目が覚めたシアンが見えたのは円形に空いた青空だった。奇妙な空の見え方だが、それは周りが空を覆い隠そうという程に生え揃っている木々があるからだろう。
ここは森の中に出来た天然の広場だった。恐らく森に住まうモンスター達がよく訪れているのではないだろうか。草の絨毯が敷かれたかのように思えるほどこのエリアは少し広々とした一角だ。
そんな所に寝かされているシアンは一体何があったんだろうかと思いながらゆっくりと体を起こした。その際左の横っ腹に鈍い痛みが走る。
「……っ」
思わずそこに手を当ててみて気づいた。自分は今インナー姿になっているではないか。身につけていたはずのレイアシリーズは近くの木に置かれており、ヒプノックの攻撃を受けた所は包帯が巻かれていた。
回復薬を染み込ませた布が当てられているのだろう。傷口の周囲は少し盛り上がっていた。ライムの手際の良さはわかっているため、シアンは手当てに関しては特に問題ないだろうと考えた。
では何が問題なんだろうかというと、自分達は今回二人でクエストを行っている。そして今のシアンの姿はインナーのみ。となれば、レイアシリーズを脱がせたのは誰だろうと考えれば、ライムしかいないという答えにたどり着く。
「――――っ」
あの純情なライムが気絶している自分を寝かせ、レイアシリーズを脱がせていったのを想像すれば、年頃のシアンは少し頬を赤らめるしかなかった。たぶんライムも顔を赤くしながら脱がせていったんだろう。そんな光景が容易に想像できる。
でもレイアシリーズがあるとはいえ、無防備な所にヒプノックの蹴りが入ったのだ。装備を貫通する衝撃がシアンの体に届いてしまっているためダメージは大きかった。
「レイアメイルは……大丈夫かな」
何とか立ち上がって防具が置かれている木に近づき、レイアメイルを手に取って蹴りが入った部分をチェックしてみる。マカライト鉱石だけでなくリオレイアの鱗と上竜骨を使用した防具だけある。
とんとん、と軽く蹴られた部分を叩いてみるが、特に問題はなさそうだ。あの一撃で一定以上の損傷を受けていたとすれば、戦いを続行することにおいて不安になるだろうが、この調子なら大丈夫かもしれない。
念のために別の場所を何度か叩いてチェックしてみるが、やはり問題はなさそうだ。
「んしょっと」
辺りを見回してみるとライムの姿が見当たらない。ならば今のうちにこれを着込んでいこうとシアンはレイアシリーズを装着していく。
少ししてレイアヘルムを装着した時、背後に草を踏む音が微かに聞こえた。振り返ってみるとそこには予想通りライムがいた。その手には薬草やアオキノコがいくつかあり、シアンの治療で使った分の補充に向かったのだろうというのがわかる。
シアンがレイアシリーズを身につけているのに気付いたライムが、置いてあった携帯椅子に腰かけながら声をかける。
「もう大丈夫なの?」
「うん、なんとかね。手当てしてくれたんだよね? ありがとう、ライム」
「効いているなら何よりだよ。……よっと」
持ってきたものを手ごろな石の上に置き、さっそく調合を始めた。空になっている瓶の上に磨り潰した薬草を投入し、アオキノコを絞って出てきたエキスを入れながらゆっくりとかき混ぜていく。液体になった薬草の成分の中にアオキノコの成分が含まれるエキスが溶け、二つの液体がライムの操る棒によって一つになっていく。
それによってアオキノコの成分が薬草の効果を高めていく。そうやって生まれるのが回復薬だ。
調合技術は相変わらずすごい。頭の中に完全に手順が記憶され、手先の器用さも相まってライムは失敗する事はほとんどない。そんなライムの様子をただ無言で見つめていたシアンは少しだけ体の前で組んだ手をもじもじさせていた。
視線もきょろきょろとあちこち彷徨っており、いつもの彼女からは考えられない様子を見せている。
ライムはじっと瓶を見つめているためそんなシアンの様子に気づいていない。出来上がったいくつかの回復薬を横に置き、続けて作業を進めるライムに話しかけるタイミングを掴めない。
仕方なく全部調合したところを見計らい、意を決してシアンが口に開いた。
「あの、ライム」
「ん?」
「ありがとね。色々手間をかけちゃったよね……」
「気にしなくていいよ。シアンを、仲間を助けるのは当然の事じゃないか」
いつものように穏やかで柔らかく、見るものを温かくするような笑顔がそこにあった。それを見るたびシアンも笑顔が浮かぶのだが、今回はただ微笑しかでなかった。
昔なら自分がライムの事を助けてきたのに、今ではこうして助けられる側になっている。この間撫子に言ったように、ライムはシアンが感じた通りかなり成長してきている。
助けられる事も多くなってくるかもしれないだろうが、自分もライムを助けられるハンターになりたいと思っている。
プリンセスセイバーを作る際に撫子に語ったのがシアンの本心。ライムの隣に並べるようなハンターになりたいというのがシアンの目標だ。依頼をした時に改めてそうなろうと考えたというのに、早速こんな事になってしまった。
情けない。
自分が油断したからこうなったのだ。
それなのにこうして笑いかけられる。ちょっとした負い目によってシアンの心に小さな痛みが走った。
「それより、体は大丈夫? 一応回復薬使って手当てしたけど」
「あ、うん。それは大丈夫。すぐにでも戦えるよ」
