艦これ 元深海棲艦・加賀の記録 作:シガナイ提督
あの頃の――深海棲艦だった時の自分の記憶は、艦娘となった今となっては、酷く朧げで、儚い夢のようなものとなっている……などということは、一切ない。
折に触れて思い出し、過日の出来事が夢となって、束の間の安息が、別の意味の安息に取って代わることは数知れない。
艦娘としての自分。深海棲艦としての自分。その境界は曖昧に成り下がり、今の自分自身こそが、酷く朧な、吹けば消え去る灯のような、夢のごとき幻に思えてしまう。
忘れることはできない。
できるとも、思えない。
でも、だからこそ、
私は私の覚えている限りの記録を、ここに残す。
残さねばならないと、思う。
幾度の戦場へ繰り出し、幾百の
もうここまでくると、自分の肉体が、艤装が、妖精たちが、艦娘であったころのものとは違いすぎていることを自覚できるようになっている。
敵を打ち砕く砲列と牙の煌き。
血潮の如く明滅する飛行甲板。
白蝋のように磨かれた、怨霊の髪を片方だけ結った、“姫”の姿。
それが、その時の、私。
私は戦った。
何度でも戦った。
戦って死に、戦って死に、戦って、戦って、そして、死に続けた。
そのたびに私は海の底へ沈み、新たな力と
攻め込んでくるものたちを滅ぼすために、この
ただ、燃え上がるほどの憎悪と、凍てつくほどの憤怒だけが、私の中に力を灯した。
かつてないほどの至福――これまでにないほどの幸福。
敵の機体を打ち砕いた瞬間、敵艦隊を敗走せしめた刹那。
僚艦が撃破され轟沈した時、自らも撃滅され海に帰る時。
どちらも代えがたい充足と充実を、私の心は、魂は、感得していた。
私の中には、艦娘であった頃よりも純粋な想念が、確実に着実に結晶化していった。
戦える。
戦うことができる。
戦い続けることができる。
これほどに幸せなことなど――ない。
そう、想っていた。
いつの頃からだったか。
もう自分が、どれほどの戦場を経験したかもわからなくなるくらい、膨大な年月を費やした頃。
一人の――否、一体の空母ヲ級が現れた。
そのヲ級のことは、とても強く印象に残っている。
彼女は姫の姿の自分に非常に懐いており、…………とても邪魔に思えた。
基本的に自分は、あまり僚艦たちに気を配るようなことはしてこなかった。僚艦たちはそのことに不満を抱いているわけでもなく、むしろその方が都合いいとでも主張するかの如く、姫という上位者に過干渉を試みるものはいなかった。
だが、そのヲ級は違ったのだ。
姫という姿の自分を、まるで宝物か何かのように無遠慮に眺め、こちらが煩わしくなるほど
小生意気な娘だ。
きっとこいつは、自分とは相容れないタイプに違いない。
意外なことに思われるが、深海棲艦にも規律や法則、想念と呼べるものすら持ち合わせていることが、ある程度確認されている。
艦娘が艦隊旗艦を護るように、深海棲艦も艦隊旗艦を護衛するように、その身を犠牲にすること。艦娘が一艦隊六隻編成で出撃するという上限が設けられているように、深海棲艦もまた一艦隊の上限は六隻まで(連合艦隊編成でも十二隻)に限定されていること。
中には、特定の艦娘の特徴を色濃く残したような……あるいは継承されているとしか思えない容姿の鬼姫級の存在があり、彼女たちは他の深海棲艦にはない“発話機能”が存在するのである。
両者の間には、明らかな類似点や相関関係があることは確かなのだが、詳細は明らかになっていない。
彼女、その空母ヲ級は、自分と共に戦いに赴くことが多くなった。
彼女は非常に優秀な存在で、よく艦隊旗艦の私を護り、時には私よりも優秀な戦果をあげることもあった。共に海に帰ることもあるにはあったが、私はかつてほど敵艦娘たちに撃沈されることは少なくなっていた。
暗い海の底で仲間たちの骸に囲われる時間は減った。
代わりに彼女と共に、
照り付ける太陽の熱を、
足元に打ち寄せる波濤を、
風が髪を撫で戯れる瞬間を、
スコールが全身を洗う感覚を、
満点の夜空に瞬く星々の輝きを、
一緒に味わうことができた。
深海棲艦と化してから、考えられないくらい穏やかな時を、彼女と共に過ごした。
過ごすことができた。
……だから、なのかもしれない。
大規模な作戦行動――敵本土急襲作戦に参加した私と彼女は、とんでもない反撃を被った。
油断。
慢心。
そんなものはなかった。
しかし、敵艦娘たちの残存戦力は、予想を大きく覆してきた。長門型や大和型の主砲が爆炎を上げ、敵空母群からは大量の戦闘機が、黒い雨のように急降下し、私たちを覆い尽くした。敵の迎撃は思いの外に強壮にすぎ、我が方の作戦部隊は壊滅的な被害を受けた。
彼我の戦力差は歴然としていた。
私たちは、惨敗を喫した。
随伴艦は瞬く間に海底へと帰っていき、あのヲ級も、大破轟沈は免れなかった。
そのこと自体は、特に珍しいことではない。このヲ級よりも以前から、多くの艦が、空母が、姫である自分の護衛として随伴し、こうして海中に没したのだ。その総数は、百や二百ではきかないだろう。繰り返される激戦と撃沈に耐えられず解体され、他の深海棲艦に吸収、改修の素材――
そして、この
旗艦を護衛した際のダメージが、確実にヲ級の中枢組織を破壊せしめた。腹から下が消し飛び、残った半身も沈み始めている。確実な運命を迎えつつある。ここまで
私は直感した。
この
――嫌ダ。
――イヤダ!
