あの戦いから数日。診療所の一つの部屋にライムは訪れていた。そのベッドにはシアンが寝かされており、彼女の左腕には点滴が打たれている。医者と救護アイルー隊、そして月の治療によって彼女の容体は安定していた。
「すぅ……すぅ……」
穏やかな寝息をたてるシアンを見下ろしているライムの表情はどこか悲しげだ。あの日からシアンは意識を取り戻しておらず、こうして眠り続けている。輸血によって失われた血液は補給されたが、背中に刻まれた三つの傷は消える事はない。
傷跡が消えないのはシアンだけではなくシェリーも同じだ。左腕から胸にかけて三つの傷跡が刻まれている。彼女もまたあの日から目を覚まさないようだが、彼女の場合は使い魔を通してだったため、体よりも精神の方が危険だ。このまま目覚めなければ精神の死で死亡扱いになってしまうという。
だがこればかりはシアンと違ってシェリーの心の強さに関わるため、医者達に手を出す事は不可能だった。栄養が失われないために点滴を打つことだけであり、彼女の目覚めを待つ事しか出来ない。
「……シアン」
ぽつりとライムがその名前を呼んだ。でも眠り続ける彼女はそれに応える事はない。
目を閉じれば幼い頃の記憶が蘇ってくる。
体が弱かったライムはほとんどベッドの上で過ごしていた。自分の部屋が彼にとっての世界であり、窓の外から見えるココット村と本が世界を広げる要因だった。そんな彼の下によく訪れるのが両親とクロム、そして近所に住んでいたシアン。
シアンの家とは家族ぐるみの付き合いであり、同い年だったシアンはライムとすぐに仲良くなってくれた。家族以外の話し相手になってくれ、ベッドにもたれかかるライムの傍に座っては色んなことを話して聞かせてくれる。
動けるようになってからは手を引いて外の世界を案内し、本の中で知っていた物を実際に見せてくれたのだ。
彼女はただの幼馴染じゃない。いつしか自分にとってとても大事な存在になっていた。でもそれを実感する事は今までなかった。こうしてベッドに眠っている姿を見守ることで少しずつそれが実感し始めたのだ。
そっと左手を手に取って握りしめてみる。微かな温もりが彼女が生きていると伝えてくれている。
小さな手だ。
柔らかくて、強く握りしめれば折れてしまいそうに華奢で、でもこの手が幼い自分の手を取って引っ張ってくれていた。今でもそうで、狩猟に出れば双剣を握りしめてハンターとして戦う手。
呼んでも応えてくれず、手を握りしめても握り返してくれない。
いつになったらそうしてくれるのだろうか。
あの頃も眠ってしまったライムの手を握りしめ、目を覚ますまでこうしてくれた。そうすれば目を覚ました時にすぐそこに誰かがいてくれるとわかるから、とシアンがそうしてくれたのだ。
だから自分もそうしてみる。
包み込むように両手で左手を握りしめ、俯いて額に当てる。そうすると頭に浮かんだのはあの日の出来事だった。
戦いから一夜明け、診療所で休んでいたライムの下にギルドの者がやってきた。シアンの病室から連れ出され、待合室でギルドの者はこう言った。
ライムとシアンに上位ハンターの資格を与える。
こんな時に通達するのもどうかとは思ったそうだが、こうして決定されたのだからいつかは伝えなくてはならない、と通告してくれたらしい。それをライム、付き添ってくれたクロムとセルシウスは静かに聞いた。
試験自体は中断されたものの、ライムは狂化したティガレックスを相手に戦い、とどめを刺した。その成長は評価に値する。よって資格を与えよう。
シアンもイャンクックとヒプノックを相手に戦い、実力もついてきているのは間違いない。狂ティガレックスとの戦い自体には参戦していないが、彼女も与えておくには充分なものを持っている。よって資格を与えよう。
そういう事のようだ。
ライムはそれに返事をすることなく、ただ黙って聞き続けていた。いや、本当に聞いているかどうかも怪しい。彼の心は試験の結果などどうでもよく、病室で眠り続けているシアンの事が埋め尽くされているのだろう。
だからその人物が手渡してくれた上位ハンターであることを示すギルドカードの二枚は、クロムが受け取る事になった。
その後頭を下げて去っていくのをクロムは見送り、セルシウスは腕を組んでライムを見下ろした。ベンチに座ったまま動かないライムの目は光を宿さず少し虚ろなままだ。赤い目だったそれは今ではいつもの青に戻っているが、それにしてもあの時見せたような凛々しさの欠片もない。
(それだけあのシアンとかいう小娘が大事ってことか。……はっ、女々しい。見てられない)
ため息をついたセルシウスはライムを見下ろして「さっさと元に戻っとけ」と告げてその場を離れ、クロムとすれ違いざまに「酒場で待機しておく」と告げて診療所を後にした。それに頷いてクロムは未だに俯き続けているライムの肩をそっと叩き、
「さ、戻ろうか。シアン嬢ちゃんが心配だろう?」
「…………」
優しくそう言えばライムは少しだけ間を置いて頷いた。彼を立たせてクロムが先導するように歩き、二人はシアンが眠っている病室へと戻っていったのだった。
ギルドカードは今もクロムが持っており、寝泊りするのはクロムの借家となっていた。診療所で寝る気だったライムを無理やり連れて帰り、クロムが自分の部屋を貸し与えて寝かせつけたのだ。
そうでもしなければライムはシアンの傍から離れないような雰囲気だったから。食事もまともにとらないだろうから時折彼が様子を見に来ている。そこまでライムは思いつめ、シアンの容体が心配だという事なのだろうが、これは少し驚きでもある。
自分が油断したせいだ、とぽつりと漏らしていたがそんな事はないと否定したい。狩りは常に死と隣り合わせ。ミスをすることもあるし、仲間が庇って傷つくこともよくある話。その度に自分のせいだと責めていてはいけないと言ってやったのだが、それでもライムは暗い表情を消さない。
(…………そういえば、前も同じようなことを昴さんが言っていたっけ)
ふとドスガレオスの一件の事が頭に思い浮かんだ。あの時も自分のせいで昴が攻撃を受け、戦いに支障が出てしまったと自分を責めてしまった。そんなライムに昴は気に病むなと言ってくれた。
(昴さん……紅葉さん……)
今頃あの二人はどうしているだろうか。もう一人の幼馴染である優羅を加えて三人で行動しているだろうが、確かシュレイド地方に向かっていったという事だけはわかっている。
今の自分達を見たら何て言うだろうか。
強くなったと褒めてくれるだろうか。
情けないと怒るだろうか。
大丈夫かと心配してくれるだろうか。
そんな事を考えながらライムはシアンの手を握りしめ、シアンの寝顔を見つめるだけ。
自分には彼女を目覚めさせる方法は持っていない。それは月も同じであり、シェリーと同じくただ彼女が目覚めるのを待つしかない。
狂ティガレックスとの戦いで自分の可能性をまた一つ増やしたものの、それがシアンを助ける事に使えない。それを無力だと嘆くようなことはしない。これはあくまでも戦うために使うものなのだから。
あれからあっち側の領域の声は聞こえてくることはない。本能の中に潜む闇も落ち着いており、戦いの中で感じた嫌な気配はまるでなかったかのように静かなものだった。
光と闇を行使する術を会得したとはいえ、自分はまだまだ未熟な魔法使いでありハンターでもある。それに魔法は万能ではない。それは月という存在が証明している。現代の最高魔法使いといえる彼女が出来ないならば自分も出来ないだろう。
そろそろ目を覚ましてくれないだろうか……。
そんな事を考えながらゆっくりと目を閉じる。クロムの家に泊まってはいるが、シアンの事が気がかりでそんなに眠れてはいないのだ。額に当てたシアンの手の温もりを感じながら、ライムは静かに眠りの世界へと旅立っていった。
その頃酒場にてセルシウスは昼食を食べ終えてグラスを傾けていた。彼女もあの日以来この村に滞在しており、この酒場で寝泊まりしている。空き家を借りてもいいのだが、彼女はわざわざ家を用意しなくてもいいと断ってしまった。