ぐっと両手を握りしめて笑顔を見せれば、ほっとしたようにライムが頷いた。調合器具を片付け、携帯椅子をしまって立ち上がると軽く辺りを見回す。エリア7は至って静かなものだ。運んできたときにも思ったが、ランポスもカンタロスもランゴスタもいない。
推測だがヒプノックとイャンクックとのいさかいのあおりと、狂化竜の気配が一つになったからなのではないだろうか。一時的な退避かもしれないが、邪魔をするモンスターがいないのは幸いだろう。
「じゃさっそく行こうか。ん~と…………一つはエリア2、もう一つは上のエリア4だね」
「ルート的にはどっちも一つのエリアをまたいで移動か。…………うん、一度ベースキャンプに戻って竜車を取りに行こう。エリア2はたぶんイャンクックだろうから、一気に討伐してしまおう」
ヒプノックを倒すために早くエリア4へと向かっても良かったが、イャンクックが移動を開始した場合エリア4へと北上する可能性があった。そうなれば一つのエリアに二頭の飛竜が存在する事になる。
イャンクックならばもう慣れた相手だ。しかしあれもまた飛竜の一種。油断すれば命に係わる。
しかもヒプノックは眠鳥。相手を眠らせる技を持っている。その効果は先ほどシアンが受けたとおり。眠らされれば二頭のどちらかの攻撃を受けてしまい、今度は本当に戦闘できない程の大怪我を負いかねない。
だから一度ベースキャンプに撤退し、爆弾を積んでいる竜車を持ってきて一気に終わらせる。その後はじっくりとヒプノックと戦うだけだ。
二人はベースキャンプに向かうためエリア6に続く道へと向かった。
○
フラヒヤ山脈にて月は身を潜めてある光景を見つめていた。空からはしんしんと雪が降り注ぎ、肌を突き刺すような寒さが山脈を包み込んでいる。
ポッケ村を出てから数時間。月は問題となっている現場に到着したのだが、戦闘は一時的に終わっていたようだ。シェリーの話では二頭は早朝から戦闘を行っていたらしいが、現在は静かなものだった。
いや、静かというのは正しくないかもしれない。静かなのは先ほどに比べて静かという意味だ。
「グルァ、ガル、グォァウッ!」
ぐちゃ、ぐちゃと肉が食い破られる音を響かせながら奴は食事をしていた。獲物はポポ、奴にとっての雪山の主食だ。鋭い牙が厚い毛皮を貫通し、肉が粗食されるたびに鮮血が吹き出して真っ白な雪が赤く染められていく。
通しで戦い続けたためにエネルギーが消費されていったのだろう。奴はただ無心にポポを喰らい続けている。
しかしその体は所々傷ついている。やはり数時間も戦っていただけあって無傷というわけではないようだ。主に頬や両前足の鱗が剥がれ、体は雷にでも打たれたような焼跡がある。
「今がチャンスか。あれが帰ってくる前に迅速に処理していくとしよう」
月は立ち上がり、ローブから一つの武器を取り出した。
暗い蒼と紅色の鱗で構成されたその鋭い弓は舞雷弓【千鶴】。峡谷に存在する、ベルキュロスと呼ばれる飛竜の素材を使用して作り上げた雷属性の弓だ。
矢を番え、ギリギリと音を響かせながら弦を引き、狙いを定めていく。
「――強化。空翔ける鷹は獲物を逃さない」
矢を強化させる呪文を詠唱し、更に
詠唱はあくまでも術者のイメージを顕現させるためのもの。術者と自然を結ぶための橋渡しでしかない。
「……グルル」
奴が口元に引きちぎった肉を垂れ下げつつポポから顔を上げた瞬間、月は舞雷弓【千鶴】から矢を射出した。空を切って飛来する矢は狙い通り奴の額へと向かっていくのだが――
「――グルァッ!!」
雪の中空を切る矢に気づいたのか、それ以前に高められていく気と雷属性に気づいたのか。奴はその場から飛びのいたのだ。
唸り声を上げて顔を上げ、奴は完全に月を見据えている。
前足をぐっと雪を踏みしめ、大きく息を吸いはじめたのを見て月はその場から離れ、矢を番えて引き絞りながら雪山を駆けていく。
「グァアアアアアアアアアアアアアアッ!!!」
充分に息を吸った奴はそれを一気に開放するかのように怒号をあげた。瞬間、奴の口から怒号と共に衝撃波が放たれた。本来ならばそんな攻撃手段を持っていないが、狂化したことで習得したものだろう。
衝撃波は奴の顔が月を追うに従って動いていく。雪を巻き上げ、降り注ぐ雪を打ち払う程の力を持つことから、それはあの覇竜アカムトルムが使うソニックブラストのようなものではないかと推測。
「ふっ!」
背後で崖がソニックブラストによって抉られていく音が響いてくる。普通はソニックブラストが着弾するかもしれない恐怖と、背後の足場が崩されていくという恐怖。何よりあれを前にしているという恐怖の三重奏が心に襲い掛かるはずだ。
それでも月の足取りは変わらない。
額に僅かに浮かぶ汗だけが月の変化であり、勝利を得るために月は走り続ける。
今はソニックブラストを放ち続けているから矢を放ったとしても、ソニックブラストによって進路を変えられるか、矢が折られるかしか結末が見えない。
だから自分の周りに、舞雷弓【千鶴】から放たれる雷属性を操作して雷の矢を作り上げる。それに気づいた奴はソニックブラストをやめて身構えた。どうやら先ほどまで戦っていた相手が持っている雷属性によって、対処の仕方を覚えたらしい。
月が駆け抜けている崖は垂直なものではなく、坂のように傾いているものだ。流石に垂直だと無理があるだろうが、坂状のものならば月の脚力ならば駆け抜ける事が可能。
「……はっ!」
崖に足を乗せたまま舞雷弓【千鶴】を構え、番えた矢を射出すると同時に周りに展開している雷の矢を射出した。空を切って奔る矢たちは奴へと向かうが、奴はその場を飛びのき、月へと向かって走り出した。
