沈みはじめた太陽が、穏やかな海を赤く染めあげる。桟橋の近くのベンチで、加古と江風が向かい合って座っていた。組んだ足にひじを乗せて唸る江風、木漏れ日に照らし出された盤面から加古の指が離れた。突如自陣に現れた「たたきの歩」に江風は頓狂な声を上げた。
「ンぎゃっ!あんまりいじめないでおくれよ姉御」
泣き面を晒す江風に、加古は白い歯を見せて笑う。
「相手の手駒も見れないようじゃ神通以下だぜ、若造」
盤面を見下ろしながらうんうんと唸る江風の背後から、小柄な少女が顔を覗かせる。加古はその見知った顔に盤面から小さく顔を上げた。
「お疲れ様です。今日は神通さんではないのですね」
初霜は江風の後ろから二人の間の盤面を覗き込む。将棋はわからぬが、二人の表情を見るにどうやら江風の劣勢のようだった。
「神通は今日は『あっち』だ」
加古が親指を突き出して海のほうを指差す。桟橋を挟んで少し離れた海面に、神通が主機だけをつけて浮かんでいる。名取がその側で神通の手を引いていた。
最近初霜はよくこの面子とつるんでいた。いつもはそばにいるはずの日向の姿は今日は見えない。
「訓練ですか」
「初霜はやさしいね。コイツなんかあれを見て水遊びだとぬかしやがった」
江風が盤面を睨み付けていた難しそうな顔を、90度回転させ海のほうへ向ける。一定の回転数で小刻みに足を動かす神通を見て、眉間のしわを一層深く刻み込んだ。
「惨めなもンだぜ『鬼の神通』。トーシローでもあるまいし、華の二水戦が聞いて呆れるぜ」
『鬼の神通』とは水雷屋時代の神通の通り名である。「戦場の華」「水雷の一本槍」「川内型に神通あり」。駆逐艦で神通の名を知らぬ者はいない。華々しい戦果と厳格な性格で『鬼神』とすら恐れられた伝説の巡洋艦。
そんな神通の衝突事故は駆逐艦の間では大きなニュースになった。夜間の無灯火演習中の出来事であった。神通は隊の駆逐艦と接触事故を起こして大怪我を負ったのだ。続けざまに川内型「那珂」も大破し、未曾有の大事故に発展した。
神通と衝突した駆逐艦は不運な事に「主機」を損傷していた。主機は艦娘の足に装着している艤装で、高出力ホバーと遠心力で艦娘を海上に浮かべるおおよそを担っている重要な機関である。
駆逐艦は衝突の衝撃で転倒、沈没。艦娘を海面に浮かべるはずの主機は、皮肉な事にそのまま彼女を沈める重りと化した。神通は衝突の直後に自らの主機を破棄、命令を無視して海中に救助に向かった。一度は艦の引き上げに成功するが、神通本人の損傷と沈没船の重さに耐えかね海中でつないだ手を離してしまう。視界の悪い夜間での事故であった事もあり救助は難航、引き上げ艇が到着したのは事故が発生してから1時間以上も経過した後の事だった。
ゆっくりと海上を滑る神通の後ろ姿を初霜は寂しげに見つめる。その前方で、名取が陸に背を向けて沈む夕日を見つめていた。自分の足元を見ながら航行する神通はそれに気付いていないようだ。二人の距離がぐんと近づき、初霜は思わず声を上げた。
「ぶ、ぶつかりますよ」
「ひゃう!」
そんなに大声を出したつもりはなかったが、神通が悲鳴を上げて飛び上がった。途端に両足のバランスを崩し、ぐらりと上半身が揺れる。悲鳴に気が付いた名取が差し出す腕に、すがるようにしがみついた。名取が神通の肩を抱き、片手で主機を停止させてやる。
思わず口をあける初霜を、加古がたしなめた。
「こら初霜、神通に「ぶつかる」は禁句だ」
「す、すみません」
名取の腕の中の神通は、真っ青な顔で小刻みに震えている。
神通が受けた
彼女が恐れるのは自らが沈む事なのか、それともまた誰かを沈めてしまうかもしれないという強迫観念なのか。いずれにせよ責任感の強い神通だからこそ、こんなにも深く強い恐怖が根付いてしまっているのだろう。
「なっさけないねえ軽巡。旦那だってまだ演習の傷が癒えてないのに出撃してるってのに」
江風がボヤく。その言葉通り、日向は今日の午前中から攻勢作戦に参加していた。彼女としては実に9ヶ月ぶりの出撃になる。
「ま、旦那本人が納得してる訳じゃないだろうがね。あれもあれで複雑なんだろう」
加古が夕日に目を細めながらつぶやく。
今回の作戦、日向は航空戦艦では無く通常の戦艦として登録している。飛行部隊は搭載せずに、偵察用の瑞雲を数機同行しているだけの普通の戦艦だ。航空戦艦としての運用では無く、昨今の戦艦不足の補充要因としての人選であった。
「今は仕方ありません」
ベンチに腰を下ろした初霜が強い口調で話す。
軍はまだ日向一人の「航空戦艦」という艦種を認めていない。明確な運用方法の確立されていない航空戦艦をやすやすと戦略に組み込んだりはしないだろう。発艦時の足止めも、器用貧乏な攻撃力不足も、それを補って余りあるリターンがあると戦術的にも証明できていない。初霜は
「日向様はきっと戦艦の新時代を切り開いてくださいます」
真剣な顔の初霜を余所に、江風はちらと隣に座る加古へ視線を送る。加古はそれに気が付いていたが、大して興味が無いのかただ水平線を見つめていた。
「前から聞きたかったけど、二人はどういう関係なンさ?」
江風の素直すぎる質問に、加古はわざとらしく眉をひそめた。初霜はそれを特別意識した様子も無く答える。
「初霜は、日向様を尊敬しております」
「答えンなってねぇじゃンか」
「江の字」
向けられた加古の視線は「つまらない事聞くな」とたしなめられているようで、江風は肩をすくめた。面白くなさそうに将棋の駒を手で弄んでいると、高く響く喇叭の音にその場にいた全員が顔を上げた。
「日向様が戻られました!」
喇叭が鳴り止まぬ間に初霜は立ち上がる。
誰よりも先に駆け出していくその背中を、江風は実につまらなそうに見送った。