「……り、
男の呼ぶ声にその少年ははっと顔を上げる。
目の前には四人のハンターが門の前に揃っていた。少年は彼らを見送りに出ている場で、硬直していたのだ。
「あ……すみません、武蔵さん」
「なに、構わぬよ。……主にとってはこの空気は辛かろう」
「……はい、だから僕もいずれ準備が整えば東方へと向かいます」
「そうか。拙者らも向こうの戦いが終われば、東方へと向かおう。しばしロックラックにでも待機しておいてくれ」
そう言って武蔵達、『刀刃』のメンバーはヴェルドへと向かっていった。
それが一か月前の話。
「……く、闇が濃くなってきている」
少年、碇は中央に充満しつつある闇を感じ取っていた。シュレイド地方に比べればまだ軽い方かもしれないが、ドンドルマもまた結界術によって闇が集められたのだ。その残留が今もなお取り巻いている。
それは消えていくのかと思いきや、新たに闇が増えつつあって碇の精神を蝕み始めた。
「もう、行くしかない」
旅支度を終え、碇は家を、ドンドルマを飛び出していった。
ドンドルマの大老殿、大長老とソル・森羅・スカーレットはいつものように作業を進めていた。こうして大老殿、ギルド本部が復活し、街並みも以前と変わらないくらいまで復興したドンドルマ。
しかしまだ問題はある。分裂したギルドの派閥を纏め、それぞれ細かな点を修復する事、狂化竜に関する調査だ。基本的な事は修復しているが、貧困街などをはじめとする裏通りはまだ完全に修復されていない。
栄えた街の暗い部分のため自然と後回しにされてしまったが、そちらもきちんと修復せよとの大長老の命だ。今回の一件で財を失い、そちらに流れた街の人も少なからずいるらしく、せめて屋根のある住居は提供するべきだと動いているようだ。
そのおかげでここ数日でそちらの方も順調に修復されているらしい。そういう風に報告書が届けられている。それに間違いはなく、ソルの部下が視察に向かったところ確かに修復は順調だ。
「こちらの案件は問題ないですね」
「うむ、こっちも問題ないようじゃな。良きかな良きかな」
復興は滞りなく進んでいる。街の活気も蘇りつつあり、大長老は髭を少し弄りながらどこか満足そうに頷いていた。
だがすぐに次の報告書を見て表情を曇らせた。それはとあるアイルー隊から届けられた報告書で、昴の話した事が書かれている。また同様の内容がココット村の村長からも届けられている。
「……テオ・テスカトルか。今襲撃されればまた被害は甚大じゃろうの」
「そう、ですね。しかし私を含めたメンバーで当たれば被害を抑える事は可能でしょう」
「じゃが狂化されておるぞ? 少なからず被害が出る事は間違いないじゃろうな。そのテオのレベルにもよるじゃろうがの」
長くドンドルマで暮らしている二人にとってテオ・テスカトルやクシャルダオラ、ラオシャンロンは少なからず対峙している。それに大長老は長命のため、多くの個体を見てきている。
その為一見してその実力がどれほどのものかがわかるようになってきた。もちろんそれは古龍だけでなく飛竜種などの竜種をはじめとするモンスターも同様だ。長く生きてきたおかげで身に付いた目利きの実力だ。
「……そうですね。しかし最小限に留めてみせましょう。我々はこの街を守るために全力を尽くすのみです」
ギルドナイトとしての一番の答えだろう。大長老はそれに小さく苦笑したが、頷いて報告書に視線を落とす。
内容としては昴達のものに加えてラティオ活火山の問題を結びつけている。ストロンボリ火山の活性化はあの狂化したテオ・テスカトルの影響ではないかという推測。優羅が見たのは奴の覇気で、隆々と噴火する火口を背景に彼女をじっと見つめるテオ・テスカトルの姿だけ。
だが奴があそこに存在し、狂化の種を持っていたならば、それによって強化された力で火山を噴火させることも可能だろう。何せ奴は炎に関連する力を持つ古龍。高い力を持ってしまえば覇気だけで火口に影響を与える事も可能だと考えてしまう。
何せ古龍に関しては不明な点が多い。ただそこにいるだけで雨雲を呼び、暴風を起こしてしまうクシャルダオラもいれば、雷を呼び出すキリンもいる。更に言えば東方にはクシャルダオラ以上の力を持ち、嵐を呼ぶ古龍もいるらしい。
こうして天候、自然に影響を与える古龍がいるのだ。テオ・テスカトルとて火山に影響を与える力を持っていてもおかしくはない。
そんなテオ・テスカトルはラティオ活火山へと向かったようだ。あちらも最近活性化されているため、あそこも奴のなわばりの一つと考えられる。
「討伐隊を派遣するのは難しいでしょう。火山は奴にとって庭のようなもの。我々が奴の土俵に上がって戦うなど無謀以外の何物でもない」
「然り。故に奴の動きを観察し、出て来たならば打って出るという方向でもなければ難しいのう。古龍観測隊を派遣してみるかの」
気球で空からラティオ活火山の様子を監視すればテオ・テスカトルが動き出しても報告が届けられる。今はそれぐらいしか手がないか。
後はハンターを募って守りを固めればいいだろうが、狂化竜の事でハンターの犠牲が少なからずある上に、ヴェルドではシュレイド王家がハンターを募っている。あっちからは数がそんなに集まらないかもしれない。
ドンドルマにもこの半月でハンターの数は戻ってきている。しかし実力あるハンターか、と訊かれればわからない。下位のハンターが大半、上位がまあまあ、G級が一握りというところか。
