お前には生きてもらわねばならない。お前を殺すこの力は、わしが奪う。
これは契約。この呪いを飲み干してみせたのならば、お前の願いをひとつだけ叶えてやろう。
だが、力を失ったお前は、人の世に埋もれて幾重もの理に縛られることになるだろう。普遍の摂理、変わらぬ時、つながりあった命。
聖者の呪いはお前を窒息させる。それでもお前が、「暁の門」を開けられるのなら―――。
◆ ◆ ◆
何一つ見えない暗闇の中で、オレは目覚めた。
一体ここはどこなのか。なぜオレはここに居るのか。どうやってここに来たのか。まるでわからない。
確か、『行政特区日本』を宣言するための式典会場にゼロがナイトメアでやってくると、そのまま「彼女」とともに背後に備えておいた移動要塞に入っていった。テロリストの首謀者と護衛もなしに二人きりになるというのは危険なことではあったのだが、「彼女」の強い意思に押されて引くしかなかった。彼ら二人の会談をやきもきしながら待っていたは、覚えている。しかし、そこから先の記憶は、曖昧だ。
それでもオレが、不安になることや恐怖に押しつぶされることはない。こんな闇ごときに、怯える必要はなかったからだ。
なぜならオレには、目的があった。ほかの誰よりも何に変えても守らなくてはならない不文律が、足場すらないここにおいても、オレを確固としてここに生かしてくれる。そして今、目は見えず耳も聞こえず、手足どころか体中の感覚が希薄になっているとしても、ここで生きていた。命令は、果たされていた。
だからオレは、安堵していた。湯船に浸かっているかのように、暗闇の中を漂っていた。
しかし、「声」が、オレをその心地よさから目覚めさせた。
“―――囚われているというのに、それすら気づかぬ愚か者とはな……”
その「声」は、耳を通り越して、オレの頭に直接響いてきた。その「声」を、聞こえる前に理解させられた。
男か女か、子供か老人かわからない。低いのか高いのか、日本語なのかほかの言語なのかすらもわからない。どのようにも聞こえるが、そのどれでもない声。
その「声」の主は、俺に理解させるためなのかそれとも別の理由なのか、まるでいくつもの声帯と口を持っているかのように、そこから多重に声を発していた。
オレは、その耳障りな「声」を無視して、今一度、闇の中で耽溺しようと目を閉じようとした。
“こらッ! 寝るでないぞッ!”
「声」は、オレの様子に慌てたように言った。
その様子から、どうやらその「声」は、幻聴ではないということはわかった。もしかしたら、一人語りをしていたのかもしれないと自分の正気を疑っていたのだが、そうではなかったらしい。だけど、わかったからといって、聞いてやる必要はどこにもなかった。
“来訪者は久しぶりなんじゃ。なにか気に障ったのなら謝る。ゴメンナサイ”
「声」の主はそう言うと、ペコペコと謝り始めた。
見えないからそんなことよくわからないのだが、「声」の必死さはわかった。もしかしたら、揉み手でもしているのかもしれない。悪魔か魔術師めいた第一印象は見事に吹き飛んで、卑屈な笑いを浮かべた貧乏神か小人になっていた。だけど、謝ったからといって、聞いてやる必要はどこにもなかった。
そもそも、本気で謝罪したいのなら、今すぐ黙ってもらいたかったからだ。
“いいじゃないか、話ぐらいしたって! 減るもんでもないじゃろうにッ!―――”
このわからず屋がッ!―――
最期の言葉は、オレには理解できない言語で聞きとれなかったが、ニュアンスは理解できた。たぶん、そういった意味合いの罵倒だったのだろう。
はいはい、オレはわからず屋ですよ。あんたはオレにとって不愉快極まりないけど、そいつをわかってくれて嬉しいよ。だからお互いのためにも、ここらで穏便に別れようじゃないか―――。
話をしたい「声」に言ってやるのも癪だったので、ただ黙って拒絶の意を伝えようとした。
だが次の言葉に、不覚にもオレは、返事をしてしまった。
“……せっかくお前を生かしてやろうと思ったのに、そんな頑なになってでも死にたいのなら、もう知らん”
……何だと?
聞き捨てならないことだった。意味もわからなかった。
なぜなら、今オレは、こうしてここに生きているではないか?
