ドンドルマに戻ってきたのは日も暮れてきた頃合。アプトルを小屋に届けた後にギルド本部へと向かい、受付嬢にクエスト完了の旨を伝える。その受付嬢は最初にアタシの登録手続きをしたあの女だった。
「はい、確かに。クエストお疲れ様でした」
「…………」
「こちらが報酬金になります。報酬品は宿に届けておきますね」
「……ああ」
袋に入っている金と書類に記されている金額を確認し、それを受け取ってローブにしまう。それで終わりのはずだったが、何故か受付嬢はにこりと笑ってアタシにこう言った。
「そういえばアリーナでコンサートが行われている事は知っている?」
そういえばそんな事もあったか。しかしアタシは興味がなかったために完全にスルーしていた。
「実はこんなものがあるんだけど、いかがです?」
そう言ってカウンターに置いたのは一枚の紙切れ。
見ればそれは今日のコンサートのチケットだった。つまりこれがあればアリーナに入ってコンサートを見られるという事らしい。
だがそれをアタシに見せる意味がわからない。フードの下から睨むようにして受付嬢を見るが、女は気にした風もなく小首をかしげている。
「実はこれ、もらい物なんですけどね……私はこの通り仕事があるので行けないのよ。でもこれをこのままにしてゴミにするのももったいないじゃない? だからあなたに差し上げようと思うのだけど、どうです?」
「……興味ない」
「そう言わないでくださいな。それに何事も経験だと思いますよ? 一回見ていく事をオススメしますよ。なにせ我がドンドルマが誇るアリーナで、あの歌姫が唄っているのを聴けるんだから。これ、買うとなれば結構高いのよ?」
「…………」
説明するとチケットを両手で顔の前にやってウインクしてくる。つまりゴミにするくらいなら、コンサートの魅力を広めるために客を呼び寄せようって事か?
なるほど、それはアタシに渡す条件としてはこの上なくぴったりの人材だろう。でもそれに易々と乗るというのもおもしろくない。
「……どう?」
「…………チッ」
本当におもしろくないんだが、まあいいだろう。暇つぶしとして行ってやろうじゃないか。チケットをひったくるようにして受け取ると、受付嬢は大層嬉しそうな笑顔を見せてきた。
「ああ、ありがとう! じゃあしっかり楽しんできてね!」
「…………ふん」
絶対受け取ってくれるはずだ、とでも言いたげなあの上目使いやその笑顔ほど鬱陶しいものはない。それをこれから先も見せ付けられるくらいなら、さっさと事を済ませたほうがまだマシだ。
そしてギルド本部を後にし、時間を確認するとまだ1時間はあるらしい。なら宿に戻って少しだけ腹にものを入れることにしよう。軽いものを入れればなんとかなるだろう。食材はまだあったはずだし、それくらい数分もあれば出来るはず。
予定は決まった。
アタシは宿に戻り、軽く夕食を作って頂く。あとは食後の酒としてフラヒヤ酒を呑み終えればいい時間になった。
「……行くか」
なんだかんだ言ってチケットを貰ってそのまま行かない、という選択肢もあるのだけど、それはそれであの女にいつかつっこまれた際にばれたらまためんどくさい事になるのは明白。
だから行くだけ行ってやろうじゃないか。
アリーナに行くと既に客が多く集まっていた。なるほど、この時間から既にこれだけの客が押し寄せるとは、確かに人気があるらしい。
一般人が多いがハンターやギルドナイトらしき姿も見かけられる。そして年齢層もばらつき、老若男女様々な人が集まっている。つまりはそれだけの人々に支持されるほどの実力があることを示していた。
列に並び待つ事数分、ようやくアタシもアリーナの中に入る事ができた。でもそのまま席に向かわずに入り口横を数メートル歩き、壁にもたれかかってその時を待つ事にする。
アリーナは上から見ると円形となっており、座席は階段状になっている。一番下の奥が舞台らしく、それをおよそ220度前後の角度に広がるようにして座席が並ぶ形になっている。
そしてこのアリーナはドンドルマ一のアリーナであり、収容できる客も当然ながら一番多い。そして一番上の座席の脇では小さな店が設置されており、コンサートのお供をするための軽食と飲み物が購入できるようになっている。
それだけでなくスタッフの数人が盆を手にし、座席を回る事で飲み物を提供するサービスもしているらしい。
アタシの場合はローブの中にフラヒヤ酒があるから購入する予定はない。グラスを用意して少しだけ呑んで待つ事にしよう。
やがて客の入りが落ち着き、開演時間も迫ってきた。アリーナを照らす照明の光が落ち、舞台だけが照らされると、静かに一人の女が舞台に上がってきた。
光蟲を使った照明に当てられ、身を纏う蒼い衣装が反射してキラキラと光を放っている。
「皆さん、ようこそいらっしゃいました」
――ワァアアアアアアアアアアアア!!!
