ダイの大冒険――幸せを求める世界   作:山ノ内辰巳

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ダイとアバン先生のお話。



最小公約数

 コンコン

 

 ドアが軽くノックされ、見事にカールした青い髪と大きな黒ぶち眼鏡を持つ男性が、ひょいと顔を覗かせた。

「アバン先生」

 ダイは笑顔で師の名を呼ぶ。

「こんにちは、ダイ」

 にっこりと優しい笑みを浮かべ、アバンは「さあ今日も頑張りましょう」とダイに席を促した。

 

 この日は、パプニカ王宮の一室で毎週行われている、カール王国との友好事業の日にあたる。

 平たく言えば、『勇者ダイのお勉強の日』である。

 

 今日の授業は最初に政治、次に算術と続いている。カールから持ってきた教科書をテーブルに置き、アバンはダイを振り向いた。

「今日は税の使い道について、でしたね。どうです、ダイ? 予習はしてきましたか?」

 朗らかな声で尋ねるアバンに、ダイは頷いた。教科書を広げながら、彼は少々緊張した面持ちで「あの…」と口を開く。

「予習はしてきたんですけど…先生、オレ、今日は…別の所を教えてほしいんです」

「別の所…ですか?」

 アバンは、思わず聞き返した。用意した本に書いてある順番で教えねばならないという義務は彼にはないため、ダイの提案自体は何ら問題ないのだが、いままでダイがそういった提案をしてきた事が無かったため、少々驚いてしまったのだ。

「駄目…ですか?」

 上目づかいに問われ、慌てて首を振る。

「いえいえ。駄目なんて事はありませんよ。それで、どのページですか?」

 

 ダイが教わりたいと言ったのは、『議会』についてだった。

 

 珍しい事もあるものだ…アバンは内心で独りごちる。

 ダイは政治に関わる事柄が苦手だ。12歳までを人とは違うコミュニティーで育ってきたのだとは思えないほどに社交的な少年だが、それでも社会の仕組みというものにはかなり疎いところがある。人がその生活や関わりを維持するために築いてきたものの集大成が『政治』であるという事も、そのルールや意味を学ぶ事の大切さも、重々承知しているが、煩雑さを覚えるのだろう。

 

 そのダイが自分から政治学の学びたい箇所を指定してくるなど、意外のひと言に尽きる。それでもその驚きをアバンは表には出さずに、ダイの望むままに議会の仕組みと意義を説いた。

 興味を持っているのならば、わかる範囲で徹底的に教えるというのがアバンの教授方法だ。人間、『知りたい』という欲求がある時に学ぶのが最も吸収が早いのだから。

 

(ですが、これは…違いますね……)

 

 アバンの書いた説明を、たどたどしく写すダイ。帳面と黒板を往復する、その視線。

 この日のダイの黒い瞳に宿るものは、「興味」の言葉だけでは足りない事がアバンにはわかった。

 張り詰めた力が宿った視線。勉強にある程度の緊張感は必要だと思うが、そうではない。

(余裕がない…)

 今日のダイには、いつも彼とともにある明るさが欠けていた。

 アバンは3年前を思い出す。

 

 デルムリン島で初めて彼を教えた時、勇者に憧れる12歳の少年の情熱そのままに、剣術への意欲は実に高かった。逆に呪文や一般素養の授業は、ちょっと(という事にしておこう)意欲に欠けるところがあったのをよく覚えている。これは今でもそう変わらない。基本的に、考える事よりも身体を動かして行動する事が好きな子なのだ。

 

 だが、どれほど興味が無くとも、疑問に思っていた事に答えが見つかり、それまで知らなかった事がわかるようになれば、ダイは嬉しそうに笑い、『知る喜び』に屈託ない笑顔を見せてくれて。その喜びに満ちた素直な笑顔が、教える側として、アバンのやる気にも繋がった。

 

 そんな、周囲にも伝わる明るさが、今日のダイには無い。

 

