呪われし血統と黒き竜   作:流星彗

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64話

 

 

 

 シュレイド地方の一角、ある森の中でレイン達はいた。先ほど道中で出くわした狂化したドスイーオス率いるイーオスの群れを討伐したばかりであり、被害状況を確認しつつ休憩していた。

 この集団はレインを筆頭としているギルドナイトのグループのため、リーダーは当然ながらレインが務めている。報告はほぼすべてレインへと集まり、彼の隣では補佐をするためにサンが控えている。

 部下は二十人を下らず、先ほどの群れによって負傷者はそれなりにいる。医療技術を持っているギルドナイトが負傷者の手当てにあたっている。

 レインは次々に訪れてくる部下の報告を聞き、指示を出していく。きびきびとした様子はまさしく部隊をまとめるリーダーらしい。

 その様子をゲイルとアルテが見つめていた。彼のその姿はギルドでよく見ていたものだが、いざこうして改めて見ているとどれだけ彼が部下に慕われているかがわかる。

 ギルドを憎んでいたゲイルだったが、レインの部隊に関してはその感情はあまりない。それはレインのようなハーフだったり、出身が名家ではなく普通の一般家庭だったりという境遇があるからだ。

 憎む対象は名家でなおかつその出身を利用して他の者達を見下す者。その地位を利用して金を思うが儘に搾取する者。

 組織というものの中に必ずといっていいほど存在するものが、ゲイルにとっての敵だった。それが自分の両親を目障りと感じ、自分にとっての甘い蜜をすすり続けるためだけに二つの命を消し去った。

 アルテは金で買われ、幼いというのに無残に犯されそうになった。しかもその相手がスカーレットの本家の者だという事は、当時のゲイルにとっては衝撃だった。

 まだ子供だったゲイルは、大人というものの汚さを見せつけられてしまった。だからこそ当時のゲイルの心は闇へと傾きやすかった。

 そんな風に自己分析する程、今のゲイルは落ち着きがある。この数週間の中でゲイルは昔よりも心の闇が落ち着いているのを感じていた。

 だがそれでもレインの部下たちからは信用されていないのは当然の事だろう。

 

「レイン様、よろしいでしょうか」

「ああ、どうかしたかね」

 

 数人で集まっていた部下のギルドナイトの一人がそっとレインに近づいて声をかけ、二人は向こうに集まっている人だかりへと向かっていった。

 リーダーだけあってレインは随分と忙しそうだ。先ほどの戦闘は本当に予期せぬ事であり、文字通り奇襲に近かった。それだけに被害も少ないものではなかったために、部隊を建て直し、調整しなければならなかった。

 彼の後ろではメモ帳らしきものを手にしたサンがレインに何かを伝えるかのようにしている。それを受けてレインは少し考え、指示を出していく。

 それを眺めるゲイルは元々レインの部下だった。気弱な自分を演じていたため、いつもレインの近くにいた彼は指示を出す側ではなく、指示を受ける側でもない。サンと同じくレインの補佐をする側にいた。

 しかし今のゲイルはそんな役割を担ってはいない。今の彼は捕虜のようなものであり、レインとサンに監視される立場にある。故にギルドナイトとして狂化竜と戦うという役割はあるが、それ以外の役割はない。

 だからこうして手持無沙汰に自分の武器を調整しながら、レインを眺めるしか出来なかった。

 金属音を微かに響かせながら、ゲイルは手にしているゲキリュウノツガイに砥石を当てて刀身を磨いていく。時折刃を見つめて調子を確認し、また砥石で念入りに磨いていく。

 アルテも同じように黒剣インセクトフェザーを磨いていた。実年齢よりも幼くても彼女はハンターであり、ゲイルから武器の調整の仕方を教わっている。その手つきは他のハンターたちに引けを取らないほどに慣れていた。

 やがて調整を終えたアルテは一息つく。黒剣インセクトフェザーは彼女にとって最も馴染み深い武器だけあって調整は念入りに行われている。彼女の額に浮かんでいる汗がそれを表しているだろう。

 それを感じたアルテはきょろきょろと辺りを何度か見回し、ゲイルの服の裾を軽く数回引っ張る。

 

「ん? どうした?」

「ちょっと川に行ってもいい?」

「ん~……今ここを離れるってのもなぁ……」

 

 頭を掻きながらゲイルも一度辺りを見回した。自分達の立場からして勝手にここを離れるのはよろしくない。となれば許可をもらわなければならないのだが、レインは今忙しそうだ。

 でも呼ばなければならないだろう。

 立ち上がったゲイルはそっとレインのもとへと近づいていき、小声で彼を呼んだ。

 

「ちょっといいか?」

「ん? どうしたのかね?」

「アルテが川で汗を流したいって言ってるんだわ。構わねえか?」

「ふむ……誰かと一緒に行くならば構わないが」

 

 そう言いながらちらりとサンへと視線を向けたが、彼女は今レインの補佐をしているところだ。となれば部下の誰かをつけるしかない。

 レインは近くにいたギルドナイトの少女を呼び止め、彼女に事情を説明した。それを受けて少女はこくりと頷いた。

 

「わかりました。引き受けましょう」

「よろしく頼むよ」

「すまねえな、迷惑かけて」

「いや、構わぬよ。あのアルテなら逃げるようなことはしないだろうが、一応建前というものは必要でね。こちらこそすまない」

 

 この数週間の付き合いでレインとサンもアルテがどういう少女なのかはよくわかっている。本当に彼女はゲイルを中心に回っており、ゲイルを置いて勝手に逃げ出すような真似は絶対にしないだろうというのがよくわかった。

 それにあの年に似合わないほどに子供なところも素だというのがわかり、そのアンバランスさもアルテなのだという事を見せられてしまっては何も言えない。

 だからといって一人で行動させることはどうあっても出来ないのが今の二人の現状だ。

 ゲイルは少女を連れてアルテのもとへと帰り、彼女の頭にそっと手を置いて軽く撫でつつ少しだけ屈みこんだ。

 

「アルテ、このアリカが一緒に川に行くからな。はぐれるんじゃないぜ?」

「お兄ちゃんは?」

「俺様はここに残るさ。一緒に行くとちょいと面倒なことになりそうだからな」

 

 二人一緒に離れるというのはよろしくないため、ゲイルは必然的にここに残る事になる。少し寂しそうな表情を浮かべたアルテだが、やがて小さく頷いてギルドナイトの少女を見上げた。

 

「よろしくね」

「はい。では行きましょうか」

 

 微笑を浮かべた少女、アリカとともにアルテは川の方へと歩いていった。

 それを見送ったゲイルは他の武器の調整でもしようか、とローブの中に手を入れる。すると背後に数人の人の気配を感じ、その手の動きが止まった。そのまま一息つき、振り返らずに口を開く。

 

「……なんか用かぁ?」

「話がある。少し顔を貸してもらいたいんだけど」

 

 そこでゲイルは後ろを振り向いた。

 そこに並んだ顔ぶれは見覚えのあるものばかりだ。それが5人ほど。全員が男というのはどうもたちの悪い不良少年に絡まれてしまった、という構図を彷彿させるが、そんなものじゃないのはゲイルにはわかっている。

 

(そろそろ来るんじゃねえかとは思っていたが、本当に来るとはねぇ……。まぁ、相手しますかねぇ)

 

 じっと見下ろしている彼らの表情の奥に潜む感情はよくわかる。それから目を逸らす事は出来なかった。これからのためにもいつかはやらねばならぬこと。ならば受けてやろうじゃないか。

 

「いいぜぇ、行こうか」

 

