呪われし血統と黒き竜   作:流星彗

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72話

 

 

 森がざわついている。

 さっきまで静かだったフラヒヤの森を漂う空気は少しずつ冷たくなっていき、漂っていた闇の粒子がある一点を目指して動き出しているような気がした。

 シアンも先ほど以上に顔色を悪くし、荒い息をついている。

 それだけではない。ライムもまた少し顔が青くなり始め、冷や汗を流し始めている。

 

「……なんだ、この気配。このエリアにいないのに圧倒的な気迫を感じる……。明らかに今までの狂化竜とは違うよ……」

 

 呟くように漏れ出たのは、本能からくる恐怖を表す言葉だった。

 隠しようもない。

 自分達は未知の狂化竜を恐れている。

 恐怖によって足が竦み、走る速度が落ちている事に気づいたシェリーの鷹が振り返り、二人の前で羽ばたきながら注意を促す。

 

『急いでください! 既に奴はフラヒヤの森に侵入、場所は恐らくエリア5です!』

 

 位置的には正反対にあるエリア2を走り抜けていくが、それでも恐怖が湧き上がっている。実際に目の前にいないのにこのざまだ。奴に相対すればどれだけあの雰囲気に飲み込まれてしまうのか。

 だがライムはそれだけではない何かを感じるのだ。

 確かに本能は恐怖を叫んでいる。それは間違いない。

 

(なんだろう、これは……。なにかが湧き上がってくる。恐怖というのは間違いないんだろうけど、別の何かが……)

 

 本能が何かを叫び、心……いや、魂が震える。恐怖で震えているだけではない。しかしそれが自分でもわからない。

 わからないままシアンを抱きかかえながらライムは必死に走り続けている。その先には鷹が先行し、道を示している。

 

 ――グアアアアアアァァァァァ!!

 

 その時遠くで咆哮が聞こえてきた。恐らく(くだん)の狂化竜の咆哮だろう。更に恐怖を煽ってしまうだろうその咆哮を聞いたライムは、また心がざわつくのを感じた。

 しかしもうそれを考えないようにする。今はただ逃げ延び、生き抜くことを考えるのだ。

 それはこの現状において当然の事だろうが、それは見方を変えれば本能からくるもう一つの叫びから目を逸らしているかのようにも思える。

 しかしライムの性格を考えればそれは当然のようにも思える。その感情は認めたくはない物であることは間違いなかった。

 エリア2を抜け、エリア1へと差し掛かった時、ライムに抱きかかえられていたシアンがびくりと体を震わせる。顔を上げて東の方へと視線を向けると、体を震わせながら呟くように言う。

 

「……う、動き出したよ……。真っ直ぐにこっちに来てる……!」

「うん、僕にもわかる。あの気配が僕達を目指してきているのが」

 

 冷や汗をかきながらライムも同意した。あの力を感じるからこそその動きは距離が離れていても敏感に感じられる。

 その疾走速度は明らかに速い。例えどんなに距離が離れていようとも、数分あれば二人の前に姿を現してしまうだろう。それは容易に推察する事が出来た。

 しかしそれでも走り続けなければならない。

 が、何か対策をしなければならないだろう。そうしなければ追いつかれて自分達は殺される。

 

「…………」

 

 腹を括らなければならないか?

 そう考えながらライムは頭の中に自分が使うべき魔法を考える。身体的にはまだ甘い所があるから逃げ切る事は少し怪しくなってきた。

 地理的にはどうだろうか?

 ここは木が生い茂る樹海であり、身を隠すものは多いのは間違いない。だがあの気配はそんな木々を強引になぎ倒してこっちに接近している様子だった。つまり隠れようが自分達の気配を感じ取って見つけ出してくるだろう。

 となればもう自分に出来るのは魔法のみ。

 

(何が出来る? この状況で逃げ切るには何が……? それともやっぱり戦うしかないのかな?)

 

 腹を括るという意味は戦うという意味だ。自分達では戦っても勝ち目はないだろうが、それでも少しは抵抗する事が出来るかもしれない。

 この身には母親譲りの魔力がある。様々な本を読んだことによる知識がある。

 これらを生かすことで生き残れる道が僅かでも拓けるのならば、それに賭けてみるのがいいだろう。

 

(何を使う? この地形を利用するなら植物を使う?)

 

 少しだけ辺りを見回しながら使えそうなものを探る事にした。でも木々をなぎ倒す力を発揮しているらしいあの狂化竜相手に使えるのか?

 真っ向から止める事が不可能ならば搦め手を使うしかない。例えば生え揃っている長い草や、木々から垂れ下がっているツタの葉などだ。これらを使えば少しは足止めできるかもしれない。

 そんな事を考えていると、どんどんあの気配が接近してくるのがわかる。相変わらず遠くから何かをなぎ倒し、疾走する足音までも聞こえてくるかのようだ。

 迷っている暇はなかった。

 頭の中に浮かんだイメージを顕現するかのようにその力を行使する。するとツタの葉が伸びて狂化竜が来るであろう方向へと向かっていく。更に草とも絡み合って複雑な柵となってくれた。

 それを残してライム達はエリア1を抜けようとした――

 

「グアアアアアアァァァァァ!!!」

 

 ――が、それを奴が許すはずもなかった。

 咆哮が聞こえた瞬間、植物の柵が大きく震える。その奥では漆黒の影の中に赤い光が一つ光る何かがそこにあったのだ。

 それを見てしまった二人は大きく体を震わせてしまった。

 真紅の瞳の中心で怪しくぎらつく赤い光に宿る純粋な殺意と敵意。その眼光を直接見ずとも、視界に映った瞬間冷たい悪寒が背筋を走り抜ける。

 まさしくそれは恐怖。

 それによって足を止めてしまったライムに、シェリーは声を張り上げて正気を取り戻させようとし、鷹はばさばさと羽音を立てて羽ばたいている。

 

『二人とも! しっかりしてください! ここは私が引き付けますから!』

「……っ、シェリーさん!」

『行ってください! 振り返らずに!』

 

 シェリーの声に何とか反応したライムだったが、鷹は二人の後ろへ向かって飛行していく。その先には当然ながら草の柵を破ろうとしている狂化竜――狂ティガレックスがいる。

 血に濡れた鋭い歯を使って食い破り、同じく血に濡れたその爪を以ってして強引に破ろうとしている。複雑に絡み合った植物は見た目以上に強固なものなのだが、それを奴は持ち前の力のみで破っていく。

