1.She vomited lie.
『諦めなければ、努力は必ず報われる』という言葉があります。
それだけ聞けば、何とも倫理的で美しい言葉です。しかしその言葉の本質と言えば、何処か宗教的な意味合いが強く、物事を継続して行う為の自己暗示の一種のように思うのです。『実る』ではなく、『報われる』と言っている点から分かるように、必ずしも望んだ形で果たされる訳ではない。わたしにはそう見えてしまいます。先人は上手く言ったものですね。
対して、『人間、諦めが肝心』という言葉もあります。
必ずしも望んだ形で果たされる訳ではない努力。ならば、自分に合っていないと分かった時点で早々に手を引き、もっと自分の身の丈に合った事を努力しよう。そうすれば望んだ結果が待っているかもしれない。
相反する二つの言葉ですが、ひねくれ者のわたしには、どうしてもそう見えてしまうのでした。
つまるところ、やらねばならない努力は、必死になってやります。人類補完計画の阻止や、使徒の殲滅といった事は、多少自分にとって最良の形ではなくとも、本懐さえ果たせれば良いと思っています。しかしながら、自分が生きていくにあたって、あまり重要ではない事に心血を注ぐのは、些かナンセンスにも思う訳です。そんな事をやるくらいなら、数式の一つでも覚えた方がまだマシというもの。
「でも、二五メートル泳げないと……補習だよ?」
ぎらつく太陽の下。
茶色の髪を白くてダサい帽子に収め、苦笑とよく似た表情を浮かべているヒカリちゃん。何の洒落っ気もない紺色のスクール水着はしっとりと濡れていて、剥きだしの四肢には透明な雫が幾つも付いています。
体育座りをしているわたしを、前屈みになって見下ろすその姿は、同年代女子と比べてスレンダーであるにもかかわらず、何処か艶やかにも見えました。
辺りでは黄色い奇声が飛び交っています。
それは等しく、この炎天下の下、水に浸れる事を喜びあっているかのよう。無遠慮な視線を寄越す筈の男子達が、グラウンドで野球をやっている事もポイントでしょうか。女の子だけの空間というのは、放っておいても騒がしくなるものです。
ああ、空が青い……。
あの空を映すだけのプールに浸る事なんて、何が心地好いと言うのか。いいや、そこに価値等ある訳が無い。あって堪るものか。全ては空を見詰めていれば良いんだ……。
「現実逃避しないで?」
無粋な言葉が思考を断つ。
思わずげんなりとしながら視線を降ろせば、ヒカリちゃんがじと目になっていました。その目は正しく『早く泳ぎなさいよ』と言いたげ。
わたしは両手を肩の高さに上げて、首を横に。
有り得ない。言葉に直す事もせず、態度で訴えました。
小さな溜め息。
ヒカリちゃんは肩を落として、「もう……」と小さく零します。そしてやおら振り返って、わたしが佇む隅っこから、およそ対極の位置に当たる方向を指差しました。その先には、フェンスに背を預けて、体育座りをしている空色の髪をした女の子。
少し前まで彼女の特徴だった包帯は全て取れ、今は日に焼けたことが無さそうな真っ白の素肌を顕にしています。しかし、彼女もまた、ヒカリちゃんと同じく、水に濡れていました。
課題が出されるや否や、いの一番にプールへ飛び込んで、誰よりも早く二五メートルを泳ぎきった彼女。今は何を考えているのか読めない表情で、プールで泳ぐクラスメイトを見詰めています。
「綾波さんはちゃんと泳いでたわよ? なのにどうしてレンが泳いでくれないの」
少し前とは異なった呼び方で叱りつけてくるヒカリちゃん。
わたしはその本懐を気にも留めず、『ああ、やっと呼び方が浸透したなー』なんて考えます。だって、それを考えたら泳がないといけなくなっちゃうから。真面目そうに見えて、綾波ちゃんは課題に対して『何故?』とぼやくような子だとか、わたしが補修になるとクラス委員のヒカリちゃんに迷惑をかけてしまうだなんて考えたら、いよいよ泳がないと友達甲斐がなくなってしまうから。
ああ、空が青い。
雲が白くて、わたあめみたい。
どうせ旧季節の夏をイメージするのなら、夏祭りってやつが良かったなぁ。水着じゃなくて、着物が着たかったよ……。