下位ハンターは論外。ラオシャンロンの時はまだしもテオ・テスカトル相手に出陣すれば数秒持たず消し炭になりかねない。無意味な犠牲を生み出さないために下位ハンターはこの戦いには募集しないようにしておく。
「上位ハンター……特にHR40以上を目途に招集をかけてみますか?」
「うむ。それでどれだけ集まるかはわからぬが、やるに越したことはないか。古龍観測所にも連絡を入れておこう」
テオ・テスカトルに関してはそれで対処する事にした。目撃したという優羅は実際に奴を見たわけではない。その影を見ただけだ。目の前で相対したわけじゃないのだ。
だから今は様子見。
本当に狂化したテオ・テスカトルならば備えなければならないが、まだ完全に確実にそれというわけではない。古龍観測所がそれを確認したらすぐに動く、という方向で決定された。
また別の報告書を処理していき、日が高くなる頃には全ての報告書を処理できた。
軽く首を動かして疲れをほぐすソルは一息つき、「お茶を淹れます」と立ち上がる。部屋の一角にある棚に向かって茶葉と急須を取り、てきぱきとお茶の準備を進めていく。ドンドルマという事もあって西は紅茶、東は緑茶と種類を問わない。
「どうぞ」
東方人の妻を持つソルは緑茶の淹れ方もある程度知っているし、飲み慣れている。大長老も長く生きているおかげで色々なものを口にしているから特に文句もない。
湯呑を軽く口に付け、一息つくとじっとソルを見据えた。白い眉毛によって隠れた目だが、その下からじっと自分を見詰められているのがよくわかる。
「例の物はどうなっておるかの?」
「……まだ完全には」
その答えに「そうか……」と小さく頷き、また湯呑に口をつける。
「あの二人が最期に遺したものです。必ず解いてみせます」
「うむ。じゃが無理はするなよ?」
「はっ、わかっております」
事の始まりは一カ月半程前の事、街の復興は街道をほぼ全て舗装し終えて建物へと取りかかろうというところだった。重要拠点である大老殿に始まり、貴族街へと修復を進めていった頃合いだった。
その中の一つ、ゲイルの実家であるカーマイン家の修復の際、奇妙な一角が発見された。カーマイン家もあの炎によって一部焼け落ちており、その内部が若干外から見える状態にあった。
修復する前にどれだけの被害化を確認するため大工達が中へと入って調査したところ、不自然な場所があったという。魔法的な要素が絡んだその場所は彼らには判別つかず、カーマイン家と親交があったソルを呼ぶ事になる。
そして彼がそこへと向かうと、彼は表情を変えてそこをチェックした。
そこは地下へと続くための扉であり、しかも厳重に封印されていたのだ。まるでこの先に大事なものが隠されている、という風な程の封印である。しかしその鍵をソルは知っていた。
昔一度やり取りした話の内容に自分達の間で通じる合言葉があった事を思い出し、それを当てはめてみるとその封印が解除されたのだ。
そうして開かれた扉の先には長い階段が存在し、その先にはちんまりとした地下室があった。本棚に作業台、金庫があるというだけだったが、その金庫というのが問題だった。
そこにもまた魔法で封印が施されていたのだ。本棚にはカーマイン夫妻が調査した事柄がファイリングされたものが並び、ギルドの裏の情報がいくつか載っていたりしていたのだ。
その中には保守派の暗い歴史も存在し、同行してきたソルの部下も驚く程の調査結果だった。
しかし本命は金庫の中身。確かに本棚のファイルもいいが、金庫の中身こそが知られてはならない情報が眠っているに違いないとソルは確信していた。
カーマイン夫妻の役割はギルドナイトでも裏の裏。不正がないかを調べるのが主で、対象は同じギルドナイトでも調査される。常に裏で動き、目を光らせて不審な動きがないかを監視する、いわゆる監査官の役目を担っていた。
それは二人だけでなく、カーマイン家が代々その役割を担ってきたのが関係している。そのためカーマイン家は「影の監視者」と称されている。
もし本当に何か違反をしている、不正がある、となれば報告書を作り記録する。後はそれを元にソルが動いて処理する。
だからカーマイン夫妻とソルらは昔からの相棒であり、親友だった。
そんな夫妻が保守派に暗殺された。
信じられなかった。よもやあの二人が暗殺されるなど。
もしかすると何かを掴んだせいで殺されたんじゃないかと一度この家に来たが、その時はこの地下室へと繋がる扉が見つからなかった。恐らく通じる道すらも封印されていたんじゃないだろうか。
それがあの火災によって強引に解けてしまった。だからこうして隠された地下室の存在が明らかになった。そうソルは考えている。
とはいえあの二人ならばソルにはわかるようにしてくれるはずなのだが、その辺りも敵が何らかのアクションを起こしていたのかもしれない。今となっては謎だ。
「……なるほど、これもまたキーコード式の封印か」
金庫に近づいて開錠の方法を探ると鍵に魔法式が構築されているのがわかった。該当する言葉や魔法を行使しなければ解ける事がない封印がキーコード式の封印。それを無視して無理やり解除しようとすると、手痛いしっぺ返しを食らうのが特徴だ。
それを恐れず金庫自体を破壊しようにも、金庫も強固な守りが掛けられているようで、よほど中身が大事なものだという事が窺わせる。
