ドンドルマ地方およびシュレイド地方を主とするこの中央にて確認された狂化竜について。
各地に派遣したギルドナイトの報告を集計した結果、現在確認された狂化竜の数は三十を超える。
それによれば飛竜種だけでなく鳥竜種、魚竜種、牙獣種、甲殻種も確認済みとの事だ。すなわち中央で確認されるモンスターの種類全てがその狂化竜へと変貌している可能性もある。
ただ我々は完全に後手に回っていることは否めない。
神倉月によれば狂化竜は普段は通常体となんらかわりなく、闇を感じられるものにしか感じ取る事が出来ない。変異すれば明確な差がわかるだろうが、その時には既に被害がどこかで発生していることを意味している。
被害地域は既に五十を超え、死者は千人を下らないと推測される。
魔法使いによれば中央に満ちる闇は日々増加している。
その影響が表れ始めたのだろうか、狂化竜にも少し変化が見られるようになっている。
討伐完了したかと思えばまだ動きだし、ギルドナイトやハンターに襲い掛かったという報告が上がっている。
また一部の体を失ってもすぐに再生されたという報告もある。それは一概に「超再生」と呼称される事象であり、元から回復力が高い種族に見られることだった。
その他も普通はない現象が確認されているため、別紙を参照されたし。
魔法使いによればこの事象はやはり中央に満ちる闇が狂化の種と影響を及ぼしあい、増幅された力がもたらしたものという見解がなされている。
これは狂化竜を生み出した術者があらかじめ狂化の種に仕込んだ術式に条件を組み込んだのか、あるいは闇同士が影響しあって生まれた想定外の事かは不明。
何にせよ、原因は闇の粒子にあるとみて間違いない。
これを回避するにはやはり光魔法による浄化だろうが、我がギルドナイトにこの魔法を扱える術者が少ないために現実的ではないという見解がなされている。
このまま進めば一体どれほどの被害を生み出すのか。
それは火を見るよりも明らかかと思われる。
しかし狂化竜は今もなお存在し、我々よりも早く事を起こしてしまう。先手を取るには狂化竜が人里に現れる前にフィールドで討伐することだが、やはりこれは難しいだろう。
狂化の種を感知できる程の人材を派遣すればいいのだろうが、そんな人物が多くいるはずもない。
しかし何事も行動を起こすべきと考える。
そのような人材が存在すれば、積極的に各地を動いてもらうべきだと思われる。
どうか一考をお願いしたい。
以上
届けられた文書を見たソルは小さく息をついて後ろにいる大長老へと肩越しに振り返る。
現在二人はドンドルマの郊外にいた。この付近が一時的なギルドの本部としてテントが羅列している。その中の一つが大長老が普段滞在しているテントであり、二人はそこで溜まった報告書に目を通している。
ドンドルマは現在も復興中であり、既に壊れた道の修復は完了されていた。次に外壁の修復に取り掛かり、重要施設の修復へと移行していく。
あの日から一か月しか経過していないが、この復興スピードはやはり目を見張るものがある。それは何度も古龍の襲撃にあい、破壊と再生を繰り返してきた歴史があるからだろう。
そんな中でソルと大長老は裏から届けられたギルドナイトの報告書をざっと流し見をしていた。
派遣しているギルドナイトは全て改革派のギルドナイト。保守派はほぼ全滅しているため、機能することは難しい状況にある。中には上の命に逆らえずに保守派に属していたものがいる事が確認され、改革派へと組み込まれたギルドナイトもいるが、多くは保守派に留まっている。
しかしそんな保守派ももはや風前の灯であることは明らかだ。
そうなればドンドルマが復興された後、再び本格的に機能するハンターズギルド内で、保守派は完全に改革派に飲み込まれるだろう。
ゲイルが望んだとおり、ギルドは多くの血を流して生まれ変わる事になる。
古いしがらみもなくなり、家名ではなくその実力で起用されて人が動く組織。埋もれていた才能を発掘すれば、昔と比べてより良い人材がギルドに浸透するだろう。
ずっと閉じられた窓を開け、古くなった空気から新しい空気へと入れ替える時が来たのだ。
それを手放して喜ぶ事は出来ないだろうが、ギルドナイトやドンドルマの人々はこの変化を喜んでいる。この先のギルドナイトがどうなるか、その点の関心も高いようだ。
ソルの後ろにいる大長老は他の報告書を読み進めており、時折小さく頷き「ふむ」と呟いている。
「大長老」
「……なんじゃね?」
報告書から視線を上げてソルを見つめると、手にしている報告書を軽く挙げてソルが言う。
「我々のメンバーのリストは生き残ってましたよね?」
「うむ。重要書類などの一部などは残っておったの。……ふむ、その報告書を見る限り、闇を感知できる者を選別していくつもりかの?」
「はっ。戦える者を派遣しているとはいえ、後手に回っているというのは報告書に書かれる以前よりわかっている事。神倉月のような逸材と言わず、ただ感知する程の感性があればそれでいい。……それだけで狂化竜の出現を先にわかるのですから」
だがこれはただ気配を感じるだけではまだ足りない。狂化竜が持つ冷たい気迫や殺気だけ感じても、感じるものの実力が弱ければただのモンスターと誤認しかねない。
確実性を求めるならば狂化の種から放たれる闇の気配を感じ取る程の感性が必要なのだ。
「私も出ればいいのですが、現状を考えればそれは難しいでしょう」
ソルはドンドルマに留まり、各地から送られてくる報告書に目を通し、ギルドナイト達に指示を出すという仕事もある。実力の高さは折り紙つきだが、その重要な立ち位置のために実戦に出る事が出来ない。
それだけ今のギルドは朝陽達によってかなり不安定な状況になっている。保守派の存在があったからこそある意味バランスが保たれていたといってもいい。
そのバランスが保守派の壊滅によって崩れてしまっている。
「大長老はどうお考えで?」
「…………」
「……大長老?」
どうかしたのだろうか、とソルが大長老へと視線を移す。大長老は書類をじっと見つめたまま何かを考えているようだった。
しばらくそのまま書類を見つめていた大長老は机に書類を置き、どこからか取り出した煙管を取り出して火をつけてゆっくりと吸い込み、天井に向かってゆっくりと吐き出す。ゆらゆらと天井にあたって消えていく煙をしばらく見つめているその様子は、ただ一服するために煙管を出したのではないと、ソルは何となく感じ取った。
気分を落ち着かせる、または自分の中で何かを整理している。
