去り行く荷車のガタゴトという硬い音は、ロバの蹄の音をかき消しつつゆっくりと遠のいていく。
あのおじさんは四十半ばぐらいだろうか、とマァムは荷車を操っている人を思う。彼の後ろ髪に白髪の塊があるのを目にしたからだ。そこから薄っすらと、故郷にいる母と村の風景を思い浮かべて、次に行く村も似ているのだろうなと心を戻した。
おじさんは、マァムたちが今朝発った街まで村の畠で穫れた作物を売りに行くのだと言っていた。大戦で焼けた村がこの先にあり、マァムとポップの本日の目的地はまさにその村だ。
彼の背に振っていた手を止めたポップは、しばらくそのまま動かなかった。特に合わせたわけでもなくマァムがとった動きも同じで、ポップも自分と同じく出逢いの余韻を味わっているのだなとわかる――もう長い付き合いだ。
風が吹いて、草が揺れる。道に落ちていた大がらすの羽がちょっと動いて自分たちの視線も動く。それが合図…と言うほど大きくもないけれど、きっかけではあるだろう。
ポップは左手に持っていた買ったばかりのレンブをベストの隅で軽く拭いて、こちらを見た。
「行くか」
「ええ」
街道の石畳はとっくに終わった。いま歩いているのは、さっきのおじさんの荷車が精一杯の田舎道だ。
それでも広さはある。石はどけられ穴も無い、歩く者が沢山いて、踏み締められた良い道だった。足取りも軽くなる。
しばらく互いに無言で歩を進めていたが、こういう時はそろそろポップが話し始めるのだとマァムは知っている。その話を聞くのが自分の楽しみになっていることも、もう、わかっている。
「レンブ食うか」
「え、さっき買ったとこよ?」
「だってよ、村に着いたら、そこってあのおっちゃんの村なわけだろ。『レンブ美味しかった』って話してぇから」
「……それ、良いわね。私も食べようかな」
「だろ? 食おうぜ!」
にかっと笑い、ポップは早速ふところからレンブを取り出した。マァムもポケットに入れていた自分の分を出して、ポップの「いっただっきま~す」に小さく感謝の言葉を被せる。
赤く瑞々しいレンブをかじりながら、噛みしめながら、味わいながら、美味しいと感想を言い合いながら、のんびりと歩く。それでも健脚な二人の速度なら、村はもう小さく向こうに見えてきていた。
平和だなという呟きがポップから漏れる。
マァムはただ頷いた。
広い畠とまばらに建つ家。横に世話されたレンブの木があるのが、さっきのおじさんの家なのかもしれない。
どこかで牛が鳴いた。
「ここは大丈夫そうね」
「だな。まあそれでも」
「ええ。念のために話聞いて回りましょう」
勇者ダイの勝利で終わった大戦。その爪痕は今も完全には癒えていない。王都近郊なら人も集まるが、地方に行けば行くほど目は行き届かなくなる。平和な時でもそうなのだから戦後という時期には尚更だ。
病が流行ったり、魔王軍の残党に悩まされていたり、街に働き手が流れすぎたり、破落戸が棲み着いたり……そういう困り事は早期に対処せねばならない。そんなわけで二人は各国の王様の依頼で旅をしながらの調査を引き受けているのだ。
――とは言え、この村は本当に大丈夫そうだった。普通の旅人として野菜などを買いながら話を聞いたが、成果は良い方向で裏切られた。魔王軍のグループに焼かれた時も怪我人は出たが死者はなかったらしい。戦後すぐに柵も門も前より頑丈に、木製ではあるが作り直されたのだ。村全体で特に諍いもなく協力し合えているようで、理想的な復興ケースだった。
安堵と骨折りを肩を一つすくめることで表すと、ポップは「あっちに祈祷所があったぜ」と水を向けてきた。グゥと彼のお腹が鳴る。聞き込みと村歩きで彼の中ではレンブはもうとっくに消化されてしまったようだった。