 ぶちっ、ぶちっと千切れていく音まで聞こえてきそうなそれを感じながら、ライムとシアンはそんな狂ティガレックスへと向かっていく鷹を見つめるしかできない。

 それを感じ取った鷹は肩越しにもう一度振り返り、動こうとしないライムを叱責した。

 

『何をしているのですか!? 行きなさい!』

「く、ぅ…………ごめんなさい……っ!」

 

 悔しさに歯噛みしながらライムは背を向けて走り出した。その際に小さな雫が宙へと零れ落ちる。

 迷っていたのは、自分達のために使い魔とはいえ身を挺して狂ティガレックスへと向かっていくのを、黙って見過ごす事が出来るかという事だった。誰かを守りたいという気持ちが強いライムが、自分のためにその命を投げ出す行為を見捨てられない。

 出来る事ならそれをなくしたいという思いがあるのだが、この現状では自分は逃げる事しかできないのかという迷いが生まれてしまった。

 今でも思う。

 本当に逃げるだけなのかと。

 もう敵はすぐそこまで来てしまっているのだ。逃げ切れるかどうかも怪しくなってきた。

 使い魔と意識を共有している今、鷹が傷つけば操作しているシェリーにもその痛みが与えられるのだ。それがわかっているからライムは迷ってしまった。

 心の中の天秤は複雑に傾き、その度に感情がぐちゃぐちゃに混ぜられていく。でもそれをばっさりとシェリーは切り捨て、それを選択してしまったライムはその複雑な心境を象徴する一滴を流してしまう。

 

「グルアアアアアアアアアァァァァァ!!」

 

 咆哮を背に受け、足が竦みそうになりながらもライムは何とか走り、エリア1を後にした。

 獲物を逃がしてしまいそうになる事を悔しがるのか、狂ティガレックスは声を張り上げながら草の柵をどんどん破っていく。その前では鷹が羽ばたき、その周りでは淡い光が集まり始めていた。

 

『……使い魔を通してですが、何とかなりそうですね。例え数分だろうと数秒だろうと、あの二人を逃がす為にもここは止めさせていただきますよ!』

 

 魔力の光はそれぞれ収束し、柵から顔を出しているその頭へとそれぞれ弾丸のように放たれた。

 狂ティガレックスは月とラージャンとの戦いによって傷ついている。その右目や両腕、体と切り傷や薄らと残っている内出血した跡がそれを証明している。

 どれだけ生命力があったのかは知らないが月の事だ。数時間も戦っているのだからかなり削られているだろう。

 だから自分の攻撃によって怯んでくれれば時間は稼げる。そうシェリーは考えていた。

 撃ち込まれていく魔力の弾は周りの植物から調達した自然のもの。鷹に篭められている魔力を使えばこの鷹を操作する事が出来なくなってしまうからだ。しかも使い魔を通して行っているため操れる粒子の量は通常よりも少なくなってしまう。

 その為密度を高める事で威力を高めなければならない。それが数秒の時間を作り、隙を生み出すことになる。

 

「グルルルル……!」

『くっ……効いている気配はあまりなさそうですね……! それでもまだ終わって――』

 

 怯まないならば怯むまで撃ち続けるのみ。次々と粒子を集めて弾として放とうとした鷹を前に、狂ティガレックスは柵に手を掛けたまま大きく息を吸い始めた。それが何を意味するかを察するが、その時には既に行動へと移っていた。

 

「ガアアアアアアアアァァァァァ!!!」

 

 牙と爪でその強度を失い始めていた柵は、大咆哮から生み出される衝撃波によって吹き飛ばされる。しかもそれは滞空していた鷹をも吹き飛ばし、作っていた弾も消し飛ばしてしまう程だ。

 自由になった狂ティガレックスは、バランスを崩してしまっている鷹を見逃さないはずはない。ぐっと四肢に力を篭めると勢いをつけて走り出し、宙にいる鷹へと飛びかかった。

 

『ここで終わるわけには……っ!』

 

 鷹を操作しているシェリーの表情は苦々しく、冷や汗を流している事だろう。飛びかかってくる狂ティガレックスから回避するため、鷹は何とか羽ばたいてその巨体から辛くも回避する事が出来た。

 羽ばたく翼からは数枚の羽根が落ち、着地していく狂ティガレックスの左上に位置取る事が出来たのはある意味奇跡といえる。

 ぎろりと睨み上げてくる狂ティガレックスから少し距離を取りつつ、再び魔力を集めていくのだが、狂ティガレックスは体を捻って鷹と向き合ってきた。

 意識は完全にライム達から鷹へと向けられている。それだけでもここで引き付けておいた意味があったというもの。反撃として魔力の弾と共に羽ばたく事で真空波も放っておくとする。

 顔へは魔力の弾が、両腕や体へは風の刃が着弾して狂ティガレックスへとダメージを与えていく……のだがこんなものがダメージになっているとは思えない。だが問題ない。これは別に体力を削っていくのが目的なのではないのだから。

 

「グルァア! グルァアアアアア!!」

 

 そして怯むこともなく鷹を見上げて吼え、狙いを定めてまた飛びかかってきた。シェリーは落ち着いて鷹を操作する事で回避する事が出来た。反撃として真空波を主に撃ち込んでいき、溜めた魔力を解放していくのだが、一向に怯む様子がない。

 それどころか鷹の動きを観察するかのように視線を動かし、攻撃を受け続けながらもその機会を窺っているかのようだ。

 しかしそれを何となくわかっていながらも、シェリーはただ攻撃を続けるしかできない。シェリーが退けば狂ティガレックスが追いかけてくる保障などないのだ。つまり、鷹を見限って本来の獲物であろうライム達を追う可能性が高い。

 だから二人が逃げ切るだけの時間を稼がなくては。それに今はここにカリンとキキョウが向かってきている。二人が到着するための時間稼ぎでもある。

 

『退くわけにはいきません! 出来る事は限られていますが、言い換えればそれに専念する事が出来るという事でもある!』

 

 その意志は確かで強固なものだ。あの二人を守るために鷹は飛び回り、攻撃を加えていく。鱗や甲殻はその攻撃を受けてもあまり傷つかないが、月によって傷つけられた部分を狙えば傷を抉るという攻撃になる。

 そこをしっかりと狙う事は回避もしなければならないために出来ないが、放たれたものが命中すればおいしいと考える。

 

「グルルルル……、グアァッ!」

 