ならば自分はその時を待つことにしよう。
何も言わずソルは大長老の背中をただじっと見つめる事にした。
「……ソル」
「はっ」
口を開いたのは数秒後か、または数分後か。
妙に長い時間だったようにも思えた。
「奴らの目的は我々に狂化竜の存在を認識させ、ハンターズギルドの本拠地であるこのドンドルマを壊滅状態に追い込む。……ほとんどの者はそう考えておるじゃろう」
「はっ、確かに。私はそれだけではない何かがあるようにも思っておりますが、大まかに考えればそれがしっくりくるでしょう」
狂化したリオ系統を集め、さらにラオシャンロンまで呼び寄せる。こうまですればドンドルマを壊滅させるのが狙いだろうというのは容易に推察できる。
世間ではドンドルマとはハンターズギルドの総本山であり、この中央だけでなく世界全土の中で一番ハンターが多く集まる街、という認識が強い。
それはドンドルマが海にも面しており、世界中の主要都市と海路で繋がっているという側面もあるからだろう。この航路があるからこそ中央だけでなく、世界からハンターが集うのだ。
そして世界のギルドの情報は最終的にこのドンドルマへと集められる。モンスターに関する情報も世界各地それぞれであり、地域ごとの図鑑が作られているが、最終的にはドンドルマに届けられて大全が作られるという。
なによりハンターズギルドに所属しているギルドナイトにとってもドンドルマは本部であり、この街に滞在するという事は組織的な意味でも重要なポストに座しているともとれる。
つまりハンターにとっても、ギルドナイトにとってもドンドルマとは色々な要素において重要な街なのだ。
そんな街を壊滅状態に追い込む。
それはハンター達にとって大きな衝撃となるだろう。
古龍襲撃によって何度か街がダメージを受ける事は何度もある。しかし人の手によって、陰謀によって壊滅状態になるのは歴史を振り返ってもほとんどない。
だからこそギルドナイトのほとんどはそんな歴史を塗り替えつつ、自分達の目的を果たす為に、障害となる拠点ドンドルマを壊滅させたのだ、と考えている。
なるほど、それは確かに納得できる理由だろう。
だが大長老はそうではないと考えていた。いや、正しくはそれだけではない、だろうか。
「おかしいと思わぬか、ソル。何故彼らはギルドを完全に壊滅させなかったのか。何故保守派を皆殺しにし、改革派にはあまり手を出さなかったのか」
「……ええ、私もその点が気になっていました」
そう、少し考えればおかしいと考えるだろう。
朝陽達は保守派、特に重要な役職についていた者達は一人残らず皆殺しにしている。逆に改革派はあまり手を出しておらず、被害はほとんど確認されていない。
ゲイルが望んだような結末がそこにあるのだが、朝陽が彼の意をくんで手を下した、と考えるのは少々軽率ではないだろうか。
結果的にはハンターズギルドの二大派閥の一角が崩れたことで現在不安定な状況にあるのだが、それを狙ってやるくらいならば、両派閥もろとも壊滅させた方がいい。
そうすれば狂化竜を倒される事はなく、邪魔をされる確率もぐっと減るはずだ。
なのに保守派だけ壊滅。その意図は一体何なのか。
「ソルはどう考える?」
「…………木を隠すなら森の中」
少し間を置いて紡いだ言葉はことわざの一つだった。その言葉に「ほう」と大長老が呟いた。
「……推測ですが、保守派に消したい人物が存在し、それを隠す為に保守派を皆殺しにした。そうは考えられないでしょうか」
「ふむ。だがそれにしても改革派も纏めてやれば話が早い。儂らの戦力を削ぐ意味でも効率がいいじゃろう。そうは考えられないかの?」
「その点に関しても第二の推測があります」
そう言うソルの眼差しは真剣なものだった。
「確かに大長老の言うようにそうした方が効率がいいでしょう。十人のうち九人、その手段を選びます。……しかし何事にも例外があります。その例外について考えてみました」
「ほう? その例外とは何かの?」
「驕りです」
それは人の中に存在するものの一つ。相手を見下す、あるいは自分が優位になった時に浮かび上がってくる感情だ。大抵の人はそれを上手くあしらう事で状況を変えずに進めるだろうが、中にはこれによって有意であるはずの状況を崩してしまう事もある。
すなわち驕りは油断を生むのだ。
この勝負、自分の勝ちは揺らがない。
思った以上に相手が弱かった。
どうやら今日は調子がいいようだ。
その他色々な状況の中で油断が生まれ、油断した者をあざ笑うかのように流れが変化してしまう。そういった例はどこにでもある事だ。
「改革派も手をかけず、そのまま放置したのはこちらの戦力を残すためでしょう。奴らは自分達の優位は揺らがないと確信し、バランスが崩れた我々など敵ではない、という驕りがあるかと思います」
「ふむ」
「もしかするとこのリスクを背負っている、という事も楽しんでいるのではないでしょうか。ただ優位に立ち続けるというのはつまらない。ならば多少のリスクを背負って事を進めた方がまだマシ。こんな感じでしょうか」
「なるほど、主の言う事もまた一理あるの。じゃが儂もその点について考えておったところじゃ」
煙管を机に置いてある灰皿へと乗せ、大長老は眉に隠れた目を微かに覗かせながらソルを見上げる。
今の大長老はあぐらをかきながら宙に少し浮いている状態だ。普通の人族と変わらない身長へと変化した場合、一般的な老人のような少し小柄な身長になる。
その状態でこの座り方をした場合、高身長であるソルを見上げるかのような状態になってしまうのだ。
「魔法学にはこんな言葉がある。『何かを得るならば、リスクを負った方が得るものが多い』、とな。リスクが少ない状態で魔法を行使して何かを得ようとした場合、その結果は無難なものしかない。じゃが、リスクを負った状態ならば大きな結果が呼び寄せられるという。所謂ハイリスク・ハイリターンじゃな」
「つまり奴らの目的はそれだけのものがある、という事ですね。そのハイリターンを得るために、わざわざ我々を完全に壊滅させなかった、というだけのものが」
「あくまでも推測に過ぎないがの。それにまだ気になる点はあろう」
そう言って大長老は机の上にあった書類の一部を手に取った。
そこにあったのは人物情報だ。それも保守派の重要な役職についていた者達の。
だがその者達の共通点はそれだけではない。
数年前に起こったゲイルの両親に関する事件で、ソルが裏で調べ上げた事で浮かび上がった容疑者たちだ。つまり、暗殺事件に関わっていたと思われる者達である。