 立ち上がればギルドナイトの少年の一人が首をしゃくって歩き出した。その後ろをゲイルがついていく。その様子は他のギルドナイト達も一部は気づいていたようだが、誰もレインに告げる事はなく見送っている。

 誰もがゲイルに対して一種の疑念を持っていた。

 どうしてギルドを裏切った者が未だにここにいるのだろうかと。

 もちろん対象が保守派だった事は知っているが、ドンドルマの一件に関わっていた敵の集団に属していたのは許される事じゃない。彼らは自分達の街であるドンドルマを壊滅させたのだから。

 だからこそ彼らはゲイルに対して疑念を持っている。かつての仲間であったとしても、今のゲイルははっきりと味方とは思えなかった。

 今からあの少年達がゲイルを問い詰める。

 全てが終わってからギルドが正式に裁判をするようだが、そんなのを待っていられなかった。疑念を抱えたままこの先戦っていられない。

 故に今ここで少年達が確かめてやる。それを止める者が今ここにいるはずもなかった。

 

「……?」

 

 ただ一人、ゲイル達が移動していることに気づいたサン。レインは相変わらず部下の報告に対して指示を出し続けているから、ゲイルの様子に気づけなかったらしい。

 向こうへ行ってしまうゲイル達を見つめていたサンは彼らが何をしようとしているのか少し考えて気づいた。

 思わずメモ帳を支えている左手を握りしめてしまった。どうするべきかと少しだけ焦ったような表情を浮かべながら、去っていくゲイルの背中と隣にいるレインを交互に見る。

 教えておくべきかとレインの顔を見上げたが、やはり今の彼は忙しい状態だ。そこにゲイルの事を話せばレインの仕事を増やしかねない。

 かといってゲイルの事を放っておけるはずもない。少し考えてサンは意を決し、レインに話しかけた。

 

「兄さん」

「どうした、サン?」

「少し席を外してもよろしいでしょうか?」

「む、何かあったのかね?」

 

 どこか心配そうな表情を浮かべて見下ろしてくる。あったというよりこれから起こりそうなのだが、それを言う事ははばかられた。

 それを隠す為に少しだけジト目でレインを見上げてやる。

 

「……それを私に言わせるのですか?」

「……あ、ああ、それはすまなかった。うむ、行くといい」

 

 少ししてサンが言わんとしている事に思い至り、こほんと空咳をして頷いた。つまりはトイレに行こうとしているという事を、雰囲気から伝える事で席を外す理由を作ってやった。

 兄に対して嘘をつくというのは少しだけ心が痛むが、それでも行かなければならない。

 サンは一旦この場を離れた後、回り込みながらゲイルの後を追っていった。

 

 集まっていた場所から離れたゲイル達は森の中で少し開けた場所にやってきた。先ほど狂化体と戦っただけあり、辺りは静かなものだった。最近は狂化体が出没した地域は、まるで古龍が出現したかのように他のモンスターの姿が見かけられなくなっている。

 しかし警戒だけはしておこうと、二人の少年が辺りを探るように見回している。そして呼び出した少年はゲイルに振り返り、じっと彼の顔を見つめている。それを受け止めるゲイルもまたいつものような笑みを浮かべたような表情ではなく、真剣そのものだった。

 

「で? 話を聞こうかねぇ、アスベル。どんな要件なんだ?」

「聞かなくてもわかっているはずさ。お前の事だよ、ゲイル」

 

 やっぱりそうか、と心の中で呟いた。それ以外の理由なんてあるはずがない。

 

「訊こうか、ゲイル。どうしてギルドを裏切ったんだ?」

「復讐のためよぉ。そして保守派を潰し、ギルドを変えてやる。それが目的だった」

「……その気持ちはわからんでもないさ。俺達の中にもそんな奴はいる」

「でも殺されるほどまではなかったよなぁ?」

 

 その言葉に固い表情を浮かべた少年が数人。ゲイルの言うようにレインの部下の中にもギルドの上層部によって何らかの影響を与えられた者がいる。

 親や兄弟が失脚されたり左遷されたりした事は普通の事。レインの部下でなくても改革派に属した者ならばほとんど経験済みだ。これを受けたことで改革派に属した者も大勢いる。

 だからゲイルが堕ちたというのもアスベルらにはわからなくもない事だ。もしかすると自分達もゲイルのようになっていた可能性もあるのだから。

 しかしそれでもアスベルはゲイルへと問う。

 

「お前は奴らと共に行動していた。……ドンドルマを壊滅させた奴らと。それは一体どういうことだ?」

「あの人らは俺様らを拾い、鍛え上げた人さ。それもまだガキの頃にな。絶望していた頃に差した光、それが俺様にとってのあの人らの印象だった。……となれば子供心にどうなるか、わかるよなぁ?」

 

 闇に包まれた心はひどく不安定なものだ。脆いといってもいい。加えて当時はまだ10歳前後の子供だった。だからこそ当時のゲイルは容易く朝陽の言葉に乗ってしまった。

 

「……だがそれは全て俺様の……俺の弱さが原因。言い訳なんざ出来るようなもんじゃねぇ」

「そうだよな。あの日の事件、改革派にも被害は及んでいるんだ。死者だって出ている。当然ながら戦ったハンター達にも影響はある。消えていった命に対し、お前はどう責任を取るっていうんだ?」

 

 後ろにいる少年達がゲイルの表情一つ見逃さぬようにじっと見つめながら問いかける。その眼差しを受けているゲイルはただ沈黙したまま表情を変えない。

 しかしそれは表面上だけ。内心では様々な感情が入り混じっている。

 でもそれは数秒のみ。すぐにそれに対する答えがその口から放たれる。

 

「償うだけさ。狂化竜を倒し、あの人らを止め、最後に裁判を受ける。それが俺に出来る事さ」

「それで納得できると思ってんのか? 社会的にはそれで済むんだろうけど、人の感情論でいえば納得できるはずがない」

「そうさ、他の奴らがたとえ納得したとしても、俺達が納得しねえ!」

 

 それが人というものだ。感情というものは難しいものでたとえ世間的には許されていようとも、個人は許されないことが多く存在している。ゲイルは大まかに言えば裏切り者でもあり、同時に殺人犯に分類されるだろう。そして殺人犯は裁判で有罪になったとしても、遺族の心境は晴れる事はほとんどない。

 

「……だけど俺にはそれしか償う方法なないぜ? 一体でも多く狂化竜を討伐し、少しでも多くの村々を守る。それが俺に出来る事。……違うか?」

「普通はね。その命を捨てろ、なんて事を言ったらレインさんに何を言われるかわかったものじゃないからやめておくよ」

 

 命よりも軽いといえば腕や足の一本を折ることや指の一本などもあるが、少年はそれを口にすることはなかった。

 いや、というよりゲイルと正面から相対している少年はそこまでの事は少年は望んでいない。他の少年たちは納得していないようだが、この少年はゲイルの口からどういう償いをするのか、それを聞くだけでよかった。

 ではなぜゲイルを呼び出したのか。

 それはこれから伝える事が本題だった。

 

「……さてゲイル、お前にはまだ訊くことがあるんだ」

「なんだ?」

「俺達、そしてお前はレインさんの隊に属しているギルドナイト。そうだろう?」

 

 それにゲイルは小さく無言で頷いた。形式上とはいえゲイルはレインの部下だ。そして部隊に属しているからこそ、その部隊ごとのルールには従わなければならない。そう少年は告げた。

 そこまで言われればゲイルとて何を言わんとしているのか気づく。それまであまり変化しなかった表情に僅かな苦みが見えたような気がした。

 

「部隊のルール、覚えているはずさ。俺達にとって部隊はもう一つの家族、居場所。だからこそ辛い時、何かあった時は打ち明ける。悩みを共有し、共に苦難に立ち向かおう。……そういうルールだよ」