クロムの家に滞在しようにも、ライムが彼の家で寝泊まりしているためそれも出来ない。とはいえ彼女はクロムの家にお邪魔する気もさらさらなかったため、提案されても断るだろう。元々朝陽側に付いていたため見張る人物が必要であり、その役割はクロムが適任だろうから彼の家で寝泊まりするべきではないか、という意見があったのだが……彼女はならギルドが見張ればいいとここに居座っている。
彼女を連れてきたその日のうちに村長であるオババに全てを話しており、その上で話し合った結末がこれだ。今では酒場の二階にある宿泊施設で彼女は暮らしている。しかもご丁寧に料金を支払っており、食事代も毎回払っている。
どうやら影でクエストを受けて稼いでいた時期があったらしく、更にいらない素材を売り払う事で資金を調達していたようだ。だから持ち合わせは結構あるとの事。
そんな彼女は食後の発泡ミルクを飲んでいた。軽めの酒の一種であり、彼女が好んで飲むものの一つ。他にはホピ酒やスパイスポップス、普通のジュースなら北風みかんや氷樹リンゴを使用したものも好んで飲むところから、安くても美味しく飲めるなら別にかまわないというのが窺える。何とも彼女らしい。
ふと酒場の扉が開かれて桔梗が中に入ってきた。軽く中を見回すとセルシウスに気づいて立ち止まる。セルシウスもその視線に気づいたようだが、特に気にも留めずに発泡ミルクを飲み干していく。
「……あの」
恐る恐る、といった風な僅かな声だった。桔梗はセルシウスが座っている席に近づき、そっと声をかけた。その呼びかけにまたセルシウスは視線を上げ、その眼差しで「何か用か?」と問いかける。
桔梗は微笑を浮かべながらそんな彼女に話しかける。
「少しお時間よろしいでしょうか?」
「…………」
どうやら話があるらしい。こんな自分に話とは何を考えているのやら、と考えつつも何となくそれが何かが思いついてしまう。自分は桔梗だけでなくクロムやライム達にとっても敵だった存在だ。
訊きたいことが幾らでもありそうだろうから、そのうちの何かではないだろうか。コップを傾けて残っている発泡ミルクを全部飲み、少しだけ舌で転がしながら視線を逸らして考え込むと、首をしゃくって座ってもいいと示した。
「失礼します」と断りを入れてセルシウスの対面に着席すると、目の前にいる彼女を見つめる。その鈍色の瞳は初めて見た時に感じた通りあまり感情を感じさせないものだ。桔梗は笑顔の仮面を被って表情の変化を感じさせずにいるが、セルシウスは素で無感情を通しているようだ。
クロムとライムの従姉妹であり、二人と同じくルシフェルの姓を持つ魔族。狂化竜を作り出していた人物の下に付いていて多くの人を殺してきた、そこまではあの日の次の日に聞いた。
そんな彼女に話がある。ぐっと膝の上で拳を握りしめて桔梗は意を決し、口を開いた。
「訊きたいことはシュヴァルツの事です」
「…………なるほど、それについてか」
僅かに目を細めて首を小さく傾げる。それだけの変化だが特に感情が揺れている様子はない。想定していた範囲内なのだろう。続きを促すように沈黙すると、桔梗はじっとセルシウスを見据えて続ける。
「クロムさんに少しだけお聞きしました。シュヴァルツとはルシフェルの前の姓であり、過去では最高峰のハンターとして名を馳せていた一族であると」
「そう。それについては間違っちゃいない」
「そんな彼らは少しずつ異変が起き、戦争時代に一気に転落する。……その果てが殺人鬼。……そうですね?」
「ああ、それも正しい」
命を殺す事に愉しみを覚えた殺人鬼に、戦いに関しても興奮する戦闘狂。感情が薄れて普段は無表情だというのに、得物を振るい、敵を傷つけ始めれば笑みを浮かべる。特に同じ血統同士との戦いならば至上の喜びと愉しみを感じる。それが堕ちてしまったシュヴァルツの姿。
だが終戦のきっかけとなった黒龍討伐の際にも、シュヴァルツの戦士たちが活躍している。彼らの力が黒龍にとって大きな障害となり、奴の体を多く傷つける事になったのだから。
だからこそ黒龍を退けた英雄という姿もあれば、国の兵士を多く抹殺した死神、悪魔という姿もある。そんな二面性を持つのがシュヴァルツなのだ。
「セルシウスさん、あなたはあの狂化竜を作り出した人物の下に付き、多くの人を殺してきたと聞きます。……あなたは――」
「殺人鬼、そう言いたいんだろう? その通り。オレはそっち側に堕ちてしまったルシフェルさ」
桔梗の言葉を遮るように淡々と事実を述べた。否定する要素なんてどこにもなく、それが事実なのだから告げるだけ。その事実から目を背ける気もなく、それについて懺悔する事もない。
本能の示すままに黒刀【参ノ型】を振るい多くの人を殺してその手を血に染めた。
その瞳は何も感じさせず、その過去について何も言うつもりがないし何も思っていない事を語る。多くの人を殺してしまった人物は何かしら瞳や眼差しに変化を感じさせるものだが、彼女にはそれがほとんど見られない。これもまた殺人鬼の特徴なのかと桔梗は息をのむ。
でもまだ訊きたいことがある。ここで止まるわけにはいかない。
「……ルシフェルはシュヴァルツの血統……。あなたがそうであるように、クロムさんやライム君も……」
「その可能性はあるな。実際ライムがあの時堕ちかけた。……ま、それはあいつの賭けだったらしいけど、一歩間違えれば染まっていただろうな」
嘆息しながらそう語る。確かにあの時は堕ちてしまったのかもしれないかと思ったが、実際はライムの才能がまた一つ開花した結果となった。堕ちる危険性がこの先ついて回るが、気を引き締めて磨いていけばあれ以上堕ちる事はないだろう……が、まだ不安定なのは間違いない。
この先あんな狂化竜と相対していけばまた揺らぐだろう。自分とクロムでさえ揺らいでいたのだ。気を引き締めたとしても、ちょっとしたことでバランスが崩れて傾くかもしれないのだ。これはライムの精神力の問題になってくるかもしれない。
そしてそれがこの桔梗が心配するところ。そうセルシウスは推測した。
「この先の戦いが不安か? ルシフェルの血に刷り込まれたシュヴァルツの因子。これが表に出てきてクロムが豹変してしまうんじゃないかと、そう感じているんだろう?」
「……ええ」
「それだけじゃない」
じっと桔梗の目を見据えてセルシウスが腕を組む。
感情を感じさせないその瞳で真っ直ぐに見られた桔梗は、薄ら笑いを浮かべる仮面の下にある素顔を見られそうな気がしてごくりと唾を飲み込む。
こんな時まで桔梗は仮面をつけていたのだ。それだけその仮面は日常化しており、薄ら笑いだろうとこの顔は浮かべてしまう。状況に似合わない表情だが、セルシウスは特に気にした様子もないから何も言わずにいた。
しかしセルシウスはその薄い桜色の唇を開いて言葉という名の刃を突き立ててくる。
「最初に見た時から思っていた事。クロムに聞いて多少は納得したが、それでもどうも見てられない。今くらいはそのきめぇ笑顔を消したらどうだ?」
「……っ」
「オレはお前にとって憎むべき存在だろう? そんな仮面を脱ぎ捨てて素のお前で話をしろ。そういう顔、オレは嫌いなんだよ」
無感情な瞳に少し力が入り、眼差しが睨むように変化して視線で桔梗を貫く。その眼差しから感じられる雰囲気が仮面の笑顔を揺らがし、気のせいか心に恐怖が芽生えてきた。
方針を変更したそうだが、それでも彼女は殺人鬼の少女。殺気はなくとも彼女から放たれる雰囲気は冷たく鋭いのだ。今は抑えこんでいるようだけれど、それでも桔梗は微かに震え始めている。
「……っ、く……わ、
「なに?」
「私の村はあなたが付いていた人物に滅ぼされました……! 私以外がみんな死にました! その場にあなたはいましたか!?」
ようやく絞り出したかのように桔梗がセルシウスへと問い詰めるが、それを前にしてもセルシウスは揺らがない。瞳を閉じて変わらぬ声色で答えた。