「――っ!?」
女の言葉に客達が一気に歓声を上げる。多くの客が上げた歓声でアリーナの空気がビリビリと振動し、思わず呑んでいたフラヒヤ酒を吹いてしまいそうになった。
視線を動かして客達を眺めれば、誰もかれもがあの女へと呼びかけている。しかも後ろの席に座っていたはずの客の一部は、あの女を見るためか立ち上がっている者もいる。
そしてそれに応えるかのように女はにこやかに手を胸元へと挙げ、客達を見回しながら手を振っていた。
「本日で数日続いた
――ぉぉぉぉおおおおおおお!!
またしても歓声が響き渡るが、女は慣れているのかにこやかな笑顔を崩さない。
……これが人気のある歌姫によるコンサート?
これだけの歓声、ある意味飛竜の咆哮に等しい程の力を秘めているな。ファンを前にした人というのは、これほどまでに力を発揮するというのか。
「…………」
というか居づらいんだが、帰っていいか?
舞台の上ではあの女――歌姫が客への語りを続けている。こうして声を聴く限りではなるほど、いい声をしているな、というのがわかる。あの声で唄われる歌というのは、確かに少なからず興味を惹かれる。
でも、本当に居づらい。歌が始まる前からここまで熱気が高まっているのはどうなんだろうか?
いつもは一気に飲み干すフラヒヤ酒も、この空間では一気に呑めず、ちびちびと呑むしか出来ない。このアタシがこの空間に少し萎縮してしまうとは……人気歌姫によるコンサート、恐るべし。
「――では、長々と話を続けるのも野暮でしょう。まずはこの曲でオープニングを飾りましょう」
そう告げると歌姫の背後から楽隊らしき者達が次々と現れて位置についた。
すべての準備が整ったとき、歌姫はすうっと息を吸って顔を上げる。
発せられる歌声は――確かに美しいものだった。
思わず酒を呑むことも忘れてしまいそうになるほどの歌声。アリーナに響き渡る彼女の声は、誰もが言葉を忘れてしまう程に魅力的で、そして惹き込まれてしまう。
その歌唱力で歌い上げられた歌詞。確かにそれは心にくる人はくるんだろうけど、残念ながらアタシの心には何も響かない。ただ歌が上手い、としか感じられなかった。
次の曲もその次の曲もいい歌だと思うけど、やっぱりアタシの心には何も響かない。
自然を称える歌、恋の歌、悲恋の歌、ハンターへと送る歌……、様々な歌があり、歌姫はその度に声を使い分けて歌い上げている。
客達の顔を見回せば、ほぼ全員が彼女の歌に心を打たれて反応を示していた。
涙を流しているのは老若男女誰もがそう。心に響くものがあれば、ああいう風に涙を流せるものらしい。そんな中に歌姫の美声にうっとりしている、顔をほころばせているものが混ざっている。
でも、アタシは何の反応も示さない。いや、示せない。
アタシは壊れている。そして心が闇に閉ざされている。最近は少しずつ変わっているような気がしたけど、やっぱりそれは気のせいだったらしい。でなければあの歌に何かの反応を示すはずだ。
それがないということは、アタシはまだ壊れたまま。あの日から何も変わっちゃいなかった。
「…………つまらないな。……歌も、アタシも」
その呟きは周囲の歓声にかき消される。
やっぱりアタシはこの場所には不釣合いだな。帰るか。
そう思って歩き出そうとすると、向こうからスタッフらしい若い女がやってきた。その左手には盆があり、それぞれ別の飲み物が入れられている。
「お飲み物はいかがですか?」
「……いらん」
「そうですか? ……それとも、もうお帰りですか?」
小さく首をかしげながら問いかけているが、その口元には穏やかな笑顔が浮かんでいる。そっちに視線を向ければ、その漆黒の瞳と視線が交わった。照明が舞台にしか当たってないからわかりにくいが、その女の髪もまた闇に溶けるように黒い。
その顔を見たとき、アタシの記憶の奥から誰かの姿が浮かび上がった。
それは華国でアタシに話しかけ、その時存在しないはずの神楽シリーズを着たあの女。
「……お前……」
「はい? どうかしました?」
「…………」
きょとんとした顔に嘘の気配が見られない。よく見れば身長もあの時の女よりも結構低い。あの女は170はあったろうが、この女はアタシと同じ150代だった。
時が流れるにつれて身長が縮むことはあるらしいが、たった数年で20も縮む事はないだろう。つまりこの女はあの女とは別人ということになるか。
魔法の変化で化けている、とも考えたが、こいつからはそんな力が感じられないし、人間と変わりない気配をしている。たぶんシロだろう。
「…………いや、なんでもない」
「そうですか? ……それで、お帰りになりますか?」
「…………」
もしかすると引き止められたか?