「……ああ、覚えている」

 

 苦い表情のままゲイルは頷く。

 

「それを覚えていてなお、お前は一人で抱え続けた。俺はそれが許せない」

 

 そのままアスベルはゲイルに手を伸ばし、胸ぐらを掴んでぐっと顔を睨みつけた。

 

「俺達はもう一つの家族……もしかしたらそこまで思ってなかったかもしれないけど、俺達はレインさんの部隊に属する仲間なんじゃないのか!? 何よりお前はレインさんと幼い頃からの付き合いだったんじゃないのか!? あの人に助けを求める、っていう考えはなかったのか!?」

「……っ」

「どうなんだ! お前にとってレインさんやサンは大事な仲間じゃなかったのか!? 友達じゃないのか!?」

 

 許せないのは自分達が敬愛しているレインの幼馴染でありながら、彼に助けを求めなかったことだ。自分達は仲間だが、当時のゲイルを知る者はほとんどいない。

 アスベルは一応幼少期からゲイルを知っている。深い付き合いというわけではなかったが、ギルドナイトの子供たちが通う学校でクラスメイトだったくらいだ。そこからレインを通じて少しずつ仲良くなっていった、という関係だ。

 自分はまだしも近くに親しい人物がいたんだ。

 どうして何も言わなかったのか。

 ゲイルにとって自分達は、レインはそうするに値する存在じゃなかったのか。

 それがひどく許せなく、仲間であることを裏切られた気分になったのだ。

 裏切りとはそういう事だ。

 ギルドに牙を剥いたことじゃない、自分達の関係を疑いたくなるほどの裏切り。それを少年は感じたのだ。

 故に怒る。

 どうして相談しなかったのかと。

 どうして助けを求めなかったのかと。

 どうして?

 

「……っく、それは……」

 

 苦い表情のままゲイルは口をつぐんだ。

 言葉を紡ごうとしたが、何も言えなかったのだ。発せられるはずの言葉は何故か浮かばず、心と頭の奥で何かが痛みを発したのだ。まるで何かがそれを封じているかのような壁。その奥へと進ませない為の体が作り上げた防壁なのかと考える間もなく、アスベルの眼差しが強くなっていく。

 アスベルは本気で怒っている。それだけ許されないことをしたのだと責めている。

 それを見るたびにゲイルはずきずきと胸の奥が痛んでいた。

 これは自分の罪の痛み。

 そしてアスベルが抱えていたであろう怒りと悲しみ。真正面からぶつけられる感情を前に、ゲイルは呑まれかけている。

 しかしゲイル自身は彼に対する回答を何故か用意できない。答えようとしても答えられない。これにはゲイル自身も動揺していた。苦い表情の裏にはその動揺が隠れているのだが、アスベルはただ言葉に詰まっているようにしか見えていなかった。

 ズキズキと鈍く痛む頭に違和感を覚えつつもゲイルは何かを言おうと考える。

 

「……すまねえ」

 

 結局出てきたのは謝罪の言葉。

 目を伏せて頭を下げながらゲイルはただ謝る。

 

「お前の言うとおり、俺は助けを求めるべきだった。……それをしなかったのは俺が弱かったせいだ。心も、体も……な。弱かったからこそ助けを求めなかった。ただ復讐心に身を任せ、レイン達を信じなかった俺が悪かった……」

 

 あまつさえ自分は過去を粛正するためにレインとサンの命を狙った。後戻りできないよう自分からそう望んだのだ。組織の闇を消すという本来の目的に、過去を切るという新たな目的が追加されたのはいつなのかゲイルにはわからない。

 気がついたら自然と頭の中にその目的が浮かんでおり、それに従ってゲイルは動いたのだ。

 今のゲイルにかつての闇はほとんどない。まるで彼を蝕んでいた病魔が消え去ったかのように普通の少年のような雰囲気がある。ゲイル自身もこの変化に戸惑いながらも、それを受け入れつつある。

 同時にかつての自分の事を振り返って気づいたことがある。

 確かに自分は両親を殺された事でギルドの上層部を憎んだが、ギルド全体を憎んだわけではないという事に。いつの間にかギルド、ひいては保守派全体を憎みだしたのだが、そのきっかけを思い出せないのだ。

 この二つの事柄がゲイルに疑問を生み出している。

 どうしてそこまで憎悪し、堕ちていったのだろうか。

 本当に自分の心が弱かったせいなのだろうか。もっと別の何かが原因なんじゃないだろうか。

 でもそんな事は言い訳にしかならない。全ては自分が弱かったからこそ闇に魅入られてしまった。それが始まりであり、罪である。

 いつしかゲイルは無意識に左目から雫を流していた。過去の自分を思い出した際にあの頃の感情と今の感情がぶつかり合っていたのだ。

 どれだけ自分が弱かったのか。あの感情に身を任せた自分がどれだけ愚かだったのか。

 アスベル達の責めを受けたことでより一層それを自覚してしまった。

 

「……本当に悔いているんだな?」

「……ああ」

 

 それでアスベル少年は手を離してゲイルを開放した。少しだけむせてしまったが、それでもゲイルは体勢を崩さない。だがそんなゲイルに他の少年達が近づいていく。

 

「本当にそう思ってるの?」

「これも嘘だったらもう許さねえぞ」

「嘘じゃない。こんなところで嘘をつくほど俺は落ちぶれちゃいねえさ。……本当にすまないと思っている」

 

 もう一度頭を下げる事で自分の真意を示すゲイルをアスベル達は見つめていたが、少しして小さく嘆息した。そのままゲイルの前に出るとじっとその目を見つめる。

 言葉の裏にあるかもしれないゲイルの真意を探ろうとしているようだが、彼らだってゲイルが本当に謝罪しているのはわかっていた。でもそれでもやってしまうのが彼らだった。それだけゲイルに憤っている。

 

「……そう。君が本気で謝罪しているのはよくわかったよ」

「でもそれでも俺らはまだ収まりきらねえんだ」

「だから……一発やらせろ」

 

 その言葉は本気だ。他の少年達も同様の雰囲気をその瞳に宿している。

 ゲイルは何も言わずにただその場に佇むだけ。まるで彼らに身を任せるかのように何もしない。

 その様子を見て彼らはゲイルの心を悟った。ゲイルはそうされる覚悟を呼ばれた時から決めていたのだろうと。ついにその時が来たからおとなしく受け入れようとしているのだ。

 

「……本当に、どうしてお前が、俺達を……レイン様を……っ!」

 

 ぐっと歯噛みしつつ握りしめた拳でゲイルの左の頬を力いっぱい殴り飛ばした。その威力に思わずたたらをふんでしまったゲイルだが、すぐに体勢を立て直してまた直立不動になる。

 その目は次の相手を見つめていた。残りの三人の怒りも甘んじて受け入れようというのだ。

 

「もう裏切らないと信じてもいいのかい?」

「……ああ。俺はもう道を踏み外さねえよ。誓ってもいい」

「……そう。なら信じるよ。次はもうないから……っ!」

 

 そう言うと少年もまたゲイルの頬を殴り飛ばした。先ほどよりも弱い衝撃だったが、少年の気持ちが入った拳を受けてゲイルは小さくうめき声を漏らした。

 大してふらつきもせずにすぐに立ち直ると次の少年を見つめる。

 

「……次、来いよ」

 

 残り二人。

 そう言いたげな目を向ければ少しだけ息を呑んだが、意を決して二人同時に前に出てきた。ゲイルを挟んで両側に立ち、それぞれ拳を握りしめている。

 