漆黒に染まった鱗に、黒の中に映える赤いライン。前足には退化によって小さくなった羽があり、雪をしっかりと踏みしめる鋭い爪にはポポの血が鈍く光る。
飛竜種の祖先であるワイバーンレックスの姿を色濃く残しているといわれ、特徴的な顔つきには真紅の瞳がギラギラと輝いている。
開かれた口からは鋭い牙が覗き、食事をした名残か赤い血が僅かに歯に付いている。ソニックブラストをしたとしても全てが吹き飛んだわけではないようだ。
「……ふ」
「……グルルル」
一体どうやっているのだろうか、月は崖に足を乗せたまま立っている。体が傾いているはずなのに重力に逆らってじっと敵を見据えていた。
敵はポッケ村にとってはある意味縁が深い存在だ。一昔突然ポッケ村付近に出没し、村付きのハンターを再起不能に追い込み、派遣された新たなハンターを襲ったといわれている。
最終的には成長したそのハンターによって討伐されたらしいが、その後も調査が進むにつれてその生態が明らかになっていった。
原初の姿から変わらず、陸上において本領を発揮し、その凶暴な性格から幾人ものハンターを返り討ちにしていったという。何よりもその咆哮は通常の飛竜と違い、衝撃波を発生させるほどの力を発揮するという。
それにより与えられた通称は轟竜。
轟竜ティガレックス。
それがあの飛竜の元々の名前だ。今となっては狂化によってその本来の姿は形しか残されていない。
黒の中に映える赤。それはナルガクルガを思い起こされるだろうが、ナルガクルガのようなシャープさはなく、ティガレックスの荒々しさが色彩によって際立っているようだ。
隆起した骨格や翼の先端に尖る棘。原種では虎のようなオレンジと青の二重色に彩られていたが、狂化体は黒を主体として赤が走り回るようなものだ。それは翼にも背中にも表れ、あたかも虎の黒模様のように縦横無尽に走り回っている。
「反応がすごいね。野生の勘をかなり高められたという感じかな。あるいは戦いの中で経験を重ねて自身の力を高めていったか……もしかすると両方か」
呟きながら足元に意識を向けると、月の周りに振動が発生した。それによって積もっている雪が舞いあがり、それは先端が尖った雪の氷柱となる。
それを感じ取ったらしい狂ティガレックスが低く唸りながら走り出す。その方向は月のいる崖の方。走り出す前に息を吸っているところから見ると、またあの咆哮をしようというのだろうが。
降り注ぐ雪の氷柱を感じながらも狂ティガレックスは止まらない。その尖った先端が狂ティガレックスに突き刺さろうというとき、狂ティガレックスはあの咆哮を上げた。
「グァアアアアアアアーーーーー!!」
轟竜と銘打たれるティガレックスが狂化し、それによって威力を高められた咆哮を上げる。走りながらでも発せられた咆哮から生まれる衝撃波は、降り注ぐ雪の氷柱を容易く散り散りにさせる。
脅威となった攻撃がなくなったため、狂ティガレックスは月のいる崖へと跳躍し、自身の体を支えるために爪を食い込ませた。その力が強いからだろうか、傾いた地面にいようともあの体を支えている。
しかしそれを見ても月は動じた様子がない。
崖を駆け上がりながら月は弓を引き絞り、追ってくる狂ティガレックスへと狙いを定める。彼女の周りには再び雷の矢が展開されており、その全てが狂ティガレックスを狙っていた。
「グルァアアアアア!!」
狂ティガレックスの視線が崖の途中にある足場に目を向け、一度そこに向かって駆け上った。足場にその全身を乗せると力を篭め、一気に力を開放して跳躍。
その高さは先ほどの跳躍の比ではなかった。悠々と先に駆け上がっている月を飛び越し、再び崖に爪を食い込ませて体を安定させる。
「グルル、グルァアアアアア!!」
上から駆け下りてくる狂ティガレックスに思わず苦笑が漏れそうだったが、駆け下りているからこそ先ほどよりも早くその距離を詰めてくる。
片や駆け上がる女性ハンター。
片や駆け下りる狂化竜。
月は遠距離武器である弓を手にしているため、狂ティガレックスが攻撃を仕掛けた際に武器を盾にする事が出来ない。しかし遠距離武器である弓とはいえ、その威力が一番発揮される距離というものが存在する。
それは遠距離ではなく近~中距離といわれているため、月は一本ではなく数本の矢を番えて狂ティガレックスへと接近していく。
狂ティガレックスも真紅の瞳をギラギラと輝かせながらその口から涎を垂れ流している。意識が月とその口にあることから、恐らくその鋭い牙で白く柔い体に食らいつこうというのだろう。
「グルァアアアアアアアアア!!」
「…………っ!」
二つの影が交わろうというとき、月の体が滑らかに横へとずれていく。同時に引き絞られた数本の矢が狂ティガレックスへと向かっていく。
しかし狂ティガレックスもまた行動に移っていた。ぐっと力を篭めて右足が前に出されると同時に顔が引かれ、勢いよく月へと向かって噛みついていく。
矢は勢いよく突き出された右足によって弾かれるかと思ったが、貫通効果を持っていたため少しだけ肉を貫いて右足に突き刺さった。その際矢に含まれた雷属性が発現して光を放つ。
対して狂ティガレックスの突き出された右足は月の足運びによって接触しない。しかし噛みつきは狂ティガレックスから左に移動したことで回避したが、牙は僅かに月の右腕を掠めていった。だがそれだけで月が装備しているキリンXアームロングに、傷跡を残していく。