 不規則に飛び回る事で自分を追う視線を動かし続けようとする鷹だったが、ついに狂ティガレックスが動いた。攻撃を受け続けながらも四肢を動かして鷹へと接近していく。

 だが狂化しようとも奴はティガレックス。恐れるのはその速さとパワーであり、その軌道は愚直で読みやすい。鷹は横へ飛び、更に上に舞い上がりつつ真空波を落としていった。

 が、狂ティガレックスはそのまま突進を続けるのかと思いきや急停止したのだ。

 四肢が発達しているティガレックスの疾走は、草原を走り抜けるアプトルに劣らない程に速い。人々に親しまれ、遠距離を一気に移動したいときに乗るその種族の疾走速度は、そこらの竜種よりも速く、地を駆けるものの中では上位に食い込む。

 そんなアプトルに並ぶかもしれない程の速さを出す事が出来れば、その速さを一気に落として止まる事は難しいのは想像するに容易い。急激に止まれば速さの勢いが残って体は前のめりになり、バランスを崩す可能性がある。

 だが狂ティガレックスは爪を食い込ませて重心を調節し、回避する鷹を視線で追いつつ急ブレーキをかけたかのように止まったのだ。そのまま息を吸い込みつつ転進し、鷹に向き直るとともに高らかに咆哮したのだ。

 

「ガアアアアアアアアアァァァァァ!!!」

『――っ!?』

 

 生まれる衝撃波に飲み込まれ、鷹は吹き飛ばされて地面へと落下していく。それを放置しておく狂ティガレックスではなく、追うように疾走したかと思うと勢いを殺さずに跳躍した。

 鷹を捕まえて逃さない、とでもいうかのように右手を振りかぶって鷹へと振りおろしていく。それから逃れようと鷹を操作しようとするシェリーだったが、衝撃波が想像以上に強かったのか、操作が効かずにもがくように落下していくだけだった。

 鷹が見る視線いっぱいに口を開いている狂ティガレックスが映ったかと思うと、強い痛みと共に視界が閉ざされた。

 

『――――――!?』

 

 声にならない悲鳴を残し、鷹は狂ティガレックスによって引き裂かれ、何も残らずに粒子となって消えていった。だがそれが狂ティガレックスにわかるはずもない。確かに捕えたはずだと右手を中心として辺りを見回している。

 しかしいないのならばそれでいいと割り切ったのか。顔を上げてライムが走り去って行った方向を見つめた。

 邪魔をする者はいなくなった。ならば本来の獲物を狩りに行くのみ。「グルル……」と低く唸ると狂ティガレックスは疾走を開始してライムの後を追っていった。

 

 

 ○

 

 

 ポッケ村の酒場でガタンッ! と椅子が倒れる音が響いた。次いで響くのは何かが床に落ちた音。そして響く少女の悲鳴。

 そこにはシェリーが大量の汗を流しながら床に倒れ伏している姿があった。その脇には悲痛な顔をしている受付嬢の一人がいる。同席していた撫子は勢いよく立ち上がり、入口へと向かって走り出す。

 扉を勢いよく開くと近くにいた男性へと叫んだ。酒場から聞こえてきた音を聞いていたらしく、声をかける前から何事かという表情をしている。

 

「そこの人!」

「どうしたんだ!? すごい音と悲鳴が聞こえたけど……」

「シェリーさんが倒れたんだよ! すぐにお医者様を呼んでください!」

「何!? わかった、すぐに連れてくら!」

 

 診療所にいる医者を呼びに駆けだした男性を見届け、撫子は酒場の中へと戻っていく。まずシェリーの名を呼んでいる受付嬢にタオルを持ってくるように言うと、うつぶせに倒れ伏しているシェリーを起こして仰向けにしてやり、意識や呼吸、脈拍を確認した。

 倒れる前に聞いた話では、ライム達の試験に派遣した使い魔の鷹を操作していたという事だった。乱入してきた狂ティガレックスを引き付ける為に、ここに座って集中していたという。

 だが意識を共有しているだけでなく受けた傷の痛みも共有してしまうらしいが、この様子からして鷹がやられたというのは間違いないだろう。

 ふと何かに気づいた撫子はシェリーが着ている服のボタンを外していく。タオルを持ってきた受付嬢が驚いているのも構わず、上のボタンを外し終えて服をはだけていくと、驚くべきものがそこにあった。

 なんと白魚のような白い肌に痛々しい爪痕があったのだ。左首付近から右胸にかけての爪痕が赤く染まっている。それだけではない。下に視線を移せば左肩、左腕からも同様の傷跡がはしり、合計三つの傷跡がシェリーの体に刻まれていた。

 しかし傷跡はあるが出血はしていない。これは恐らく鷹がやられた時の傷を共有した結果だろう。人の身で受ければ間違いなく死んでいる傷だが、ただ傷跡が残っただけというのはある意味不幸中の幸いか。

 だがまだ若いシェリーの体にこれほどの痛々しい傷跡が刻まれるというのは心苦しい。女性にとって傷跡とは最もあってはならないもの。顔でなくとも体に残ったそれはコンプレックスになってしまう。それを考えれば同じ女性である撫子と受付嬢は心をぎゅっと鷲掴みにされ、言葉に出来ないものが喉まで出かかり、飲み込むしかなかった。

 そんなシェリーは倒れた時から気を失っている。それは当然だろう。受ければ死んでしまいかねない一撃を受けてしまったのだ。倒れる前に声にならない悲鳴を上げていたのだから、その激痛にショックを受けてしまったのは間違いない。

 溢れている脂汗をタオルで優しく拭き取っていき、先ほどの男性が呼びに行った医者を待つことにする。

 

「お待たせしました!」

 

 それほど時間もかからず、酒場の扉を開けて男性と医者がやってきた。その手には往診鞄が握られており、シェリーの様子を見た医者は表情を硬くして駆け寄った。

 意識は失われているが脈拍はある。痛々しい傷があるがそれは傷を共有した結果であり、その体が傷ついているわけではない。

 だがその精神に与えられた傷は深い。その意識を奪い、深淵へと沈み込むほどに。それが体に影響を与えてしまっているらしい。

 刻まれた傷跡に軽く触れ、シェリーの容体を診た医者は連れてきてくれた男性と受付嬢へと視線を移した。

 

「あまり動かさず、ベッドに連れていきましょう。担架をお願いできますか?」

「はい」

 

