更衣室を出たわたしは、最早日常的になりつつある木崎さんに先導される形で、リツコさんの研究室へ。
『在室』のプレートを確認すれば、部屋の前で待機していると言う彼とは別れ、二度のノックの後、入っての声を受けて中へ。
扉を潜れば相変わらずの装いが視界に映ります。デスク回りだけが散らかっていて、他は程々に綺麗――とは言っても、わたしは綺麗好きな部類に当たるので、ミサトさんが見れば『凄く綺麗ね』なんて言われるでしょう。物はきちんと整理されているのですが、何処かしらに埃が残っていて、ピカピカにしているという風ではない感じです。つまるところ、『片付けられている』程度で、『掃除している』という事ではありません。というか、先日
そのリツコさんは、入ってきたわたしに目もくれず、シャーカステンの前のごちゃごちゃとしたデスクで、パソコンに向かい合っていました。ヘビースモーカーの彼女にしては珍しく、現在煙草は吸っていないようです。しかしながらわたしの鼻腔を
「適当に楽にしていて頂戴」
わたしに背を向けたままそう言って、パソコンを忙しなく操作するリツコさん。大方やりかけている仕事のキリが悪いのでしょう。その証拠に彼女の指は目にも留まらない速さでキーボードを叩いています。
小声で返事をしながら、こっそりとパソコンのディスプレイを横目に見てみます。そのまま悪びれる事も無く覗きつつ、リツコさんの後ろにある丸椅子へ向かいました。
ディスプレイの真ん中を陣取るウィンドウの背景は真っ黒。そこには白い英文字の羅列がずらり。
おそらく何かのプログラミングをやっているのでしょうが……残念。リツコさんのタイピング速度が尋常じゃないので、英文が自然体で読める程のバイリンガルではないわたしには読めません。一番下の文章を脳内で例文と照らし合わせる頃には、上に消えていっていますから。いや、それにしても……見慣れてはきたものの、リツコさんのタイピングって本当に芸術的です。指は見えないし音はずっと続いていて詰まる事さえ無いようだし、更に打ち間違う事も無いようだし……凄い。こうしてただただボーっと見詰めていても、『あまりの速さに感動してました』の言い訳で済むんじゃないでしょうか。っていうかそれくらいの事を日常的に言われていそうです。
「ふう」
やがてパチンと音を立てて、エンターキーを押したリツコさん。その後それを保存して、メモリースティックの接続を解除し、抜き取ります。結局傍から見ていて、何のプログラミングをしていたのかは分かりませんでした。
そのメモリースティックを白衣のポケットに入れて、彼女は椅子ごとくるりと回転。こちらを振り返ってきます。
「お待たせ。悪いわね、毎度待たせて」
「いえ、やっぱ凄いタイピングだなーって見とれてました」
疲れたような笑みを浮かべるリツコさんに、わたしは考えていた言い訳をさらりと述べてみます。すると彼女は首を横に振って、「お上手ね」と、呆れた風な表情で返してきました。
どうやら此処最近のお茶会で、わたしの媚び
リツコさんはゆっくりと立ち上がります。
肩を回しつつ、紅茶か珈琲かと尋ねてきました。
勿論、甘々のオレで。
今日のシンクロテストの結果。
そしてそれを基にしたこれからやるべき意識改革――って言うと凄く仰々しいけど――と、その方針。
どうやらわたしは集中力が足りていないようで、エヴァの操縦一つだけに陶酔する程の集中をしなければ、今日以上のシンクロ率は見込めないそうです。具体的には、回線を繋いでいても音が耳に入らないぐらいでないとダメらしいです。
そんなものを話し終えた頃にはマヤさんも合流して、
「わたしは……そうだなぁ。キラキラした綺麗なコーディネートより、シックで落ち着いた服装に憧れるかな」
両手で持ったカップに息を吹きかけながら、そう言って微笑む伊吹マヤさん。
服装はネルフの士官用の制服ですが、今は休憩よろしくなので畏まった言葉遣いもありません。
黒いショートカットの似合う清楚なお姉さん。というものがわたしの中での印象です。少しばかり潔癖のきらいがあるものの、ネルフ職員の中では割りと年が近い事もあって話し易い人。
