ドンドルマから派遣された古龍観測隊の気球はラティオ活火山付近を飛行していた。ドンドルマの大長老はラティオ活火山にあのテオ・テスカトルが潜んでいると読んでいる。
だからこそドンドルマから定期的に古龍観測隊が交代制でラティオ活火山へと向かい、テオ・テスカトルがいつ動くのかを監視していた。
しかし、動く気配なし。
ラティオ活火山の勢いは落ち着きを取り戻し、大噴火する気配はない。ということはテオ・テスカトルも動いていない。ストロンボリ火山もラティオ活火山もあのテオ・テスカトルの行動によって活性化されていたならば、今もなお大きな噴火の危険性が続いている事だろう。
「……変わりはないですね」
望遠鏡を覗き込んでいた青年がそう呟いた。複数の山を見回してなお変わりがない。小さな飛竜の影がちらほら見えるが、一つの山に近づく気配がないため、恐らくそこが現在テオ・テスカトルがいる山だというのが読み取れる。
「そうだな。一体いつになるのやら……」
そんな青年の傍ら、年配の男性が小さく頷きながらクーラーボックスから飲み物を取り出し、グラスを用意して注いでいく。同時に弁当箱を取り出し、少し遅めの昼食を取り始めた。
太陽は既に南中を過ぎ、西へと向かっている。夕方頃に交代となるが、この数日はただこうして空に浮かび続けるだけ。
だから今日も変わりはないだろう、という気持ちが二人の心のどこかにあったろう。
しかしそれは裏切られることになる。
これはその時のまだ数時間前の出来事だった。
日も暮れる頃、ドンドルマにて大長老とソルは次に飛び立つ古龍観測隊の気球の手続きを完了させていた。大長老の承認を受け、伝令が古龍観測所へと向かっていくのを見送ると傍らで作業を進めているソルは一つの手紙を見つめていた。
それは現在ヴェルドに滞在しているレインからのもの。決戦についての報告を兼ねた手紙がアプトルを用いられてソルへと届けられたのだ。
それに目を通したのが今日の朝。
決戦は明日の早朝。
早すぎる。
よもや明日の早朝に決戦だなんて思いもしなかった。
だが同時に疑問もある。
これによればテオ・テスカトルはヴェルドに現れるという。そのテオ・テスカトルは現在もなおラティオ活火山にいる。動いた気配は全くない。
しかし奴はヴェルドに現れる。
これはどういうことなのだろうか。
もしかするとあのテオ・テスカトルとはまた別の個体がヴェルドに現れるというのだろうか、とも考えたのだが、かのアテナ王女曰くそのテオ・テスカトルは南東の方角から現れ、普通ではない雰囲気を纏っていたという。
ヴェルドから見て南東の方角はドンドルマがあり、更に言えばラティオ活火山もある。方角的にはあっている。
(動くとするならば、恐らく今夜。幸い今派遣された部隊は優秀なものらで構成されている。何かあったとしても生き延び、報告を届けてくれることだろう)
そちらの方は心配ないとして、懸念すべき事はこちらだろう。
集まったハンター達にはたして意味はあるのか。
ドンドルマが襲撃された際の防衛策として再びハンター達を募ったが、戦いもせずドンドルマに滞在し続ける事になる。とはいえ存在するだけでも十分なのだが、あの決戦にいくつか援護に向かわせてもいい。
ヴェルドの規模には及ばないが、それでもラオシャンロンの後に各地に散ったハンター達はゆっくりと戻ってきた。その中でテオ・テスカトルと戦えそうなのは数十人。その中でG級ハンターは一握り。
そんな戦力をここで燻ぶらせておくのは惜しい。援護出来るならば援護に向かわせた方がいい。