「もし主の言うように、始末したい者達がいて、それを悟らせないために先ほど言ったような事も絡めて手を下したというならば、始末したい者達とはこの者達。……主はそう言いたいのか?」
「はっ。どう考えても始末するべき者達は、その者らしか浮かびません」
「つまり主はこうも言いたいわけじゃな?」
そこで一間置き、大長老は告げる。
「かの暗殺では裏で糸を引いていた者が存在し、それが奴らの可能性がある」
その言葉に、ソルはぐっと拳を握りしめ、僅かに歯噛みした後頷いた。
彼にとってあの事件の真相を探る事がこの数年の目的だった。
大事な親友がどうして暗殺されなければならなかったのか。その犯人はいったい誰なのか。どんな意図があって事に及んだのか。
全ての真相を知り、裁きを与える事が二人に対する供養だと考えていたのだ。
その真相の一端が、よもや容疑者として疑った者達がただの捨て駒かもしれない、なんて事が示された今、彼の胸中を図るのは難しいだろう。
彼にとってあの者達が黒幕であり、目の上のたんこぶだった二人を殺すことで保身を図った、という結果ならば全ての証拠を集めた上で怒りを爆発させる事が出来たかもしれない。
しかしそう簡単に終わらせられない真相が闇に隠れていたかもしれない、という現実が表れ始めた。
一体何が真実なのか。
謎という名の闇が、少しずつ晴れるばかりかどんどん疑問という名の闇によって覆い隠されているような感覚に襲われてしまう。
「……ふむ、推測の域を出る事はないが、もしそうならば……ゲイルはやりきれんの」
「……そうですね。もし本当に奴らが裏で糸を引いていたならば、ゲイルはただいいように使われただけに過ぎない上にその復讐心まで利用された、という事に……っ」
親を殺され、復讐心に駆られ、仲間に加わればいいように扱い、必要なくなれば容赦なく切り捨てる。彼の罪は消える事はないが、その境遇は同情せざるを得ない。
だがソルは立場的にもそれを交える事は許されない。その本意はその握りしめられた拳とその背中が語っている。
「ソル」
「はっ」
「あくまでもこれは推察に過ぎない。しかし内容が内容じゃ。故に……わかっておるの?」
「もちろんです。この事は漏らさな――――ん?」
頷いたところでなにかに気づいたように視線を上げ、そのままテントの外へと視線を向ける。誰かがこのテントに近づいてきている気配を感じ取ったのだ。
このテントには内部の音を外部に漏れないようにするための処置が施されており、会話内容は漏れる事がないようにしているのだが、それでも用心するに越したことはなかった。
結界を通過するように細工した大長老も顔を上げ、テントの入口へと声をかけた。
「誰じゃ?」
「お取込み中失礼します。新しい報告書をお届けに上がりました」
「そうか。入るがいい」
大長老がそう言うと、「失礼します」と一声かけギルドナイトの少女が入ってくる。
少し暗い金髪は肩まで自然に伸ばされ、少し凛々しさを感じさせる青い目がじっと大長老を見据えている。左手には件の報告書が纏めて抱えられていた。
纏っているのはギルドナイトシリーズ。装備するのは下位に属するギルドナイトが主であり、ギルドに入りたてのギルドナイトや、戦闘員以外の者達が装備している。
どこにでもいるような無難な容姿をしているが、ギルドナイトというだけあって鍛えられている事がわかるものにはわかる。
「こちらになります」
そっと丁寧に報告書が大長老に差し出され、大長老はそれを静かに受け取った。渡すものを渡せば彼女の用事はそれで終わりだ。ここに残る意味がないため彼女はまた丁寧に頭を下げ、「失礼しました」と告げてテントを静かに去って行った。
その姿が消え、しばらく外の気配を探り続けていたソルは、完全に気配が遠のいたのを確認して声を潜めて大長老へと視線を向けた。
「……気づかれましたか?」
「いや、心配ないじゃろう。張っているセンサーに異常はないようじゃ。……じゃが用心するに越したことはないのも確かじゃの。……誰かある」
一時的に結界を消して外へと呼びかけるかのように告げれば、少しして一人のギルドナイトが入ってきた。
「お呼びでしょうか、大長老」
「うむ、配置をBからDへと変更せよ。特に先ほどの者は数人付けて目を光らせよ」
「……はっ」
一礼してテントを去ると、周囲を警護していたギルドナイト達がそれぞれ移動して警戒態勢を変更した。それを感じながら大長老は一息つく。
何度も言ったように現在ギルドは壊滅状態。それが意味するところはギルドに入り込み、今のギルドの状況を探る事も可能だという事でもあるのだ。
すなわちスパイが入り込んでいる可能性を危惧しての厳戒態勢。もしかすると既に手遅れかもしれないが、それでも守りは固めておくべきだろう。
その為日々この周囲だけでなく、ギルドナイトが利用しているテント一帯は常に目を怒らせている。警戒をさらに深め、特定の人物に対しても目を光らせる。それが配置D。
また二人はスパイが入り込んでいるかもしれない、という事に関してはほぼ黒であると睨んでいる。それは暗殺の件もそうだが、何かと穴をすり抜けて情報を奪われているような気がしてならないのだ。
そして何より何者かの視線を感じるようにも思える。それがスパイの視線ではないかと思っているが、これはドンドルマの一件の前からも感じていたことだ。
以上の二つの事はドンドルマだけでなく、ミナガルデをはじめとするシュレイド地方にもみられたことらしい。これらの報告から判断したことは、全ては奴らの掌の上で踊らされていたということになる。
穴だらけの組織ほど壊滅させやすいものはない。保守派の壊滅は起こるべくして起こったものかもしれない。
こうして壊滅状態になった今、ギルドはどう動くのか。次に得たい情報はこの一点だろう。
「どう見ますか、大長老」
「……あの娘かの? 儂の目には怪しい事は何もなかったが、ソルどうかの?」
「……私の目にも怪しい事は何もなかったですが……それでも」
「うむ、わかっているとも。現在我らの状況は非常に危うい。故にソルの言うように警戒を深めるべきだということはの」
頷きながら先ほど届けられた報告書を手にして軽く目を通す。
すると大長老の眉が微かに動き、纏う雰囲気が少しずつ変化していった。それに気づいたソルは訝しんで首をかしげた。
「大長老?」
「…………」
大長老は最後のページまで目を通すと、何も言わずにそれをソルへと差し出した。見ればわかる、という事なのだろう。ソルも何も言わずにそれを受け取って目を通してみた。
