とても励みになっております。
眩いばかりの光を抜けた紫達は、不思議な空間に迷い込んでいた。
見渡す限りの青空、果てしなく続く一本道、桜・砂漠・紅葉・雪と春夏秋冬を思わせる景色。砂漠地帯の奥には巨大な時計塔が聳え立ち、ローマ数字が刻まれた文字盤の長針と短針はⅫを指している。時間の境界からひっきりなしに鳴り続けていた鐘の音は、いつの間にか途絶えていた。
紫はこの場所こそが時の回廊なのだとすぐに理解した。
「おや、なんだか神秘的な場所に来ましたね?」
「ここは時の回廊。タイムトラベラーの魔理沙曰く、過去~未来のあらゆる時空に繋がる時間の通り道だそうよ」
「なんと! くうう、じっくり見て回りたいのに、身体の自由が効かないのがつくづく残念です」
「まさか世界にこんな綺麗な場所があるなんて……素敵ね」
「ふむ、時間の通り道と言うだけあって、時節が滅茶苦茶だな。果たしてこの景色に意味はあるのだろうか……?」
彼女達は時の回廊に入った瞬間から、櫂の壊れた船のように回廊の上を飛び続けている。先頭に隠岐奈、文、杏子が並び、その少し後ろから紫がついていくような形だ。
紫は2021年2月21日の博麗神社で、時の回廊から一時帰還したマリサの話を思い起こす。
『時の回廊の中だと思うように動けなくてな』
――どうやら咲夜の懐中時計は意味を為さなかったようね。
今の紫は辛うじて手足が動かせる状態であり、時の流れから脱出出来る程の力は無い。
――あとは確かこんな事も言ってたような……。
『あいつの話じゃ、時の回廊を使えるのは私だけとか言っていたが、実態は山のように高い建物や紅魔館より大きな乗り物で溢れて大混乱。極めつけは時の回廊が途切れて真っ新だったからな。最早まともに機能してるかどうか怪しいもんだぜ』
――今の所大きな異常は見られないわね。霊夢とマリサが解決してくれたのかしら?
軽い気持ちで振り返った紫は、すぐにその認識を改める。
紫達が侵入した地点を境に時の回廊が消滅している点はマリサの証言通りだったが、真っ新ではなく、捻じ曲げられた二つの空間が重ね合わせ状態で映し出されていた。
第一空間は魔法の森跡地上空から俯瞰した幻想郷全体の光景、第二空間には紫達が時間の境界越しに視たアプト星と思しき都市部。しかしそれらは立体的でありながら平面のように俯瞰することが可能で、距離の概念が無く、光と影・表と裏が同時に観測できる掴みどころのないものだった。
一例を挙げると、幻想郷東端の小高い山の頂に建つ結界に囲まれた博麗神社と、幻想郷中央の平野に位置する人里が距離や高度を無視して隣接しているかのように映り、他の地域も同様に表示されている。
更に建物は屋根や壁が存在しないかのように、森は平原のように、湖沼は水溜まりのように、地下・暗闇・空は日の照らす地上のように、地形や障害物を無視して見通せる状態であり、各所の現況が一目瞭然となっていた。
人里の寺子屋の前では、神子、白蓮、華扇、
妖怪の山の頂に建つ守矢神社では、神奈子と諏訪子が屋根の上から地上を見下ろし、天狗達が住む里のとある屋敷においては
他にも永遠亭の診察室にて電子端末を操作中の永琳に詰め寄る鈴仙や、太陽の畑近くのカーネーションが咲き誇る花畑から時間の境界を仰ぐ幽香。
冥界の白玉楼の縁側に座り、不安げに時間の境界を見上げる幽々子と妖夢。
地獄の是非曲直庁の一室で小町に命令を下す映姫。
天界の比那名居邸のバルコニーにて、桃を齧りながら退屈そうに地上を見下ろす天子と彼女を見守る衣玖。
紅魔館屋上でパラソル付きガーデンテーブルの前に座り、時間の境界を見上げながら紅茶を味わうパチュリーとレミリア、焼き菓子を頬張るフランドール。
魔法の森跡地上空で、互いに固く手を握る咲夜と輝夜と、魔理沙邸跡に座り込んだまま時間の境界と彼女達をじっと見つめるこいし。
月の都の結界の内側に広がる静かの海にて、通信装置片手に神妙な表情で時間の境界に覆われた地球を眺める依姫と無表情のサグメが映る。
