ベースキャンプに戻り、一旦腹を満たす為にこんがり肉を焼いて夕食を食べる事にした。日も暮れ始める午後五時過ぎ。夕食を取るにしては問題ない時間帯だった。
これを食べ終えてからイャンクックを相手にしようとしているが、完全に日も暮れるであろう午後七時過ぎならばそれは普通の狩猟ではなく夜戦になる。
樹海の夜はほとんど視界が悪い環境になってしまう。夜戦の経験が少なく、樹海というフィールドが初めてという二人ならば危険度はかなり上昇してしまう。しかも今回は二頭を相手にするクエスト。片方をすでに討伐しているならばいつものクエストと変わりないだろうが、生憎とまだどちらも倒していない状況。危険度はさらに上昇する。
だから二人はここに来る途中の打ち合わせで、完全に日が暮れて視界が悪くなってしまえばその日のクエストを終えようという話で纏まっている。
試験の期限は五十時間、つまり約二日だ。
開始したのが午後二時過ぎなので、二日後の午後四時くらいがタイムアップという事になる。
水筒に入っているお茶を飲み、喉を潤したら夕食は終了。こんがり肉の骨を地面に埋めてモンスターが匂いに釣られて寄ってこないようにすると、テントの傍に置いてある竜車へとライムが向かっていく。
そこには今回持ってきた爆弾と支給された大タル爆弾が積まれている。わかる人にはわかるが、ライムが作った大タル爆弾と大タル爆弾Gに含まれている粒子の量が他の爆弾よりも多い。
これはライムが発動させているボマーの影響によるものだ。これは爆弾の威力を強化させるものであり、爆弾の調合率を100%にしてくれる。後者に関しては素でライムが成功させてしまうために意味はないが、前者は狩猟において有益なものだろう。
でもこれだけ積めば重量はなかなかのものだ。昔のライムならどんなに引こうとしても動くことはなかっただろう。
「……よっと」
でもこの数か月で鍛えられた今のライムならば、何とか動かせるところまで体が作られている。テントから離れてシアンの傍まで移動すると、彼女に目配せした。
「んっと…………クックは、今はそこのエリア6に移動してるっぽいね」
「そうか。なら早速向かおう」
「うん!」
エリア6に向かう道は坂になっている。シアンの協力も得て坂から駆け下りないように注意しつつ、二人は竜車を引きながらエリア6へと向かっていった。
エリア6に到着すると確かに何かの存在がエリアを包み込んでいるのが分かった。ハンターにとっての登竜門と言われ、飛竜の中でも下位に存在するが、それでもあれは飛竜の一種。
怪鳥イャンクックがエリアに生えている太い木の向こうに佇んでいた。
一度草むらに身を隠し、竜車を置いてイャンクックの様子を窺う事にする。
「さて、どうしようか?」
「……シアン、投げナイフを使ってクックの動きを止める事が出来る?」
「ん? となるとあれを試すってことかな?」
「うん、丁度いい機会だと思うし、こういう時でないと実戦で試せないでしょ」
「そうだね。じゃあ援護よろしくね」
ポーチから麻痺投げナイフを取り出し、三本を指の間に挟んでシアンがイャンクックの横に回り込んでいく。ライムはその反対側へと移動し、ポーチから取り出した硬化笛を吹きながらイャンクックに少しずつ接近していく。
「クァ?」
その音色に気づいたのだろう。イャンクックが気の抜けたような声を漏らしながら振り返った。正面に立つライムを視認すると体を震わせながら翼を広げ、黄色い嘴を大きく開けて叫びだす。
「クワァアアアアアア!!」
威嚇の咆哮と共に放たれる殺気は確かに飛竜のものだろう。しかしその殺気の濃度は狂化竜達のものよりは幾分もマシなものだった。慣れというものは怖い。殺気でさえあれよりはマシだと感じてしまう。
でも本能が叫ぶ。
あれもまた飛竜の一種であるからと放たれる殺気に警報を鳴らしている。どんなに成長しても自分は人族の一人。そして未熟なハンターである事には変わりない。
だから本能からの叫びが体の動きを少し阻害させてしまう。
でもそれを気力でねじ伏せつつ、腰に佩いているオデッセイブレイドを構えた。
「クア、クアッ!」
イャンクックがその場を跳ねてその嘴を振り下ろしてきた。鳥竜種独特の攻撃である嘴による突っつき。何度も見たその攻撃はライムが余裕を持って回避できる程の速さだった。
突っつき攻撃は一度横に逃げれば横や後ろが隙だらけになる。横に回り込んで足を狙ってオデッセイブレイドを振り下ろす。
オデッセイブレイドはイャンクックの足を覆う鱗に弾かれることなく刃を通し、一筋の傷を作り上げた。回り込まれたのを感じたイャンクックは体を捻って尻尾をぶつけてきた。
だがライムはイャンクックの動きからそれを感じ取り、あらかじめ身を低くしてそれをやり過ごした。通り過ぎた尻尾を確認しながらライムは連続してオデッセイブレイドを振るい続ける。
「クアッ!」
足元をうろつき続けるライムに嫌気がさしたか、イャンクックは一鳴きして翼をはためかせて少しだけ宙に浮いて距離をとる。羽ばたいた際に発生した風圧がライムに襲い掛かり、ライムはその場に縫い付けられるしかできない。
しかし目的は果たされている。イャンクックの視線は真っすぐにライムを向いている。その背後に回り込んでいるシアンには気づいていないようだった。
「ふっ!」
シアンの右手の指に挟まれた麻痺投げナイフの刀身には、黄色い光が包み込まれているように見える。それはシアンが高めた気の一種。彼女はこの最近ポッケ村で月の教授を受けて気の扱い方を覚えてきたのだ。
元々シアンは双剣を扱っているだけあって鬼人化を使うことが出来る。これはある意味気を用いた技術の一種。故にシアンはコツさえ掴めれば気を扱えると月は睨んでいた。
しかし気は人の内面に関すること。ただ目で見るだけでは会得することなど出来ない技術の一つ。彼女のトレースは目に見えるものに関するものならばほぼ記憶して自分のものに出来るが、魔法や気など体の内から溢れる力や自然の力を操作する技術には意味はない。
幸い鬼人化を使えるシアンは気に対するイメージの力はあったらしく、二週間仕込むとある程度の気の扱い方を覚えてしまった。このように麻痺投げナイフに仕込まれている麻痺毒を、自分の気に同調させる事を成功させた。
麻痺毒の粒子を感じ取り、それを自分の気を合わせるというのは案外難しいものだ。しかも魔法の才能がないシアンは粒子を感じ取る事から始めなければないのだが、ライムに長く接していたからか、月とライムに教わりつつ数日投げナイフに塗りこまれている毒を見つめて集中すれば粒子の存在を感じ取ってしまった。
だが今のシアンはまだ毒の粒子のみ知っているだけ。自然に満ちる粒子を感じ取る事は出来ず、例え感じ取ったとしてもそれを操作するための魔力を持たないために、魔法が使えないことには変わりない。
「はぁっ!」
でも魔法などなくともシアンは戦える。麻痺投げナイフに纏われた気が光を放ち、黄色い軌跡を三つ作り上げた。それは麻痺毒を含んだ気刃。それは真っすぐにイャンクックへと向かい、イャンクックの背中に小さな傷を作る。
これは所詮投げナイフなので気を纏わせたとしても小さな刃にしかならない。大きな刃にしようとして多くの気を纏わせれば、投げナイフがその気に耐え切れずに折れてしまうという背景がある。欲を持ったとしても現実がそれを許さない。
それに元々これは傷を作るための道具じゃない。塗りこんだ毒を相手に打ち込むことを目的として作られた補助武器。だからその目的に従ってその力を延長させる技術を習得したのだ。
「やっ、はっ!」
背後から何度も麻痺投げナイフを振りかぶり、気刃を以ってしてイャンクックへと攻撃を仕掛ける。これは飛竜たちにとっては蚊に刺された程度の痛みしか感じないため、イャンクックの意識はまだライムに向けられている。
(気刃……成功しているみたいだね。やっぱりシアンはとってもいいものを持ってる……っと)
振り下ろされた嘴を盾を使って防ぐが、連続して振り下ろされる嘴によって少し体勢を崩しかける。飛竜種だけあってその嘴の一撃の重みはなかなかのもの。成長したとはいえその攻撃を完全に防ぐには体はまだまだ出来ていなかった。
しかしこらえる。
まだイャンクックは麻痺していない。ならばまだ引きつけるのみ。近くに置いてある竜車を確認しながらライムは立ち回っていく。
「ク……ブェッ!」
嘴に溜め込まれた火炎の液体がライムに向かって吐き出される。金属でできているためにそれを吹きかけられては盾の温度が上がってしまう。ライムは軌跡を読んで回避する。
「ク、クェッ!? クェエエエ!?」
そこでようやくイャンクックが体を痙攣させてその場に立ちすくんでしまった。向こうでシアンがにっと笑って麻痺投げナイフを構えながら頷いている。それに頷くことで応えてやり、ライムは竜車へと視線を移した。
「ふっ!」
意識を集中させると竜車から大タル爆弾Gを二つ操作してやる。宙に浮かんだ二つのタルがライムの操作する風の粒子に従い、イャンクックの足元へとふわふわと飛行してくる。
浮遊系統の魔法の一種をライムは行使しているが、それは術者が何の反動もないわけではない。浮遊させている重量はしっかりと術者にもかかっている。
魔法の技術が高ければかかる重量は軽くなるが、それでもライムにとっては重いことには変わりない。
額から汗を流しつつライムはしっかりと大タル爆弾Gを移動させてやり、二つの爆弾はイャンクックの足元、顔の近くに設置された。
「……ふぅ、シアン! オーケーだよ!」
「了解!」
距離を取ったライムを確認し、シアンはもう一度麻痺投げナイフを振りかぶる。放たれた三つの黄色い気刃はしっかりと大タル爆弾Gに刺激を与え、次の瞬間樹海に爆音が響き渡った。
耳をつんざくほどの爆音はライムとシアンだけでなく、痙攣していたイャンクックにも毒だったらしい。普通の生き物よりも耳がいいイャンクックは泡を吹いて地面に倒れてしまった。