そこにはこう書かれていた。
中央の闇の比率について。
この中央に充満する闇は狂化竜が死んだ際にまき散らされる闇、人の負の感情から生み出される闇、死んでいく命からもたらされている。
狂化竜は狂化の種という闇の核を埋め込まれ、それによって各地で暴走している。命を狩り、食らう事でその闇が少しずつ濃度を増していく。
狂化竜の命が消えた際、闇の核は狂化竜の体を出て世界に顕現する。その後世界に闇の核に溜めこまれた闇が溶けていき、これによって中央に充満する闇が増していく。
濃度は狂化竜ごとに様々であり、今まで討伐された狂化竜からもたらされた闇を見た限りでは多いものから少ないものまで確認された。
狂化竜を倒せば被害拡大が防げるが、同時に彼らが望む闇の増加を促進される結果となる。狂化竜からもたらされる闇は全体の50%と推察する。
次に人の負の感情から生み出される闇。
負の感情は悲しみ、怒り、絶望などを指すものであり、この中央の人々は負の感情を高め続けていることは容易に推察できる。
狂化竜という存在は人に不安を与え続ける。いつ自分の住んでいる所に襲撃が来るのだろうか、という不安は身を削る思いだろう。
仮に襲撃された場合は恐れが生まれる。次に住処が奪われ、破壊されていくという悲しみ、怒りが生まれてくる。最後に人が死に、逃げられない、死んでしまうという現実を前に絶望が生まれる。
このサイクルが少しずつ闇を生み出していく。
襲撃された場所だけでなく、まだ何もない場所からでも闇が生まれる。つまりこの中央に住まう人々から闇が生まれる。その濃度は狂化竜に迫るものだろう。
これからもたらされる闇は30%~40%と推察する。
最後に人の死によって生まれる闇。
これに関しては現在も増加の一途をたどる被害によって増え続けると思われる。
命が無残に散らされればその人物の思念が残留する事は一説にある通り。それが現世に未練ある魂ならばなおさらであろう。狂化竜によって強引に奪われた命から生み出される思念はほぼ負の色に染まっている。つまりこれもまた闇の一種であると仮定できる。
犠牲者は千人を下らず、まだまだ増加するだろう。
これからもたらされる闇は10%~20%と推察する。
前述のとおり闇は増加の一途を辿っている。彼らの目的はこの闇を増加させる事で自らを強化させる事だという事が神倉月から確認されている。
つまり彼らもまた中央に充満している闇の一角とも考えられる。とはいえ全体の数%でしかないだろうが、それでも彼らの闇は少しずつ増えていくことだろう。
彼らは自身を強化させて何をしようとしているのか。そこに疑問を感じる事だと思う。
世界の闇を見つめた私はある事に気づいた。
まるでどこかを目指すかのように闇の粒子が移動しているように見えたのだ。そこでその動きを見つめる事にした。
そうして見えたパターンは二つある事のがわかった。
一つはまるで一つの力に導かれるかのように向かっていた。その方向は日毎に変わってはいるものの、一つの力に導かれるというものは変わらなかった。
恐らくこれは彼らの一人に向かって闇が動いているパターンだろう。これが敵を強化させる力の源になっていると推察する。
もう一つは一つの方向へと変わらずに向かい続けていた。日が変わろうとも、僅かな量で向かい続けている。
調べてみればシュレイド地方を目指していることが分かった。最終到達地点は細工してあるのか把握することは不可能だったが、これによって少しずつシュレイド地方は他の地域と比べて闇の力が強い。
だが一定の量を超えないように細工しており、これに気づくのに数日かかってしまった。
これが意味することはなんなのか。
彼らはただ自身を強化させるのが目的なのか。それともシュレイド地方に何かがあるのか。
残念ながらこれは私にはわからない。
ここまで読んだソルの表情は先ほど以上に固い表情をしている。やはり内容が内容だけな事だけはある。
しかも後半部分は闇に対処するための推察が書かれているが、内容からして推察ではなく確信を衝いたかのような記述だった。
書いたのは一体誰なのだろうか。闇についてここまで記述されているのは只者ではないという事を示している。改革派に誰か優秀な魔法使いを各地に派遣していただろうか。
そんな事を考えながら最後の記入者の所を見てみる。
だがそこには何も書かれていない。全てにわたって闇について書かれるだけで報告者の名前がないのだ。
「…………大長老」
「うむ、既に命を下したところだ」
書いたのは提出してきたあのギルドナイトの少女。
一体どういうつもりなのかはわからないが、自分達が知りたい情報を教えるだけ教えて雲隠れするつもりなのだろう。そうなる前に捕まえ、知っている情報をこれ以上に引き出さなければ。
あちこちにギルドナイト達が走り回る中、一人の少女が悠々と歩いている。
それは先ほど大長老に闇についての報告書を提出した少女だ。現在大長老の命でこの少女を捜索させているというのに、彼女はそのギルドナイトの傍を平気な顔で通り過ぎているのだ。
まるでそこに誰もいないかのよう。
例えるならば道端に転がる小石。人はそこそこの大きさの石ならばそれに足を取られないように意識を向けるだろうが、そうならないほど小さい石ならば意識を向ける事はない。
それだけ目的の人物である少女に意識を向ける事がない。
――否、向けさせられていない。
「いたか?」
「いや、見当たらない。まさかもう抜けたとでも……?」
「それはないだろう。走ったとしてもここでそんな奴がいたら誰かが見ているはず。そんな報告は聞いていない」
「……じゃあやっぱりここにいるという事になるのか……。よし、今度はあっちにいってみよう」
二人のギルドナイトは最後まですぐそこにいる少女に気づくことなく走り去って行ってしまった。その様子を見て少女はうっすらと笑みを浮かべる。
「……ふっ、ここまで嵌るのを眺めるのも飽いてしまったのう」
そんな事を呟きながら歩き始めた。
「手配の早さは流石といったところではあるが、いかんせん駒がその方面に慣れていないのが問題よのう。……くっふふふ、だが種族的な問題が関係しているのは仕方ないかの」
やがてギルドナイト達が滞在しているテント群を抜けると、少女の姿が変化していく。
肩まで伸びた金髪はそのまま腰まで届く長髪に。その瞳は青から緑へと変化し、なおも凛々しさを残したままだった。身長も少しだけ伸び、外見は少女から20代の女性を思わせる姿となった。