宿も兼ねている祈祷所で村の料理を出してもらえることになり、自炊の心配はなくなった。案内された部屋はこじんまりとした二人部屋で、ポップはベッドに腰かけるなり手持ちの袋から帳面と鉛筆を取り出した。
もうその帳面は五冊目にはなるのだろうか――ダイを捜索している時から、ポップは訪れた土地の情報を書き留めるようになった。最初の頃はその土地に伝わる過去の勇者や竜の騎士の話をまとめるくらいだったとマァムは記憶している。
当初、ダイを――勇者にして竜の騎士という大きすぎる運命を背負った少年を探すのに、やはり縁がありそうな土地から調べようということでマァムとポップはメルルを加えた三人で各地を巡った。マァムもメルルも当然捜索に力を惜しむようなことはなかったが、ポップの必死さは痛々しいほどだった。どんな小さな情報も漏らすまいと勇者や竜の騎士の伝承ならば噂話レベルのことでも調べ尽くす勢いだった。その勢いを削いだと言っては言い過ぎだろうか……ポップの必死さをなだめ、落ち着かせていったのは大戦の被害状況だった。各地で助けを求められる都度、ダイの捜索を中断して手伝わざるをえないのは勇者の仲間としては当然の行動だった。
元より、ダイが帰還するまで自分たち仲間で地上の平和を守っていこうという誓いは、ポップが初めに掲げたものだ。逸る気持ちを抑え、周りの状況を見ながら落ち着いて旅が出来るようになったのは、ポップ自身がその誓いを再度見つめ直すしたからだったろう。
「助けを求めている人」はダイだけではなく、きっとダイならばそういった人達を放って自分を探されれば悲しむだろうから。
そして――遂にダイは帰還した。
小さかった勇者は大きくなっていた。背が伸び、声も少し低くなっていた。共に紡げなかった思い出の多さに悲しくなり、その悲しさを上回るだけの再会の喜びが全員に湧き上がる。歓声が爆発し、皆が抱き合う。
ダイは笑っていた。泣きながらの満面の笑み。マァムがふと横を見れば、ポップも同じだった。涙と鼻水でぐしょぐしょの、それでも喜びしか存在しない顔。子どものようにわんわん泣いて、年下の親友に再度抱きつく彼の幸せな泣き顔に、マァムの胸はドキリとなったのだ。
ポップの笑顔は、ダイと同じで『取り戻した』出来事だ。少なくとも、マァムの目にはそう映った。
長らくの曇天が終わり、久々の太陽と青空を見上げて地上の緑樹が笑うように。暖まった空気に風を呼び、葉をそよがせるように。
最初、まるで学術書であるかのような書き込みだった帳面に、各地の被害状況や復興の報告が混じり、その内に地域の風習・行事などの情報が増えて紀行文のようになっていったのと同じ速さで――ゆっくりとポップが取り戻していった明るくて朗らかで人好きのする笑顔。
地上の復興と一緒に、ポップがゆっくりと心の傷を癒してダイの帰還を信じ続けたからこその笑顔だ。
いま鼻唄まじりにこの村の情報を書き連ねる彼の横顔に、翳りなどどこにも無い。そのことがマァムには本当に嬉しい。
戦場から日常には、ゆっくりとしか戻れない。身体の傷は治っても、心の傷が塞がるのはずっと時間がかかるものだ。
今回は馬車もパプニカに置いてきた。この村には正体を明かさずに旅人として訪れているだけだから、医療道具も持ってきてはいない。ポップがルーラを使えば一瞬でどこにでも行けるのだけれど、こんな風に初めて訪れた村や町には、余程に急いで他の目的地に行かねばならない時を除いて、一泊するようにしているのだ。それは徐々に『戦後』の空気が落ち着き、メルルがパーティから外れて、二人だけで旅をするようになった頃から自然にそう決まっていった。
どちらが言い出したことでもなく、復興していく町や村に留まることで、『平和』を『日常』を自分たち自身が味わって実感して飲み込んでいくのに必要だったのだろうとマァムは思っている。おそらくポップも、感覚としてそれは共通しているはずだ。
