戦中戦後の、あるひとコマです。
「え…何で?」
「何でもなにもねぇ。これは覚える必要はねえ。」
常になく不機嫌な顔で、呪文の契約の魔法陣を師匠と慕う老人は消した。砂浜に描いた陣を足で踏みにじる念の入れようである。
「でも、師匠は使えるんだろう?」
「……契約はしたが、使った事はねぇよ。」
それなら、とポップは食い下がる。
決めたのだ。
極大消滅呪文を伝授されたその時に。
体調の悪さをおしてでも自分の求めに応じて、かの呪文を託してくれたその時に。
師匠に出来る呪文は全て覚えてみせると。
師匠のようになってみせる、と。その大魔道士としての教えを全てこの身に受け継いでみせる、と。
その覚悟の裏にあるのは優しさと寂しさだった。言う方も聞く方もわかっている。
師弟の間に残された時間は少ない。
ポップが自分を安心させたいと思っているのが、ひしひしと伝わってくる。
「……だからこそ、だ」
マトリフは目を細めて年若い弟子を見やった。
ああ、眩しい。若さも熱意も、将来性も、可能性も…希望も。
全てがいま、この、世界が大魔王の手に落ちようとしているかつてない危機にあって、まばゆい。
数少ない友人と言える存在だった、あの大勇者が遺した弟子たちは皆そうだ。
だが…自分にとっての弟子は、ただ一人この少年だけだ。
こいつだけでいい。
だからこそ、この呪文は覚えて欲しくない。
「ポップ、お前の決意は嬉しい。だが、その気持ちだけで充分だ。」
「師匠…」
「オレは、お前に正しいものだけを伝えたい」
そんな目で言われたら、引き下がるしかない。
「…わかった。それなら師匠、理由だけ教えてくれよ。」
使えるかどうかに関わらず、様々な呪文を契約だけでもしておいたほうが良いと言うのは当然のことだ。戦術の組み方だけでなく戦略の範囲までことは及ぶ。それでもこの傍若無人な師が、契約すら禁じるというのは余程のことだ。
ならば、自分はその理由を知っておくべきだ。
いつか、自分が他者へ伝える立場となった時に、大魔道士マトリフが禁じた魔法…契約できた本人が使わず封印したというその理由は、きっと伝えねばならない事なのだから。
マトリフはポップの正しさを認め、溜息をついた。
ザキ系はお前には無理だからだよ。どう考えたって相性が悪い。
本来は神官とか高位の僧侶が習得した呪文だ。彼らは、神のための正義を基とした者だ。だからまだ習得が出来る。揺るぎない信仰ってものを持っているからだ。
いいや。お前に足りないのは破邪の力とかじゃねえ。
その本、契約の魔法陣は載っているが、何と契約するかわかってるか?
死霊だよ。
この世に未練を遺した者の声を聞くんだ。恨みつらみ悲しみをな。
…馬鹿野郎が。そんな顔するから相性が悪いって言ってんだよ。
ああ、可哀想だな。そうさ、みんな生きたかったんだ。
なあ、ポップよ。お前は若い。まだ十五だ。どっかの高僧がこの世の幸せを詠んだ歌にな『親死ぬ子死ぬ孫死ぬ』ってのがあるんだよ……そうさ。歳の順に死ねれば、まだ幸せだよな。
……歳喰ってから死んだ奴や、死因が自業自得な奴なら、まだこっちも冷静に話を聞けるだろうよ。だが、世の中そうじゃねえのはわかってるだろ……。
小せえ子どもが「ママに会いたい。パパに会いたい。」って泣きついてくるんだ。一人きりの我が子を遺して死んだ女が嘆いてくるんだ。我が子を抱く前に戦死した奴や、冤罪で惨たらしく殺された無実の奴もいたな。
お前は優しい。きっと一人一人の死霊と関わり、話を聞き、同情しちまうよ。仇を討ってやりたいなんて考えるかもしれねえ。
そしたらもう、契約は失敗だ。
奴らはお前を決して離さねえ。心を寄せてくれる者に縋りつき引きずり込み、そうして仲間になってほしいと望むのさ。
わかったな。お前には無理だ。…オレみたいな傲岸不遜で愚かなジジイじゃねえとな。
「オレは、お前が、敵であろうと死を呼ぶ姿なんざ見たくねえ――いい笑顔でいろ。」
それは、どこまでも優しく哀しい、師の笑顔だった。
※※※
「マトリフおじさん…そんな事があったのね。」
「ああ…ほんと色々と教わったよ師匠には。」
恋人との何気ない会話で使える呪文について聞かれ、ついつい話し込んでしまった。
もう随分前に不帰路へと旅立った師は、恋人にとっては両親の大切な仲間だ。互いにとっての共通の善き先達だった。
「私も、ポップがそんな呪文を使ってるのは…見たくないわ。おじさんが遺した呪文の方がカッコいいもの。」
小さな笑みと共にマァムに言われ、ポップは肩を竦める。
「まあ…うん、師匠の呪文ってどれも大呪文だしなあ…」
ベタンもそうだし、メドローアだってそうだ。一撃で大勢の敵を殲滅できる分、消費する魔法力も凄まじい。話に上がったザキ系呪文などとは比べ物にならない。それを言うと、マァムはゆるく頭を振った。
「そうじゃなくて…。呪文を喰らう相手にすれば、押しつぶされても、消し飛んでも…死霊にとり憑かれても、嫌なことに変わりはないわよ?」
「…そりゃそうだ。」
命のやりとりなのだ。こちらから仕掛ける事はまずないとは言え、戦闘となれば殺し殺される、そんな世界を自分たちは生きている。
ただ、その方法を選ぶならば、死霊の嘆きを安全な位置で傲然と聞くよりは、乾坤一擲の意志で自ら敵を射る方がいい。それだけのこと。
「ええ。それに私は、あなたがあの光の矢をつがえる時、その…結構……カッコいいと思ってるから。」
ぽそりと呟かれたそれを、ポップは聞き逃さなかった。
あ…カッコイイって、呪文もだけど、呪文を唱えるオレがってこと?
「嬉しいこと言ってくれんじゃん! ん~~師匠に感謝! ますます大事に使わねえとな…!」
にぱっと笑うと、マァムは赤くなって――表情を変え立ち上がる。ポップは幸せを噛み締めつつも、無粋な来訪者らに溜息をつき、周囲に視線を走らせた。
「やれやれ、またかよ。懲りねえなあアイツら…。いっそ、メドローアで道作るか?」
「出来る?」
「ああ…。師匠の技だぜ。任せとけ。」
「ええ。頼りにしてるわ、ポップ。」
気を高め敵の牽制をしてくれる恋人の信頼を胸に、ポップは魔法力を練る。
弓手に炎を。馬手に氷雪を。
光の矢を引き絞り、ポップは笑う。
多くを遺してもらった。呪文も、心構えも。大きな愛も。
あの人が安心できるよう、自分は…自分たちは今日も間違えず、いい笑顔でいよう。
この魔法は、その為の嚆矢なのだから。
(終)
師匠とポップの絆、大好きなんですよ。