まるでどこかの誰かが成長すればそうなるのではないかと思えるその姿。
身を包むギルドナイトの制服はよく見かけられる女の旅人のような服装へと切り替わった。動きやすそう黒いシャツに新緑色のズボン、身を纏うのは暗い茶色の外套だ。
しかしそれでもこの近辺ならばその出で立ちは不審だ。ここはまだドンドルマの辺境にあたる。だからこそ旅人の格好をしていては目立つ。旅人はドンドルマの人々が集まるテント群ならばよく見かけられる。
ドンドルマに暮らしている家族や知り合いに会いに来た、食料など必要なものを届けに来るなどで訪れるのだ。
そんな場所ならまだしも、ここでうろつくなら目立ちすぎてしまう。
だがそんなことはこの少女には関係はない。
「さて、闇についての情報は与えたが、それを有効活用するかどうか。それが問題ではあるが、さてあ奴らはどうなるかの」
くくく、と低く笑いつつ向かう先はドンドルマの人々のテント群ではなかった。更に辺境へと向かい、ドンドルマの領域から完全に外れていく。
やがてたどり着いたのはドンドルマから外れ、タイタン砂漠方面の丘。
少女は背後を振り返り、今は遠く存在しているドンドルマを眺める。その姿は相変わらず偽りの姿。偽り続ける事こそ彼女らしい。
「果たしてこのギルドナイト達であの情報をうまく扱えるのか、今までにない隠れた逸材が見つかれば面白くはなるが、その確率は低いか。それでもかき乱したくなるのがゲームというものよな。面白味のないゲームなど、児戯にもならぬからの」
浮かべた笑みはどこか楽しそうで、それでいて相変わらず冷たさも感じさせる。いつものように白い毛を使用した扇をどこからか取り出すとあおぎはじめ、一息ついて視線をドンドルマから右へと動かした。
「
「……その意見には同意するけど、どういうつもり? ここにきてまた弄るなんて」
そこには誰もいなかったはずなのに、どこから現れたのかもう一人の少女がそこにいた。
背中近くまで伸ばされた黒い髪に、闇のように深い漆黒の瞳。肩を露出した薄い紺色の和服を藍色の帯で締め、その上に白い紋様が描かれた黒い羽織を着こなしている。腰からなびくのは同じく黒いスカートのような布。それが白い帯で締められている。
和装のようだが一風変わった和装だ。だがこれが彼女にとっての私服。隣にいる少女にとっては見慣れた服装なので何も言わない。ただ笑みを浮かべて歓迎するのみ。
「なに、このまま進めるというのも面白くあるまい? 我主にもわかるであろう? 闇はあの者らの思惑通り順調に高まりつつある。一方我主の駒らはまだまだ甘いところがある。この盤面はどう思考しようとも、あの者らの準備が完了、あるいはその気になればすぐに駒らの敗北よ」
笑みを浮かべたままそう語る少女の弁は真実といえる。昴達も頑張ってはいるものの、状況はあまりよろしくない。狂化竜の数こそ減らし続けているが、それでも彼らの目的は悪化しているわけではない。例え倒されても闇をばらまくため、天秤は彼らへと傾き続けるだけだ。
昴達へと傾かせたければ闇を減らし、なおかつ昴達が強くなるしかない。
後者に関しては少しずつ成長している事は間違いない。経験を積んで自身を磨けばいいのだから。
だが前者は難しい。光魔法を扱える魔法使いの絶対数が少ないため、どうにもならない。
故に闇が増えてもなお彼らに勝利するための方法を模索するしかない。
「それが奴らを倒す、または殺すという事。そうであろう?」
「そうね。とはいえ実力差がある上に、巧妙に自身の存在を隠しながら移動している。姿を現したとしてもそれはただのハンターやギルドナイト。あれらはただの生贄でしかないからどうでもいいわね」
「然り。駒以外のヒトなどただの生贄。気にするような存在ではないのう。だがあれらとてまた命の一つ。それが無残に消えれば少量の闇が生まれるというもの。塵も積もれば何とやら……くっふふふ、最終的にはあの者らの思惑通りというものよ」
内容こそ普通じゃないが、二人は相変わらずいつもと変わらない調子で話し続けている。見据えているのはあくまでも二人にとって重要な陣営の主要人物のみ。それ以外はあたかも野に生える雑草のようなもの。
雑草など抜いても抜いてもいずれは生えてくるものだ。そして普段は気にするような存在でもない。そんな雑草と一般人を同一視してしまっている。
彼女たちにとって命とはそれほどまでに安いものだ。目をつけているものは駒として扱い、それ以外は雑草として扱う。そう考えてしまうほどに歪んでいる。
「だからギルド側に少し手を貸したと?」
「貸したのではない。少々ヒントを与えただけに過ぎない。あの小僧らが成長するのを待つのも飽いた。だから此方はギルドに少し刺激を与えただけよ」
「…………飽いた、ねえ。自分も駒の一つとしているくせによく言うわね」
菜乃葉と違い、この少女はゲームの参加者でありながら、自分自身をこの世界の人物として振る舞っている。しかもその人物は今回の一件に関わる人物だ。関わっているならば二人にとっての駒であり、だからこそ菜乃葉は駒の一つと称している。
下準備をするだけしておき、後はどうなるかを傍観するのが菜乃葉のやり方だ。この少女のように自分も参戦してゲームを楽しむことはしない。あくまでもゲーム盤に降りるのは下準備をするだけだ。
手を加えるのは最低限の事。そこから先は運命やその時の流れの変化で変わっていくのを眺めれば楽しめる。自身が望む結果を確定させるために、駒に指針を必要以上に示せばその変化があまり起こらなくなるから面白くない。
だがこの少女は菜乃葉とは正反対だ。望む結果を確定させるように仕向けたり、片方の陣営に優勢状況を感じ始めると、天秤を揃えるためにもう一つの陣営へと何かを与えようとする。
それでも思い通りの結果にならなかったとしても実に面白い、と本人は満足するのだが菜乃葉はそれが少々気に食わなかった。
菜乃葉は考える。
果たして少女の仕込みは今まで自分が知っているものだけなのかと。
この少女は種族的な特徴として幻影と変化を得意としている。それを用いて人を欺くことに関しては菜乃葉を超えている。それは時に同じ“世界”の域に達している菜乃葉ですら欺いてしまうほどのレベルだ。
そんな経験があるからこそ菜乃葉はこの少女を疑っている。今回も自分を欺き、何かを隠している、という可能性を否定できないからだ。
「どうかしたかの?」
「……なんでもないわよ」