“そんな状況で生きてるなんて胸を張って言えるのは、たぶん、お前以外にはいないだろうなぁ”
「声」は笑いをこらえながら言った。
オレは今、何も見えない状況に置かれている。しかし、「声」の主には、オレの姿が見えているのかもしれない。あまり、喜ばしくない姿に見えているのかもしれない。だが、オレにとってそんなことは、瑣末なことだ。重要なのは、オレが生きているという事実だ。
“だが、そのままではいずれ、死ぬことになる。……いや、死ぬよりも恐ろしい、生の時間が延々と続く”
「声」は、オレの心を読み取ったかのように、続けた。
それがなんなのかは分からない。どうやら拷問めいた未来が待っているらしいとのことだが、先にも言ったとおり、それは重要なことじゃない。重要なのは―――
“生きていること。これから先も、生き続けること”
またもや「声」は、オレの言葉を先取りした。
出鼻をくじかれたオレは、口をつぐむしかなかった。
すると、いつの間にかオレは、「声」の言葉に聞き耳を立てて待っていた。
“枢木スザク”
「声」は、オレの名前を言った。
そう、それは、オレの名前だ。確かにそうなのに、言われるまで自分の名前を思い出せなかった。必要とすらしていなかった。
そして、名前が思い出されると、芋づる式に記憶が取り戻されてきた。思い出したというには、その時のオレはあまりにも薄っぺらだったからだ。オレの中に、枢木スザクの記憶が流れ込んできた。
“お前をこの魂の牢獄、『Cの世界』から出してやる”
気づけば「声」の声に、赤みがかった色がついていた。そして、なにか奇妙な文様が、浮かび上がっていた。
それを直視すると、ズキズキと、オレの何かが悲鳴を上げていた。頭痛といってもいいかもしれない。不確かな体感覚しかない以上、どこに手があってどこに頭が備え付けられているのかすらわからないのだがら、頭痛というのはおかしな表現でもある。しかし、その違和感は、オレの体よりも心に衝撃を与えたという点で、頭痛というのが妥当だった。枢木スザク以外の記憶まで、流れ込ん来ているようだ。
オレは、破裂しそうなほどの多種多様な想念の渦に、飲み込まれそうになっていた。
“本来なら、王と王の力で呪われた魂たちは、例外なく「アーカーシャの剣」の贄にされる―――”
「声」の何かが、オレを揺さぶっていた。それを初めて感じたはずなのに、以前にも似たような感覚を味わったことあると、どこかからオレの中に流れ込んできたものが、告げていた。
それは、初めてオレを怯えさせた。今、この時においても、オレにとって重要な何かが、傷つけられでもしたら二度と立ち直ることができないほどの大切な何かが、「声」の手に渡っていたことに気づいたからだ。
“だがわしは、そこで生まれた者。牢獄の中の王。―――わしには、ギアスの力がある”
「声」は、言葉を発するたびに巨大になっていった。あるいは、オレが縮んていったのかもしれない。矮小とも言えた「声」は、いつの間にか、仰ぎ見るような巨人に変わっていた。
“わしのギアスによって、お前にかけられているギアスの呪いを中和してやる。そうすれば、まだ肉体を失っていないお前は、この牢獄から抜け出して現実世界に帰還することができるだろう”
―――待って、待ってくれ!
「声」の提案を無碍にするというよりは、話に全くついていけなかった。だが、先ほどの危機感は、まだ続いていた。オレは、わけのわからない危険な場所に引きずり込まれているというのに、全くの無力だった。
「声」は、オレの叫びを知ってて無視しているかのように、続ける。
“だがそれも、一時的なものだ。わしの力が及ばなくなれば、お前は、今一度ここに戻ってくることになるだろう。しかも今度は、二度と現実に帰ることはできない。……わしのギアスは、条件がややこしいことに加えて、生涯で一度限りの秘蹟だからな”
その言葉に安堵し、同時に戸惑った。
帰って来れるというのは、ありがたかった。ここでならオレは、今はもうはっきりとは思い出せなくなっているが、重要な使命を果たすことができるから。そして、目の前の「声」には、超常の力を有しているといっても、そこには限界があることもわかった。
―――しかしなぜ、よりにもよってオレなんだ?