――ソンナノ嫌ダ!!
残った彼女の半身を引き上げ、胸に抱いた。
作戦も何も頭から吹き飛び、腕の中にある僅かな命を守ろうと、発艦した妖精たちを指揮し鼓舞する。
だが、残った機体は僅かばかり。これでは敵を滅ぼすどころか、自分たちを守らせることも不可能だ。
空があまりにも低い。これでは前に進めない。
大勢は決した。
自分は敗けた。
それでも、彼女は……この
祈る思いを打ち砕く徹甲弾が、眩しすぎる痛みが、姫の右半身を直撃した。
どれほど眠っていたのだろうか。
それほどの時間は経っていないと直感した。
気を失っていた自分は、波間に揺られる自分を確かめ、左腕に存在するものを、かろうじて認める。
黒い頭の艤装が剥がれたヲ級は、見たことのない髪色に変色していた。
怨霊のようだった髪は、生気の満ち満ちた、波に洗われ艶めく黒髪へ。
思わず笑みがこぼれた。
こんな私が――今まで破壊することしか求めることのなかった深海の姫が――何かを護ることができたなどと思うなんて。
馬鹿馬鹿しいほどの自己満足を覚えながら、私は“見知らぬ僚艦”を手放した。
深海へと帰投する際、その娘の瞼が、僅かに開いた気がする。
思わず、手を伸ばしかけてしまうが、私はそのまま彼女を残して、沈んでいくことにした。
それからさらに数日の間、私は浮上と撃沈を繰り返した。作戦は継続された。
私の戦争は、まだ終わらなかった。
「はぁ……」
鉛筆で記帳し続ける作業に疲れ、加賀は背もたれに体を預ける。
何より、ここから先のことは、加賀は記述することができない。
この作戦のおかげ――あるいは“せい”――で、加賀は深海棲艦の姫では、なくなったのだ。
本土決戦に参加し、見事な敗北を喫し続け――結果として、私は最後の戦闘で『
幾多の戦場を――それこそ、艦娘時代のものとは密度も数量も比較にならないほどの死地を……幾百の魚雷を、幾千の爆撃を、幾万の砲弾を……尽きること無い命の遣り取りを――経験した加賀は、無類の強さを誇った。相方の赤城のサポートもあり、その噂は他の鎮守府にも轟く練度だという。
……何とも、おかしな話だ。
艦娘としての純粋な性能ではなく、深海棲艦の姫であったが故に、加賀は今の戦力を保持しているというのは。
無論、『D事案』の艦娘すべてが、これほどに顕著な戦果を挙げられるというわけではない。
あの如月のように、中には一度も正式な出撃なく、経過観察という名の拘束期間を味わうものもいるし、そもそもにおいて深海棲艦時の記憶を保持している艦すら、極めて稀少なのだ。……そういう意味では、あの吹雪は異例中の異例にして、真に尋常ならざる逸材であったと言わざるを得ないだろう。駆逐艦でありながらも、破竹の勢いで艦隊戦闘に従事し、数多くの戦場を経て、多くの仲間たちの支援があったとしても、あの能力は逸脱していた。思うに、提督はそれ故に、あの吹雪を重宝していたのかも知れないが、真偽のほどは解るわけもなし。
「……何にせよ、こんな記録なんて、提出できないわよね」
加賀は一人で呟く。
この記録は、加賀の私的な、それこそ日誌程度の意味しか持たない。
にも関わらず、加賀は今のような休息時に、自分の記憶を――過去の整理を習慣としている。心理療法でも、自分の置かれた状況を客観視するのに、ノートに思いの丈や過去の出来事を書き殴るのが効果的とされるのとほぼ同じだろう。
加賀にとって、この記録を、深海棲艦であった時の記憶を書き記す行為は、至極あたりまえな作業とも成り果てている。
こんな記憶を抱えたまま、