交差したのはその体だけでなく視線も交差した。蒼い目と赤い目がそれぞれお互いを睨み付け、そして離れていく。
「グルルァアアア!!」
崖を駆け下りる途中で狂ティガレックスが腕の力と爪の食い込みを利用し、その体を反転させて月を見上げる。だがその瞳が映したのは再び自分に向けて弓を構えている月の姿だった。
「――強化。空翔ける鷹は獲物を逃さない!」
高速で詠唱すると番えている複数の矢が空を切って放たれた。当然ながら視認した狂ティガレックスが回避行動をとらないはずもない。だがその体がその場から動く事はなかった。
見れば狂ティガレックスが爪を食い込ませている部分の雪が、奴の身動きを封じ込めていた。恐らく矢の強化を行う前にあらかじめ雪の操作を行ったのだろう。降り積もった新雪を操作し、狂ティガレックスの四足が抜けないようにしたのだ。
それは環境を利用した見事なまでの魔法行使。しかも狂ティガレックスに一切気づかせずに行使したことは、彼女がそれだけ凄まじい使い手であることの証明。
しかし狂ティガレックスはその場から動く事が出来ない為、飛来してくる矢を回避するために首を動かした。
矢は狂ティガレックスの頭を狙って放たれていたため、狂ティガレックスは頭で受けないように素早くのけ反りながら右へと回避する。それにより矢は首元を掠め、背中へと着弾した。
だが着弾するだけでなくこれもまた貫通効果を内包していた為に数センチ肉を抉っていく。
そして当然ながら月の指は次々と矢を番えて射出している。例え初手を回避しようとも、動けない狂ティガレックスにその矢の嵐を全て回避する事など出来はしない。
次々とその身に矢を受け続け、いつしか狂ティガレックスはその頭を垂らしていく。それでも月は攻撃の手を止める事はない。放ち続ける矢は確かに狂ティガレックスへと突き刺さっていくが、狂ティガレックスは特に反応を示すことなくただうつむき続けている。
(効いている……いや、痛みをこらえて力を溜めているのか? なら、ただ一撃一撃与えるよりもう一度一気に決めるか)
一度息を吐き、深呼吸をした後新たに矢を番える。そうしている間も狂ティガレックスに新たな動きは見られなかった。
「――強化。空翔ける鷹は獲物を逃さない」
矢を強化させる呪文を詠唱し、続くようにして意識を集中させ、弓に篭められている力を引き出して雷属性を高めていく。
「――解放。雷の鳥よ、雷撃を纏い穿て!」
高められた雷属性は矢全体へと纏わりつき、あたかも雷鳥のような姿を取る。G級クラスのベルキュロスの素材を使用しただけあり、内包している雷属性の力もばかにならない。
しかもそれを操作しているのは、神倉一族が作り上げた最高傑作とうたわれた神倉月だ。魔法を扱う技術も一級品以上。
降り注ぐ雪に青白い電気が弾ける音が何度も響き渡る。それは月の両腕にも届いているが、キリンXアームロングがそれから月の両腕を守っている。
雷を操る幻獣キリンは雷耐性が抜群だ。しかもXと銘打たれているこれは、G級のキリンを素材としている。その守りの力は計り知れないものがある。
「さあ、これで落ちてくれるといいんだけど――ねっ!」
○
(……これでいいのでしょうか? 我が主)
使い魔から通して見ている光景に私は息を呑むしかない。さすがは神倉月といったところでしょうか。あの“レイダー”相手に一歩も引かず、戦いを繰り広げている。
しかも、もうとどめを刺そうとしている段階。あのままでは“レイダー”が討伐されてしまう可能性がある。
手を出すべきでしょうか。
それともこのままただ見守るだけなのでしょうか。
計画では“レイダー”とあれが戦闘し、神倉月が訪れる。その後“レイダー”が現場を離脱し、シュヴァルツの血統の者たちが“レイダー”によって殺される。
そういう流れだったはずですが……どうにもうまくいかなすぎる。やはり神倉月が二頭の様子を窺い、食事時を狙ったのが原因ですね。
神倉月が何の策もなく戦闘に入るはずもない。
よく考えれば計画にはこういう穴がある。我が主がそれに気づかないはずもないのですが……。
そう考えていると一つ目に付くものが見えた気がしました。一体何があったのかと視線をそちらに映してみると、そこにはあれが存在していました。
(しかしこれは遅い? ……いや、まだ間に合うのでしょうか)
多少の不安を抱えつつ、私は戦闘を眺め続けることにした。
○
放たれた雷鳥は銀世界を割って飛行する。自分に向かってくる今までとは違う矢に、狂ティガレックスはついに動き出した。
真紅の瞳は先ほど以上に紅く染まり、その中にまるで蛇のように細く、紅く煌めく光が浮かんでいる。それを見た月はどこか心の奥がざわつくような気がした。
それ恐怖によるものではない。どこかひっかかるような思いがあったのだ。
あの目を自分は知っている気がする。
だがそれがなんなのかを考える前に狂ティガレックスが動き出す。
「グアアアアアアァァァァァァーーー!!」
力を溜めていただけでなく息も吸っていたらしい。充分に溜められたそれを解放するかのように、狂ティガレックスはあの咆哮を上げる。それは狂ティガレックスの足を封じ込めている雪を弾き飛ばすだけでなく、周りの雪すらも吹き飛ばす衝撃波を生み出した。
降り注ぐ雪も衝撃波によって荒れていき、舞い上がった雪も相まって銀世界は白く染め上げられた。
だがそれすらも割って飛来する雷鳥。白い世界に穴を開けるかのように、真っ直ぐに狂ティガレックスへと向かっていく。