普段はオペレーターとして働いている技術部所属の二尉ですが、リツコさんの直属の部下だという事もあって、こうしてわたしのカウンセリングを手伝って? くれているそうです。まあ、おそらく年が近い人が居た方がわたしの心の負担が少ないとか、そんな感じのリツコさんなりの配慮だと思います。
とはいえ形式ばっかりカウンセラーのお手伝いという訳ではなく、ヒカリちゃんが第壱中学校の良心なら、ネルフの良心はマヤさんだと思う程に、わたしが心を許せている相手です。実際、プラグスーツの事をリツコさんに相談した時に彼女が一緒に居て、『男って不潔よね!』と凄く同意してくれましたし。
リツコさんとマヤさんとわたし。
三人で向かいあって、椅子に腰掛けながら珈琲を飲みつつの一時。
今の話題は服装についてですが、そろそろだと見計らったわたしは、「そういえば」の言葉で不躾に話の腰を折りました。どうかしたのとの言葉と共に視線を向けてくる二人に頷いて返し、気になっていたと頭打って話し始めます。
「第三使徒が来た時って街一つ吹っ飛んだと思いますけど、あれ以外に被害……明確に言えば、わたしが格納庫に居た時の地震とかって、どうだったんですか?」
そして目的だった鈴原くんの妹の被害を予想する為に、話を誘導します。
マヤさんは唇に人差し指を当て、天井を見上げ、何かを思い起こそうとしているようでした。が、その様子をちらりと見たリツコさんが首を横に振り、彼女より早く唇を開きます。
「シェルター内部で壁が崩れたとか、誰それが転倒したという話ならば一〇〇件を超える被害が挙がっているわ。まあそれが元で重傷とされる患者の数は二十余といったところの筈だけれど」
「……よく覚えてますね。先輩」
「挙がってきている報告にはきちんと目を通すもの……誰かさんとは違って」
リツコさんはそう言って、椅子のキャスターを転がして三人で組んでいた輪を崩します。そのままデスクの方へ向かって、煙草を一本咥えました。そのままライターでカチリと火を点けて、咥え煙草に。更に書類を取り上げて、こちらへ投げて寄越しました。
「貴女のクラスメイトに被害者はいなかった筈だけど……その身内までは分からないわ」
そして彼女はそう述べます。
核心を突いた言葉に思わず「へ?」と言葉を漏らして、落とした視線を上げてみれば、彼女はしてやったり顔で肩を竦めていました。
「悪い方に取らないで頂戴ね? ただ、貴女の性格を考えれば、人の事を心配するよりも、自分に降りかかる火の粉の理由を知りたがると思ったのよ。……違ったかしら?」
「ああ、成る程。確かに先の使徒の被害って公になってないから、レンちゃんが逆恨みされていて不思議じゃないですもんね」
飄々とした態度で続けるリツコさんと、たったこれだけの会話で本懐を理解するマヤさん。
やだ。頭良い人って怖い。
しかしながら、不名誉な言われ方こそされましたが、殆んど正解です。わたしは苦笑いと共に頷いて返しました。
「鈴原くんって言うんですけど……使徒が来た日から学校を休んでるらしいんです。普通に考えて使徒の所為でしょうし、転校のタイミング的にわたしが関わってるのは暗黙の了解でしょうし――なら、何か言われても可笑しくないですから」
「……随分心配症ね? でも鈴原という姓には見覚えがあるわ。ネルフ職員の身内の筈だから、ファイルの手前の方にあるわよ」
「分かりました」
怪訝な風のリツコさんですが、わたしの用意の良さは、此処への移住の際に手続きの殆んどが済んでいたという前例があります。それを思い起こしてか、そうでないのか、あまり深くは聞かれませんでした。大方『狡猾』だとか、『用意周到』だとか、あまり褒め言葉にならない印象の切っ掛けでも思い出されている事でしょう。
隣から覗き込んでくるマヤさんと共に、ページを捲って確認していきます。
すると――ありました。
鈴原サクラ。
生年月日等の詳しい情報は空欄のままでしたが、年齢の欄には『八歳』との記載。状態としては意識不明と書かれていて、被害を負った際の状況が事細やかに書いてありました。そこを見る限りは……どうやらわたしは彼女の怪我の原因ではありません。