「いや、いないな。クロムから聞いたけど、その時期はまだオレは朝陽に付いていない。だからお前にとっての仇は朝陽となる。……お前は朝陽に復讐したいのか?」
復讐という言葉に桔梗がはっと息をのむ。
そんな彼女を薄く開いた瞳で見つめながら淡々とセルシウスは続けていく。
「喜怒哀楽を崩し、感情があまりコントロール出来なくなってしまい、発狂する可能性を秘めてしまった。そんなお前は朝陽に復讐したいのか? 村を滅ぼし、自分をこんな風にしてしまった朝陽に」
「……復讐……ええ、考えましたとも。一度ならずとも何度も! ……でもこの私がそんな感情に身を任せてしまえば、クロムさん達に迷惑がかかる。そう思って復讐が思い浮かぶたびに抑えこんできました」
しかし、と桔梗は自分の両手を見下ろした。震える両手を見つめ、ゆっくりと握りしめる。
「でもそれに意味はないですね。既に私はクロムさん達に迷惑をかけてしまっています。私は……振れ幅が振り切れてしまえば感情が抑えきれません。ただ憎しみだけが浮かび上がり、武器を振るってしまいます」
「まさに豹変といえるくらいの変わりっぷりだった。でも若干それを抑えているような気配もした」
それは月のおかげだといえよう。あれがなければ完全に暴走していた可能性がある。
「で、感情が抑えきれないお前は復讐を望んでいないのにそれを実行しかねないと。そんな揺らぎを抱えてこの先戦おうと、そういう事か?」
「出来る事ならば。……私は何の関係もないみんなを無残に殺したあの人を許す事は出来ません。かといって憎悪に駆られてあの人を殺したところで、報われるわけでもないのもわかってます。私はこれ以上私のような人を増やさないために、クロムさんと共に戦いたいのです」
そう言う桔梗の顔はまだぎこちない微笑を浮かべていたが、その眼差しは偽りない本心を表している。薄い仮面の中から覗かせる眼差しは真剣そのものであり、口にした言葉は本物だろう。
セルシウスはその眼差しを受けてしばらく沈黙していたが、不意に目を閉じて組んでいた腕を解き、右手で頬杖をついてカウンターにいた受付嬢に左手でコップを掲げて「北風みかん一杯」と告げる。それが注文だという事に気づき、受付嬢は厨房の方にその注文を通した。
その合間にセルシウスはまた小さく嘆息し、薄らと瞼を開いて言葉を紡ぐ。
「ま、お前の気持ちはわかった。でも口では何とでも言えるよな。だって、実際お前はあのティガ相手に振り切れた恐怖によって感情が溢れていた。何とか抑えているようには見えたけど、完全じゃなかった。感情のコントロールが効かないのがお前だけでなく、クロム達にとって足枷となる」
「……そうですね。それでも私は戦いたい。そして知りたいんです。あのティガレックスに埋め込まれ、クロムさんとライム君にも危険が及びかねないものについて」
ゆっくりと机に額が付きそうになるほど頭を下げる桔梗。
「教えていただけませんか? シュヴァルツの因子、その危険性を。そしてそんなシュヴァルツの因子を埋め込まれた狂化竜がこの先どういった行動をとるのかを」
そんな桔梗をセルシウスは頬杖をついたまま薄目で見つめる。
何となく桔梗という人物がわかりそうな気がしていた。彼女は表情こそ仮面をつけているが、その行動はどれも本物だ。ライムを助けるためにわざわざポッケ村から飛んでいき、居合わせていたクロムも纏めて助けようと狂ティガレックスと戦う。
恐怖に押しつぶされてタガが外れてもクロムを守るためにダークを振るっていたのも、心の奥ではクロムが大事だという事を忘れていなかったから。そうでなければああいう行動はとれないはずなのだから。
だから今言ったことも本心。二人の事が大事であり、どれだけ危険な爆弾を抱えているのかを知りたいのだろう。知っていれば何かあった時のために対処ができる。そう考えているに違いない。
そして後者の方は情報が知りたい、といったところか。自分は朝陽側に付いていた。だから何か知っているに違いないとでも考えたか。しかし残念ながらそれについては望む答えは口に出来ない。
「前者に関してはオレの知っている事は話せるけど、後者に関してはオレは知らない。あくまでもオレは誰かを殺す事で闇を増やす役割だからな。狂化竜に関しては朝陽とアキラが関わっている」
「その二人が狂化竜を増やしている、という事ですか?」
「そう。……でもま、朝陽が狂化の種にシュヴァルツの因子を埋め込んだとは考えにくい、とオレは思っている。あいつの目的はあくまでも自分を強くさせるために、狂化竜をばら撒いているんだからな。それにあのティガはどうもライムを狙って派遣されたようだけど、自分を強化させるのを第一にしている朝陽が、わざわざティガに意志を残したまま派遣するとは考えづらい。ただ始末するだけなら意志を奪って暴れ回らせた方がいいんだからな」
そこまで語ると受付嬢が先ほどセルシウスが注文した北風みかんのジュースが入ったコップを持ってきた。目の前に置かれたそれを左手で持ち、軽く傾けてジュースを流し込んで喉を潤す。
一息ついて桔梗へと視線を移したかと思ったら、酒場の入口の方へとその視線が移っている。一体何があったのかとその視線を辿ってみると、入口の外に人の気配を感じた。
「さて、ずっと聞いていたらしいな。そこで聞くくらいなら入ってきたらどう?」
「……やっぱバレとったか」
バツが悪そうに呟きつつ入口の扉が開けられて私服姿の花梨が中に入ってくる。黒地に炎の柄をした上着は首回りが毛皮に覆われ、暖を取りやすいつくりになっている。紺のジーンズのポケットに入れていた手を取り出し、受付嬢に指を立てて「ブレスワイン一つな」と注文すると桔梗の隣に着席した。
「入るタイミングが少しわからんかったんやけど、まあ気づいていたんならええわ。なかなか興味深い事話とるみたいやしな。……続き、聞かしてもらおか」
「…………まあ、いいか」
少しじっと花梨の様子を窺っていたセルシウスは、一息ついて頬杖付いたまま話し始める。
「さっきも言ったように朝陽は自分を強くするために狂化竜を生み出し、ばら撒いている。それは朝陽の力の源が闇だから。人が死ねば闇が増えるし、恐怖心が高まっても闇が増える。それに狂化の種が成長すればするほど狂化竜自身の闇も増える。狂化竜とは普通の飛竜以上にそれを生み出してくれる存在ってわけさ」
これについては昴達などがすでに知っている情報。しかし花梨は狂化竜に出会ったのはあの狂ティガレックスが初めてであるためまだ知らず、少しだけ表情を引き締めながら聞いている。
「基本的に朝陽が狂化竜を作っているんだけど、時に命令されてアキラも狂化竜を作っている」
「そのアキラっていうんは?」
「『
基本的に表に出ずに裏で行動する彼は作った狂化竜を管理する役割も持っており、全ての狂化竜を把握しているという。常に銀色のローブを纏い、フードで素顔を隠しているためセルシウスだけでなくゲイルとアルテも素顔を知らないが、朝陽は知っているらしい。
また実力が未知数といえるアキラが狂化竜のデータを持ち、なおかつ自分も狂化竜を作れる。ドンドルマから離れる際にセルシウスの前で空間魔法も行使している事から、魔法使いとしての実力はかなり高い事だけはわかる。
その異名は彼が多くの使い魔である黒い鳥を使役する事が可能であり、この大陸のあちこちに散らばせて監視の目を作っているからだ。使い魔は狂化竜の動向だけでなくギルドやハンターの動きも影から見張っており、その情報を朝陽に伝えて共有しているとの事。
またセルシウス視点ではあるが、朝陽の下に付いていた人数が今ではもうアキラしかいないのではないかと思っている。人を殺す事で闇を増やす自分、ギルドのスパイでもあるゲイルに変化を用いて内部に侵入して入れ替わるアルテ。この三人が今ではもう朝陽から離れてしまったのだ。
となれば残っているのはアキラだけ。そんなアキラが狂ティガレックスの狂化の種を弄ってライムにぶつけた。この一件は朝陽は把握していない可能性がある。