「グルァアアアアアア!!」
向かってくる雷鳥をなんとその右足を構え、その体をずらしながら鏃ではなく、
「……バカな。まさか、そんなことが……っ!?」
当然ながら高められた雷属性は矢全体を包み込んでいた。となれば、鏃だけでなく箆も羽も雷属性がいきわたっていることになる。また雷属性はティガレックスが弱点としている属性でもある。ただ矢を撃ち込ませるだけでなく、属性ダメージの事も考えて舞雷弓【千鶴】を選択したのだ。
だが箆とはいえ、高められた雷属性を纏った箆を叩き折るなんて考えられない。ただそこにあるだけならば可能かもしれないが、矢は空を切って奔っている最中。ピンポイントで叩き折るなど、狂化竜といえども可能なのだろうか。
しかし現実はそこにある。
右足が雷属性によって焼け焦げていようとも、大きな負傷をしていない狂ティガレックスは吹きすさぶ白い世界の奥で月を睨み上げている。
一方想定外の出来事に月は少しの焦りを感じていた。だがそんなことは狩りの中ではよくある話だ。上位、G級ともなればモンスターの強さも上乗せされていく。
強さは積み重ねた経験から生まれる。モンスター達もハンターとの戦いなどで対処の仕方を覚え、中には戦いの中で状況を覆す方法を見せつけてくるものまでいる。ハンターとしては想定外の事だろうが、そんな中でも活路を見出すのが一流のハンターだ。
(舞雷弓【千鶴】ではこれ以上続けるのも無理か。……ならば、エンデに切り替えよう)
舞雷弓【千鶴】をローブにしまうと入れ替えるように何かを取り出そうとする。だがすぐにある事に気づいて月の視線がある一点へと向けられた。
視界はまだ降り注ぐ雪によって白く染まっている。舞い上がった雪が今度は重力に従って上から下へと落ちている状況だ。雷鳥が作り出した穴も今ではそれによって埋められている。
そんな中接近してくる一つの気配。こんな状況では見えないが、月の感覚にはしっかりとそれが動いているのがわかる。それに備えるため月が取り出したのは武器ではなく盾。
中心部は鈍い黒、外へと向かっていくにつれて銀色に染まったその盾は、素材となっている銀火竜をイメージしたように上半分には左右に突起が二つずつ、下半分には鱗のようなものがあしらわれている。
それを取り出して左手で構え、左側から迫ってくる狂ティガレックスの爪を受け止める。
鈍い音をたててしっかりとその残酷な爪から身を守り、体勢を立て直すように一度距離を取る。
ここは普通の大地ではなく、雪が積もった傾いた崖。常人ならばすでに滑り落ちているような環境だ。そんな中で月は盾を構えて滑り落ちないように体を支え、狂ティガレックスと相対する。
じりじりと狂ティガレックスが月の動きを窺いながら距離を詰めていく。やがてタイミングを見計らった狂ティガレックスが力を篭め、一気に跳躍してその口と左足で月へと襲いかかった。
月もそれに対して守りの構えを取るが、彼女のセンサーが狂ティガレックスではないまた別の何かの存在を感じ取った。いや、それは先ほどからうっすらと感じていたのだが、ここにきてそれが一気に高まったような気がする。
「――はっ!」
月はその場から跳躍し、更に後ろ……すなわち今よりも高い場所へと退避した。しかし狂ティガレックスは跳躍していたため、そのまま月がいた場所へと左足を振り下ろすしかない。
ティガレックスは飛竜種に分類されているが、翼は退化しているため滑空するしか使い道がない。つまり一度跳躍してしまえば翼を使って滞空する事や方向転換する事が出来ない。
そんな中、何かが白い世界を割って飛来してきたのだ。
それは先ほど月が放った雷鳥と似て非なるもの。雷鳥は矢に含まれていた雷属性を解放、操作したものだったが、それはただの純粋な雷光だった。こんな雪山に雷光が光線となり、狂ティガレックスへと向かっている。
雷光を狂ティガレックスが回避する術はない。横っ腹を穿たれるように雷光をその身に受け、宙に浮いたまま横へと吹き飛ばされてしまった。
「グルォオオオ、グァッ、グァアアアアアア!!」
このまま崖を転がり落ちるわけにはいかないと、狂ティガレックスが何とか爪を食い込ませて体を支え、雷光が飛来してきた方向を睨みながら憎らしげな声を上げる。
月もまた盾を構えつつ、狂ティガレックスに注意しながら同じ方向を見つめた。
そこには確かに何かがいた。
バチバチと空気中に電気が弾ける音を響かせ、この寒風に動じることなくそこに佇む一頭の獣。黒い毛を主としていた体毛は戦いに備えてか、あるいは気が高ぶっているのか、一部を金色に染めている。
その金毛からその電気エネルギーが弾けているのだ。堂々とした佇まいの中に、再び戦いの場へと帰ってきたという興奮と、そして新たな敵が存在しているという事実に対する歓喜が織り交ぜられているかのような雰囲気を感じる。
「帰ってきたか、ラージャン。これは三つ巴になるか? ……何にせよこれで状況が変わる」
少しだけ緊張したように顔をしかめながら右手をローブの中へと入れて武器を取り出す。
姿を現したのは銀色に染められた
純粋な武器の威力だけでなく、内包している龍属性の力もG級武器だけあって高い。これだけで龍属性を弱点としている飛竜と渡り合えることだって不可能ではないが、当然ながらエンデ・デアヴェルトを扱う技術がなければ宝の持ち腐れだろう。
「グルァアアアアアアアアアア!!」
「グォオオオオオオオオオオン!!」