 頷いた受付嬢は奥へと消えていく。

 その間に撫子は医師の診断はいかほどか訊いてみる事にした。それに答えつつ医者はどのような状況でこうなったのかを撫子に質問し、それらを纏めて下した判断はこうだった。

 身体的にはまだ死ぬようなものじゃないのでその心配はない。しかし傷跡は恐らく一生残る可能性があるとの事だった。整形の腕がある医者ならば、もしかするとうっすらと残るほどまでは治せるかもしれないが、彼には整形技術があまりないので無理らしい。

 しかし問題は精神。

 今は意識が失われているだけなのだが、このまま目覚めなければ懸念しなければならない事がある。

 何度も言うがシェリーは普通に受ければ死んでしまう程の一撃を受けている。同時に狂ティガレックスの殺気を、使い魔越しとはいえ一気に受けてしまっているのだ。

 心が殺気によって貫かれ、その身を裂かれる激痛を味わった。そのショックの強さによってこうして意識を失っている。それだけならばいいのだが、ショックの強さは脳に自分は死んでしまったと誤認させるには充分なものだ。

 つまり精神の死があり得る。

 体は生きながらえる事が出来ているのに、心が死んでしまっては、それはただの生きる肉塊でしかない。心が死ぬことはすなわちその人の死に等しい。

 

「こればかりは私にはどうする事も出来ません。私が治せるのは人の体だけ。心に関しては薬もメスも意味がありませんから……」

「……そう、ですね……」

 

 医療が関われるのは体に関する事だけ。眠り姫を起こす事はどんな医療も意味がない。そこまでの技術がこの世界にはないのだ。

 それを可能とするのが魔法だろう。月が紅葉に行ったのがいい例だ。だがあれはそこらの魔法使いには不可能。人の精神に入り込むなんてイメージするのは難しい。それに今、月はここにはいない。そして帰ってきたとしても狂ティガレックスとラージャンとの戦闘で疲れている彼女にそれを頼むのは心苦しい。

 となれば頼れる人は誰もいない。シェリーの心の強さを信じるしか道が残されていなかった。

 

「今は倒れた時に打ったでしょう打撲の手当てだけしておきます。何かありましたらすぐに呼んでください」

「はい、ありがとうございます」

 

 お礼を口にして頭を下げる傍で、鞄を開けて必要なものを取り出した医者が薄く微笑する。その後ろで撫子は軽く唇を噛みつつその様子を見守っていた。

 祈る事しか出来ないのがふがいない。自分は竜魔族とはいえ所詮鍛冶屋の娘だ。そんなに広く魔法に触れているわけではないから、何も出来ないのだ。

 

「……おかーさん」

 

 ふと、現場に向かっている母親の花梨の事が頭に浮かんだ。シェリーをこんな風にしてしまった狂ティガレックス。本当に大丈夫だろうか、と心配になってきた。

 でもこれもまた祈る事しか出来ない。

 ライム達は大丈夫だろうか。花梨達は戦闘を始めた頃だろうか。

 みんなは無事だろうか。大怪我を負っていたりしないだろうか。

 自分が行けばよかったのだろうか。昔の自分ならば花梨に代わって戦いに行けるのに。

 だがもう花梨が動いてしまった。ハンターをやめた自分に代わって現役を未だに続けている花梨が戦った方がいいのはわかっているが、それでも後悔が少し出てくる。

 色んな不安が湧き上がってきて心がかき乱されていく。胸の前で右手を握りしめ、左手で服の裾を掴み、目を閉じてまた祈る事しか出来なかった。

 

 

 ○

 

 

 ベースキャンプに戻った二人だが、いつまでもここにいるわけにはいかない。あの狂ティガレックスの様子ならば、ベースキャンプ周辺に撒いているモンスター除けの薬品なんて意味はないだろう。

 ならば繋いでいるクストルに乗り、早急にここから離れるのが得策か。今まで抱えていたシアンを立たせるとその顔色を確かめてみる。先ほどよりは幾分かマシになっただろうか。相変わらず恐怖は取れないのか体は震えたままだ。

 しかしこれからはクストルに騎乗してここを離れる。今までと違ってその速さは段違いに違うだろう。飛び乗るようにしてクストルに騎乗すると、隣を並ぶシアンの様子を窺い見る。

 同じように飛び乗ったシアンはまだ少し表情を硬くしていたが、ぐっと恐怖を押さえつけて手綱を操ってクストルを走らせた。それを追うようにライムのクストルも走りだし、ベースキャンプを後にした。

 森を駆け抜けるその速度はなかなかのものだ。森の中だから真っ直ぐ走れず、木々をよけながら走る事になるため全速力ではないが、人の身で走るよりも圧倒的に差がある。

 そんな二人が去っていった数分後にそれはやってきた。

 木々を薙ぎ倒して狂ティガレックスがベースキャンプへと侵入する。そこにあった残り香を嗅ぐように顔を上げて辺りを見回し、残されているテントや支給品ボックスと視線を移し、やがてライム達が去っていった方向を見やった。

 低く唸り、残り香から方向を特定すればやる事は一つ。それを頼りに追いかけていくのみだ。

 逃げる獲物を追いかける。狩りにおいてそれはどこにでもあるようなものだろうが、狂ティガレックスは目の前を塞ぐ木などそこら辺の小石にしか思っていない。傷ついた体でも森の木は狂ティガレックスの突進によって倒れていく。

 時に前足によって薙ぎ払われ、倒れたものは幹を潰される。狂ティガレックスが通った道はボロボロなものだ。無造作に倒れ、折れた幹から塵や粕が散らばり、枝についていた葉はあちこちへと舞い散っている。

 それはあたかも嵐が一直線に通過してしまったかのようだ。何もかもを薙ぎ倒し、小さなものを撒き散らし、穏やかな日常を壊してしまう。

 自然の暴力。

 それが今の狂ティガレックス。

 暴力であり、憤怒であり、狩猟の権化が暴走列車のように森を強引に突き抜ける。そうなれば森に住まうモンスター達の悲鳴が聞こえてこようものだろうが、彼らは狂ティガレックスがこの森にやってくるのを察知して一目散に逃げ出してしまった。

 このような現象は古龍がやってきたときと同じようなものだ。自然に影響を与え、その存在自体が飛竜たちよりも上回り、保有する能力も格段に差がある存在。放たれる気配も他を圧倒するような存在であるため、人族よりも気配に敏感なモンスター達は古龍の接近を感知すると住処を離れていく。