今のアタシはもう帰る気すら薄れてしまっている。もう一度この女を見つめれば、じっとアタシの出方を窺うかのように見つめられている。
やれやれと小さく嘆息し、アタシはもう一度壁にもたれかかった。それで満足したんだろう。女は微笑を浮かべてそっと盆を差し出す。
「何か飲みます?」
「…………いらん」
こっちにはフラヒヤ酒がある。ローブから再び瓶とコップを取り出して静かに注ぎ、ぐいっと飲み干した。その呑みっぷりに女は少しだけ驚いたような表情を浮かべたが、またくすりと微笑する。
「いいですね。フラヒヤ酒がお気に入りですか?」
「…………」
「私も好きですからね。よく呑むんですよ」
何故か女はアタシと同じように壁にもたれかかる。その傍には台があり、そこに盆を置き、そのまま舞台を見下ろした。
すると丁度歌が終わり、歌姫が拍手に包まれながら頭を下げていた。そこで一端歌姫が舞台裏へと下がり、スタッフらしき人物が前に出てこれから休憩時間を挟む事を告げる。
つまりコンサートの前半が終わったという事のようだ。
「後半も聴いていくといいですよ。……そう、あなたの心に響く歌があると思いますから」
「……ないな、それは」
「いいえ、ありますよ」
横目で女を見てみると、女の視線はただ舞台へと注がれるのみ。
「歌は様々なものがありますからね。きっとあなたの心に響く歌がありますよ」
そしてまた微笑を浮かべてアタシを見た。
その言葉はきっと後半に唄われる曲のどれかにそれがあるからここにいた方がいい、という客へと勧めるかのようなものだった。でもその前に紡がれた言葉は確信に近い響きを持っていたように思える。
スタッフとして客に勧めるものと同じこと。そういう感じなんだろうが、なんだろうか、この感じは。本当にそう確信しているのだろうか。
「……? どうかしました?」
「…………」
いや、気のせいだろう。
アタシは視線を外してまたフラヒヤ酒を楽しむ事にした。
数分の休憩を挟んだ後、再び歌姫と楽隊が舞台に上がり、後半の幕が上がる。
でも前半と同じくアタシには歌が上手い、としか感じられなかった。周りの客たちはそれぞれ歌姫の歌に盛り上がり、感動しているというのに、ただ一人こうして壁にもたれかかって眺めているだけ。
やっぱりアタシは場違いじゃないのだろうか。
そう感じた時、隣にずっといた女が小さく笑みを浮かべた。
「……いよいよですよ」
「……?」
「あなたの心に響くかもしれない歌」
どういうことかと考え、少ししてわかった。この女はこのコンサートのスタッフ。そしてコンサートは歌う順番が決まっているんだろう。その曲全てを覚えており、だからこそ後半にアタシが反応するかもしれない歌があることを知っていた、ということなんだろう。
でもその根拠はどこにある?
アタシの事を知らない奴が、アタシが反応するかもしれない歌があるなんてわかるものなのだろうか?