そう考えている傍ら、どこかでまだ抑えておけと囁きかけてくる自分がいる。
予感とでもいうのだろうか。
このドンドルマもまた危機に陥る可能性があると第六感が告げる。
(どうか杞憂で終わってくれればいいのだがな)
窓から見上げる空は既に太陽の光はなく、ゆっくりと月が昇り始めていた。
定時に交代を終えたあの古龍観測隊はドンドルマに戻るために順調に飛行を続けていた。青年が望遠鏡を覗き込んで下界の様子を見まわし、男が気球を操作して夜の飛行を安定させている。
日も暮れて地上の様子は見えづらいものになっているが、青年は夜目が効くためある程度の距離ならば飛竜を見極める事を可能としている。
妙な動きがあればすぐさま発見できるのだ。
この技量は古龍観測隊ではお手の物。何せ昼夜問わず空に上がり、交代で望遠鏡を覗き込んでいる。視力がいいだけではなく、夜目も効かなければ夜の観測は出来ないのだ。
「異常なし」
ぐるりと山、森を見回して青年はそう口にし、一息ついて望遠鏡から離れる。
ずっと望遠鏡を覗き込んでいたから少し目が疲れてしまった。軽く眉間を揉み、お茶を口にして息を吐く。
今日も何事もなくてよかった。
平和なのはいい事だ。例え古龍に幾たび襲撃されようとも、落ちる事はなかったドンドルマがラオシャンロンの一件で落とされた。しかもあれは人為的なもの。その辺りの情報は、必要以上に外部に漏らされないように箝口令が出されている。そのため一体誰があの事件を起こしたのかは知らない。
しかしドンドルマが落ちたという事実に、一気にどん底まで叩き落されたかのような気分を味わった青年は、一種の絶望に近い感情を味わったのだ。
現在ではかなり復興しているため、この平穏な時間がまだ続いていてほしいと願っている。だからこそ、望遠鏡を覗いて下界を見回している時、彼はよくこう思っている。
どうか何も起こりませんように。
あのラティオ活火山にいるテオ・テスカトルも動いていないが、青年はそのままじっとしていて欲しいと神に祈っている。その祈りが通じているのかどうかわからないが、テオ・テスカトルは今もなお不動。
今日も動かなかったことに青年はほっとしたものだ。
だが、現実は無情。
気球を操作していた男が何かに気づいたように辺りを見回し、青年とは反対側の望遠鏡に近づいて覗き込んだ。
「どうかしましたか?」
「……いや、妙な気配を感じてな」
長くこの古龍観測所で働いている彼は、自然とハンター達と同じように飛竜らの気配を察知する事が出来るようになっていた。何かあってからでは遅い。奴らが動く前に、その姿を確認し、迅速に報告する。それが古龍観測隊の役割の一つである。
そして彼が感じた妙な気配。
それは三つ感じられた。
地上で動いているその気配はどうやら自分達と同じ進路を移動しているようだ。
つまり考えられる目的地はドンドルマ。
そう考えた男は舌打ちし、その姿を確認しようと望遠鏡で下界を見る。彼に続くように青年ももう一度望遠鏡を覗き込み、妙な気配の主を探し出す。
「あれだ……!」
そうして数分、森の影に隠れるように移動する大きな姿が確認できた。倍率を上げて木々の間から見えるあの姿を捉えようと男は夜目を効かせて確認しようとした。
「……白、いや、鈍色の体。重厚さを感じさせる体……あれは、もう一頭? こちらは……黒と……若干赤。……まさか」
頭に浮かぶ一種の飛竜。だがそれが信じられない。
もしそうだとして、どうしてそれがここにいるというのか……!?
本来奴らは火山地帯に――――火山地帯?