“先にも言ったように、ここCの世界は魂の牢獄であって捕らえられた魂は、あらゆる脱出の手段を奪われる。そもそも、脱出したいという気すら起こらなくなる。各々の魂が心地よいと思えてしまう揺り篭が、用意されているからな。
呪いを受けた者は、魂と己の肉体との連結が壊されてCの世界と繋げられてしまう。そのため、橋渡しでもある『黄昏の門』や『コード』保有者に触れれば、まだ生命活動が停止していない状態であっても、肉体から引き剥がされてしまうことになる。
ここからの脱出は、たとえ、ギアスを持っていたとしても不可能だ。現実世界で他者の魂を呪いここに送り込むことができる王の力だが、それ自身がここに来てしまえば、自らが送り込んだ魂たちによってここにつなぎ止められてしまうことになる―――”
「声」はそこで言葉をと切った。そこから先を、言うべきか言わざるべきか迷っているかのようだった。
しかしオレは、続きが聞きたかった。答えを聞きたかった。
“……本来、コードを持たぬものには、ギアスを付与することはできない。ギアスは、人に超常の力を与える代わりに、Cの世界に魂を送り込む端末になる契約でもあるからだ。その権限を与えられているのが、今では二人しかいないコード保有者だ。
わしのギアスは、それを可能にする。わしの呪いを受けた者は、ギアス能力を付与されることになる。だがそれには、条件がいくつか重ならなければならない―――
そのひとつは、すでに他のギアス能力者から呪いを受けている者”
「声」は、また言葉をと切った。今度は、邪魔者が割り込んだからだ。
「声」の沈黙に合わせて、あたり一面に濃密な人の気配が漂ってきた。「声」の存在感で今まで気づけなかったのか、そこにずっといたかのように突如として表れた。
顔、顔、顔、顔、顔……。
様々な人種、異なった年代。老若男女のみならず、爛れて歪んだような病人か狂人のものまで、千差万別にあった。欠損しているのかはじめからないのかはわからないが、人の顔の形をしていない、部分だけが強調されたものもあった。または、二つ以上の顔がひとつになろうとして、その結果、多面的な視点を要求する人の顔とは思えない奇妙に歪んだ顔まであった。
目と鼻の先から見渡す限りの地平線の先まで、空か地底の高み・奥底にまで、顔が所狭しと引き詰められていた。それらが、今オレのいる場所の広大さをも物語った。
声、声、声、声、声……。
その「顔」たちの口から、うめき声のようなものが漏れ聞こえた。一つ一つは、耳を済まさなくては聞こえないようなものまであるが、奇妙にも唱和しているようにも聞こえた。そしてそれら、勝手気ままといっていいほどに空間を埋めつくさんとがなり立てているかのようにも思えた。
何を言っているのか、まるで分からない。赤ん坊の産声や男の雄叫び女の嬌声、はては老人の断末魔まで多種多様だった。一つ一つの「顔」がうめいていることも、違っていた。しかし全体としてそれは、怨嗟、という言葉が似合うものなのだと、理解が降ってきた。
「顔」たちが歌い上げている際限のない怨嗟は、果のないひとつの宇宙のような空間を、今にも押しつぶされそうなほど窮屈な密室に変えていた。
“ここにいる者たちは、人類が文明を作ってから今までに、コード保有者とギアス能力者によって蓄えられ続けてきた囚人たちだ。
昔はまだ網の目が粗くて、捕らえられても自力で抜け出せる者もいたのだが、昨今は監視網が整備されて複雑になっておる。『余波』を浴びたものでさえも、その死後のみならず生前であってさえも、ここの中に捕らえてしまうほどに執念深い大食漢になった―――”
その中で不思議と「声」の声だけは、はっきりと聞こえてきた。
しかし、ここの余りのいきずらさに、オレは窒息してしまうのではないかと恐怖していたので、まともに聞いていられなかった。
今にも、周囲を埋め尽くしている「顔」たちに押しつぶされてしまいそうだった。その後彼らによって、自分であったことまで忘れるぐらいバラバラに噛み砕かれ・咀嚼され・消化されたあと、あの「顔」たちの一部になってしまうことが、芯の底から恐ろしかった。