実際、加賀は艦娘に戻ることができた直後、しばらくは戦闘など不可能であった期間が存在した。加賀は、深海棲艦の実情に触れることができた、
考えてみるといい。
私たち艦娘は、知らず知らずの内に、かつての
「……考えるな」
思考がアチラ側に引っ張られる感覚も慣れたもの。
加賀は努めて、ソチラ側に進もうとする己を制しつつ、一つの懸念を脳裏に描き出す。
最悪なのは、この戦争に終わりはなく、互いが一方を殲滅せしめることでしか、終わりなどありえないという、事実。
それ以外の終息がもたらされるとすれば、
どうあっても地獄でしかない。
戦争なのだから、
さらに加賀は、静かな絶望を胸に
艦娘から深海棲艦へ、そして深海棲艦から艦娘へと変じ続けた自分は、あるいは再び、深海棲艦に戻るのかもしれない。
そして、
加賀は自分の始まりが何処にあるのか、わからなくなった。
深海棲艦以前の加賀は、気づいた時には鎮守府に配属された。それ以前の記憶などない。
だが……もしかしたら、加賀という自分が、加賀になる“前”が、存在しているのかもしれない。
それは深海棲艦だったのだろうか?
それともまったく違う存在なのか?
では、艦娘と深海棲艦とは、何だ?
どちらが先に生まれ、どちらがどちらに変わったのが始まりなのか?
卵が先なのか、鶏が先なのか――それは加賀には判然としない。判然とするわけもない。
ただ、このことを思うたびに、私たちはとんでもない戦いを繰り広げ、繰り返すだけの“装置”でしかないという、そういった
深く考えては、いけない。
そう思うたびに、自分たちは何なのかという探求が胸を抉るのを実感してしまう。
ふと、言の葉が、漏れる。
「何度でも繰り返す……変わらない、限り……」
自分が深海棲艦の姫だった頃の言葉――怨讐か諦念か悲嘆かに濡れた思いを想起する。
それは果たして、どちらのことを指して言った言葉だったのだろうか。
果たしてこれは、ドチラの加賀が紡いだ結論であったのか。
それは誰にもわからない。
提督にも。
赤城にも。
加賀自身にさえ。
こんこんこん
知らず頭を抱え目頭を押さえていた加賀の意識に、扉を叩く軽快な音が。
無遠慮にも聞こえる娘の声を聞き、加賀は記録を閉じて鍵付きの棚に仕舞う。
「どうぞ」
声に応じて、まったく不愛想な空母が敬礼しつつ入室してきた。
「一航戦、出撃の時間よ」
あの
若干、黒髪を二つに結い流す空母。その背後には、妹とは対照的なほど色素の抜けた白銀の髪を腰まで伸ばした姉が随伴していた。
加賀は謹直に、内実に湧く情動を一切面に浮かべず、答礼する。
「わかったわ」
こういう時、表情筋が死んでいるが如き自分の現状に感謝せざるを得ない。
この鎮守府に拾われ、幾多の戦場で、かつての
代わりに、表情は死に絶え、その鉄面皮ぶりは、赤城以外の僚艦たちからは忌避されがちになったのは、仕様がない。
「…………」
加賀は無遠慮に、そこに佇む少女を見つめる。
見つめてしまう。
「な、何よ?」
「――いいえ」
たじろぐ空母の様が、少しだけ面映ゆい。
加賀の悪い癖だ。この僚艦の反応が、あまりにも加賀の数少ない琴線に触れるので、思わずちょっかいをかけてしまいたくなる。不機嫌そうに――なれども悪い気はしていないような曖昧な表情で、少女は頬を僅かに膨らませている。
「急ぎましょう。遅刻は厳罰だから」
「それくらい解ってるわよ!」
本当に、小生意気な
――この
だが、その方がずっといい。ずっと、ずっとマシだ。
こんな記憶を――疑念を――思いを――抱きながら、戦うなど……