「っ!?」
男は勢いよく振り返って今はもう見えないラティオ活火山を見つめる。その体はわななき、信じられないといった形相でその方角を見る。そんな彼に「ど、どうかしたのですか?」と青年が声を掛けると、ドンッ! と強く気球の壁を叩く。
「やられた……! あのテオ・テスカトルらに知性というものがあるならば……奴らは先陣を切る役だ! いや……そもそも彼らに上下関係があるかどうかなど怪しいが……今はそんな事はどうでもいい! 一刻も早く報告せねば!」
焦ったように手紙を取り出してペンを走らせる彼を見て、青年は彼が使っていた望遠鏡を覗き込み、彼が見ていた方角を確認してみる。そこに見えるものは、時折木々の間に姿を見せる一種の飛竜。
彼の言う特徴を兼ね備え、夜の闇と森と言う隠れ蓑を利用して移動し続ける三頭の飛竜。
本来ならば火山地帯に生息しているはずの彼らがここにいるはずがない。いや、時折沼地でも確認されるが、ここは沼地のエリアではない。
そして彼らはただまっすぐに北上し、その先にあるドンドルマへと着実に近づいている。
そう、彼らは――
「グ、グラビモス……っ!?」
○
ラティオ活火山。
最近まで彼の力の影響で活性化していたこの地で一頭の獅子が眠っていた。
そう、テオ・テスカトルの炎耶その者だ。
あれから目を覚ますことなく力を蓄え続けていた彼はのっそりと起き上り、その身を横たえていたマグマの海から離れていく。そのまま崖へと向かうと視線を巡らせて何かを探し始めた。
しばらくそうやって眼下の世界を眺めていたが、ある一点で視線は止まり、無言のまま崖から飛び降りると翼を広げて高速で滑空していく。獲物は何かが迫ってくる、という事は察したらしいが、それでも一瞬の内にあの牙が体を貫通し、あの重量が体にのしかかられては逃げる術もない。
哀れ、アプケロスの一頭はテオ・テスカトルによって命を奪われる。突然の襲撃にもう一頭も逃げ出そうとしたが、彼が操る炎によって全身を焼かれ、無残に命を落とした。
アプケロスの肉は人族にとって美味とされるが、それは竜種にとっても同じ事。テオ・テスカトルは腹を満たすため二頭のアプケロスに喰らいついて一気に食事を進めていく。
そうしながら配下であるグラビモスに取り付けていた、力の残留を通じて様子を窺っていた。
(まもなくドンドルマが見える頃合い。ならば、儂も動かねばならぬな)
予定通り、彼らはドンドルマを目指している。この調子ならば深夜から早朝にかけてドンドルマ近郊は再び戦場になるだろう。となれば、ヴェルドに援護を送るという事は不可能。ドンドルマに集まったハンター達は、ただドンドルマを守る為に戦うのみ。
その隙をついて自分は悠々とヴェルドへと向かう。
つまり、あのグラビモスらはただの囮。
とはいえ囮でも十分暴れてくれればまたドンドルマに対して牽制だけでなく、またドンドルマに対して大きな被害を与えてくれれば儲けものだ。
(さて……いよいよこの時が来た)
骨を残して全てを喰らい尽くし、口の端から血をしたたらせつつ顔を上げ、空を見上げる。どうして時が来たのかわかるかといえば、体に宿るあの憎き因子が囁きかけてくるのだ。
シュレイド地方で戦いが起こる。
シュヴァルツの血統と戦える。
奴が呼んでいる。
その囁きが日々大きくなってきているのだ。シュヴァルツの力は抑えつけているが、その囁きだけは消す事が出来ない。これがまた忌々しい。
黙らせる事が出来ないこの囁きがテオ・テスカトルを苛立たせるのだが、最近は少し慣れてきた自分もまた憎らしい。こうして日常と化している事が不愉快なのだ。
(やはりそろそろ消えるとするか。……だが、その前に奴らを殺す。それだけは果たさねばならん。それを果たせず消えては一生の恥というものよ)
金色の瞳は強い意志を感じさせるほどに輝き、燃え上がる。強く大地を踏みしめてテオ・テスカトルは力を纏い、高らかに咆哮する。たった一頭の咆哮だが、それでも空気を震わせ、力の波動で近くのマグマの海がうねりを上げるだけの力がある。
