『アンタは「特別な人間」でも「呪われた人間」でも、ましてや「存在しちゃいけない人間」なんかじゃない』
「私は…人間じゃない」
『アンタは艦娘。特別なんかじゃない、普通の、ごく一般的な、ただの艦娘』
「私は…艦娘」
『アンタの存在はアタシが肯定したげる。アタシの所に来てくれてありがとう「古鷹」』
「私は、古鷹型一番艦「古鷹」なんだ…」
朦朧とした頭でうわ言のように繰り返す。自分に向けられた訳でもないそれを、松崎は冷酷に否定した。
「残念ながら、貴女は「人間」です」
「違うっ!」
弾かれたように古鷹が飛ぶ。2mほどあった二人の距離が一気に縮まった。拳と拳が衝突する。二人とも地に足をつけたまま、高速の拳撃の応酬を繰り返した。
これまでの戦いが嘘のような素直で稚拙な殴り合い。目尻を濡らしながら怒りを露わにする古鷹に、松崎は細い目をさらに細めた。
(怒りを素直に力に変換できるほど器用では無い様ですね…)
今の古鷹の拳はスピードこそあれ、先ほどまでの正確な攻撃からは程遠い。ただ怒りに任せただけの拳の嵐は、これまでの古鷹の動きを見てきた松崎にとってまさに子供のケンカであった。
拳撃の隙間を縫い、体軸を縦にずらす。標的を逃して大きく軌道が逸れた拳を、手首の上から掴み取った。上から抑え込み、動きを封じる。そのまま、手首の動脈の上に両の親指を突き刺した。
「ああああああっ!」
悲鳴を上げ、全身の力が抜け落ちる。松崎はすばやく指を半回転させ、手首の骨の内側に爪の先端を引っ掛けて固定した。滝の様に流れる血が、二人の足元に濁った水たまりを作る。急激な失血に古鷹の足ががくがくと震え始めた。
おえつを漏らしながら脱力し、うなだれる。ずるずると崩れ落ちる様に松崎にもたれかかり、そのまま低い唸り声をあげて松崎のわき腹に噛み付いた。それは死を覚悟した番犬の最後の悪あがきであった。
「貴女は殺しません。丁嵐にとっては貴重な証人になりますから」
松崎が不気味なほど穏やかな声で告げる。服の上から食いついた獣は、歯を突き立てながら荒い鼻息で返事するだけだ。
「古鷹さん、もうやめましょう」
掴んでいた手首を解放してやる。重力に従ってだらんと垂れる腕に、松崎の指だけが垂直に突き刺さっていた。
「・・・」
松崎が指に力を込める。骨の隙間に爪がかかっているのか、指はなかなか抜けない。松崎はため息をついて、古鷹に聞こえるように屈みながら囁いた。
「ふる…」
戦慄
わき腹に喰らい付く古鷹のその左目の輝きは、まさに獲物の喉元へ喰らい付いた猛獣のそれであった。
全身の寒気と共に気づく。自分は今古鷹に両手を「固定」されていた。逃げる事も出来ない。わき腹が熱く熱を持つ。首の裏側から、粘っこい脂汗が噴き出した。
服の上からでも食い込んだ歯の感触が感じられる。滲み出した唾液に軍服が濡れる。両手を振り払うが、さっきまでの脱力が嘘の様に古鷹の腕はビクともしない。
すぐに逃げなければ。
しかし、思考はそこで止まってしまう。
明確な「痛み」が無いせいで、「逃げのスイッチ」が入りきらない。だがそれが来てからでは遅いのだと、頭の中は警笛を鳴らし続けている。
しかし無情にも「それ」は訪れた。
わき腹に僅かな痺れ。傷口から徐々に広がっていく小さな痙攣。それは瞬く間に「痛み」にすり替わった。叫び出したくなるような激痛が脳を支配した。
「あぐっ…」
両手を僅かに広げるが、親指は動かない。頭を下げて自分も歯を剥き出すが、古鷹を捕まえるにはその長身が災いしていた。わき腹の痛みは全身に広がり、脂汗は血の代わりだと言わんばかりに全身を濡らしていた。
いや…。
代わりはいらなかった。
松崎の口の端から血の筋が垂れる。ぽたりと滴り、古鷹の髪の中に落ちて見えなくなった。口の中はすでに行き場を失った血液で溢れかえっていた。
「ごふ」
腹の中で風船が破裂した。胃の内容量を超えた血の濁流が、口の端よりみるみる溢れ出す。びちゃびちゃと床を濡らす血の色は、闇を吐きだしたかのように黒く濁っていた。内臓の中に溜まっている古い血は墨のように黒い、そう嘗ての戦友から聞いた事がある。
ぶるぶると肩が震えだす。思考がまとまらない。死ぬ。死ぬ。死ぬ。これは死ぬ。
「おおよ、ごぽ」
自分の血で溺れていた。鼻孔が酸素を求めて大きく広がった。
ぼきんと音がして松崎の手が離れる。握った拳の中で親指だけが関節とは逆方向にねじ曲がっていた。
ごつんと古鷹の頭を殴る。古鷹は動かない。松崎の手が再び振り下ろされる。古鷹は動かない。無機質に振り下ろされ続ける握り拳は、バネの壊れた歪な肉の玩具のように、醜悪でおぞましかった。
これが「戦い」の本質。戦いの美学、美しき闘争、行き着く先は「殺す肉」だ。両者は殺し合う肉塊であった。
松崎は血を吐きながら古鷹の頭を殴り続ける。古鷹はほとんど意識を失いながらも、突き立てた牙を深く肉に食い込ませ続けた。
・・・・・・・・・
ゼンマイの壊れたおもちゃと化した二人を見て、駆け付けた大淀は胃の中の物を全て吐き出した。
絶叫と苦痛、肉塊と殺意、血だまりと死。
男は濁流の如き吐血を繰り返し、わき腹に喰らい付いた少女は白目をむいて歯を食いしばっている。あたりを埋め尽くす血だまりの中には、髪の毛がこびりついた頭皮の欠片が至る所に散乱していた。
地獄絵図と化した廊下の真ん中で、大淀は声にならない悲鳴を上げ続けた。まるで見えない何かに刃を突き付けられているかのよう。ただ一心に、けたたましく、高く、苦しく、永遠に続くかとすら思われる阿鼻叫喚の協奏。
その中を裂く、鋭い銃声が響いた。
ぶ厚い眼鏡の奥の瞳は、止めどなく涙を押し出しながらも、強い意志に後押しされていた。細い指が再度引き金を引く。甲高い銃声に遅れて、古鷹の肩に二つ目の穴が開いた。ぐらりと上体が崩れ、血だまりに水しぶきが上がった。
広がった髪に血が染み込んでいく。その様を直視し、大淀は再度逆流する胃液と戦った。銃を握る手は小刻みに震えていた。
古鷹は血の海に沈みながら、全身を覆う鉄の匂いをかいでいた。薄れゆく意識の中で、死を強く感じる。目を瞑り、ゆっくりと眠りにつくかの如く、その呼吸を止めた。