航者なんていい例よ。乗客が一人増えたって、本当は誰も困らない。にもかかわらず、運賃を払った乗客の不満のために検問が敷かれる。僅かな損害の可能性のために、それ以上の金と手間をかけて。そもそも気付かなければ不満なんて発生しないのにね」

 

 声はとうとう興奮を隠さなくなった。

 

「そう、この嫉妬こそ法の、平等の、人間の本質よ。無関係な他人さえ妬むのが人間。ましてその幸福があなたの不幸と引き換えとなれば、恨まないほうがどうかしてる!」

 

 喜々として謳われる冒涜。男は俯きながら答える。

 

「そうかも知れんな」

 

 では、が続かないのを見ると、声は「ふーん」と、恋人の態度に冷めた女のように言った。

 

「それじゃあ、お望み通り何もかも赦せばいいじゃない。あの男は侍。あなたは盗人。あの男が部屋で眠る間、あなたは軒先で凍える。あの男が兎を追う間、あなたは検非違使に追われる。あの男が笑う間、あなたは苛立つ。でも仕方ない。それが赦せないものを赦すということ」

 

「……」

 

「ああ。それが嫌なら、もっといい方法があるわ。あの男に取り入るのよ。恨みなんて無かったことにして、『務めが終わった。一緒に暮らしたいから、主人に口利きしてくれ』って。晴れてあなたも屋敷の住人。何不自由ない生活ができる。素晴らしいわね。赦しによって、あなたは幸福を得る。あの男と同等の幸福を。二人一緒に、仲良く、一つ屋根の下で、円満な兄弟のように暮らすの。いいわよね、それで。何も不満なんてない。だってもう何もかも、同じなんだから!」

 

「同じなものか!」

 

 男が叫んだ。

 

「同じなものか……」

 

 指の欠けた手を見つめながら、男は繰り返した。

 

「そう、同じじゃない! 同等の幸福を享受し続けても、過去という差は埋まらない! 忘れてどうにかなるものじゃない! 苦しんだという事実は消えない! あなたの体も、心も、もう元には戻らない! 自分が這い上がれないなら、平等にする方法は一つしかないわ。引き摺り下ろすの! 引き裂くの! 引っ掻き回すの! 何もかもすべて! 度を超えたって構わない。それはあなたの怒りの対価。飛び火したって構わない。世界はいつも皺寄せの連続。それはあなたが一番よく知っているでしょう? 憎悪が許す限りの悪逆を! 怨嗟が求める限りの残虐を! あなたが彼を赦せない限り、あなたにはそれが許される!」

 

「それが、救いか?」

 

「ええ、そうよ。約束しましょう。たとえその果てにあるのが途方もない虚しさだとしても、今のあなたを恨みから解放するのはこの真っ黒い救済だけ。安心なさい。あなたは堕ちるんじゃない。既に底にいることを認めるだけ。赦しなんて高尚なものは、最初からここに存在しない」

 

「それしかないのか?」

 

「いくらでもあるわ。でもあなたに届くのは、これ」

 

 少し間を置いて、ぼそりと男が言った。

 

「そうか。ああ、そうだな」

 

 男は既に、水面に映る自分の目が深い緑に染まっていることにすら気がつかなかった。

 

「闇へようこそ。歓迎するわ」

 

 

 

 丑の刻、悪意は仇敵のもとを訪れた。寝静まった屋敷へ忍び込み、男の寝る部屋へとたどり着く。立派な一人部屋の奥には、一振りの刀が大切そうに飾られている。男はこれを盗むついでに、これで寝首を掻いてやろうと決めた。

 静かに剣を抜き放つ。首筋へ刃を這わせようと近づくと、相も変わらず険しい兄の寝顔に男のトラウマが蘇った。

 弟を殴りつけ、蹴り倒し、苦しむ様を見て狼狽えるでもなければ嗤うでもなく、鬱憤の晴れるまで虐待を続ける。改めて思えば、牢獄の陰鬱と狂騒にあてられた囚人どもの中にも一人であれだけの残虐性を見せた者はそういない。この男は一部の、最も恐ろしい連中の同類。境遇などという言葉では説明のつかない破綻者。人の姿をした鬼だ。