ライムが作った大タル爆弾Gは通常のものよりも威力が高められているだけあり、耳の一部が欠損するだけでなく火傷を負い、足元付近に置かれたものは足と体の鱗を吹き飛ばしてしまった。
だが命を奪うほどのダメージではなかったらしい。顔がぴくぴくとしているが、足元がおぼつかないだけでじたばたともがき続けてはいた。
「じゃあ今度は攻めるのみ!」
ポーチに麻痺投げナイフをしまい、腰に佩いているプリンセスセイバーを手に取ったシアンは二つの柄をつなぎ合わせる。これにより双剣形態からダブルセイバー形態へと変化した。
一度回転させて調子を確かめたシアンは右手を素早く動かし、プリンセスセイバーを一気に回転させながら走り出す。これにより遠心力が乗ったプリンセスセイバーは、純粋な武器の威力も高められる。
倒れているイャンクックの背後から接近し、尻尾から腹まで体を捻りながら薙ぎ払えば、刃が鱗を貫いて肉へと届いていた。横一文字に傷が作り出され、そこから出血してピンクの甲殻に赤を作り出した。
だがプリンセスセイバーは無属性ではない。一方は火属性を、一方は毒を内包している。火属性の剣は出血している部分を焼いて血をある程度止めているが、毒の剣は毒を注入させたことで少し色が変わった血を流させている。
「せいやぁ!」
左手を添えて捻った体をイャンクックに向けると同時に、勢いよく振りおろして縦の傷を作る。返す刃でまた斬り、作り出した傷めがけて突出し、回転で傷を抉っていく。
これが飛竜と戦う際のダブルセイバーの基本形。何度も斬って傷を作って柔らかい部分を作り、回転によって抉るように追撃を与える。甲殻や鱗を剥ぐ際は遠心力が乗った刃で斬ればいいが、純粋な威力では弾かれることが多い。そのため、グラビモスなどの硬い敵に対しては相性が悪い。
顔に接近したライムもオデッセイブレイドで斬ろうとしたが、ふと思い立ってそれをやめる。
「シアン、罠を仕掛けるよ」
「オーケー!」
腹に回り込んだライムの手には落とし穴が握られていた。それを理解したシアンは一度イャンクックから離れ、プリンセスセイバーをしまいながら竜車の方へと走り出す。竜車を引いてイャンクックへと少しだけ接近した時には、すでにライムは落とし穴を設置していた。
ピンを抜けば僅かな音を立ててネットが広がっていく。さっと距離を取ればよろよろと立ち上がろうとしたイャンクックが落とし穴へと吸い込まれていった。
「クェエエエエエ!?」
活力を取り戻したとたんにこれだ。イャンクックにとっては踏んだり蹴ったりだろう。同情しそうになるがそれを堪える。すでにシアンは自分の作った大タル爆弾Gを運んでいたので、ライムもまた浮遊魔法を使って大タル爆弾を運ぶことにした。
これは持ち歩くなら一人三つまでだが、設置するなら二つまでという制約があるため、二つをイャンクックの背中へと設置することにする。
穴の中ではイャンクックが這い出ようともがいている。そんな中何とかシアンは大タル爆弾Gを顔の近くへと持って行った。
「……ふぅ」
一息ついて素早くその場を離れる。軽くなった竜車を引いてイャンクックから離れていくのを確認し、ライムはポーチからペイントボールを取り出して大タル爆弾へと投げつける。
「――っ!」
弧を描いて大タル爆弾へと向かっていくのを見てすぐに距離をとるように後ろへと飛ぶと、背後でさっきよりも劣らない爆音が響いた。数はさっきよりも一つ多いが、大タル爆弾はライムが作っただけあって威力は高い。
背中の甲殻や鱗が爆風の中に小さく光るのが背中越しに見えた気がした。連続して爆弾を受けたんだ。瀕死になってもおかしくないだろうとライムは目を凝らして煙の中を見つめる。
(……うん、瀕死だ。さっきよりも小さくなっているけどまだ生きている)
立ち上がったライムはオデッセイブレイドを構えて走り出した。ライムの様子を見てシアンもイャンクックがまだ生きているのが分かったのだろう。竜車を近くの木の傍に置き、プリンセスセイバーを手にして走り出した。
「クェ……クェエエエ……!」
声はもう弱々しい。晴れた煙の中に存在していたのは、見るからにボロボロなイャンクックの姿だった。更に耳は欠損し、顔や体の甲殻や鱗は剥がれ落ちて肉が露になっている部分が多くなっている。
そんなイャンクックへと二人は刃を振るっていく。
血が舞い、肉を斬られ、少しずつその命が狩られていく。確かな感触を刃の先に感じつつ、二人はただ己の武器を振るい続けた。
やがてイャンクックの声が小さくなっていき、その命は終わりを迎える。
実に早い。
よく見ればプリンセスセイバーから染み出た毒にもあてられていたらしい。シアンが斬りつけていた部分からの血は明らかに色が違っていた。つまり毒に侵されていたこともあったから一気に体力を奪うことができたということのようだ。
武器をしまい、剥ぎ取りにかかろうというとき、はっとした顔でシアンが顔を上げる。
「ヒプノックが動き出したよ。……しかもこっちに向かってきている!」
その言葉にライムは表情を引き締めて竜車へと走り出す。シアンもそれに続き、木の傍に置いてあった竜車を引っ張り、近くの草むらへと一旦身を隠すことにした。
それとほぼ同時だろうか、空から羽ばたくような音が聞こえてきた。見上げればヒプノックが舞い降りてくるのが見える。
二人がつけた傷は少しだけ癒えているらしい。相変わらず飛竜の生命力は人族よりも強い。
「クルル……」
着地したヒプノックは体を震わせて一鳴きすると死体になっているイャンクックを視界に映した。落とし穴に嵌ったまま死んでいるイャンクックをじっと見つめていたヒプノックだが、興味を無くしたようにそっぽ向いて歩き始めた。
「……ここは一度退こうか。クックの死体がある以上、このエリアで戦うのは少し辛そうだ」
「そうだね、賛成」
元々このエリアは木が多く乱立しているため戦える場所は限られている。それを埋めるようにイャンクックの死体が鎮座しているため、このエリアで戦うのは辛いものがある。
それに日も暮れてきたため視界も悪くなってきた。このまま戦闘をするとなれば夜戦に慣れていない二人は危険だろう。
今日の狩りはこれで終了とし、明日の朝に持ち越したほうがいいと判断した。
「じゃあ静かに出ようか」
「うん」
二人は息を潜めつつ、竜車を引いてベースキャンプに戻っていく。それをヒプノックは気づくことなく、二人は安全にエリア6から出ることに成功した。
ベースキャンプに戻ったライムは先ほど使った分の爆弾を作り、シアンもプリンセスセイバーに砥石を当てて切れ味を戻していく。それらの作業を終えた後、明日に備えて二人はベッドに入った。
今日の戦いは終了する。
成果はイャンクックの討伐成功。
これによって一つのエリアに二頭の飛竜が会することはなくなった。あとはいつものクエストと変わりはない。
だからいつものように気を楽にして当たれば問題なく試験を終えられるだろう。そのために体を休めることは大事だ。
「今日はごめんね」
ふと、シアンがぽつりと漏らした。
それにライムは反応し、微笑を浮かべながら答えた。
「気にすることはないよ。クックの時はいい働きだったよ」
「……そう?」
「そうだよ。気刃を実戦でも成功させるなんて、やっぱりシアンは成長しているってわかるからね。頼もしいよ」
シアンの方に顔を向けながら言うと、シアンは少しだけ頬を赤らめながら天井を見上げた。
「それはこっちのセリフだよ。わたしよりライムの成長の方が凄いよ、うん。頼もしさでいえばライムの方が上だよ」
「そうかな?」
「そうだよ。…………だからわたしも頑張らないといけないんだ」
「? どうかした?」
最後の方は自分に言い聞かせるように小声だったため、ライムには聞こえなかったようだ。疑問を感じるライムにふるふると首を振ってなんでもないとアピール。
「明日も頑張るよ。今度はへましないから」
「……うん。気を付けるってことは忘れないでね」
「うん、わかってるって。油断はしない。これ大事だよね」
それは戦いにおいて基本のこと。当然ながら昴や月達も何度も言い聞かせている。出来る限り油断はしないようにしているが、気の緩みはどうあっても生まれてしまう。
それを引き締めて戦ってこそハンターであり、戦士だ。
改めて自覚しつつ二人は無言で天井を見上げる。
眠りブレスに気を付けていればイャンクックとあまり変わりないかもしれない。そういう考えが気の緩みを生み出すんだろうが、それでもそう考えずにはいられない。
でもそういうことは明日考えよう。今はただ眠るだけ。
「じゃあお休み」
「うん、おやすみ~」
時間的に早い時刻だろうが、二人は戦いの疲れもあってかすぐに眠りに落ちていった。
○
月が空高く浮かぶ頃、森の中に出来た広場にクロムはいた。切り株に腰掛け、背後にはどこまでも広がる森が広がっている。それはフラヒヤの森であり、クロムは知らないが今頃ライムとシアンが眠っている頃だろう。
月を背負って目を閉じ、腕を組んで座っているクロムの姿は非常に絵になっている。身を包む深緑のローブは夜ということもあってその背景に溶け込むような雰囲気になっている。
近くにはクストルが待機しており、気ままに草を食んでいる。だがその顔が上げられ、きょろきょろと辺りを見回し始めた。
クロムもまた右目を開けて丘に出る道の方を見やった。
すると森の奥から白い影が近づいてくるのが見えた。夜だけあってその白い影は目立つため、目を凝らさなくても見えてしまう。しかし見える見えない以前に、クロムはその人物の気配や力の波動を感じ取っていた。
「よう、待ちくたびれたぜ」
「…………」
にやりと口元を歪ませながら声をかければ、クストルに跨っていた人物――セルシウスは無言で飛び降りた。軽く叩いてやると一鳴きしてクストルは離れていく。
「まずは久しぶり、と言った方がいいか? 10年近くぶりになるかねぇ、セルシィ」