士気を鼓舞するその咆哮は、まさに戦場に立つ兵士達の鬨の声に近い。彼の叫びはラティオ活火山に響き渡り、その声に慄いた鳥たちが逃げ出すように空に舞う。それに続くようにテオ・テスカトルもまた強く翼を羽ばたかせ、その炎の力を纏っているが故にテオ・テスカトルは一つの星のようになっていた。
それが高速で飛翔し、空を翔けるように移動したため、まるでそれは赤い彗星のように見えた、とラティオ活火山付近を飛行していた古龍観測隊は後に語る。
(この炎耶……ただでは終わらん)
赤い光の尾を引きながらその彗星はまっすぐにヴェルドへと向かっていく。
ついに、その時が動き出す。
○
「ギルドに緊急クエストを発行させよ。内容はグラビモス二頭、グラビモス亜種一頭討伐じゃ!」
「はっ!」
帰還してくる古龍観測隊から鷹を使って届けられた報告により、ドンドルマが再び危機が訪れようとしている事が判明。ここにドンドルマ防衛戦が再び開戦されることになってしまった。
「今回は私も出ます。何やら嫌な予感がいたしますので」
「……ふむ、狂化の可能性があると?」
「ええ。ただでは終わらぬ可能性があります。部隊も招集してありますので、私達もハンター達に混ざり、防衛いたします。その際空いた私という穴を埋めるため、街の者らの指揮は私の妻、天音が執ります」
そう言うソルの傍らには先ほど部屋に入って静かに控えていた女性がいる。流れるような黒髪をポニーテールに纏め、落ち着きを感じさせる明るい緋色の瞳が静かに大長老を見つめている。
そして今、ソルが指揮を任せると大長老に伝えると、瞳を閉じて静かに礼をした。
大長老も彼女の実力は知っているため、問題ないとして頷く。
「ではこれより私達も出動いたします」
「失礼いたします」
二人揃って敬礼し、静かに部屋を後にすると足早に大老殿を歩いて外へと向かっていく。今頃はギルドの集会所に緊急クエスト発令が行われ、それに参戦するハンター達によってざわめいている事だろう。
「今回の一件、ラオシャンロンの時よりはまだマシ、と考えられますか?」
「そうだな。数の上でいえば全然マシな方だ。だが敵はグラビモス。リオレウスのように飛びはしないが、その攻撃能力は馬鹿に出来ん。それにあの時と同じく狂化されているとなれば、たった三頭だとしても油断出来ん」
狂化によってそのスペックを引き上げられているならば、攻守ともに通常のものよりも上昇されている。そしてグラビモスは鎧竜と呼ばれし存在。その守りの力は通常個体だとしても並大抵の武器は通用しない。
かといって攻撃能力も馬鹿にならない。
あの排熱による熱線は人の身で受ければ問答無用で消し炭となる。
つまりこの熱線を使われれば集団戦を用いたとしても、数人纏めて戦闘不能になる可能性がある。また近づいたとしてもグラビモスは睡眠ガスを、亜種は火炎ガスを周囲に放出してくる。
近距離でも遠距離でも油断ならない。
それがグラビモスだ。
「支援や街の者らの誘導、頼んだぞ」
「はい、お任せください。あなたは私の事は心配せず、自分の役割を果たしてきてくださいませ」
「うむ」
大老殿を出ると、そこにはソルが率いている部隊が整列して待機していた。副隊長である男性が一歩前に出ると「お待ちしておりました、ソル隊長」と敬礼する。それに続いて後ろで整列している隊員たちもびしっと敬礼した。
「天音様もお疲れ様です」
「はい、お疲れ様です。また戦いになりますが、健闘をお祈りいたします」
「はっ、ありがとうございます」
天音の言葉にまた総勢敬礼し、そんな彼らに微笑を浮かべて天音も敬礼を返す。
「では私はここで失礼いたしますね」
「ああ」
一礼し、天音は街道を一気に疾走していき、自分の持ち場へと向かっていく。緊急事態という事もあり、その速さはかなりのもので、気づけばその赤い制服は見えなくなってしまっていた。
彼女がいなくなると、ソルはこほんと咳をして集まっている隊員らを一度見まわす。彼を纏う雰囲気はいつも硬いものだが、今はいつも以上に硬い。