 狂ティガレックスもまた古龍とは違えど、放たれる気配がモンスター達を怯えさせて逃げ出させてしまった。

 ライムとシアンが乗っているクストルはギルドで訓練されたものなので、一応飛竜がベースキャンプにいようと、ラオシャンロンを前にしようと走れる。それは以前のドンドルマでの決戦でも証明された通りだ。

 ドンドルマのアプトルはあの巨体を前にしても逃げる事はなく、ハンターを乗せて向かっていった。自分の役割を遂行し、ハンターや道具を乗せた荷車を次々と運んで行った。

 しかしそんなアプトル達は、乱入してきた狂リオレウスと狂リオレイアから逃げ出した。それはラオシャンロンの圧倒的な雰囲気よりも、狂化竜が放っていた殺気と狩るという気迫に恐怖したのだと思われる。

 そして今二人が乗っているクストルもまた、その影響を受けているのだろうというのが少しだけわかった。手綱を通してクストルが少し緊張して震えているのが感じられる。狂ティガレックスが放つ気配にあてられているのだろう。

 距離が離れているが、背後からは微かに差すような殺気がちくちくと感じるし、木々が倒れていく音と狂ティガレックスの声が聞こえているのだ。

 こちらは木々をすり抜けるように移動しているに対し、狂ティガレックスは障害物を全て強引に破りながら直進してくる。クストルのスピードも木の間をすり抜けているから最高速度に達しておらず、またクストルは雪山という環境に対応して進化した個体だ。草原や森に住まうアプトルとは少しだけ体のつくりと、その速さを発揮する環境も違う。

 それでも常人やそこらのモンスターには追えないような速さで森を突っ切るクストルだが、背後から聞こえてくる音は少しずつ大きくなってきている。

 このままでは追いつかれるのは目に見えている。

 

「く……」

 

 小さく唸ったライムは、心の中で自分達は恐らく北東へと進んでいるんだと信じたかった。シェリーの事だ、ポッケ村にいる月やクロム達にもこの事態は伝えているはず。助けが来るならばその時間を早めるために北東へと進んだ方がいいのではないかと思ったのだ。

 しかし深い森は方向感覚を狂わせる。それも自分達は追われている身。方角を確認する余裕なんてなかった。

 

「…………」

 

 ちらりと後ろを確認してみる。まだ姿は見えないが、奴が接近しているのが感じられた。自分の中に流れる血に宿る力が教えてくれる。奴は確かに視界の向こうにある森の奥にいると。

 少し意識を集中してみれば、森の一点に赤黒い力の波動が視覚的に視える。ぎらぎらとした波動を放ち、自分達に向かって伸びてくる殺気の奔流。それは無数の触手のように見え、自分達を必ず捕えようと迫ってくるのだ。

 

(……あれは恐らくティガレックスで間違いない。だからなのかな? 純粋にその殺意を高め、狩猟本能がかなり刺激されているように思える)

 

 その眼を通して視えるあの力の奥底にあるもの。気のせいなのだろうか。以前に見た狂化の種と同じもののはずだろうが、何かが違っているように思えた。それはこの森に満ちている闇の粒子を取り込んでいるせいなのかと考える。

 しかもさっきから頭がズキズキしている。走って逃げているときにも感じた胸がざわつくような感じ。

 一度は振り切り、落ち着いたものが狂ティガレックスの力の波動を見ているとまたぶり返していくかのようだった。

 

(……なんなんだろう、この嫌な感じ。闇の粒子は元からこんな風に心をかき乱してくるものなんだけど、これは普通じゃない。……そう、もっと根本的な要素が僕を……)

 

 その何かが少しずつライムの内側から侵食していく。ぞわりと走る悪寒と共に体の中心からゆっくりと広がっていくかのような感覚。

 どくん、どくん、と心臓が鼓動を刻み、それに従ってその何かが血流に乗って広がっていくのだ。一度抑えられたのだから、もう一度抑えられるはずだと気力を振り絞って抑えてみるのだが、どういうわけかなかなか収まらない。

 むしろ静かに高まっていくに従って自分の力も刺激されているかのようだ。

 そう、これは恐らく……自分の血統に封じられた……!

 

「――ァァァァアアアアア!!」

 

 ライムが乗っているクストルが僅かに体を震わせたかと思うと、背後から狂ティガレックスの咆哮が聞こえてくる。咆哮は森を震わせるだけではなく、逃げるライムとシアンの体やクストルをも震わせた。

 そのスピードが増し、あの恐怖から逃げようと森を突き抜けようとする。

 前を向けばどうやら森が開けていくようだ。川のせせらぎが聞こえるから近くに川が流れているらしい。

 

「……っ!」

 

 森を抜けた瞬間ライムはざっと辺りに視線を巡らせた。太陽の位置を確認し、今の時間と照らし合わせてざっと方角を見定める。

 

「こっちだ!」

 

 手綱を操って何とかクストルに指示を出して走る方向を変更させた。その方向は奇しくも川の上流に向かって並行して走る事になった。この川を飛び越えられないだろうかと思ったのだが、幅が広くてそれは少し難しそうだった。

 

「ふっ!」

 

 ならばとライムは川岸にある無数の石に目を付けた。

 程ほどの大きさをしている物を選び、風魔法で川の上へと移動させると、土魔法を行使してそれらを接合させて岩へと変化させる。それを川へと沈めて動かさないようにし、クストルに指示を出して飛び石の要領で川を渡らせていった。

 後ろでシアンも同じようにして川を渡り、それが終わった瞬間森の方から激しい音をたてて狂ティガレックスが姿を現した。

 

「グルァァアアア!!」

 

 ぎろりと赤い左目が動き、川を渡り終えてどんどん上流に向かって走っていく二人を見た狂ティガレックスが唸り声を上げる。お互いの距離はもう五百メートルは下回っている。そのくらいの距離ならば狂ティガレックスの巨体から生み出されるスピードでゼロにされるだろう。

 

「グルァア!」

 

 狂ティガレックスが一鳴きすると疾走を開始し、その勢いのまま川を飛び越えようとした。だがそれを許すライムではなかった。そんな事をすれば自分達の身がますます危うくなる。

 川の水を操作してまるで壁のように盛り上げてやったのだ。その中に飛び込んでいく狂ティガレックスを確認し、後ろからも水を盛り上げてまるで川の口を閉じるかのように狂ティガレックスを水の中へと閉じ込めてしまう。

 

「ガガガガ、ブッ、グルッ……ゴボボ……っ!?」

 