「……やはりお前か、クロム。お前が出てくるとはな」
「おや? 俺じゃ不満だったか?」
首を横に動かしてコキコキと音を鳴らしながら立ち上がる。
両者の距離はおよそ百メートル近く。その距離をおいて二人は相対していた。
白いフードを被っている中、鈍色の眼差しは感情を感じない。相変わらずの感情の薄さだが、その心の内にはどこか喜びが僅かに浮かんでいるのではないだろうか。
「ここで待っているとは、私の行動を読んでいたのか?」
「一応な。お前の位置と距離から推測して、ここで張り込ませてもらったよ」
「……そう。そんなに私と戦いたかったのか」
うっすらと目を細めながらセルシウスは微笑を浮かべたような気がした。彼女にとっては例え場所が違おうがシュヴァルツの血統と戦えるならば構わないという判断らしい。
それならばクロムとしては構わない。彼女がやる気ならば自分もそれに応えるまでだ。
「ああ。ポッケ村で暴れてもらうわけにはいかねえからな。俺が相手になってやるから、それで満足してもらおうじゃねえか」
「…………私を満足させられるのか?」
「さて、どうかね? それは刃を交えて判断してもらおう」
そう言いながらローブの中へと手を入れる。ゆっくりと抜いたその武器は大剣だった。背は黒く棘が付き、刀身は少し明るめの蒼く染まったものだ。
ペイルカイザー。上位の蒼火竜リオソウルの素材を使用した龍属性を内包した大剣。
狩猟笛を主として使用するクロムだが、この大剣もサブとして扱っている。
――いや、それは正しくない。
彼にとって狩猟笛こそがサブでしかない。本命の武器は大剣なのだ。
ペイルカイザーを右手で構えながらクロムは不敵に笑みを浮かべる。彼の蒼い眼差しはいつもの暗い光の奥に明るい青の光が宿っていた。
「最初から飛ばすか。本気だな?」
「当然だろ。お前相手に手を抜くなんて出来るはずもねえ。それに、それはお前も望んじゃいないだろ?」
「……ああ、私は――本気のシュヴァルツと戦いに来た」
目を閉じてセルシウスもまたローブの中に手を入れ、彼女にとっての愛刀である黒刀【参ノ型】を取り出した。それを両手で構え、深呼吸をするとゆっくりと目を開く。
その眼は鈍色ではなく真紅に染まっていた。それはセルシウスが己の血を開放し、覚醒した証。殺人鬼と化した彼女の本気が表れたのだ。
片や殺人鬼の覚醒を果たした真紅の眼をした少女。
片や己の血を覚醒させた群青の眼をした青年。
シュヴァルツの血統の覚醒同士がぶつかり合おうとしている。
「この日をどれだけ待ちわびたか。あのライムではそれが望めそうにもないからな。まだまだ先になるんじゃないかと思っていたよ」
「そうだな。ライムではお前の本気とやりあうのは辛そうだ。……だからこそ俺が相手になってやるよ」
ぶんっと軽くペイルカイザーを回転させてセルシウスへと向けてやる。セルシウスもまた黒刀【参ノ型】を握りしめつつ身構え、その時を待っていた。
音はない。
風も吹かず、ただ二人の姿を月が見守っている。
静かな時間が過ぎていく。向き合い、睨み合い、切り込むべき隙を窺っている。
「…………」
「…………」
どれほどの時間が過ぎただろうか。一分だったのか、それとも五分だったのか。時間の感覚など意味もないほどに二人はお互いしか見えていない。
その時、ざわざわと木々が揺れた。夜風が吹き抜けてきた。それは二人が被っているフードを揺らしただけでなく、軽く吹き飛ばして二人の顔をさらした。
瞬間、二人は同時に走り出した。
「はぁっ!」
黒き剣閃が横薙ぎに走り抜けるが、それよりも疾くクロムがセルシウスへと横から接近する。振りかぶられたペイルカイザーに横目で反応したセルシウスが、横に跳ぶことで回避し、一気に再びクロムへと接近する。
振り下ろしたことで硬直しているクロムめがけて黒刀【参ノ型】を振り下ろすが、硬直していたはずのクロムがペイルカイザーを振り上げて打ち合わせた。
普通ならば大剣と太刀が打ち合わされれば太刀の方が折れるだろうが、太刀にはセルシウスの気が纏われることで保護されている。気が鞘のような役割を果たしているため、大剣と打ち合わされようとも折れる事はないのだ。
「ふっ!」
そのまま刃を打ち合わせる事はなく、すぐにセルシウスは身を引いて構え直し、高速の突きを連続して放つ。空を切って放たれる突きはその身を容易く貫く風の刃の如く。常人には見えない程の速さで繰り出される突きだが、クロムは冷静にその全てを回避している。
上位の虫素材で作られている黒刀【参ノ型】は、人の身で受ければ容易に肉だけでなく骨も断たれるだろう。突きならばまず間違いなく反対側へと貫通される。
クロムの身を守るクックUシリーズは、強化されているためある程度は彼の身を守ってくれるだろうが、もしもの時はまず間違いなく破壊される。
だがそんな危険性を感じさせない程に彼の足運びは素晴らしい。セルシウスの突きを完全に見切った上で最小限の動きで回避を続けている。
「こんなもんか、セルシィ? だとしたら俺を斬るなんて無理な話さ」
「……なるほど、確かにお前はあの父親の息子。なら、ギアを上げるとするか」
「そうか。だったら俺もそれに応えないといけねえな」
目を細めるセルシウスは突きをやめて一旦距離をとった。クロムもペイルカイザーを握りなおしてじっとセルシウスの出方を窺っている。
ふとセルシウスが構えている黒刀【参ノ型】に、纏われているセルシウスの気が高まって行くのを感じた。視覚的にもわかるほどに纏われているそれは、血のように赤くもあり、闇のように暗くもある。
それを左手でローブから取り出した鞘に納めて構える。
(やっぱりおかしいと思ってたんだよな。黒刀【参ノ型】にしては長さが通常のもの……ってか公式の太刀よりも短い。そう、東方人が手にする刀と同じ長さだ)
ハンターが手にする太刀は人を斬るための刀よりも長く作られている。その長さゆえに両手で構え、鞘は腰元ではなく背中に担ぐかのようにして持ち歩く。そして長いからこそ少し間合いを広くとって飛竜と戦い、翼などにも切り込めるのだが、逆に対人戦では使いづらくなってしまう。
だがセルシウスは公式が定めた長さを無視し、刀と同じ長さで黒刀【参ノ型】を作っているため、対人戦でも問題ないように振るうことが可能となっていた。それは彼女が人斬りの殺人鬼だからだろう。
(どうせ装備も裏で作ったんだろうな。でなけりゃあの長さの黒刀【参ノ型】なんて作れない。……ま、対人戦用に調整した武器だからって問題ない。俺は全力でセルシィと戦い、ねじ伏せるのみ)
クロムは目を細めて深呼吸しつつ、セルシウスの動きを見逃さないようにしている。鞘に黒刀【参ノ型】を収めたのならば、繰り出してくる攻撃は一つしか考えられなかった。
「――居合い・
瞬間、その白い姿が消えた。
見逃さないようにその姿を見つめていたクロムでもはっきりとわかるほどにその場から消えていた。
「――はっ!」
だが反応できなかったわけではない。その気配が、殺気が動いているのが感じ取れている。僅かに白い姿が動いているのが見えていた。
だからクロムは横に跳ぶことができた。その一瞬後に風がクロムが立っていた場所を通り過ぎていく。
「はあっ!」
「――!?」
体を捻りながらペイルカイザーを振りかぶれば、纏われている気が刃となってセルシウスに向かっていく。それに気づかないセルシウスではなかった。彼女も体を捻りつつ、黒刀【参ノ型】を抜いて振り下ろす。
「閃剣・
横薙ぎの気刃と大地を割る縦の気刃がぶつかり合い、共に消滅する。それをただ見つめる二人ではない。次の攻撃の一手を打つために走り出し、自分の間合いに入った瞬間手にした刃を振りかぶった。
セルシウスの薙ぎに対してクロムは左手に持ったペイルカイザーで防ぎ、右手でセルシウスの胸元へと掌打を放つ。
「……ちっ」
繰り出される掌打を体をずらして回避し、クロムの後ろへと回り込もうとしたが、左手から右手へと持ち替えたペイルカイザーで、足を払うようにセルシウスへと振りかぶる。
それを飛び越すようにして避けつつ、構えた黒刀【参ノ型】をクロムの頭を両断するようにして振り下ろす。ペイルカイザーはまだ足を払うように足元にある。振り上げようとも黒刀【参ノ型】を止めることなどできない。
このまま黒刀【参ノ型】はクロムの頭を割り、鮮血を巻き上げるだろうとセルシウスは頭の片隅で考えていた。
しかしそれは止められた。
「…………出鱈目な」
「そうか? 俺よりも強い奴はいくらでもいるさ」
左手の指で黒刀【参ノ型】はクロムの頭上数センチで止められていた。ペイルカイザーも右手で勢いを止められているため、クロムの体はその重量でぶれることもない。しっかりと大地を踏みしめ、振り下ろされた黒刀【参ノ型】を指の力だけで止めてしまっている。
しかも左手には彼の気が纏われることで斬れないように対処されている。
「そらっ! 守りが手薄だ……ぜっ!」
「ぐ、ふっ……!?」
女だろうが関係ない。命をやり取りしている相手だ。そんな事を気にしていては自分の方が殺される。
だからクロムは何の迷いもなく右膝でセルシウスの腹を蹴り上げる。そうして生まれた隙を突いて回し蹴りを叩き込み、セルシウスと距離をとる。宙に舞うセルシウスは顔をしかめながらも受け身をとって滑るように着地し、ダメージなどなかったかのようにまた疾走を開始する。
うっすらとローブの隙間から見えるのは銀色に光る装備。あれはシルバーソルシリーズだろうとクロムは推察した。
となれば蹴りのダメージなどかなり緩和されているんじゃないだろうか。結構本気で蹴り飛ばしたのだが、装備が守ったのか痛みに強いのか、セルシウスの表情はあまり変わっていない。
「……ん?」
ギラリとその眼の赤みが光ったかと思うと、接近してきたはずのセルシウスの姿があたかも煙のように消えてしまった。
(……幻影!? いや、残像……っ!)