「…………これではない、これでもない。……ならば『闇の中に灯る真紅の
その言葉に反応してカチリ、と小さな音を響かせて封印が解ける。鍵を覆っていたそれが消えた事で開けられるようになったかといえばそうでもない。物理的な鍵の開錠も行わなければこれを開ける事は不可能。
だがこれもアタリは想定済み。つまみを回して数字を合わせていき、四つの数字が合っていれば開錠される。
「……よし。開いた」
昔馴染みでお互い使いそうな番号は知っている。ソルでも開けられるように想定しているならば、そういう風に設定しているだろうと考えたが正解だった。金庫を開けて中身を見てみると、数冊の手帳と一つの箱が入っていた。
それがソルが求めるものが入っている物だろうか。手に取ってみると、これもまた厳重な封印が施されていた。
「む……これはなかなかの封印だ。俺でも難しいか……」
大事なものが入っているせいか地下室より、金庫より、更に厳重な封印が施されているらしい。ソルでも厳しい程の封印とは……これではソルに見せにくくなるだろう。しかしそうでもしなければ他者に容易に中身が漏れてしまう。
「ファイルと共に持ち帰って解いていく事にしよう。今日の所はこれで帰るぞ。必要な物は得られた。後は家の修復を任せる」
地下室にあったもの全てをローブの中にしまうとソル達は大老殿へと帰る。残ったのは家の修復を任された大工達。それから数日してゲイルの実家は修復され、本来の姿を取り戻した。
だがあれから一カ月経った今もあの箱の封印は解かれていない。様々な方法で解こうと試みているようだが、一向にそれは解除される事はない。
「今日のところはもう下がってよいぞ。後は儂がやっておこう」
「はっ、しかしよろしいのですか?」
「よい。きりもいいし、問題はあるまい。何かあれば儂から呼び出す。故に下がってよい」
「承知いたしました。では失礼します」
一礼して去っていくソルを見送ると、大長老は重い溜息をついて湯呑に口をつける。しかし中身はもう飲み干していたようで、また軽く息をついて急須を指で呼び出して中身を注いでいく。
宙をふわふわと漂ってやってくる急須というものはなかなかシュールだ。しかし大して気にもせずお茶を注ぐと一杯飲んで天井を見上げる。
(シュレイド地方に集う闇は日々増していく。しかも気のせいでなければ旧シュレイド城に集まっておるようじゃが……よもやそういうのが目的ではなかろうな?)
旧シュレイド城という点が大長老の胸をざわつかせる。かの城へと何度も降り立った黒龍ミラボレアス。強い闇を孕み、闇を喰らって更に強い闇を放出する。立ち向かっていったハンター達ですらその血肉を喰らい、彼らが纏っていた装備を溶かして己の鱗へと吸収する。
奴が一体どこから来るのかは不明だ。どこからともなく現れ、人々に強い絶望を与えてくる。そんな人の負の感情を刺激し、闇に関連する伝説種。
(いや、それだけではない。旧シュレイド城だけでなくラティオ活火山、テロス密林でも強い力が感じられる。ラティオ活火山は狂化したテオ・テスカトルとして、テロス密林は何じゃ?)
テロス密林はこのドンドルマから東に向かったところにあり、そこからさらに進めばロックラックへと繋がる砂漠が広がっている。つまり東方へ向かう前の入口の密林という認識でもいい。
そんなテロス密林で異変が起こった可能性がある。報告書を見れば不自然な黒雲が時折テロス密林付近で見られるらしい。黒雲は雷雲を含んでいるようで、密林ではよく雷が落ちるようになったようだ。
もちろん調査隊は派遣されているが、ただでさえ見えづらい密林に黒雲が浮かぶものだから視界が大変よろしくない。そのため調査はなかなか進まない状況になっている。
(しかもあの辺りは確か……そう、ナズチがいたはずじゃ。ルート的には現在テロス密林をなわばりとしているじゃろう。……じゃが数か月前に不穏な空気を察知して妙な動きをし始めたはず。奴は今どうしていたか)
古龍観測所からの報告を確認してみると一度テロス密林を離れたようだが、半月前にまた戻ってきたらしい。それまでの間黒雲はテロス密林を徘徊していたようだが、霞龍オオナズチが戻ってくる数日前に北の方へと移動していったらしい。
一時的な帰還だが、それでもオオナズチはまだテロス密林にいる。だがオオナズチよりも大長老が気になっている点が黒雲。
あれを作り出しているのは自然ではなくまた別の何かではないかと大長老は推察している。そう……考えられるとすればクシャルダオラか、あるいはキリンか。
何にせよ古龍を震え上がらせるならば、それもまた古龍ではないかと考えるのが自然だった。
「何にせよ気を抜く暇はないか」
西に、南に、東に……嫌な気配がする。
何としてでもこの街の滅亡は防がねばならないし、未来ある者達を守るためにも討ち倒さねばならない。人の意志でこれほどまでの乱を生み出すなど許しがたい事。
だから勝つ。
勝たなければならない。
改めてそう決めて大長老は昼食をとるために部屋を後にした。
昼食を取ったソルは一度自宅へ戻り、あの箱を取り出してみる。相変わらず封印が解けることはない。一体どうやって解除すればいいのか目途が立たない。
ヒントは過去の自分と妻、そしてカーマイン夫妻の日々だろうと考え、妻の
一体どうすれば解けるのかわからない。
(シンク……シルフ……、一体何が鍵なのだ? 一体これには何が入っているのだ?)