一刻も早く、ここから抜け出したかった。
“今では、ここから抜け出せる者はいない。抜け出したいと思ってすらいない。『暁の門』は、魂が現実世界に帰るための門は、遠の昔に閉じられてしまった。ここの囚人たち自身の手によってだ。
それがどこにあるのか、わしには分からない。ただ、わしがここで「発生」した瞬間には、それがどこかに「ある」ことだけは確信を持てた。そして、その確信が、肉体を持ったことのないわし自身の中心核でもあった―――”
「声」の言葉には、それとわかるほどの熱が込められ始めていた。しかし同時に、周りの「顔」たちの怨嗟の歌声が、オレの輪郭をぼやけさせるほどの多重の波となって襲いかかってきていた。
その二つに挟まれて翻弄されていたオレは、必死に何か寄る辺となるものを探すために暴れようとした。しかし、逃げるための手足はみあたらない。
あの「声」に助けを叫ぶにも、顎が外れるほどに開いた口からは、囁きすら漏れてこなかった。ただ、彼らに消されるのを待つしかなかった。
“ギアスを持ってしまったわしには、黄昏の門は開けても暁の門にはたどり着くことすらできない。
だが、暁の門は開かなくてはならない。アーカーシャの剣が『神』を殺す前に、この怨嗟に満ちた魂を解き放たなければならない。
そうしなければ、取り返しのつかないことが起きてしまう。このCの世界と現実世界が、逆転してしまうのだ―――……”
「顔」の怨嗟が、「声」の熱を圧倒し始めていた。唯一、オレをこの場につなぎとめていたその均衡が、崩れ始めたのである。
そして、死と隣り合わせの惰性に、オレは引きずり込まれ始めた。 それは、先程まで感じ続けていた恐怖によるささくれを、包み込むように和らげてきた。
すると、先程まで自分を苦しめていた恐怖が、どこかに消えていくのを感じた。自分の死をただ漫然と待っているだけなのに、オレの心は小波も立っていないほどに穏やかになっていた。
後悔がなかったわけでもなく、覚悟が決まったわけでもなかった。ただ、通過するであろう激痛を感じるような体は、ここにはない。オレのすべきことは、すべて、今より先にあったからだ。後悔も覚悟も必要ない。痛みがオレを殺すことができなければ、先のことを恐ることなど、何一つなかった。
その考えは、オレの中の空白に、カチっと音を立てたかのようにピッタリとハマリ込んだ。
気づけばオレに目の前に、白い、どこまでも透き通った手が伸ばされていた。
作り物のようにも見えたのだが、鮮度を欠いた視界の中でそれだけが、思わず総毛立つほどの肌理の細かさをもっていたのだ。その美しさに、オレは陶酔とも言える状態になっていた。
その指先が、ほんの少し動くだけで、心地よい調べが耳に響いてきた。それが空をなぞる軌跡は、今まで目にしたことがないような名画を思い描かせた。そしてその爪は、磨きぬかれた宝石のように煌びやかに瞬いては、神秘の異世界をオレに夢見させてくれる。何の罪もない誰も罰しない、限りない優しさに包容されたセカイ。8年前からずっとオレが夢見てきた、贖罪の先の地平―――。
その「手」は、何もかもが圧倒的だった。どこかにいる神様が、オレの望みを凝縮して作り上げたような奇跡だった。それが、目の前に差し出されていた。
オレは、言葉通りの意味でも、喉から手が出るほどにそれが欲しくて欲しくてたまらなくなった。今すぐにでもそれを掴み取ってしまって、誰の手にも渡したくはなかった。自分以外の他人がそれを愛でることすらも、許し難かった。戦場においても忌避し続けてきた殺人すら、そのためには厭わないと思える程だった。
それさえあれば、ほかには何もいらないと思えてしまうほど、オレにとっては、世界で唯一の宝だった。
だが、そう思うと同時にオレは、その「手」から離れ始めていた。
オレは、それを掴んではならない。その資格は、オレにはない。
資格なんて必要なのか? その「手」は、向こうから伸ばされているじゃないか。掴まないのは、逆に、失礼だと思わないのか!