「今まで色んな人に支持される曲が唄われましたけど、これはあなたも反応するかもしれませんよ?」
なるほど、万人に支持される曲か。でも今までも反応できなかったんだ。もしかすると、ということもあるかもしれないけど、それだけだと期待できそうにないな。
そう思っていると曲が終わり、歌姫が頭を下げていた。次いで鳴り響く盛大な拍手。時間もいい感じに進んでおり、たぶんあと数曲で終わるんだろう。
歌姫は顔を上げて一度客達を見回した。
「思い出はありますか? 子供の頃の懐かしい思い出。時に昔を思い出し、戻りたくなったりしませんか? ……思い出してみましょう、あの頃を。では聴きください。『Memories』」
そして楽隊が音を奏で始める。でも、ただそれだけで観客の一部が反応を示している者がいた。イントロが終わり、歌姫が唄い始める。
それは小さな頃の思い出を紡ぐ歌。
でも子供の頃はまだその意味がわからず、ただ歌として聴くだけの歌。
大人になってその意味がわかり、あの頃を思い返す歌。
そして大人になったからこそ、あの頃が懐かしく感じて涙を流す歌。
そんな歌。
歌姫だけでなく、楽隊の人らもまたバックコーラスとしてこの歌を歌い上げている。
それがまた観客の心へと響き渡り、相乗効果として強く揺さぶられていく。
誰もが思い返しているんだ。あの頃の記憶を。
何故だろうか。
霞んでいたアタシの記憶がふと頭の中に浮かんできた。時を重ねるにつれてノイズが走り、色あせてしまったアタシの記憶。
今のアタシは昔とは違う。血にまみれた道を行くアタシの人生。
あの頃のアタシはとうの昔に死んだ。
今ではもう昔の記憶がほとんど消え去った。
つまりあの日アタシが壊れた時こそ、新しいアタシの始まり。
それが、アタシにとっての世界の変化。
だからこそ、サビの部分がアタシの心に響き渡った。
でもそのままの歌詞の意味で心が反応したんじゃない。その紡がれる歌詞の反対の意味合いでアタシは反応している。
何も知らない純情なアタシはあの日に死んだ。
だからこそ、もしも帰れるならばアタシだって帰りたい。そしてやり直したいと願った事もある。
でもできない。
だって……連れていってくれる人がいないのだから。
色あせてしまった昔を思い返そうと思っても出来ない。
あの頃に戻るために連れて行ってくれる人もいない。
アタシにとっての第一の始まりと呼べるもの。
それはなかなか二人の所へ踏み出す勇気を持てず、ただ影で見ているしか出来なかったアタシを二人が気づいてくれた事。
アタシの手を引いてくれた紅葉の温もりを知ったこと。
そして、そんなアタシを快く迎え入れてくれた昴の優しさを知ったこと。
アタシの始まりは、暖かい場所へと連れて行ってくれたことから始まった。
そんな二人はもういない。
だからこそアタシの心に嫌でも響いた。
「…………っ」
知らずアタシは声を漏らしていた。
まさか……まさかこのアタシの心が反応するなんて思わなかった。
壊れた心に響く歌があるなんて知らなかった。
いや、もしかしたら最近の変化の影響があったのかもしれない。それでアタシは、また人の心を取り戻し始めたのかもしれない。
こんなアタシが歌に共感していいのだろうか。そんな後ろ向きな思考をしてしまうけど、隣にいた女がまた微笑を浮かべている事に気づいてそれを飲み込んだ。
「どうでした?」
「…………」
「ふふ……でも、あと二曲は続きますから」
どういうこと?
そう考えていると、次の曲の準備が整ったらしい。そして前フリも既に言い終えていた。
「では聴いてください。『days』」
静かに息を吸って歌姫がまた歌い上げる。
それは失恋の歌だろうか。それだけならまだアタシの心に響かないだろう。
でもアタシはさっきの歌のせいで沈んでいた昔の記憶が浮き彫りになっている。しかも色あせていたはずの記憶が少しずつ蘇りつつあった。
そんな中でこんな失恋の歌。
しかも歌の出だしで「罪」と「罰」の言葉が出てきた。今のアタシにその言葉は微かに心をざわつかせる。
そしてとどめとなるのが、歌詞の一つ一つがアタシに次々と揺さぶりをかけてくること。
どうしてこうも今のアタシに合っているかのような歌詞が並んでいるのか。それが歌となり、あの歌姫によって音楽と共にアタシの耳へと入ってくる。
そんな中でアタシは忘れ去られた記憶の奥から彼の姿を呼び覚ます。でも相変わらず彼の顔が思いだせない。
それでも彼の姿を思い出したい。
サビ前の歌詞、その言葉の並びがアタシに深く揺さぶってくる。失恋の歌だからこそ、それがアタシに共感させてくる。
昴には会えない。昴はいない。
未だにアタシは彼のことが好きだという事を思い出させ、そして同時に会えないという現実を突きつけられる。
また血に塗られた罪深いアタシと、彼の姿を思い出せないアタシの罪悪感。こんなアタシが彼に会ってもいいのか?