 

「先生、議会って…会派とか党とかがあるでしょう? あれは、何なんですか?」

 議事進行の流れを話していると、ダイが質問した。

「え? ああ…会派ですか」

 アバンは立ち上がり、横にかけられている黒板に「そうですねぇ」とロウ石でいくつかの丸を描いた。

 

 黒板に描いた丸はダイの言った党や会派といった集団を表したつもりだ。その中に適当な単語と数字を書いて見せる。いくつかは、カールやパプニカに実際に存在する会派の名前であり、数字はそれぞれの会派の人数だ。

 

「色々な人が意見を出し合いますが、バラバラに発言するよりも、利益や主張が同じ人がいるならまとまって『これだけ多くの人の意見です』と数を主張した方がいいでしょう? どんな立場の、どれ程の数の人がその意見を持っているかという事も表しやすいですから」

 頷くダイ。その黒い瞳に、いっそうの熱がこもる。

「――時には別々の党同士ががくっついたりもします。こんな風に…」

 二つの丸を更に大きな丸を描いて囲い込む。

「細部では違っていても、大筋で合意出来る意見を持っているのなら、一緒に協力して要求を通す――仲間になるわけですね」

「へえ…仲間かぁ…」

 しみじみとしたその声に、アバンは小さく吹き出した。

「先生?」

「いえ、余りにもしみじみ言うもんですから、可笑しくってね」

 くっくっと喉を鳴らす、アバン。丁度その時、壁に掛けられた大時計が音楽を奏で始めた。

 時刻は丁度15時。授業を始めてからあっという間に90分が経っていた。

「ああ、もうこんな時間だ。休憩にしましょう、ダイ。レオナ陛下もいらっしゃるんじゃないですか?」

 後半の台詞は、少しからかい気味に口にしたつもりだ。

 だが――

 

「今日は…無理なんじゃないかなあ……」

 

 ダイの反応は、静かなものだった。苦いものを飲み込んだような表情と声音は、ますますいつものダイからはあり得ない事だった。

 お茶と焼き菓子を運んできてくれたメイドが退室するのを待って、アバンはダイに尋ねた。

「何か、ありましたか…?」

 

 

 

「…授業の前に、レオナを探してて……」

 ぽつぽつとダイは話し始めた。

 

 パプニカの女王として忙しい日々を送るレオナは、ダイの授業がある日には、いつもならばその前後に執務の休憩時間を設けている。そうしてダイと一緒にお茶を飲んだり庭園を散歩をしたりして、ささやかな心の洗濯をするのだ。

 二人を見守る周囲の面々からすれば、実に微笑ましい恋模様である。もっとも、当事者の片方はその自覚があるのかどうか不明なのが、周囲の新たな悩みの種にもなっているのだが――それはまた別の話である。

 

 レオナに会えるのはダイとて勿論嬉しいし、彼女がどれだけその時間を喜んでくれているのかも知っている。だから今日も、いつもと同じように授業の前にレオナに会ってから教室に行こうと思っていた。

 だが、ダイは、レオナに会うことは叶わなかった。

 彼女は女王として議会に臨んでいたのだ。

 

「オレ、あんな大きな会議は初めて見ました」

 

 通りかかった三賢者の一人アポロに頼んで、こっそりと議会を見学させてもらったという弟子の言葉に、アバンはただ頷いた。

 世界で主要な位置を占める国は、全て王制を敷いているが、いずれも専制的なものではない。議会があり、そこでまとめられた意見を最終的に国王が裁可するという形を取っている。

 だが、女王であるレオナが臨席したということは、先週の議題はかなり重要な案件だったのだろう。アバンもカールの王配である以上、友好国パプニカの動向は逐一チェックしているのだが、特に情報は入ってきていなかった。

「…どんな議案だったのですか?」

 あるいはルール違反かもしれない…そう思いつつも、アバンはダイに尋ねた。

 その問いに、ダイの表情がわずか曇った。

 