再び出会った両者は戦いの幕開けを告げる咆哮を上げる。
それを月はエンデ・デアヴェルトを構えながら聞き、二頭よりも高い位置から見下ろす。両者の視界にはお互いしか映っていない。となればお互いがぶつかり合うために真っ直ぐに相手に向かって疾走し始めるのは当然の事だった。
狂ティガレックスはラージャンの肩に喰らい付き、ラージャンは狂ティガレックスの頬や体に殴っていく。その両腕には金毛から迸る電気エネルギーが纏われており、雷属性のダメージも狂ティガレックスへと与えられていく。
そんな光景を黙って見ているのも良かったのだが、この二頭はポッケ村にとっては危険な存在であることには変わりはない。
意識を集中させて力を溜め、右足で強く震脚して周りの雪を跳ね上げた。それだけでなく振動が周りにも影響を及ぼし、降り積もった雪が少しずつ動き始めている。
小さな波紋はやがて大きな力を生み出す。ずれていく雪は振動の影響を受けたもの全て。それらが崖の傾斜に沿って動き、やがて重力に引っ張られて下にいる二頭へと襲いかかる雪崩となる。
『――っ!?』
鈍い振動と襲いかかってくる白い波に気づいた二頭が顔を上げる。雪崩の事は自然の中で起こりうることであり、このフラヒヤ山脈ならばある程度起こっている事なので二頭はそれを回避するために跳躍してその場を離れようとした。
それぞれ後ろに跳躍していき、雪崩の影響を受けない所まで下がろうとしたが問題が発生した。
ラージャンは少しだけ雪崩に捕まり、そのまま雪崩に体を押しやられそうになってしまう。
「グルル……グォオオオオオオン!!」
だがそれを振り切るためにラージャンは力任せに両腕を振り上げ、雪崩と地面に向かって叩きつけた。恐らくラージャンの全力を以って叩きつけられたことで、ラージャンの周りの雪が吹き飛んでしまう事になってしまう。
その隙を縫って新しい雪が迫ってくる前に、ラージャンはその場を跳んで離れた事で難を逃れる事になる。
一方狂ティガレックス側はラージャン側よりも雪崩の範囲が狭かったらしく、一度の跳躍で雪崩から離れる事が出来たらしい。だが宙にいる狂ティガレックスへと月が跳躍して接近していた。
構えたエンデ・デアヴェルトの刃は狂ティガレックスへと向けられており、刃の周囲にある長方形の穴からは着火した火が放射状に僅かに伸びていた。シュー、という音が漏れ、穴からエンデ・デアヴェルトの中へと粒子が圧縮されていく。
このガンランスは砲身というものはなく、刃の周囲に空いている所から刃に向かって砲撃が放たれるという仕組みになっている。
「グルォァア!?」
エンデ・デアヴェルトから漂う力に気づいたのだろう。狂ティガレックスが目を剥いて月を見ている。しかし月はただ無表情に銃身がぶれないようにエンデ・デアヴェルトを構え、充分に力が溜まったそれを解放した。
とたんにエンデ・デアヴェルトから放たれた轟音と、それにかき消される事がない悲鳴がその場に響き渡った。尾を引いて小さくなっていく悲鳴を上げつつ、狂ティガレックスは崖の下へと落下していく。
放たれたのは竜撃砲と呼ばれるガンランスが持つ武装の一つだ。ガンランスには槍と同じく刃で突く事と、取り付けられた銃身から砲撃するという二つの攻撃方法を持っている。
この砲撃の力を圧縮して解放したものが竜撃砲だ。それは飛竜のブレスを意識して作り上げられたものであり、粒子を圧縮する時間がかかるという事と、解放した後にガンランスに溜まった熱を放出する排熱という事の二つのデメリットがあるが、その分一撃の重みが強い攻撃方法なのだ。
しかし今月がやったように跳躍して空中でやるようなことは普通はない。しっかりと大地を踏みしめて体を支え、解放するのが正しい竜撃砲の使い方である。間違っても月のやるような方法で竜撃砲なんてものを撃てば、その反動で勢いよく後ろへと吹き飛ばされてしまうのがオチだろう。
そのまま背中から、あるいは尻から地面に落下し、強く体を打ち付けてしまうのが目に見えている。
だが月は重いガンランスを構えているというのに、軽やかに空中で受け身を取りつつ着地した。このような芸当が出来るあたり月が規格外であることは否定できない。
「――!?」
体勢を立て直す月に安息は訪れない。今の一撃で自分もこの戦いに参戦したことの証明となったのだ。月へと襲いかかるのはラージャン。振り上げた右手が勢いよく月へと振り下ろされた。
それを左手に持っている盾で受け止めつつ体をずらして衝撃を殺していく。反撃として一撃刃を突き立て、距離を取るようにラージャンから離れる。
「グルォオオオオ……!」
背中に逆立った金毛からは絶えず電気エネルギーが迸っている。一時はその金毛が翼であるといわれていたものだったが、なるほど、見間違うのも無理はないかのような逆立ちっぷりだ。
ラージャンはじっと月の出方を窺うかのように見下ろしていた。
今の立ち位置は先ほどの攻撃により、月が下へ、ラージャンが上へと存在している。そのため月はエンデ・デアヴェルトを構えたままラージャンを見上げる形になっていた。
「……む?」
ふと妙な気配がラージャンから漂ってくるような気がした。それが何なのかと考えつつ月はじっと目の前にいるラージャンを見つめる。
少ししてその違和感が何なのかに気づいた。
ラージャンからは闇の気配を感じるのだ。それも今の月には縁が深い闇。気づかないはずもない。
(これは……狂化の種? 一体どうして…………まさか、感染か?)