再び浮かんでくるそんな言葉。前に進む事を躊躇わせる言葉。
最初の頃は夢見ていた。絶対にいつか会えるのだという夢を抱いていた。
でも今では罪深く、いずれは罰を受けなければならない罪人と化している。
幼い頃のアタシと今のアタシはどう重ねても重ならない。
だからこそ会えない。会いにいけない。
そんな迷いがアタシの中にあるのだ。
……でも、もう逢えない。
もう届かない。
アタシはもう充分夢を見た。
ならばこの愛しい
歌詞の深みにはまったアタシは、自分でも気づかないまま静かに涙を流していた。
もう既に終わっている。恋が始まる前にアタシは失恋している。
その最後の歌詞に従うかのように浮かんだ記憶と共に、この感情を押し込めてしまおうかと考えていた。
生き続けることは幸せなの?
いつかどこかで聞いたその言葉。それはこの歌の歌詞でもあった。
今のアタシは幸せ?
そんなのあるわけない。そして手に入れることすら出来ない。
あの頃は幸せだった。毎日が楽しく思えたんだ。
あの二人がいてくれたからこそ、アタシは幸せだった。
取り戻せるなら取り戻したかった。だから二人を探した。
でもそれはやっぱり夢物語。
叶う事のない願い。
それを無意識にわかっていたからこそ、感情の劣化と共に記憶も薄れてきたんだ。
「……泣いているの?」
「…………」
その呟きに気づいたアタシはハッとして顔を上げる。そして頬を流れる熱いものに気づいて手を当て、そのまま隣にいる女へと視線を向けた。
そこには相変わらず微笑を浮かべている女がアタシをじっと見つめていた。
「ね? 心に響く歌、あったでしょう?」
……確信犯か。
さっきの曲といい今の曲といい……、どっちもアタシにとってはなるほど、確かに心を響くというより揺さぶられる歌だった。
ローブから布を取り出してこっそり涙を拭き取り、一息ついて舞台を見る。というより女から視線を逸らした。
でも女はそれを気にした様子もなく、呟くように言葉を紡いだ。
「今の曲、そして次の曲は私のお気に入りなんですよ」
「…………」
そういえばさっき、あと二曲続くとか言っていたか。
となると次の曲もまたアタシの心を揺さぶるかもしれない歌という事か?
……じゃあそれなりに心構えをしておくか。
「では聴いてください。『escape』」
escape――逃亡。
すなわち何かから逃げる曲かと思ったけど、そうじゃなかったらしい。これは逃げられない。そして何も変わらない毎日。そんな日常から抜け出そうとした者の歌。すなわちもう一つの意味である脱出の意味。
そんな風に感じられた。
これもまたサビだけじゃない。最初の歌詞からしてアタシに合っている歌だ。
この数年、アタシは変わっていない。むしろ悪化しているといってもいい。
実力は変わっている。成長していっているといって間違いない。
でもアタシの中身、心は変わっていない。どんどん闇に閉ざされ、擦り切れたといってもいい。
変わらない、いや変えようとも思わなかった。他人との繋がりを極力断ち切り、ただあの二人を求めて歩き続けた。……最初のうちは。
それは出口の見えない迷宮。アタシは恐らく迷い続けていた。だから何も変わらない。心も変わらず、状況も変わらない。
そして変わってしまった過去は夢という形で不定期に現れてアタシを苛む。二人を追い求める夢を見続けても、それは夢であり、目が覚めれば届かないものだと知る。
でもアタシは思いだした。
さっきの歌が思い出させた。
いや、アタシはもうとっくにわかっていたはず。
アタシがそれを押し殺しただけ。後ろめたさがあったからこそ忘れようとした。
叶わない夢とわかっていても心の奥底ではいつだって昴を求めている。そして紅葉にも会いたいと願っている。
それをいつまでも持ち続けずに諦めたからこそ、現状はいつまでも変わらない。
歌も終盤。
変わらない朝は、新しい朝を迎えようとしている。
暗闇を彷徨う翼は、光に導かれて新しい場所へと辿り着こうとしている。
出口のない迷宮は、何かに導かれる事によって抜け出せる。
変わらないものなんてない。
人もまたいつかは変わるものだ。
なら――アタシはまた変われる……?