 起こしたら最後、きっと殺される。心臓が早鐘のように暴れだした。息を殺そうと努めれば務めるほど、いやな脂汗が浮かんでくる。

 頭の真っ白になった男は刀だけを持ち出し、部屋の外で大きく息を吐いた。

 ひとまず、刀は奪った。この調子で大事なものを奪い尽くして……殺すのは最後だ。あるいは、絶望の中に取り残すのもいいだろう。そう決めると、男は母屋の方へ歩き出した。

 板張りの床の軋まぬよう、足元に全神経を集中させ、歩く。音を隠すのに注力するあまり、男は油断していた。曲がり角を曲がると、不運にも起きだしていた女の前に男はその姿を晒してしまった。

 女が叫ぶ。口封じにも手遅れだが、男はこの女も殺してやろうと思った。女は自分の服を踏んで転んだ。怯える女に、男は刃をぎらつかせながら迫る。

 

「乱暴者!」

 

「ハッ、奴も似たようなものだ」

 

 そのとき「奴」が現れた。男が振り下ろした刃が女に代えて兄を斬る。同時に、兄の拳は男の顎を捕らえ、打ち砕いた。

 痛み。骨が折れ、肉を抉る。たまらずその場に蹲る。

不倶戴天の敵を目の前に、男はあらん限りの呪詛を浴びせようと望んだ。それを紡ぐ術の無い今、眼は射殺さんばかりの殺意で兄を睨みつける。しかし目線がかち合ったとき、なおも立ち上がらんとする兄に男は恐怖した。気付かれてはもう勝ち目がない。屈服を覚えた身体は一歩たりとも前に出なかった。

恐怖を塗りつぶさんと憎悪を募らせていると、ちょうどそのとき周囲に足音が集まってきた。長居はできない。男は瞋恚に震えながらも為し得る最大の復讐を選んだ。その手に握られた一矢。すなわち剣を奪っての逃走である。

 この程度では済まさん。必ずまた現れる。震えて眠れ。捨て台詞を飲み込んだまま、男は闇に姿を消した。

 

 

 

 都を離れて逃げること数日、男は渓谷に差し掛かった。向こうの港で貿易船にでも売り払えば、刀は二度と兄の元へ戻るまい。意趣返しに燃える男だったが、あれからほとんど歩き通しである。吊り橋の手前まで来ると、いい加減疲れが出たのか男は道端に座り込んだ。

 するといつから尾けられていたのか、後ろからやってくる人影。

 

「魂を斬る剣、もらい受けに来た」

 

 黒服の男。背には鎌。紛うことなき死神の姿。

 会話の選択肢はない。沈黙する男の背に死神が寄ると、男は不意に刀を抜き放った。振り向きざまの一刀が顔の真上を掠める。回転するまま二、三と続ける。

 死神は大きく下がり、牽制の一振りを返した。眼前を横切る刃に、男の攻めが止む。一歩踏み込めば、先に相手の間合いだ。

 分が悪いと見た男は即座に逃げに転じた。進路を押さえられてはまずい。その前に、と男は橋へ向かった。

 後ろを振り返ることなく、走る。七分あたりまで来たところ、突如橋はぐらりと揺れ、木板は垂直に傾いた。よもやあの死神、刀を持ったまま落とす気かと思うと、まさしくその通りである。死神が左右の縄を切り終える。一端を失った橋は振り子のように反対の崖へと打ちつけられた。

 男はというと、辛うじて橋の残骸にぶら下がっていた。縄の軋む音が肝を冷やす。落ちれば確実に死ぬ高さだ。とはいえ、もはや敵に追う術は無い。男はゆっくりと、慎重に橋を上りはじめた。

 もう少しで崖の上に出るかというところ、男に影が覆いかぶさった。見ると、崖の上からはあろうことか対岸に置き去りにしたはずの死神がこちらを覗きこんでいる。

 

「回収する」

 

 その言葉とともに死神が手を出すと、刀は鞘と共に消え、死神の手中に現れる。手の塞がった男は、それをただ茫然と眺めていた。

 

「なるほど、口が利けぬか。案ずるな。浄玻璃の鏡は人間の弁明より正確だ」

 

 死神は鎌を持ち上げると、縄に向かって振り下ろした。

 

「では、連行する」

 

 遠ざかる地上の人影に、いつかの兄の姿が重なる。怒り狂う男の叫びは、やがて空谷に消えた。

 




 お前の過去は、俺の今。

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