ちらりと後ろで怯んでいるのだろう狂ティガレックスの方を見つめながら考える。狂ティガレックスは竜撃砲の一撃を受けて吹き飛び、今もなお崖の下から戻ってくる様子はない。
月が来る前にも二頭は戦いを繰り広げていた。そして狂ティガレックスの攻撃方法には先ほど見せたような噛みつきがある。その際に自身が持っている狂化の種の闇の粒子が、ラージャンの体内に侵入しなかったという保証はない。
一定以上の粒子が体内に侵入し、大陸に充満しつつある闇の粒子と反応した事で狂化の種が目覚め始めたのではないか、というのが月の推測だ。
見下ろす真紅の瞳には、先ほど狂ティガレックスに見られたような細くなった瞳孔の光が存在している。その色合いは体毛と同じく金色に染まっていた。
しかしラージャンの様子は先ほどから変わらず堂々とした佇まいでじっと月を見下ろすのみ。狂化の種が発現している可能性があるというのに、今までの狂化竜と違った様子に月は少しの戸惑いを感じずにはいられない。
狂化はかけられた相手を狂わせる事を主とした魔法だ。というよりそれ以外の用途などない。しかし目の前にいるラージャンは普通と変わりがない。
一体これはどういう事なのだろうか。
それを考える隙など目の前にいるラージャンが与えるはずもない。力を溜めれば背中に迸る電撃が両腕にも反応し、振り上げられた両手の間に雷エネルギーが集まっていく。
「ウォオオオオオオオオン!!」
両手の間に集められたエネルギーは球体となり、圧縮されたものとなる。それを手から伸びる電光で操作しつつ、勢いをつけて地面に叩きつけた。途端に発生するのはラージャンを中心として雷撃の嵐。
炸裂した雷が月に襲い掛かっていくと同時に、自身に接近させないための壁となる。
「
盾を構え、同時に雷耐性を付与して雷の海へと突入していく。降り注ぎ、広がっていく雷の奔流は容赦なく月へと襲いかかっていくが、構えている盾によって月は守られている。
物理的な守りと属性に関する守りという二重の守りを用意している月には、その雷の奔流では止める事が出来ない。それを感じ取ったラージャンは顔を上げて月を睨み付ける。
目の前まで接近した月めがけて頭突きをかましたが、それを回避して月はエンデ・デアヴェルトを突き出した。鍛えられているラージャンの肉体に対して、G級のガンランスといえども多少刃がめり込むだけ。
しかしすぐにエンデ・デアヴェルトを引き、勢いよく振り下ろすようにすれば刃がラージャンの右肩に切り傷を作り出す。
「ふっ!」
トリガーを引けば砲身から炸裂した火炎が放たれる。作り出した傷が炙られるように炸裂した炎はラージャンに確かなダメージを与えた。ガンランスの砲撃はハンターが使う爆弾と同じようなもの。威力こそガンランスの砲撃レベルに依存するが、積み重ねれば大タル爆弾のダメージとなる。
振りかぶられる拳を回避と盾で身を守り、カウンターを撃ち込むようにエンデ・デアヴェルトを突き上げる。
重装備であるガンランスを手にしていれば、どうあってもハンターの動きは遅くなってしまいがちだ。しかし月の動きは軽やかなもの。空中で受け身を取った時のように重さを感じていないかのよう。
「ウォオオオオン!」
体を回転させながら両腕を伸ばし、あたかもダブルラリアットをするかのようにして月へと攻撃したが、構えた盾がそれを月へと届かせない。連続して襲い掛かる太い腕のダブルラリアットでさえ月の守りを崩す事が出来なかった。
だがラージャンはダブルラリアットで止まらず、両手を地面に叩きつけて跳躍する。電気エネルギーが再び両手に集めながらその手を合わせてやる。
(これは守れない!)
「オオオオオォォォォォ!!」
一瞬の判断で月はその場から跳んで回避するが、そのすぐ後にラージャンが合わせた拳を地面に叩きつける。発生する強い振動と高められた雷エネルギーの爆発。辺りに散らばる雷撃だが、月は的確にそれを回避し、再びラージャンへと距離を詰めていく。
退避と接近。
的確に判断を下しながらラージャンの動きを見切り、その体力を奪っていく。
しかしラージャンもまた負けてはいなかった。このラージャンは恐らく上位以上G級クラスではないだろうかと月は睨んでいる。だからこそここまで月と渡り合えている。
もしかすると狂化の種がなくともその可能性があったのではないだろうか。
(……やはりおかしい。このラージャン、狂っていない……!)