 

 

 議会で取り上げられていた案件は、魔族たちに関してだったという。

 

 

 

 現在、どの国も魔族やモンスターの市街への出入りを禁止する法はない。意外な事に思えるかもしれないが、そもそもが魔に属する者たちは人間の街に入る事を好まないのだ。

 人間のように群れて暮らすという事をしない彼らは、人と交流があったとしてもその輪の中に入り込む事を嫌がる傾向にある。かのロン・ベルクが良い例だ。

 また、戦争中ならともかく、現在『敢えて市街地へ入ろうとする魔族・モンスター』というのは、大体において3年前の大戦で名の通っている者ばかりで、これも問題にはならない。彼らは経緯はどうあれ、地上を共に守った仲間なのだから。

 それゆえに、これまでは特に議論もされなかった。

 

「それを…法を以て禁じると?」

 

 アバンは眉を顰めた。

「そういう意味だったと思います。オレ、難しい言葉はあんまりよくわからなかったけど…」

 ダイの答えに、なんてことだ…とアバンは内心で舌打ちをする。そんな案件、ダイの表情が曇るのも当然ではないか。

「提案してたスムグル男爵って人は、『危険な魔族たち』だけを禁止の対象にしてたみたいでした…けど…オレ……」

 何だか…怖くなったんです……。

 ぽつりとダイが呟くのに、アバンは頷いた。

 

「わかりますよ。何を以てして『危険な魔族』に当てはめるのか――いくらでも拡大解釈出来てしまいます」

 

 スムグル男爵という人は、そこまでの意識はないのかもしれないし、防衛意識が高いだけで魔族たちを嫌っているわけではないのかもしれない。だが、一度その法が制定されてしまえば、法の存在を拠り所にして、あらゆる場所で魔族や魔物の排除が始まるだろう。大戦の恐怖はまだ人々の心に新しい。最悪、運用者の胸先三寸で仲間たちとて排除対象にすることもできてしまう。

 残念だが、人間とはそういうものだ。

 実施が可能かどうかはともかくとして、そんな法は自分達が目指す世界から逆行するものだ。

 

 そこまで考え、アバンは下唇を噛んだ。この情報がいままで彼の所に届いていなかったことを思い出したのだ。

 

 彼の元に上がってきたパプニカの情報といえば小麦の値上がりや大教会の司祭が交代したことなどで。それらも勿論重要な知らせではあるけれど、今聞いた話には比べるべくもなかった。

 一般的に、新たな法や条例が布かれるまでには、それに至るまでの問題が多々沸き起こるものだ。男爵がどのような団体の利益代表であるかまではアバンは知らないが、彼の領地内で魔族や魔物による被害でも出たのだろうか――そういった情報の一切がアバンの手元には届いていなかった。

 

 他国の情報を得るために働いてくれている者は、アバン自身が選んだ者達で人柄も経歴も信頼できる。意図的に情報を隠すような者達ではない。

(……単に、私の元にまだ届いていないだけか…それとも…大した情報ではないと判断したのか………)

 考えても今この場では調べようもない事だが、理由が後者であった場合は問題は深刻だ。情報と言うものは玉石混交とは言え、収集する者が情報そのものを軽視していては意味が無い。

 何より、『魔族の締め出し』に繋がる問題を大した問題ではないと考えた結果ならば、その思考が危険なのだ。

 

「…まさか、その案は通りそうなんですか?」

 

 尋ねると、ダイは「わかりません」と頭を振る。授業開始まであまり時間はなかったし、あの場に長くいても、ダイには何を意見する資格もないのだ。

「ダイ…」

 愛弟子の心情を慮って、アバンの胸は痛む。ダイはそう言うが、たとえ何も出来ないのだとしても、結果を見届けたかったに違いない。議院を後にする際の辛さは如何ばかりだったろう。

 