「レインさんと……特にサンをこれ以上悲しませるなよ」

「サンさんのお顔を曇らせるようなことがあってはならないんだ。お前があの人に涙を流させたら、今度ばかりは許さないからな」

「……ん、ああ」

 

 サンの泣き顔はあまり見ないのだが、今回ばかりは裏で泣いていたのだろうか、と心のどこかで思ったが口には出さない。今はただ殴られるのを待つのみ。

 やがて右頬、次に腹を一発ずつ殴られて事が終わった。

 最後に腹に一発貰ったことで膝をつき、口の端からは殴られ続けたことで微かに血が流れているが、ゲイルは気にした風もなく立ち上がって少年達と向き合った。そんなゲイルを見て最初に殴った少年が小さく頷く。

 

「……これでチャラだ。もう俺らを失望させないでくれよ」

「……っ」

 

 そっとゲイルの肩を叩いてすれ違いざまにゲイルに小声で告げてやった。他の少年達も同じようにすれ違いざまにゲイルの肩を叩いていき、集合場所へと戻っていく。最後にゲイルを責め、殴らなかったアスベルが軽く胸を拳で打ち付けて微笑を浮かべる。

 

「俺達の気持ち、ここに届いたか?」

「……おう、充分すぎるほどにな」

「ならいい。呼び出したかいがあったよ。……じゃ、またあとで」

 

 右手を軽く振って彼も少年達に続いて去って行った。

 一人残されたゲイルはしばらくその場に佇み、たまったものを吐き出すように大きく息を吐いた。

 彼らのおかげで心が楽になった気がする。肩の荷が下りたとでも言おうか。今まで自分の心の中に存在していたしこりがなくなったような気分だった。

 そう思えばこの痛みもどうということはない。彼らの怒りと悲しみが込められた痛みなのだから苦痛だとは思えない。じんじんと痛む中ゆっくりと深呼吸をし、ゲイルは目を閉じて口を開いた。

 

「……で? いつまでそこで眺め続けんだぁ? サン」

 

 振り返らずにそう呼びかけると、少しして林の中からサンが姿を現した。相変わらず少し無表情だが、どこか心配そうな色合いが見られる。

 

「気づいていたんですか」

「まぁな。それで? レインを置いてなんだってこんなところにいんのよ?」

「それは私の勝手ですよ。……ほら、いつまでもこれをほっとかないでください」

「……っと」

 

 そっけなく答えながら取り出したハンカチに回復薬を染み込ませると、口から流れている血へと軽く当ててやる。ぽんぽんと何度か当てるサンを見下ろしていたゲイルは、さっきの少年の言葉を思い返していた。

 

『サンさんのお顔を曇らせるようなことがあってはならないんだ。お前があの人に涙を流させたら、今度ばかりは許さないからな』

 

 言葉通りに受け止めればゲイルの裏切りでサンが泣いたかもしれないということになる。レインと同じくサンとは幼い頃からの付き合いだ。だからこそ知っている。サンはこの通りポーカーフェイスが多く、めったに泣き顔を見せないという事を。

 ゲイルが知る限りでサンが泣いた場面といえば一、二回ほどだ。それくらい彼女は気丈な少女であり、逆に自分の事で泣くなんて少し信じられない事なのだ。

 彼らは恐らくサンに対して好意的な感情を持っているのかもしれない。こうして見る限りではサンは控えめながらも美少女と呼べる外見をしている。あのシスコンな兄を立てるように後ろに控え、的確に補佐をする縁の下の力持ちを象徴する働きを見せる様は、外見と合わさってまさに東方の言葉「大和撫子」といえるだろう。実際サンは東方人の血が混ざっているのだからなおさらだ。

 だからこそあの隊の中では結構サンはもてていたりする。でも誰もが彼女にアタックを仕掛ける事はない。

 なぜなら彼女はハーフとはいえあのスカーレットの家に連なる娘であり、家柄的な意味で大きな壁が存在する。例えそれを打ち破ったとしても最大の壁がその先に待ち構えている。

 それはもちろん兄であるレインだ。彼が認めない限りサンと恋人になる事は出来ないだろう。

 どうせ彼はこう言うのだ。

 

『サンの彼氏になりたいだと? ならんっ! わたしの大事な妹をおいそれとくれてやるわけにはいかんっ! どうしてもと言うならば、このわたしを超えていけ!』

 

 まるで彼女の父親へと結婚を願い出るかのような場面がありありと頭に思い浮かぶ。だから少年達はただサンを想い、影から彼女を支えるかのように守っている、らしい。ゲイルはそこまで詳しい事は知らないのだ。

 やれやれ、簡単にレインの反応が思い浮かぶものだから、サンが本当に惚れた相手を連れていったらどうなることやら。妹離れが出来ない兄がいれば、そう簡単に恋なんて出来ないだろうとゲイルは小さく笑った。

 

「……? どうかしましたか?」

「ん? あぁ、いや、なんでもねぇよ。気にすんな。クッヒヒヒ」

「そうですか。……はい、これでいいかと思います」

 

 血が止まったのを確認してハンカチを離したサン。見上げてくるその緋色の瞳は垂らされた薄紅色の前髪によって少しだけ隠れている。表情があまり読めない上に前髪の影響もあって、すぐ目の前にある表情なのによく読めない。

 心配してくれているのはわかるんだが、それ以外の感情があるように思えるのだがそれがわからない。長い付き合いをしているのだが未だにゲイルはサンの表情の全てを読み取る事が出来ずにいた。

 

「……ゲイルさん」

「ん?」

「今回の事でしこりがなくなったかもしれませんが、それにしても無茶しすぎでは?」

 

 今回は丸く収まったからいいが、もしかすると今以上に関係が悪化したかもしれない。一発ずつ殴られたけど、それ以上に殴られ続けたかもしれない。その点を彼女は心配していた。

 少しだけ呆けたような表情を浮かべたゲイルだが、やがて小さく肩を揺らしながら抑えるように笑い声を漏らし始める。

 

「ッククク……なんだ、心配してくれたのか?」

「いけませんか?」

 

 少しからかうように言ったつもりだったのだが、どこか真剣な表情で見上げながら返ってきた言葉に思わずゲイルが黙ってしまった。

 

「あなたを心配してはいけませんか? ゲイルさん」

 

 じっと見つめてくるサンを前にゲイルは何も言えない。この件も合わせて笑い話にでもしようかと思ったゲイルだが、こんなサンを前にしてはそうもいかなくなってしまった。

 無言で見つめ合う二人を穏やかな風が吹き抜けていく。その柔らかな音さえ耳に入らないほどゲイルはそのサンの瞳に吸い込まれていた。

 瞳の中に自分を視認できるほどの距離。そのまま無言でいると、瞳だけじゃなく顔が引き寄せられそうになりそうだが、ゲイルはそれを無意識のうちに引きとめていた。そうしてしまえば何かが壊れそうな気がしたのだ。

 時間の感覚も忘れそうになった頃、サンは静かにゲイルから離れて歩き始めた。

 

「さ、行きましょう。兄さんたちを心配させてはなりませんから」

「……あ、あぁ。そうだな」

 

 さっきまでの事なんて何もなかったかのように淡々と言いつつ先を行く。あそこまで清々しく切り替える、あるいは本当に何もないならば気にしている自分が笑えてしまう。右手で頭を軽く掻きながら嘆息すると、ゲイルもゆっくりと後を追う。

 

(んー……なんだってんだろうねぇ。女ってのはやっぱりわかんねぇなぁ。……いや、サンが特別わかりにくいのかねぇ?)