 水は球体となって狂ティガレックスを宙に留めてしまっている。唸り、吼える狂ティガレックスは口や鼻から入ってくる水に苦しみもがくようにして両手を動かしていた。

 それでもライムとシアンを乗せるクストルは走るのをやめず、逃げるように距離を開いていく。

 そして狂ティガレックスを閉じ込める水の球は、狂ティガレックスがもがこうとも壊れる事はない。その爪で切り裂かれてもすぐにそこを塞ぐように水が覆い隠していく。

 このままいけば狂ティガレックスは呼吸困難となって死に絶える。あっけない終わり方だろうが、これで倒れてくれるならば自分達は助かり、この先に生まれたかもしれない犠牲者の心配もなくなる。

 

「ガググ……ッッッ! グルォァアアッ!!」

 

 だが現実はそう甘くはないようだ。

 カッと左目を見開くと、飲み込んでいった水を逆に吐き出したのだ。轟竜と呼ばれるその肺活量で、残された空気を全て吐き出しながら放った水は球体に大きな穴を作り出した。

 当然ながらさっきと同じく水が塞ぎにかかるが、それよりも早く両手を使って強引に破り、狂ティガレックスは川へと落下していった。

 その重量と球体が壊れた事で水は大きく上下し、狂ティガレックスへと降り注ぐ。滴り落ちる水を感じている狂ティガレックスは荒く呼吸を繰り返しながら、さっき以上にぎらつく赤い目で逃げていく二人を睨んでいた。

 ふとその視線が森の木々へと向けられる。それを感じたライムがまた水を操作して狂ティガレックスを封じ込めようとしたのだが、狂ティガレックスは体を捻って尻尾で木々を薙ぎ倒していく。

 倒木となったそれを右足を突き出す事で一気に弾き飛ばし、ライム達へとぶつけてきたのだ。弧を描いて迫ってくる数本の倒木に気づいたライムは、狂ティガレックスへの攻撃を中止し、風を操ってその進路を変更させるしかなかった。

 急な変更だったが何とか間に合い、倒木は森へとなだれ込むようにして落下していく。それを確認して狂ティガレックスへと視線を移してみると、どういうわけかその姿がなくなっていた。

 

(ど、どこに……?)

 

 すぐにライムはあの嫌な気配を探ってみる事にした。

 そんなライムを乗せるクストルの進行方向は描いて右に向かっている。それは並行して存在している川がそうなっているからであり、河川もそれに従っているだけだ。狂ティガレックスがいたときはまだ直線であり、現在のライム達は右へと曲がりつつあるから木の陰に隠れてその姿が見えなくなりつつあるのかと思ったがそうではない。

 ライムがあの場所へと視線を移したその時に既にいなかったのだ。

 どこに消えてしまったというのか。

 自分達が来た森の方か? いや、そっちには気配がない。それに狂ティガレックスがもう一度そっちに行くとも考えられないだろう。

 では森の中に入っていったのか? 自分達を横から急襲するという理由で森に入ったのかとライムは推測したのだが、あの狂ティガレックスが入っていったならばまた木々を薙ぎ倒していく音が聞こえてくるはずだ。あの体が木々をすり抜けていくとも考えられないし、元々の気性の事も考えてその可能性は低い。

 それにあの気配が森の中からは感じられないのだ。となれば森に入ったというのもなくなる。ではいったい狂ティガレックスはどこへ消えてしまったというのか。

 ふと、何かの音が聞こえてきた。それは、そう……風を切るような音である。

 それが上の方から聞こえてきていると感じた時、はっとしてライムは顔を上げた。

 視界に映るのは森の木々の上から落下してくる狂ティガレックスの姿。声を上げず、自身の体重を乗せて二人へと真っ直ぐに落下してくるその姿を認めた時、ライムは隣を並行して走るシアンから飛びかかられていた。

 そのすぐ後に通り過ぎていく狂ティガレックス。地面に向かってクストルから落下していく二人に向き直るように、四肢を使って落下の衝撃を殺しつつ転進する。

 

「し、シアンっ!?」

「く……う、ぅ……、だいじょう、ぶ? ライム……?」

 

 そのかわいらしい顔が歪みながらも、シアンはライムにうっすらと笑いかけながら彼の身を心配している。ライムが上から狂ティガレックスが来ると気づく前にシアンがそれに気づき、声をかけるのも間に合わないと判断してその身を投げ出したのだ。

 その結果こうして二人は直撃を免れ、生き延びている。二人が乗っていたクストルは……残念ながら狂ティガレックスの爪によって斬り裂かれ、白い体は二分されていた。

 物言わぬ肉塊と成り果てた白いそれを踏み潰しながら、狂ティガレックスはゆっくりと顔を上げる。隻眼となっているその赤い目に見降ろされるだけで、ライムはまた恐怖を感じずにはいられない。

 それでも自分の上にいるシアンを守ろうとし、彼女の体を抱えながら起き上ろうとした。

 そこで気づいた、気づいてしまった。

 触れた右手が妙に熱くどろっとした何かを纏っていると。

 

「…………え?」

 

 それは赤い液体。

 それがライムの右手を赤く染めていたのだ。

 呆けたままライムはシアンの顔を見つめる。その表情が歪んでいる理由に思い至った時、ライムは頭をハンマーで叩かれたような痛みを感じた。

 

 シアンは――自分を守って負傷した。

 

 彼女の身を守るはずのレイアメイルは狂ティガレックスの爪の前では意味がなかった。すれ違いざまではあったがあの爪は彼女の背中を傷つけたのだ。

 傷口からはどくどくと血が溢れだし、この量からして決して浅い傷ではないという事がわかる。

 

「シアン! シアンっ!」

「…………だい、じょうぶ……、だよ……」

 

 掠れそうな声で微かに笑い、血を零しながらシアンがそう言う。そんな彼女を抱えながらライムは悲痛に叫ぶ。

 

「そんな事があるもんか! 一刻も早く手当てを……」

「グルルル……」

 

 だがそれを目の前の狂ティガレックスが許すはずもない。狩るべき獲物は自分の目の前に倒れている。既に獲物は逃げる術などない。抗う術もない。冷静さを失えばただいたずらに己を傷つけ、やがては喰われるのみ。

 自分を見下ろす狂ティガレックスが冷たく笑みを浮かべているようにライムは見えた。相変わらず突き刺すような殺気が自分達を覆い尽くしているかのようだ。そしてそれが視えてしまうライムからすれば、その黒い空気が自分達を逃さぬように取り巻いているように見えてしまう。

 狂ティガレックスの雰囲気とこの黒い檻がライムの心に強い重圧を生み、シアンを抱えたままライムは硬直してしまう。

 頭の中ではシアンを助けるための手段や、ここから離脱するためにはどうすればいいかなど、色々な事が渦巻いている。しかしそれらを一蹴し、封じ込め、彼をこの場に縫い付けてしまう狂ティガレックスの威圧。

 

 ――諦めろ。

 

 その眼差しがそう語っているかのようだ。

 だがそれを受け入れるわけにはいかない。そうなってしまえば自分達は文字通り終わる。そんなことはごめんだった。

 しかしどうすればいい?

