頭上に影が落ちた。
見上げれば遥か上空にコンドルが飛んでいる。既に中天に差し掛かっている太陽にヒュンケルは目を眇めた。
切り立つ岩山をコンドルは悠々と超えていく。時に旋回し、獲物を探しながら、砂塵を孕んだ風を羽に蓄え、段々とその高度を上げていくのがわかった。
す…と差し伸ばされた手に、ヒュンケルは首を傾げた。
「ポップ?」
「掴まれよ」
ぶっきらぼうに告げられた弟弟子の言葉に苦笑する。確かに坂道――というのはヒュンケルの認識であって普通の人間には岩場と呼ばれるだろう道である――ではあるが、これくらいはまだ登れるだろう。
「大丈夫だ。手を引いてもらわなくてもこれくらいなら登れるさ」
笑って言えば、「そういうこっちゃねえんだよ…」とポップは頭を振った。癖のある黒い髪がゆらりと揺れる。どこか呆れたという風な視線が自分に向けられる。
「ほら」
有無を言わさず、ポップはヒュンケルの手を取った。
薄緑の手袋越しに、じわりとヒュンケルの中に何かが流れ込んでくる。
「…!」
ぴくと肩を震わせたヒュンケルに、ポップは一瞬怪訝な顔をしてから頷いた。
「すまねぇ、びっくりさせた。お前ぇには馴染みがなかったよな――オレの魔法力だよ。お前ぇは闘気に特化してるもんな」
何でもないような顔でポップは言う。魔法力――それは確かにヒュンケルには馴染みがないものだ。
「魔法力…これが、そうなのか…」
「おう。人によっては回復魔法でも違和感覚えることがあるらしいんだけど、さすがにそれはないだろ? マァムのベホイミとかキアリ―とか平気だったはずだし。オレの魔法は旅の間はほとんど攻撃呪文ばっかりだったからなあ…。ル―ラの時くらいか?」
言われてみれば、この弟弟子にこうして魔法力で包み込まれるような経験は一度も無かったような気がする。
この場に来る直前の村に着いたのもポップのル―ラでだったが、それもパプニカの城門を出て「じゃ、行くぞ」と声をかけられた直後だったため、魔法力の感触など考える余裕もなかった。かつての大戦の間はどうだったろうと考えて、ヒュンケルは大魔宮でのそれを思い出そうとした。
「ル―ラの時…か。大魔宮の時は感じなかったな」
「だろうな。一瞬だし、他の皆もいたから分散されるからだろ」
納得し、ヒュンケルは頷いた。元より彼は魔法は門外漢だ。ポップの説明には「そういうものなのか」と素直に聞くばかりである。
そして、素直に聞いたからこその疑問が湧いた。
「では、これは何の魔法力なんだ?」
「ああ、これから使うのは――飛翔呪文!」
ポップの声が辺りに響いた。特に大きな声だったわけでも激しい口調だったわけでもない。けれどもそれはヒュンケルの鼓膜に周囲の音を圧して聞こえた。
(そうか…これがポップの魔法力なのか)
支配するわけでなく、従えるわけでもない。それでもその場に唯一と知らしめる声だった。周りに溶け込み、その場に存在することに何の不思議もないというのに、言霊が決して無視をさせない声。
考えたのは一瞬だった。同時にヒュンケルの身体が浮き上がる。
それは不思議な感覚だった。
足が地面を蹴ったわけでもないのに、宙にあるという事が。
徐々に上がっていく高度は、戦闘時の素早さなどなく、ただだぶついた旅装に風を含ませていく。スピ―ドが重視される戦場において風を斬るように跳んだ事は幾度もあるが、それはイコ―ル同じような速度での落下であり、ヒュンケルの中での『想定された動き』だった。故にこの弟弟子の呪文で単に浮かび上がるというのは、想像の外の出来事だった。
「おぉ…!」
思わず声が漏れた。
(これが、飛ぶという事なのか……!)