「聞いているだろうが、このドンドルマにグラビモスらが三頭接近中だ。本来の生態を無視した行動だが、今はそんな事はどうでもいい。問題なのは今、またドンドルマに危機が訪れようとしている事だ。ハンター達も動員されているが、我々も再び動く事になる。心しておけ」
「はっ!」
乱れもなく同時に返事する隊員らに頷き、
「では、各自準備を始めろ。一時間後、再びここに集合だ」
「了解いたしました!」
敬礼し隊員たちがそれぞれギルドへと入っていく。ソルもまた中へと入り、自室へと向かって壁にかけてあるローブを手に取って纏い、中に手を入れて一振りの刀を取り出す。
鬼哭斬破刀・真打。
彼にとって一番の得物であり、主力武器だ。いつも手入れしているため光に反射し、ソルの顔が映し出されている。しかしその内部には強い雷属性が内包されている。
また刃こぼれも見当たらず、軽く振るうだけで斬れてしまいそうな程に鋭い。
ざっと確認を終えると鞘に納め、もう一つの剣を取り出す。
金色を主体とし、装飾や刀身の一部に蒼があしらわれた両刃剣。鬼哭斬破刀・真打が東方の剣ならば、この剣は西方の剣といってもいいだろう。
銘はアトランティカ。
高い水属性を内包する太刀だ。武器としてではなく宝剣としても素晴らしい一品と言えるこの武器だが、やはり本分は相手を斬る剣。
「…………」
こちらも異常はないと確認すると同じように鞘に納め、今度は一つの弓が姿を現す。
焦げ茶色の骨組みをし、中心は環状に作られ、その半円に角のような棘が生え揃っている。
角王弓ゲイルホーン。
ディアブロスの素材を使用したG級の弓だ。高い威力を誇る無属性の弓だが、しかしそれを射るためには強い筋力を必要とするため、使い手が限られるのが難点とされている。
しかし鍛え上げられたソルならばこの弓を難なく射る事を可能としている。そのためこの弓はソルにとって主力の弓となっている。
張られている弦、骨組みを確認して問題ない事を確認。
大丈夫だ。自分の武器たちは今日も戦える。
「真打、アトラ、角王。今日も頼むぞ」
並べられた三つの武器に語りかけるように言うと、彼の言葉に応えるように武器たちが淡く光った。それを長年連れ添った友を見る目で頷き、それらをローブへとしまう。
「……行くぞ」
ばさっ、とギルドの紋章があしらわれた赤いローブを翻し、今大長老の懐刀が動く。
○
ドンドルマが再び危機が訪れようとしているその時、セルシウスは宿のテラスに出てきていた。決戦前日という事もあり、昴らは各々最終調整を数時間行った後、体を休ませるために街に繰り出していた。
昴達三人はやはりというべきか、昴を中心に左右から紅葉と優羅がくっついて街を歩いていたため、男らの視線が主に嫉妬の方面で突き刺さっていたようだ。しかしそれがどうしたと涼しい顔で二人をエスコートする彼は、もう吹っ切れてしまったように見える。
何せ三人とも左手には指輪の宝石が光っており、彼らは紛れもなく深く繋がっている事を証明している。そのため手出しできるはずもない。
そんな彼にエスコートされる二人も本当に幸せそうな表情をしているという事もあり、二人が歩いた先はなかなか熱い空気が渦巻いていたらしかった。
またもしかしたらこれが最後の休日になるかもしれないという思いもあったライムとシアンは二人揃って行動しており、見ていて心が温かくなるようなデートをしていた。
彼の兄であるクロムも桔梗と共に街に出ており、こちらはこちらで控えめながらも久しぶりの休日を満喫していたようだった。
ギルドナイトのメンバーらも各々集まって何かしていたらしい。セルシウスはよく知らない。
「……ふう」
テラスの枠に肘掛ながらセルシウスは酒が満たされたグラスを煽り、息をつく。
彼女は一日ずっと一人で過ごしていた。彼女らしいと言えばそれまでだが、彼女は彼女で今日一日を自由に過ごしていた。