「だーかーらーっ! 何でそんな風に無視するのよっ!」
あ、いよいよヒカリちゃんが怒りはじめた。
流石に怒らせるのは不本意です。
わたしは溜め息混じりに肩を落とし、そっぽへ視線を逸らします。小さく唇を開いて、顔を赤らめているヒカリちゃんを横目にちらり。
「……察して?」
「泳げないのは分かってるわよ! 前も、その前も、水泳の授業エスケープしてたもの。分かるわよ!」
ヒカリちゃんはついに声を荒げて、軽く地団太を踏みました。
いやはや、何が第壱中学校最後の良心を此処までさせるのでしょうか。
しかしながら、一つ訂正せねばなりません。
わたしは彼女に向かって、素早く右手を差し出して、制止するよう求めました。
「泳げないんじゃない。泳いだことがないだけよ」
「それを世間では泳げないって言うの!」
「否。断じて否。泳ごうと思えばきっと泳げる。泳ぐ気がこれーっぽっちも起きないだけだっ」
尚も憤慨そうに声を荒げるヒカリちゃんに、わたしも些かムッとして返します。
わたしの身体能力は割りと良い方です。胸が大きいので走る事こそ難しいものの、身体は柔らかいし、力も女子の中ではある方。普段からネルフで訓練をしているので、木崎さん直伝の格闘技に関しては自信もあります。
おまけにシンジくんの記憶もあり、彼は泳げていた。あの動きをトレースすれば、ちゃんと泳げる筈。
わたしの意図を何処まで察したのか、ヒカリちゃんは更にぶすっと膨れます。
じゃあ何で泳ぐ気が起きないのか――と聞いてこないのは、わたしが体育座りをする事によって、周囲の視線から隠している剥き出しの左腕に配慮しての事でしょう。これまでわたしが水泳の授業を色んな言い訳でエスケープした理由は、事実これが原因です。というか、小学校の時からそうでした。
「じゃあ、何で……」
ヒカリちゃんは不服そうに、わたしが此処に居る理由を尋ねます。
わたしは深い溜め息をついて、顔を膝に埋めました。
今になって、何故わたしは、ヒカリちゃんと同じくダサい帽子を被り、何の洒落っ気もないスクール水着を着ているのか――それは、つい昨日の出来事でした。
ようやっと第四使徒戦の事後処理が終わり、落ち着いた時間を過ごせるようになったミサトさん。
わたしが渡した『碇シンジ・THE・激動の一年』も漸くにして読み終わり、これに関する細かな質問を受ける事も多くなっていました。まあ、その殆んどはやれ『碇シンジは誰が好きだったのか』とか、『大人のキスの感想は』とか、くだらないものでしたが……。
しかし、ふとある事に気が付いたらしいミサトさん。
食後の一時、木崎さんが隣の仮住まいに帰って、そろそろ就寝準備をしようかという頃合。彼女はおもむろに「そういや」と切り出したのです。
「レンちゃん。貴女……水泳の授業をサボってるって、学校から連絡あったんだけど」
「ふぇ!?」
思わぬ言葉に、わたしは素っ頓狂な声を上げて、びくりと肩を跳ねさせました。それこそ手元の紅茶をひっくり返してしまいそうになる程、予想外でした。
すぐに胸の内を焦燥感に似た何かが駆け巡り、わたしは視線を逸らして「ああ、えっと……あー、水泳ですね。ああー、すいえーですかー」と、誤魔化しにならない誤魔化しをします。
するとそんなわたしの心境を察したように、くすりと笑うミサトさん。「あのねえ……」と、呆れたような苦笑を浮かべていました。
「ただでさえ訓練と出撃で単位足りないんだから、ちゃんと出てくれないと……むしろ、ほら……この『第六使徒』とか海に出てきてるじゃない。泳げないと困るかもしれないわ?」
「お、泳ぐことは出来ます。出来ますとも! た……多分……おそらく……きっと……」
消え入りそうな語尾と共に、わたしは視線を伏せます。
その頭に、ぽんと手が置かれたかと思えば、わしゃわしゃと撫でられました。思わぬ所業に「ひゃあ」と声を上げて改まれば、ミサトさんは慈愛深げに微笑んでいました。
「苦手は克服しなくちゃ。自動車の件も含めて……ね?」
そして、地獄に突き落とされた訳です。
「とか言ってたのに、結局泳がなかったじゃないの!」
授業を終え、更衣室にて。