 

 小さな背中を見つめながらそう思う。いくら考えてもサンの気持ちを量る事なんて出来なかった。だからこのまま黙って後をついていくことしかできない。

 そのまま横に並び、二人は揃って口を閉ざしたまま集団へと戻っていった。

 

 

 ゲイルの件から数分前の事。所変わってこちらは集団から離れたアルテと、彼女についてきたギルドナイトのアリカ。アルテから目を離さぬようアリカは彼女の隣を歩いていた。

 目指す先は近くを流れている川。十分ほど歩けばたどり着くそこは、先ほど水を補給するために何人か向かっていった所だ。

 その為場所は把握している。

 鼻歌交じりに横を歩くアルテを横目で見降ろしているアリカは複雑な心境だった。13歳の少女らしいが、外見的な容姿やその性格はそれよりも幼く感じてしまう。

 しかし実力はゲイルに引けを取らないほどに高く、彼と長く組んで戦ってきたハンターだ。そういう風に聞いている。あのドンドルマの一件でサンと互角に戦った実績があり、彼女曰く自分よりも強いかもしれないということらしい。

 どう見ても子供にしか見えないこの少女があのサンを上回るなんて普通は信じられない。でもうっすらと感じられる何かの力が、それが真実なのかもしれないと思わせる。

 本当にうっすらとしかわからないが、確かに何かを感じるのだ。その何かが詳しくわからないのだが、それが彼女の実力の一端なのだろう。気迫なのか、魔力なのか、あるいはまた別の何かか。

 

「? お姉ちゃん、どうかしたの?」

「……あ、いえ、なんでもないわ」

 

 ずっと見つめていたため視線に気づいたアルテが小首をかしげて見上げてきた。慌てて首を振って取り繕い、前を向いて心なしか早足になって先を行く。

 あの純粋な眼差しを向けられてはもう何も言えない。まさに子供らしく見上げてきたものだから黙ってしまった。

 こんな少女がゲイルと共にドンドルマの襲撃を行っていた事もにわかに信じがたい。悪いことをする、なんて印象が全くないのだ。

 何も知らない子供のような純粋な白。それがアルテの印象だった。

 

「ふんふんふ~ん」

 

 横を歩く少女はまた気ままに鼻歌を歌っている。さっきの事なんて気にしてないかのようだ。こういうところは本当に子どもだ。

 そしてアルテはというと、川が近づいてきているのを匂いで感じ取っていた。もう少ししたらこの汗っぽさが洗い流せるということで、うきうき気分だった。真っ直ぐに前を向き、川が近くになるにつれて自然と早足になっていた。

 やがて周りの木々が開けたとき、目の前に広がるのは穏やかな清流。静かに耳に届いてくる川のせせらぎに、まっさらな匂い。全身に感じる自然の雰囲気にアルテの機嫌はより一層高まっていた。

 

「うわぁ~……あはっ、つめたぁい」

 

 さっそく川に入って手を入れ、その水を感じ取る。ばしゃばしゃと水を上げたり、足で蹴り上げたりと子供のように川で遊び始めた。最後にはその身を川に横たえて浮かんだりして体についた臭いを消していく。

 

「……あれ?」

 

 そこで気づいた。

 さっきまで一緒にいたはずのアリカがいなくなっている。自分を監視するためについてきたはずなのにどうしていないのだろうか。

 

「お姉ちゃん?」

 

 立ち上がってきょろきょろと辺りを見回してみるも、姿は見えず気配も感じられない。しかし別の気配がおぼろげに感じられた。それはモンスターではなく人の気配のようだが一体誰だろうか。

 もしかすると水を汲みに来たギルドナイトかもしれない。アルテはそちらの方へと歩いていく。

 少し歩けば気配が近づいているのが感じられた。緩やかなカーブを描く川を右折し、川沿いに生えている木からそっと覗きこんでみると、そこには確かに誰かがいた。

 深い蒼に染まった短髪に、鍛え上げられた肉体美を体現した男が背を向けて立っている。どうやらアルテと同じくその身を清めていたらしい。アルテと違って身を纏うものは何もなく、その全身が曝け出されていた。

 

「はわ~……」

 

 そのたくましい背中に思わず声を漏らしてしまった。その微かな声に気づいたのだろう。男が少し驚いた顔で肩越しに振り返った。

 

「……む?」

「あっ……」

 

 その瞳もまた深い蒼に染まっており、髪から僅かに覗かせた尖った耳が、彼が竜人族であることを示している。ただ見つめているだけなのにその眼力の強さは凄まじい。そんな彼を前にしてアルテは固まるしか出来なかった。

 彼は一度頬へと手を当てて何かを確認するようになぞると、小さく息を吐いた。

 

「……驚いたな、ここまでやってくるとは。もう一人は結界によって来ていないようだが、お前は自然体のままで抜けてきたのか」

 

 彼の言うとおりこの周囲には結界が張られている。種類は人払いであり、種族を問わずに誰一人ここまで入り込めないようにしてあるのだ。

 もちろん彼はレイン達が近くで休んでいるという事は知っている。数人の部下が水を汲みに来た際はこの場から離れていた。結界は彼らが去った後に張ったものである。

 必要な分の水は確保していたようだからもう来ないだろうとここで水浴びしていたのだが、よもやアルテがここで水浴びしにやってくるとは思いもしなかったようだ。

 二つ(・・)の意味で彼は驚いている。

 そのままどうしたものかと考えているらしかったが、じっとアルテを見つめて気づいたことがあったらしい。少しだけ何かを呟き、近くに置いてあったタオルを取りに行って体を拭き、真紅のローブから軽めの和服を羽織ってアルテへと向き直った。

 

「さて、見たところお前も水浴びをしに来た、と見るが」

「あ、うん……そうだよ。ちょっと汗の匂いが気になっちゃって」

「ふむ、そうか」

 

 今はもう川の水によって洗い流されているためそんなに匂いは感じられない。落としたいものを落とせばあとは川遊びとしゃれ込むだけ。そんな風に考えていた。

 

「えっと……」

「ん? どうした?」

「……おじちゃん、はどうしてここに?」

「――――」

 

 上目使いから放たれたその言葉に彼は沈黙してしまう。というより固まってしまっているようだ。

 そうなってしまうのも無理はないだろう。

 幼さを残す少女から「おじちゃん」呼ばわりされるとは思ってはいなかったに違いない。今日だけでいったい彼はどれだけ驚きに包まれているのだろうか。

 しかしこのまま黙り続けているわけにはいかないだろう。彼は気を取り直すように「こほん」と小さく咳をして口を開いた。

 

「少し休憩していただけだ。色々と流したいものがあったのでな」

「? アルテと同じかな?」

「そうだな」

「……あ、ちょっと違うかな。汗だけじゃなくて血も流したのかな」

 

 その言葉に彼はまた小さな驚きを感じずにはいられない。

 

(やはり鼻が利くか。……ふむ、さすがといったところだな。幼いながらも戦いの場にそれなりに置かれているから、その才能も少しずつ開花しつつあるようだ)

 

 じっと改めてアルテを見つめながら彼は心の中で評価していた。アルテ自身はただ自分を見つめている、という認識でしかないが、男はアルテの外だけじゃなくて内の内まで見透かしていた。

 

(……それにしても、なんだこれは。この血の気配、覚えがあるが……やはりそういうことか? だとすると、将来的には化けるな――色んな意味で、な)

 

 表情を変えずにアルテを見続けるものだからさすがのアルテも少しだけ困惑し始めた。

 

「おじちゃん? どうかしたの?」

「……あ、ああ。すまん、なんでもない。……それと、すまないが『おじちゃん』という呼び方は勘弁願いたいのだが」

「?? おじちゃんじゃダメなの?」

「うむ……、少し困ってしまうな。オレとしては……そうだな、『アオさん』とでも呼んでくれ」

 