あまりにも鮮やかな動きにクロムは息をのむ。これは魔法ではなく纏う気や雰囲気のみでクロムを欺いたというのか。
魔力の気配はなかったから恐らく後者なのだろう。
そういう敵の目を欺く技術が存在していることは知っている。ただそれを使う人をあまり見たことがないから反応が遅れた。
「……っ、つぅ……」
いつの間にか自分は斬られていた。両腕、体の一部……小さいが確かな傷が作られている。いったいどこから斬られたのか、それが判別つかない。
(これが……セルシィの本気か? あんな白い恰好をしているのに、この闇に身を隠すなんて……やってくれるぜ)
思いつくのはどこかにローブを脱ぎ捨てたというのが有力だろう。あるいはコンパクトサイズにして肩に集めるという手法もあり得る。なんにせよこのまま見つからないでいると自分は防戦一方だ。
それはクロムとしてはいただけない。大事な人を守るために身を挺する事はあるが、完全に守りに徹するなど自分には合わない。
元々の自分は切り込み、活路を見出し、守るべき者を害するものを打ち砕く。それがクロムの戦いだ。
「――かくれんぼは終わりにしようじゃねえか……セルシィ!」
息を吸ったクロムが勢いよく地面を踏みしめれば、クロムを中心として衝撃が周りに走り抜ける。踏みしめた衝撃によって木々が悲鳴を上げるかのようにざわめき始める。
闇の中に身を潜めていたセルシウスも振動によって多少体勢を崩したらしく、僅かに気配が漏れてきた。それを感じ取ったクロムは左手をかざして気を集めて放出する。
気を圧縮させた気功弾だ。それは容易に木の枝を撃ち抜く威力を持っていたため、セルシウスが隠れていた場所とて例外ではなかった。クロムの圧縮した気功弾によってそれは破壊されるが、そこに隠れていただろうセルシウスはすでにいなくなっている。
蒼く煌めく目が細められ、動いている僅かな気配を探り、そのルートを推察して先手を打つ。指を立ててある一点を指せば、その方向にある大地が割れて隆起する。舞い上がった石と土の塊がそこを走り抜けようとしたセルシウスへと襲い掛かるが、彼女は至って冷静だった。
「ふっ!」
位置が知られているならば走り回る必要はない。ならば真っ向から斬りかかるのみ、とでも考えていたのではないかと思ったがそうではなかったらしい。
またしても真紅の眼がぎらつき、瞳の中心には暗い赤に染まった瞳孔が細まっている。色合いの明るさが違うからその細い瞳孔は一向怪しく煌めいていた。無表情な彼女に浮かぶ赤の煌めきの奥からはただ一つの感情しか感じられない。
すなわち――斬る。
殺すではない。
倒すでもない。
ただその刃を以ってして、クロムを斬るという思念しかセルシウスからは感じられない。
ある意味純粋な感情が真っ向からクロムへと突き刺さる。
それを受け止めてなおクロムは笑みを浮かべている。この戦いは彼にも影響を与えてしまっているらしい。
遠い先祖がそうであったように、彼もまたシュヴァルツの血統に連なる者。血に刷り込まれているその力からは逃れられないのかもしれない。だがそれでもクロムはそれに抗わずに乗ってみることにした。
グレイシアからの頼みを忘れているわけではない。それをわかっている上でクロムはこの戦いに楽しみを見出し始めていた。
殺人鬼じゃない。
戦闘狂というわけでもない。
でもクロムは笑みを浮かべてしまっていた。
(来いよ、セルシィ!)
両手で構えたペイルカイザーを左の腰元に当てながら身構え、迫ってくるセルシウスを見据えた。セルシウスもクロムの様子に気づいたらしく、特に反応を示さずに力を溜めつつ疾走速度を落とさない。
「コード・ハンティング」
その一言で身を包むローブはコンパクトサイズになって右肩へと収束した。これで余計な干渉はなくなるだろう。続いて腰を低くしてクロムも迎え撃つ体勢へ。無駄な力をそぎ落とし、ただこの一撃に全力を込めてやる。
『――居合い』
ぼそりと二人はそう呟く。それがお互いに聞こえているかどうかも怪しい程の小さな声。
だがお互いに繰り出す技はもうわかってしまっているようだ。だからこそ迷いなくその攻撃へと移る。
二つの風が吹き抜けた。
それは自然のものではない。明らかに人工のもの。
「――隼駆!」
「――
鞘から抜かれた黒刀【参ノ型】はクロムへと振りかぶられ、クロムが構えたペイルカイザーはセルシウスへと薙ぐようにして振り上げられた。
しかもクロムは脱力から生み出された瞬発力で一陣の風となり、セルシウスと交差した。
そう、交差したのだ。
飛び出したクロムと、疾走していたセルシウスはお互いの得物で相手を斬りつつ交差した。距離がゼロになり、そしてまた開いていく。
だが二人はほぼ同時に立ち止った。手にしている武器はそれぞれ相手を斬った時のままで固まっている。
反応はない。
斬られたのか、斬られていないのか。その反応もないまま二人はただ静かにその場に佇んでいた。
「…………くっ」
小さなうめき声と何かが弾けるような音を響かせてクロムの体から鮮血が舞う。右肩から腹にかけての斜めにかけた傷はクックUメイルを貫通し、その下にある体にまで届いていたようだ。一瞬ふらついたクロムだったが、すぐにしっかりと大地を踏みしめて体勢を立て直している。
「…………ちっ」
ふとセルシウスが小さく舌打ちした。無表情だった彼女もまた腹から少しだけ右上がりの傷がついており、それはシルバーソルメイルを貫通して彼女の白い肌に傷を作っていたらしい。
クロムに負けない程の勢いで血が吹き出し、シルバーソルメイルにも赤を生み出していた。
リオレウスの希少種である銀火竜の素材で作られただけあって上位装備の中では高い防御力を持っている。そんな装備だろうと切り裂いてしまった一撃の重さを、その傷が示している。
『――っ!』
傷を負ったからといって止まっている二人ではない。止まってしまってはただ斬られるだけなのだから、攻撃するにも防御するにも動かねばならない。
振り返りながら二人はお互いの動きと、自分の傷の調子を確かめた。
傷は急所には達していなかったようで動く分には問題ない。
「炎剣――」
ぼそりと呟きつつ握りしめた黒刀【参ノ型】に少しずつ炎が纏われていく。鞘のように纏われた気の上にその炎が包み込まれることで、実際に黒刀【参ノ型】に炎が付かないようにしているようだ。虫素材は火属性に弱いため、こういう処置をしなければ剣が燃えてしまう可能性がある。
それを見たクロムはペイルカイザーを構えながら走り抜け、セルシウスの様子を窺っている。だが身構えようともセルシウスの攻撃は止まらない。
「――
構えた黒刀【参ノ型】を突きだせば纏われた炎が鳥の姿を形作って飛行する。更に袈裟斬り、切り払いとやるにつれて炎を纏った気刃がクロムへと襲い掛かっていく。だが身構えているクロムは冷静に対処する。
「はっ!」
まず貫通性を持っているであろう最初の一撃を回避し、縦と横の気刃をペイルカイザーを盾のように構えて気を込める。すると襲い掛かってくる気刃がペイルカイザーによって防がれた。
しかも気刃がペイルカイザーに接触する瞬間に押し込むようにして突き出すことで、走る勢いを落とすのは最低限に留めている。
だが大剣を盾のようにして構えた場合自分の視界が大剣によって防がれる。一瞬とはいえ相手が見えなくなるのは戦いにおいて不利を生む。セルシウスはその一瞬の間に次の手を打っていた。
「またか」
ペイルカイザーを構えなおしたクロムの視界に映るのは、二人のセルシウスが前から左右に分かれて迫ってくる光景だった。またしても気の残像を作ることで自身を二人に見せているようだ。
だがクロムに対して一度そういうものを見せてしまってはもうほとんど意味はない。その眼が真実を映してしまう。気を用いて作っているが、本体に比べてその気の濃度が違うのは明らか。
視えたり感じたりすることが出来る人ならば、一瞬で真偽が分かってしまう。
その結果目の前にいる二人は……偽物。
本物は――
「おらぁ!」
自分の横から突き出された黒刀【参ノ型】を避けつつ、肩から気を込めてぶつかっていく。背中を掠めていく黒刀【参ノ型】を感じながらも、セルシウスの胸元にヒットさせた瞬間に気を弾けさせる。
ショルダーアタックと気功により、セルシウスが体の内外に衝撃が走り抜けてせき込みそうになっている。だがそれをこらえてぎろりと目の前にあるクロムの顔を睨む。追撃を与えるためにペイルカイザーを振りかぶろうとしている彼に、あの偽物のセルシウス二人が接近しているのだ。
気と恐らく魔力で作った偽物なのだからと一度無視した存在だが、操っているセルシウスがまだあれを消していないのは理由があるはず。そう考えたとき、クロムの体は素早く反応を示した。
セルシウス本人へと振りかぶるペイルカイザーの範囲に、あの偽物二人も含むようにしたのだ。ぶんっと風を切る剣閃が二人へ向うも、それぞれ跳躍によって回避する。
本人へと届くペイルカイザーは彼女の左手に持っている鞘によって防がれた。その隙を狙い、一人がペイルカイザーを握っている右腕を狙って、一人が背後から振りかぶって斬りかかる。
すでに間合いに入っており、回避することなど出来なかった。
「ちぃ……っ!」
出来ることは硬気功で身を守ることだけ。
腕と背中に届いた刃は気功を纏っている容易くクックUシリーズを断ち切り、その下にある体へと接触する。だが腕を切断するまでは至らず少しだけ刃が肉に沈むだけ。背中は薄く刃が通るだけで済んだのが幸いだ。
「…………っ!」