解除にてこずり、時間が経っていくにつれて焦りが出てきた。もしこの中に自分達が望む物が入っていたならば、一刻も早く解除したい。あの夫妻が探っていた物が入っているんだろうと予感がある。
だから早く見たい。一体何を探り、見つけ出し、殺されたのか。それを知りたい。
だがヒントが見つからない。
完全に焦り、頭の中でぐるぐる巡っている。
(……く、落ち着け。これではいかん。金庫が俺に解けるようになっていたのだ。これもきっと俺にも解ける。そうでなければ意味がない)
頭を落ち着かせるように紅茶を口にして軽く一息つく。
鍵が見つからなければ開ける事は不可能。しかし鍵は過去の記憶に断片があるはずだと、目を閉じて過去へと思いを馳せていく。
あの二人が生きていた頃、お互い結婚して子供を成した時代、ギルドナイトとして活躍しだした時代よりも更に昔、自分達がまだまだ若かった頃まで遡ってみる。
(…………ん? 何か、思い出しそうな……)
名家の生まれで現在は高い地位に座しているとはいえ、若い頃はまだまだ下っ端だ。でもカーマイン家の息子であるシンクとは幼馴染だったため、ギルドナイトの修練ではコンビを組んでいた。
また下っ端の頃は一般のハンターに紛れるように普通のハンターとしても行動するため、制服を着ずに行動していたことが多い。
その頃だったか。ソルの妻である天音、シンクの妻であるシルフと出会い、四人で行動するようになってきた。男女二組ずつのチーム。年頃ということもあり、いつしかお互い想いあうのも無理もない事だった。
(そうだ……あの時、あんな話を……)
それは上位ハンターとして行動して数か月たった頃、ある日の夜ソルとシンクはとある丘で肩を並べて話をしていた。いくつかの話題を終え、ふとシンクがこんな事を言い出したのだ。
『ソルって月の事だったよね? で、アマネは天音って書くけど、雨音とも書ける。僕のシンクは風に関連する言葉でもあり、真紅とも書ける。そしてシルフは風の精霊。なかなか面白い組み合わせだと思わないかい?』
『そうだな。全部空とか自然に関連する名前だ。奇妙な縁だな』
『……
ははは、と苦笑しながらシンクは空を見上げ、それにつられてソルも空を見上げる。その日の空は珍しく赤い月が浮かぶ日で、風が心地よかったこともあり、そんな一句が浮かんだのだろう。とはいえ、月と雨が同時に存在することはほぼ有り得ないのだが。
苦笑し続ける彼はちらりとソルへと視線を向け、「ソルもなんか一句詠んだらどうだい?」と振ってみた。そういう事をやった事がないソルとしては遠慮したいところだったが、無言で空を見上げながら頭の片隅で考え続け、やがてぽつりと歌うように一句詠む。
『赤い月雲の隙間に顔を出し、涼風吹いて歌う雨音……ってところか。つたないが案外出来るものだな』
『はは、本当にうまい人ならもっといいものを詠めるんだろうけどね』
また軽く苦笑し、そこでシンクは表情を引き締めてじっとソルを見つめた。
『四人でいるのも当たり前になってきたけど、僕と君……カーマインとスカーレットの縁は深い。僕達が裏で探り、君達が表で取り締まる。そうやって両家はギルドを支えてきた』
『ああ、……役割としてはお前達の方が危険性が高いが、それでもカーマイン家は我々を支えてくれた。お前もそうしてくれるんだろう?』
『もちろんさ。僕は全力で君を支えるよ。それに僕だけじゃない。僕達にはもうパートナーがいる。四人でやれば怖いものはないんじゃないかな?』
そう、まだあの頃は怖いものなんてなかった。四人のチームワークも高まり、上位ハンターとしても慣れてきた。今の自分達ならば何でも出来そうな気もしてくる。しかしギルドナイトの家系だからこそ、そういう慢心から生まれる辛さも知っている。
だから口にするだけ。そんな事を口にしながらも目は真剣で口元は小さく緩めるだけ。
『……ソル』
『なんだ?』
『僕達四人、いつまでも一緒がいいよね』
にっと笑ったシンクはどこか儚げながらも、強い意志を感じられるような気がした。
(……そう、四人はいつまでも一緒。あいつはそう望んでいた)
それは果たされることはなかったが――――あ、そういう、事か?