最終調整の場には混ざり、刀を振るって調子を確かめ、みんなが街に出れば宿の部屋に戻り、ぼうっと本を読み進める事で時間を潰していた。元来一人でいる事を好む彼女らしい過ごし方である。
シュヴァルツの闇が落ち着いているとはいえ、今ヴェルドは多くの人で溢れ返っている。そんな中に一人で放り込まれれば、ガラの悪い連中に絡まれた場合また衝動的に斬ってしまいかねない。そう、昔の優羅のように。
決戦前にそんな不祥事を起こすわけにはいかない。だから彼女はこうして宿に引きこもる事にした。
そんな彼女の下に、桔梗が静かに近づいてきた。
「こんばんは、少しよろしいでしょうか?」
「…………」
ちらりと肩越しに桔梗へと振り返ったセルシウスだが、すぐに視線を前に戻す。そんな彼女の傍……といっても少し離れた場所に桔梗は並び、持ってきたグラスと瓶でセルシウスと同じく晩酌をする。
そして彼女の首からは一つのネックレスが下げられていた。ガーネットが淡く光を反射するそのネックレスは、昨日クロムが用意したあのネックレスだろう。
しかしセルシウスは興味がないようでふいっと視線を逸らし、瓶から新しい酒を注いで呑み干していく。
「……ペースが早いですね。明日に響きませんか?」
「問題ない。オレはあまり酒に酔わないんでな。……で? なんでお前、ここに来た? 明日も早いし、クロムと一緒の時間を減らしていいのか?」
「ええ、大丈夫ですよ。……少しあなたとはお話がしてみたかったのですよ」
そう言って桔梗は微笑を浮かべてセルシウスの方を見やる。
「この戦いが終われば、あなたは……裁判にかけられる。……そうですね?」
「ああ、それは間違いない。そして数十年は出られないだろうさ。……お前が死んだ後に出るかもしれない、ってぐらいにな」
セルシウスは魔族だ。人間と違って長寿族であり、人間と同じ刑を負わされた場合、その刑期は人間の者よりも長い。長寿族は時間の感覚も違うため、人間にとっては長く感じられる刑期だろうと、彼らにとってはそれほどでもない場合が多い。
だから最低でも四十年、あるいは五十年は出られないだろうとセルシウスは推測していた。
そして朝陽が生きたまま捕えられた場合は、最悪死刑。
最低でも百年以上は出られないか。
まあ、それでもいいか、とセルシウスは心の中でくつくつと笑う。
「ではあなたは……この戦いが終わればあの二人とはもう会わないつもりですか?」
「…………ま、それもいいんじゃないか。なにせ、堕ちてからはもう会う気はなかったし、……会ったとしても殺し合いを望んでたぐらい」
その言葉は紛れもなく本音だろう。彼女はただ戦いを、殺し合いを求めて彷徨っていた。そして同時にこの自分を殺せる人物を探していた。対等の戦いを望み、ギリギリの生死を賭けた戦いを望んでいた。
それが叶うとするならば、自分と同じ血統であり、従兄弟であるあの二人。弟の方はあまり期待していなかったが、兄の方ならばあるいは、と願ったがそれは叶った。あの月の浮かぶ夜、それは果たされたのだ。
「今はもうそう簡単には死ねない。……あの二人に念を押されたからな。でも、だからといってオレがあの二人の近くにいてもろくなことにはならないだろうさ。クロムにはお前が、ライムにはあのチビがいる」
「でも、私達は人間です。あなたが出てくる頃には、もう年老いていますよ」
それは逃れられない宿命。人間ならば四、五十年先にはもう老いている。ハンター業を引退し、静かに暮らし始める頃合いだ。しかし――
「しかしクロムさんもライム君も魔族。あの二人はまだまだ老いません。それはあなたも同じです。あなたならば、私の……私達の後を継ぎ、あの二人を見守れる人です」
「…………何が言いたい?」
「罪を償い、刑期を終えた後、セルシウスさん……あなたにクロムさん達を任せたいのです。あなたならば、クロムさんもライム君も守れる、そうでしょう?」
「……守る、ねえ」
その言葉にセルシウスは目を細めた。
母親、姉から諭された言葉。