その真紅の眼差しには確かな意志が存在している。金色に光る瞳孔にも狂ったような色合いが見られない。このラージャンは闇の気配を感じさせながらも、己の意志でこの戦いを繰り広げている。
それは今までの狂化竜にはないものだった。今までの狂化竜はまさに狂っているといっていいほど目の前の敵を殺すという意志が感じられた。生きるために命を喰らうか、目の前に存在する敵や命を殺すか以外の意思は感じられなかった。
だからこそ狂化の種が植えられているのだと判断し、黒く染まったこの竜たちを狂化竜という呼称が与えられたのだ。
感染という新たな情報だけでなく、狂わないという現実が目の前に存在している。それは一体どういう事なのか。
それを考えながらラージャンの攻撃を捌き、攻撃しながら月は考える。
しかし現実はそう甘くはなかった。
下の方から激しい殺意を感じた瞬間、その方から渦巻く空気が襲いかかってきた。
「――ッく!?」
「グォオオオオオオ!?」
雪を吹き飛ばしながら襲い掛かってくるのはソニックブラストだった。誰がやったのかはすぐにわかる。さっきまで下で怯んでいた狂ティガレックスだろう。
気づいたときには回避は間に合わない。ならば盾を構えて身を守るしかない。
「
エンデ・デアヴェルトの盾の上に風耐性の障壁を張って身を守る。近くにいたラージャンは両腕を交差させて顔を守りつつソニックブラストの衝撃に備えていた。
守りの体勢に入った途端に襲い掛かるソニックブラストの衝撃。渦巻く螺旋の風の衝撃波は例え障壁を張ったとしても音を立てて盾に傷を入れていく。
周りの雪も吹き飛ばし、身を包むローブも音を立ててなびいている。ぎりっと歯を食いしばりながら盾と体が吹き飛ばされないように堪えるしかない。
ラージャンもまた両腕を傷つけられながらも吹き飛ばされないようにしっかりと雪を踏みしめていた。だがソニックブラストはただの咆哮から生み出された風の衝撃波ではない。渦巻く風の中には薄らと真空の刃が存在しており、それが身を切り裂いてくる。
野生の中で鍛えられたラージャンの肉体もまた例外ではなかった。少しずつその身が切り裂かれ、小さく鮮血が流れ始める。その量は少なく、勢いも小さなものだが、それがいくつも生まれていくのだ。
それくらいのものならばラージャンにとっては大したものではないだろうが、連続して傷が作られていくのはラージャンにとっては歓迎できるものではない。
両腕を交差させたまま力を溜め、ソニックブラストが収まったと同時に両腕を雪に沈めて体を支え、口からあの雷光を発射した。ソニックブラストが飛来した方向に撃ち出したため、雷光は確かに狂ティガレックスに届いたのではないかと期待する。
「グルァアアアアアアアアアアア!!」
だがそうはいかないらしい。
狂ティガレックスは怒号を上げながら崖を駆けあがってくる。一定の距離を詰めた後跳躍し、また牙を剥いてラージャンへと噛みついていったが、ラ―ジャンはそれを回避して距離を取った。
そこを通常の狂化竜ならば追いかけるだろうが、狂ティガレックスは追いかけずその場に留まってラージャンと月を睨み付けていた。
(あのティガレックスもラージャンと同じような雰囲気を感じる。あの凶暴性は元来のものとみていいのかもしれない。……となれば、狂化竜がここにきて変化を起こしたと考えていいのか?)
身構えながら月は思考を再開した。
ラージャンだけでなく狂ティガレックスも同じような雰囲気を感じ取った。月と戦っていたあの雰囲気はただの闘争心でしかなかったらしい。狂化によって高められた殺意もあったかもしれないが、その大部分はティガレックスという種族が持つ凶暴性によるものだったようだ。
ならば狂ティガレックスもまた意志を残して行動しているという事になる。
(まさか、闇の粒子が増加するにつれて狂化の種が変化した? あるいはこれが元来の狂化の種の効果?)
そうなれば自分達は大きな勘違いをしている事になる。
これは相手を狂化させるようなものではなく、闇の力によって相手を強化させる魔法だったのかもしれない。狂化させるという大きな殻は大陸に充満する闇によって破られ、その中に隠されていた真の効果を発現させつつあるのではないだろうか。
それが何かがまだ判明しづらい。じっくり観察すればそれが何かがわかるかもしれないが、その隙が見当たらない。
わかるのはその目の奥に何かの光が揺らめいている事と、狂化の種であるかもしれないものの中から感じられる何かの力。それがわかれば狂化の種の真の狙いがわかるかもしれないのだが……。
「――っと」
狂ティガレックスが降り積もった雪を弾き飛ばすように左足を突き出せば、いくつかの雪の塊が月へと襲い掛かる。それを走りながら回避し、ラージャンへと接近する。
だが接近を許さないように力を篭めて右手を振り下ろせば、振動と共に雪が舞いあがってラージャンの姿を隠す。
その隙を狙って月から距離を取りつつ、狂ティガレックスの様子を窺っていた。
お互いしか眼中になく、ぶつかり合っていた状況は終わりを迎える。
戦況は三つ巴の状態となる。
(この戦いで何かが見えればいいんだけどね。新しい情報を得られれば僥倖。それに対して気を配りつつ、戦いを進めていくとしようか)
○
(ラ―ジャンが狂化した……。我が主はこれを狙っていたのでしょうか)
ずっと様子を窺っていた私はただ驚きを隠せなかった。とはいえ神倉月がまだまだ戦い続けているのも驚きの中に含まれていますが、ラージャンに狂化の種が感染したというのも驚きに含まれていた。
そして二頭の様子が今までの狂化竜の様子と違うというのも驚きの中に含まれている。あの様子は一体なんなのか、私にはわからない。
我が主ならば知っていそうですがその件に関しての情報が与えられていません。だからあの変化がどういう事なのかはわからない。
(狂化……これは神倉月達を欺くためのブラフ? ただ狂化させるだけが我が主の狙いではなかったのでしょうか)
口元に指を当てながら私は考えてみる。我が主の作戦に異を唱え、疑念を抱くことはないのですが、それでも疑問は出てしまう。あの方の狙いが本当にわからない。
“レイダー”をフラヒヤ山脈に投入したのはあのシュヴァルツの兄弟を始末するためだったはずなのに、あそこでラージャンと神倉月と未だに戦闘を繰り広げている。
私のミスなのかと思い新たな指示を仰いでみましたが、あのままでいいという返事が返ってくる始末。ということは戦闘を止める必要はないという事。
わからない……一体何をお考えなのでしょうか。
でもこんな風に考えても事態はただ進行していくのみ。私に出来る事はこうして陰からその流れを見守るのみ。
私は『
あの方の手足となり、目となる者。あの方のために働く事こそ私たちの本懐なのだ。
(今はただ見守りましょう。新たな発見があれば報告するべきでしょうから)
表情を引き締め私は使い魔から見える意識に集中する。
ああいうレベルの戦いはそうそう目にすることはないもの。そういう意味でもあの光景は目に焼き付けておくに相応しいものかもしれない。
私は腕を組み、その場に佇みながら戦いを眺める事にした。