アプト星と思しき都市部を映す第二の空間には、無数に乱立する超高層ビルの内部の他、北東にある多数の宇宙船が停泊する空港や、南西の翠玉色の海底に建つガラスのドームで覆われた都市に加え、これらの都市を土台にした仮想現実空間内で、老若男女様々な人種や種族が経済活動を行う様子も重なって表示されていた。
果てには星を飛び越え、アプト星の周囲を巡行する50を越える無人宇宙船の内部や、近隣の人工惑星の核に建つ無機質な都市の光景までも鮮明に映っていた。
これらの地理的距離や異界はおろか、視点すらも超越した光景が同時に流れ込み、一泊遅れて喧騒が耳に届く。
『一体この騒動はいつまで続くのでしょうね。門下生達が不安がっています』
『おぼろげですが、149年前にも同じような異変があった気がします。その時は命蓮寺に被害はありませんでしたが……』
『境界異変ですね。転生前の私――阿求が遺した記録によれば、異変は未解決のまま終わり、博麗霊夢、霧雨マリサ、アリス・マーガトロイドの3名が行方不明になったとか』
『懐かしい名前ね。霊夢とは仙人になる為の修行をつける約束をしていたのに、こんな形でお別れすることになるとは思わなかったわ』
『八雲藍の話では、八雲紫と博麗杏子が解決に向けて動いているそうだ。私達は人々に被害が及ばないようにしなければな』
『ねえどうするの神奈子? このままだと幻想郷は――』
『私達にはここしか居場所は無いわ。なればこそ、私達のやるべき事は一つよ』
『お前達、状況の確認を急ぎなさい! はたて、椛。射命丸は何処にいる?』
『文は人里に取材に行くと話していましたが、そこから先の事は分かりません』
『龍様。文さんなら、旧魔法の森地区の上空で見かけました。私が連れ戻してまいります!』
『今日はいつにも増して厄が多いわね。願わくば、私に全ての厄が集まらんことを……』
『――という訳でさ、地上は大混乱に陥っているよ』
『へぇ、そんなことになっているのかい。ちょっと見物に行ってこようかねぇ』
『情報ありがとうございます、萃香さん。こいしが無事だと良いのですが……』
『師匠、どうして輝夜様を引き留めなかったのですか!』
『主の決断を尊重するのが従者の務めよ。ウドンゲ、姫を信じなさい』
『空が不穏ね。いつまでこの状態が続くのかしら。お花に悪影響が及ばなければいいけれど』
『幽々子様、本当に宜しいのですか? ご命令があれば、すぐに調査に向かいますが……』
『紫が調べているから安心なさい』
『小町、今の幻想郷は生命の理を覆しかねない程の深刻な事態に陥っています。至急博麗の巫女に連絡を取りなさい!』
『畏まりました!』
『はぁ~退屈ねぇ』
『総領娘様、くれぐれもあの得体の知れない場所に行こうと思わないでくださいね』
『このままで良いのレミィ?』
『パチェ、私は咲夜と魔理沙を信じている。その為の布石も打っておいた。今は滅びゆく刹那を楽しもうではないか』
『う~ん、やっぱり咲夜の作るお菓子が一番美味しいわね。早く帰ってこないかなぁ……』
『いよいよ始まるわ。輝夜、心の準備はできているかしら?』
『もちろんよ咲夜』
『魔理沙帰ってこないかなあ~』
『ここにいらっしゃいましたかサグメ様』
『……』
『〇▽××△〇◇□~!』
『××〇△□▽?』
『〇×□◇◇ー!』
――これはっ! あ、あああっ――!
本能的に危険を察した紫が反射的に視線を戻すと、喧騒はぴたりと止んだ。
「はぁっ、はぁっ、はあっ」
「おい紫。息が上がっているみたいだが、大丈夫か?」
顔が見えないながらも、異変を察した隠岐奈が気遣いの声を掛けてきたが、今の紫に返答する余裕は無い。数値や言葉では表しきれない膨大な情報の奔流に、脳が悲鳴を上げてしまっていたからだ。
――あ、危なかったわ。もう少しで意識を失う所だったわね。
その後深呼吸を何度か繰り返し、紫はようやく冷静さを取り戻した。
――信じられないことだけれど、恐らく今の光景は時間の境界が繋いだ時空のほんの一部ね。もう、何がどうなっているの? 私達は過去に向かっている筈よね?