これからは誰かを殺す刃ではなく、誰かを守る刃を振るえ。
それに従って今まで新たな心構えで黒刀【参ノ型】を振るってきた。そしてそれはこの決戦でも同じ。あの二人を守るために振るうつもりでいた。
でも、これが最後。
あの二人を守るために戦うのは明日が最後。そのつもりだった。
「オレは人からすれば罪人。多くの命を斬ってきたオレが、誰かを守るための戦いなんて出来るはずがない。……だからそれは明日で終わり。明日あの二人を生かし、オレもまた生きていれば、それがあいつらを守る戦いの終わり。……オレは、もう消えるさ」
「そんな事、ありません!」
驚くほど大きな声で桔梗はそれを否定した。セルシウスもまた彼女のその声に少し驚いたように視線を動かし、桔梗を見つめる。彼女の表情はあの笑顔の仮面はなかった。そこにあるのは真剣な彼女の表情。その瞳がじっとセルシウスを見据えている。
「罪は……償えます。どれだけの命を奪っても、長い時間をかけてそれを償い続ければ、きっと……業はなくなります。……私は、そう信じています」
「綺麗事。時間をかけたところで消えないものはある。血濡れのこの手が消える事なんてない。血の跡も、匂いも……消えない。一生な。……だから、守る戦いは明日で終わり。……そう決めた」
「消えます! あなたは……本当は優しい人でしょう!?」
「…………」
何を突然言っているのか、とセルシウスの鈍色の瞳をまた桔梗へと向ける。
自分が優しい?
何を世迷い事を。
「あなたは不器用ですが、優しい人です。あなたがライム君に向けている瞳、時折優しげなものになっている事、私は気づいていましたよ」
「……何を言っている」
「クロムさんから聞いていますよ。あなたは昔、ライム君のお姉さんのように接していたそうですね? あなたは、あの頃の想いを取り戻しているんです。いえ、もしくはあの頃から何も変わっていないのです。根本的な部分、優しいあなたが出てきているのです」
そう語りかけてくる桔梗から視線を逸らし、セルシウスはまた酒を煽る。
そんなわけない、自分が優しいなんてそんなことあるわけがない。
そう思って聞き流してはいるが、心のどこかではそうだと納得しているような自分がいる。
桔梗の言葉は確かだ。姉のグレイシアがクロムとよく一緒にいたように、セルシウスは自然とライムの近くにおり、彼を見守っていた。幼い頃からこんな性格だったため、どう接していいかわからなかった。だからグレイシアが自分にしたような事をライムに接していた。
そうやって過ごす時間が、悪くないと思っていたが、性格が性格だったために不器用なものだったろう。
そして今、ライムらとまた普通の……少々波乱はあるが普通の日々が過ごせるようになっている。二人を守るために刀を振るえと言われたため、クロムとライムの事をよく見ている事は否定しない。
でも、クロムを見る目とライムを見る目が違っているというのは自覚がない。優しい眼差しをしていると言われても、自分ではわからないのだ。
「だからお願いします。明日で最後とは言わないでください。何十年かかっても構いません。また、あの二人を……守るためにあの二人に会ってあげてください。お互い両親を失い、血の繋がりがあるのはあなた達だけでしょう?」
そう、お互い両親を失っている。セルシウスはグレイシアも失っているものだからあの家族ではたった一人だ。ルシフェルという性は三人以外にもいるだろうが、一番近い血族は恐らくクロムとライムのみ。
「私は信じています。あなたが……再びあの二人の前に現れる事を。そしてまた、二人を守るためにその刀を振るってくれる事を」
「……随分と、必死な。なぜそんなにまで願う? オレがどういう奴なのか、知っているはずだろう?」
「ええ、存じています。シュヴァルツの闇に堕ち、その衝動に従って多くの命を斬り伏せた殺人鬼。……でも、本当は不器用で弟想いの優しいお姉さん。……そうでしょう?」
「……だからそれはないと言っている」