明日の朝にはこの村から西、森を抜けた隣村に向かう。いまの内に祈祷所のお婆さんにパンとチーズを追加注文して弁当を作っておいてもらおう、と手間賃の入った財布を持ってマァムは立ち上がる。ポップが視線を向けてくるが、財布を軽く上げれば「ああ」と訳知り顔で納得して手を振られ『頼むわ。任せた』の信頼が柔らかな視線で音無く届いた。もうツーカーとなったやりとりが、マァムの胸を温かくする。
(後で、書けたのを見せてもらおう)
お婆さんの場所を気で探り、食堂だろう場所へと足を運びながら、マァムはポップの書くだろう帳面の報告を想像して笑みを浮かべた。器用な彼はちょっとしたイラストも描いていることが多くて、文章だってすっきり要点が書かれていて読みやすい。マァムがそれを見せてもらうのも、二人で笑い合って話すのも、もう『いつものこと』だった。
慣れていったことが『いつものこと』になり、その内に『当たり前』になっていく。二人の間だけの確かな日常の空気を、マァムは深く吸い込んだ。
夕方、予想通り街からレンブ売りのおじさんが帰ってきた。再度村を歩いて畠などの様子を見ていた二人は、荷台に残ったレンブに目を輝かせる。若い者に甘味は貴重なのだ。彼らはおじさんにびっくりされながら十個以上を買い込んだ。
夜になって祈祷所管理人のお婆さんは自室に引っ込んでしまった。使わせてもらっていた食堂の灯りを消して二人も与えられた部屋に戻り、それぞれのベッドに腰を下ろすと、村の静けさにどちらともなくホッと息をついた。
勇者パーティとして名乗らなければ、宿泊客と言っても観光地ではない普通の村での村人の対応は、あっさりしたものだ。その事に二人は呆気なさと安堵を同時に覚えていた。
この三年、ダイを探すためには人々に正体を明かして協力を求める事こそがダイの存在を周知させるためにも必要だった――大魔王バーンの魔王軍との戦いは実質一〇〇日ほどの出来事で、世間では魔王と言えばハドラーであり、勇者と言えば名を知られていなくともアバン先生のことだと思っている人も多かった。各国がダイ捜索の令を出していても、彼がどんな人物であるか、どんな素晴らしい活躍をしたか、などは知られていなかったからだ。
そうなると歓待を受けて宴会を開かれたり陳情の列が出来たりと夜でも忙しないのが常だった。二人だけでなく他の仲間たちもそうだったろう。ダイが行方不明という事実を前に申し訳なさもあったが、英雄として扱われることに慣れねばならなかったのは、半ば義務だった――それは人々の信頼と感謝の表れであったし、過度な謙遜はダイの成してくれた事にあやをつけてしまうからだ。
この、もどかしさと折り合いをつけるのが、勇者一行の三年間の一番の試練だったのかもしれない。
ともあれダイが無事に帰還した今は、もう正体を明かして情報を集める必要も無くなった。
今回、色々と村の事情を聴いて回ったため、名乗ったりせずともポップたちが国の役職に関係しているだろうくらいの事は村の者達だってわかっているのだ。それでも陳情も無ければ逆に険悪な空気も感じなかった。ということは本当に問題なく暮らせているのだろう。この静かな夜の穏やかな時間こそが、平和や日常を感じさせてくれる。
この村は元々被害が少ない事がパプニカの行政府によって把握されており、ダイの捜索にも関わりが無かったため、二人が訪れる事はなく、今回はレオナの顔を見に来ての、言い方は悪いがついでだったわけだが、実際、平和な村だ。村人も皆元気だし、魔王軍の残党どころかモンスターの問題も無い。ただまあ、それでもレオナに報告する事が無いわけではない。