この毎日からいずれ抜け出せるのだろうか。
壊れた事で閉ざされたアタシの心に、新しい風を呼び込むための出口は出来るんだろうか。
こんなアタシが――人を愛してもいいんだろうか。
ざわついた心と響きあうように、歌姫の歌声がアタシの耳に届く。さっきの二曲で既にアタシの心には、歌姫が歌い上げる唄に抵抗する力はない。一度共感を覚えてしまったアタシはただそれを受け入れるのみ。
ああ、ダメだ……。
アタシの過去がまたアタシの頭に思い浮かび、光があるかもしれない未来を少し想像したことで、またアタシの心がぐちゃぐちゃになってくる。
ぐっと拳を握り締めて耐えようとしても耐えられなかった。
目を閉じて振り切ろうとしたけど、それでも瞼に焼きついた一つの記憶がそれを邪魔してしまった。
それはアタシを真ん中において右側に昴が、左側に紅葉が立っている光景。
紅葉はアタシの腕を取ってアタシを抱きしめるかのようにしがみついている。
そして昴はそんな様子に苦笑しながらもアタシの頭に手を回し、少しだけ屈みこんでくっついてくる。
そんな二人にアタシは戸惑いながらも、微かに笑っている。
そんな一幕。
懐かしくも遠くなったあの日。
アタシの望みはいつだって同じ、あの日からただ一つだった。
死にたいんじゃない。
強くなりたいんじゃない。
生き続けたいんじゃない。
何かを
「――――っ、く……、ぅ、ぅう……」
自覚してしまえば、なんてことはない。
本当に、本当に些細な事だった。小さくて、子供のようで、そして一途な願いだった。
「――――ぅ、……たい、……アタシは……」
あの二人に会いたいだけだった。
言葉にしてしまえば納得のいく答えだった。
他に願いはなかった。他の事を言い訳にして押し殺し続け、そしてそれはただの夢として片付け続けた。だからあまり実感を持たずにぶらぶらと迷いながら旅をし続けたんだろう。だからこそ行く先に光が見えず、感情と共に闇に閉ざされた。
そう、どこにいるんだろうとか、生きているんだろうかとか、そういう思いを持っていたのは間違いない。でもどこかがらんどうで、穴の開いた目標だった。それを証明するのが記憶の劣化。ノイズが入ったあの光景。
最初のうちは本当に願い続けた目標が、その光景と共に薄れていき、抜け殻のようになった。本気の目標である事をいつしか忘れていき、アテもなくなって諦めた。
そして昴が好きだということも本気でなくなっていった。
全ては言い訳。
先が見えないから諦めた。絶望し始めた。
例えるならば暗い森。生い茂る木々によって日の光が隠れ、迷宮のように出口を覆い隠した。木々は諦め、絶望、辛い現実……アタシの前に立ちはだかったもの。
そしてとどめが壊れた心とアタシの本能。
これらを前にしたアタシは心が折れた。
だから他に理由を掲げて全てを過去へと捨て去った。大切なものまで置き去りにした。
時々夢という形で出てきたのは、思い出せという過去のアタシの想いだったのかもしれない。でもそれもまた現実の前に崩れ去り、アタシはただ諦め続けた。
アタシは……弱い。
力を手に入れたけど、まだまだアタシは子供だった。
辛い事から目を背けた幼い子供。
たぶん、あの日壊れたままアタシはまるで成長してなかったんだろう。
それを改めて自覚した。
「…………くっ、うぅ……、なんだ、こんなの……、こっけ、い……、じゃないか……」
迷っていたんじゃない。迷い続けた挙句に立ち止まった。それがアタシだ。
気に入らないから相手を殺す。この思考も考えようによっては子供と何にも変わっちゃいない。
ああ、そうだ。これも子供の思考。
あいつは気に入らないから無視する、という事と同じじゃないか。
だからアタシは子供。成長した気になっている無様な子供。
実に滑稽。傍から見れば笑い者。そして――なんて罪深い事か。
――でも自覚したからこそ変われるんじゃないか?
