碇シンジの記憶より数十分早く、計画停電が開始された。
二子山の山頂から見える景色は殆んど黒一色。大気汚染が問題視されている都市部の月明かりでは、僅かな濃淡によって、向かいにあるもうひとつの二子山の輪郭が分かる程度。
暗闇というのは人間にとって恐怖心を煽るものとして例に挙げられがちだが、不意に見上げた夜空には、思った以上の星明りがあり、決してその限りではないと訴えてくる。凶悪性が問題視されがちな今のわたしでも、不思議と心安らぐような気がした。
尤も、エヴァの隣――非常用に用意された仮設のアンビリカルブリッジで待機するわたしは、暗闇に居るとは言い難い。沈黙する今の日本において、数少ない恵まれた環境に居た。
エヴァがまだ稼働していないからだろうか。
深夜の野外というのは、程好く地熱が冷め、過ごしやすい気温をしていた。鋼鉄の床が冷えている事もあって、後ろ手を突いて足を投げ出せば、実にリラックスが出来る。
惜しむらくは、プラグスーツなんて洒落っ気のないものを着せられている事と、エヴァが夜風を遮ってしまう事だろうか。話し相手に最適な木崎ノボルが居ない事も悔やまれる。
「ねえ」
ああ、いや……。
一番惜しいのは、あまり話したくない相手が、隣のブリッジに居る事だった。
ちらりと視線だけで声のした方向を見やれば、白が基調のプラグスーツに身を包んだ綾波レイが居た。
彼女の居る所は夜風が当たるのか、空色の髪が僅かに靡いている。しかし、決して心地よさそうな顔付きではない。そもそもからして、表情の変化に乏しい奴だが、膝を抱えた今の様子では尚更そう見える。
構ってやる義理は無かったが、思った以上に都合よく状況が運ばれて、今のわたしは気分が良い。
首で振り返って、短く「何?」と、問い返した。
綾波レイはこちらを振り向く。
あまり目を見て話す性質ではない彼女。表情の変化こそなかったものの、その視線の意味は、次の言葉でよく分かった。
「あなた、誰?」
昼間に受けた質問だった。
あの時は言っても無駄だと適当にはぐらかしたものだが、今尚繰り返す意味は、それでいて分かりやすい。
どういう訳か、他人に無頓着な筈の彼女が、碇レンに興味を持っているらしい。
わたしが普段接している碇レンではない事に、確信を持っているのだろう。
相手にするのは煩わしい。
けれど、今の綾波レイが、どういう心境なのかには興味があった。
「わたしは碇レン。他に名乗る名前はないわ」
発令所で葛城ミサトにした回答と同じものを用意する。
しかしながら、表情は極々真面目。
綾波レイに対して、何かを取り繕う必要性も、メリットもない。
すると、彼女はぷいと視線を逸らした。
正面に見える朧気な暗闇を見やって、「違う」と、短く一言述べた。
違うとはどういう事だ?
いいや、分からなくはない。そもそも違うと思っていなければ、わたしに誰だとは聞かないだろう。
分からないのは、何を以ってそう思うのか。
言動、態度からくるものであれば、それは碇レンという人間の顔を知らなさすぎる。相田ケンスケをとっちめている時等、表のわたしも横柄な態度をとる事は多々ある筈だ。確かに、今のわたしは普段特別視している綾波レイに対する当たりが強いが、彼女がそれに対する疑問を抱くのは、人間味に富みすぎていると言えるだろう。
どういう事だ。
わたしは再度短く問いかけた。
綾波レイはやや言葉に困るように視線を伏せ、抱いた膝を更に寄せる。
その雰囲気は、何処か悲しそうにも見えた。
「分からない。だけど、あなたを見ていると……ぞわぞわする」
彼女が言う『あなた』は、今のわたしに限った事だろう。
言葉は足りないが、それは確かに伝わってきた。
理解が進むと、思わず鼻で笑ってしまう。
そんな人間染みた事を、何故思うのか。まさか表のわたしに、好意を抱いているというのか。
わたしは星空を見上げ、「じゃあ」と、話を掘り下げる。
「何でわたしに話しかけるの。嫌じゃないの?」
溢す言葉は、虚空に消える。
何の物音もしない状況では、吐息の音すら聞こえてくる。
綾波レイのそれは、僅かに乱れているように感じた。
「分からない」
端的に溢される言葉。
僅かな思考の間はあったものの、回答というにはあまりに不完全。出来損ないだった。
面倒臭い……。
わたしはそう思った。
綾波レイの相手は、驚く程生産性が無い。
何故って? 簡単に死んでしまうからだ。
綾波レイは碇ユイのクローンであり、その内容は兎も角、本人も量産型である自覚をしている。故に、自己犠牲をいとわない。生に対する執着心が、あまりにも薄い。
それまで築いたものを――簡単に捨ててしまう。
だから嫌いなんだ。
わたしは舌打ちをひとつ。
身体を起こして、綾波レイから視線を逸らすように、立てた膝に頬杖をついた。
もう言葉を返す気も起きなかった。
どうせ無駄になる。
そう分かっているからこそ、彼女に対する言葉は無価値。
表のわたしは綾波レイを守ると意気込んでいるが、彼女に救いは無い。
本人に生きる意志が無い限り、わたし達の努力は無駄になる。
だから、何も言わない事が、唯一生産性のある事なのだと思った。
と、そんな折。
――ねえ、レン。
ふと、誰かに呼ばれた気がした。
その声は最近も聞いたようなもので。だけど実際には、遠く昔に聞かなくなった声だった。
言葉は続かない。
だけど、脳裏には一人の少女が浮かぶ。
碇レンがわたしを生み出すに至った鍵。
たった一人の、大親友。
その姿を思い起こせば、今の自分の態度は本当に正しいのかと、自ずから問いかけてしまう。
命を大切にしろと教えてくれた彼女は、命を粗末に扱っていた碇レンを嫌ったか? いいや、嫌わなかった。
むしろ、誰より理解し、叱ってくれた。
わたしが今、こうして、綾波レイに辛辣な態度をとるのは……気高いあの子の志から、何も学べていないのではないか。命の大切さを説いてくれた彼女は、望まないのではないか。
わたしは、間違っているのではないか?