 冷や汗を流しながらライムは歯を食いしばって思考する。シアンの傷からして一刻を争う事になっているのは間違いない。でもどうやってこの場を脱出すればいいのか思いつかない。

 そうしている間に狂ティガレックスが口を開き、自分達へと喰らいつこうとした。

 

「――っ!?」

 

 世界の色素が反転し、やけにゆっくりと流れていくような感覚がライムの中に生まれた。

 口を開き、前のめりになってシアンと自分を丸ごと喰らおうというその流れが鈍足だ。それだけではない。周りの動きもゆっくりと流れていくように感じるのだ。

 一体なんだ? と感じる間もなく、またしてもあの気配が自分の中から這い出てくる。訳のわからない気持ち悪さを孕んだものが顔を覗かせていく感覚。

 決して認めたくないから目を背け続けてきたが、これには覚えがあるのだ。

 セルシウスと戦った時に見て、感じたものだ。つまり、シュヴァルツの闇であり、殺人鬼へと傾くための要素。殺意と血にまみれたこの感情は誰かを守りたいと願うライムにとって対極にあるもの。

 それが闇の粒子と狂ティガレックスの雰囲気に反応して、少しずつ鎌首をもたげ始めているのだ。しかも今はこの腕の中で目を閉じるシアンもいる。彼女をこんな風にした狂ティガレックスに対する思いも飲み込みつつあり、黒い感情がさっきよりも早くライムに広がっていく。

 それに従って視界に映る狂ティガレックスの中に浮かぶモノに気づいていく。

 ずっと疑問だったもの。今までの狂化竜とこの狂ティガレックスの違い。

 その目が違う。

 その波動が違う。

 その雰囲気も違う。

 それを頭の中で理解しそうになり、同時に無我夢中で血に濡れた右手を伸ばして力を解放した。

 瞬間、狂ティガレックスとの間で魔力の壁が生まれてその喰いつきを阻んでくれた。だが狂ティガレックスの目が煌めき、その壁をも強引に破ろうとする。そうなる前にライムは壁に衝撃波を発生させて狂ティガレックスを弾き飛ばしてやった。

 距離を離し、シアンを抱えてこの場を離れようとしたのだが、狂ティガレックスは余裕を持って着地し、二人へと吼えながら疾走を開始した。

 その疾走速度を前にすれば二人の逃亡など意味はない。歯噛みしながら次の手段を考えようとした時――それは現れた。

 対岸の方から大地を割るかのように気刃が走り抜けてきたのだ。

 背後から迫ってきたそれを察知した狂ティガレックスは、ライム達へと食らいつくのをやめ、横へと跳んでそれを回避してしまう。対象を失った気刃はそのままライム達の横を通り過ぎ、そのまま大地を割りつつ消えていった。

 

「…………っ、これは……」

 

 この気刃には覚えがある。ついさっき考えていた人物が得意としているだろう技の一つ。顔を上げて気刃が飛んできた対岸の方へと視線を移す。

 すると森の奥から誰かが飛び出し、ライムの前へと降り立って狂ティガレックスの前に躍り出た。深緑のローブをなびかせながら背を向けるその人物は、僅かにライムの方へと肩越しに振り返って僅かに笑みを浮かべてくる。

 

「すまねえな、遅れちまった。大丈夫か、ライム?」

「に、兄さん……」

 

 兄であるクロムが助けに来てくれた。その事でライムの心の中に安心感が広がっていく。それと同時に心の中に広がっていた黒い感情も落ち着き始めているような気がした。

 でもクロムの武器は確か狩猟笛だったはずだ。あのような気刃は作れるとは思えない。もしかして狩猟笛以外の武器で作ったのかと思っていると、また対岸の方から誰かが飛び出してきた。同時に二つの気刃が交差するように狂ティガレックスへと降り注ぐ。

 だがそれすらも狂ティガレックスは後ろに下がる事で回避してしまった。そんな狂ティガレックスの前にその白い影が降り立った。その手には彼女が愛用し、ライムにも見覚えがある黒刀【参ノ型】が握られている。

 

「……せ、セルシィ……姉さん?」

「…………」

 

 漏れ出た呟きにセルシウスはちらりとライムを一瞥するだけだった。その瞳は相変わらず感情を感じさせないものだったが、どこかライムの様子を窺うかのような揺らぎがあったように思える。

 突然出てきたクロムとセルシウス。一体どうしてここにいるのだろうという疑問と、どうして二人が一緒にいるのかという疑問が浮かび上がるのは無理ない事だろう。

 だが事態は急を要する。そして狂ティガレックスは待ってはくれないようだ。せっかく喰らいつけるはずだった獲物が遠ざかっていくのがわかっているのだろう。乱入してきたクロムとセルシウスを睨んでいる。

 しかしその目の輝きが一瞬だけ落ち着き、そしてまたその口が笑みを形作っていくのを幻視したかのように思える。それはライムだけではなく、クロムやセルシウスにも感じられたようで、二人の表情が少し真剣なものへと変わっていった。

 

「……こいつぁやっかいな相手らしいな。シアン嬢ちゃんもこんな状態だし……セルシィ」

「なに?」

「一度この二人を遠ざけてくる。それまでの時間稼ぎ、出来るか?」

「私一人でやれと? ……はっ、なかなか大した頼み事を」

 

 瞳を閉じて低く、肩を小さく揺らして笑いながらセルシウスが言う。だがすぐにその笑いは収まり、瞳を開いたときには彼女が臨戦状態に入ったことを示すかのように、両目は赤く染まっていた。

 

「ま、いいさ。さっさと連れていけ」

「すまねえ。すぐに戻ってくるからな! ……さ、行くぞ、ライム」

「え、でも……セルシィ姉さんが……!」

 

 自分を立たせるクロムを見上げ、そしてセルシウスへと視線を移すが、彼女はライム達から背を向けていた。彼女はもう戦う気でいる。あの狂ティガレックスを相手にたった一人で。