ポップが帳面と一緒に夕方に買ったレンブを袋から出す。多めに買い込んだので転がり出たそれらは、殺風景な宿泊室に一気に色をつけるようだ。
彼は「これだけだなあ」と苦笑した。
マァムも少し笑う。彼女にもポップの言いたいことはわかる。
村に特色が無さすぎるのだ。特産というものが無いから本当に自給自足で完結している。長閑と言えば聞こえは良いが、それはじりじりと衰退していくのと同じだ。パプニカは法衣などの服飾製品が有名だが、そちらに関係する仕事も見られなかった。レンブ売りのおじさんとて、行商が専らというわけでもない。
『平和』が尊いことも、さりとて逼塞に繋がりかねないことも、村育ちの二人は知っている。
だからもう少し…ほんの少しでも、風と熱が必要かもしれない――各地を歩き見てきた二人の、それが三年間で養われた目だった。
「レンブが美味しいって書いとくな」
「ええ。おじさんも『よく売れた』って言ってたわね」
瑞々しく蝋でもかかったかのように赤く艶のある果物は、薄桃から濃赤まで様々な色で部屋の灯火に輝いている。この村の特徴として何か書くとしたら、この赤い果実だろう。無論二人はパプニカに仕官しているわけではないので、パプニカの農家に何かを提案する立場にはない。レオナに『アバンの使徒同士の好意から泊まった村の感想を話す』というだけだ。
ポップは帳面に鉛筆を走らせて、隅にはレンブのイラストを添えた。マァムが気づいてふふと笑うのが聞こえ、こちらも楽しくなって小さく笑う。
そういえば、とポップは恋人とベッドに置いた赤い果実を交互に見遣った。
(同じ色、だな)
艶めく生命力の塊にも感じる赤系の色は、まさしくマァムの色だ。見る者を元気にしてくれる力強さに溢れた、息づく大地の色。
あの必死に戦い抜いた三ヶ月で、守りたいと思い、逆に守られもした、戦闘面でもそうだがポップにとっても唯一の華やぎ。破壊と恐怖と怨嗟の渦巻く戦場で、優しさと気遣いと人間の善性に蓋をせず戦った彼女は、終戦後も変わらない。化粧っ気なく、豊かな桃色の髪以外に身を飾るものを持たず、ただ真っ直ぐで綺麗だ。
「……どこにでもあるような村だけどさ、こういうのも『紅一点』の特別があるって言えるかもな」
こういう風に言っても、おそらくこのちょっとニブい恋人にはそういった「事実」としか伝わらないのだろうけれど――それでもポップは彼の「特別」を声に出して伝えたかった。
マァムはふわりと笑う。
「『どこにでもある村』は、それだけで強みじゃない。畠には緑がいっぱいだったわ」
緑という単語にポップは息を飲む。正確には、それを口にした時のマァムの嬉しそうな顔に。
「焼かれてないし、壊れてない。これからどんどん伸びていく――未来がある。緑色って復興の象徴って感じで私、凄く好きよ。どこにでも必要とされる色なんだって思うわ」
愛しい存在について語る彼女の顔は、もう随分前にロモス村で恋に落ちた時と同じだけ美しくて。
ポップは手に持つ紅を口に運んだ。シャクと歯に鳴るレンブは甘い。
「ちょっとポップ、また食べるの? 本当にこの果物が好きなのね」
「い、いいだろ別に。……最高に甘くて美味いんだからさ」
揶揄うように言われても、ポップとしてはレンブを食べ続けるしか選択肢はなかった。口に何か入れていなければ、落ち着かない心臓が飛び出していきそうだったからだ。
窓の外では虫たちが涼やかに鳴いていた。月に照らされた畠はいま、麦の緑も眠りについているだろう。
どこまでも平和な、どこにでもある日常だった。
帳面を手に取り楽しそうに読むマァムの顔に、桃色の髪が落ちる。
その髪に口づけでも出来ればスマートなのになあ、なんて事を思いながら、ポップはもうひと口と、レンブを齧るのだ。
(終)