鞘で止められているペイルカイザーを反転させるようにして薙ぎ払い、二人を吹き飛ばしつつ右からセルシウスを切り払おうとするも、後ろに宙返りしつて回避される。が、狙いは偽物の二人を吹き飛ばすことにあったから問題ない。
斬られた腕でペイルカイザーを振るったため、右腕に鈍い痛みが走るがクロムは少しだけ顔をしかめるだけだ。出血しているようだが、もうほとんど傷は閉じられている。
それはお互い最初に受けた傷も同様だ。装備に赤が塗られているが、傷自体はもう閉じているため、新しい出血はなくなっている。そして痛みは慣れているからこそまだまだ戦える。
(あそこまでいくと残像じゃねえ。気と魔力で作られた簡易的な分身……傷は気刃かあるいは真空の刃か。まったく、色々と技を持ってるな。天性の才能かあるいは修練の積み重ねか)
自分は一撃一撃の重さと鋭さで敵を討つ武術だが、セルシウスは速さと技術を兼ね備えた武術。彼女の場合は己の本能に従い相手を殺すためだけに会得した技術だろうが、その一点に集中しているからこそ鋭い。
身を守るための術を持っていなければ自分は最初の一撃だけで死にかけている。
切り払った偽物はまたしても復活し、セルシウスの両隣で身構えている。それぞれ既に黒刀【参ノ型】を構えて次の攻撃の体勢に入っていた。
高められていく気からこれが必殺の一撃であることを暗に示している。
「そろそろ終わらせようか」
「なかなか楽しめたよ。……でも大いに満足するもんじゃなかったのが残念」
「お前でも私を満たすには至らないというのが分かっただけでもいい」
それぞれのセルシウスがその体勢に入った。一人は上段の構えを、一人は黒刀【参ノ型】を横に構え、もう一人は鞘に納めて腰を低くしている。
あの構えにはどこか見覚えがある気がした。どこかの本に載っていたあの剣術……確か名前は――
(切り抜けるには……いや、もうそうしている時間はない! ならば突破する! 反動や受ける傷なんて気にする余裕はない。そうしていては俺は死ぬ……!)
決意すれば行動は迅速に。頭の中の奥に眠っていたものを頑張って引きずり出しつつ、ペイルカイザーを握りしめてセルシウスへとまさしく特攻を仕掛けることにする。
「強化、視力、腕力、脚力! コード・身体、硬化。我、堅牢なる砦の如く」
「それでどうにかするつもりか。でも、必ず仕留めてみせよう。秘剣――」
高められた気は両腕から握りしめている黒刀【参ノ型】へと伝わり、更なる殺傷力を生み出していく。そこから繰り出されるは東方の殺人剣術。しかし誰も成しえることが出来ない剣術。
それを達成させるため、セルシウスは三人となってそれを疑似的に完成させる。
「――燕返し!」
構えた黒刀【参ノ型】はそれぞれ三つの軌跡を描き、気刃は一気にクロムへと向かおうとしている。
縦、横、半円の三つの気刃はクロムを逃さぬようにするようにしている上に間合いに入ってしまっている。入っていなかろうとも、このチャンスを逃さなければセルシウスを打倒するチャンスを呼び込むためにまた立ち回らなければならない。
これ以上引き延ばすのも難しいだろう。だからこそここで決めてやる。
首を刎ねようとしている横薙ぎの気刃は何とか回避したが、右肩への追撃となる縦の気刃と、左腕から足へとかけて届いた半円の気刃はこの身に受けることとなった。
当然ながら新たな傷を生み、出血するがクロムは止まらない。そのことにセルシウスは少なからず驚愕した。
腕を飛ばし、足を飛ばし、心臓や肺を斬り捨てるものだったはずなのに、そのどれもが不発だった。やはりあの強化が効いているのだというのがわかるが、それでも深手を負って立ち止まるはずだったのだ。
「体力バカが……! こういうのが鬱陶しい!」
振り抜いた硬直から無理矢理引き戻し、向かってくるクロムにもう一度斬りこもうとしたが、それよりも早くクロムが攻撃体勢に入っていた。ならば迎撃するのではなく回避行動に入るか、と迅速に思考を纏めて行動に入る。
しかしそれを読んでいたらしいクロムは軌道を修正した。守りに入っている上に近距離にいるから、手にしている黒刀【参ノ型】ではその力を充分に発揮できない。構えるよりも距離をとるよりも早く、クロムはセルシウスの腹へと再び膝蹴りを放つ。
「く、ぬ……!」
それにより数秒隙が生まれる。それを狙って体を捻り、足を刈るようにして足払いをかけて体勢を崩させる。崩れていくセルシウスが見たのはまた体を捻りつつ構えられ、その奥でクロムの気を纏って淡く光るペイルカイザーだった。
「……死なねえように気をしっかり持っとけよ?」
ぼそりと警告しつつ、クロムはよろめいたところを穿つようにしてペイルカイザーを振り上げる!
その一撃は一文字にセルシウスが纏うシルバーソルメイルに傷を入れ、新たな赤を生み出した。
振り上げたペイルカイザーの重量に負けぬようしっかりと大地を踏みしめ、両手で握りしめなおしたクロムは、勢いを落とさぬまま切りあげた傷と交差させるようにして、左肩から右腰めがけてペイルカイザーを振り下ろす。
それによりシルバーソルメイルには三つの傷を残し、その銀色の輝きは彼女の流す赤によってほぼなくなってしまった。
腰にあるシルバーソルコイルにも垂れ落ちるその赤は、彼女の傷の深さを示すように止めどなく溢れている。
しかしセルシウスは顔をしかめながらもその場に倒れ伏せることなく、体勢を崩しながらも膝を折ることもない。ただ荒い息遣いをしながらもまだそこに立っている。
握りしめた黒刀【参ノ型】は離すことはなく、強い意志を残した眼差しはしっかりと己の敵を見据え、その得物を構えなおそうとしている。
「はぁ……はぁ……、まだ、終わらない……。これからが、私の……戦い……、はぁ……殺し合い……、こうあってこその殺し合い……! 私が望む、生と死の狭間の戦い……!」
「…………」
呼吸が荒いのにその目は全く死んでいない。あの二撃は普通ならば瀕死に追い込むほどのものだ。というより死んでもおかしくないのだが、セルシウスはまだ生きている。気づけば溢れだす血は落ち着き始めている。
それはシュヴァルツの血統がもたらす回復力のたまもの。己の気や魔力で傷を塞ぎ、失った血を取り戻すために代謝能力を一気に高めている。
生存本能からくる驚異的な回復力、それが彼らの血に宿る呪いの原点。自殺不可の自己暗示は、この回復力を生み出した本能を弄ることで生まれたとされている。
だから経験を重ねたシュヴァルツの者はちょっとやそっとじゃ死ぬことはない。
彼らを殺すには首を刎ねたり頭を撃ち抜いたり、あるいは心臓を潰したりしなければならない。もちろん未熟な者ならばそんな事をせずとも不通に傷を負わせれば殺せるが、目の前にいるセルシウスはそれではまだ死なないというのは分かった。
もちろんクロムは殺す為に武器を振るっているわけじゃない。セルシウスを地に伏せるために戦っている。普通ならばもう充分瀕死に追い込んでいるのだが、セルシウスはまだ続けるつもりのようだ。
それに彼女の口にする言葉にクロムは思わず沈黙してしまう。
彼女の心が不安定だというのは話に聞いて知っていた。そうでなければ殺人鬼に身を投じる事になるはずもない。これはなろうと思ってなれるが、そのきっかけとなるものがなければそうなるはずもなし。
セルシウスにとってそれは故郷が滅びた事が原因だというのは納得のいくものだろう。しかし深くまでは知らない。彼女の心の深みにあるものはクロムには読み取れなかった。
「……セルシィ、もう終わりにしねえか?」
「はっ、寝言を。私たちはかのシュヴァルツの血統。殺し合いこそが一番心躍る事。ようやく面白くなり始めたじゃないか。ここでやめるなんてどうかしている」
いつの間にか呼吸は落ち着き始めている。その顔も無表情に戻しているつもりだろうが、流れた血が多いのか少しだけ青くなっているように見えた。
それでもセルシウスはこの戦いをやめようとしない。すぐそこで黒刀【参ノ型】の切っ先を自分に向けようとしている彼女の腕を打つように、ペイルカイザーの背で叩いてやる。それだけでセルシウスは黒刀【参ノ型】を落としてしまった。
彼女はさっきの攻撃でかなり弱ってきている。しかも今まで戦った時間の経過もあり、握り続ける腕の力も落ちているのではないだろうか。こればかりは体力勝負になる。これに関してはクロムは負ける気はしなかった。
「――っ、はぁあ!」
「……!? ぐ、ぁあっ!?」
だがセルシウスは左手を伸ばしてクロムの右肩に当て、気功を放ってクロムの肩を外してしまった。一瞬の出来事だったためにクロムの反応が遅れ、気づいたら右肩に強い痛みを感じると共に力が入らなくなってしまい、ペイルカイザーを落としてしまった。
だからといってここで油断し続けるわけにはいかない。得物を失ってもセルシウスは体術と気功術を持っているから戦える。それがわかればまだこの戦いは終わっていないのだ。
でもこれ以上続ければお互い共倒れになる。そうなってしまっては意味はない。
「
右手が使えないなら左手で。胸元へと放つ圧縮した闘気でまたセルシウスの動きを止めようとしたが、最早セルシウスはそんなもので止まらない。
「っ、……く、闘吼破!」
「ぬっ……!?」
今繰り出した技をそのまま返されようとは思いもしなかった。だがそんな事で止まらないのはクロムとて同じこと。右肩の痛みを気力で持ち直し、距離を取りながら無理矢理戻す。骨折でなく脱臼だったからこういう力押しでの治療が行えた。
「っつぅ……これでもきついってのは変わらねえか」
無理矢理戻した事による痛みを感じながらクロムは苦笑する。感覚も怪しいが使えないこともない。
(この程度の痛みがなんだってんだ。使えるなら俺に出来ることはまだ残されている!)