そっけなく言うとそのままどこかへと消えていく。それはまるで霧のような消滅。最初からそこになにもなかったかのように何もかもが消えている。その様子を見つめる少女は目を細めて薄く笑うのみ。ゆっくりと扇をあおぎながらただ吹き抜ける風に身を任せている。
やがて少女は小さく呟いた。
「……気づかれたかの」
あの様子は間違いなく何かを疑っていたと少女は気づいていた。伊達に菜乃葉と数百年以上の付き合いをしているわけじゃない。友人という関係では収まらない間柄をしているが、少女は菜乃葉の事を嫌っているわけではない。
そして長い付き合いだからこそわかってくるものがある。しかも自分達は何度もこんな風にゲームを行ってきている。だからお互いどんな時に感情が揺れるのか、表情に僅かな変化を見せるのか。
人族からすれば気の遠くなるような時間を共有したことがあるため、少女は菜乃葉の特徴を十分に把握している。言い換えれば菜乃葉からしても同じ事だという意味合いがある。
彼女もまたこの少女の事を十分に把握している。そのため少女何を考えているのか、どういう感情をその顔の奥に秘めているのか。それを察する事が出来る事が可能なのだ。
これは少女の思考パターンも含まれている。一体彼女が何を考えているのか、何をしようとしているのか。それを少なからず読み取る事が出来ている。
だからこそ少女が裏で何をしていたのか、菜乃葉は感づいたのかもしれないと少女は考えた。
「……まあ、だからといってこのゲーム盤ではもはや変わる事はないのだがのう。とはいえ気づいたら気づいたとして、菜乃葉ならばどう動くか」
あおぐ手を止めてしばらく思考してみる。
菜乃葉のやり方はあくまでも傍観だ。
盤面全体を見回し、使用する駒を定める。下準備として駒に情報を与え、ある方向へと進むように仕向けたりなどすることである程度の運命を定めてやり、後は駒が勝手に動くのを眺めるだけ。
それを幾多の平行世界で試行をすることで一定の確率を見極めつつ、幾多のパターンを把握してから本番へと移る。
相手の打ち方も把握しつつ、どういうやり方で目的を達成させようとするのかも思考するのも特徴だ。今回のゲームに関しては自分の目的は大まかに把握されているだろう。
最終的にはそこに到達させるのが少女の目的だが、この駒達の戦い自体も楽しんでいる。更に自分が楽しめるようにちょっかいだすのが曲者なのだが、菜乃葉にとっては自分の読みが狂うため少女のやり方は色んな意味で嫌っている。
逆に少女にとっても色々な手を駆使して指していくのだが、過去のゲームにおいて最終的には自分のうち筋を読まれてしまい、押し負けてしまったことも何度かある。それだけ菜乃葉は相手のやり方を読み取り、自分がどう動けばいいのかを頭の中で計算する事が出来るのだ。
これは世界のゲームだけでなく、普通のボードゲームをやる際でも同じようなものだった。チェス然り将棋然り囲碁然り……人族が遊ぶゲームは二人で何度もやったものだ。
だからこそお互いに考えられる。読み合いが出来る。
さっきまでの笑みはそこにはない。真剣そのものの表情で少女は菜乃葉の動きを考えていた。
やがて……
「……それしかないかの。くっふふふ、となるとようやく知られることになるか。今回は思ったよりも長かったかの」
またしても冷たい笑みが浮かんでくる。
自らが得意としているやり方で陰で仕込んでいた事。それを知った時菜乃葉がどんな反応を見せてくれるのだろうか。それを想像するだけで胸が高鳴るというもの。
「……そういえばあの神倉の者も面白くなってきておったのう」
今思い出したように少女は呟いた。今頃ミナガルデ近くにいるであろう神倉獅鬼の事である。
彼は最近面白い事が起きたな、と少女は笑みを浮かべた。
「くっふふふ、此方の存在は感づいておるようだが見つかりはしないか。見つかったら見つかったで面白いが、残念ながらそうなると予定が狂うというものよ」
獅鬼が感じていた視線の主はどうやらこの少女だったらしい。一体どこから見ているのかは不明だが、シュレイド地方にいるならば目標を定めればいつでもどこでも目を光らせる事が出来るようだ。
というより“世界”に属している事もあり、世界の狭間に居座ればこの世界全体を見渡すことが可能である。一つの世界の中に存在していれば少しその気になるだけで自分が滞在している地方に意識を飛ばし、対象の全方向からその行動の全てを盗み見る事が可能だ。
少女の本拠地である華国も同様であり、あちらならば地方云々以前に国全体を見渡すことが可能となっている。尤も華国では監視よりも自らの行動を隠し、他人全てを欺く事が本領なのだが。
そんな彼女はもちろん視線の事もその気になれば獅鬼に悟られる事はない。だというのに悟られているのはやはり彼女が遊び心を持っているからだ。わざわざ気づかれるようにしている。しかしその正体はばらさない。
「アルテミスの正体に気づいたようだしのう。あの男ならば他の者にそうそう口にすることはないだろうし、心配することはあるまい」
菜乃葉の事もあるから喋る事はないだろうと少女は推測した。口の堅さは一級品だろう。故にアルテの正体は獅鬼の胸の中に秘められるに違いない。
アルテの事に関してはまだ秘められるべきだと少女は考えている。彼女にとってアルテもまた駒であり、ある意味一種の切り札かもしれない。眠っている実力もそうだが、彼女の血統は衝撃をもたらす。知られざる秘密を公開するのはまだまだ先だ。
故に切り札。
このカードは切るべき時に切らなければならない。
「アルテミス……ふっ、何度見ても純粋な娘よな。……本当に、どこまでも白い娘よ」
呟く少女の雰囲気は先ほどまでとは随分と変わっているように思える。いつもならば冷たさを感じさせる瞳をし、冷える空気を纏い、笑みを浮かべているのだが、今はそれがなくなっている。
どこか穏やかな雰囲気が少しずつ感じられるようになっているのだ。眼差しはまるで親しい相手に向けるような、あるいは家族に向けるような、そんな色合いを含んでいる。
一体どうしてそんな雰囲気を見せるのだろうか。それを知る者は菜乃葉以外誰もいない。
(目的を遂行する点に関してはそれで問題ないのだがのう。しかし、やはり複雑ではある。それが平行世界というものだとわかっていても、な。……ふふ、此方もまだヒトの心が残っておるということかの。……いや、そもそもヒトと呼べるのか、曖昧な存在ではあったか)
くふふ、と低く笑いながら今度は自嘲じみた雰囲気が漂ってきた。一体彼女の中で何が起こっているのだろうか。ふぅ、とため息をつく姿はまるで愁いを帯びた女性のようだ。