どうしてこのような行動に出たのか。
ライムの成長や才能を恐れて消しにかかった、というのが有力かもしれない。シュヴァルツというのはモンスターにとって天敵であり、普通のハンターと違って秘められた才能が高い。
将来的に邪魔になるから排除しにかかる。それは納得できる理由だろう。ドンドルマの一件で覚醒したのだからその可能性が高まったのだから。
「お待たせしました」
受付嬢が花梨が注文したブレスワインを持ってきて花梨の前に置いていく。「おおきに」と礼を言うとぺこりと頭を下げて受付嬢がカウンターへと戻っていった。それを見届け、セルシウスは話を続ける。
「正直オレにはアキラが何を考えているかはわからない。でもただ朝陽に従っている時は終わり始めているんじゃないかとは推測している。それがあのティガであり、あの戦い。計画の第三段階はまもなく終わりを迎え、最終段階に入る可能性が出てきているからな」
「最終段階って……なんや?」
ブレスワインに口をつけようとしたが、その言葉が出てきたことで中断する。何やら不穏な空気を包み込んだその言葉の意味を確かめるため、少し震える声で花梨が問う。
第三段階は大陸中に狂化竜を向かわせ、各地で暴れさせることで犠牲者を増やし、恐怖心を高める。これによって大陸に少しずつ闇を充満させるというものだ。だからセルシウスも自由に動き、村を襲っている狂化竜と共に住民を斬殺していた。
時に狂イャンガルルガのように自分がターゲットにされたときもあったが、その全てを返り討ちにして殺している。どうせ狂化竜が死んでも闇がばら撒かれるのだからどうということはないと彼女は考えていたし、朝陽も好きに動けと言っていたから問題ないだろうと報告していないそうだ。
現状は第三段階が順調に進んでいる。セルシウスが言う最終段階とやらが近づいてきているとのことらしいが、セルシウスはジュースでまた喉を潤して視線を二人から逸らして一息ついた。
「最終段階……それは大陸の闇を取り込み、朝陽が強化される段階。しかも場所も決めているらしくてな、シュレイド地方でそれを行うという話さ」
「シュレイド地方で? あそこには何かあるのでしょうか?」
「……シュレイド地方…………」
桔梗は純粋に疑問を感じ、花梨は口元に指を当てて思考する。
シュレイド地方といえばドンドルマより西に位置する地方であり、王政で成り立つ国が存在している。遥か昔の戦争が終結した場所でもあり、あの黒龍が出現した場所でもある。
――――黒龍?
「そうか、旧シュレイド城を崩壊させた黒龍が現れた場所や。あの周囲は今も闇の気配が残っとるからモンスターも人も近づかへんって話や。その闇も利用する事も考えたら、そこを起点にするってことも考えられん話やない」
「……その通り。オレもそう考えている。つまり、クロムらの決戦はシュレイドで行われるんだろうな」
伝説が生まれ、伝説が降臨し、長く続いた戦争が終結し、対価として一つの国が崩壊した場所。そこで朝陽は目的を達成させるための最後の詰めを行おうという。それがいつになるかは朝陽が決めるのだろうが、大陸に充満している闇の濃度でわかるかもしれない。
だが旧シュレイド城の周囲は花梨の言う通り、モンスターと人が寄りつこうともしない程に濃度が高い闇の空気が蔓延している。それはシュレイド地方だけでなくドンドルマでも知られている事。恐らくそれを知っての上で朝陽は狂化竜を作り、あちこちにばら撒いているという事になる。
となればあそこに蔓延している闇では朝陽の目的には足りないという事か。でなければここまで大々的な計画を数十年もかけて実行するはずもない。
その全ては神倉月に勝つため。あの神倉一族の二代目最高傑作であり、実の妹に勝利するために朝陽はここまでの事をしている。それだけ月に対して劣等感を感じ、彼女にかなり執着しているのだろう。ドンドルマの一件で彼女はかなり力を付けていることはわかっているが、それでも勝てないと悟る程にツキの実力が高い。
「朝陽の事はこれくらいでいいか。……次はシュヴァルツについて話すか」
その前にジュースで喉を潤しつつ一息つく。セルシウスにしては結構喋り続けているものだから表情には出ていないが若干疲れが見られる。セルシウスとしてもここまで話し続けるというのは慣れていないらしい。
気づけばジュースを飲み干してしまい、コップを傾けても雫ぐらいしか口に流れ落ちていかないのを感じて小さく嘆息した。「これ、もう一杯」と受付嬢に告げて机に置く。
「……さて、シュヴァルツについてだけど、だいたいの事は話したかと思う」
「そう、ですね」
「危険性については本能からの叫びが基本。それに敗れれば少しずつ堕ちる側へと傾き始めるのは知っているかと思う。それ以外の危険性については共鳴がある」
共鳴とは狂ティガレックスと相対した時にセルシウスやクロム、ライムが感じた現象だ。狂ティガレックスが放つ雰囲気によって本能が刺激されたのがそれにあたる。
「シュヴァルツは強い気配に、特にシュヴァルツを前にすれば興奮する傾向がある。実力が高く、なおかつ殺気を放っていれば興奮して堕ちる側へと傾く。つまりお互いがお互いを刺激し合い、より殺し合いに熱中していく」
だからこそかの戦争ではシュヴァルツ同士の戦いは激しいものとなった。お互いが戦争によって殺す者へと堕ちていき、そうなったシュヴァルツの兵士同士が出会ってお互いを刺激し合うことで殺人鬼へと転落。それがさらに戦いを激しいものへとさせていく事になる。
「シュヴァルツは元々
例えば目に関しては既にライムがその力を発現させている。どれだけ弱まっているのか、生命力がどれだけのものかを視る目だ。また優羅やセルシウスが発現させている弱点を見抜く目は知識がなければ意味のないものであり、ただ発現させていても視えない。だが、知識も備わっていれば飛竜との戦いも有利になる。
元々魔族という事もあって身体能力や魔法の才能は高かったのだが、その経験の積み重ねによって一族は更に発展していく事になる。その分堕ちた後の凄まじさも高くなるのが現実だった。
「あのティガを前にした時、お前たちは今までにないほどの恐怖を感じたはず。それはシュヴァルツの殺気を受けてしまっていたから。長く戦い続け、力を付けていったシュヴァルツはモンスターにとって恐怖する存在になった。それに戦争の時でも兵相手に大立ち回りをしているから、その雰囲気は更に研ぎ澄まされることになる。……そうして生まれた殺気は、人とモンスターの本能に恐怖を感じさせるものへと高められてしまった」
「恐怖……ですか」
「そう。それは実際に感じたお前たちならわかるだろう? あのティガからは普通以上に濃い殺気が感じられたはず。それはシュヴァルツの因子が含まれていたからであり、因子が働いて殺気を更に高めていたから」
その因子は持っているものの気の強さ、興奮度によって効果が変わってくる。狂ティガレックスはダメージを負うたび、怒りによってその殺気や雰囲気がかなり研ぎ澄まされて肥大していった。それに従ってセルシウス達は本能を揺さぶられ、動きが鈍くなっていった。
元から傾いていたセルシウスは慣れているためにスピードが落ちたぐらいで済んだが、クロムとライムはその場に縫い付けられてしまった。ライムに至ってはそこから更に転落したものの、力を得るだけにとどまったのが幸いだろう。
これの怖い所は放つ殺気に留まらず、雰囲気に飲み込まれてしまえば蛇に睨まれた蛙のように動けなくなるところだ。そうでなくとも動きが鈍り、そこを突かれて攻撃されてしまえば命の危険が迫る。
抗う術は気をしっかりと持つことだが、言葉にするには簡単でも実際にやろうと思っても難しいもの。精神力が弱ければ飲み込まれ気絶して終わる。最悪の場合心を壊されて死ぬことさえあり得る。
桔梗の場合は恐怖心が溢れ返ってタガが外れてしまったが、運が悪ければそれ以上に感情がかき乱され、破壊され……廃人となっていた可能性だってある。それを指摘すれば桔梗は小さく呻いてしまった。