それは一種の感動だった。
ヒュンケルには魔法の素養は無い。元より剣の道を目指していた為にその事を残念に思ったことはなかったが、もしも使えるならばと想像したことくらいは何度もある。
攻撃魔法を受けた時は、もし自分にも使えるならば戦術の幅が広がるのに、と。
戦い疲れた時に回復呪文を受けた時は、傷の治るのを見ながら、これでまだ戦える、と。
だが、この飛翔呪文にはそういった思いが湧かない。
気球に乗ったことはある。クロコダインのガル―ダに乗せてもらったこともある。けれどもその時にこんな感動を覚えたことは一度もなかった。何故だろうと思い、すぐに答えは出た。
これまでの飛行は、いまこの時と全く違っていた。飛ぶ目的は戦闘のためだった――向かう先には戦いが待ち受けていた。斬りかかるべき敵がいたのだ。
登ってきた道が遠ざかっていく。
鬱蒼とした木々を分けるように石畳があり、昔は人の手が入っていたのだとはわかっていたが、それも中腹まで。先ほどポップと休憩した祠から先は、獣道としか言いようのない細い小径があるばかりで、大柄な自分では踏み外さぬように気をつけねばと思っていたのだった。
それがいまや遥か下にある。
「寒くねえか?」
足が何も踏んでいないという不思議な感触を味わっていると、ポップが尋ねてきた。
「あ、ああ。平気だ。…というより、先ほどより少し温かいくらいだ」
質問に答えながら、ヒュンケルは思ったことを口にする。高度が上がり風も強いというのに、何かに包まれているようだ……とそこまで考えて思い至る。
(そうか。ポップの魔法力で包まれているから温かいのか……)
今一度見上げれば、柔らかく笑んだ黒い瞳と視線が合った。
「寒くねぇならいいんだ。しっかり捕まっててくれよ。もうちょい高度上げて、この『壁』越えちまうからな」
ポップの優しい声音に、ゆっくりとした上昇に、ヒュンケルはただ頷く。ポップ一人ならば、もっと素早く移動できるだろうに、気遣ってくれているのだろう事がわかる。
申し訳なく思う。
傷ついた身体の回復は遠い。ブロキーナ老師にはもう二度と元のようには戦えないだろうと言われ、その見立てはアバン先生にも他のどのような名医にも覆される事はなかった。
だが、この山の頂を超えた向こうにあるエルフの村の泉なら、回復呪文でも治りきらない身体に効くのではないか――そんな風にポップに提案されたのはつい先日のことだ。
ダイを捜索する旅の途中、ポップが共に行動したメンバーの中には占い師のメルルがいて、彼女が結界に隠されたエルフの里のことを探り出したのだという。
「さっき休憩した祠あっただろ? あそこが結界の端っこでな。祠で供え物をしたら魔法を使う許可が出るんだ」
「なるほど…それで森の中は徒歩だったのか。お前のこの呪文があれば木の上を飛べばすぐに抜けられそうだと思ったんだが」
「だよなあ。そんだけ、エルフ達は外の奴には来てほしくないんだろ」
苦笑してポップは答える。おそらくだが、森の中の正しいルートを歩く事で、何らかの紋を刻むように歩かされているのだろう、と。それを外からの来訪者や帰還したエルフ達が幾度も繰り返すことによって、森の守りが更に強力になるようなまじないなのかもしれない、とも。
それにしても、とヒュンケルは思う。森を正しく抜けたとしても、普通の人間は、その先の断崖絶壁で進むのをあきらめなければならなくなる者がほとんどではないだろうか。それだけの絶壁なのだ。アリの列のような細い道が岩壁に沿ってあるが、強風でも吹けば落ちてしまう者がいても不思議ではない。
そんな問題が、ポップの魔法一つでこうもあっさりと解決してしまう。
「たいしたものだ……」
掛け値なしの本音だった。
ふと、ポップが掴む手の力が増した気がした。その顔は戸惑いに満ちていた。
「どうした、ポップ?」
「……何でもねえ」
尋ねるとポップは、ふいと上を向いてしまった。一瞬のその動作の間に、戸惑いと納得と怒り、そして哀しみが表情に浮かんで、最後は柔らかな笑みになった。
(――相変わらず、表情が豊かな奴だな)
出会った最初は頼りなさげな子供でしかなかった弟弟子の、今では立派な一人前の魔道士となった男の成長に思いを馳せ、ヒュンケルもまた笑う。
それはポップが浮かべたのと同種の、優しく柔らかな笑みだった。
※※※※※
飛行に慣れぬ兄弟子の手を握りつつ、ポップは可能な限りゆっくりとした上昇を心掛けた。
握る手に力を込める。万が一のことがあって手が離れたりなどすれば、今のヒュンケルには身を守る術はないのだ。
こちらを柔らかい目で見上げるヒュンケルに、心のどこかが叫びだしたくなる。
(こいつが、あんな顔をするなんて……)
目の前の断崖絶壁を初めて見た時、ポップが思ったのはかつての竜騎衆との戦いの場での事だった。
正確には戦いが終わってからの、仲間との合流に向かう道のりだ。