しかしながら彼女はそんな大人びた様子はあまり似合わない。いつの間にかその姿は菜乃葉の前などで見せた白髪、赤目の少女へと変化していた。あたかも東方の古き時代の城にいる幼い姫君のような外見をしており、外見年齢に合わぬ雰囲気を見せるミスマッチさがそこに存在している。
だがそれも少しの間だけ。すぐにいつもの調子を取り戻し、羽扇を静かにあおぎ始めた。
アルテに関してはほとんど揺らぐことはないだろう。取り巻く人物らも問題はなく、このまま事態が進もうとも大きな変化がなければ見据えたとおりの結末を迎えそうだ。
「何はともあれ見守る事にしようかの。これからが実に楽しみではあるからな。菜乃葉の駒も、あの者らも……くっふふふ」
笑みを浮かべながら呟くと少女は一度扇を横へと薙いだ。その軌跡に従って風が発生し、少女を取り巻くようにうねりだす。数秒もすれば風は何事もなかったかのように消え去り、少女の姿もまた消えている。
世界は静けさを取り戻し、傍観者たちはそれぞれの場所へと戻っていくのだった。
一方ソルらがいるテントにて、静かに衝撃が走りぬけていた。ギルドナイトの報告で先ほどの少女はもはや発見できないと告げられた。すぐに出入りする場所を封鎖し、虫一匹逃さぬという態勢を取って捜索したものの、少女はまるで煙のように消えていたという。
それに関してソルと大長老は特に何も言わず、配置を再びBへと戻すことで事を終わらせた。
何となくそんな気がしていたのだ。あの少女は只者ではない。スパイかどうかなんて問題じゃない、こんなところまで潜りこんでくるなんてその時点で普通じゃないのだから。
そう考えつつソルは改めて先ほど少女が提出してきた報告書に目を通してみる。
中断したところから下を読み上げてみると、ソルの眼差しが見る見るうちに変化していくのがわかった。
最後に読んだのが「残念ながらこれは私にはわからない」で締めくくられ、以下は少し空白が続いていたのだ。だからソルはここで一旦読むのを停止した。
その空白を経て次のページに切り替わり、そのページの最後に記入者の欄が存在している。
だがそのページもまた最初の方がほぼ空白だったのだ。だいたい真ん中の辺りからまた記述が書かれてあり、そこにはこうあった。
なんて書けば報告書らしくはあったかの?
残念ながら私は報告書なんてものをあまり書いたことがないのでな、それらしく闇についてこうして情報を書かせてもらった。
とはいえ一応、私はこのギルドの末端に所属させてもらってはいるが、果たして私が一体誰なのか貴様たちにはわかるかの?
そして貴様たちでこの闇をどうにか出来るのかの?
それは否。出来るはずもない。
中央を覆いつつある闇は前述のとおりまだまだ増え続ける。最早浄化などという手段は無意味である。故に光魔法を行使できる術者を用意しようなんて考えは捨てるべきだ。
では一体どうすればいいのか。
そんな事は貴様たちで考えろ。
そして見せてもらおう。貴様たちが一体どうやってこの一件に立ち向かうのか。ヒトがどこまで戦えるのか。
私はそれが楽しみで仕方がない。
私が誰か知りたいか?
残念ながらそれもまた無意味な事。貴様たちで私の正体に辿り着けるはずもなし。
貴様たちはただ私を愉しませればいい。
これを読んだそこの主。
間違える事なかれ。
貴様のやるべき事を間違えれば、一つの道が閉ざされることとなる。
幾多の選択肢の数だけ未来はある。だがそれは必ずしも良い未来とは限らぬのだから。
幾多の道が交わり、その果てにある結末が良いものであれば貴様たちは満足するだろう。そして私も満足するだろう。
仮に悪しきものならば貴様たちは満足しないが、私はそれでも満足するだろう。滑稽な遊戯であったと。
せいぜいあがき続ければよい。その果てに勝利を掴めれば、なるほどそれはヒトの可能性をまた一つ証明したことになる。私はその結果にもまた満足するとしよう。
貴様たちの辿る道は果たしてどうなるのか。
見届けさせてもらうとしよう。
報告書を握りしめる手は強く握りしめられるだけでなく、ソルの感情を表すかのように震えていた。前のページとは人が変わったようにまるで上から目線で書かれたその内容。
怒りと屈辱を覚えずにはいられない。
一体どこのどいつだろうか、あの少女は。捕まえて知っている事と少女について全て吐かせてやりたい気分だった。
しかし大長老の手前そんな風に感情を爆発させるわけにもいかないため、それを何とかしてぐっとこらえる。感情の制御も出来ないようでは一人前とは言えないのだから。
「大長老……この少女、何者なのですか? ギルドの中に既に所属していると書かれてありますが」
「……む? どういうことかの?」
「? こちらに……」
大長老の反応を訝しみつつも、そのページの記述を示しながら大長老へと近づいた。そこを大長老が覗き込むと、小さく「ふむ……」と呟いたような気がした。
「先ほどはこのような記述はなかったはずじゃが、はて……」
ソルから報告書を受け取り、改めて大長老はソルが心を震わせた記述に目を通していく。少しして読み終えた大長老は軽くあご髭を撫でつつ小さく唸った。
大長老の中でも色々と心の揺れが起きているのかもしれない。しかし唸ったことは唸ったが、表情的にはあまり変化がない当たりさすがというべきか。長く生きているだけあってこういう事にも慣れているのかもしれない。
「……恐らくあらかじめ何らかの術式が施されていたんじゃろうな。然るべき時にこの記述が浮かび上がるように設定しておった。故に儂が最初に目を通したときには何も書かれておらんかったんじゃろう。紐をとけば何とも単純な事よ」
「こういう書き方をするような存在に心当たりは?」
「……ふむ、推測ではあるが」
報告書を机に置き、一息挟んで大長老は説明を始める。
「記述の内容からして、かの少女は長く生きた何者かである事は容易にわかるじゃろう。問題は竜人族か魔族かと考えるじゃろうが、儂はまた別の何者かと考えておる」
「といいますと?」
「ソルはこんな伝承を知っておるかの? 世界には種族の枠を超え、更なる力を手にした存在がいるということを。それは人間でも竜人族でも魔族でもない存在となる、ということを」
それを聞いたソルは一瞬呆けたような顔をしてしまったが、大長老は至って真面目な雰囲気だったためにすぐに顔を引き締める。だが大長老の目はソルの微細な変化を見逃さず、小さく苦笑を漏らした。