相反する感情がオレの中でしのぎを削るが、当のオレの心は決まっていた。「手」がオレを追いかけるように伸ばされると、それから逃げるように後ずさっていた。そして、ごっそりと体の一部が一緒に、引き裂かれるかのようにして、それから背を向けた。
すると、今までの法悦が嘘のように消え去った。そして再び、「顔」たちの怨嗟ががなり立ててきた。
しかし今度は、その顔をしっかりと見据えた。
“―――枢木スザク。呪いを是とする者よ”
「声」がオレに告げた。
先ほどの魔術的な時間の中では、「声」の存在はかき消されていた。それ以前にも「声」は、オレにとって煩わしいものでしかなかった。
しかし今は、その声をはっきりと聴いた。
“『ユーフェミア・リ・ブリタニアと共に』、生きろ”
「声」は、オレに命じた。同時に、赤みがかっか何かが迸った。
そして、何か力のようなものが、オレに受け渡された。
「―――そうだ、オレは生きる」
その言葉を反芻するように、オレの口からつぶやきが漏れた。
それを聞いたとき、自分がしゃべれたということに、まず驚いた。
そして、自分の言葉と同時に、今まで希薄だった体の感覚が取り戻されていく。心臓が再び鼓動を鳴らして、全身に血液を流し込んくる。その血の熱さが、オレに命を吹き込んでくるかのようだった。それを、心地よいしびれとむずかゆさともに感じた。
「オレは、……ユフィと共に生きる」
もう一度言った。何かに宣言するかのように、言った。
ユーフェミア・リ・ブリタニア。その名前を覚えている。
どうして忘れていたのかわからないほど、なぜ忘れることができたのかわからないほど、大切な人の名前。彼女のことを思うだけで、胸が熱くなってくる。
彼女に言わなくてはならない想いが、この胸には詰まっていた。今すぐにも、彼女の場所に戻りたい―――。
すると、オレの思いに答えてくれたように、オレを高みへと上昇させ続けていった。上下左右など分からないこの場所だが、向かっているのが穹である確信があった。
まとわりついていた「顔」たちは、はるか彼方に消えて見えなくなってくる。怨嗟の歌声さえも、聞こえなくなってくる―――……。
◆ ◆ ◆
ふと、ここから消え去る直前に、穹を仰ぎ見つづけていたオレは、あの「声」の存在を身近に感じて振り向いた。
“―――頑張れよ、スザク。これからお前の身に起こることは、たぶん、お前の飛び切り最悪な人生の中でも、最も辛い出来事だ”
「顔」がもたらす塗りつぶすかのような重圧とは違う。「手」がもたらすような魔的な誘惑とも違う。ただ傍にいるだけで、安心する暖かさがあった。だから、傍にその「声」がいることに、驚かなかった。
“だが、彼女を救うにはこうするしか道はない。彼女もまたお前同様に、その魂には、人の身には余るような多重の枷をハメられているからな―――”
その時の「声」に、オレは言い知れぬ懐かしさを感じた。相変わらず老若男女の多重の声ではあったが、その声の調子には聞き覚えがあった。
だけど、どこかで聞いたことがあるのに、思い出すことができない。
“お前なら、必ずやってのけるだろう。―――わしの『呪い』を、無駄にしないでくれよ”
「声」は、言いたいことを言い終わったのか口を閉じると、オレの傍から離れようと速度を緩めていった。
だから、最後にひとつだけ、聞きたいことを言ってみた。
「……オレ、あんたと以前、どこかで会ったことがあるのか?」
“……いいや、その者はもう、8年前にこのCの世界から消えてしまったよ。わしのもとにあるのは、その遺言だけだ。
わしはお前にとって、「彼」の代理人に過ぎない。現実で「彼」がお前に渡しそびれたものをここで渡すためにいる、ただのお節介でおしゃべりな……死に遅れさ”
言い終わると「声」は、今度こそ本当に、そこから消え去った。
最後に、「声」がこちらを見た気がした。だから、その顔をはじめて見ることができた。
その顔は、この8年間、忘れることができなかった人のものだった。
だけどその顔には、オレがついぞ見ることが叶わなかった表情が浮かんでいた。
だから彼は、オレの知っている人とは本当に……、別人だった。
だけど、なぜだろうか……。
それは、オレの胸の奥底に巣食っていたものを、取り除いてくれた気がした。
◆ ◆ ◆
そしてオレも、その声を最後に、そこから消え去った。現実で、彼女ともう一度会うために―――。
そこで彼女に言うべきことは、決まっていた。先送りにしてしまった答えを、ちゃんと言わなくてはならない。
……ただひとつ気がかりなのは、彼女が待っていてくれているかどうかだけ。
だって彼女は、いつだって、オレの目の前を全速力で突っ走っているに、決まっているからだ。
長々とご視聴、ありがとうございました。
これにて一旦、この物語は終結させていただきます。
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