あの場所には森など無いし、エルフの仕掛けも無い。ただの荒野だ。当時、テランの城から竜騎衆を足止めする為に単身で向かった時には無我夢中で、どのように飛んだかすら覚えていない。だから覚えているのは竜騎衆の戦いが終わってからの道のりだった――ヒュンケルに支えられ、ようやく歩く事の出来た道だ。
陸戦騎ラーハルトとの死闘を終えたばかりだというのに、闘気を放って疲労困憊だろうはずなのに、ヒュンケルはずっとポップを支え、時には抱えて走ってくれたのだ。
お陰でバランがダイを連れ去るのは阻止できた。戦いの場に間に合うことが叶った。
だが、ヒュンケルはバランに対峙することが出来たのに対して、ポップの魔法力はその時点ではほとんど回復しておらず、何の役にも立てなかったのだ。体力と闘気に満ちた成人男性の戦士である兄弟子と、その当時まだ成長期の子どもで、魔法使いという後方担当職(本人はどうあれ一般的には)だったポップでは比較しようがないとわかっていても、どうしても体格や力で劣るという事実はポップの心に暗い影を落とす。
反発心から、むきになって喰ってかかった事もある。心配させたことも何度もあるだろう。
思い出すだに赤面する過去だが、今なら「最後には必ずこの男が何とかするだろう」というような感情があった事がわかる。
何があろうと守ってくれるだろう、見捨てないでいてくれるだろうといった想いが、根底にあるからこその――甘え。
情けなくも思うが、それだけこの兄弟子を自分は信頼しているという事なのだ。そして……
(ヒュンケルには、そういうの、バレてたんだろうな……)
自分とダイの関係に置き換えてみるとわかる。信頼というものはあからさまに表さずとも、言動の端々から示されるものだから。
(応えてくれてたって事なんだよなぁ)
どうにも恥ずかしい。両手が空いていれば髪をガシガシと掻き回したいところだ。
ちらりと視線を岩壁からヒュンケルに移す。彼は足元に広がる森を眺めていた。風に乗って小さな呟きがポップの耳に届く。
――森があんなに…遠い。
――こういう視点を持てるのか。
――魔法とは、良いものだな。
――大したものだ…ポップは…!
ポップは己の頬がカァッと発熱するのを感じた。
ヒュンケルは、まさかポップに聞こえているなどとは思っていないのだろう。彼はそういうあざとい事をする人間ではない。ただ純粋に、空の旅を、景色を、楽しんでいるからこそ漏れた声だった。
見ていたことを気取られぬよう、ポップは静かに視線を飛ぶ方向に戻す。
握る手が震えぬように、細く息を吐いて動悸を鎮めた。
胸が痛いのはきっと、終わったからだ――この兄弟子に守られるばかりの時期が。
ダイを探す間にどんどんと伸びた背。手も足も体格も、自分ではまだまだ細く思えて不満があるのに、共にいるマァムなどに言わせると、どう見ても男のそれでごつくて固くて…大人の男だと言われる。
声も随分低くなった。ごつさばかり気にしていたけれど、今日ずっと二人で歩いていた時にヒュンケルの顔はすぐ横にあった。見上げる必要がなかった。
かつて肩を貸してもらい、ようやく上った荒山。同じようなこの場所を、いまは自分がヒュンケルの手を引き飛んでいる。
やるべきことを成しているだけだというのに、違和感があって。誇っていいのに坐りが悪くて。
「ポップ?」
ヒュンケルが何かを感じたのか、声をかけてきたが、ポップは答えずに飛翔呪文の速度を上げた。
岩が途切れ、視界が開けた。
広がる台地は見渡す限りの花と緑。高地の植物らしく背の低いそれらが隠せるはずもない視界の先に、青い湖と、それを覆う結界が薄く見える。
「ここか…?」
地を踏んで、その感触を確かめていたらしいヒュンケルが尋ねる。
「ああ。このまま真っ直ぐ歩いた湖だ。見えるか?」
「…いや、オレの目には花畑しか……」
魔法力の無いヒュンケルには、結界の中身は見えないのだ。ポップは頷くと「ついて来てくれ」と歩き出す。
ゆっくりと、傷んだ身体に負担をかけぬように。
この兄弟子が、また動けるようになるために――畢竟、戦えるようになるために、一縷の望みをかけてエルフの里へ。
並んで歩く。
形容しがたい想いが、胸中を満たすのがわかった。
この治療が良い事なのか。もしも治ればまたこいつは闘うに決まっているのに。それを本人も望んでいる。また甘えるのか。頼ってもらえるほどにこちらも成長すればいい。出来るのかよそんな事が。自分なら治したい。闘わなくたって治療されるべきじゃないか。治したら今度こそこいつは死ぬかもしれない。けれど。でも。
「なあ」
「うん?」
「……もしこれで身体が治ったらさ、何がしたい?」
どうしてそんな事を訊いてしまったのか、ポップは自分でも不思議だった。ただするりと出てきたその問いに、ヒュンケルは怪訝な表情をするでもなく「そうだな…」と考えて答えた。
「酒が飲みたいな。自分で言うのも変だが、快気祝いで」
「え…酒?」
「ああ。ラーハルトやお前と一緒に」
破顔したヒュンケルを凝視して、ポップは「そ…っかあ」と頷いた。
嗚呼きっと――これが並ぶということなのだ。
(終)