小学生の女の子が怪我をして入院している事に対して同情する気持ちはありますし、同じく何度か入院した事がある者としては思うところもある訳ですが、それは兎も角として――とりあえずわたしの潔白は証明されています。問題はこれを鈴原くん本人にどうやって説明し、どうやって信憑性を主張し、どうやって理解を求めるに至るか……ですね。
ふうと一息。
ありがとうございますと丁寧な言葉を添えて、立ち上がってリツコさんの下へ書類を返却します。それを受け取った彼女は、呆れたように肩を竦めて、唇を開きました。
「それで、どうするつもり?」
「うーん……」
具体的な案が出ないうちにそれを問われて、わたしは視線を逸らします。
煮え返らないどころか、煮えてさえいないわたしの様子に思うところがあるのか、リツコさんは溜め息をひとつ。
「中途半端は良くないわね。事前準備をしておくのなら一二〇パーセントの用意をして、八〇パーセントを発揮するものよ。そうでないと足を掬われるわ」
そんな何処かで聞いたような事に、持論を付け加えた助言を貰いました。
言われた事を反芻。
そして成る程と理解します。
どの事例を以って、わたしが中途半端な準備しかしないと踏んだかは分かりませんが、自分で見詰め直すだけでいくつもの例を思い起こせます。……特に
とはいえ言われた事に少しばかり疑問もあって、わたしは小首を傾げて返します。
「八〇パーセントってのは、何でですか?」
この返事はリツコさんが予想していた通りの返しだったのでしょう。
彼女は薄く笑って、やはり肩を竦めて返して来ました。
「運と、相手が人間だからよ」
リツコさんはブラックの珈琲をごくりと一口。
そしてわたしを一瞥した後にマヤさんへ視線を向けて、再度微笑みます。
「……例えばマヤが相手なら、貴女の考えた通りに物事が運べないと思うわ」
「わたし、ですか?」
「マヤさん?」
リツコさんの言葉に、マヤさんとわたしが揃って小首を傾げます。
しかし彼女は首を横に。
理由は教えないと、暗にそう言われました。
だけどそんな思わせぶりな態度は、わたしに『考えろ』と言っているのだと思います。その態度に促されるようにして、わたしは自分の唇に空いていた右手を当てて、しばし俯きました。
わたしがマヤさんならば思い通りの事を出来ない。
状況的、逆説的に見て、リツコさんが相手ならば思い通りに出来るという事でしょう。
二人の違いは一杯ありますが……強いて言うならマヤさんは優しくて、リツコさんは厳しい。
優しい人が相手ならば思い通りにいかない。
うーん……何か違う気がする。
マヤさん……じゃなくて、似た人としてヒカリちゃんなら?
例えば、相田くんにしたみたいに、ヒカリちゃんの椅子に悪戯は出来ないよね。そんな事をしたら罪悪感で軽く死んじゃいそう。これが理由……だとは思えないけど、でも傷付けちゃいそうで出来ないって事は当たらずと遠からずだと思えます。それなら納得出来る気がする。
別にリツコさんなら傷付けても良いって考えている訳ではありませんが。
「……まあ」
頃合を見計らったように、リツコさんが言葉を漏らします。
視線をやれば、彼女はカップを持たない手で自らの肩を揉みつつ、首を左右に傾けていました。肩が凝るのでしょう。色んな意味で。
「何にせよ、事前準備をする事は別に悪い行いじゃないわ。だけど中途半端にしか下準備をしていなければ、それを発揮したい心が相手を逆に傷付けてしまう事もある。……用意が出来ないなら、しない方が得策な事だってあるわ。わたしが言いたいのはそういう事よ」
説教臭くてごめんなさいね。
最後にそう付け加えて、リツコさんは話を締めました。
やはり当たらずと言えど遠からず。
わたしの中では若干ベクトルがズレているような気がしないでも無いのですが、何となく為になるようなお話でした。
暗に、論破するだけが解決策じゃない。
恨まれておいた方が、やりやすくなる事もある。
そう言われた気がするのですが……これは流石に深読みのしすぎでしょうか。
「あ、そうそう……。貴女にプレゼントを用意したんだったわ」
カウンセリングに当てられた時間も残り僅か。
そんな頃合で、今日の締めと言わんばかりに、リツコさんは拍手を打ちました。
うん?
プレゼント?