「そしてあのティガと残っている狂化竜の事を考えると、この先もああいう奴らが現れるだろうさ」
「残っている狂化竜、ですか?」
「ああ。第三段階も終盤……あの二人が用意しただろう狂化竜の数も少なくなってきているはず。となれば残っているのはティガと同等かそれ以上クラスの飛竜だろうと思う。オレが聞いた限りではあるけど、なかなかのメンツがいたはずさ」
各地で暴れている狂化竜も、ハンターやギルドナイトによって少しずつ討伐されているようだ。それ以上に犠牲者が発生しているのだが、それでも何とかハンター達は狂化竜の数を減らしている。
しかし主に出ているのはイャンクックなどの鳥竜種やリオ夫婦などの飛竜種。時にダイミョウザザミ、ショウグンギザミという甲殻種やガノトトス、ドスガレオスという魚竜種も現れているという話だ。
だがその顔ぶれは全モンスターの中でも中級止まり。だからこそ容易に狂化させて駒に加え、各地を襲わせることが出来るといってもいい。
「上級クラスのメンツ……ディアやグラビがそろそろ出てきてもおかしくない。聞いた話では実験段階とはいえ、狂化されたディアがドンドルマの一件以前に一頭討伐されたという話だけど、この先出てくるのは本格的なもの。運が悪ければアキラの手が入ってまたシュヴァルツの因子が埋め込まれている可能性だってある。……最終段階も近いからな、そういった事を覚悟しておかないと……死ぬぞ?」
目を細めて忠告するように言うが、無表情の中に灯る眼差しの力が鋭いために桔梗と花梨を貫くような雰囲気が放たれた。その中には当然ながら僅かながらシュヴァルツの気配が滲み出ており、二人は寒気を覚えて背筋がぞくりと震える。
だがすぐに眼差しの力が弱まり、嘆息しつつ頬杖を解く。
「……ま、お前たちが別に死のうが関係ない……と言ってはみるもクロム達の事を考えれば言うべきではないか。とりあえず気を緩めたら死を覚悟しとけってこと」
「……忠告は感謝するけどな、あんたはどうなんや?」
「どう、とは?」
「この先あんたもウチらと共に戦うっちゅう話を聞いとるんやけど、元々あっち側に付いとって多くの人を殺しとる。これまで情報を話してもらっといて悪いんやけどな、これだけは訊いておきたいんや。クロムとなんかあったらしいけど、あんたを完全に信用してええんか?」
一筋の汗を流しながらも花梨はじっとセルシウスの瞳を見つめてそう問うた。
その質問はいつかは訊かれるだろうとは思っていたから別に驚くことはなかった。実際に戦ったことはなくとも彼女は花梨達にとっては敵であった人物。それも多くの人を殺してきた殺人鬼。そんな人物が本当に味方になってくれるかなどそう信じられるものじゃない。
例えあの時一緒に狂ティガレックスと戦っていたとはいえ、この先もそうであるなんて保証はないのだから。
無言で眼差しを受け止め、セルシウスは軽く嘆息して僅かに口の端を笑みに変える。それはほんの僅かな変化だったものの確かに彼女は笑った。でも特に面白い事なんてあったわけではない。それは……小さな自嘲の笑みだったのかもしれない。
「別に信用なんていらない」
「なんやて?」
「お前の言う通りオレはただ無心に殺し続けた。今だって本能が言っている。『邪魔になるかもしれないこの二人を斬れ』ってな。以前のオレだったら自然にお前たちを殺しているさ。そんなオレを完全に信用出来るか? ……いや、出来ないよな。だから全幅の信頼はいらない」
そのまま立ち上がってカウンターに向かい、先ほど注文していた北風みかんジュースのお代わりを持ってこようとしていたが、持っていくタイミングがわからずにそこに留まっている受付嬢へと近づいていく。
無言で近づいてくるセルシウスを前におろおろとし始める受付嬢にため息をつくと、右手を差し出してコップをよこせとジェスチャーする。それを見て恐る恐る差し出したコップをセルシウスは無言で受け取り、一気に喉に流し込んでいった。
まさに豪快な一気飲み。口の端からこぼれていく雫も気に留めず、喉を鳴らしながらジュースを飲み干すと、左腕で口元をぬぐった。
「オレはオレのやりたいようにやる。朝陽の下についていたのもオレの意志であり、その方がオレの目的を果たせるかもしれないと考えていたから。指示にはある程度従っていたけど忠誠は誓っちゃいない。オレは誰の下にもつく気はないからな。……今もそれは変わらない。クロムやライムと共に戦う事はあるけど、ギルドのためとかこの村のためとかそういう気はさらさらない。……そんなオレを信用するっていうんなら勝手にすればいいし、信じないんならそれでもいい。それはお前たちが決めればいいさ」
それで言いたいことは全部言い終えたのだろう。ポケットから財布を取り出し、昼食と飲み物代をきっちり支払うと、セルシウスは足音も立てずに静かに酒場を出ていった。そんな彼女を見送った二人は、今まで緊張していたのを実感しながら力を抜きつつ思い溜息をつく。
花梨に至っては右手で額を押さえながら天井を見上げている。同じ魔族で年上とはいえ、セルシウスから放たれている雰囲気と眼差しの強さが彼女を無意識に緊張させていたらしい。
「……信用しなくてもいい、か」
ぽつりと呟くようにセルシウスの言葉を口にする。
普通に考えればセルシウスは普通に信用できない立ち位置といえる。彼女の以前の行動や実力的に信用できないのは当然と言える。例えクロムとライムの従姉妹であっても、だ。
狂ティガレックスの戦いの時に見せた立ち回りからして自分達を殺す事など一瞬かもしれない。
普通なら彼女の言う通り信用しなくてもいいだろう。十人の内九人はそうするだろう。
でも何故だろうか。
あの無表情な彼女の事を思い返せば、心の奥で彼女の事を少しだけ、ほんの少しだけ信じてもいいと考える自分がいる。どうしてかはわからない。あの戦場で会い、それからあまり会話せずに今こうして会話しただけなのに、彼女が本当に悪人だと思う事が出来なかったのだ。
多くの人を殺し、その両手を血に染めているという過去があるのにこんなことを考える自分はおかしいのかもしれない。いや、実際おかしいのだろう。
「…………」
机を見れば先ほど注文したブレスワインが置かれている。どこか血のように思える程に赤い液体がグラスを満たしており、さっきのセルシウスの話からしてそれが血のように思えてならなくなってきた。
隣を見れば桔梗も何かを考えている様子だった。シュヴァルツとクロムの事を考えているのか、それともセルシウスの事についてなのか。
「桔梗はどう思ってるん?」
「…………私はクロムさんのパートナーです。クロムさんが味方であり、信じろと言うのであればそれに従います。……もちろん私自身セルシウスさんを完全に信用しているわけではありませんよ」
彼女の性格からして元々は誰とも関わらずに孤高で在り続けようとしただろう。優羅と同じく己の歪みゆえに孤高を貫こうとした彼女が、それでも朝陽についたのもまた己の歪みゆえに。
クロムらのおかげでこちら側についたとしても、今もなおまだ歪みは残っている。それによってこちらに刃を向けないという保証はない。でも桔梗もまた多少は信じられる気がした。
なんだかんだで彼女は自分の知っている情報を教えてくれた。そして彼女自身も口にしている通り、斬ろうと思えば斬れたはずだ。そうしなかったのは抑えていたから。
その点は、信じてもいいかもしれない。
「様子を見ましょう。本当に危険ならば……私たちでなんとかすればいいでしょう」
「……ま、せやな。今はまだ、信じておこか」
とはいえセルシウス以外にも問題はある。
未だに目を覚まさないライムのパートナーであるシアンと、あのカウンターにいつも立っていたシェリー。この二人が未だに目を覚まさないというのは心配だ。
(そろそろ目ぇ覚ましてもいい頃なんやないやろか。シアン、シェリー……待っとる人のためにも起きてくれへんか?)