はっと気がついて顔を上げ、箱を見据えてその言葉を口にした。
「『雨音が響く夜に風唄い、真紅の月は大地を照らす』」
それによって少しだけ箱を包み込んでいた封印が少しだけ綻びを生み出したような気がした。これではまだ足りないらしい。ならば付け足すようにその一句を口にしてみた。
「『赤い月雲の隙間に顔を出し、涼風吹いて歌う雨音』」
これによってまた綻びは生まれたが、これでもまだ完全に解除されたわけでもないらしい。だがソルはこの二つによって解除への道が見えていた。
この封印はキーコード式の封印ではない。いや、それも含んだ封印というべきか。様々な封印式を絡ませた封印術なのだ。
箱へと右手をかざし、魔力を通して箱へと注いでみる。
まずは水属性。それなりの魔力を注げば右手の周囲に水蒸気が漂い始めた。それを渦巻かせるように風属性の魔力を注ぎ、一旦切ってもう一度風属性の魔力を注ぐ。そうして工程を進めていく度、箱の封印術は少しずつ解けていく。
(やはりそうだ。最後は俺達の名前に絡んだ魔力を注ぐ形で鍵を開ける。次は恐らく俺だが、俺の場合はこれか?)
少しだけ考えて雷属性を注いでみれば問題なく鍵が緩んでいく感覚がした。正解だったらしい。月となれば月の光と連想して光属性ではないかと考えるが、ソルもシンクも光属性はあまり得意ではない。なのでソルの得意としている属性の雷属性を流してみたのだ。
さて次は大地……地属性を流すのか、あるいは赤い月に使われたシンクの風属性か。
考え続け、四人の絆を大事にしたシンクの性格を考え、風属性を流してみた。
(……いった)
読みは当たった。四人に関連する事しかこの封印に使っていないらしい。どこまでもシンクらしい。薄く笑いながら最後の三つ、雷、風、水と魔力を注げば、あれだけ手こずった封印は嘘のように解けてしまった。
解いてみれば案外簡単だったのに驚く。シンクの事を考え、昔の事を思い出せば簡単に解けてしまうとは……まったく、困ったものだ。
しかしようやく解けたのだ。ついに中身を検められる。
少しだけ震えた手でそっと箱を開けてみると、いくつかのファイルと書類が入っていた。手に取ってタイトルを確認してみると、『神倉一族の闇』とあった。
「……神倉、だと……?」
まさか神倉一族について書いてあるとは思わなかった。しかしあの二人が調べた事だ。何か意味があるのだろうとその書類に目を通していく事にする。
神倉一族の闇。
東方のいずこかにある山中に本拠地を構える竜人族の一族。我々の間では高い能力を持ち、かの伝説に謳われる黒龍に挑んだハンターがいると知られるだろう。
高い能力を保有するのは力を求めた事で様々な血を取り入れてきた事に関係する。人間、竜人族、魔族問わず、更に言えば血縁関係であろうとも交わって子を成してきたという。
そうして誕生したのが神倉羅刹。
神倉一族で最初に生まれた最高傑作と一族内では謳われていた。しかしそんな彼でも黒龍には敗れ去った。神倉一族の目標である黒龍討伐の夢は果たされなかったのだ。
神倉羅刹でも果たせなかったならばもう無理だ、と諦める彼らではなかった。ライバル意識を持っていたシュヴァルツの血統を超えるため、あえてシュヴァルツの血を取り入れようと考えたのだ。
考えたのはいいが大戦後いずこかへと散らばっていった彼らを見つけることは難しく、取り入れられたのは羅刹が敗れて数十年も経った頃だった。その血も一族全体へと広がり、神倉一族はシュヴァルツの血統に連なる事になる。
そんな彼らの中で名が売れたのはやはり神倉獅鬼と神倉月だろう。前者は高い体術の力を持ち、未開の地をどんどん開拓していき、医者としても高い才能を保有している。
後者は神倉一族の第二の最高傑作と謳われ、羅刹に成し遂げられなかった黒龍討伐を成功させ、空間収容術という新たな技術を世に広めるなどの功績を打ち立てている。
ここだけ聞けば神倉一族にはいいイメージしか持たないだろう。
だが、シュヴァルツの血を取り入れた神倉一族の行動は目に余る。感情を無視し、ただただ力を求めて行動した彼らは命や人の尊厳すらも無視するようになる。この以前からその気配があったが、シュヴァルツの血を取り入れてからはそれがひどくなったといってもいい。
友好的な神倉獅鬼と月が一族内では珍しいのだ。
さてどれだけ黒いのかといえば、調べたところこのような事があったのが確認できる。
付属のファイルを参照との事なのでそれを合わせて確認してみる。そうして確認された事実はこうだ。
近隣、遠方問わず村や一つの町の住民の生命力すらも利用し、神倉一族の住民の力を研磨し、高め続け、やがて子を成すという事だ。闇魔法の一部にも手を出していたらしく、ルナ・フォックスの書き記した闇属性の書物も村の蔵に保管されていたらしい。
時には秘密裏に村の住民を全滅させ、その魂を喰らった事もあるようだ。
その隠された事実にソルは知らず体を震わせ始めた。
神倉一族は黒龍を打ち破った者を輩出した一族であり、今はもう滅びた一族。神倉月は英雄であり、人々の暮らしに貢献した人物。それは間違いない。
しかしそれは彼女が一族の中でも特別であり、全ての人物がそうではない。
むしろ逆。
目的のためには他者を切り捨てる事を厭わず、むしろ生贄にしようとも心が痛まない者達。命を駒として扱い、自分の思う通りに動かし、使って望みどおりの結末を生み出す。そうして使い潰した後切り捨てる。
それが神倉一族だ。
それは東方の伝承に語られる「鬼」の一族と言ってもおかしくないだろう。
山奥でひっそりと暮らす人でありながら人ならざる行為を繰り返し、陰で人々に恐れられる存在。どうやら術によって知られることは防いでいるようだが、明るみに出れば彼らはまさしく鬼と呼称してもおかしくない所業を行っている。
それはかの神倉羅刹も同様。
「む?」
人族で初めて空間魔法に至った人物、人族で初めて高い能力を持つ古龍を単騎で退けた人物……と数々の記録を打ち立てた彼だが、その心はまさに傲慢。
他者を見下し、自分こそが優秀な人物なのだと驕る傾向にあった。仲間を必要とせず、自分一人で何でも出来ると普通に考えた彼は、黒龍討伐戦でも同行したハンター達の犠牲を気にも留めずに黒龍へと挑み続けたという。
結末が敗北という事は周知の事実だが、彼のその考えこそが神倉一族の思想によって作られたものである事はこれまでの情報で容易に考えられる。
さてそんな彼は敗北した後――
「…………なん、だと……?」
そこから綴られた記述にソルはまた言葉を失う事になった。
まさか、そんな……確かに普通はそう考える。しかし改めてそう考えると、あれから千年近くだぞ? それほどまでの長い時間そうだったというのか?