頭の中に浮かんだのは複数の人物。
再会して成長した事を感じさせた最愛の弟のライム。
死んでしまった従妹のグレイシア。
ポッケ村にいる相棒の桔梗。
そして最後に……幼い頃のセルシウスの姿。
夢に現れたグレイシアの願いを胸に、クロムは拳を強く握りしめる。そんなクロムの様子に気づき、セルシウスもまた拳を握りしめて飛び出した。
「おぉおおおおおお!」
「はぁああああああ!」
繰り出された拳はお互いの頬にめり込む。セルシウスの右ストレートとクロムの左フックには当然ながら気が纏われている。痛撃はヘルムを貫通して直に衝撃を伝えるが、二人はそのまま格闘戦へと入った。
女を殴る蹴ることが出来ないなんて人の道理などここでは意味はない。既に斬っているんだからそんなことを言うのは遅すぎるというもの。出血は止まったといっても鈍い痛みは残り続ける。
それに負けてしまうようでは動きは遅くなってしまう。だから二人は少し歯を食いしばりながら相手を殴り飛ばし、蹴り飛ばす。時に気功を放ち、斬った場所へと打ちつけることで傷を開かせてやる。
そうすればまた血が流れ出し、それを治そうと己の潜在意識の防衛反応が働いて余計な体力を消費する。
気と風の粒子を纏った二人はほぼ同時に攻撃体勢へ移る。セルシウスは跳躍して回し蹴りを放ち、迎え撃つようにして身構えていたクロムはサマーソルトを放った。
セルシウスの蹴りは深く入ることはなく、衝撃と風圧がクロムの腹から背中へと入るだけ。それと交差するように同じように蹴りの衝撃がセルシウスへと入り込んだ。
お互いの攻撃でお互い塞がった傷が開いてしまう。だが血を流しても戦意は失われない。
それを叩き折るための一撃を――
「ふっ!」
――それよりも早く立ち直ったセルシウスが肘打ちを放って動きを止め、両手を構えてクロムの胸に当てるようにして闘気を解放させた。
轟ッ! と弾けるような音を響かせてクックUメイルが破壊され、傷が開いて大量に出血する。
「がっ!? ……ぐ、ふ……甘い……! それでは俺は落ちねえ……!」
「……ッ!」
吐血しながらもクロムはしっかりと大地に立っている。左手でセルシウスの右肩を掴み、先ほど自分にされたように圧縮した気を解放させることで肩を脱臼させ、左のわき腹めがけて回り蹴りを放った。
吹き飛ぶセルシウスを追うように疾走すれば、破壊されたことで露出している黒いインナーを付けた胸元から、血が滴り落ちて大地に点々と血痕を残している。それを気にすることなく、クロムは足に気を篭めて走り抜ける。
「これで終わりだ!
疾走の勢いを乗せて跳躍し、上から地面に叩き落とすかのように飛び蹴りを放つ。
「ぐ、か、は……っ」
肺の中から空気を全部吐き出すかのようにその小さな口から声が漏れた。背中から落下したセルシウスに続くようにクロムも着地し、僅かに顔をしかめながら体勢を崩すがすぐに立て直す。
血を流しながら激しい動きをしてしまったため、まだ傷は塞がらずにどんどん出血しているが、今はそんなことに気を配っている暇はない。
地面に体を投げ出したままのセルシウスに視線を落とし、もう反撃してこないかを確かめる。
シルバーソルメイルの中心部は先ほどの一撃で破壊され、空洞となっている。そこからは傷が開いた事で新しい血が流れ出ているのが見える。
どう見ても大きな負傷だ。これで生きているというのが驚くほどの傷。しかしそれでもセルシウスの目から戦意が消えていない。
「ま、まだ……終わって……」
「……ごほ、それくらいにしとけ」
起き上がろうとするセルシウスを止めるように声をかけるが、クロムも咳をしながら血を吐き出してしまう。正直クロムも血を流しすぎたらしく、視界が少々おぼつかなくなっている。
「残念ながらお前の負けだ。……正直辛いものがあったけどな、さすがその道を数年歩き続けてきただけあるよ」
「……ふん、慰めだの憐みだのいらない。私はお前を殺せなかった。……ただそれだけ」
「…………」
やはりセルシウスは自分を殺しにかかっていたようだ。わかってはいたがこうもはっきりと告げられてはクロムも少し顔をしかめつつ沈黙せざるを得ない。
はぁ、とため息をつきながらクロムは左手で頭をかく。
「ホントに堕ちるところまで堕ちてるな。お前はそうやって命を狩り続けてその先に何を求めてるんだよ?」
「何も求めちゃいない。けほ……、私はただ殺し合いがしたいだけ。……そうしている間は、私はこの世界に生きているのだと実感しているんだから」
その言葉にクロムはセルシウスの歪みに少し気づいた。気づいてしまった。
シュヴァルツの血の力に呑まれてしまい、殺人鬼としての思考に染まって行動し続けた彼女の歪みの根源。自分だけが生き残ってしまったからこそ生死の実感を失ってしまった。だから何かを殺し、誰かと殺しあっていないと心に虚空が生まれてしまうようになった。
故に殺し合いを求める。
何も求めていないなんていうのは言葉のあや。実際はそれを求めている。
でも他にも無意識に求めているはずだとクロムは推測していた。じっとセルシウスの目を見下ろしながら問いかける。
「本当にそれだけか? お前はただ生きる実感を得るためだけに殺し合いを求めているのか?」
「……何が言いたい?」
そこでセルシウスは目を細めて少しだけ起き上がった。戦意は先ほどよりも落ち着いているようだが、何かあった時のためにいつでも動けるようにしておく。
「いやね、お前は自殺を考えたことがあるんじゃないかと推測してみたんだけど、どうなんだ?」
「…………ある」
「ああ、やっぱりか。そうだよな。自分が生きているのか死んでいるのかわかんなけりゃ、もう生きている意味なんてないと思い立つことはあるだろうな。そして実行してみた……でも死ねなかった。違うか?」
「…………」
その沈黙は肯定ととってもいいだろう。
シュヴァルツの血統であるならば誰もが刷り込まれている制限。己の罪を償うために自殺が出来ないという制限はクロムも知っている。従妹であるセルシウスもまたそれから逃れることは出来ないため、自殺が出来ないのは当然のことだった。
その制限から逃れられないとなれば、自分の心に虚空が広がり続けるのは必然。何もかもを失って生きる意味が見いだせず、自分一人だけ生き残って何をすればいいのかもわからない。
となれば本能が呼びさまされ、それが堕ちることだと知っていようとも知らずともそれに身を任せた結果が今のセルシウス。
そこまで考えれば同情も沸く。
同時に悲しくもある。
自分の従妹がそうなっているのも知らなかった事を。こうなるまで知らずにいて、救えなかった事を。
でもまだ間に合うはずだ。だからこそ今ここにいる。そう信じてクロムはセルシウスに語り掛け続ける。
「自分が死ぬためにはどうすればいいか、それをお前は考えたはずだ。そうして出した答えは殺し合いの中に身を投じる事さ。……そう、お前は殺し合いを求めただけでなく、心の奥で自分を殺してくれる存在を求めたんだ。セルシィ、お前は死にたかったんだ。……違うか?」
「…………」
クロムの言葉に耳を傾けながら彼の目を見つめていたセルシウスだったが、不意にその視線が逸れてしまった。認めたくはないのかもしれないが、どこかで思い当たる節があったのだろう。今、セルシウスの心は揺らいでいる。
引き上げるならばここからだろう。
「でも残念だな。俺は少し意地が悪いんでね、お前の望むように殺してやることはねえ」
「はっ、そうだろうな。そこまで言っておきながら、私を殺さないなんてことはわかっているさ。じゃあどうして私と殺し合いをした?」
「決まってんだろ。お前を救うためさ」
その言葉にセルシウスは逸らしていた視線をクロムに戻す。
見上げるクロムの姿は月を背負い、口元から血を流しながらも微笑を浮かべていた。どう見ても重傷な彼はそれでも笑みを消さずにそこに立ってセルシウスを見下ろしている。
それはどこか頼もしく見えてしまっていた事にセルシウスはまた少しの動揺を覚える。
「……私を救う? 何を言っている、お前は」
「同じ血統として、従兄として、お前は放っておけないからな。だからお前を殺さず、そして願わくばこれ以上その道を歩ませたくはないんだよ」
「……はっ、弟と同じようなことを口にするなんて、さすがはあの両親の子ということか。やっぱりお前たちは甘ったるい……ごほっ、く、っふ……」
吐き捨てるように言ってからその口から血が漏れ出て咳きこんでしまう。回復も追いついていない程セルシウスもまた負傷しているのだ。それは彼女の前に立っているクロムも変わらない。
今までこうして気力で立っていたが、もう限界が訪れたのか腰が抜けたようにその場に座り込んでしまった。