 どう考えても偽名だがアルテはその呼び方を反芻している。どうやら信じ込んでいるらしい。本当に純粋な子だ。

 ちなみにその呼び方の元はどう考えてもその髪や瞳の色の「蒼」。アルテがわかりやすくするためにシンプルなものを選んだのだろう。

 

「アオさんは一人なの?」

「うむ、そうだな。基本は一人で行動している」

「そうなんだ。……アオさん、強そうだもんね」

「ほう? わかるのか」

 

 問いかけてみるもそんな事は外見から見てもわかるだろう。無駄なく鍛えられたその体は今はもう和服によって隠されているも、それでも僅かにわかってしまうほどに隆起している。

 またその蒼い目から放たれた眼力に、抑え込まれていてもわかるものにはわかるほどの強い存在感と気迫。これらによって彼の実力は大いに図れる。

 だが子供が彼の気迫を感じてしまったら失神するか泣き出すかと思われる。子供に近しいアルテがどちらの反応もせずに普通に話をしているのもまた驚きだ。やはり朝陽達の下で数年過ごした影響だろう。肝が据わっているのは戦いを経験している事と、狂化竜と何度も相対したことがあるからに違いない。

 ふとアルテは右頬に人差し指を当てて小さく首をかしげる。

 

「じゃあもしかして、一人であの狂化竜と戦ってたりするの?」

「そうだな。先ほども戦ってたものだから、こうして水浴びというわけだ。わかってもらえたか?」

「うん。……でも、どうして結界を?」

「……ふむ。それには理由があってな……」

 

 少しだけ困ったような表情を浮かべるのを見て、アルテはまた小首をかしげる。しかしこれに関しては彼自身にも関わる問題のために、そう簡単に話せるものじゃなかった。

 どう言えばいいかと考えること少し、出した答えはこうだった。

 

「オレは主に裏で動くものでな。あまり人と遭遇してはならないから、こうして人払いの結界を張っているのだ」

「そうなんだ。あの人たちとおんなじだね」

 

 恐らくあの人たちとは朝陽達の事だろう。やはり彼女たちも色々と手を回すことで今まで存在を知られずに行動し続けたという事だ。でなければ数十年も行方不明なんてことはあり得ない。

 

「じゃあお兄ちゃんたちには会っていかないのかな?」

「……そう考えていたんだが、結界をすり抜けてこっちに来てしまった以上、お前についてきた者が不審がるだろう。事情説明のため会う事にする」

 

 そうしなければアルテに疑惑が生まれる。アルテらの事情を知る者としてはそれは歓迎できない事だった。アルテ自身に自覚はないとはいえ、このまま帰しても何も説明もなしにいなくなってしまった、ということになる。

 それを防ぐため、彼はアルテと共にレインらの所に行かなくてはならない。

 

「では少し待ってくれ」

 

 ローブから下着などを取り出し、岩陰できちんと服装を整え始めた。最後に真紅のローブを羽織り、忍の面・陽をその顔に嵌める事で素顔を隠した。

 その姿はアルテにも見覚えがあった。ドンドルマの一件の後、ゲイルを治療してくれた人物。

 

「……あ、アオさんってあの時の……」

「まあ、そういうわけだ。……ああ、そう言えば一つ言っておくことがあった」

 

 歩き出そうとしたところで思い出したようにアルテを見下ろす。小首を傾げるアルテに対し、そっと人差し指を仮面の上から口元にあてた。

 

「オレの素顔の事は誰にも言わないようにお願いしたい。約束できるか?」

「……? うん、いいよ。でもどうして?」

「これもまた色々あるのだ。こうして素顔を晒すことは避けているんでな。だから例えお前が慕うあの少年に対しても秘密にしてもらいたい」

「うん……わかったよ」

 

 アルテの返事に彼は少しほっとしたように頷き、二人は森の方へと歩き出した。

 

 数分後、人払いの結界を解除し、結界の外にいたアリカを回収してレイン達が集まっている場所へと到着した。当然ながらアリカは彼を見たとき不審な眼差しを向けていた。その出で立ちからして無理はないだろう。

 軽く少女に説明を終え、レイン達の下へとアルテと男、神倉獅鬼が訪れる。目の前に出てきた獅鬼を見たレインは少し驚いた顔をしたが、すぐに小さく頭を下げて手を差し出した。

 

「久しぶりですね、神倉獅鬼さん。ここで会う事になるとは思いもしませんでしたよ」

「そうだな。オレとしても会うつもりはなかったんだが、少し予定が狂ってな」

 

 そう言いつつ後ろにいるアルテに振り返った。彼女はゲイルと仲良く談笑しているようだ。しかも数人のギルドナイトと交えて会話しており、先ほどとは様子が変わっている。

 傍から見れば仮面の下からその光景を見つめているように思えるが、実際に彼が見ているのはアルテただ一人。その素顔を隠しているため、視線がわからないからレイン以外は気づくことはなかった。

 

「……アルテミス、ですか?」

「うむ。あの娘はいい才能を持っている。正しく導き、伸ばしてやれば優秀なハンターとなるだろう。基礎自体は出来ているようだから、後は育て方次第だ」

 

 なるほど、と頷くレインは獅鬼が実力者であることを思い返した。彼もまた神倉の者であり、長命であるため秘められた力をフルに解放して実力を積み重ねているのだろう。

 レイン自体は獅鬼の戦いをこの目で見たことがないため詳しくは知らないのだが、放たれる気迫からしてとんでもないというだけはわかっている。

 そんな彼がアルテを評価しているのは大きい。ゲイルが味方についているし、他のメンバーとの溝も少し解消されているから彼女が離反することもない。

 二人の実力が高い事はレインも知っている。あの狂ラギアクルス戦で充分に把握できた。後は更なる経験と刺激があれば他のメンバー共々伸びていくかもしれない。

 レインもまたアルテを評価しているのだ。あの若さであれほどの実力があるというのは実に素晴らしい事だと考えている。

 

「あの娘、大事にしてやるといい。ああいう娘は貴重だ。お前たちで正しく育ててやれば将来的にも良い存在となるだろう」

「もちろんですよ。ゲイルの事もありますから、悪いようにはしません。……ええ、あの子にはそんな事が出来ませんよ」

 

 アルテはスカーレット本家に買われたという過去がある。ゲイルが記憶を消しているようだが、事実は消える事はない。同じスカーレットの者としては彼女に冷たく当たる事は出来ない。

 それを抜きにしてもあんなに純粋な少女を冷たく当たるなんて人として出来ようか。あの子の笑顔を曇らせる事なんて出来やしない。

 

「ならいい」

「……そういえば、あなたは一体どうしてあの子と?」

「うむ、その説明をしに来たんだったな」

 

 どうしてアルテと一緒に来たのかという事を説明し、次にお互いの情報を交換し始める。特にめぼしい情報はなく、新たに確認された狂化竜についてしか得られるものはなかった。

 というのも獅鬼が旧シュレイド城の事を話さなかったから、レイン側に新しい情報が追加されていない。この事は獅鬼と雷河だけに秘められた情報という事になっている。

 確証がないまま伝えてもしょうがない。限りなく黒に近いグレーとはいえ、あれを張った人物の狙いがわからないのだ。それを突き止めるまでは黙っておきたいのが獅鬼の考えだ。

 それに人物が人物のために気軽に話せるものじゃないというのもある。だからこそ話す事が出来ない。

 レインがこれからどうするべきかと考えている裏で、獅鬼は自分が動くべきことを平行して考える。確証を得ようとすればあの人物に接触すればいいのだが、獅鬼自身はまだその時期ではないと判断している。