久しぶりに聞いたあの声。どこか落ち着いたかのようなその声はアタシを少しだけ落ち着かせた。
――変わりたいんだろう? なら、きっかけは得た。
――アタシは変われる。そう、きっと。
また、変われる?
最近疑問に思っていること。小さな変化を起こし始めたアタシの心は、あの歌姫によって大きな変化をもたらした。
それがきっかけ。きっかけさえあれば人は変われる。
この暗い迷宮から抜け出せずにいたアタシは、ようやく新しい
――ああ、きっとな。
――でも変化ってのはそうすぐに現れるものじゃない。
――だけどアタシはそう信じている。
――お前も信じろ。そうすれば、きっと――
「…………っ」
……少しは信じてもいいのだろうか。
でもアタシは変わりたいと願いたい。これはアタシに関する事。だからこそアタシ自身が信じなくちゃどうする、という話か。
そして変わった先には二人との再会を願いたい。それがアタシにとっての一番の願い。最初からずっと願い、諦めたこの願いをもう一度。
でもたぶん、それが叶ったとしても今のアタシは上手く対処できないだろう。
こんなにもアタシは変わってしまっている。たぶん気持ちが迷い出して、「本能」も刺激を受けて目覚めてしまうかもしれない。
制御できているのはアタシが揺らいでいないから。一度揺らぎ、アタシの感情に反応を受ければ殺意が目覚めていく。
だからこそ、ずっと会いたかった二人を目の前にすると、心をしっかり持たないとあの二人を殺してしまいかねない。
そして制御している間、アタシは感情があまり揺らがない。たぶん不器用に応対するだけだろう。
でもそれでも本心では嬉しいんだろうな。それはたぶん間違いない。でも抑え込まないと殺してしまうからそれを表に出せない。……どこまでいってもアタシはこんな感じか。
「……っ、ぅ……」
また流れ落ちている涙に気づき、そっと布を当てて拭き取っていく。そしてまた視線に気づいて横目で女を見れば、もはや恒例となっている微笑がそこにある。
それにしても何度も涙を見られてしまった。どうしてくれようか。
「堪能していただけました?」
ああ、嫌というほど堪能させてもらったよ。色んな意味でな。
「歌には力があります。曲ごとに様々な効果を持ち、人の心に影響を与えます。そして人はそれを受けて歌に惹かれ、そして歌手に惹かれていきます。……彼らに力を貰うのです。それを受けて、次の行動の糧とするのです」
そして女はまた柔らかく微笑した。
「あなたも彼女に力を貰ったと思います。……だから、この先のあなたの行く道に幸があらん事を」
「…………ふん」
やっぱりうまくしてやられたということか。
そっぽ向いていると盆から一つのグラスを手に取り、アタシの横を通り過ぎてアタシの横にあった台へとそれを置く。
「では、私はこれで」
小さく会釈をして女は去っていった。つまりあれを聴かせたかったからこそアタシに近づいてきたという事か。まったく、なかなか曲者なスタッフな事だ。
完全に丸め込まれて聴かされてしまった。
……でも、聴いてよかったという気持ちがどこかにあるものだから、どこか悔しさも感じさせる。あれを聴けただけでもこのコンサートに来た甲斐はあったというわけか。
……あの受付嬢にもしてやられたって事になるのだろうか?