天井を見上げてそう願う。
その願いが天に届けばいいと思いながら。
どれほどの時間が経っていただろうか。ライムはまどろみの中にいた。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。しかしライムはまだ目を覚まさず、小さく声を漏らしながら軽く手を動かした。
ただ小さく指をぴくりと動かしただけだったのだが、その指が別の何かによって包まれたかのような感触がした。温かくて柔らかい何か、それが自分の手に触れている。それは一体何だろうかとライムはまどろみの中で考えながらまた小さく呻く。
さっきまで自分は何をしていたっけ?
それをあいまいな意識の状態で思い出してみる。
たしか……シアンが目覚めるのを待っていたんだった。毎日来ているが未だに目を覚まさず、彼女の手を取ってその時を待っていたんだ。でも最近よく眠れていないから……自分でもよくわからないうちにいつの間にか眠ってしまったんだろう。
じゃあこの指を包み込んでいる温かいものは何?
そこまで考えてライムは一つの事が頭に浮かんだ。もしかして、もしかして……!?
それを確認するために意識を浮上させてその閉じた瞼を開いてみる。とたんにその眠気を覚ますような窓から差し込む夕日の赤い光。それに小さく目を閉じてある程度の光を遮断してみると、赤い光の影に黒い人影がベッドに腰掛けているのに気付いた。
「……し、シアン……」
目が光りに慣れ、その黒い影が鮮明になってくると、そこにいる人物が誰なのかが分かった。ずっと眠りから覚めるのを待っていた人物がそこで柔らかく微笑んでいる。
握りしめていたその手は解かれず、逆に彼女はライムの声に応えるようにぎゅっと握りしめられる。
「……うん、おはよう……って言うのはもう遅いかな?」
「ううん……そんな事、ないよ……」
どうしてだろうか。目を覚ました時にかける言葉をいくつか頭に浮かばせていたはずなのに、いざこうして目を覚ましているシアンを前にしてライムは言葉がなかった。浮かぶ言葉もなく、喉が震えて絞り出すような声になってしまっている。
鮮明になりつつあった視界も何故がぼやけ始めていた。待ち望んでいたシアンの微笑がそこにあるのにうまく見えない。だから右手で触れていたシアンの手を左手で重ねてその温かみをより感じる事で、シアンが本当に目を覚ましてくれていると実感する事にした。
「こうして……目を覚ましてくれただけで、僕は……僕は……」
シアンの手を包み込んでいるその手に小さな雫が落ちた。でもそんな事は気にも留めずライムは俯いて静かに泣き始めた。
一体いつ目覚めてくれるのだろうか。それよりも本当に目を覚ましてくれるのだろうか。このまま目を覚まさなかったらどうなるのだろうか。
そんな不安がこの数日の間でライムの心の中に広がっていたのだ。それが彼を寝不足に導くことになり、口数を少なくさせてしまい、その表情を硬くさせていた。
でもその憂いはこうして熱い涙となって流れ落ちていく。シアンがそこで見ているのも関係なく、ライムは静かに泣き続ける。
そんな彼をシアンは微笑みながら優しく撫で始める。彼女の服装は病院で着るような長袖のシンプルなものであり、袖から覗く小さな手が俯くライムの頭をゆっくりと往復していった。
しばらくして落ち着いたライムは改めてシアンの顔を見つめた。間違いなく彼女だ。点滴が打たれたままだが、こうして目を覚まし、起き上っている。
「起きて大丈夫なの?」
「うん、何とかね。……あれからどれくらい経ったのかな?」
表情を見る限りでは無理をしている様子はない。でもその服の下には包帯が巻かれているのだ。背中の傷跡は今も彼女の体に刻まれ、塗り薬を定期的に塗られていた。
ライムが日数を伝えると、シアンは小さく「……そう」と呟き、続くように質問した。
「わたしが倒れた後どうなったのかな?」
ライムを守った後シアンは意識を失ってしまったために気になるところだった。ここでこうして話が出来る以上切り抜けたんだろうということはわかっているが、どうやって助かったのかは知っておきたいのだろう。
少しだけ間を置いてライムは全て答える事にした。
クロムとセルシウスが助けに来てくれたこと。救護アイルー隊が追い付いてシアンを連れてポッケ村に戻ってくれたこと。花梨と桔梗も助けに来てくれたこと。……そして自分が賭けをしてそれに勝ち、セルシウスと共に止めを刺した事。
その全てを隠さずに伝え終えると、シアンはしばらく無言でライムを見つめていたが、やがて「……そっか」とだけ漏れたように呟いて窓の外へと視線を移す。
窓に差し込む夕日の光はとても暖かくて、でもどこか寂しくもある。そんな光を見つめるシアンの表情はいつもの彼女と違うように見える。
夕日の光と相まってどこか大人びているような、あるいは愁いを帯びているような。そんな表情を見てライムは言葉を失ってしまった。
そんなライムに話しかけるというより、独り言を呟くようにシアンの小さな口が動いた。
「……また一つ強くなったんだね。光と闇を扱えるなんて……やっぱりライムはすごいよ」
「シアン……?」
その表情と言葉から普通じゃない雰囲気を感じ取ったライムはぎゅっとシアンの手を握りしめた。それを感じてシアンはちらっとライムに視線を向け、目を閉じながら一息つく。
「ライムはどんどん成長していく。今回だってあんな化物相手に逃げないで戦って……新しい力を手に入れた。ライムは……どこまでも成長する。どんどんわたしよりもすごくなっていく」