「先生」とダイはうつむき加減だった顔を上げた。

 

「オレ、政治って難しくて…レオナともそんな話は全然したことなかったんですけど……でも、」

 彼はそこで一旦言葉を切った。どういう風に言おうか、逡巡する。

 脳裏に浮かぶのは、男爵の口上を聞くレオナの様子だ。

 奏上される立場にある者として、一切の感情を見せずに、ただ座っていた彼女。

 その白い手は…微かに震えていた。

 

「レオナは、あそこに一人で…。すごく、必死だったから…だから――」

 

「――オレも頑張りたい」

 

 静かで、力強い決意。

 青年期のとば口に差しかかったばかりの、まだ15歳という年齢だというのに……。

「そう…ですか」

 アバンはダイの黒髪を優しく撫でる。知らぬ間にこの弟子もまた大きく成長している。そのことに喜びを覚えながらも、成長を促した原因を思って胸が痛むのは仕方のない事だった。

 

 

 

 

 

 休憩が終わって、二時間目。算術でアバンが教えたのは、『公約数』というものだった。

 二つ以上の整数がある場合、それらを共通して割ることのできる数のことで、その最大のものを最大公約数という。

 ちなみに、これはダイが望んだ授業というわけではなく、単純に、教科書の掲載順である。

 

 求め方を習ったダイは、アバンが黒板に書いた問題に奮闘していた。アバンにしてみれば、これは割り算と同時に掛け算のおさらいにもなるので、ダイの算術レベルには丁度良いのだ。

「えーっと…」

 がしがしと頭をかきながら、ダイは小さな公約数を掛けていく。数多ある数値を順々に選び、丸で囲んで、掛け合わせた数値がごちゃごちゃにならぬように線で結んだりしながら。

 3年前ならば四則計算自体が危うかったことを考えると、ダイは本当によく頑張っているだろう。たとえ好きな分野の事柄であっても、年単位の空白があれば遅れを取り戻すのは難しい。ましてやダイは算術が好きではないのだ。しかし…

 

(頑張ってくれるのは、とても嬉しいんですが……)

 

 切っ掛けになった決意の重さを考えると、手放しでは喜べないというのがアバンの感想だ。

 だからといって、いつまでも無邪気な子供のままでいてほしいとも思わない。本人の意志に関係なく、ダイの立場というものは政治的に常に不安定なのだから。

 ふとダイの視線が黒板から外れて窓に向けられる。

 よく磨かれたガラスの向こう、白亜の城に添うように建つ赤レンガの建物は、議院だった。ステンドグラスが輝くその中で、いまどのような話が交わされているのか――それを知る術は、師弟どちらも持たない。

 

 先の時間にあんな話をした手前、二人の中から、いま行われているだろう会議のことが消えるはずもなかった。

 

 授業が終わってから何と言ってダイを励まそうか…アバンがそんな事を考え出した時だ。

「あ…」

 ダイが小さな声を上げた。

「どうしました、ダイ?」

 ことさら明るい声音で、アバンは問いかける。彼に向き直ると、ダイは「ほら」と黒板を指さした。

「先生、ほら、これって似てませんか?」

 

 黒板には、アバンが書いた問題と、ダイが書いた、お世辞にも綺麗とは言えない数字がいくつも書かれている。

 首を傾げるアバンに、丸で囲まれ、あるいは他の数同士を掛け合わせて出来た公約数の図を指しながら、

「さっき、先生が書いてくれた、会派の図!」

 小さな発見に、ダイはちらと笑顔を見せた。

「なるほど、確かに…」

「ね。似てるでしょ、先生」

 アバンも薄く笑う。それは先程の授業で、彼がダイにわかるように描いた会派の図によく似ていた。

 

 小さな公約数を沢山掛け合わせて求められる、最大公約数。

 小さな会派同士が手を取り合って出来上がる、最大会派。

 