 

(奴は然るべき時に相対し、一気に決着をつけなければならない。そうしなければ奴を完全に打ち倒すことなど出来ないからな)

 

 昔からの因縁の相手だけにその人物の事はよく知っている。だからこそどうすればいいのかがわかってしまう。今会ったとしても競り負けるだけだ。

 決め手に欠けるといってもいい。

 全ての準備が整う場所と時期はもう見えている。それを見誤れば全てが終わるといってもいいだろう。

 個人的にはさっさと決着をつけたいところなのだが、残念ながら普通に戦っても勝てる相手じゃないのはわかっている。過去に何度か戦ったが、ほとんど負け続けているのが現実だった。

 

(その真意を探り確証を得られれば打つ手が定まる。……しかしドンドルマの資料は一部焼けているんだったか。となればやはりミナガルデで調べるべきか。だが一つ気になる点がある)

 

 仮面の下でその鋭い目が細められる。

 シュレイド地方を移動していたり、何かを調べていたりしているとき誰かの視線を感じていた。特にミナガルデ近くならばそれが強く感じられたように思える。

 しかし獅鬼はその視線の主を特定する事が出来なかった。存在感がおぼろげなのだ。視線やセンサーを向けたとしてもすぐにいなくなってしまうか、わざわざ存在をちらつかせてから去っていく。

 まるで自分が遊ばれているかのように思えるほどの相手が自分を監視している。

 

(奴ではないことは確か。朝陽でもないことも間違いない。そしてあの気配は七禍(ななか)でもなかった。……ではあれは誰だ? シュレイド地方にそんな存在がいただろうか)

 

 自分の知らない強敵がまだ存在していることに獅鬼は多少の恐怖を感じずにはいられない。自分が恐怖を感じる相手なんて指で数えるほどしかいないというのに、だ。

 見えない敵ほど怖いものはない。しかも自分にとって脅威となり得る可能性が示されれば警戒せずにはいられない。だがそれでももう一度ミナガルデに行かなくてはならない。情報を得ようとすれば行かなければ話にならないのだから。

 

(新たな敵が誰なのかはわからないが、恐らくはかなり前からあの地方に存在していたのかもしれん。……もしかするとあの小僧らを見張っていた可能性もあるか)

 

 シュレイド地方と言えばライムとシアンが暮らしていた地方だ。正確に言えばココット村だが、充分範囲内といえるだろう。そこに訪れた昴達ももしかすると監視されていた可能性も否定できない。

 この大陸全土に散らばる監視網の中に混じるようにして監視する何者か。特定できればいいだろうが、その希望は薄そうだ。

 

「神倉さん? どうかしましたか?」

「……いや、なんでもない」

「そうですか? それならいいのですが。なにかわかればわたしなり、父上なりに情報提供をお願いします」

「……うむ、そうだな」

 

 応えたことは応えたが提供するものによる、と心の中で付け足しておく。

 ここですることは終わった。ならばもう行かなくてはならない。

 

「ではオレはこれで失礼する」

「またお願いします」

 

 礼をするレインを尻目に片手を上げて獅鬼は去っていく。それを見送るレインの傍にそっとサンが近づき、耳打ちするように状況を報告する。

 

「立て直しは完了した模様です。少し休息すれば行動開始しても問題ないかと」

「そうか。……ところでサン」

「はい、なにか?」

「ゲイルの不安は解消されたかね?」

 

 その言葉にほぼポーカーフェイスで通しているサンの表情が僅かに変化した。普通は気づかないほどの変化だったが、それだけサンの心情に驚きの波紋が広がっている証だ。

 一体どうしてそんな事を訊いたのだろうか。まさかさっきの事に気づいているのだろうか。そんな事を考えながらそっと上目使いでレインを見上げてみる。

 彼は微笑を浮かべながらゲイル達の方を温かく見守っていた。

 

「あの様子を見る限り、これからの事は心配ないようだな。裏でどんなやりとりがあったのかは少し気になるところだが、サンは何か知らないかね?」

「…………回りくどいことは言わず、そのまま訊けばいいじゃないですか」

「ふ、すまないね」

 

 どうやらサンが席を外した理由には気づいていたらしい。それを咎める事がないのは、レイン自身もゲイルとアルテの件に関してどうにかしなければならないと常々考えていたからだろう。

 

「後にでも何があったのか少し教えてくれ」

「……はい」

 

 小さく頷いたサンに微笑し、軽く頭を撫でてやるとレインもゲイルの下へと向かっていく。彼が来たことで周りの少年達が礼をするもそれを片手で制し、自分もまた談笑へと加わっていった。

 それを眺めるサンは相変わらずポーカーフェイスだったが、ふとアルテが自分を見つめていることに気づいた。ゲイルの傍にいながら横目で様子を窺うかのようにその碧眼がサンを視界に収めている。

 いったいどうしたのだろうか、と思っていると、そっと足音も立てずにサンへと近づいてきた。

 

「どうかしましたか?」

「うん、お姉ちゃんは混ざらないのかなって」

「私は気にしなくても構いませんよ。アルテはあのままあそこに残っても構わないのですが」

 

 自分は元より人と話す事が苦手のため、こういうことはよくある事だ。最近入ってきたばかりのアルテは知らない事なので、こうして誘ってきたのは彼女の性格も考えて無理もない事だろう。

 ちらりとアルテを見下ろしてみる。自分もそれなりの身長をしているが、アルテはそれよりも小さい。柔らかな茶髪は風に揺れ、明るい碧色の瞳がそっと見上げている。何を話そうかと考えているというのが何となくわかった。

 前から思ってはいたのだが、この出で立ちは明らかにゲイルに合わせている。髪の色も瞳の色もほとんどゲイルと何ら変わりない。幼いながらも変化の達人である彼女ならば、ゲイルを意識して調整しているというのがわかる。

 つまりこの姿は偽りであることが推測できる。

 この娘の本当の姿は一体どんなものなのだろう。少しだけ気になるところだ。

 

「……アルテ、一つ訊いてもいいですか?」

「ん? なに?」

「その姿は変化を使ったものですか?」

「……? この姿っていうと、今のアルテの?」

 

 それに頷くと口元に指を当てて「ん~」と少しだけ考えるかのようなそぶりを見せた。そのまま少しだけ唸ると、微かに首を小さく振った。

 

「よくわかんないんだ。忘れた、っていうのかな。アルテの本当の姿、ちょっと思い出せないんだ」

「……そうなのですか?」

「うん。気づいたら忘れちゃってた。お兄ちゃんとお揃いなこの色と、ちょっとだけ覚えてる顔が今のアルテの姿」

 

 そんな事をなんてことないように笑顔で言ってしまうあたり、アルテとしては些細な事なのだろう。本当の姿なんてものにはこだわりはなく、今こうして過ごせることがアルテにとって大事な事なのだ。

 気になる事は気になるが、これ以上追及する必要はないだろう。

 二人はそのままその場に佇んだまま時折言葉を交わして時間を過ごした。傍から見ると二人は姉妹のように思えるだろう。ゲイルも合わせればもしかすると四兄妹かもしれない。

 それだけ二人が一緒にいる事が自然なように見える。

 

 一時の休息は実に穏やかなものとなった。さっきまであった少しだけぎくしゃくしたような雰囲気はもうなくなっている。各々談笑に花を咲かせたり、仮眠をとったり、あるいは持ち寄っていた本を読んだりと時間を過ごし、体を休めている。

 やがて休息を終えると、一行は再びシュレイド地方を移動していく。その進路はミナガルデ方面。

 奇しくも獅鬼が向かっている場所と同じ方向だったのだった。

 

 