「甘くて結構。それで救える人がいるならば俺は甘くもなるし、厳しくもなるさ。……セルシィ、この言葉はお前にとってひどく残酷だろうけどな、それでも言わせてもらう――生きろ」
「殺し合いをやめて生きろと? それは私に死ぬよりも辛い道を歩ませようと言うのか。……はっ、それはそれはこれ以上ないほどに残酷な言葉じゃないか」
その口が笑みを形作るが、それは喜色ではなくどこか悲しみを帯びた辛い笑みのように見えた。その左手がゆっくりと動き、指を伸ばして自分の胸へと向ける。気を込めて斬られた部分を貫通させようと勢いよく動いたが、その指はシルバーソルメイルを貫くことはなかった。
彼女は本気で自分の胸を貫こうとしていた。だが何かに止められるかのように亀裂の手前でその左手は止まっている。
クロムが止めたのではない。セルシウスの左手はセルシウスの本能によって止められていた。
「生きる理由なくして人は生きれない。ただただ毎日を過ごす者は人ではなく人形さ。……そう、私はただの殺人人形。あの日から私の時間は止まり、セルシウスは死んだ。殺人人形は生きることを放棄しようとしてもそれは許されない」
自分の血で指を赤く染まった左手を口元に運び、こびり付いた血を軽く舐めとる。いつしかその目は赤みをなくし、色をなくしたように鈍色へと戻っていく。
そんな目もまた感情を感じさせないが、その深淵では深い悲しみと絶望に彩られているだろう。
「人形は自分で自分を殺せない。誰かに壊してもらわなければ存在が消えない。……ああ、そうさ。どこかでわかっていたさ。私はこの世から消えたかった。そんな私に生きろと、お前は言うのか? こんなくそったれな私に生きろと」
「ああ、生きてほしい。そう願うのは俺だけじゃない。あいつらのためにも、頼む、新しい道を歩いてみないか?」
座り込んだままクロムは頭を下げた。そんなクロムをじっと見つめていたセルシウスだったが、一息ついて左手をゆっくりと握りしめる。
こんな自分が新しい道を歩く?
視線を落とせば自分の血で赤く染まった指先をした左手がある。右手は相変わらず肩を外されているから力を感じず、ただじんじんと痛むだけ。でも両手は自分の血だけではなく、数えきれないほど殺した命が流した血がついているだろう。
自分は斬り捨てた命の躯の上に立ち、流した血の海に全身浸かっているといってもいい。そんな自分が今までの道を捨てて新しい道を歩めるはずもない。
そんなものは幻想。あるはずもない未来。
やっぱり自分は死ぬべきだ。
でも最後に――
「……ッ!」
――握りしめた左手に再び気を込めると同時に指を伸ばし、頭を下げているクロムへと振りかぶった。その頭を、例えかわされようともその心臓を貫けばこの男の命は消える。クックUメイルは破壊されているから心臓を貫く分には問題ない。
ほら、容易いことだ。
うまくいけばこんなにも簡単に命は消える。
今まで自分を殺せる存在がいなかったのは、こいつの命を狩るための運命の道標だったに違いない。
そんな馬鹿な思考を頭の片隅でしつつその左手でクロム貫こうとしたとき、セルシウスは信じられないものを見ることになった。
「――え?」
思わずその動きが止まってしまう。
それだけ目の前にいるものが信じられなかった。
そこにいたのは腰まで届く銀髪をした幼い少女。自分を見上げるその瞳はセルシウスと同じく鈍色に染まり、見覚えのある淡い水色の着物を着ている。そんな彼女がクロムの前に立ち、両手を広げてまるでセルシウスからクロムを守るように立ちふさがっていた。
「あ、姉貴……?」
『…………』
ぽつりと漏れた呟きに少女、グレイシアは何も言わずに立ちふさがるだけ。幼いながらも凛としたその眼差しは、セルシウスの目だけでなく心をも貫いている。
いつの間にかクロムは顔を上げ、グレイシアの後ろからセルシウスを見上げた。グレイシアの体は霊体だからか半透明であり、存在が保っているのかも怪しいが、必ずクロムを守るという彼女の意思の強さが伝わってくる。
「……そうか、姉貴も私に……オレに生きろというのか?」
『…………』
その呟きにグレイシアはしっかりと頷いた。
死んでしまった自分の姉がこうして目の前に現れただけでなく生きろと言う。そんな現実にセルシウスは頭を垂れて力をなくしたように左手を下した。
その様子にグレイシアは広げていた両手を下した。
続いて彼女の前にもう一人の人影が舞い降りた。それはグレイシアによく似た女性だ。微笑を浮かべると、そっとセルシウスの前に進み出る。
『セルシィ、ごめんね。ずっとあなたを独りにして。あなたを残して死んでしまってごめんね……』
「……そんな言葉に意味はない」
『そうね。……でも私は、私たちはあなたに生きてほしい。死んでしまった私たちの分と、あなたが奪ってきた人たちの分まで』
そう言う女性の表情は真剣なものだった。その様子にセルシウスは顔を上げて彼女の顔を見つめる。そっとセルシウスの両肩に手を置いた女性は、しっかりとセルシウスの目を見つめてゆっくりと話し始めた。
『私たちは確かに殺人鬼の可能性を秘めている。始まりはとっても悲しいものだったし、あなたが堕ちてしまったのは仕方がないでしょう。……でも、あなたはそれに身を任せ、自分の存在を保ち、自分を殺してくれる人を求めて殺人を繰り返した事実は変わらないわ。……そして、その分だけ自分と同じく身寄りをなくした人を生み出した、あるいはこの先も普通に生きるはずだった人の人生を奪ったのもまた変わりはない』
「…………」
『あなたはその責任を取らないといけないわ。死んでしまった人の分まで生き、その罪を償わなければいけない。……わかるかしら?』
子供を諭すように語る女性を見上げるセルシウスの表情は傍から見れば無表情に近いが、どこか心が揺らいでいるかのように瞳の奥で光が感じられる。今のセルシウスの心は先ほど以上に波が発生しているだろう。
クロムの言葉で生まれた隙間は女性の言葉で少しずつ広げられている。
「それがオレ生きる理由?」
『そうよ。あなたは償うために生きなさい。そして戦う理由をあなたが満たされる、命を殺すためではなく、誰かの命を守るためと切り替えなさい。あなたの刃はあなたが守るべきもののために振るいなさい。……そういう心構えが出来るだけでも、あなたのなかで何かが変わると思うわよ?』
「守る……このオレが誰かを守るって? ……はっ、そんなこと、出来るはずがない。血に塗れた手で誰かを守るなんて馬鹿げてる。……母さん、残念だけどそんなものは幻想……」
『出来るわ』
目を閉じて首を振りながら吐き捨てるように呟くセルシウスに、降りかかる揺らぎない言葉。確信めいた色合いを持つ言葉はセルシウスの目を開かせるには充分だ。
『あなたの名前は何?』
「……は?」
『いいから答えなさい。あなたの名前は?』
「……『
通り名を口にしようとしたセルシウスに首を振り『違うでしょう』と止めてやれば、ため息を漏らしながら静かに答える。
「セルシウス・ルシフェル……」
『そう。あなたは“シュヴァルツ”の血統であり、なおかつ“ルシフェル”の名を残しているの。ルシフェルは己の血統の罪を償うために誰かを守るために己の力を振るっているわ。クロムとライムくんのご両親がそうであるようにね』
「…………っ」
それで何かに気づいたかのようにセルシウスが唇を噛む。セルシウスの母親が言わんとしていることが見えてきたような気がした。
見守っているグレイシアの後ろにいるクロムも小さく頷いているから、彼もわかっているのだろう。母親はちらりと肩越しに振り返って視線を合わせれば、お互い微笑を浮かべて通じ合う。
目の前にいる娘に再び視線を合わせ、母親は優しく告げる。どうしてそんな確信めいたように言い切れるのかを。
『それにあなたは従姉妹でもあるわ。ならばあの人たちに出来てあなたに出来ないはずもない。あなたは誰かを守るために戦えるはずよ。あなたもまた“ルシフェル”の一人なのだから』
「……そうは言うけどな、母さん。オレに守るべき人なんていない。その時点で終わっている」
『あら、いるじゃない。あなたの守るべき人は』
そう言いながら母親は後ろにいるクロムに振り返った。それが意味することはすぐにわかったろうが、セルシウスはまたため息をつきながら小さく首を振った。
「何を言っているんだ。ついさっきまで殺し合った相手を守る相手に?」
『別におかしいことじゃないでしょう。それにクロムだけじゃないわ。ライムくんもまたあなたが守る相手としてはいいんじゃないかしら?』
つまり自分の従兄弟を守る人となれ、と彼女は告げている。しかしそんな従兄弟は二人とも殺し合った相手。そんな相手を守れるのか?