無言で最後まで読み進め、神倉一族の闇を知り、ソルは一息ついて書類を置く。
確かに何かいい情報があるんじゃないかと期待したが、よもやここまでとは思わなかった。しかもこれはまだ前哨戦。書類はこれだけではないのだ。
もう一つの書類のタイトル、それは『黒い竜』とあった。
まさかあの二人が狂化竜の事を知っているとは思わなかった。暗殺される前から何かを探っている様子があったが、結局それが何かはわからなかった。保守派について調べているんじゃないかと当時から考え、実際その資料がいくつかあったからそうなのだろうと結論付けていた。
だがもし……保守派だけではなく、狂化竜について探っていたからこそ暗殺されたのだとしたら……仇は狂化竜を作っていた者も含まれる。
奴らにとって知られてはならない事を知ったから殺された。ではその知られてはならない事とは何か。それを知るためにソルは書類に目を通す事にする。
黒い竜
近頃異質な力がこの大陸に感じられる気がした。私シンク・カーマインとシルフ・カーマインは極秘にその力の元を探るために行動を開始した。
そうして見つけ出したのはまさに異質といえる飛竜だった。黒く染まり、闇の気配がするリオレウス。闘争本能を刺激され、ただ敵を殺す事に思考を埋め尽くされた存在。
狂っている。
その言葉が似合うだろう。
しかし本当に狂っているのはそれを生み出したもの。あれは人為的に生み出された存在なのだ。信じられないかもしれないが、闇魔法の一端を行使し、あの黒い竜を人が作り出している。
私はそれが信じられなかった。
一体何が目的でそんな真似をしているのか。私達はそれを探ろうと考えた。
まず作っているのは一人ではない。
男女二人。
それを確認した。
男は銀色のローブに身を包み、女は深い藍色のローブに身を包んでいる。素顔を探ろうとしたが、用心深いのかなかなかそれを見せてはくれなかった。
目的は不明だったが、長く張り付き、監視する事でようやくそれを掴む事が出来た。
力だ。
リーダーは女の方らしく、彼女は力を求めてあの黒い竜を作り出しているようだ。
彼女の力の根源は闇にあり、黒い竜はその闇を収集するために作られた存在だという。人に恐怖と絶望を与え、黒い竜がその人々を喰らい己の中に植えられた闇を高めていく。やがてその高まった闇を彼女が奪う。例え黒い竜が討たれようとも、自然と彼女へと闇が移動し、彼女の力を高める。
討たれようとも討たれまいも、最終的には彼女の得になる。そのような仕組みのようだ。
私はそのやり方に怒りを覚えたが、同時にそれはとある思想に似ていると考えた。
それは神倉一族だ。
彼らもまた力を求めた一族であり、力を得るためならば他者の犠牲を厭わない。他者の命を踏みにじろうとも、己の力を高めるための犠牲として考える。
そんな思想だ。
それは正しかった。何故なら彼女もまた神倉一族の女性だったからだ。
神倉朝陽。
かの神倉月の実姉である。彼女の実の姉が力を求める理由を推察すると、思いつくのは一つしかない。最高傑作と謳われた神倉月を超えるためだろう。深い事情は知らないが、神倉朝陽が神倉一族のルールに則って行動しているのは間違いない。
しかしだからといってこれはやりすぎだろう。これが神倉のやり方ならば、増々私は神倉一族に対する批評を下げなければならない。
また彼女は裏で行動し、ドンドルマにも侵入している。それだけではなくギルド内にも侵入し、なんと保守派のバックについている事が判明した。ギルドの思想を変えない事を確約し、彼らを守る代わりに自分のいいように情報操作しているのだ。
もしここまで探った私達に気づいたならば、まず間違いなく消しにかかってくるだろう。気を付けなければならない。
だが私が気になっているのは神倉朝陽だけではない。彼女に従っている男の方が気になっている。ここまで張り付き、調べ続けるという危険を冒してもなおボロを出さない彼は、恐らくではあるが神倉朝陽よりも実力が上ではないかと考えている。
ここまで危険を冒しても何も得られない。
踏み込んではいけない領域まで踏み込んでしまったのかもしれない。
しかし私達は調査を続けた。
そうして得られたのは男が何かを実験しているという事。神倉朝陽も黒い竜を作り出して実験していたようだったが、男もまた別の実験をしているように見えた。
闇の種を飛竜らに植え込んでいる様子を観察していた折、その種に微妙な差を感じたのだ。その差が何かシルフと分析し合った結果、何らかの因子が含まれている事がわかった。
残念ながら私達ではそれが何かはわからない。しかし男が作り出していた闇の種は何らかの因子が含まれていたという事が判明した。
ここから先は私達が調べた事は少なくなってくる。主に裏で行動している情報屋の一人と接触し、彼女に依頼して情報提供を求めた。
彼女の名は
彼女の情報で私達では探れなかった神倉一族内部の事まで明らかになり、彼らの思想まで突き止める事が出来た。
また男が闇の種に含んでいたあの因子も明らかになる。
それはシュヴァルツの因子。