 ダイは、己が導き出した公約数を小さい順から眺め、最大公約数の所で視線を留めた。見る間に笑顔がしぼむ。

「…あの意見に、何人くらいが賛成するんでしょう?」

 ぽつりと少年は呟いた。

 

 

 

 最大公約数に代表される大きな数――有力な会派があって、その他にもいくつもの小さな数の集まりがあって……。

 時に彼らは、他と手を結んで大きな勢力になり、自分達に共通の主張を通そうとする。

 

 ならば、数こそが力だ。

 

 より多くの者を幸せにするために、より多くの者が主張した意見が通る。多を取り寡を捨てる事で、問題を解決していくのだ。

 算術の式と違うのは、割り切れない想いを抱えつつも進んでいくという事……かもしれない。

 そうやって人の世界は『答え』を出していく。

 

 今回の会議で出される答えは、なんだろう? 正解するのは、自分たち? スムグル男爵? それとももっと別の人たちだろうか?

「ダイ…」

 人が支配する地上では、魔族や知恵ある魔物たちより人間の数が多いのは道理で。

「人間以外、必要ないって考える人の方が…ずっと……多いんじゃないでしょうか」

 たとえどんなにレオナが反対したとしても、会議の流れは変わるものだろうか。彼女も人間の国の女王として、守らねばならないルールがあるのだ。

 

「そうですね…。確かに、あなたの心配は当たるかもしれません」

 アバンの低い声は、他の一切の音を消すかと思えた。

「先生…」

「国王の役目は国の指針を決める事――レオナ陛下が我がカールや他の主要国との協調を重んじておられる以上は、そういった法案が通るかどうかは五分五分ですが…」

 

 例えば、ロモスでは魔王軍の被害があったにもかかわらず、その将であったクロコダインが街の復興を手伝い、シナナ王自らが敬すべき敵将として彼を賞したという事例もあるため、人と魔との友好ムードがかなり高い。また、深き森の王国テランなどは、そもそもが信仰の対象が人の神ではないのに加え、ダイという存在そのものを神聖視している感がある。

 

「でも…」

「ええ。それでも、賛成多数となった場合は、魔族の締め出しは可とされるでしょうね…」

 それがパプニカの法である限りは、元首である女王がルールを破るわけにはいかないだろう。レオナは…レオナだからこそ、法を遵守せねばならない。

「そう…です、よね」

 ダイは項垂れた。師の言葉は自分の不安を的確に言い当てる。結果を見たわけでもないのに、不安だけがどんどんと胸中で育っていくのが止められない。

 勉強すればするほど、さまざまな事を知れば知るほど、難しい問題が見えてくる。その問題は、人が出してきた『答え』の積み重ねだ。

 

 かつて大魔王と闘った時よりも、重圧感は上かもしれなかった。戦い方もわからず、高く厚い壁の前で、立ち尽くすしかないのではないだろうか。

 指の先から力という力が抜けそうな気分に陥りかけた、その時だった。

 

「ですが、それが何だと言うのです?」

 

 涼やかな声だった。

 顔を上げれば、師が、眼鏡を拭きながら口元に笑みを浮かべるのが見えた。

 眼鏡を掛け直し、アバンはダイの両肩に手を置いた。

「ダイ、どうしたんです? あなたらしくもなく、委縮しちゃってますね」

 苦笑する師に、ダイは何か言おうと思うのだが、言葉がなかった。委縮――そうかもしれない。先の会議を見た時から、自分は何かに呑まれてしまっているのかも。

「自分が立ち向かうモノの強大さが見えて、竦んじゃいましたか? レオナを助けて、背負ってるモノを一緒に荷って歩むって決めたんでしょう?」

「あ…先生、オレ…」

 綺麗なブラウンの瞳が、伊達眼鏡の奥ですうっと細まった。

「いいですか、ダイ」

 

「人が出す『答え』は、必ずしも『正解』ではないんですよ」

 