あの日ライムは言った。セルシウスを救うと。堕ちていくセルシウスを救いたいと。
あの時のライムは、まるでどんどん暗い海の底に自ら沈んでいくセルシウスに差し込む一筋の光。光も感じず、血の匂いしか感じない闇の中に光を差し込み、静かだったセルシウスの心に小さな波を発生させた。
クロムも先ほど言った。セルシウスを救うと。彼もまた殺し合いをすることでセルシウスを落ち着かせ、その心に斬りこもうとした。
その結果差し込んだ光は明るさを増し、小さな波は少しずつ大きくなってその心に穴を作り上げた。
二人の干渉は決して無駄ではなかった。変わらなかったセルシウスの心を変え、こうして突然現れた母親と普通に会話する事が出来ている。以前のセルシウスならば問答無用でクロムを貫いていたかもしれない。
何せ堕ちてしまえば昔の記憶は薄れ、もやがかかったようになるのだから。母親の願いは届かなかっただろう。
『最初はうまくいかなくてもいい。でもそういう心構えを持ち、行動するということに意味があるわ。少しずつ変わっていけばいい。そうやって人は成長しくのだから』
「母さん……」
『どうしてもあなたには変わってほしい。……あなたに血を飲ませてしまったのは、私なのだから』
セルシウスを守るために自分が盾となってかばった。それだけならばよかったのだろうが、流した血は下にいたセルシウスの口へと落ちていった。だからこそセルシウスは一層堕ちやすくなってしまったのだ。
自分が原因の一つとなってしまったことに、彼女はずっと心苦しく感じていたのだろう。だからこそこうして降りてきたのだ。
『でもあなたに話したものは全て意味がある事よ。今後のあなたが気を付けなければならないこと。……だから心に留めておきなさい。いいわね、セルシィ』
「……わかったよ。善処する」
『ん、それでいいわ』
にこりと微笑んだ彼女は軽くセルシウスの頭を撫でるように手を動かす。霊体のため実際に触れることが出来ないからこうしてやるしか出来ないが、セルシウスはそれを黙って受け入れていた。
やがて立ち上がった彼女は後ろにいるクロムに向き直り、静かに頭を下げる。
『ありがとう、そしてごめんなさい。こんなにぼろぼろになってまでセルシウスのことを想ってくれて』
『ありがとう、クロム。……ごめんね、無茶言って……』
「別に気にすることはないですよ。……はは、まあ正直辛いものがありますけど、俺はシアに言われるまでもなく、セルシィの事は何とかしてやりたいと思ってましたからね」
『……そう。ふふ、そういうところはあの二人の息子って納得出来るものがありますね。セルシィの事、よろしくお願いしますね』
もう一度頭を下げる彼女にクロムは微笑を浮かべて同じように頭を下げた。しかしまたごほごほと咳きこみ、痛みに顔をしかめてしまう。それに気づいたグレイシアが母親へと視線を移した。
『話を続けるのも辛いでしょう。薬は持っているのかしら?』
「……ああ、大丈夫っすよ。コード・ノーマル。……っとこれだな」
肩にかけているローブを元に戻し、その中を漁って黄色い袋を取り出した。その中から一粒の丸薬を取り出し、そっと口に含む。そしてそれをセルシウスへと差し出してやる。
無言でその袋を見つめるセルシウスに対してそっと袋を動かしてやれば、手を伸ばして中から丸薬を取り出し、彼女も口に含んで静かに呑み込んだ。
これは秘薬と呼ばれるもので、回復薬の中では高い治癒力を促してくれるものだ。これだけの大けがを負ってしまえば回復薬グレートでも足りないだろう。
「これで大丈夫だろうさ。……ま、装備は大丈夫じゃねえけどな」
破壊されたクックUメイルを見下ろしながら苦笑する。黒刀【参ノ型】で斬られ、セルシウスの闘気で粉々になった胸部分。飛竜の素材を使っているのにこれなのだから、実際に飛竜に当てればどうなるか。
恐らく狙って打ち込めば、一気にその外殻を吹き飛ばすことが出来るんじゃないだろうか。とはいえクロムもその気になれば出来なくはないが、セルシウスが持っているあの眼を彼は持っていないから深くは斬りこめない。
それはさておき、防具がこれでは帰りに襲われれば危険だろう。替えの装備は一応あるため着替えれば問題ないが、帰るにしてもセルシウスはどうするべきかと考える。
自分たちの説得で一応その気配を落ち着かせてくれたようだが、かといって完全に気を緩めているわけではない。これは本能からくる衝動であり、すぐに制御できるようなものじゃない。
これを機会に少しずつ心を落ち着かせてくれれば制御する可能性は出てくるだろうが、それがいつになるかが全くわからない。
しかもセルシウスは神倉朝陽側についていた者。その目的は彼女の私欲だろうが、それでも彼女たちの情報を持っているというのは変わりない。こっち側につくということは彼女たちを裏切るということを意味する。
そうなればどうなるか。
裏切り者を始末しに来るのかという懸念が生まれる。もし本当にそうだったとしても守るつもりでいるが、苦しいことになることには変わりない。でもそれを補う戦力増強が望める。
セルシウスの実力は今こうして示された。彼女が完全に味方をしてくれるというのは望ましいが、色々な事柄が絡んで微妙そうだ。
だがそれでも可能性があるならば、持ちかけてみるのもいいかもしれない。
「……セルシィ」
「……なに?」
「これからの事だけどさ、お前がいいならこっち来るか?」
「こっちというのはポッケ村に来るか、ということか?」
それに頷いてやると、セルシウスは視線を逸らして一息ついた。ライムとクロムと守るということは彼らについて行動するということになるのだから、自然とポッケ村に向かうことにもなるだろう。
それはわかっていたがどうしたものかとセルシウスは考えた。彼女の頭に浮かぶのはやはり朝陽とアキラの事だった。あの二人の事は別に自分の上に立つ者でも仲間でもない。
ただ自分が満たされるためにいい環境だったからついていただけ。ゲイルとアルテが切り捨てられ、抜けてしまった今となっては繋がりはもう薄い。
だから特に未練はない。でもどこか気になるところがある。
それはこの計画に関する事なのか、あるいは個人に関する事なのか。
それがいったいなんなのかはわからないが、何かがあの二人にあるような気がするのだ。
「…………わかった」
あまりにもお節介で心配性で甘ったるく、正直そういうのは斬り捨ててしまいたい気持ちがまだあるのだが、でも心のどこかで受け入れてしまった。
この心をかき乱してくれたこの兄弟と母親と姉。いつからだろうと振り返れば、やはりあの日出会ってしまったのが運のつきだろう。ミナガルデでライムと出会ってしまったからこうなってしまった。
それでも悪くないと微かに思ってしまうのは心が侵されたと考えるべきか、普通の人の心が蘇り始めたと考えるべきか。まあ、いいだろうと思うことにする。
「正直この二人がこの先化けて出られては、反射的に霊体だろうが関係なく斬ってしまいそうだからな。そういうのは私としては寝覚めが悪いから、お前についていく」
『あら、怖い怖い。でも決意してくれて嬉しいわ』
「……ふん」
にこにこと喜んでいる母親からそっぽ向くセルシウスだが、そんな事は気にしてないという風に彼女は笑顔を絶やさない。隣にいるグレイシアも嬉しそうな表情をしているものだから、セルシウスは視線を戻すことなく無言のままだった。
でも僅かにその表情が拗ねてるような色合いが見られるくらいは変化が見られるから、いい傾向になってきているのは間違いないだろう。
「じゃ、ま、少し休んだらポッケ村に行こうかね」
それに頷くのを確認したクロムは改めて二人に向き直る。夢の中に現れるだけでなく、セルシウスのためにわざわざ降りてきた二人。こういうのは本当に稀なケースじゃないだろうか。
無理を通してきたというのは考えるまでもないだろう。残したたった一人の家族のために降りてきた事は本当に感謝しなければならない。そして出来るならもう心配のあまり降りてこないようにセルシウスを守らなくては。
そんな決意をしながらクロムは二人が安心できるように頭を下げた後、笑顔を浮かべた。その顔を見た二人は微笑を浮かべ、半透明だったその姿は光の粒子を放ちながら空に上がっていく。
『……ああ、セルシィ。一つ言い忘れていたことがあったわ』
「なに?」
『罪を償い、誰かを守るために力を振るうのも大切だけど、もう一つ大事なことがあったわ』
「……それは?」
隣にいるグレイシアに視線を落とせば、彼女も同じように母親を見上げて微笑を浮かべていた。
『何年、何十年か先になってもいい』
母親がそう言った後、二人は口を揃えて一言こう言った。
『幸せになりなさい』
「…………」
暖かな笑顔を見せながら言うその一言は、またしてもセルシウスの心に新しい波紋を広げるのに充分なものだった。当の本人たちはその笑顔のまま光の粒子となり、静かにその場から消えていった。
残された二人はあの二人がいた場所を無言で見つめているだけ。セルシウスの後ろにいるクロムは彼女の表情は窺い知れない。
もしかすると、という事はあるかもしれないが、無理に見ることはないだろう。
「……幸せになれって、まったく……最後の最後にとんでもない遺言を残しやがって……」
言葉自体は憎らしげだが、声色はそういう雰囲気はない。
背を向けているセルシウスをそっとしておこうと思い、クロムは静かに距離を取った。草むらに入って着ている装備を脱ぎ捨て、セルシウスの様子を窺いながら着替えている間も、セルシウスはただ一点を見つめて佇むだけだった。
彼女が何を思うのか、それはわからない。でもこの月夜の下、彼女は確かに変化を起こした。それは彼女にとってもクロムたちにとってもいいことであることを願うだけ。
一人の少女を救えたのならばこの傷も勲章だ。彼女の背中を見つめながらクロムはそう思うのだった。