彼女曰く深い憎悪に身を焦がしたシュヴァルツの女性の血から抜き取った因子らしく、これを闇の種に含ませる事で黒い竜をもシュヴァルツに連ねてしまったという。その術はブラッド・ルーツと呼称されている。
まだ実験段階ではあるが、あれを完成させてしまえば我々にとって脅威となるだろう。
しかし彼女の提供した情報はそれだけに留まらなかった。
私達では暴けなかった男の正体をも暴いてしまったのだ。
彼の名はアキラ・ジン・ウェスタン。通称「
彼は――
(……そういうことか)
もしそれが本当ならば、彼は今まで朝陽と共に行動していたのか、また彼女に会うまで何をしていたのか。それが気になるところだが、情報屋はそこまで情報を提供する事はなかったようだ。
しかし彼には三人の部下がおり、それぞれこの大陸に散ってハンターやギルドの動きを監視しているとの事。それもまた情報提供してくれなかったらしい。
続きを読み進めていく。
彼女に会ってから不穏な空気が私たちの周りを包み始めた気がする。もしかすると私達はただ泳がされていただけなのかもしれない。探りたければ探れ、しかしその代償は高くつく、と陰から囁かれたような気がした。
だが今まで得た情報はこうして残っている。後は封印するだけだ。願わくば敵の手に渡らず、ソルの手に渡らんことを。
そこで文書は終わった。
だがそのすぐ下に一枚紛れていた。はらりと落ちたそれを読むことにする。
そして……もしかするとソルの手に渡っている頃には私……僕達はもうこの世にはいないかもしれない。予想する結末は神倉朝陽達によって殺されるか、彼女達によってそそのかされた保守派による暗殺のどちらかだろう。
どちらにせよ公式記録では事故死になる確率が高いと僕は考える。
ここからは私情になるけれど……ソル、そうなった場合、ゲイルをよろしく頼むよ。あの子は優しい。そして純情……悪く言えば単純だ。僕達が死んだらたぶんあの子は怒りと悲しみに捕らわれてよからぬ事を考えそうだ。
そうならないように見ていてくれないかな?
頼めるのは君達だけだ。……よろしく頼むよ。
そこまで読んだソルは長くため息をついて「……バカ野郎が」と悪態をつく。
「……そんな事を頼むならこれも封印するな。せめて遺書として別に分けておけよ……」
最後の方はまさしく遺書という雰囲気だった。どうしてこれも一緒に封印してしまったのかと責めたい気分だが、あるいは分ける時間もなく追い詰められていたのかもしれないとも考えた。
奴らは危険だ。しかも本当に保守派のバックに付いていたのならば、誰にも気づかれずに闇討ちする事も可能だろう。苦も無く実行してしまうのが容易に想像できる。
そんな事を考えていると、突如ソルはその場から書類と箱を手に離脱した。そのすぐ後にさっきまで彼が座っていた椅子の上を何かが通り過ぎる。
見ればそれは貫通弾。明らかに自分の頭を撃ち抜こうという意志が篭められた攻撃だ。
「……このタイミングで狙撃、か。やってくれる」
壁にかけていたローブを手にし、書類を箱へと入れながらローブ内へとしまうと、貫通弾によって割れている窓ガラスの方へと視線を向ける。
「――ッ!?」
またしても額を狙った狙撃に感づいてソルは部屋を飛び出す。どうやらシンク達が集めた情報は知られてならなかったらしい。自分一人になったところを狙った攻撃にソルは舌打ちする。
悠長にこの家にいるわけにはいかないだろう。家の者達を巻き込むわけにはいかなかった。窓を開けて外へと飛び出し、庭に生えている木を伝って街並みへと飛び出せば、背後から追いかけてくる者の気配がした。
数十メートルの距離を疾走した後一つの家の屋根で立ち止まる。振り返れば黒装束に身を纏い、仮面をつけた何者かが離れた家の屋根に飛び乗った。
「ふむ、貴様があれか? あの男の部下の一人、監視する者か?」
「…………なるほど、本当にカーマイン夫妻が遺したものは危険なものだったようですね。隙がなくとも早くやっておくべきでしたか」
「ふん、いついかなる時も気を抜くべからず。特に窓には意識せよ。我々の心得だ」
ギルドナイトは裏で行動する者。スカーレット家も違反者を捕え、処理する役目を負うが自分自身もその手が回ってこないとは限らない。特に恨みでやられては目も当てられない。
だからプライベートでも最低限の気構えはしておくべきだ。また狙撃に注意するためにも外から突き破ってくるであろう窓にも気を配る事も忘れない。だからこそ奴はソルが重い溜息をつくまで撃ってこなかったらしい。
「それで? その仮面を取ってもらおうか。その素顔を検めさせてもらう」
「お断りさせていただきます。……しかし、貴方とタイマンするのも厳しいですか」
仮面の下で恐らく苦い表情をしているだろう。声を変えているせいで性別も判別つかないが、その体つきからして女性ではないかと推測は出来る。黒装束で体のラインは隠しているようだが、それでもソルの目はごまかせないようだ。
鋭く細められた瞳から発せられる殺気は本物だ。自分を消しに来た相手だ。やるならば容赦などしない。
「……ふっ!