表のわたしは、綾波レイを盲目的に愛しんでいる。
なら、わたしのやるべき事は――。
「はあ……」
わたしは深い溜め息を吐いた。
その音に、綾波レイが僅かな身じろぎをしたような音が続く。
ほんっと面倒臭いけど、あの子がいなければ、わたしは居ない。
碇レンの命すら、無かっただろう。
だから、その恩に報いるのは、当然の務めだ。
わたしは睨むような心地で、綾波レイへ視線をやる。
彼女もこちらを向いていて、その顔付きはやはり無表情。今しがたの問答すら、彼女の胸中には響かなかったのではないかと思うものの、それはわたしが判断すべき事ではないのだろう。
わたしの中で、己の利が旧友の意思を尊重する事に傾いた。
ただそれだけだ。
綾波レイが己の命を粗末にしたところで、別に悔いる事もない。これはただの自己満足だ。
わたしは改めて、真面目な表情で唇を開いた。
「今日を生き抜けば、いつものわたしが待ってるわ」
その言葉が、正しく伝わったかは分からない。
綾波レイはそっぽを向いて、「そう」とぼやくばかり。
だけど、暫くして。
「明日の、お弁当は?」
そう問いかけてきた。
唐突な物言いに、わたしはらしくもなく目を丸くしてしまうが、理由は表のわたしの記憶を辿るとすぐに分かる。そしてそれがあまりに緊張感のないものだったから、思わずふっと噴出してしまった。
綾波レイは不思議そうな顔をしていたが、答えてやらねば目的は果たされない。
わたしは二度、三度頷いて、呆れた笑みと共に答えた。
「お互いに、生きてたらね」
「そう」
まあ、表のわたしがこの約束を覚えている保証はないけれど、綾波レイにお熱な奴だ。間違いなく作ってやるだろう。
何せ、死に急いだら食べられないという事だけ、覚えていれば良い。
生きていれば、何処だって天国になる。
あんたが体現しないで、どうするってのさ。
なーんて、詩人が過ぎるし、わたしらしくもない。
早いところ作戦時間になってくれないと、月明かりがわたしを優しくしてしまう。
そんな役目を持って、生まれた訳じゃないのに。
――ああ、早く暴れたいなぁ。
深い溜め息と共に、空を見上げる。
気持ち悪い事を考えた脳を切り替えるように、わたしは作戦のおさらいをした。
作戦開始時間になったら、下山して、使徒の迎撃エリアに侵入。注意を引き付ける。綾波レイが狙撃を当てれば良し。当たらなければ、次弾発射までにわたしが距離を詰める。狙撃手が無防備である以上、二発、三発と撃ち込むには、使徒から見たわたしの危険度を極限まで高める必要があるが……さて、どう転ぶか。
まあ、わたし個人としては、綾波レイの狙撃は外れて欲しい。
あのやたら綺麗に磨かれたガラスのような体表をぼろぼろに砕いてやりたいのだから。
だけど、あの使徒が強敵というのは理解出来る。
そもそも生きて乗り越えなきゃ、続く使徒への復讐が出来ないのだから、元も子もない。
改めて奴のデータを見た時、わたしひとりで決着出来ると断言出来なかったのは、仕方ない部分もある。思った以上に、奴は強かった。少なくとも、あれに勝った碇シンジは、随分な豪運の持ち主だろう。
わたしのシンクロ率ですら、奴のATフィールドを破るのにギリギリ足りるかというところ。奴の砲撃に関しても、わたしのATフィールドを以ってして、完全に遮断する事は出来ないと言われているのだし。
まあ、中和されると思わなくて良いのは、第四使徒より楽かもしれないが……いいや、それは言い過ぎか。中和出来る距離で荷粒子砲をぶっ放されたら、ひとたまりもないのだから。
何せ、わたしの役目は距離を詰め、ATフィールドを中和し、奴をぶっ殺す事だ。
臆す事無く突き進めば良い。
得意分野だ。
作戦をおさらいして、ゆっくりと立ち上がる。
緊張感は全くと言って良い程無いのだが、身体が凝り固まって仕様が無い。
肩を解していると、やがて綾波レイもすっと立ち上がった。
「時間よ。行きましょ」
踵を返した彼女は、ぽつり。
「さよなら」
そう溢した。
言葉を受け取ったわたしは、思わず眉をひそめてしまう。
さっきの説教受けて尚、その言葉をチョイスする?
わたしは溜め息まじりに、ブリッジを去ろうとする綾波レイへ向けて、げんなりとした表情で唇を開いた。
「そこは『またね』でしょ?」
そう言うと、時間厳守を心掛けている筈の彼女の足が、ぴたりと止まる。
こちらを振り向いて、目をぱちぱちとさせて、こくり。小さく頷いた。
「また……」
そう言って、今度こそエヴァの搭乗口へと向かって行った。
ほんと、世話が焼ける奴。
そんな感想を、夜空に向けて組んで伸ばした手にぼやいて、ふうと一息。
さて、行きますか。