話を聞いてまたライムが成長したことを知り、シアンはまた心の中で寂しさを感じてしまった。あの公式狩猟試験で自分の力を試し、プリンセスセイバーを振るって自分の新しい可能性を切り開こうとしていたのだ。
その手ごたえはあった。プリンセスセイバーを振るう事で放たれる気刃の応酬。麻痺投げナイフの新しい使い方。ポッケ村で月と打ち合い、気の扱い方を教えてもらった事が実を結んでいると感じていたというのに……あの狂ティガレックスがその試験を壊した。
それだけでなくあれを前にしてライムは自分の中にある闇をあらわにし、それに飲み込まれずに一部を自分の物にしてしまった。
自分の成長よりも大きな結果を示してしまったのだ。
ライムのパートナーだと胸を張って言えるように頑張っているのに、ライムは更にその先へと進んでしまう。彼の隣に並ぼうとして追いかけても追いかけても、その背中は遠くなっていく。
それがどうしようもなく寂しい。
「やっぱりわたしってダメだよね……。わたしなんかがライムの隣に並ぶなんてこと、夢のまた夢。ただの人間じゃダメなのかな……」
「そんなこと……そんなことないよ! どうしてそんな事言うの」
「だって……! だって……わたし……何もないよ? ただ足が速いだけで実力は全然だし、魔法の才能なんてまったくなし。気を扱えるようになったけど、こんなの他の誰でも出来ることだし……。わたしにあるのは誰かの技術を真似るだけ。……こんなわたしに比べたら、魔法の才能がすごすぎるライムの方が充分立派だよ……!」
撫子の前で話したような事と同じような事を話しながら……シアンの左目から一滴の涙が零れ落ちた。でもシアンはそれに気づかずにライムから視線を逸らして自分の思いを話し続ける。
「ライムはどんどん成長していく。わたしなんかよりもものすごい速さで……。置いて行かれないようにどんなに頑張っても、ライムはどんどん立派になっていく……! それがわかってしまうから、追いつこうとしてわたしは頑張ってるけど……それでも届かないんだよ……っ! だからわたしは……! わたしはライムの隣に並ぶ資格がないんじゃないかって……そう感じ始めているんだよ……っ!」
声はいつしか嗚咽が混じるような叫びになりつつあった。彼女が撫子だけに話した事をライム相手に叫ぶように話している。でもその視線はライムに向けられておらず、静かに涙し、夕日の光を浴びながら俯いている。
そんな彼女を見つめながらライムは無言で唇を噛みしめていた。その心はぎゅっと鷲掴みにされたように締め付けられるような思いを感じている。
こんなシアンを見た事がない。
泣きながら思いを口にする彼女を見た事がない。
これほど小さく弱々しい彼女を見た事がない。
いつも明るくて自分を引っ張っていくような彼女が……泣いている。
誰のせい? ……恐らく自分のせいだ。
シアンがこんな思いを抱えているとも知らずにいた自分のせいだ。
「わたしは……ライムの隣に並びたくて強くなりたいと願ってるけど……どれだけ走っても、ライムはずっと先を歩いているんだよ……。わたし……わたしがどんなに願っても……現実はただライムが成長している姿を見せてくれるだけ。だから……わたしは……ライムのパートナーとして相応しくないんじゃないかな……」
俯いたまま暗い表情を浮かべ、叫びはやがて力ない声となってしまう。
撫子に夢を語った時はまだ希望はあった。確かに実力に距離を感じていたけれど、それでも頑張って自分を鍛えていけばやがて追いついて並べると信じていた。あの時話したことは紛れもない本心だったのだ。
でもあの戦いで心が折られた。
自分はライムを守るために身を挺して庇い、そのまま死にそうな程の負傷を負い今日まで眠り続けてしまった。その間にライムはまた一つ成長してしまった。それも魔法使いとしては素晴らしい才能といえる光と闇の素質を開花させてしまう程の。
そんな彼に追いつこうなんて……ただの人間である自分には出来ない。この先も行われるだろう狂化竜との戦いに自分が参戦しても、ライム達の足を引っ張るだけなんじゃないか? そんな事まで考えてしまう。
シアンは完全に負の螺旋に取り込まれてしまっていた。自分を貶め、他者を持ち上げ、未来に不安を感じてしまっている。
そんな彼女を見つめ、ライムはぎゅっとシアンの手を握りしめた。
「……そんな事ない、そんな事はないよシアン。僕にとってシアンはとても大事なパートナーだよ」
「……嘘だよ。わたしなんかよりもっといい人はいるよ」
「嘘じゃないよ。だって、シアンは僕にとって一緒にいて心が落ち着く人だから。それにシアンが近くにいて笑っていてくれないと、僕は……落ち着かなかったから」
こうして眠っていたシアンを見ているライムもまた今のシアンのようにいつもの彼とは思えない様子だった。
そして狂ティガレックス戦でもシアンが奴によって背中を切り裂かれ、出血多量で死にかけた時。彼は間違いなく冷静さを失っていた。魔力を持たない人間である彼女に必要以上に魔力を注ぎ込んで自己治癒力を高めようとしていた。
クロムが止めなければシアンはライムの魔力によってその身を内側から傷つける事になっていただろう。それに気づかないほど彼は冷静さを失い、ただシアンを治したいという願望で動いていた。
救護アイルー隊によって運ばれた後もシアンをあんな風にした狂ティガレックスと、自分を庇うために身を挺したという現実によって心がかき乱されていた。シアンがああなったというだけでライムはそこまで心が揺れてしまう程にシアンの事を大切な人物だと思っている。
それは幼馴染として? ハンターのパートナーとして?