「ぬるい!」
黒装束を翻せば中に収められていたライトボウガン、ヘヴィボウガンの銃口が顔を覗かせて一気に弾を放出してくる。だがソルは動じず、襲い来る弾丸を掻い潜っていく。屋根から屋根へと飛び移りながら接近するソルを見る敵は冷静に懐へと手を入れ、何かを取り出すと屋根へと叩きつけた。
すぐさま立ち上る白い煙……叩きつけたのは煙玉らしい。だがそれでもソルは冷静だった。煙の中へと突入するような真似はせず、両手を広げて空を切るように動かすと指先から伸びた電流がまるで蜘蛛の巣のように周囲を張り巡らせていく。
ソルが得意とする電磁網だ。相手を攻撃するよりも痺れさせる事を念頭に置いた電流で相手を絡め取り、動きを止めて捕獲する事を目的としている。だが妙に手ごたえがない。
「逃げたか?」
気配を探ろうにも最初から気配はおぼろげにしか感じられない。気配を消す事もかなり上手いようだ。文字通り煙にまかれたかもしれない。
そんな事で油断をする事もない。姿が見えなくなったからといって少しでも気を抜けばやられるのは自分なのだから。
「――ッ、そうでもなさそうだな!」
頭上から降り注ぐ弾丸の嵐と、それに混ざった投げナイフ。どうやら上へと逃げていたらしい。だからといって当たってやることはしない。後ろへと跳ぶ事で全てを回避し、電磁網を上へと伸ばしていく。
空中ではよほどの手段がなければ回避は不可能。電磁網も今度は敵を逃す事はなかったのだが……どういうわけか彼女の姿はそこから消えてしまった。
「……ただの幻影……いや、分身みたいなものか」
最初から本人が出向いてきたわけではないらしい。しかもソルに今の今まで悟らせる事がなかったとは、どうやらそういう腕前も抜かりはないようだ。まさに陰に隠れて監視する者。そう易々と尻尾は見せてくれない。
一息ついて一度辺りを見回してみたが敵の気配はもうない。あるいは気配を最小限に消して見張っているのかはわからないが、もう襲撃してくる気はないようだ。
暗殺は最初の一撃が肝心。
一撃必殺。
それに失敗してしまえばもう暗殺任務は終わっているのだ。しかし気を抜くようなことはせず、ソルは屋根の上を飛び移りながら疾走し、大老殿へと向かっていったのだった。
○
「申し訳ありません、討ち損ねました」
とある路地裏の奥の奥、そのような声が響く。それに応えるのは積み重ねられた箱の上に止まる黒い鳥。
『そうか……ならいい。あの二人もそう易々と広めたりはするまい』
「…………」
『それにしても、よもや残っていたとはな。情報は全て処分したと思ったが、流石は監査官カーマイン一族よ』
くつくつと笑う声が黒い鳥から聞こえてくる。その前では先ほどの黒装束が膝をついて頭を下げていた。嵌めていた仮面は取ってあり、その素顔は黒装束についているフードの影で隠れている。少し冷や汗かいているのは自分が暗殺に失敗したことを気にしているからだろう。
だが黒い鳥からは怒りの雰囲気は感じられない。本当に気にしていない風だ。
「……我が主、お咎めは……?」
『ん? 何もない。いずれはこの時が来るとは思っていた。……だが我が許す以上の動きを見せればそれ相応の対応はするがな。貴様は変わらず見張っておればよい』
「……はっ、承知いたしました」
深く頭を下げる彼女に一瞥すると、黒い鳥は話を変えるように軽く一息つくとじっと目の前にいる彼女を見下ろした。
『もう間もなく時は来る。我の推測通り朝陽は動くだろうよ。他の二人にもそのように伝えておけ。我の計画に揺らぎはない。……故に今更あの老いぼれとギルドナイトに知られたとて意味はない』
「了解しました」
『では
命令を下すと彼女はまた一礼して路地裏の奥へと去っていく。それを見送った黒い鳥はふん、と鼻を鳴らしたように笑う。
『……所詮は人間の駒という事か。暗殺一つ満足に出来ぬとは……まあいい。最後の最後に役に立てばいい。それが駒というものよ』
呟くように一人ごちるとそのまま空へと舞い上がって消えていく。まるで最初からそこに何もいなかったように黒い鳥は粒子となって消えていく。
最後に『それにしても……使えない駒だ』という声が聞こえたようだが、それを聞く者は誰もいなかった。