 広い王宮の一室。白い壁に囲まれた静謐な二人だけの部屋で、それはとてもよく響いた。

 くすりと微笑んで、肩から話した左手の人差し指を振り、勇者の家庭教師は語る。

「考えてもごらんなさい。百年…いや、五十年…二十年間でもいい。たったそれだけの間に作られて、現在では運用されなくなった法や制度なんて、山ほどあるんです。廃止されたり付帯事項がくっついたりして、どんどん変わっていった――」

「…はい」

「――さて…それらは何故、変わっていったんでしょうね、ダイ?」

 問いを振られ、ダイは一瞬身体を揺らした。そして、アバンの言わんとする事を了解して息を飲んだ。

 

「わかるでしょう。『良くしたいと思ったから』です」

 

「良くしたい…から……」

「ええ。本当に『正解』なら、直しようもないでしょう? ですが、そうじゃない。どんなに多くの人が望んだ事であっても――」

 ――変えていけます。

 静かで、だからこそ力強い言葉だった。

 

 簡単なことではないだろう。それがわかっていても、師の言葉は救いであり、希望であり、ダイの心に喝を入れてくれた。

「仮令、今回その法が成立したとしても、変えましょう。何度でも何度でも。挫けずに、諦めずに……」

 ダイを見つめるアバンの瞳が、不敵に瞬いた。

「勇者は、諦めないものですよ?」

 

 

 

 時間になり、アバンが帰ったあとの部屋で、ダイは黒板を眺めていた。

 ロウ石で書いた、自分の汚い数字に混じって、先生がチェックした綺麗な文字が躍っている。

 公約数を書いていくという問題は、掛け算・割り算が苦手な自分には難しかった。それでも良い線いってるだろうと思っていたのだが……結局、どの問題もOKはもらえなかったのだ。しかも全部、同じ間違いをおかしていた。

 ぽり、と頬をかく。苦笑する声が脳裏に蘇った。

 

「忘れちゃ駄目ですよ、ダイ?」

「どうしたって、大きな数に目がいっちゃいますけどね――『1』を忘れちゃいけません」

 

「どんなに大きな数字でも、『1』が集まって形作るのですから……か」

 口調を真似して呟く。大きく温かい手が頭を撫でてくれた感触まで蘇ってきそうだ。

 

 そうだ。忘れてはいけない。

 自分はこの地上が好きで、ずっとここにいたいと望んだ。家族や友がいる地上で、生きる事を選んだのだ。

 

 最小の存在、最小の意見――『1』は、ダイ自身だ。

 

 そうして、同じ世界を望んでくれる仲間がいる。少しずつ少しずつその輪は広がる。広げられるのだと知っている。

『1』が『2』になり、『5』になるように。決して世界を割り切る事は出来ないのだとしても。

 

「……ゼロじゃない」

 

 丁寧に黒板を消しながら、ふと、窓の向こうに目をやる。

 夕陽に照らされて、燃えるように緋く染まって見える議院。

 もう議会は終わった頃だろう。ならば自分は……、結果を聞きに行くべきだ。

「レオナ……」

 この国の柱たる娘の名を、唇に乗せる。

 彼女もまた、同じ『1』だ。

 

 待っててくれよ。オレ、頑張るから。何度でも、諦めないから。

 オレ、勇者だもん。もう忘れないから。

 

 

(終)




 この勇者と大勇者の場合、
「私が治める国があるのだとすれば、自分で探しに行きたいのです」
 とはならないのが好きです。入り婿さんの御立場って、古今東西けっこうなご苦労があると思うので頑張れ、ダイ、先生。
 舅さんが既にいないのも共通点。考えると、先生は元カールの騎士団員だから剣はフローラ様の父王に捧げていただろうし、ダイのところにアバン先生を勇者の家庭教師として派遣要請をしたのは、レオナの父王なんだよねえ。…どちらももう他界。どこにも書かれないけど結構人は死んでるんですよね、ダイ大は。

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