 ミナガルデへと向かう獅鬼は疾走しつつ辺りを警戒していた。

 相変わらずどこからかは不明だが、何者かの視線を微かに感じている。

 地を疾走する獅鬼の速さは常人ではついてこられずに振り切られるはずだが、視線はずっとついて回っている。

 となれば空から使い魔か何かを使用することで監視の目を光らせているという事だろう。そんな事が出来るのはかの人物くらいだろうが、視線に含まれる雰囲気からしてそれはないというのが改めて分かった。

 

(やはりこのシュレイド地方に何かがいるな。奴の下についている誰かか、あるいは第三者か。……もし後者ならよけいにややこしくなるから勘弁願いたいのだが、現実はそうは甘くはないという事か)

 

 過ぎ去っていく景色を気に留めず獅鬼はただ走り続ける。彼の気配にあてられたのか、モンスターの姿はほとんどみかけられない。面倒なことは避けたいためこういう事は歓迎できることである。

 無駄に命を狩る事は獅鬼の趣味ではないし、ハンターとしても恥ずべきこと。どこかの誰かとは違うのだ。

 

(……シュレイドと言えば思い出されるのはあの噂か)

 

 十数年前に耳にした一つの噂。かのシュレイド城付近から裏で広まった話が今ここで思い出されたのだ。内容が内容だけにその噂はすぐに王家によって揉み消されたが、今でも一部の情報通が記録し続けているという話だ。

 火のないところに煙は立たぬ。獅鬼は小さく唸りつつ一人の人物を思い返した。

 

 アルテミス――通称アルテ。

 

 苗字不明の孤児の少女。変化の達人にして数週間前まであの朝陽の下で行動していた少女だが、その心は純粋無垢で混じりけのない白い心を持つ少女でもある。実際に相対してわかったが、あの少女は本当に心に闇を感じなかった。

 恐らく三年朝陽の下で行動していたはずだが、あそこまで真っ白のままでいられたのはゲイルの存在があったからだろう。彼が傍にいて支えていたからこそ黒く染まらなかった。

 故に、自らの血を刺激させる事なく過ごす事が出来たと獅鬼は推測している。

 とはいえハンターでもあったのだから流血を何度も見ているはずだ。それだけでも充分刺激になるはずなのだが、それはアルテが特別なのだろうか。その辺りは人によって差があるため獅鬼自身にも判断できない。

 

(三年もあそこにいたのだから、朝陽も奴も気づいているものと思っていたが……よもやあの二人をも素で欺くとは、やはり幼いながらも流石というべきか)

 

 獅鬼でさえ気づくのに少しかかったほどだ。最初に違和感を覚えたのはドンドルマでゲイルを治療する際にアルテを目にした時の事。あの時は彼女の精神が不安定で、僅かにその血の気配が漏れていた為に獅鬼は気づく事が出来た。

 決定打となったのが先ほどの川の一件。

 

(素顔を見られてしまったのは予定外だったが、逆に言えばそれがあったからこそ確信を得たといえる。……この通り、今もなお行動できるのがその証拠だな)

 

 そっと顔に手を当てれば仮面の感触が手に伝わる。それが隠している素顔に刻まれているこの力の粒子も感じられる。数百年の時を経てもなお存在する獅鬼を縛る二つの鎖。

 これがあるからこそ獅鬼の行動は制限され続けている。その内の一つ、人に素顔を見られることで発揮される力があの瞬間なにもなかった。

 その瞬間獅鬼の疑念は解消され、アルテがそれに連なる者であることの証明が完了される。……いや、混じり物だったとしてもよかったと安心するべきか。純血ならば懸念することもなかったろうに。

 

(こんな所で生き残っていたとはな。普通は中央へと来ることはないと思うのだが、何事も例外はあるという事か。……もう一つが交わった相手だな。まったく、一体どういう事なのか。あの話が事実という事ならば、もう一つ感じた血の気配はやはり……)

 

 噂はあくまで噂であり、揉み消されたために確証を得る事が出来なかった。なぜならば確証を得るための存在が発見できないのだ。そして誰もがその件について口にしようとしない。

 それにより、噂は真か偽か判断が付かないまま時が過ぎていくこととなってしまった。

 真実を知る者はその件に関わった者のみ。あるいは裏で真実にたどり着いた数人のみか。

 

(あの少女は果たして自分の血統を知っているのだろうか。両親があまりにも特殊な血統だというのに、少女自身は純粋すぎる。とはいえ今のままの暮らしを望む少女としては知らなくてもいい事実だというのは間違いない。……うむ、やはりこれは伝えるべきではないな)

 

 彼女の実力を認め、その個性を認める。だからこそ大事にしなくてはならない。この戦いの戦力の一人であり、同時に子供であるために心を不安定にさせるわけにはいかない。敵には容赦しないが、味方にはなかなか寛容な獅鬼である。

 ミナガルデにはあと数日走れば到着できるだろう。息を切らす様子もなく獅鬼はまだまだ疾走する。

 

(後の気がかりは七禍か。最近姿を見かけないが一体どうしているのやら。相変わらず傍観を続けているのか、あるいはどこかに介入しているのか。本当にあの娘は何を考えているのかわからん)

 

 初めて会ったのもこのシュレイド地方だったと思い返す。突然目の前に現れた黒い少女、それが七禍だった。彼女の雰囲気に多少の驚きを感じる間もなく、その圧倒的な雰囲気に飲み込まれ、予言を告げられた。

 情報を与えられ、どうするべきかを教えられる。それが獅鬼が彼女の駒となった瞬間だった。自分達は彼女を愉しませるための存在だという事は、彼女の性格を考えれば容易に推察する事が出来た。

 それに甘んじるだけに終わりたくはないが、どうにも出来ないのが現実だ。“世界”に属するだけあって所持している情報は自分達にとってとても有意義なものであるのは間違いない。

 そして彼女の正体がなんであるかもわからないのも現実だ。偽りの姿であろう少女の姿で行動しているようだが、あれは恐らく彼女の本来の姿を変化させたものであると獅鬼は推測している。

 つまり黒髪で黒い瞳をした女性が本来の彼女の姿だろう。黒髪は東方人特有の髪の色であり、七禍は東方人ではないだろかと睨んでいる。

 また、よくよく思い返してみればあの姿は……。

 

(“世界”に属する者は時空の制限を受けないと聞く。平行世界を移動できるが故に過去も未来も関係ない存在であるが故に、一つの世界では考えられない事が起こり得る。だから七禍がそうである可能性も否定できない)

 

 それが答えならば、一体彼女はどうして駒扱いして愉しんでいるのだろうか。彼女も例に漏れずに歪んでいるがために出来る事だろうか。そんな思考は意味を成さないだろうが、それでも考えてしまうものだ。

 気がかりなことはこれくらいだろうか。考える事は他にもあるが、今回の事で気になったのはこれくらいだろう。

 

 シュレイド地方は何かと因縁深い場所。これからも闇は増え、それに伴ってかの存在の来襲確率が高くなっていく。

 闇はまだまだ深くなっていく。

 浄化はもはや意味を成さないだろう。浄化してもしきれぬほどの闇がこのシュレイド地方に集中してきている。あの魔法陣が闇を吸収していき、やがてその力を開放させるだろう。

 どうあっても避けられない戦いならば、それを利用してでも終わらせてやるのみ。

 

「その野望を打ち砕く……っ! 思い通りにはさせんぞ――」

 

 重い雰囲気のまま呟いた名前は静かに草原へと消えていく。決意は更に固く、握りしめた拳も強く。

 シュレイド地方はこれから荒れるであろうという予感を感じつつ、草原の赤い影はミナガルデ方面へと消えていった。

 

 

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