「あら、その割にはライム君の背中を押したりした、と聞いていますよ?」
「誰から?」
「クロムさんからです」
それに桔梗に聞こえるほどの大きな舌打ちをしてまた酒を一気に煽ってしまう。しかしそれでも彼女の頬は紅潮する事はない。確かに自己申告通り酒には強いらしい。
しかし不機嫌さが滲み出てきており、それを隠そうともしない。そんな中彼女はがりがりと頭をグラスを持っていない手で掻くと、
「話は終わり、さっさと消えろ。そしてあのクソ野郎にでも伝えておけ。『いつかぶった斬る。覚えていろ』とな」
「……はい、伝えておきます。では、おやすみなさい」
丁寧に頭を下げると、また小さく舌打ちして去っていく桔梗を見送らずにまた瓶から酒を注ぎ、それに口をつけようとしたのだが、少し離して息をつく。
「……オレが優しい? はっ、そんな事、あるものか……」
誰に言うまでもなく独り言を呟くと、また一気に酒を呑みアルコール臭くなってきた息を吐く。その時少し冷たい夜風が吹き、彼女の白い髪をなびかせながら頬を撫でていく。
それに身を任せていたセルシウスはまた「……はっ」と小さく口の端で笑いながら、
「あんたもそう言うのか……」
やれやれと首を振り、置いていた瓶手にしてテラスの策から離れると、グラスを何もない宙に掲げてまるで誰かと乾杯するように軽く揺らし、残っていた酒を飲み干す。
そんな彼女にまた夜風が吹き、少し火照ってきた体を冷やしていく。
「……わかったよ、考えておく。だからさっさと帰ってろ」
季節が季節のため、薄着では肌寒い。それでも構わないとセルシウスはここで一人月見酒をしゃれ込んでいたのだが時間もそろそろ危うい頃合いだ。誰かと話すように何もない宙を見上げていたセルシウスは、「じゃあな」と別れを告げて宿の中へと入っていく。
そんな彼女を月と星、そして何かが見守っていた。
○
「……くく、くくくく……」
闇に誰かの笑い声が響いていく。闇に溶け込む色合いをしたローブを纏い、被っているフードの下で真紅の瞳が尾を引いて闇の中で動く。その速さは常人のものではない。目で追えない程の速さでそれは疾走し、真っ直ぐに旧シュレイド城がある方角へと向かっていた。
「馴染む、ようやく馴染んできた……! そしてああ、なんと心地いい闇……っ! これが、旧シュレイド城を取り囲む闇っ!」
前に来た時よりも深まっているというのに、彼女はそれを心地よいと口にした。それは以前よりも闇の方へと傾いている証。常人ならば気が狂いそうになる程の闇を纏い、この濃度の深い闇を感じながら嬉々とした表情を浮かべる。
最早彼女は戻れない。
菜乃葉の言う通り、こんな彼女を救うなど出来るはずがないと誰もが口を揃えていうだろう。
「さあ、来なさい月! ワタシは、ここにいるっ!」
轟ッ! と闇が膨れ上がり、闇の空気の中でもう一つの闇が渦を巻いて空へと上がる。それは星空で弾け、彼女の気配を含んだ力が周囲へと撒き散らされていく。
明らかに挑発。
自分はここにいるという事を周囲へと知らしめた行動。
だが、全ての段階を踏まえた彼女からすれば予定通り。
これで月は自分を無視できないだろう。自分に会いに来るために動くはずだ。
そして自分はそんな彼女を出迎え――殺す。
「くく、ふはは、あーーっはっははははハハハハハハハァァァァ!! ついに、この日がやって来たのね!? 待ち焦がれた、待ち焦がれたわぁ! ああ、あと数時間……数時間でワタシの願いは叶う! “出来損ない”が“最高傑作”に打ち勝つ! こうすることでワタシは世界に証明する事が出来る! 神倉の亡者どもに一泡吹かせる事が出来る! アッハハハハハハ!!」
狂ったような笑い声を響かせながら朝陽は見えてきた旧シュレイド城へと向かっていく。闇は更に濃度を深めていくというのに、彼女の様子は何ら変わる事はない。
その顔には赤くぎらつく瞳と、赤黒い紋様が顔中に描かれて淡く光り、彼女の感情の高ぶりを証明するかのように唇が歪められていた。
決戦まで、あと数時間。