それとも…………。
それはまだわからないけれど、シアンの安否が心配で、シアンをあんな風にさせてしまった自分の不甲斐なさに苛立っていたのは間違いない。彼女が自分を庇ったのも全ては自分の気の緩みが招いたせいだとライムは責任を感じている。
「僕のせいでシアンがこうなったんだ……。本当に……ごめんね」
「う、ううん! これはわたしが勝手にやったことだよ! ライムが危ないって思った時には、もう体が動いていたから……」
「……うん、そう言うと思ってたよ。でも、それでも僕の責任だよ。……そして僕はあのティガレックスを許せないだけじゃなく、僕自身も許せなかった。『守る者』に覚醒しているくせに、大切な人一人守れないなんて……何の意味もない……っ!」
自分の覚醒ルーツが守る者だからこそ余計に自分が許せなかったのだ。一つ一つ強くなっていったとしても、それで彼女を守れないとなればライムにとって何の意味もなかった。
彼の戦いは誰かを守る事にある。誰かを助けたくて、力になってあげたくて強くなりたい。それが彼の戦う理由であり、強くなる理由でもある。それが果たされないようでは彼にとって何より自分が不甲斐なく、許せなく感じてしまう要因となる。
「あの時ほど僕が無力だと感じた事はなかった……。シアンを助けたくて、助けたくて……でも僕に出来るのは応急処置くらい。流れていく血を止める事ぐらいしか僕には出来なかった……! どれだけ敵を倒す力を得たとしても、それが誰かを直に助ける事にはならないんだっ……! だから僕は……シアンが感じているようにすごくなんかないんだよ……っ!」
今度はライムが悲痛に叫ぶ番だった。表情を少し歪ませ、俯いたままそう語るライムを見てシアンは呆然としたまま固まっていた。自分がそうであるようにライムもまた悩んでいたのだ。
どうして気づかなかったのか。
ライムだって自分が未熟である事を実感しているのは知っていたはずだ。だから自分と一緒にきちんと修行しているし、経験を積もうとしている。それでも成長速度に大きな差があるためにあのような感情が浮かんできた。
「シアンの言う通り、少しずつ……いや、この力が急速に目覚めていっているのは確かだよ。……でもこれは主に敵を倒すための力。守るための力じゃないんだよ……。実際シアンを治す事は出来ないし、自分の身だってろくに守れなかった。……これで『守る者』だなんて笑い話だよ……っ!」
雪山で風花と相対した時に無理した時も、セルシウスの時の覚醒も、今回の狂ティガレックスの時も……ライムは自分の中にある力を一部解放して危機を乗り切ってきた。だがそのほぼ全ては敵を攻撃する事に関して大きな成果を上げている。
セルシウス戦ではただ覚醒しただけだろうが、風花の時の雷の槍、狂ティガレックスの時の光と闇の行使に加えて雷と光の複合による雷光剣。セルシウスの風剣に対してドンドルマの建物を材料にして壁を作ったが、同じように狂ティガレックス戦で咄嗟に砂利を集めて壁を作ったが突破されている。
守りに関しても当然本を読んで知識を得ている。しかし所詮は知識だけ。それを実行できるかどうかは別の話だった。
この事についてライムはこう考えている。
確かに自分は守る者に覚醒したのだろう。本能からの声がそうだと言っているから間違いない。自分もそれは多少実感している。
しかしそれ以前に自分はシュヴァルツの血統だ。シュヴァルツはハンターの一族であり、誰かを守るより命を奪う側に特化している一族だ。いつかセルシウスが言うようにシュヴァルツは殺しの血統であり、誰かを守る何てことに力を振るうよりも殺す方に力を振るう。
だから目覚めるのは攻撃するための手段が多いのではないだろうか、という事になる。自分がどんなに誰かを守るための力が欲しいと願っても、現実は攻撃手段ばかり習得していく。
どんなに願っても、綺麗事を言っても、自分はシュヴァルツの血統なのだ。それを狂ティガレックス戦でより一層実感する事になってしまった。
「僕は……未熟で、無力なんだよ……。助けたい人を助けられないし、守りたい人も守れない。自分の身すらあまり守れていない。ただ才能があるだけの存在なんだよ……。だからシアンが感じているように全然すごくなんかない。僕を持ち上げすぎなんだよ」
俯いていた顔を上げると、その瞳が少し潤んでいるのが見えた。彼は……泣いていたのだ。悲しい涙じゃない、自分が許せなくて流している悔し涙だ。小さな涙の跡を残しながらもライムはシアンを見つめた。
「僕はちっぽけなハンター、シアンと何も変わらない未熟なハンターだよ。……だから僕のパートナーに相応しくない、なんて……そんな悲しい事言わないでよ」
「ライム……」
「僕にとってシアンは大切な人だよ。他にもいろんな人と出会ってきたけど、僕にとってシアン以外にパートナーはいない。だから、これからも僕と一緒に戦ってくれるとうれしい」
「……っ、ぅう……」
シアンの口から静かに嗚咽が漏れる。大きな瞳から熱い雫が流れ落ちる。
しかしそれは悲しい涙ではなく、ライムの言葉が嬉しくて出てきた涙だった。その涙を隠すように俯きながら泣き出したシアンにそっと左手を乗せ、優しく撫でながらもライムもまた瞳に溜まっていた涙が一筋流れていった。
「……シアン、これからも僕の隣にいてくれるかな? 今度は……守ってみせるから」
「……ぅ、ん……わたしで……いいなら」
そっと右手の指で涙をぬぐいながら、シアンはまた笑ってくれた。涙で塗れたその顔に浮かぶ微笑をまた見られただけでも、ライムはそれを嬉しく感じたのだった。「ありがとう」と礼を口にしながらライムも小さく微笑み、そっとシアンの手を握りしめる。
それに応えるようにシアンもまたライムの手を握りしめ、二人は微笑みあったのだった。
そんな様子を扉の向こうでクロムは壁に背を預けて聞いていた。 時間が時間なのでそろそろ夕食でもどうだろうと呼びに来てみればライムは寝ているし、いつの間にかシアンも起きてしまっていた。ずっと入るタイミングを窺っていたのだろうが、ああいう雰囲気になってしまってはもう入る事なんて出来ない。
やれやれと頭を掻きながら壁から離れると、対面にいるセルシウスに目配せする。彼女も先ほどやってきたのだが、中の様子を察知してクロムと同じように壁にもたれかかって待っていたのだ。
「どうする?」
目配せに気づいてクロムに問うが、頭を掻きながら嘆息しつつ、小さく開かれている扉の中に視線を移してみる。相変わらず手を取り合ったままの二人は何かを話しているようだが、もうそれを盗み聞きするきはないようだ。
「んー……ま、そっとしておくしかねえじゃないの。お前だってあの空気を壊す気はないから待ってたんだろ?」
「……さて、何のことかオレにはわからないな」
そう言いながら先にその場を離れようとするセルシウス。素直じゃないな、と嘆息しながらクロムもその後を追って病室から離れていく。横に並ぶとコートに両手を入れながら横目でセルシウスを見てみるが、相変わらず彼女は無表情のままだった。
何を考えているかを悟らせないその無表情さだが、さっきの病室前のようにちょっとした気遣いが出来るくらいには人の心があるようだ。噂に聞く殺人鬼に傾きすぎると表情だけでなく感情も失っていく、というのは本当だろうが、セルシウスはまだそれが残されているらしい。
「今日はどうしてここに?」
「……暇つぶしさ。相変わらず女々しい表情しながら、あの眠り姫の傍で待っているのかと様子を見に来ただけに過ぎない。……ま、ようやくその眠り姫が目覚めたらしいけど」
「そうだなぁ。ようやく、ってところだろうさ。これでライムも心の重荷がようやく下ろせたんだろうさ」
最近のライムは見ていられない程にひどい表情を浮かべ、無理にでも連れて帰らないと食事も睡眠もとらなかったのだから。これで少しはましになるだろう。兄としてこれほど喜ばしい事はない。
だがこれで目を覚まさないのはシェリーだけになる。彼女もそろそろ目を覚ましてくれないと心配になってくる。
そんな事を考えながらシェリーの病室前を通り過ぎると、セルシウスがちらっと彼女の部屋の方へと視線を移した。少しだけ病室の中を見るように鋭くなった眼差しだが、すぐにそれは消えて前を向く。
その様子を見てクロムは彼女が何を感じたのかを聞いてみた。すると返ってきた答えはこうだった。
「……別に、何も異変はないさ。だがま…………そうかからない内に結果は出るだろうな。そう気にすることはない」
それだけ言うとさっさと診療所を出ていった。
結果が出る? それは目を覚ますのかという事なのか、あるいは……。しかし自分はセルシウスのような目を持っていない。生命力がどれだけあるのかぐらいにしか視えないのだから何もわからない。
彼女の事だから知り合いでもなんでもないシェリーが生きようが死のうが関係ないのだろうからその“結果”がどっちなのかもわからない。
でもどっちに傾くにしろ近いうちにその答えが出るのならば……クロムはそれが目を覚ましてくれることである事を願うのみだった。
そして――シェリーはその数日後、シアンが退院した夜に意識を取り戻した。だが精神的に強いショックを受けていた上に、体力などの問題があったために喋る事が出来ず、瞬きすることだけが意思表示する手段だけだった。でも彼女はこうして目を覚ましてくれた事は喜ばしい事だった。
刻まれた爪痕は確かに大きかっただろうが、誰一人失うことなく切り抜けた事を喜ぼう。命があれば自分達は何かが出来る。それだけでも明日を繋ぐ要因になる。
次も油断すれば傷跡どころではなく何かを失うか、あるいは殺されるかが考えられる。だからこそ対策を練り、何をするべきかを考える。そうして朝陽達と戦うのだ。
新たな決意を胸に改めて気を引き締める事にしよう。
今はただ――許される限りの休息を。これが終われば、恐らく激戦が待ち受けているだろうから。