「…………チッ」
ああ、なんだろう、このむず痒さは。
でも歌に罪はない。そうだ、あれはいい曲だった。それは認めてやる。
アタシの心を揺さぶったいい曲、名曲だ。歌に力があるというのも本当らしい。それも認めてやる。
……決してあの女に負けたわけじゃないんだからな。
「……ん、く」
やけになったアタシは残りの曲を聴きながら、あの女が置いていった飲み物を一気に飲み干し、フラヒヤ酒を何杯も飲み干していった。
残りの曲は残念ながらアタシの心を再び揺さぶるものじゃなかったけど、それでも最初とはまた違った心境で聴く事ができた。それだけでも良かったのかもしれない。
少なくともアタシは、この数時間で自分が少なからず変わった事を実感した。
○
「ありがとうございました」
コンサートが終わりアリーナから客達が帰っていく。その中にスタッフであり、先ほど優羅の傍にいたあの少女がいた。少女は出口の傍で街へと出て行く客達を見送っている。
少女にはコンサートの間盆を片手に客へと飲み物を提供するという仕事があったのに、それを放棄してずっと優羅の傍にいたのだが、それに関するお咎めはなかったのだろうか。
まるでそんなものはなかったかのように笑顔で客へと「ありがとうございました」という言葉をかけ続けている。
「あら」
「…………」
その中の一人、優羅もアリーナから出てきた。少女はすぐに気づいて声をかけるが、優羅はガルルガキャップの下から真紅の瞳をそっと動かして少女を見るだけだ。
「また機会があったらお越しくださいね」
「…………ふん」
にこりとスタッフらしい言葉を口にしても、優羅はそっぽ向いて去っていくだけ。完全にさっきの事に関して根に持っている様子だった。でもそんなに怒っているとか、嫌っているかのような雰囲気は感じられなかった。
やはり歌に関しては満足している部分もあったのだろう。それを知られたくなかったからこそああ振舞ったのだろう。
それから少しして少女はまた別の客に気づく。
それは一組の男女。
黒い和服を着た黒髪の少年と、赤い和服を着た赤い髪を少女だ。どうやら東方の人らしい。
「……ふふ」
その二人を見た少女は目を細めて微笑を浮かべる。
少女はこの二人を知っている。そして二人の事情も知っている。
「残念ね。あなたたちは会えない。まだその時ではないのだから」
長い黒髪を揺らめかせて少女は目を閉じて呟いた。でもその呟きは誰にも聞こえない。
人の群れはまだ続く。アリーナにはそれだけの客が訪れていたのだから。
そして気づけば客を見送っていたはずの少女がそこにいない。でもその違和感に誰も気づく事はなく、客達はそれぞれの戻るべき場所へと帰っていった。
その客の中の一つ。
この二人もまた自分達が宿泊している宿へと帰っていく。話している話題はさっきのコンサートについて。少女は興奮もさめないようで、少年へと一つ一つの曲について話しかけていた。
そして少年はそれにうなずいたり、自分の感じた事を話したりして少女の会話に合わせている。あのコンサートは二人にとってもいい時間であり、いい思い出だったようだ。
「……優羅も、いたらよかったのにね」
曲について話し終え、しばらく夜風に吹かれた少女がそう呟いた。影がかかったその表情とその言葉を聞いた少年もまた少しだけ表情を引き締める。
ずっと捜し求めた少女、黒崎優羅。
西へ西へと旅をした二人はこのドンドルマには数週間前にやってきた。クエストを受けながらも情報を求めたが、一向に優羅は見つからない。
そしてもう一つの目的、黒い竜についても同じ事だった。
「セレナもまだ情報が入ってないってさ。……やっぱりいないのかな」
「……諦めればそこで俺たちの旅が終わるぞ。違うか?」
「……うん、そうだね」
今日久しぶりにギルド本部へと向かい、優羅の事について訊いてみたが答えは同じだった。
黒崎優羅の情報はゼロ。
そして黒い竜についても不明だ。
そのお詫びとしてコンサートのチケットを貰い、こうして訪れてみたのだ。それについては満足だったが、少女――紅葉としては優羅も一緒にいればもっと楽しめたはずだと感じていた。
それは少年――昴も同じ事。でもそれを口にする事はなかった。自分まで弱音を吐いてしまえば紅葉が少し不安定になってしまいかねない。だから紅葉が弱音を吐いたときは、自分は極力吐かないようにする。それが昴が心の中で決めた事だった。
「明日からまた旅が始まる。……今日はゆっくり休めよ」
「うん、そうだね。ごめん」
「なに、気にするな」
ぽんぽん、と優しく頭を撫でてやると二人は宿への帰路を歩く。
その次の日、二人はドンドルマを離れて旅を始めた。
捜し求めた人物がドンドルマに、あのコンサート会場にいた事にも気づかずに。