「信じられんのも無理はないかの。何せこの事は人族にはあまり知られない情報故な。じゃがそういう存在は確実に存在しておる。枠を超えた者は総じて表世界から消えるのがほとんどじゃが、稀に表世界に残って名が売れた事があるらしいのう」
「なるほど……。それで、枠を超えるとはいったいどういうことなのでしょう? その辺りが残念ながらよくわかりにくいのですが」
「そうじゃのう……儂もその事に関してはよくわからんのじゃが、なんでもその種族の制限から解放される、ということらしいの。一つ挙げるならば寿命から解放されるという話じゃ」
「寿命、ですと……っ!?」
人族の寿命は百年と言われる。竜人族や魔族は数百年を生きるが、人族だけは百年生きればいいほうだというのはこの世の常識だ。
大長老の言葉が真実ならば、その常識を打ち破る法則がこの世界に存在しているという事になる。
不老不死は誰もが夢見る事だが、それに辿り着くための魔法や物はほとんど解明されていないのが現実だ。妙薬だとか食材だとかで不老不死がまことしやかに囁かれるも、最終的にはそれを口にしたものは死んでいる。しかし以前に比べて若く見えたりしている事から、それなりの効果があったという実績を残して終わっている。
だが大長老の話は辿り着くだけでその法則から解放されるという。
その事に衝撃を覚えずにいられないわけがない。それは生きるもの全ての夢であり、誰もが一度は考える事なのだから。
ソルの中で何かが揺らめき始めるも、それを気力で制御する。
「辿り着く方法は儂にはわからぬが、そんな話が存在することは間違いない。辿り着いた者ものう。その者らは総じて高みに位置するが故に儂らを見下す傾向にあるようじゃ。……そう、この記述のようにな」
とんとん、とその記述を右人差し指で軽く叩き、うっすらと笑みを浮かべている。
だがそれだけでそんな域に達している者がこれを書いたと判断するにしては、材料が足りないのではないだろうか。
そんな事を考えていたソルだが、大長老が叩いていた指をある一点を示したため、そこを見てみる事にした。
「ここに『ヒト』と書いてあるじゃろう。儂らは『人』と書くがここには『ヒト』と書いてある。些細な違いじゃがこれには意味があるのじゃよ」
「……それはどのような?」
「彼らは儂らの人族を一括りにしておっての、種族の差などあまり気にせず全てを纏めて『ヒト』と呼ぶらしい。何せ自分自身が種族の枠を逸脱しているのじゃからのう。それ以外に『ヒト』を使う者なんておらぬじゃろう。……故に儂は種族の枠を超えた者ではないかと推測したのじゃよ」
また見下すだけでなく自分達をあたかも自分が楽しむための存在として見ている。普通の人らがそんな風に他の人たちを見るなんてことはめったにない。もしかすると特殊な人物ならば有り得る事だが、こんな中央全土を巻き込むほどの事態になってまでそんな風に見る事はあり得ないだろう。
他にも気になる点はあるが以上の点から大長老はそう判断した。
「……大長老」
「なにかの?」
「まさかとは思いますが、此度の事件は裏にその枠を外れた存在が糸を引いている、なんて事もあり得るのでしょうか?」
「……否定する要因は見当たらないのう。裏にいるのかいないのかの議論は悪魔の証明じゃからの。故にその可能性はあるの」
更に言えば枠を外れた存在がいるかいないかも悪魔の証明になりえる。だからその可能性も視野に入れれば何かが見えそうではある。しかし闇の件と同じく情報がほとんどないために推察するのが難しいのは間違いない。
だが新たな可能性が浮上した今、これからどうするべきかを改めて考えなくてはならない。彼女が書いたようにやるべき事を間違えるわけにはいかない。
対処する問題をきちんと見据えて行動しなければ、それこそ間違えた道を辿っていることになってしまう。そう判断した大長老は部隊の情報を纏めた書類を引き出しから取り出した。
「今はあの娘の事は頭に置いておくとして、方針を見直すことにしようかの」
「はっ」
二人は書類に目を通し、自分達に出来る事を模索し始める。
光魔法を行使できる術者探しはもう必要ない。彼女にこうして書かれるまでもなく、心のどこかではもうそんな事をしても無駄だろうという気はしていた。
それでも可能性があるならば行動するべきだと思ってはいたが、大長老の言う枠を超えた者が無意味だと言うのならば、本当に無意味かもしれないと思い始めた。大長老もそれに異を唱える事もなく、浄化に関しては除外することとなった。
戦い続ける。
朝陽達の捜索。
朝陽達を捕え、闇について全て吐かせる。
これらを目安に行動した方がいいだろう。捜索隊を増やし、朝陽達を発見するのも良し。彼女らは今も中央のどこかで行動しているはずだ。
(我々を自分が楽しむための存在として見続けるならば……いいだろう、貴様の言うように存分にあがき続けてやろうではないか。どこの誰かは知らないが、貴様も元は人族の誰かだったろうに。……知っていたはずだ、人の可能性というものを)
今度は心の中にだけ留めておき、表面上に表さずに済んだ。彼の心の中では舐められた屈辱と怒りが混ざり合ってマグマのように煮えたぎっている。刺激を受ければ爆発しそうな気配を残しながらも、彼はただ静かにそれを抑え込んで書類に目を通していた。
(貴様もまた驕っているんだろうな。人に秘められた無限の可能性の怖さを忘れている。人は侮れない。危機状態に陥れば陥る程人は何かを起こす。それを鑑賞して楽しむんだろうが、もしかするとそれによって何かが変わる可能性も否定できない。……さて、人の抵抗によって見たい展開を変えられたらどうするのかね?)
運命とは何が起こるかわからないもの。だからそんな可能性もあるのだとソルは考えた。この中央には数は減ったとはいえ、多くのハンター達とギルドナイト達が存在している。人の数だけ分かれ道が存在し、それだけ何が起こるか分からなくさせているのだ。
また起こりうる大きな現実を前に数だけ揃えても実力が伴っていないかもしれないが、それでも何かが起こらないということを否定する要素にはならない。
ソルは信じているのだ。
きっと何かが起こるという事を。
これほどまでの危機状況が迫りくる現実の中でも自分の部下たち、そしてハンター達を信じている。
(負けはせんぞ。負けてなるものか……っ! 人を……舐めるなっ!)
彼もまた高めた怒りを決意へと変え、必ず勝つと誓いを立てる。
真実の究明と人の意地を見せる。
ソルの行動の指針は新たに追加された。