ヒカリちゃんは水着姿のまま、両手を振って、抗議してきます。
対するわたしはそしらぬ顔で、「仕方無い。時期ではなかったのだ」と、大して濡れちゃいない水着の肩紐を下ろします。
あの後、ヒカリちゃんが幾ら促してこようと、教師に注意されようと、頑なに水へ入らなかったわたし。
流石に目立ちすぎていたらしく、他の女子から『泳げないんだ』とか、『えー、意外ー』とか、言われていたような気がしますが、気にしません。わたしは泳がないだけで、泳げる筈ですから。
ミサトさんには悪いけど、第六使徒もアスカが上手い事倒してくれると思うから、大丈夫、大丈夫。
「はぁ……おかげでわたしまで出席しなくちゃだよ……」
肩を落とすヒカリちゃん。
気だるげに肩紐を下ろす姿は、実に哀愁が漂っています。
どうもわたしが素行不良――主に自殺未遂の件で――な所為で、指導役に抜擢されていたらしいです。まあ、授業を大して聞きもせず、なのにすらすらと問題を解いてしまうわたし。普段は指導する必要が無いからこそ、こういう状況に陥ると、細心の注意を払わざるを得ないのでしょう。そこへわたしの交友関係を用いるというのは、些か教育の名折れやもしれませんが、彼等は教師であって、カウンセラーではありません。心の病を患っていると言われるわたしに対してのマニュアルこそ用意されているでしょうが、それが絶対の解答という訳でもないのも承知の筈。挙句、わたしという人間は『絶対に壊してはいけない存在』であるのですから、多少不名誉でも、学校側としてはこれが得策なのでしょう。
だからと言って、わたしは泳ぐつもりはありませんけどね。
まあ、ヒカリちゃんと二人っきりなら、左腕に配慮する必要も無いし……少しはその気になるかもしれませんが。
がやつく女子更衣室の中。
わたしは水着を腰まで下ろして、ロッカーから下着を取り上げます。それを胸に当て――ようとしたら、「うわ、やっぱでっかい!」いきなり現れたクラスメイトの一人に、胸を鷲掴みにされました。その手の感触を知覚するが早いか、手はわしわしとわたしの胸を揉みしだきます。
思わず「ひゃあ」と声を上げて、手を払い退け、ブラジャーを持ったままの腕で胸を隠します。ハッとして改まった先には、あまり話した事が無い女子生徒が数人。わたしの胸を掴んだ子を筆頭に、まじまじとわたしの胸を凝視していました。
「え、ええ? な、何でいきなし揉まれたの!?」
キッと睨みつけてみれば、まるでわたしの反応が予想外だったと言わんばかりに、目を丸くしている少女。払い除けられた手をわきわきとして、感触を確かめているようでした。
「いや……あまりにでかかったから……つい」
「つい!? ついで痴漢されたの!? わたし」
思わず捲くし立てるように文句を言えば、他の女子生徒が挙手します。
「わたしも揉みたーい!」
「うわ、本当におっきい!」
まるで砂糖菓子に群がる蟻のようでした。
中学生女子にしては珍しいDというサイズは、未だ成長過程故に持たざる者達にとって、純粋に興味深いものだったようです。わたしが醸し出す腹立たしいという雰囲気なんて、好奇心を顕にする女子中学生達の群れの前ではあって無いようなものでした。
きっと元々気になってはいたのでしょう。しかしわたしは今までプールの授業を全てエスケープしています。正しく今日、初めて、一同の前に晒したと言えるのです。
今までヒカリちゃん以外のクラスメイトは、何処かわたしを敬遠しがちでした。『乳、でけえ』という騒ぎに乗じて、「うわあ、やっぱ肌しろーい!」とか、「睫毛なっが!」と言われていますが、今までそんな事を面と向かって言われた例がありません。むしろ、気さくに話しかけられるような機会が無さ過ぎて、わたし自身「え? あ、う、うん……」と圧倒され、最早なされるがままな状態です。
胸を揉まれて、頬っぺたを抓られて、髪を撫でられて、腰を触られて……いい加減擽ったい!
こんな時に限って、状況をいち早く収めてくれそうなヒカリちゃんは、何故かもみくちゃにされるわたしを生温かい笑みで見守っています。……あれは、ああ、乳がでかいという言葉がお気に障っておられる! お怒りのご様子である!!