 彼女の実力が高いという事はライムも知っているが、いくらなんでもあんな相手に一人というのは無茶だろう。彼女がどうしてクロムと一緒にいて、こうして時間稼ぎまでしてくれるのかは知らない。

 でも仮にも従姉である彼女を残して行くというのはライムにとっていい事ではなかった。

 

「……おい」

 

 ふと、セルシウスが静かに声を出した。

 ライムはその一言が自分を呼んでいるのだという事に気づいてその白い背中を見つめる。

 

「私の事を気に掛けるのは間違っているんじゃないのか?」

「でも、セルシィ姉さん一人を残して行くなんて、僕には……!」

「はっ、誰彼構わず気遣うっていうのは別にお前らしいからいいけどな。今この時、一番お前が気にかけなければならないのは誰か。それを考えてみろ」

「……っ!?」

 

 その言葉でライムは息をのみ、この両手で抱えているシアンに気づいた。

 そうだ、彼女は今背中に大きな傷を負っている。人間である彼女は今もなお血を流し続けているのだ。

 ライムの魔力でその勢いを抑えているとはいえ、このままでは失血死してしまう。それだけは何としても止めたいというのが自分の一番の想いのはずだ。

 

「……さっさと失せろ。そしてやるべきことをやれ、甘ちゃんが」

 

 言葉は荒々しいが、それでも自分達を気遣ってくれているというのが言葉に裏に感じられた。セルシウスが心配なのも自分の本心ではあるが、彼女の言う通りシアンの事が一番大事だった。

 だからライムは天秤に乗せられた二つのうちの一つを選び、立ち上がる。

 

「気を付けてください!」

「……ふん」

 

 それだけを言い残し、クロムと共に森の中へと入っていった。

 三人が遠ざかっていくのを背中で感じながら、セルシウスは右手に握りしめた黒刀【参ノ型】を構えなおす。

 対面にいる狂ティガレックスはセルシウスから放たれていた雰囲気を前にし、かなり興奮しているらしくその黒い体には血管が浮き出ていた。それはティガレックスが怒り状態に陥った際に見られる現象。

 どうやら狂ティガレックスはセルシウスを戦い、狩るべき相手と認めたらしい。だがそれだけではない何かが狂ティガレックスの中にあるのではないかとセルシウスは睨んでいた。

 

(傷ついているようだが、どこかで何かと戦っていたとみるべきか。それにしても何の冗談? どうしてこいつからはその気配がする? 今までの狂化竜にはないものだったはず。……朝陽、これはお前の仕業か?)

 

 セルシウスは興奮状態にある狂ティガレックスから漂う力を感じ取り、そんな事を考えていた。彼女の下にいて、なおかつ多くの狂化竜を見てきた彼女は、一発で狂ティガレックスに感じられる違和感を見破った。

 あるはずのない力に僅かな驚きと、その力があるからこそどこかで心が躍っていると感じる自分がいる。気づけばセルシウスの口元はうっすらと微笑を形作っていた。

 

(時間稼ぎ……になればいいんだろうけど。はっ、まさか方針を変えた途端にこれとは、ある意味幸運と見るべきか?)

 

 赤い瞳はぎらつき、心臓は興奮で脈打っている。

 恐怖はあまり感じられない。もしくは興奮で恐怖という感情が覆い隠されているのだろうか。感覚が麻痺したかのようだ。

 狂ティガレックスがセルシウスの様子に気づき、ゆっくりと首を持ち上げていき、前足で体を固定して大きく息を吸い込んでいった。

 

「グアアアアアアアアアアアアアァァァァ!!!」

 

 森に激しい咆哮が響き渡る。木々をざわつかせ、川の水を吹き飛ばし、目の前にいるセルシウスが被っているフードをも吹き飛ばして白い髪を荒々しくなびかせる。だがそれでもセルシウスは動じなかった。

 むしろ感情を見せない彼女の表情はますます喜色に歪んでいく。

 

(……ああ、なるほど。これが……、シュヴァルツか……っ! 私は――オレは! 当時の奴らが感じていたであろう思いを感じているのか!? 竜を狩る事に特化したシュヴァルツ。それが高められ、堕ちていった殺人鬼。そいつらはこんな感情を抱いていたというわけか……!)

 

 心がざわつき、大きな波が波紋となって広がっていくような気がした。その波の原動力は興奮。そう感じた時セルシウスは理解してしまったような気がした。

 かの戦争でシュヴァルツ同士で殺し合った戦士たちはこんな心境だったのだろうかと。

 しかし興奮していてもセルシウスは戦うための準備を怠らない。握りしめた黒刀【参ノ型】にセルシウスの気が纏われていく。黒く、そして赤いその気は黒刀【参ノ型】にコーティングするかのように纏われていき、それは殺傷力を上げる刃にもなり、黒刀【参ノ型】が折れる事を防ぐ鞘にもなる。

 左手には黒刀【参ノ型】の鞘が握られ、それがセルシウスの主な構えとなる。

 

「く、くくく……ああ、これまで心が揺れたのは何年振りだろう? いや、もしかすると初めてかもしれないな。ありがとう、ティガレックス。お前のおかげでオレは忘れていた昂ぶりを感じられたよ」

 

 静かにセルシウスは狂ティガレックスへと礼を告げる。頭を下げるようなことはせず、ただ口頭で狂ティガレックスが理解しているかどうかなど気にもせず淡々と告げた。

 

「だがオレはお前を礼として殺せるかはわからないな。なにせお前もまたどういうわけかそうなのだからな。……ああ、確かに普通ならば時間稼ぎにしかならないような戦いになるんだろうさ」

 

 いつの間にかセルシウスはまた無表情になっていく。しかし彼女が発する気迫は鋭く、それでいて静かだ。冷たい空気が彼女を中心として広がっていき、右手に構えていた黒刀【参ノ型】は左手に持つ鞘へと納められていく。

 

「……でも、別に時間稼ぎだろうが構わない。この戦いの果てにティガレックス……お前を殺せればあいつらは助かるんだろうさ。この辺りにはお前ぐらいしかオレ達の身を脅かす存在がいない。そして一応オレはそういう方針で戦う事になったんでな。だから――」

 

 あまりにも冷淡にして、無表情。

 見るものを戦慄させ、恐怖させるような雰囲気を発しながら、

 

「――あいつらのために、オレの手で死ね」

 

 白い少女(殺人鬼)は静かに告げた。

 

 

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