「あ、あれはなんでしょうか!?」
文の切迫した声に意識を戻すと、遥か前方から道を塞ぐ程巨大な鉄の壁が迫ってきており、それが横倒しになった超高層ビル群だと認識するのに然程時間は掛からなかった。
「まるで回避不能の理不尽弾幕だな。さて、どうしたものか……」
「は、早くなんとかしろ! お前達と違って私は人間なんだ! あんなのが直撃したらひとたまりもないわよ!?」
「いやいや、妖怪でも直撃したら只ではすみませんよ」
――まずいわね。このままでは博麗の巫女を失う事態になってしまうわ。
その時、紅色の飛翔物が紫達の間を抜けていく。
「!!」
「なっ!?」
それは紫の動体視力で辛うじて“槍”だと判別できるほどの速度で、桁外れの“力”が込められており、前方に迫る超高層ビル群を次々と貫通しながら地平線の果てまで飛んで行く。
貫かれた超高層ビルは真っ二つに折れ、回廊の外の“季節”に落ちると、幻のように跡形もなく消滅した。
「九死に一生を得るとはまさにこのことか」
「な、なんだかよく分かりませんけど、助かりましたね」
「ふむ、凄まじい威力だったな。相当な使い手だろう」
――あの魔力と紅色の槍はまさか――!
一息ついて考える間もなく、今度は翠玉色の鉄砲水が前方に迫る。
「今度は水!?」
「息を止めなさい!」
紫は大きく深呼吸した後、着水する瞬間に息を止めた。
程よく冷えた水の中には、バラバラに砕けた虹色の珊瑚礁の中を鮮やかな色合いの熱帯魚が群れを成しており、紫達が接近すると魚達は散り散りになって逃げて行く。
地球上のあらゆる珊瑚礁にも引けを取らない美しい海だったが、今の紫達に景観を楽しむ余裕はなく、ただひたすら激しい水流に耐えていた。
10秒、20秒、30秒と経過し、命の危機を感じ始めた頃、前方から強い光が差し込み、水流から抜け出した。
「――ぶはあっ! はぁっ、はぁっ、死ぬかとっ、思いました……!」
「はぁ、はぁっ、一体、何なのよ、もう!」
彼女達はずぶ濡れになってしまったが、大きく肺を膨らませて呼吸を整えている間に乾いた体へ戻っていた。
「ふぅ。時の回廊って不思議なことばかり起きるのねぇ。魔理沙はこんな事一言も言わなかったわ」
「酷い目に遭いました。カメラが壊れていないといいのですが……」
「はぁ、もう帰りたい……」
「時間移動がここまで過酷なものだったとはな。私はもう何が来ても驚かんぞ」
文達は前方に注意を向け、紫は後方を除いた周囲を警戒しながら進んでいくと、やがて前方の遥か遠く、回廊の中央に立つ三人を発見する。
――誰かいるわね。
徐々に距離が縮まるにつれて、その全貌が明らかになっていく。
宙に浮かぶ透過スクリーンの隣に純白のドレスを身に纏った十六夜咲夜似の女性が立っており、彼女の正面には赤いリボンが目立つ黒髪の巫女と、黒いウィッチハットに白黒のエプロンドレスを着た金髪の少女の後ろ姿が見える。
黒髪の巫女は右手に幣を持ち、金髪の少女は左手に八卦炉を構え、互いに離れたりしないようにしっかり手を握っていた。
――咲夜!? それにあの二人はもしかしたら……!
咲夜が何かを呟いて紫に視線を送ると、二人の少女が振り返り、目が合った。
「えっ、紫!? どうしてここに?」
「それに文と隠岐奈もいるじゃないか。あっちの少女は博麗の巫女みたいだが……美咲じゃないのか?」
黒髪の巫女――霊夢は心底驚いた様子で、金髪の少女――マリサは困惑を隠せない表情で紫達を見上げていた。
霊夢は見覚えのある懐中時計を首からぶら下げており、紫は彼女達こそ、β世界の歴史の2021年2月21日に時間の境界の調査に向かった霊夢とマリサなのだと瞬時に理解した。
色々と積もる話はあったが、紫は喉元まで出掛かった言葉を飲み込み、交差する刹那に一言だけ告げる。
「霊夢! 私は魔理沙の元に向かうわ! 其方は任せたわよ!」
返事を聞く間もなく、紫達は霊夢達のいる地点を通り過ぎて行った。