「ねえねえ、これ何カップ?」
「え? でぃ、でぃーだけど……」
「うわ、Dとかうちの姉貴よりでっかい!」
「中二でDとか、Gぐらいまでは育つっしょ。これ」
「そ、そんな育たれても困るって。超重たいんだもん。走るのも痛いし!」
と、そんなやり取りをしていて、ふと気が付くのです。
こんな風にクラスメイトに囲まれ、談笑する機会は、わたしにとって初めての体験。決してつんけんしてきた訳ではないですが、自分を年齢不相応なものだと自覚していた為に、同世代の大多数とは合わないものだと思っていました。
ですが、それは思い過ごしだったのかもしれません。
ふとした切っ掛けで手に入るもの……そう、そう言えば、正しく水泳を嫌がる姿を『意外だ』と吹聴されていたではありませんか。わたしが勝手に遠ざかっていただけで、周りのクラスメイト達は、ずっとわたしの事を気に掛けてくれていたのかもしれません。
「あっ……」
しかしその内、一人が気付いて。
彼女に倣って、二人、三人と、下着を握っているわたしの左手首を注視し、言葉を静めていきます。
先程までの茶化すような雰囲気は唐突に消え失せ、一様に表情を無くしてしまいます。息を呑むかのように見えれば、何処と無くショックを受けたようにも見える姿。……まあ、一四歳の子供には、少しばかり刺激が強いものなのでしょう。
触れてはいけないものだったかと、何処かわたしを畏怖するようでした。
「あ、あのね!」
そこへ、ヒカリちゃんが両手を広げて割って入ってきます。
彼女もまた、わたしの事を見てくれている人。わたしが一番大事にしている秘密を聞いて、それでも尚、わたしに寄り添ってくれる人。
焦ったような表情は、思い遣りの表れ。わたしの禁忌を知ってしまった彼女等が、それを『今現在の事』と誤解しないよう、助け舟を出してくれようとしているのでしょう。
しかしわたしは躊躇う事も無く、わたしに代わって説明してくれようとしているヒカリちゃんの肩を叩きます。そうして彼女を諌め、何時の間にか騒がしさを無くしてしまった一同に、ふうと息をついてから、改めて微笑みかけました。
「ごめん。嫌なもの見せちゃった」
一言詫びてから、下着を右手に持ち替えて、左手を宙でぶらぶらとさせて見せます。
言葉とは裏腹に、まるで何でもない風を装って、わたしは肩を竦めました。
「こんな腕だから……ほら、クロールとかすると……ね? だからわたしは泳げないんじゃなくって、泳がないの。良い? 泳げないんじゃないからね?」
そうして悪戯っぽく茶化してみせます。
傷痕を見られる事は、あまり好ましい事ではありません。見た方は気分が悪いでしょうし、わたし自身にとっても、懇意にしている人以外に見せたくないナイーブなもの。
わたしがエヴァのパイロットなのかと聞かれた時のように、突っぱねたって構わない。むしろそうする方が楽で、普段のわたしならそうするでしょう。ただ、自分でも理由は分からず、気まぐれと言ってしまうと、少しばかり素っ気無いかもしれませんが、もう少し周りに優しくしないといけないような気もするのです。
まあ、それこそ利己主義が過ぎる言い方をすれば、『
ともあれ、折角茶化したのですから、どうぞ笑って下さい。
そんな心地で、わたしはにこやかに反応を待ちます。
すると……。
「あ、うん……」
「なんか、ごめんね?」
「補習……がんば」
すんげえ哀れみの籠もった目で見られました。
そのまま彼女等はわたしに苦笑を返して、各々のロッカーの方へと向かって行ってしまいます。
あれ? 何で?
暫し茫然とするわたしの肩を、ヒカリちゃんがぽんと叩きます。
振り返ってみれば、彼女はとても哀れなものを見る目で、悲しそうに笑っていました。
ゆっくりと首を横に振って、やがて一言。「ドンマイ」とだけ零して、彼女もまた、自分のロッカーの方へ。
一人取り残されたわたしは、目をぱちぱちと瞬かせるばかり。
――何だか良く分かんないけど、ちょっと悲しい気分だ……。
遣る瀬無い気分になりながら、わたしは溜め息混じりに着替えを再開します。
今度こそブラジャーを着け、股間が見えるか見えないかギリギリの位置まで水着を下げて、ブラウスを着用。僅かに濡れた水着が、ブラウスの裾を濡らさないよう配慮しつつ、それを上手く目隠しにして水着を脱ぎきります。そして下着、ショルダースカートの順に着用。最後にリボンを付けて、荷物を纏めます。
と、そこでふと気になって、スカートのポケットへと手を突っ込みます。おもむろにスマートフォンを取り出しました。
すると、正しく通知を示すランプが点灯しているではありませんか。
わたしの連絡先を知っている人間は、ヒカリちゃんを除けばほぼネルフの職員です。よって、割りと大事な連絡が入ってきたりします。まあ、仮にこういう状況で有事が発生した際は、木崎さんが呼びに来てくれる手筈なので、火急のものではないでしょう。とはいえ、一応その通知に目を通しておきます。
送り主はミサトさんでした。
「……あ、そっか。
通知内容を確認したわたしは、思わずハッとする心地に。
スマートフォンを再度ポケットに仕舞うと、既に着替えを終えていたヒカリちゃんへ振り返ります。そして一言、「今日、買い物して帰るんだけど、乗ってく?」と、声を掛けておきました。
すると彼女は唐突な物言いに驚いたようでしたが、すぐに本懐を理解したご様子。「晩御飯の?」と聞いてくるあたり、同じ食卓を預かる者として、通ずるところを感じますね。わたしはこくりと頷きました。
さて、折角のお客さんなのですから、偶には贅沢なものでも作りましょうか。